才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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三味線語り

本條秀太郎

淡交社 2001

装幀:谷口雅雄 構成編集:渡邊直樹 写真:今村秀雄ほか

秀太郎さんには、人を絆(ほだ)す三味線の魅力と、聴く者を懐かしい界隈に運んでいく声の冴えがある。とくに弾き唄いがたまらない。ぼくはいつだって唄い出しの一声で攫われ、途中の「甲(かん)」(高音)で参ってしまうのだ。

 漆黒の表紙に白い帯。その帯に「私の口ずさんだ一節が、才人秀太郎の三味の音で冴えわたる」という、かつて森繁久彌が贈った言葉が摘まれている。森繁久彌は小唄が好きだったし、ふいに端唄や都々逸めいた文句を口ずさめる人だったので、それに秀太郎が三味線のあしらいを入れたのだから、陶然としたのだろう。

『三味線語り』に、初秋のススキの影がかかる
撮影:小森康仁(編集工学研究所)

俳優・森繁久弥氏による帯文

 森繁がそうだったように、先代の勘三郎も三浦布美子も、細野晴臣も一青窈も、多くの民謡歌手も各地の芸者衆も、むろんのことに老若男女の聴衆たちも、本條秀太郎の声と手に酔わされてきた。それほどに秀太郎さんの音楽には、人を絆す魅力と、聴く者の気分を懐かしい場所に運んでいく魔法がある。とくに弾き語りがたまらない。ぼくはいつだって唄い出しの一声で、参ってしまうのだ。

花の曇りか遠山の 雲か花かは白雪の
中をそよそよ吹く春風に
浮寝さそうやさざ波の
ここは鴎も都鳥 扇拍子のさんざめく
内やゆかしき 内ぞゆかしき‥‥「花の曇り」

本楼で演奏する本條さんと、その音色を堪能する松岡
イベント《三味三昧》において
時:2014年11月13日 豪徳寺・本楼

 ぼくと秀太郎さんとの出会いは千夜千冊に縁がある。千冊達成記念のトークイベントをいとうせいこう君の司会で原宿クエストホールで催してもらったとき、ゲストとして三味線と端唄を添えていただいたのが最初だった。
 ぼくはステージにいて、次々に登壇する千夜千冊の著者たちのお相手をしていたのだが、そのとき秀太郎さんが花道にあたるような仮設ステージに登場した。ペコちゃん(藤本晴美)の演出で、秀太郎さんを引っぱってきたのは潮来が同郷の太田香保だった。秀太郎さんは当日のスケジュールを縫って、風のように来て風のように去っていった。だから挨拶が交わせなかった。ところが、そのナマの三味線、その歌声、その佇まいがステージにいたぼくの目と耳について忘れられなくなっていた。以来、なにかにつけて秀太郎さんがほしくなったのだ。
 ほしくなったとはまことに失礼だが、あえて先人をもちだせば、中江兆民が太棹の義太夫を、二葉亭四迷が常磐津と新内を、九鬼周造が新紫の歌沢の師匠をそばにほしくなったように、秀太郎さんの手と声がほしくなってしまったのである。
 それからは2人で豪徳寺の本楼を場に「三味三昧」という催しを連続するようになった。秀太郎さんもぼくの話の介入がおもしろいようで、2人であれこれ仕組みを案じて数時間の「三味三昧」を愉んだ。毎回ぼくも詞をつくり、秀太郎さんが作曲をして、それを当日にご披露してもらうという趣向も加えた。

イベント《三味三昧》(2014~2015)
本條さんと松岡が組んで本気で「日本」を遊んだ数寄サロン。「日本いろいろ遊び」「男伊達」「くにぶりうた」「色歌もどき」「棹けしき 糸さばき」「音文字むすび」の全6回を開催。本條さんの三味線と唄と松岡の語りが溶け合って、ある時は遊芸風、ある時は寺子屋風、また時には日本列島を縦断する道行のような仕立てになった。2人の着物は江木良彦さんのお見立て。本條さんと同郷である眞中秀幸シェフによる海・里・山から採りたての食材によるおもてなしも振る舞われた。右から江木さん、眞中シェフ、本條さん、松岡。

