才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

> アーカイブ

閉じる

評伝ヨーゼフ・ボイス

ハイナー・シュタッヘルハウス

美術出版社 1994

Heiner Stachelhaus
Joseph Beuys 1987
[訳]山本和弘
編集:伊藤憲夫・真壁佳織
装幀:中垣信夫・三橋薫

このところ日本の美術界でほとんどボイスのことが議論にならないようなので採り上げるのだが、この、20世紀中盤のアート・パフォーマンスのど真ん中を帽子とベストを脱ぐことなく走り抜けた男のことは、看過しないほうがいい。褒めすぎるのも蔑みすぎるのもどうかと思うけれど、ボイスが投げかけたものがプラマイ含めてかなり大きいので、それがほったらかしになっているのはよくない。

 このところ日本の美術界でほとんどボイスのことが議論にならないようなので採り上げるのだが、この、20世紀中盤のアート・パフォーマンスのど真ん中を帽子とベストを脱ぐことなく走り抜けた男のことは、看過しないほうがいい。褒めすぎるのも蔑みすぎるのもどうかと思うけれど、ボイスが投げかけたものがプラマイ含めてかなり大きいので、それがほったらかしになっているのはよくない。
 なぜ日本でボイスが議論にのぼらないかということについては、勝手に推測するのだが、あまり重要視しなくてもよい推察可能な理由が3つほどある。
 第1にアメリカのボイスに対するウケとコケに従いすぎた。ウォーホル(1122夜)がボイスの顔を刷り続けたように、日本はそういうアメリカン・ポップカルチャーの勢いのなかでのみボイスを眺めすぎたのである(おまけにデュシャンとの読みくらべができていなかった)。第2に1984年にボイスが初めて来日したとき、日本の美術批評家たちが大いに失望したのだが、その歩留まりを測りそこねた(「芸術新潮」は「嗚呼ボイス、来てしまったらタダの人」とタイトリングした)。第3にボイスが政治好きで、しかも選挙に出て落選したことをあまりにネガティブに捉えてきた(政治活動をするアーティストは日本ではとかく好まれない。黒川紀章は晩節を汚したと思われている)。

ミュンヘンでアンディ・ウォーホルと(1980年)
本書167ページより

ヨーゼフ・ボイス特集の美術手帖
1983年4月号/1992年4月号

 (1)アメリカがボイスをコケにしたというのは、もともとアメリカの現代美術界がドイツ嫌いであることとも関係する。
 美術界だけではない。アラン・ブルーム(1047夜)がそう言っていたように、アメリカは「ドイツ・コネクション」という名でカント・マルクス・ニーチェ・フロイト・ハイデガー・ウェーバーらのドイツ思想を警戒してきた国なのだ。だからドイツ嫌いは雰囲気としてはすでに蔓延していたのだが(ドイツの現代美術はキーファー、リヒターを含めてあまり浸水していない)、ボイスのほうもそんなアメリカに上陸するにあたっての作戦を過剰に、かつ挑発的にした。
 ボイスがアメリカを訪れたのは3度である。そのうち1974年5月の個展があまりに意図に富みすぎた。『私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』というタイトルも、この媚びと嫌味ではウケっこないだろうというものだった。
 ボイスは会場になったニューヨークのレネ・ブロック画廊でコヨーテのリトル・ジョンを檻に入れ、ウォール・ストリート・ジャーナルのその日の号を、会期中毎日25部ずつ二つの山に積み上げ、本人は茶色の手袋をして懐中電灯とステッキを持ち、やおらフェルトにくるまった。あとはコヨーテがフェルトの端を引きちぎっていくばかり。
 最終日、ボイスはフェルトにくるまったままま担架で救急車に運ばれて、そのままケネディ空港をあとにした。ニューヨークを一度も見ることなく、ドイツに帰っていったのだ。アメリカ美術界はかなりシラケた。
 もっともそれから5年後の1979年12月、グッゲンハイム美術館全館をみごとに費いきっての大展覧会(大回顧展)は、アメリカ美術界から相応の評価を受けた。

アクション「コヨーテ;私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」でのボイスとコヨーテ。
1974年5月21−25日、ニューヨーク。本書59ページより

「コヨーテ;私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」
一週間、フェルトや新聞、干し草の積まれたギャラリーの中にこもって、アメリカ先住民の聖なる動物・コヨーテとじゃれあったりにらみ合ったりするなど無言の対話を続けた。

