小林信彦
名人
志ん生、そして志ん朝
朝日選書 2003年 文春文庫 2007年
装幀:大久保伸子
やっぱりこんな親子はいなかった。昭和平成の演芸史に奇蹟をおこしたのである。それなら、そういう二人をつなげて語るにはどうしたらいいか。志ん生から志ん朝に進むのか(それがふつうだろうが)、志ん朝から志ん生に戻るのか(案外この手かもしれない)。ともかくもそうとうに二人の落語を聞き込んでいなければならないし、なんといっても二人に惚れ込んでいなければ話にならない。

 志ん生と志ん朝を並べて一緒くたに語るのはけっこう難しい。二人は落語界を代表する親子で、かつ、それぞれ名人だったのだから、何かのミーム(意伝子)のつながりで語りたくなる。それはやまやまなのだが、「芸の道」では親子だからといって重ならないところ、反りがちがうところは少なくない。
 笑いの芸人は一子相伝とはかぎらない。だいたいは「親の心、子知らず」だ。ぼくが見てきたところ、残念ながらそういう落語家一族は少なくない。ところが志ん生と志ん朝にかぎっては、両者が極上、とんでもない親子の落語家だった。長男の馬生も味があり(次男が志ん朝)、親子三人ともにいい。三人の芸風は似ているとも、「ひそみ」や「ふくみ」でいろいろ違っていたとも言える。
 とくに志ん朝は若い時期からさまざまに変化変容し、深みも軽妙も爛熟もおこしていったから、そのどこを見るかで「志ん朝の中の志ん生」があれこれ彩れる。そのあたりの案配のこと、志ん生の長女の美濃部美津子による『三人噺―志ん生・馬生・志ん朝』(扶桑社→文春文庫)がうまく書いている。

馬生・志ん生・志ん朝
美濃部美津子『三人噺』表紙より。
長女・美津子による3人の談話をまとめたもの。一家の戦前の生活から、志ん朝が大好きなうなぎの蒲焼をなぜ絶っていたのかまで明らかにされている。志ん朝の一周忌に刊行された。

 当たり前だが、古今亭志ん生と古今亭志ん朝の時代と人生は別だ。関東大震災、モガ・モボ、満州事変、太平洋戦争、ロカビリー、高度成長、TVバラエティ、巨人・大鵬・玉子焼……いちいちを通り抜けた。
 志ん生(5代目)は明治23年に生まれて、日中戦争時代に噺家として大陸と内地を行ったり来たりして、街の寄席とラジオ文化の中で飄々とした名人ぶりにファンが酔った。昭和43年1月の78歳まで高座に上がり、いつか再起してくるだろうとファンに気を揉ませての、83歳での、まあ大往生だった。
 志ん朝は昭和13年の生まれで、獨協高校ではドイツ語も好き、役者も好きという青年だったが、親父に説得されて昭和32年に噺家になったところ、5年で真打に昇進した。たちまち評判が立った。桂文楽(179夜)は志ん生に「円朝(787夜)を継げるのは、あなたの息子だナ」と言ったほどで、談志も「金を払って聞く価値があるのは志ん朝だけだ」と言っていた。
 高級外車(アルファロメオ)を乗りまわしたり、いわゆる豪邸を建てたり、テレビに出ずっぱりのときもあったのだが(「サンデー志ん朝」など)、やがて芸の道にとっぷり浸かっていった。けれども平成13年(2001)10月1日に63歳で病魔に冒され、ぷっつりと遮断機が降りてしまった。あと20年、いやせめて10年でも高座をしていたら、志ん生から想像できないもの、「蕩けた化け物」や「名状しがたい神技」のようなものが出てくるだろうと、みんな、そう思ったのである。