濡れてきた 文箱に添えし花菖蒲
いとど色増す紫の 恋という字に身を堀切の
水にまかせているわいな‥‥「濡れてきた」

淡雪と 消ゆるこの身の 思い寝に 浮名をいとう恋の仲
乱れしままの 鬢(びん)つきや 義理という字は是非もなく
夢かうつつか 朝鴉(あさがらす)‥‥「淡雪」

 
 先ほども書いたように、秀太郎さんは潮来の生まれだ。ぼくとは一つちがい。そのころの潮来には花柳界があったので何かと華やいでいて、聞こえてくる音曲が子守歌のようなものだったらしい。
 10歳のとき地元の篠塚みつに三味線を習うと、みんなが将来を期待した。昭和33年に一家で上京して、学校に通いながら長唄を稀音家芳枝に、民謡を2代目の大船繁三郎に手ほどきを受け、高校卒業後は民謡三味線の藤本琇丈の内弟子となり、かたわら三浦布美子(田毎てる三)に小唄を仕込んでもらった。
 かなりの特訓だったようだが、楽しくてしょうがなかったらしい。何かがひたむきだったのだろう。早熟でもあった。昭和44年には山中節をもとに《雪の山中》を作曲している。いま聴いてもかなりの名曲だ。こうして若いときに「俚奏楽」をおこした。きっかけがあったようだ。
 中学校のとき日比谷公会堂で、宮沢賢治の詩「原体剣舞連」に師匠の稀音家芳枝が曲をつけた獅子舞を見た。農家のおじさんが歓喜に満ちてうたっているのに心を奪われた。これがきっかけだ。

 一口に邦楽とはいうが、日本の音楽は一通りではない。その土地、その風土、その習慣、その言葉によって歌や踊りが変わっていく。それもたいそう微妙な変化で、そこには「うつり」「もちこし」「あじつけ」「おとしどころ」がある。青年秀太郎はそのような日本の音楽をみずから採集し、できればアレンジし、さらに新たな領域に昇華させたいと思ったようだ。
 それが「俚奏楽」になっていった。かつて民謡が俚謡とか里唄とかよばれていたことに因んで、そこにもっと日本文化のダイバシティをさまざまに入れ込むようにした。だから俚奏楽では、いろいろの邦楽器のアンサンブルが試みられるし、ときに舞踊まで採り込んでいる。ぼくが見たもののなかには神謡のような、神話的伝承性を帯びたものもあった。

露は尾花と寝たと言う 尾花は露と寝ぬと言う
あれ寝たと言う 寝ぬと言う
尾花が穂に出て あらわれた‥‥「露は尾花」

三浦布美子
6歳から芸事をはじめ、日本舞踊、清元、鳴物、長唄などの名取となる。昭和37年小唄田毎(たごと)派の2代家元を襲名し、てる三(ぞう)を名のる。浅草の売れっ子芸者で、また39年からはNHKテレビ「芸能百選」のレギュラー出演で圧倒的な人気をえた。

俚奏楽
本條秀太郎さんが、1971年に日本音楽の新しい流れとして創始した三味線音楽の一種。三味線音楽の源流をたずね、現代的解釈と創造を加え、継承していくことを目的としている。

《本條秀太郎の会》端唄〜江戸を聞く〜「花の道」
時:2014年1月26日(日) 場:紀尾井小ホール

 三味線は不思議な楽器である。あえていうなら中途半端だ。加減でできた楽器なのである。戦国末期の堺に琉球から中国の三弦や奄美の三線(蛇皮線)が到来し、これが短期間に日本的な三味線になった。当道座の盲人が工夫したのだったろう。
 その初期の形状や機能は今日にいたるまで、ほぼ変わらない。そもそも棹が細くて長く、持ちにくい。絃は太い順に一の糸、二の糸、三の糸の三本しか張っていない。だから三絃とも言ってきた。天神(糸倉)でのチューニング(調絃)が難しく、ちょっとでも巻きすぎるとすぐ切れる。棹にはギターのようなフレットがないから、奏者は勘所をおぼえて左手でそこを押さえたり離したりする。これを右手にもった銀杏形の撥で弾いたり、指でつま弾く。撥をつかうのは琵琶法師の流れを汲んだ当道座のアイディアだ。
 中途半端なのである。ところが、その中途と半端こそが、みごとに絶妙な加減の音楽世界をつくりあげていったのだ。
 新たに強調されたこともある。一の糸の糸倉付近のサワリ山と谷にサワリを入れた。ノイズ含みにした。これはインドのシタールのジャワリのようなものだから、他の民族楽器にもあるのだが、三味線では一の糸が上駒からはずれているので、糸がサワリ山に触れてビーンという倍音が生じる。チューニングさえできていれば、一音をテンと弾けばポンという音と同時にテェーンと響くのである。勘所を押さえてもビーンと響く。
 ともかくもこれらの出来がみごとに相俟って、三味線に独自の趣きをもたらした。経過音も微妙になって、西洋音階にくらべて半音を狭くとるようになった。秀太郎さんはこうした「音の減衰の加減」こそが、日本の「間の文化」を醸し出したのだと見る。まったくその通りだ。

