本條秀太郎
三味線語り
淡交社 2001
装幀:谷口雅雄 構成編集:渡邊直樹 写真:今村秀雄ほか
秀太郎さんには、人を絆(ほだ)す三味線の魅力と、聴く者を懐かしい界隈に運んでいく声の冴えがある。とくに弾き唄いがたまらない。ぼくはいつだって唄い出しの一声で攫われ、途中の「甲(かん)」(高音)で参ってしまうのだ。

濡れてきた 文箱に添えし花菖蒲
いとど色増す紫の 恋という字に身を堀切の
水にまかせているわいな‥‥「濡れてきた」

 漆黒の表紙に白い帯。その帯に「私の口ずさんだ一節(ひとふし)が、才人秀太郎の三味(しゃみ)の音で冴えわたる」という、かつて森繁久弥(590夜)が贈った言葉が摘まれている。森繁久弥は根っから小唄が好きだったし、ふいに端唄(はうた)や都々逸(どどいつ)めいた文句を即興で口ずさめる人だったので、それに秀太郎が三味線のあしらいを入れたのだから、つい陶然としたのだろう。これは誼みというものだ。

『三味線語り』に、初秋のススキの影がかかる
撮影:小森康仁(編集工学研究所)

俳優・森繁久弥氏による帯文

 森繁久弥がそうだったように、先代の勘三郎も岩下志麻も、細野晴臣も一青窈(ひととよう)も、多くの民謡歌手も各地の芸者衆も、本條秀太郎の声と手に酔わされてきた。細野晴臣とはひところセッションを組んでいたこともある。山口小夜子とは寺山修司(413夜)の『時には母のない子のように』の朗読・三味線・唄を組み合わせていた。
 それほどに秀太郎さんには、人を絆(ほだ)す三味線の魅力と、聴く者を懐かしい界隈に運んでいく声の冴えがある。とくに弾き唄いがたまらない。ぼくはいつだって唄い出しの一声で攫われ、途中の「甲(かん)」(高音)で参ってしまうのだ。
 そもそも三味線と唄は不即不離の関係にある。付かず離れずだ。旋律もリズムもちがう手になっている。だから三味線と唄は別々に稽古する。フォークやロックのギターのように最初から一人では遊ばない。では合わせるときはどうするかというと、間(ま)とフレーズで合わせる。フレーズとは「ひとくさり」ごとの「唄の鎖」のことで、これを感覚的に会得する。こうして「べたつき」をはずしたのである。日本的なグルーブをつくりあげたのだ。これは江戸風の工夫だった。上方(かみがた)から当時の江戸にやってきた唄の乗せ方を粋にしたのだったろう。
 秀太郎さんはそこへもってきて、「甲(かん)おち」(高音発声稽古)をみっちり鍛えたから、甲高い声が澄む。ヒューッと高い声で三味線から離れていくように唄う。これが絶品なのである。

花の曇りか遠山の 雲か花かは白雪の
中をそよそよ吹く春風に
浮寝さそうやさざ波の
ここは鴎も都鳥 扇拍子のさんざめく
内やゆかしき 内ぞゆかしき‥‥「花の曇り」

本楼で演奏する本條さんと、その音色を堪能する松岡
イベント《三味三昧》において
時:2014年11月13日 豪徳寺・本楼

 ぼくと秀太郎さんとの出会いは、嬉しいことに千夜千冊に縁がある。千冊達成記念のトークイベントをいとうせいこう君の司会で原宿クエストホールで催してもらったとき、ゲストとして三味線と端唄を添えていただいたのが最初だ。
 そのときはぼくがステージにいて、秀太郎さんは客席の花道にあたるような仮設ステージに袴を着けて登場し、すっと正座した。これは先だって亡くなったペコちゃん(藤本晴美)の演出だった。秀太郎さんは当日のスケジュールを縫って風のように来て、風のように去っていった。だから事前にも事後にも挨拶が交わせなかった。ところが、そのナマの三味線、その歌声、その佇まいが目と耳について忘れられなくなってしまっていた。
 以来、ぼくはなにかにつけて秀太郎さんがほしくなったのである。ほしくなったとはまことに失礼だが、まさに誼みを深くしたくなったのである。あえて先人の例をもちだせば、中江兆民(405夜)が太棹の義太夫を、二葉亭四迷(206夜)が常磐津と新内を、九鬼周造(689夜)が新紫(しんむらさき)の歌沢の師匠をそばにほしくなったようにぼくは、秀太郎さんの手と声がほしくなってしまったのだ。ぶっちゃけていえば「音(ね)の恋人」にしたくなった。“Stand by me”だ
 それからはしばしば招きあい、ついには二人で「三味三昧」(しゃみざんまい)という催しを連続してするようになった。秀太郎さんもぼくの話の介入がおもしろいようで、二人であれこれ仕組みを案じて、数時間の三味線と唄と話を愉しんだ。毎回ぼくも詞をつくり、秀太郎さんが作曲をして、それを当日にご披露してもらうという趣向を加えた。26番に及ぶ「かいかい節」は日本各地の神仏を織り込んだ。