 志ん生はつねに桂文楽にくらべられた。文楽が楷書なら志ん生は草書だとか、文楽が文学なら志ん生は俳諧だとか、文楽がスクウェアなら志ん生はヒップだとか、言われてきた
 徳川夢声(642夜)は文楽がクラシック音楽なら、志ん生はジャズだと言った。これはぼくの言い草だが、文楽が「折り目」なら、志ん生は「しわ」なのである。
 志ん朝にはそういうふうに並べて比較するライバルがいない。深いし、冴えがあるし、それでいて心底おもしろい。独走なのだ。ライバルに談志や枝雀をあげる者もいるが、とうてい同断には語れない。逆に志ん生は誰かの芸風に打ち込んだということがなくて、ただただ独自の語りで周囲をケムに巻いた。志ん朝は意外なことに父親のライバルともくされた桂文楽の芸に学んだ。それなのにいつのまにか親父の芸風を醸しだしていった。

志ん生と志ん朝
小島貞二『志ん生の忘れもの』(うなぎ書房)
古今亭志ん朝『志ん朝の落語』(ちくま文庫)

 やっぱりこんな親子はいなかった。昭和平成の演芸史に奇蹟をおこしたのである。それなら、そういう二人をつなげて語るにはどうしたらいいか。志ん生から志ん朝に進むのか(それがふつうだろうが)、志ん朝から志ん生に戻るのか(案外この手かもしれない)。ともかくもそうとうに二人の落語を聞き込んでいなければならないし、なんといっても二人に惚れ込んでいなければ話にならない。
 容易ではあるまい、いったい誰がこの難問に挑むのだろうかと思っていたら、本書の著者の小林信彦が登場した。
 小林は二ツ目のころからの志ん朝にぞっこんで、こいつは不世出の名人になるとみなしていたし(夫人は前座デビューの朝太のころからのファン)、やや前半期の志ん生に出会えていなかったので、本書を綴るにあたっては志ん生を聞きまくったという。用意も万端なのである。
 とはいえ、こういう思いだけでは落語の本は書けない。そのことはこれまでの落語につての評論が証かしている。

 いま、落語についての本はピンからキリまでかなり多い。へらへらなものもあるし、へなへなもある。ネタばらしだけのものも、笑いに片寄ったものも目立つ。立川談志(837夜)が早々にぶちかました。『現代落語論』(三一新書、1965)などの快著は、めったにない。
 けれども昔からの定番となると、長らくのあいだ、正岡容、安藤鶴夫(510夜)、関山和夫、小島貞二、江國滋だった。本書の小林信彦もこの系譜につらなると見ていい。そこで、ざっとながらこの五匠を案内しておく。

 正岡容(まさおか・いるる)は酒呑みで激しい気性の持ち主だったらしいが、もっぱらの演芸数寄者で、江戸戯作から落語・浪曲まで通じた。大正14年に三代目三遊亭円馬の媒酌で石橋幸子と所帯をもって大阪に居住したことから、上方落語にも詳しくなった。そういう正岡の晩年には桂米朝が私淑した。米朝が正岡に私淑したことは、のちに上方落語の復興につながった。
 若い日の正岡は小島政二郎に入門して小説をものにするようになり、『圓太郎馬車』(現在はゴマブックスで刊行)で評判をとった。これは古川緑波(ロッパ)の主演で映画化もされた。しかしその創作意欲はそのまま文学に向かうのではなく、あくまで演芸に戻っていった。そんななか吉井勇(938夜)の「粋」も学んだ。
 落語も漫才も、また浪曲も愛した。二代目玉川勝太郎のための浪曲『天保水滸伝』、初代相模太郎のための『灰神楽三太郎』はいまなお傑作だ。

正岡 容
作家,演芸評論家。日本大学芸術科中退。 1924年『影絵は踊る』を発表,芥川龍之介に天才と評される。落語、講談などの演芸にしたしみ、おおくの研究書、台本をかいた。