鳥影に 鼠鳴きしてなぶられる
これも苦界の憂さ晴らし 愚痴がのませる冷酒も
辛気辛苦の ああ苦の世界‥‥「鳥影」

本條流一門
右から、本條秀慈郎さん、本條秀五郎さん、鼓友緑佳さん。長年、本條さんに師事している秀五郎さんは、弟子入りきっかけを松岡に問われ、「初めて師匠の音色を耳にしたとき、まるでオーケストラの演奏を聴いてるかのようで衝撃をうけたから」と応えた。
《三味三昧》において

三本線の由来を話す本條さんの手
《三味三昧》において

 秀太郎さんは端唄の名人でもある。端唄は広い意味の「はやりうた」のことだから、厳密な定義などない。いわゆるポップスであり、巷間のヒットソングだ。すでに室町期の『閑吟集』に三百あまりの「端唄のもと」が集められているし、慶長期に広まった隆達節もその後の多くのポップスの「もと」になった。うんとさかのぼれば後白河期の『梁塵秘抄』の今様にまでルーツが辿れるだろう。
 江戸時代、こうした端唄が料理屋や遊郭などの小さな空間で、旗本御家人や江戸屋敷に来ていた各地の留守居役によって、また町人や商人たちによって親しくうたわれた。細棹の三味線を撥で弾いた。ぼくは風俗絵や浮世絵の風情はこのような端唄から生まれていったと思っている。谷文晁の絵は端唄を感じさせる。これらの端唄のうち、武士がそれなりに洗練させたものが歌沢で、唄を中心にした。少しく武士の気概と弱みが見えている。
 一方、明治になって技巧が加わりアップテンポになったのが小唄である。最初のうちは早間小唄などと言われた。撥ではなくて中棹の三味線をつま弾いた。爪を糸に当てるのではなく、人差し指の爪先の肉で弾く。小唄はお座敷の芸者衆や花柳界に好まれ、伊藤博文から商家の旦那衆までが口ずさんだ。贔屓の芸者衆も出た。

 端唄も歌沢も小唄も、歌詞がいい。粋でせつなく、はかなくて人情味がある。日ごろの心の綾が軽妙に描かれるのだ。「ちょっと」「あんまり」の情景なのである。「おかしな気分」も添えられる。ときにコケットリーでユーモラスなのだ。
 そこに四季の風物や花鳥が出入りした。各地の情緒も折り込んだ。やがてこのユーモアは都々逸などになっていく。森繁久彌もそんな小粋な詞を口ずさんだのだろう。
 秀太郎さんはいまも「端唄の会」をずっと催している。収集した端唄は数百にのぼるだろう。それを十数曲ほど組み合わせ、弟子の秀五郎さんらを伴って遊ばせてくれる。ぼくもしばしば紀尾井ホールを覗きにいく。

川風につい誘われて涼み舟
文句もいつか口舌(くぜつ)して
粋な簾の風の音に 漏れて聞こゆる忍び駒
いきな世界に照る月の 中を流るる隅田川‥‥「川風」

本條さんの音色にあわせ、本楼のテーブル上で舞う芸者さんたち
《三味三昧》では、大人のための贅沢の遊び場をさまざまに用意した。

特製料理を振る舞うシェフの眞中秀幸さん
表参道のリストランテ《ダ・フィオーレ》のオーナーシェフ。イタリア料理の技術、表現に加え日本の食文化、伝統美を取り入れた独自の料理をつくる。同じ潮来出身である本條さんとは親交が深く、《三味三昧》では五感で味わう料理を提供し好評を博した。