淡雪と 消ゆるこの身の 思い寝に 浮名をいとう恋の仲
乱れしままの 鬢(びん)つきや 義理という字は是非もなく
夢かうつつか 朝鴉(あさがらす)‥‥「淡雪」

イベント《三味三昧》(2014~2015)
本條さんと松岡が組んで本気で「日本」を遊んだ数寄サロン。「日本いろいろ遊び」「男伊達」「くにぶりうた」「色歌もどき」「棹けしき 糸さばき」「音文字むすび」の全6回を開催。本條さんの三味線と唄と松岡の語りが溶け合って、ある時は遊芸風、ある時は寺子屋風、また時には日本列島を縦断する道行のような仕立てになった。二人の着物は江木良彦さんのお見立て。本條さんと同郷である眞中秀幸シェフによる海・里・山から採りたての食材によるおもてなしも振る舞われた。右から江木さん、眞中シェフ、本條さん、松岡。

 秀太郎さんは潮来(いたこ)の生まれだ(太田香保もここに育った)。近くに花柳界があったので何かと華やいでいて、聞こえてくる音曲が子守歌のようなものだったろう。
 10歳のとき地元の篠塚みつに三味線を習うと、みんなが将来を期待してくれた。昭和33年に一家で上京して、学校に通いながら長唄を稀音家芳枝(きねやよしえ)に、民謡を二代目の大船繁三郎に手ほどきを受け、高校卒業後は民謡三味線の藤本琇丈の内弟子となり、かたわら三浦布美子(田毎てる三)に小唄を仕込んでもらった。
 かなりの特訓だ。それがことごとく愉しかった、夢中になったというのだから、何かがよほどひたむきだったのだろう。早熟でもあった。昭和44年には山中節をもとに『雪の山中』を作曲している。いま聴いてもかなりの名曲だ。こうして若いときに「俚奏楽」(りそうがく)をおこした。きっかけがあったようだ。
 中学校のとき日比谷公会堂で、宮沢賢治(900夜)の詩『原体剣舞連』(はらたいけんばいれん)に師匠の稀音家芳枝が曲をつけた獅子舞を見た。農家のおじさんが歓喜に満ちてうたっているのに心を奪われたという。これがきっかけだ。

 一口に邦楽とはいうが、日本の音楽は一通りではない。その土地、その風土、その習慣、その言葉によって歌や踊りが変わっていく。いまでも民謡がそうなっているので気が付きやすいだろうが、実はほとんどの俗謡や俗曲や端唄は「ご当地主義」だ。とはいえ、それはたいそう微妙な土地の変化で、そこに「うつり」「もちこし」「あじつけ」「おとしどころ」が出てくる。
 獅子舞を見ながら、青年秀太郎はそのような日本の音楽をみずから採集し、できればアレンジし、さらに新たな領域に昇華させたいと思ったようだ。
 この思いがやがて「俚奏楽」になっていった。かつて民謡が俚謡とか里唄とかとよばれていたことに因んで、そこにもっと日本文化のダイバシティをさまざまに入れ込むようにした。だから俚奏楽では、いろいろの邦楽器とのアンサンブルが試みられるし、ときにシンセサイザーや舞踊まで採り込んでいる。ぼくが見たもののなかには神謡(かみうた)のような、神話的伝承性を帯びたものもあった。

露は尾花と寝たと言う 尾花は露と寝ぬと言う
あれ寝たと言う 寝ぬと言う
尾花が穂に出て あらわれた‥‥「露は尾花」

三浦布美子
6歳から芸事をはじめ、日本舞踊、清元、鳴物、長唄などの名取となる。昭和37年小唄田毎(たごと)派の2代家元を襲名し、てる三(ぞう)を名のる。浅草の売れっ子芸者で、また39年からはNHKテレビ「芸能百選」のレギュラー出演で圧倒的な人気をえた。