 この正岡容と名人評価をめぐって激しい舌戦を交えたのが、アンツルこと安藤鶴夫である。アンツルが『落語鑑賞』(苦楽社)をまとめたのは都新聞文化部記者時代のことで、戦後まもない昭和22年のことだから、かなり早い。
 大阪の中山太陽堂がつくったプラトン社に「苦楽」という雑誌があった。昭和メディア史を飾る。その編集長をしていた大仏次郎(458夜)が、この雑誌で「落語を文化として扱いたい」と久保田万太郎に相談したところ、万太郎が記者のアンツルを推薦したのがきっかけだ。
 意気に感じた若きアンツルは八代目桂文楽の高座をノートにとって、みっちりまとめた。この仕事はその後の落語テキストのバイブルともいうべきものとなり、いまはその後の充実と補填を加えて『わが落語鑑賞』(ちくま文庫)になっている。直木賞をとった『巷談本牧亭』(桃源社→各文庫)のほか、『落語国・紳士録』(青蛙房→ちくま文庫)、『寄席紳士録』(文芸春秋社→平凡社ライブラリー)、『わたしの寄席』(雪華社→河出文庫)などもある。
 正岡容とは噂がしきりの犬猿の仲だったが、それだけでなく三代目金馬を「乞食芸だ」とあしらい、『野ざらし』が定評の三代目柳好を「軽いポンチ絵」と唾棄し、頭角をあらわしつつあった談志については二ツ目時代を絶賛したが、そのあとは「調子にのりすぎている」「リクツじゃ落語はよくならない」と文句をつけた。談志は談志で三木助の『芝浜』がいやらしくなっているのは、アンツルの助言を聞いたからだと反論した。

安藤鶴夫
昭和期の演劇評論家、演芸評論家、小説家。 久保田万太郎に心酔し、昭和15年まで下町の浅草、本所に住む。都新聞時代は文楽、落語の批評を担当。38年「巷談本牧亭」で直木賞を受賞、小説、随筆の分野で下町好みの独自な世界をひらいていった。

安藤鶴夫の主著
『巷談本牧亭』(河出文庫)
『落語国・紳士録』(青蛙房)
『寄席紳士録』(平凡社ライブラリー)
『わたしの寄席』(河出文庫)

 三人目の関山和夫は民俗学の出身で「話芸」という言葉をつくった。このキーワードは関山の発明である。最初は安楽庵策伝の生涯を研究し、笑話集『醒睡笑』に収録されたコントを吟味した。策伝は落語の祖というより、遊芸のエキスパートで、茶道にも狂歌にも椿にも詳しかった。
 やがて『説教と話芸』(青蛙房)、『話芸の系譜』(創元社)、それに『落語名人伝』(白水社)を書いた。これはぼくも没頭した。仏教芸能にも詳しく、『仏教と民間芸能』(白水社)や『庶民芸能と仏教』(大蔵出版)や『庶民仏教文化論』(法蔵館)はいまもって貴重だ。
 四人目の小島貞二は変わり種だ。昭和13年に大相撲の初土俵を踏んでいる。出羽海部屋で、双葉山の70連勝を阻止した安芸ノ海の付け人だった。身長が182センチあった。
 その後は博文館で相撲や野球についてのジャーナルな評論を書き、戦後になって演芸記者になった。いろいろ監修した。『落語三〇〇年』シリーズ(毎日新聞社)、『落語名作全集』全6巻(立風書房)がある。ぼくが「遊」を編集していたころは、次々に小島監修の『志ん生長屋ばなし』『志ん生郭ばなし』『志ん生江戸ばなし』『志ん生滑稽ばなし』(立風書房)が連打され、このシリーズで志ん生の話に親しんだ者も多かったろうと思う。
 江國滋(えくに・しげる)はぼくが大好きな江國香織(747夜)の御父君である。演芸批評、俳諧、アマチュア・マジシャンとして鳴らした。なんといっても『落語手帖』(普通社→旺文社文庫→ちくま文庫)が先駆的で、続いて『落語美学』『落語無学』(東京書房)で唸らせ、これらをブリコラージュした『落語への招待』(朝日選書)が大いに読まれた。

関山和夫
仏教芸能・話芸研究家。仏教僧が行った芸能としての「説教」(節談説教)が話芸の源流にあるとの観点から、独特の芸能史を展開。祭文・琵琶・浄瑠璃・浪花節などの語り物や、節談説教・絵解き・万歳・講談・落語などの「話す芸」について多角的に究明。「話芸」という言葉の創始者。

