才事記

狂言のことだま

山本東次郎

玉川大学出版部 2002

 正名に対して狂言という。
 もともとは孔子の「名を正しうする」という思想に対して、荘子の「言を狂わす」という言語感覚が対峙したのだが、やがて狂言はそうした「はずし」や「ゆがみ」を内包する演芸に広がった。だから、狂言綺語といえば道理にあわない言葉づかいや飾りたてた言いまわしをさすのだが、能狂言の「狂言」のほうは、南北朝期に滑稽な芸をさす呼称としてつかわれるようになったとおぼしい。
 狂言の舞台ではシテ(仕手)とアド(挨答)が中心になる。太郎冠者、二郎冠者、三郎冠者、大名、山伏、出家、座頭、素破、鬼、聟、舅、女、亭主などがいる。
 演目は登場人物によって、大名がシテを務める大名狂言(武悪・萩大名・粟田口)、太郎冠者がシテになる小名狂言(附子・栗焼・棒縛)、聟女狂言、鬼山伏狂言、出家座頭狂言などに分けるが、便宜的な分類でしかない。ほかに祝言の曲として《末広がり》《福の神》《三人夫》、いろいろの要素をまぜた集狂言(瓜盗人・茶壺・合柿)がある。
 ただし本書は、そういう狂言の入門書ではない。著者の山本東次郎は大蔵流の四世で、演技はまことに渋い(→追記・2012年に人間国宝に認定された)。その東次郎が狂言の本質を衝いた1冊だ。

 狂言は愚かな人間を描いているのではなく、人間の愚かさを描いている。それを哲学や幽玄や音楽性を前に出さずにファルス(笑劇)として作った。笑わせて、ちょっと考えさせるようにした。東次郎は心理劇なのだという。
 その構成演出にあたっては、能仕舞のように舞を重視する能仕立てもあるけれど、ひたすら科白と仕草を重視した。そこに狂言がある。とくに科白である。昔から「狂言は言葉でせよ」「狂言は言葉でする」と厳しく伝えられてきたように、科白こそが狂言の真髄になっている。だから東次郎は、狂言の本質が言霊にあるのだと強調する。
 狂言を言霊の芸能だと見ることによって、そこから科白の発声にも「型」があるのだという見方が積極的に出てくる。「型」は舞や仕草や節ばかりにあるのではない。能狂言の「型」はそもそもどこから出てくるかといえば、謡の文句から出てくる。すでに世阿弥の『花鏡』に「言葉より進みて風情の見ゆる」とあるように、そもそも申楽の真似の本質が謡の言葉を基礎にしていた。
 世阿弥はこのとき、謡曲の文句とぴったり同時に所作をしてはいけない、まして少しでも先んじてはいけないと戒めた。むしろ僅かに文句より遅れるように「先づ聞かせて後に見せよ」と言った。いわゆる「先聞後見」だ。今日でもちゃんとした能楽師たちはほぼ2字遅れで所作をする。言霊が2字遅れで所作になる。なんとも香ばしい。

 もうひとつ、東次郎が強調していることがある。能と狂言は自己否定から始まる芸術だということだ。そこはどんな他の芸能とも違っている。
 近頃は、能も狂言も観客に受けることを狙う舞台が多くなってきた。もってのほかであると、東次郎は怒っている。ある新作狂言の作者が「大笑いしたあとで観客にぞっとしてもらいたい、怖がらせたい」とインタビューで答えていた。しかしながら、本来の狂言は観客をぞっとさせたり怖がらせたりなどしないものなのだ。あえていうなら能狂言全200曲あまりのうち、たった1ヵ所だけ観客を驚かせてもよいところがあって、それは《釣狐》で猟師の伯父に化けた老狐が犬の遠吠えに肝をつぶす場面であるが、それ以外に観客を驚かせるつもりなど、まったくもってはいない。
 なぜそうなのかといえば、そこが能狂言のもつ「型」の意味であり、観客に対する「礼」というものなのだ。
 この「型」と「礼」は、そもそも能狂言が自己否定ともいうべき意識の行為を当初において済ませているからこそ成立するもので、観客が舞台側の出方に翻弄され「心あらざる状態」にならないようにしていることと深い関係がある。
 