俚奏楽
本條秀太郎さんが、1971年に日本音楽の新しい流れとして創始した三味線音楽の一種。三味線音楽の源流をたずね、現代的解釈と創造を加え、継承していくことを目的としている。

《本條秀太郎の会》端唄〜江戸を聞く〜「花の道」
時:2014年1月26日(日) 場:紀尾井小ホール

 三味線は不思議な楽器である。ざっくりいえば中途半端なのだ。「加減」でできた楽器なのだ。戦国末期の堺に琉球から中国の三弦や蛇革の三線(さんしん)が到来し、これがごくごく短期間に日本的な三味線になった。当道座の盲人が工夫した「和み」だったろう。
 その初期の形状や機能は今日にいたるまで、ほぼ変わらない。そもそも棹が細くて長く、持ちにくい。絃は太い順に一の糸、二の糸、三の糸の三本しか張っていない。だから「三絃」とも言ってきた。天神(糸倉)でのチューニング(調絃)が難しく、ちょっとでも巻きすぎると糸がすぐ切れる。
 棹にはギターのようなフレットがないから、奏者は勘所(かんどころ)をおぼえて左手でそこを押さえたり離したりする。これを右手で銀杏形の撥(ばち)で弾いたり、指でつま弾く。撥をつかうのは琵琶法師の流れを汲んだ当道座のアイディアだ。
 三味線とは、かように中途半端なのである。ところが、その中途と半端こそが、みごとに絶妙な加減の音楽世界をつくりあげていったのだ。ぼくは天使の楽器ではなく、天女の楽器だと思っている。
 西の天使は翼をもっているが、それは体から生えている。体とつながっている。東の天女は翼がなく、そのかわり羽衣をまとう。羽衣はすべらせば落ちるけども、翻えしていけば、雲居を翔べる。三味線は東の天女の楽器なのである。
 新たに強調されたこともある。一の糸の糸倉付近のサワリ山と谷にサワリを入れた。ノイズ含みにしたのだ。これはインドのシタールのジュワリのようなものだから、他の民族楽器にもあるのだが、三味線では一の糸が上駒からはずれているので、糸がサワリ山に触れてビーンという倍音が生じる。チューニングさえできていれば、一音をテンと弾けば、ポンという音と同時にテーエンと響くのである。勘所を強く叩いてもビーンと響く。
 ともかくもこれらの中途半端がみごとに相俟って、三味線に独自の趣きをもたらした。経過音も微妙になって、西洋音階にくらべて半音を狭くとるようになった。秀太郎さんはこうした「音の減衰の加減」こそが、日本の「間の文化」を醸し出したのだと見る。まったくその通りだ。

露は尾花と寝たと言う 尾花は露と寝ぬと言う
鳥影に 鼠鳴きしてなぶられる
これも苦界の憂さ晴らし 愚痴がのませる冷酒も
辛気辛苦の ああ苦の世界‥‥「鳥影」

本條流一門
右から、本條秀慈郎さん、本條秀五郎さん、鼓友緑佳さん。長年、本條さんに師事している秀五郎さんは、弟子入りきっかけを松岡に問われ、「初めて師匠の音色を耳にしたとき、まるでオーケストラの演奏を聴いてるかのようで衝撃をうけたから」と応えた。
《三味三昧》において

三本線の由来を話す本條さんの手
《三味三昧》において

 秀太郎さんは端唄の名人でもある。端唄は広い意味の「はやりうた」のことだから、厳密な定義などない。いわゆるポップスであり、巷間のヒットソングなのだ
 すでに室町期の『閑吟集』(かんぎんしゅう)に三百あまりの「端唄のもと」が集められているし、堺の高三隆達(たかさぶ・りゅうたつ)が扇拍子や一節切(ひとよぎり)で始め、慶長期に広まった隆達節(りゅうたつぶし)なども、その後の多くの日本歌謡の「もと」になった。うんとさかのぼれば『梁塵秘抄』の今様(いまよう)にまでルーツが辿れるだろう。
 江戸時代、こうした端唄が料理屋や遊郭などの小さな空間で、旗本御家人や江戸屋敷に来ていた各地の留守居役によって、また町人や商人たちによって親しくうたわれた。細棹の三味線を撥で弾いた。ぼくは風俗絵や浮世絵の風情はこのような端唄から生まれていったと思っている。英一蝶(はなぶさ・いっちょう)の絵を見ると三味線が聴こえてくるのは、そのせいなのだ。