小島貞二
昭和・平成期の演芸評論家、相撲評論家、放送作家。旧制中学卒業後、漫画家をめざして上京するが、身の丈6尺という長身を買われて昭和13年出羽海部屋へ入門。引退後、戦後は東京日日新聞記者を経て、民放開局とともに放送作家(演芸作家)に転身。「これが志ん生だ!」「力士雷電」「決定版快楽亭ブラック伝」「漫才世相史」「落語三百年」など150冊余りの著作を著した。

江國滋
昭和・平成期の演芸評論家。慶応大学法学部卒。出版社勤務を経て、独立。随筆、紀行、評論の分野で活躍する。小沢昭一、永六輔らと「東京やなぎ句会」をつくった。俳号は滋酔郎。『俳句とあそぶ法』で俳句ブームの火付け役となり、『日本語八ツ当り』はベストセラーとなる。

 本書の小林信彦は、これら先達の系譜でいえばあきらかにアンツル派だ。よくよく寄席の周辺を見聞しているし、手厳しいところもある。言いたいことは遠慮しない。ぼくはそういう小林の落語語りには信頼を寄せてきた。落語だけではなく、大衆芸能について鮮明な目利きができるところも、いい。
 子供のころから講談社の『落語全集』に没入していたらしく、志ん朝を感じるためには何でもしてきた。とくに「志ん朝ひとり会」や名古屋の大須演芸場で開かれていた「志ん朝三夜独演会」にはできるだけ通った。本書はその小林が志ん朝を褒めたくて、その背後の志ん生を温かくゆさぶった一冊だった。もっとも、これだけならただのファンでもあるのだが、小林はそれを文章にもちこむ技を習得してきた。

 もともとは日本橋に9代続いた和菓子屋「立花屋」の御曹司である。満州国が成立した昭和7年の生まれ。父親は菓子屋を没落させるのだが、小林はその父に連れられて歌舞伎や寄席に親しんだ。将来は動物園の園長か落語家になりたいと思ったらしい。中学生のとき徳川夢声の本を万引しようとしたら、店員に捕まってこっぴどく絞られた。万引きとはいえ夢声がほしくなったのは筋がいい。
 高校では映画研究会をつくり、早稲田では英文科に入ってサッカレーとピカレスク(悪漢小説)と首っぴきになった。その余勢をかって埴谷雄高(932夜)らの「近代文学に短編を書いた。
 それからはいろいろの職業をへて、昭和34年に宝石社の推理小説誌「ヒッチコック・マガジン」の編集長になった。江戸川乱歩(599夜)の推薦だったようだ。星新一(831夜)・筒井康隆・山川方夫をサポートした。フリーになってからはテレビの構成台本を書くかたわら、中原弓彦のペンネームでコミックノベルに挑み、『虚栄の市』(河出書房新社→角川文庫)を問うと、そこから『オヨヨの冒険』(朝日ソノラマ→晶文社→角川文庫)のシリーズ化、『唐獅子株式会社』(文芸春秋→新潮文庫)のシリーズを発表しまくった。
 文章にするのはお手のものとなり、作家の才能やテレビ番組の構成力を見るのにも長じたのだ。こうして満を持するかのように本書『名人』を書いた。

小林信彦
昭和34年「ヒッチコック・マガジン」の初代編集長となる。昭和38年作家生活に入り,「虚栄の市」「冬の神話」などの純文学作品や,「大統領の密使」「オヨヨ島の冒険」などのユーモア冒険小説を発表。中原弓彦の筆名で映画・演劇評論も手がけ,48年「日本の喜劇人」で芸術選奨新人賞。