来場者を壇上にあげ、三味線の手ほどきをする本條さん

 本書には、織田紘二、田中優子、細川周平、川瀬敏郎、養老孟司、池辺晋一郎との対談も収録されている。ぼくが少々まとめると以下のようになる。
 第1には、民謡をたんなる「余興の芸能」にしたくなかったこと、日本人が元来もっていたであろう土着の音楽性を追究したかったこと、そのためには広く深く収集や取材や研鑽をしていかなければならないだろうから、弱冠26歳で「本條流」を組んだこと、一方で自分なりの〝本條化〟をおこしていかなければならないと思って「俚奏楽」をおこしたということ。
 第2に、三味線は不便にできているからこそおもしろいということ、サワリによって「陰の音」が動くこと、勘所には「音格」とでもいうものが生じていること、そこには「愁い」も「張切り」もあって、勘所の押さえ方で人格も風格もあらわれるということ、自分はやっぱりそういう三味線が弾きたくてここまで仕事をしてきたのだと確信しているということ。
 第3に、芸能とは「芸を能くする」ということで、それゆえ「芸」も大事だが「能」に堪能になる必要があるということ、そこにはむろんエイジングも関係しているということ、それは世阿弥のいう「時分の花」だろうということ、それゆえ若いときの技芸が老いては平板になる場合があるが、その平板には逆に音曲の歴史の大本があらわれてくる可能性があるということ、そうしたことを勘定に入れて端唄などを愉しみ続けたいということ。
 第4に、日本人の音楽性は強さや長さにはなかったのではないかということ、そのためわずかな変化に格別の趣きをもたらしたかったのだろうということ、そこで「表間」に対して「裏間」を工夫したのだろうこと、また「産み字」や「こぶし」などの唱法をつくりあげていったのだろうこと、総じて日本人の音感はきっと「うつろい」にあるのだろうということ。
 第5に、自分が大事にしたいのは「伝統」というよりも「伝燈」というものだろうこと、そのためにはポピュラーにすることよりも、自分がどこまで好きなのかを探求していかなければならないこと、それだけに「型」を知り抜いていかなければならないこと、それには体がそのことを感じられるようにしておくこと、またそのことをお弟子さんたちにも徹底して伝播できるようにしなければならないということ。

『三味線語り』見開き(セイゴオマーキング)

 だいたいはこんなところだ。おそらくこれらすべてを本気で実践してきたのだろうと思う。そのせいか、秀太郎さんの一門と仕事をしているととても気分がいい。何代も続いてきた本條流ではないのだが、芸事の一門のよさを感じる。このこと、よほどのことなのである。

イベント《海峡三座》
編集学校の九州支部・九天玄氣組の主宰イベント(2016年10月23日)。北九州・門司にある木造三階建の旧料亭「三宜楼」の百畳間で催された。松岡は土地の伝承文化と編集力について語り、本條さんは海峡にまつわる曲で大トリを飾った。「本條さんの涙の一筋のような声が天地の隙間を昇っていったのである」(日刊セイゴオ「ひび」より)

⊕ 三味線語り ⊕

∈ 著者:本條秀太郎
∈ 構成・編集協力:渡邊直樹
∈ 装丁・本文デザイン:谷口雅雄(ベエグラフィック)
∈ 写真:今村秀雄
     大森克己
     岡部 好
     川崎敦子
     カーティス・ナップ
     田島謹之助
∈ 発行者:納屋嘉人
∈ 発行所:淡交社
∈ 印刷製本:図書印刷

∈∈ 発行:2006年10月30日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ プロローグ 解かれてゆく、そして紡ぎだす
∈ 本條秀太郎、三味線を語る
  本来の民謡と芸能者
  日本音楽のなりたち
  燈火を伝えるために
∈ コラム 私の好きな端唄10選
  島影・夜の雨
  潮来節・濡れて来た
  我がもの・夕暮
  花の曇り・川風
  露は尾花・淡雪
∈ 本條秀太郎、識者と語る
  織田紘二(国立劇場芸能部部長)
  田中優子(法政大学社会学部教授)
  細川周平(国際日本文化研究センター教授)
  川瀬敏郎(花人)
  養老孟司(解剖学者)
  池辺晋一郎(作曲家)
∈ 私の軌跡 その人生と音楽活動
  年譜
  CDディスコグラフィ
∈∈ 付録CDの収録曲解説

⊕ 著者略歴 ⊕
本條秀太郎(Hidetarou Honjoh)

日本の民謡・端唄・俚奏楽三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家。茨城県行方郡潮来町(現・潮来市)に生まれる。三味線方は本條姓を名乗るのに対して、唄方は俚奏姓を名乗っている。1958年、三味線演奏家になるべく家族全員で上京し、長唄を稀音家芳枝に、民謡を二代目大船繁三郎にそれぞれ師事。高校卒業後、大船の紹介により民謡三味線の大家、藤本琇丈(初代)の内弟子となる。小唄は女優の三浦布美子(田毎てる三)に師事、田毎吉太郞の名を許される。1969年、現在の活動の原点ともなる『雪の山中』を作曲。これを新しい三味線音楽『俚奏楽』(りそうがく)と定義する。1971年、藤本流より独立し、『本條流』を創流、家元となり、本條秀太郞を名乗る。『俚奏楽』を本條流の流儀の主体に据え、民謡・端唄・俚奏楽の3本柱での活動を始める。テレビ・ラジオ・舞台での演奏に加え、本條流家元として全国各地の門弟への教授活動、作曲活動も行い、その他にも映画音楽、商業演劇の舞台音楽、NHK大河ドラマなど時代劇での邦楽指導、邦楽監修など幅広く手がける。