 (2)70年代後半、日本でのボイスの噂はかなり沸騰しつつあった。そこへ来日が決まった。2度にわたる来日延期のあとだったので、1984年5月末のボイスの日本展はかなり期待膨らんでいた。西武美術館の「ヨーゼフ・ボイス展:芸術の原風景」は鳴り物入りで始まったのだ。西武は樫の木500本を用意し(2000万円くらい)、ボイスの「社会彫刻」が万全になることに応えようとした。森口陽が担当した。
 8日間の滞在で、和多利さん親子のワタリウムではオープニング前夜のレセプションが開かれ、ボイスは黒板作品9点残した。草月ホールではナムジュン・パイク(1103夜)との共演パフォーマンスがおこなわれ、ボイスはコヨーテの咆哮を1時間にわたってアクションした。芸大では学生との対話集会が開かれた。セディック周辺の泉秀樹・石原恒和・畠山直哉らは、ペヨトル工房の今野裕一君の求めに応じて8日間びったりビデオを回し続けた。泉君たちは当時ぼくが最も親しくしていた最新映像チームだった(「イメージの遊学」10回分→『花鳥風月の科学』を2台のビデオに収めたのも泉チームだった)。
 ところが評判はさんざんだったのである。赤瀬川原平は「見てはいけないものを見てしまった」と、海野弘は「ボイスそのものはつまらなかったが、ボイス現象はまことに面白かった」と、中沢新一(979夜)は「ボイスは日本人を高度産業社会のなかのテクノロジー人間としてしか理解していない」と詰(なじ)った。そして「芸術新潮」が「嗚呼ボイス、来てしまったらダダの人」だった。
 これで日本の美術界のボイス離れがすっかり端緒したようだ。ケチがついたのだ。もっとも、ぼくは西武にも草月にも行ったけれど、60年代にパイクや高橋悠治やオノ・ヨーコを見てきた者としては、この程度の裏切りと退屈と勘違いは(つまりはウケとコケは)、そのころの一連のジョーシキのうちに入るもので、とくに腹を立てるほどのものではなかった。あれが正真正銘のボイスなのだ。

草月ホールのパフォーマンスをとりあげた現代美術(1990)

 (3)ボイスの政治活動っぽい動向についてはあとでも触れるが、それはほとんど「国民投票による直接民主制のための組織」の設立と「創造性と学際的探求のための自由国際大学」の構想と運動に結び付いていた。
 なぜボイスがこのようなことを計画し、実行に移したかったのかということが少しはわからないと、ボイスが選挙に出て落ちたことは笑えない。たしかにボイスはカールスーエで開かれた「緑の党」設立集会に参加して強い賛同意志を表明すると、1979年には欧州議会選挙に緑の党から立候補、翌年も連邦議会に立候補したのだが、いずれも落選した。
 しかし、こうしたことは1967年の「ドイツ学生党」の結成のころから始動していたことで、1973年に設立された自由国際大学構想の拡張とともに語られるべきものである。
 とはいえボイスの活動には、いったいどこが政治だったのか、それとも政治芸術あるいは芸術政治という新たなジャンルの提案だったのか、区別がつかないところがある。ヨーゼフ・ボイスにあっては「つもり」と「ほんと」ははなっから混じりあっていたからだ。
 そうであるにもかかわらず、日本ではボイスの政治的に見える芸術性は賛同をまったく得られなかったのである。「自由国際大学」(FIU)の活動に賛同して、ボイス来日を期にFIU日本支部の設立に動いたのは、針生一郎や若江漢字らのごく少数のアーティストや批評家だけだった。
 が、だからといってボイスの政治芸術がその後の日本のアートシーンに少量のものしか分配できなかったかというと、そんなことはない。日本現代美術の大半のポリティークや「生-政治」らしきものは、ぼくが診るところ、その多くがボイスの傘の中に入ったままになっている。

自由国際大学(FIU)で講義するボイス(1977)

 本書は数あるボイスについての本のなかでは、最も詳細な評伝である。美術批評ではない。著者のハイナー・シュタッヘルハウスはできるかぎり片寄らない視点をもって(むろん美術史的好感をもって)、ボイスを浮き彫りにした。
 とくに飛び抜けた分析があるわけではないが、毀誉褒貶が激しいボイスをめぐる評伝として、この「詳細をきわめる」というやりかたはどうしても一度は必要なことだったろう。
 訳者の山本和弘は栃木県美のキュレーターだ。本書が訳されたのは1994年の冬だったから、いまから20年以上も前のことで、版元の美術出版社もすでにCCC(蔦屋)の傘下に入ってしまっている。ボイスについての噂も、世の中も、ずいぶん変わってしまったのだ。
 ま、こういうことは世の常である。それでも2009年10月末から3カ月、水戸芸術館の現代美術ギャラリーで、『ヨーゼフ・ボイスがいた8日間』という展示が開かれたのは画期的だった。高橋瑞木・門脇さや子・廣川隆史の企画によるもので、そのドキュメントは翌年まもなく『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)にまとまった。こちらは阿部謙一の配慮ある構成編集で、山本も「ヨーゼフ・ボイスのユートピア思想、あるいは総合芸術としての社会」を書いた。

本書への松岡のマーキング
いつにもまして豊かな書き込みが見返しておもしろい。

水戸芸術館『ヨーゼフ・ボイスがいた8日間』展 チラシ表裏
2009年10月〜2010年1月

水戸芸術館『ヨーゼフ・ボイスがいた8日間』展
『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)より

 が、水戸芸のエキジビジョンもほとんど話題にならなかったようだ。これでは、21世紀のアートシーンに向けてどのようにボイスを案内すれば効果的なのか、突破口(再評価のためのスコープ)が決めがたい。きっと小さなノズルから大きく噴き出させるのがいいだろう。
 そこで唐突ではあるが、ぼくはこの千夜千冊の一夜を、シュウゾウ・アヅチ・ガリバー(安土修三)に贈ることにした。ガリバーはぼくの長年の友人であるが、最初の最初から「デュシャンではないヨーゼフ・ボイス」をそうとうに意識していたし、そのさなかにドイツでの個展もくりかえし、コンティンジェンシー(別様の可能性)をガリバーなりに体現する作品をつくってきた。