 それでは、志ん生について。
 本名が美濃部孝蔵というのはあまりに堅い名前でピンとこないが(本名とはそんなものだが)、高座名のほうも16回も変えていて、5代目志ん生になったのは昭和14年だった。49歳である。貧乏時代も長く、博打や酒に耽りすぎいたせいだとは言わないが(そのせいも大きかったが)、不遇時代が続いた。三升屋小勝に楯ついて干されたこともあった。
 性格は「ずぼら」を絵に描いたようなものだが、一徹なところ、頑固なところもあって、昭和22年に大陸から引き揚げるとすぐに高座に上がって、そこからは、自分の落語しかしなかった。夢声の『いろは交遊録』(鱒書房)に、大阪の寄席に襲名したばかりの志ん生が初出演したときは、聴衆が気にいらなかったのか、5分か7分でぷいっと高座を降りたという話が紹介されている。
 志ん生が得意なのは、志ん生自身がそう言っているのだが、「ついでに生きている人たち」を演じているときだ。この「ついでに」や「つもり」がいい。志ん生の話っぷりは、なんてったって「ついで」の独壇場なのだ。そこに得体のしれない「融通無碍」と「天衣無縫」が横溢する
 噺の仕方では「くすぐり」も大いに得意だったが、アイディアに富んでいたというより、これはアンツルも小林も証していることだが、柳家三語楼のネタをかなり借りていた。

志ん生 「風呂敷」
NHKで昭和30年5月4日に放送された「放送演芸会」より。

 小林は志ん生の芸は「明るく、荒涼としたユーモアがニヒリズムに裏付けられている」と書いて、それを否応なしに感じたのは『お直し』だったと言っている。昭和31年の三越落語会での高座で芸術祭賞をとった。「廓(くるわ)もの」の江戸落語だが、花魁(おいらん)が客引だった牛太郎と一緒になるというめずらしい話で、ちょっと痺れさせる。
 志ん生はネタが多い。同時代では6代目の円生に匹敵する数だった(文楽はネタを絞っていた)。またそのたくさんのネタをよくよく練っていた。ぼくが好きなのは『火焔太鼓』『品川心中』『井戸の茶碗』『居残り左平次』などで、なんとも絶妙な風合に揺蕩(たゆた)わせてくれる。「遊」を編集していたころは、カセットでこれらを布団に入りながら何度でも聞いた。
 志ん生は一つの噺にも自分が好きな場面がいろいろあって、そこへさしかかると「うきうきする」と言っていた。たとえば『火焔太鼓』なら次のようなところだ。「あれはとても好きな噺でね、マクラの苗売りのところ、物売りの言い立てから天道干しのとこ、大名屋敷のお納戸口で用人との値段の駆け引きねェ。そぃから金を受け取っての帰ィり道でェひとりごと言う、あすこね。女房を柱につかまらせるところなんぞァ、とてもむつかしいけども、あたしゃ大好きで」。

『名人』の見開き【セイゴオマーキング入り】
本書P66~67より

 落語には八っつん、熊さん、横町のご隠居、大家さん、女房、与太郎、大旦那、若旦那、お侍(お武家)、家来たち、三太夫、花魁(おいらん)、遊女、駕籠かき、物売り、泥棒、子供たち等々、江戸の町を往来する者たちが登場する。落語家はそうした人物の造形に勝手な工夫をいろいろ施すのだが、志ん生はあまりそういうことをしなかった。はっきりした演じ分けをしない。
 だいたい江戸っ子であろうとする必要もなく(べらんめえの江戸弁だった)、貧乏を演じる必要もない(ずっと貧乏だった)。もともとの暮らしぶりが、落語の身過ぎ世過ぎの日々に居たようなものだったのだ。とくに侍の描写など、まったく侍っぽくしていない。へなちょこなのだ(だからヘタだった)。侍なんてバカにしていたのかとさえ思わせる。
 ところが、『らくだ』の遊び人、『黄金餅』の破戒坊主、『三軒長屋』の鉄火な姐御(あねご)などになると、これは志ん生しかあらわせない人物になる。「ついでに生きている」という風情が存分に出てくる。こうなると志ん生の「ずぼら」が生きてきて、噺を動かす「いいかげん」の凄味がたまらない。
 この「いいかげん」が志ん生の噺のすべてを名人芸にしていった。彫琢ではない。磨き上げたというのでもない。鋤いていった。あるいは梳いていった。神々ならぬ紙々にしたのだ。どう鋤いて、どこを梳いたかは噺ごとにちがっているが、楮(こうぞ)の濃さも変えていた
 これが志ん生なのである。『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』(ちくま文庫)は何度読んでも、ぐにゃぐにゃさせられる。そういう志ん生に馬生と志ん朝という息子ができた。ぼくは馬生も好きなのだが、志ん朝が図抜けたのだった。