 これらの端唄のうち、武士がそれなりに洗練させたものが「歌沢」で、唄を中心にした。歌沢には少しく武士の気概と弱みが見えている。
 一方、明治になって少し技巧が加わりアップテンポになったのが「小唄」である。最初のうちは早間(はやま)小唄などと言われた。撥ではなくて中棹の三味線をつま弾いた。爪を糸に当てるのではなく、人差し指の先の腹で弾く。
 小唄はお座敷の芸者衆や花柳界に好まれ、伊藤博文から商家の旦那衆たちまでが口ずさんだ。贔屓の芸者衆も出た。芸者が小唄をつくることもあり、専門歌手も登場した。昭和6年デビューの小唄勝太郎、市丸、芳町芸者だった藤本二三吉は一世を風靡した。三浦布美子さんのように、芸者から日本舞踊・清元・長唄の名取となった名人もいる。
 端唄も歌沢も小唄も、歌詞がいい。粋でせつなく、日ごろの心の綾が軽妙に描かれる。「ちょっと」「あんまり」「その気になって」の情景なのである。だから「おかしな気分」も添えられる。コケットリーでユーモラスでもあった。そこに四季の風物や花鳥が出入りした。やがてこのユーモアは都々逸などになっていく。きっと森繁久弥もそんな小粋な詞を口ずさんだのだろう。
 秀太郎さんはいまも「端唄の会」をずっと催している。収集した端唄は数百にのぼるだろう。それを十数曲ほど組み合わせ、弟子の秀五郎さんらを伴って遊ばせてくれる。ぼくもしばしば紀尾井ホールを覗きにいく。

川風につい誘われて涼み舟
文句もいつか口舌(くぜつ)して
粋な簾の風の音に 漏れて聞こゆる忍び駒
いきな世界に照る月の 中を流るる隅田川‥‥「川風」

本條さんの音色にあわせ、本楼のテーブル上で舞う芸者さんたち
《三味三昧》では、大人のための贅沢の遊び場をさまざまに用意した。

特製料理を振る舞うシェフの眞中秀幸さん
表参道のリストランテ《ダ・フィオーレ》のオーナーシェフ。イタリア料理の技術、表現に加え日本の食文化、伝統美を取り入れた独自の料理をつくる。同じ潮来出身である本條さんとは親交が深く、《三味三昧》では五感で味わう料理を提供し好評を博した。

来場者を壇上にあげ、三味線の手ほどきをする本條さん

 本書には、織田紘二、田中優子(721夜)、細川周平、川瀬敏郎、養老孟司、池辺晋一郎との対談も収録されている。これをまぜればいくつかの話になると思うのだが、ぼくが五つほどの紐に縒(よ)ると以下のようになろうか。
 第1には、民謡をたんなる「余興の芸能」にしたくなかったこと、日本人が元来もっていたであろう土着の音楽性を追求したかったこと、そのためには広く深く収集や取材や研鑽をしていかなければならないだろうから、若くして(弱冠26歳で)「本條流」を組んだこと、一方で自分なりの“本條化”をおこしていかなければならないと思って「俚奏楽」を構想したということ。
 第2に、三味線は不便にできているからこそおもしろいということ、サワリによって「陰の音」が動くこと、勘所には「音格」とでもいうものが生じていること、そこには「愁い」も「張切り」もあって、勘所の押さえ方で人格も風格もあらわれるということ、自分はやっぱりそういう三味線が弾きたくてここまで仕事をしてきたのだと確信しているということ。

 第3に、芸能とは「芸を能くする」ということで、それゆえ「芸」も大事だが「能」に堪能になる必要があるということ、そこにはむろんエイジングも関係しているということ、それは世阿弥のいう「時分の花」だろうということ、それゆえ若いときの技芸が老いては平板になる場合があるが、その平板には逆に音曲の歴史の大本があらわれてくる可能性があるということ、そうしたことを勘定に入れて端唄などを愉しみ続けたいということ。
 第4に、日本人の音楽性は強さや長さにはなかったのではないかということ、そのためわずかな変化に格別の趣きをもたらしたかったのだろうということ、そこで「表間」に対して「裏間」を工夫したのだろうこと、また「産み字」や「こぶし」などの唱法をつくりあげていったこと、総じて日本人の音感はきっと「うつろい」にあるのだろうということ。
 第5に、自分が大事にしたいのは「伝統」というよりも「伝燈」というものだろうこと、そのためにはポピュラーにすることよりも、自分がどこまで好きなのかを探求していかなければならないこと、それだけに「型」を知り抜いていかなければならないこと、それには体がそのことを感じられるようにしておくこと、またそのことをお弟子さんたちにも徹底して伝播できるようにしなければならないということ。