シュウゾウ・アヅチ・ガリバー(安土修三)

シュウゾウ・アヅチ・ガリバー『こと・たま(その将来)』1400×1700mm(2016)
滋賀県大津市、石山寺「平成の御開帳扉記念」を機に描かれた襖絵。

 ヨーゼフ・ボイスは1921年5月12日、ドイツ北西部のクレーフェルトに生まれ、オランダ国境に近いクレーヴェで育った。ライン南畔だ。ドイツは第一次大戦の敗北と苦悩からやっと脱出しつつあったが、まだもがいていた。
 ギムナジウムに通いながら、生きものと白鳥伝説と英雄に興味もった少年だった。シカやウサギやヒツジと親しみ、プレスター・ジョンばりのチンギス・ハーンに憧れ、ワーグナー主義者ルートヴィヒ2世(781夜1600夜)同様の白鳥の騎士ローエングリンとの出会いを心に描いた。
 15歳になるとヒトラー・ユーゲントに加入する。のちにボイスは「誰もが教会に行くように、みんな行ったんだ」と弁解しているが、こんなことわざわざ抗弁することではない。大いに結構なことではないか。
 17歳の頃にはクレーヴェ在住の彫刻家モーアトガートのアトリエを頻繁に訪れて、ヴィルヘルム・レームブルックの彫刻カタログを見てどぎまぎした。何か根本的なものを感じたのだろう。坑夫の家に生まれたレームブルックの彫刻は、やがてボイスが標榜する「社会彫刻」(Soziale Plastik)の原点になったとともに、ぼくの見立てではその後のフェルト帽子をかぶってベストと作業服を着たがるボイスの職人っぽい姿のお手本だったように思う。
 そのうちデッサンをするようになっていた。幾つかのスケッチを見るかぎり、きっとへたくそだったのではないかと思う。ボイスは「描ける人」ではないはずだ。
 それより当時のボイスが、好んでゲーテ(970夜)やシラーの疾風怒濤力、ヘルダーリン(1200夜)の彷徨感覚、ノヴァーリス(132夜)の鉱山幻想、メーテルリンク(68夜)の『蜜蜂の生活』のソーシャル・リアリズムなどに惹かれていたこと、なかでもノルウェーのクヌート・ハムスンの詩やムンクの絵にぞっこんとなって、キルケゴールの人間哲学(絶望論)とシュタイナー(33夜)の人智学(希望論)に入れ込んだことが示唆的だ。音楽では、ヨハン・シュトラウスやエリック・サティが好きだったようだ。
 ようするにここまで、青少年ボイスはひたすらロマンチックきわまりないというだけなのだが(つまりはドイツ浪漫派の20世紀的な申し子なのだが)、そう感じるボイス自身はすこぶる技師的で、坑夫的だったのだ。

 1940年、召集令状がきた。空軍を志願し、ポーゼンの航空通信学校に配属された。さいわい教官がおもしろかった。20年後にはドイツの人気動物映画監督になっていたハインツ・ズィールマンである。
 ボイスはズィールマンの動植物についての博識とその視覚像の持ち方に目を見張っている。代表作『死んだウサギに絵を説明するには』(1965)など、そのころのズィールマンの熱弁そのままではなかったかと思う。ズィールマンはのちにボイスをコンラット・ローレツ(172夜)に引き合わせた。
 空軍を志願したわりに、ボイスはヒトラーの戦争には熱心ではなかった。急降下爆撃機の乗員訓練を受けたものの、一度不時着し、負傷して野戦病院におくられたのをきっかけに、ずるずるとした戦争体験をしただけだった。ただ、この一度の不時着がボイスに決定的な芸術的装備をもたらした。その芸術的装備というのはボイスの生涯のトレードマークとなった「フェルト」と「脂肪」だった。

 1943年の冬、ボイスはクリミア半島上空でソ連軍の戦闘機に出会ってこれを逃れるうちに墜落し、機体後部に挟まれて、体の各所を骨折して意識を失った。髪の毛は毛根まで焦げて(以来、ボイスの毛髪は限界状況然となる→それで帽子を愛用したのかもしれない)、頭蓋骨にもヒビが入った。
 そこへタタール人ががさしかかり、ボイスを近くのテントに運び込むと、傷口に動物性の脂肪を塗りたくり、フェルトに包んで介抱したのである。
 この体験がその後のボイスのインスタレーションに大量のフェルトや脂肪をリプレゼントさせることになった。それととともに、このこと(回復と蘇生)をもたらしたのがクリミアのタタール人だったという記憶を植え付けた。ボイスに遊牧民幻想が植え付けられたのだ(ところが、シュタッヘルハウスによるとタタール人が助けたという記録は見つからないそうで、これはボイスが作り上げた神話ではないかという)。