 志ん朝の本名は美濃部強次といった。親父が絶頂を迎えていた昭和31年に高枝を卒業して、東京外語大を受けたときは外交官志望だった。さいわい大学は不合格で、翌年、古今亭朝太として落語修行を始めた。落語が好きでもなく、ジャズのドラマーになりたい口だったが、親孝行だったらしく、父親の勧めに従ったというのが真相のようだ。
 親父の志ん生は『子ほめ』『道具屋』などの前座噺をみっちり仕込んだが、本気の落語は自分が教えるのではなく、稲荷町の林屋正蔵(のちの彦六)に稽古をつけてもらうようにした。『やかん』『巌流島』『こんにゃく問答』などは正蔵から仕込まれた。その後も円生や三木助に稽古を付けてもらい、このときはテープではなくノートに書き取ったという。
 昭和34年の春に二ツ目に、昭和37年に志ん朝(3代目)を襲名して真打になった。文楽が推薦したらしい。このとき柳屋小ゑんが先を越された。のちの談志だ。そうとう悔しかったようだ。当時の若手四天王といえば志ん朝、柳朝、円楽、談志だったのである。
 正蔵らに稽古を付けてもらったのは、よかった。実際の噺の数は親父から教えてもらったのが半分くらいだったそうだが、噺のカマエやハコビやホドを口写しで先達たちから受けたのが大きい。おまけに志ん朝は文楽の芸に学ぶことにした。これがもっと大きい。親父のライバルともいうべき文楽を研究する気になったというのは、並大抵ではない。折り目の落語を身につけた。そこに生まれながらの志ん生の春風駘蕩の地がまざった。『船徳』という文楽の十八番があるのだが、これなど文楽でなく志ん生でもなく、まさに志ん朝だった。
 こうして昭和47年に『今戸の狐』と『宮戸川』で文部省芸術選奨新人賞をもらうころは、いよいよ志ん朝になっていた。ただ「遊び」がなかった。

志ん朝「船徳」
若旦那の徳さんが,道楽の末に勘当され,船宿で居候をするうちに船頭になる。

 志ん朝はいつのまに名人芸を身につけたのか。むろん年を経るにつれて味わいが出てきたのだろうけれど、それだけでは何か秘密を解いた気になれない。あまり知られていないかもしれないが、二つほどのきっかけがある。
 ひとつは三木のり平(76夜)の劇団に出るようになったことだ。新宿コマ劇場である。若旦那の役が多かった。何度か出たようだが、ここで揉まれた。のり平を尊敬もしたようだ。笑いのコツを掴んだのではないかと、小林は見ている。もうひとつは大阪に行くたびに笑福亭松鶴(6代目)の高座を聞き、松鶴のところに通ったことだ。上方落語を復興させた話を聞き、深く感動した。
 志ん朝の若旦那ネ、あれは天下逸品だなァと言われるようになったのも、志ん朝の人情噺は江戸前だけではなく「日本人を感じるねェ」というふうになった経緯にも、こんなことが手伝っていたのだろうと思う。
 そんなわけで志ん朝の若旦那は絶品だった『唐茄子屋政談』『船徳』など、いまの落語家にはマネできない。
 もう一言、加えておく。志ん朝はドイツ語や車が好きだったが、カメラも好きだった。そのカメラは「芸」も撮っていたのだと思う。「芸」が撮れたのだと思う。もっともこれだけなら勉強家だということで、芸のアルバムがふえていったということになるのだが、志ん朝はそれをどこかで身につけていく。まぜまぜにする。文楽、親父、正蔵、のり平、松鶴、テレビ出演、馬生、一門たちの芸がまぜまぜになり、そのうち別なものになっていった。そこが志ん朝の志ん朝たるゆえんだった。
 こういう志ん朝を正統派の中の正統派とか、最後の本格的な落語家だというふうに片付ける向きがある。小林もぼくもそういうふうには片付けたくない。