 前著『狂言のすすめ』(玉川大学出版部)より、いっそう読ませた。前著はどちらかといえば入門篇であった。今度は一歩二歩三歩、分け入っての中級篇になっている。
 東次郎は今日の狂言ブームをよろこばない。むしろ狂言の本質の理解が遠ざかり始めていると見ている。まさにこうでなくてはならないと思うのだが、実はなかなかこういうことをはっきり言う能楽師や狂言師は少ない。とくに狂言は「笑いの芸能」だとみなされているので、ヨシモト万能時代のいまでは、狂言すらやたらにウケを気にするようになってしまった。東次郎は困ったことだと断ずる。
 しかしこれは、大蔵流中興の祖にあたる13代の大蔵虎明が、はやくも『わらんべ草』で警告していたことだった。「是世上にはやる、かぶきの中のだうけものと云也。能の狂言にあらず。狂言の狂言ともいひがたし、たとへ当世はやるとも此類ハ、狂言の病といにしへよりも云伝へ侍る」と警告していた。
 顔を歪め、目や口を広げ、異様な振舞で笑わせようとするのは、たとえ観客がよろこぼうとも見るに堪えないものだ。これは流行の歌舞伎の道化者というものであって、こんなものは能の狂言でもないし狂言の狂言でもない。それは狂言の病というものだと、そう書いた。いたずらな道化を戒めたのだ。
 いつの世にもこうした媚が流行するものだと同感するばかりだが、さすがに東次郎はこれを現在の狂言においても断固として拒否しつづけている。そしてむしろ少数でもいいから、狂言を深く感じる観客を育てたいと考えている。

 狂言というものは、人間の愚かさを厳しくも鋭く見つめる芸能だ。けれどもだからといって、この愚かさを糾弾し、暴露することはない。責任も追及しない。落語もそんなことはしない。落語はそこを「笑い」で包み、狂言はこの愚かさを「慈しみ」で包む。狂言も落語も、その愚かさに入っていける余地を上手につくっていく。
 だからこそここに媚があってはならないのである。むしろ、だからこそそこに「型」と「礼」を徹底させるべきなのだ。
 こういう態度をとりつづけるのは容易ではあるまい。やっと狂言がブームになってきて、寒い時代が終わったかのように見える時期、あえて厳しい狂言を見てほしいというのは勇気のいることだ。しかしながらまさにこの1点の突き放しと引きこもりこそが、日本の芸能の内奥を濃くするかどうかの分岐点なのである。ここは「少な少なに演じて」、観客に心を残すところなのだ。東次郎はそこに言霊の真の力と、そして能狂言にのみひそむ「別の力」を見ている。こんな体験談を書いている。
 
 東次郎が子供のころに金春の桜間弓川の《鉢木》を見たときのことである。シテの佐野源左衛門常世が旅の僧に宿を貸すことを断ったため、それを悔やんで雪の荒野を彷徨して旅の僧を呼び戻そうとする場面に惹きつけられた。弓川は桜間金太郎として知られた名人だ。
 このとき弓川は、つっと正先に出て、瞬きひとつせずじーっと正面から幕までを眺めまわすと、ぐっと見込んだ。それだけで舞台は夕暮れ迫る広大な雪原に転じた。ついでシテは遥か彼方に黒い一点となった僧を見つけ、あ、あそこにいる、よかったと安堵するのだが、ここで弓川は長袴の裾をさっと捌いたのである。雪原で長袴の裾を引きずって歩くはずがない。しかし弓川は客僧を呼び戻せること、2人がやがて出会えること、それを一面の白い世界でただ一人感じたこと、それらを袴の払いにこめたのだった。
 この一瞬、シテの心の演技は「虚」から「実」に変じ、観客はそこに「別の力」を感じることができたはずなのである。
 東次郎は、子供のときに感じた老体桜間弓川の謎のような演技を、のちにこのように回想して意味づけていた。そして、これを「すりかわり」と名付けた。雪原のもつエネルギーとシテのもつエネルギーとがすりかわる瞬間だとみなしたのである。
 この東次郎の指摘が、本書一等の白眉である。ぼくにはそのように感じられた。なるほど、このような人がいるのなら、まだ日本の芸能も持ちこたえられることになるだろう。東次郎はこんなふうに本書を結んでいる。伝統を守るというと、保守的で頑なな態度だと思われるでしょうが、「守る」ということは実は「攻める」よりずっと力がいることなのです。「攻め」は激しく高じることですが、「守り」はそれをしつづける持続です。辛いのは当たり前、そこに伝統があるのです。