 ナチス・ドイツは敗戦した。ボイスには痛みがなかったのか、のっけからそっぽを向いていたのか(ノーマッドなので)、そこはわからないが、東西ドイツに分かれた戦後はさっさとデュッセルドルフ芸術アカデミーに通い始めた。アカデミーは彫刻家のエーヴァルト・マタレーが仕切っていた。
 マタレーはボイスが器具や部品をいじる手作業に長けていることを見抜いたようで、ケルン・ドームの門扉制作などを手伝わせた。ボイスはボイスでこの頃は十字架をいろいろ作っている。シュタッヘルハウスはライン下流のカトリシズムの象徴性に関心があったせいではないかと推理する。
 デュッセルドルフの芸術アカデミーに学んでいたのは1947年から1951年までのことなのだが、この時期、ボイスはかなりシュタイナーに傾倒した。すでにシュタイナーは死んでいたが、1919年にシュトゥットガルトで最初のヴァルドルフ学園を立ち上げたのを皮切りに、神学・教育学のゼミナールと音響オイリュトミーと治療オイリュトミーの連続講座を開催し、キリスト教共同体や人智学教会が作動して、「精神科学のための自由大学」の設立にまで至っていた。
 ボイスはこの一連のシュタイナーの果敢な行為にそうとう感化されている。とくに、のちにボイスが創立をめざした「自由国際大学」構想はシュタイナーの自由大学とそっくりである。

 1950年代に入ると、ボイスの関心は神秘主義めくとともに、物語の多重性や言語の多音節性に向かっていった。ジェイムズ・ジョイスの読書会に通って、『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』に没頭したり、薔薇十字の運動に感染して秘密結社の可能性を思い描いている。
 ジョイスについては、『ユリシーズ』を2章ぶん追加するための言語的彫刻を志してドローイングを試みた。薔薇十字については、イヴ・クラインに対するオマージュが奇っ怪だ。クラインはカリフォルニア薔薇十字会のサンホセ支部の連絡会員でもあったのだが、ボイスは34歳で夭折したそのクラインに、「イヴ・クラインの臨終のデモンストレーション」(1962)という大きなドローイングを献上した。
 シュタイナー、ジョイス、薔薇十字、秘密結社、イヴ・クライン。いったいこの連鎖によってボイスは何を仕出かそうとしていたのか。これから始まるボイスのアートワークがいかに超常的で大衆理解から遠いものであるかを、とはいえその行為は心の病いを浄化したいという深刻な思いにもとづいているであろうことを、そのくせそのように徹することが神智も人知を驚かせたいものでもあったということを、予告していたのだ。

 ボイスの心を奪っていたものに、もうひとつ、動物たちがいた。なかでもウサギ、シカ、大鹿、ヒツジ、蜜蜂、オオカミ、白鳥は、ボイスのトーテムになっていく。
 ミュンヘンのボイス研究者であるアルミン・ツヴァイテのお見立てでは、シカはタナトス(死)の象徴だったようで、ボイスは作品にも「血まみれの鹿」「傷ついた鹿」「死せる鹿と月」「鹿の骨の上の死せる人」「死せる大鹿」といったタイトルを好んで付けた。
 ウサギはなぜだかボイス自身のことらしい。ぼくにはその気分がさっぱりわからないが、ボイスは「私は人間などではない。私はウサギなのだ」「私は実は好色なウサギである」を口癖にしていた。ウサギは神話図像学的には受肉のシンボルであるが、そのこととも関係があるのだろう。早くに『ウサギの墓』(1962~1967)という作品をつくっていた。車好きのボイスが乗り回していたベントレーのボンネットのマスコットもウサギだった。
 蜜蜂についてはいろいろ書いている。こちらは、よくわかる。メーテルリンクの影響が大きかったのだろうけれど、シュタイナーが蜜蜂を神聖視していたことや、蜜蜂と花の関係にひそむ「静かな熱性」のようなものがはたらいていたのだと思う。『作業場の蜂蜜ポンプ』(1977)などを見ると、ボイスにとっての蜜蜂はありきたりではあるけれど、「芸術的に拡張すべき社会彫刻」そのものだったのだろう。

『鹿狩りの情景』の部分(1961)と、鹿のドローイング

 1961年、ボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科の教授になった。かつてのボスのマタレーはボイスのその後の言動に当惑していた。そこで、ことあるごとに「あの狂った男を決して教授にしてはいけない」と言っていたらしい。ところが、満票で推挙されたのだ。
 意外な展開だったものの、ボイスは大いに張り切って学内でさまざまなパフォーマンスを試すとともに、人間教育が芸術によってこそなされるべきだということに、異常なほどの情熱を注いだ。そこには「芸術を拡張する」と「社会を彫刻する」という信念があった。
 ボイスが選んだ芸術にふさわしいもの、それは例のクリミア体験にもとずく脂肪とフェルトだった。脂肪は熱によって加工しやすく、完全に溶解させることができる。なにより脂肪は「存在」の構成する流動体そのものだ。1963年にケルンでアラン・カプローが講演したとき(カプローはハプニングアートの代表的メッセンジャー)、ボイスは「脂肪は分散されたカオスをつくり、エネルギーをも拡散した形態から別のフォルムへと至らせる道をとる」という主旨を樹立した。こうして、かの最も有名な作品『脂肪の椅子』(1964)がつくられた。
 フェルトのことは言うまでもない。フェルトは脂肪としての人間存在を直立二足歩行このかた包んできたものであり、その柔らかくて皮膜力をもつ形態自体が存在の代行物だった。ボイスにとって世界はフェルトによって守られ、フェルトによって世界を隔絶できた。