『三味線語り』見開き(セイゴオマーキング)

 だいたいはこんなところだ。おそらくこれらすべてを本気で実践してきたのだろうと思う。そのせいか、秀太郎さんの一門と仕事をしているととても気分がいい。何代も続いてきた本條流ではないのだが、すでにして「芸事の一門」のよさを感じる。このこと、よほどのことなのである。
 2年ほど前、門司の三宣楼(さんぎろう)に招いて九天玄気組(中野由紀昌組長)の「海峡三座」で演じてもらったとき、秀太郎さんはおしまいに「阿蘇節」を唄った。
 初めて聴く歌だったが、一番の途中あたりで胸が詰まってきて、だんだん涙が溢れてきた。いい唄だということもあったけれど、秀太郎さんの「望憶」(ぼうおく)と「哀惜」(あいせき)と「男伊達」(おとこだて)が複合されているのだということをあらためて感じた。
 その後、俚奏楽のことを想っているうちに、これは何かに似ているなと思った。あるときそれがヨーヨー・マのシルクロード・アンサンブルの数曲目の絶奏がもたらしたものと似ているように思えた。もっとも秀太郎さんはあの中のヨーヨー・マやケイハン・カルホールやボビー・マクファーリンら数人の”寄せ”を、一人で引き受けていたのだった。そこはそれで、とても切ないことだった。

イベント《海峡三座》
編集学校の九州支部・九天玄氣組の主宰イベント(2016年10月23日)。北九州・門司にある木造三階建の旧料亭「三宜楼」の百畳間で催された。松岡は土地の伝承文化と編集力について語り、本條さんは海峡にまつわる曲で大トリを飾った。「本條さんの涙の一筋のような声が天地の隙間を昇っていったのである」(日刊セイゴオ「ひび」より)

⊕ 三味線語り ⊕

∈ 著者:本條秀太郎
∈ 構成・編集協力:渡邊直樹
∈ 装丁・本文デザイン:谷口雅雄(ベエグラフィック)
∈ 写真:今村秀雄
     大森克己
     岡部 好
     川崎敦子
     カーティス・ナップ
     田島謹之助
∈ 発行者:納屋嘉人
∈ 発行所:淡交社
∈ 印刷製本:図書印刷

∈∈ 発行:2006年10月30日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ プロローグ 解かれてゆく、そして紡ぎだす
∈ 本條秀太郎、三味線を語る
  本来の民謡と芸能者
  日本音楽のなりたち
  燈火を伝えるために
∈ コラム 私の好きな端唄10選
  島影・夜の雨
  潮来節・濡れて来た
  我がもの・夕暮
  花の曇り・川風
  露は尾花・淡雪
∈ 本條秀太郎、識者と語る
  織田紘二(国立劇場芸能部部長)
  田中優子(法政大学社会学部教授)
  細川周平(国際日本文化研究センター教授)
  川瀬敏郎(花人)
  養老孟司(解剖学者)
  池辺晋一郎(作曲家)
∈ 私の軌跡 その人生と音楽活動
  年譜
  CDディスコグラフィ
∈∈ 付録CDの収録曲解説

⊕ 著者略歴 ⊕
本條秀太郎(Hidetarou Honjoh)

日本の民謡・端唄・俚奏楽三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家。茨城県行方郡潮来町(現・潮来市)に生まれる。三味線方は本條姓を名乗るのに対して、唄方は俚奏姓を名乗っている。1958年、三味線演奏家になるべく家族全員で上京し、長唄を稀音家芳枝に、民謡を二代目大船繁三郎にそれぞれ師事。高校卒業後、大船の紹介により民謡三味線の大家、藤本琇丈(初代)の内弟子となる。小唄は女優の三浦布美子(田毎てる三)に師事、田毎吉太郞の名を許される。1969年、現在の活動の原点ともなる『雪の山中』を作曲。これを新しい三味線音楽『俚奏楽』(りそうがく)と定義する。1971年、藤本流より独立し、『本條流』を創流、家元となり、本條秀太郞を名乗る。『俚奏楽』を本條流の流儀の主体に据え、民謡・端唄・俚奏楽の3本柱での活動を始める。テレビ・ラジオ・舞台での演奏に加え、本條流家元として全国各地の門弟への教授活動、作曲活動も行い、その他にも映画音楽、商業演劇の舞台音楽、NHK大河ドラマなど時代劇での邦楽指導、邦楽監修など幅広く手がける。

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