志ん朝「唐茄子屋政談」
勘当された若旦那の徳三郎。金が尽きて女にも捨てられ、乞食同然になってさまよう。

 志ん朝には「品」があったのである。品格や品性が通っていた。噺の具合やそれを語る気分をごちゃごちゃにしなかった。そう言っていいなら、高座が汚れなかった。志ん朝の落語は「綺麗」だったのだ。
 高貴だとか、貴紳的な「品」なのではない。洒落た品格なのである。ハンサムな綺麗さというものでもない。粋に綺麗なのである。そこは文楽に通じた。 
 言いかえれば「花」があった。談志すら「志ん朝の落語は華麗だった」と偲んでいた。この「花」は世阿弥の「花」とはかぎらない。初代吉右衛門や芸者衆や職人たちや、花柳章太郎や山田五十鈴や銀座のママに通じる「花」で、何かが華やぐのだ。志ん朝本人にそれがあったというより、そういう落語家であろうとしたところに「花」を感じさせた。

 というわけで、あらためて志ん生と志ん朝をくらべるとどうなるかといえば、志ん生は屈託がなく、屈託を消した。志ん朝は屈託を入れこみ、屈託を粋にした。
 志ん生の芸は曖昧の極みに遊んだものだったが、志ん朝は遊んだというよりも、「遊んだ者たち」を話すことを極めたのである。志ん生は「よどみ」を好んだけれど、志ん朝はその「よどみ」が折りたためた。
 こういう親子が二人ながらにして名人だったのである。驚くべきことだが、こういうことは、そこそこの落語家ならとっくにわかっていることで、さあ、それでどうする?というのが、落語家諸君の今後に試みられてきたことなのだ。

⊕ 名人 志ん生、そして志ん朝 ⊕

∈ 著者:小林信彦
∈ 装幀:大久保伸子
∈ 発行者:柴野次郎
∈ 発行所:朝日新聞社
∈ 印刷製本:大日本印刷
∈∈ 発行:2003年1月25日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 第一章 古今亭志ん朝
  志ん朝日和(一九八一~二〇〇一年)
  志ん朝さんとの一夜
  江戸前のさりげなさ
  五代目古今亭志ん朝
  気むずかしさのすすめ
  花冷えの夜の落語
  志ん朝七夜
  もう一つの「寝床」
  志ん朝の三夜連続1995
  志ん朝の三夜連続1996
  志ん朝の三夜連続1997
  築地での志ん朝独演会
  志ん朝の三夜連続1998
  梅雨の前の志ん朝独演会
  志ん朝の三夜独演会終了1999
  志ん朝の死、江戸落語の終り
∈ 第二章 古今亭志ん生
  ある落語家の戦後
  志ん生幻想
∈ 第三章 志ん生、そして志ん朝
  一、<路地>の消滅
  二、志ん生、大ブレイク
  三、志ん生、倒れる
  四、志ん朝、登場
  五、志ん朝のいる<空間>
  六、円熟期から<粋>の消滅へ
∈ 第四章 落語・言葉・漱石
  『落語鑑賞』と下町言葉
  夏目漱石と落語
  『吾輩は猫である』と落語の世界
  『吾輩は猫である』と自由な小説
  『吾輩は猫である』と乾いたユーモア
∈ やや長めのあとがき
∈∈ 主たる参考文献

⊕ 著者略歴 ⊕
小林信彦(Nobuhiko Kobayashi)
1932年東京生まれ。早稲田大学文学部英文学科卒業。小説家、評論家、コラムニスト。中原弓彦の筆名も用いた。 「日本のことを勘違いして論じるアメリカ人」という設定のウィリアム・C・フラナガン名義の作品もある。その他の筆名に有馬晴夫、類十兵衛、スコット貝谷など。風間賢二は小林をさして「我が国における元祖おたく作家」と評した。著書は『日本の喜劇人』『ちはやふる奥の細道』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『夢の砦』『和菓子屋の息子』『一少年の観た<聖戦>』『天才伝説横山やすし』『おかしな男渥美清』『テレビの黄金時代』など多数。

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