 ボイスの拡張芸術や社会彫刻のアイディアが、そのころまだ存命中で、いったいどんなことを最後に発表するのかという謎の沈黙のうちにいたマルセル・デュシャン(57夜)の作品行動に、かなりのインスピレーションを得たであろこうことは、むろん言うを俟たない(デュシャンは81歳で1968年に亡くなった)。しかしそのくせ、ボイスはつねに対抗デュシャンであろうとした。
 1964年11月のデュッセルドルフの生中継スタジオで、ボイスは「マルセル・デュシャンの沈黙は過大に評価されている」というタイトルのアクションを見せた。フェルトと脂肪をつかって、自分の眼の動きを変化させていくという引き算めいたパフォーマンスだった。その後もボイスは「デュシャンはアタマで考えているにすぎない」と言っていた。
 かくてボイスはボイス自身の表象範疇を追い込んでしまったのである。対抗デュシャンとしての自身過剰など、わざわざ見せる必要がなかったのかもしれず、そのほうがラクだったはずだが、しかしこれによってボイス自身は起爆した。
 これで、何もかもが停まらなくなった。誰もが呆れるほどの、あるいは度肝を抜かれるほどのアートワークを、このあと嵐のように連打していくことになる。

 ボイスが「フルクサス」に接近した表明は、ナムジュン・パイクとの接触が始まっていた1962年の『大地のピアノ』のコンセプトに示されていた。
 フルクサス(Fluxus)はパイクの柔らかくてラディカルきわまりない八面六臂を縫い糸に、ヴォルフ・フォステル、エメット・ウィリアムズ、ディック・ヒギンズ、ダニエル・シュペーリ、ジョージ・マチューナス、ロバート・ワッツらがくんずほぐれつ、すこぶる多感多様なパフォーマンス集団として世間を騒がせていた。ジョン・ケージやラ・モンテ・ヤングはその渦中を何度も出入りした。草間彌生やオノ・ヨーコもその飛沫を浴びて登場していった。
 フルクサスについては書きたいことがいろいろあるが、今夜はガリバーに向けているから、遠慮する。遊牧的定住を実践しつづけたパイクが図抜けていたこと、早くからドローンに徹したラ・モンテ・ヤングが十二音技法を背景に、フィリップ・グラスやスティーブ・ライヒやテリー・ライリーを先駆していた天才だったことのみを告げておく。

 ボイスがフルクサスのメンバーをデュッセルドルフの芸術アカデミーに招いてコンサートを開いたのは1963年の2月初旬のことだ。ここでボイスは初めて死んだウサギを登場させた。
 「シベリア交響曲」の第1楽章を即興演奏し、黒板にウサギを吊るし、小さな粘土のかたまりでピアノをプリペアドして、小枝をそこに突き刺すと、ピアノからのびた一本の導線をウサギに括って、その心臓を抉り出したのだ。強烈だった。
 美術史上、こんなことをした男はいなかった。匹敵できそうなのは同時代ならおそらくアレハンドロ・ホドロフスキー(1505夜)だったろうが、ホドロフスキーはボイスのように孤戦的ではなく、のっけから集合知だったし、映像的だった。
 翌年7月には、アーヘン工科大学の新芸術フェスティバルで「アクション/アジテーションポップ/デコラージュ/ハプニング/イベント/反芸術/反対主義/総合芸術/再フルクサス」と銘打った空間で、『脂肪角』『茶色の十字架』『アコペー・ナイン』といった作品をデモンストレーションするとともに、ピアノ蓋を持ち上げて石鹸を中にふりかけ、鍵盤をかき鳴らし、さまざまなゴミをピアノに詰め込んでみせた。
 12月のベルリンのレネ・ブロック画廊ではロバート・モリスと組んで『ボス・フルクサスの歌』を披露した。ボイスはマーガリンでできた細長い脂肪の錐がおかれた部屋でフェルトにくるまって、不規則なマイクとアンプから喉声・呼吸音・溜息・口笛を放出した(レネ・ブロックはその後のボイス作品の代表的コレクター)。

 連打はとまらない。1965年6月にはヴッパタールのパルナス画廊に、パイク、エカート・ラーン、トーマス・シュミット、フォステル、シャルロッテ・モーアマンらが集まって、めいめい勝手なことを見せた。
 フォステルは古い洗濯機をガタガタ回しながら有刺鉄線を張りめぐらし、パイクは廃棄物でできたロボットを操縦し(これがダントツだった)、ラーンはコントラバスを弾きながら拡声器で怒鳴り、モーアマンはポリ袋の中でチェロを弾き(のちに小杉武久が同様の演奏をしたとき、ぼくは一緒に袋の中に招き入れられた)、ボイスはほぼ一日中、蜜柑箱の上に座って脂肪彫刻を見回した。
 こうしたあげく、ボイスは「現代の最も偉大な作曲家はサリドマイド児だ」というような言わずもがなの暴言を、大真面目に放つことになる。

 フルクサスとボイスの傍若無人な席巻で、各国の美術界はひそひそ話をするようになった。しかし、いくらひそひそ話をしても埒はあかない。芸術が放埒きわまりないものになりつつあるのか、道化とギャングは美術会場で同義語になるのか、何かが致し方ないことがおこっているのか、デュシャン解釈の取り違えがおこっているのか、誰もわからなかったからだ。
 ボイスはボイスで、そうした周囲の反響をまったく意に介さない。反論もしない。ふらっとフルクサスから離れると、作曲家のヘニンク・クリスティアンゼンとのコラボに集中していった。

 ダルムシュタットの画廊での『脂肪空間』(1967)は10時間に及んだ。
 マーガリン塁をめぐらしたギャラリーで、クリスティアンゼンが4つのテープレコーダーで音と言葉の断片操作をすると、ボイスは脂肪のかたまりに噛みついてはそれを体に押し付けたり、床に並べていった。ウィーンの画廊でのシリーズのひとつ『ユーラシアの杖』(1967)では、クリスティアンゼンがオルガンを弾いているなか、ボイスは重さ50キロ近い3メートル半ほどの長い銅の杖をつかって脂肪をゆっくり操作し、ついでフェルトを空間の隙間に押し込んでいくと、床に「イメージの頭脳、運動の頭脳、運動する絶縁体」と書き込んだ。
 メンヘングラートバッハ市立美術館でのタイトルは『あるいは私たちはそれを変革すべぎだろうか?』(1969)というものだった。ボイスが咳止めシロップと点鼻薬を投じながらピアノを、クリスティアンゼンがパイプを吸いながらヴァイオリンを弾いた。「音響は彫刻であり、彫刻は聴くことができる」とボイスは嘯いて憚らなかった。
 フランクフルトの舞台芸術アカデミーの『エクスペリメンタ3』(1969)では、舞台に一頭の白馬がつながれて干し草をむしゃむしゃ食べていた。毛皮のロングコートを着たボイスは、馬の前でマイク・砂糖・マーガリン・鉄のかけら・シンバルでアクションをして、ゲーテの戯曲『タウリスのイフィゲニー』を引用していった。

 ボイスが何をしたかったのかと問うのはかなり野暮である。観客が見た通りのことをしただけだ。風変わりで落ち着かない構成で、誰もが息が詰まるような、耐えられないようなことしかしていない。むろん似たようなパォーマンスもあったし、しばしば新たな記号消費が付加されていもいた。
 ボイスのアクションやパフォーマンスをいくら文章で説明したって、きっと何も伝わらない。それこそ野暮だ。1970年のエディンバラ芸術大学での『ケルティック・スコットランド交響曲』と翌年のバーゼルでの『ケルティック+』がざっとは以下のようなものだったということを示して、あの、どうにもボイス流としか呼ぶしかないアレゴリカルな断続的表現力についての説明を打ち切りたい。

 そこには、カセットレコーダー、テープデッキ、フィルム、映写機、ピアノ、マイク、槍、ステッキ、銀の盆、黒板、梯子、ゼラチンが散乱しているのである。けれどもピアノの音は録音機から出力され、槍の先端は血液じみた赤い糸が垂れていなければならない。ボイスは黒板に神話っぽいダイヤグラムを描き、その黒板をステッキで押し回したのである。
 そこへ、かつての『ユーラシアの杖』のフィルムやアルトゥール・ケプト制作の『ラノッホ湿原』がプロジェクトされて、時間や空間が互いに歪みながら交錯する。そうするとボイスは梯子をのぼり、壁を引っ掻き、ゼラチンが山になっていく。もちろん、某かの破片たちは銀の盆に盛られていきたい。
 客たちの7人の足は洗われるべきであった。洗足式である。儀式はボイスの「もどき」なのである。しかも何かがおこれば、何かは「反対イメージ」(Gegeenbild)に転化されるべきだった。アクションはことごとくアンチ・アクションを喚起した。エリアーデ(1002夜)ではないが、ボイスは「反対の一致」こそが芸術的象徴力を強化すると読んでいた。
 ともかくも、こういうアクションやパフォーマンスが連打され、観客を呆れさせ、批評界を分断させてきたのである。そんなことを連打しつづけたボイスにはなんら戸惑いがなく、そのすべてはドイツ魂の理想に燃えているのだと確信していた。

 70年代に入ると、ボイスの活動は少しずつユートピックになっていく。政治性を帯び、社会モデルの実験に奔走し、そのうえ義憤を抑えきれず、過激になりつつあるようにも見えた。
 そうなっていったについては、あきらかなきっかけがあった。1967年6月にイラン国王(シャー)のドイツ訪問に抗議したベルリンの学生の一人が射殺されたとき、ドイツ学生党を結成していたのだ。
 ドイツ学生党の活動はボイスが教授をするデュッセルドルフ芸術アカデミーでこそ開花すべきものだったが、多くの抵抗にあってうまく進捗しなかった。それでも、ボイスは人後に落ちない根気強さをもって、大学の中に自治の拠点をつくる目標に向かって情熱をたぎらせ、この実現に邁進していった。
 1971年7月、次の冬期ゼメスターに志願した232人の入学希望者のうちの142人が落とされるという事態がおこった。ボイスはただちにこの志願者たちを自分のクラスで受け入れると宣言する。むろんアカデミー側はこれを違法とみなし、ボイスの信任取り消しに動いた。10月、ボイスが志願者の17人とともに事務局を占拠したところ、教授会は17人の追加入学を決議した。この動向に苦虫をつぶしたドイツ学術研究省の大臣は、ボイスがさらにこのようなことを続けるならば断固たる処置をするという書簡をボイスに送り付けた、

 ボイスが怯むはずはなかった。翌年10月、またまた志願者が落とされたとき、54人の志願生と数人の学生とともに、再びアカデミー事務局を占拠した。
 しかしすったもんだのすえ、今度は占拠中のボイスに解雇通知が下された。翌朝には警察が導入され、このときの30人の警官に挟まれアカデミーを出ていくボイスの写真は、ボイス手書きの「民主主義は愉快だ」の書き込みとともにマルティプル作品として出回った。飛ぶように売れた。
 係争中の「国家とは戦わざるをえない怪物なのです。私はこの国家という怪物を叩きつぶす使命を負っているのです」というボイスの言葉も、世界を駆け巡った。
 その直後である。多くのアーティストからボイス解雇に反対する抗議声明が出された。ハインリッヒ・ベル、ペーター・ハントケ、ジム・ダイン、リチャード・ハミルトン、ゲルハルト・リヒターといった錚々たる顔触れが署名した公開書簡が発表され、ヘンリー・ムーアは本気で怒りを表明した。ギャラリストであるルチオ・アメリオは「私たちはヨーゼフ・ボイスの解雇通知を全ヨーロッパのアヴァンギャルドの解雇と考えている」という泣かせる声明を出した。
 この抗争はけっこう長引いたが、1978年4月にカッセルの連邦労働裁判所によって違法判決が出て、無罪となったボイスは断乎とした意志でさらに次の活動に展出していった。

ボイス「民主主義は愉快だ」(1972)
1972年、政治色を増し、デュッセルドルフ芸術アカデミーを解雇されたボイスが学校を引き上げる様子。写真の上に「民主主義は愉快だ」とペン書きした。

 ボイスはどこから政治的に、いや政治芸術的になっていったのか。1967年の「ドイツ学生党」の結成や、1970年3月2日の200人の参加者を集めて「非有権者と自由国民投票組織の情報センター」をデュッセルドルフの古い店舗の中に設立したあたりだろうか。
 どうであれ、1970年6月のノルトライン=ウェストファーレン州議会選挙に投票拒否を呼びかけ、71年にデュッセルドルフで「国民投票による直接民主制のための組織(自由市民運動)」を立ち上げたときは、もうのっぴきならなくなっていた。ボイスは出撃しつづける。本書はこの時期、ボイスが再びシュタイナーの「精神の自由/権利の平等/経済の博愛」にどっぷり浸かっていたことを報告している。
 だとすると、ボイスは政党活動などする気はなかったのである。「政治という芸術」や「自由意志という社会彫刻」の制作に乗り出したのだ。
 ただし、いささかセンセーショナルな制作だった。74年10月3日の連邦議会選挙では、ボイスの写真が載っている自主ドイツ行動隊(AUD)のビラがまかれ、そこには「最終的に新たなものを選択せよ! 自由な文化を創造せよ! 自由な国民大学を設立せよ! 連邦議会の半分を女性議員にせよ!」といったスローガンが並んでいた。

 こうして1979年、ボイスは「緑の党」の候補者となり、落選し、それを繰り返したのである。緑の党のルーカス・ベックマンはやや控えめながら「ボイスは議会政治に向いていない」と言った。ここでボイスは一転して「自由国際大学」(FIU)の設立に向かって舵を切っていく。
 FIAはボイスの人間教育に向けた頽固で真摯な理念に裏付けられていた。ゲーテやシュタイナーにも支えられ、ボイスはどこででもFIAが発動しうることを説いた。その情熱にはほとほと感心させられる。それが芸術行為と憎々しいほどに重なっていったことにも、共感はないけれど、感心させられる。たとえばカッセルのドクメンタ6で発表された『作業場の蜜蜂ポンプ』(1977)はFIA活動の代弁になっていた。

 ボイスの芸術経済学についても、一言加えておく。芸術経済学はジョン・ラスキン(1045夜)の提案以降、ずうっと埃をかぶっていたものだ。
 ボイスはコレクターのカール・シュトレーアとともにこの埃を振り払い、ボイスの作品群を「ブロック・ボイス」というしくみに分割統治する方法を思いつき、いまでは「協定書」として有名になったマスタープログラムをつくった。
 この卓抜なアイディアに、こんなに早くに着手したことには舌を巻く。おそらくボイスは貨幣経済と芸術取引とがこのまま美術市場のなかで塗(まみ)れていくことを潔しとしなかったのである。カール・ポランニー(151夜)の経済人類学とまではいかないが、またとくに知的な構想で理論化されているふしも見えないのだけれど、ボイスはへっちゃらに芸術経済学を実施していったのだ。シュトレーアもよくそれに応えた。
 きっとシルビオ・ゲゼル(1379夜)の自由地・自由貨幣・自然的経済秩序の提案やミヒャエル・エンデ(1377夜)の通貨改革案などが降臨していたのだろうと思う。

ボイス(画面右)とカール・シュトレーア(画面中央)
ドイツの実業家カール・シュトレーア(Karl STROHER 1890-1977)が、収集した作品群を、「ブロック・ボイス」としてヘッセン州立美術館に収蔵。そのコレクションは1984年まで拡張し続けたという。

(左)ミヒャエル・エンデと(右)『モモ』

 ヨーゼフ・ボイス。なぜか、いまなお徹底言及が避けられてきた男だ。あまりに現代美術の多様な入口を開いてしまったからだろう。ピアノをすっかりフェルトで包んだ『グランドピアノのための等質浸潤』(1966)など、20世紀後半美術をあきらかに先駆した。ともかくも、かなり現代美術の入口を仕掛けた。出口は用意しなかった。
 ただ、発言はありきたりだった。社会彫刻とはいえ、どう見てもフィヒテ(390夜)やシュタイナーを一歩も出なかった。そのせいか、ボイスをめぐる本にはめぼしいものがない。本書のほかには洋書を除くと、エンデと対談をしている『芸術と政治をめぐる対話』(岩波書店)、菅原敦夫(1037夜)の『ボイスから始まる』(五柳書院)、若江漢字と酒井忠康の『ヨーゼフ・ボイスの足型』(みすず書房)、水戸芸術館現代美術センターの『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)、三本松倫代らが共著した『ヨーゼフ・ボイス ハイパーテクストとしての芸術』(慶応義塾大学アートセンター)などがある。
 ボイス自身の著作はない。おそらく書けなかった男だったのだろうと思う。
 なかで菅原のものは「ボイスという難問」をよくぞ料理した力作である。日本人の著作としては唯一傑出する。若江のものは若江漢字が実際にボイスの足型をドイツのアトリエに出掛けて、鋳込みにいった経過とともに、ボイス賛歌が綴られたものである。
 水戸芸のドキュメント本についてはすでに紹介したが、仲正昌樹(1375夜)、レネ・ブロック、椿昇、坂本龍一、若江漢字、山本和弘、オイゲン・ブルーメ、高橋瑞木、泉秀樹らの声がオマージュふうに寄せられている。

 ボイスはデュシャン以降の美術界に、初めて社会寓意の魔術がアートワークになりうることを徹底して見せたソーシャル・アレゴリーのアーティストだった。数々の事件と事故をおこしたとも言えるけれど、いまはその衝撃が薄れきっている。
 世の中が首尾一貫ばかりを相互ルールにするようになったからだ。そのくせシミュラークルと紛いものばかりを芸術芸能化することで済ませているからだ。ボイスの「擬像力」が愉快に交わせるには、まだ当分の日月が必要である。一人、ガリバーだけがその消息を食べ尽くしてきた。
 ところで、今夜の千夜千冊の図版を寺平賢司や榊原ひかりとともに担当した仁禮洋子は、ニューヨークの“Parsons School of Design”の出身であるが、そのエントランスホールにはボイスの立像写真が飾られてたらしい。それもボイスだけ・・・。

⊕ 評伝 ヨーゼフ・ボイス ⊕

∈ 著者:ハイナー・シュタッヘルハウス
∈ 訳者:山本和弘
∈ 発行者:大下敦
∈ 発行所:株式会社美術出版社
∈ 印刷+製本:大同印刷株式会社
∈ 写真植字:株式会社ユトリ・アル/株式会社モリヤマ
∈ 装幀デザイン:中垣信夫+三橋薫

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はじめに

∈  第一章 生いたち
∈  第二章 戦争
∈  第三章 研究―エーヴァルト・マタレー
∈  第四章 不安―ルドルフ・シュタイナー
∈  第五章 ファン・デア・グリンテン兄弟
∈  第六章 憂鬱
∈  第七章 動物たち
∈  第八章 ふたつの教義と脂肪とフェルト
∈  第九章 教師
∈  第十章 解雇
∈  第十一章 政治家、そして[自由国際大学]
∈  第十二章 アクション
∈  第十三章 インスタレーション
∈  第十四章 イタリアで、そしてアメリカで
∈  第十五章 ダルムシュタットのブロック=ボイス
∈  第十六章 家路
∈  第十七章 レクイエム

∈∈ あとがき
∈∈ 年譜
∈∈ 索引

⊕ 著者略歴 ⊕
ハイナー・シュタッヘルハウス
1930年生まれのジャーナリストおよび編集者。1977-1979年にエッセン大学において「現代美術」と「美術と社会」で教鞭をとる。国際美術批評家連盟(AICA)連邦共和国支部会員、芸術私案(PIK)の創立者および役員。二十世紀美術に関する著書・論文多数。