石弘之
感染症の世界史
人類と病気の果てしない戦い
洋泉社 2014
ISBN:4800305543
編集:藤原清貴・喜名景一郎 協力:脇山真木 装幀:黒岩二三
ウイルスが感染症をおこすのは、ウイルスがモドキであるからだ。自分のコピーをつくりたいくせにタンパク質合成に必要な遺伝情報や酵素をもたず、宿主細胞のものを借りて、自己複製や自己組織化をする。この「ちゃっかり」のメカニズムは、まだ十全には解けてはいない。

 ぼくの肺の中にはざっと一七〇種のウイルスや細菌が棲みついている。まとめて常在菌という。ぞっとする。肺だけではない。人体のどこにもいる。
 ブラウン大学のスーザン・ヒューズが数え上げたところ、舌の両側に七九四七個、口腔に四一五四個、耳の裏側に二三五九、大腸に三万三六二七の常在菌がいた。この調子で数え上げると、総数で数百兆個になる。細胞の十倍以上いる。総重量は約一三〇〇グラムあったというから、これは脳くらいの重さになっている。

 常在菌として、このところ日本で話題になっているのがピロリ菌だ。医療ニュースでは「日本人最大の感染症」と言われた。日本人にはピロリ菌の保菌者がかなり多かったのである。
 意外だったのは、塩酸いっぱいの強酸性の胃にはどんな細菌もとても棲めないと思われていたのに、そうではなかったということだ。ピロリ菌は胃の粘膜の中にいた。ヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)という正式名がある。ヘリコはヘリコプターと同じ語源で「螺旋」のことを、バクターは「細菌」を、ピロリは胃の出口の「幽門」をさす。捩れた形状で四~八本の鞭毛をもつ。一九八四年に西オーストラリア大学のロビン・ウォーレンとバリー・マーシャルがピロリ菌こそが胃癌の引き金の正体だということをつきとめた(二〇〇五年にノーベル賞をもらった)。
 ぼくが胃癌を疑われたとき、中目黒の森センセイはひょっとするとピロリ菌のせいかもしれないと推定し、のちに築地の国立がんセンターで調べたところ、おそらく中学生のころからいたんじゃないかと言われた。ぞっとした。かつては世界中の大半の胃の中にピロリ菌がいたらしい。いまでも人口の半数の胃の中にいる。ということは、ピロリ菌の移動の歴史と文明の伝搬には関係があるともくされる。

ピロリ菌
ピロリ菌は、らせん形をした細菌で、胃の粘膜に生息している。胃炎や胃潰瘍などの胃の病気に深く関っていることが明らかにされてきている。

 生物は自分の遺伝子をコピーして子孫を残そうとする。そのプロセスでコピーミスが生じ、さまざまな突然変異がおこる。その残痕は次々に蓄積されていく。遺伝子は「進化の化石」なのである。
 遺伝子の変異がどのようにおこるかということを一定の時間で割り振って、同じ祖先をもつ生物種がどのように分岐していったかを調べることができる。ものさしは分子時計にもとづく。
 ある遺伝子が一〇万年に一個の割合で変異しているとすると、二つの種の遺伝子に五〇個ほどのちがいがあれば、この元の遺伝子は五〇〇万年前に分岐したことになる。こういう具合に分子時計による計算を詰めていくと、人類は四八七万年前にチンパンジーと共通の祖先から分かれたと推定できる。
 マックス・プランク研究所が胃の中に棲みついたピロリ菌の遺伝子を分子時計で調べてみると、東アフリカからの距離が遠くなるにしたがってピロリ菌の数が減少していくことがわかった。ピロリ菌の先祖は人類の胃袋とともに、アフリカを旅立ち、中央アジアや東アジアをへて日本にやってきたのである。いまでは七種のピロリ菌の遺伝子型が発見されている。
 日本人のピロリ菌は第七種で、中国、韓国、台湾先住民、南太平洋、北米先住民と同じものに属する。ピロリ菌人類学だ。しかし、なかでも日本人にピロリ菌が多く、胃癌の発生率と重なる傾向を見せていることについては、いまのところ多様な要因がからんでいるせいで、その理由ははっきりしていない。ぼくの場合は人類学とカンケーなく、喫煙常習性、ピロリ菌保菌、不節制な生活、偏った食事習慣などが重なり、細胞が変異して胃癌になったのだろう。

ピロリ菌の拡散地図

 ポール・フォーコウスキーの『微生物が地球をつくった』(青土社)が鮮やかに描いたように、環境も地球も生物も、そしてわれわれも、微生物で成り立っている。ぼくはニトロゲナーゼとルビスコの役割に驚嘆した。
 そんな微生物のなかで、これまで約五四〇〇種のウイルスと約六八〇〇種の細菌(バクテリア)が発見されてきた。びっくりするのはウイルスの種類がとてつもなく多いということだ。コロンビア大学のスティーブン・モースによると、まだ見つかっていないウイルスの存在数を予想すると三六〇万種になるのではないかという。

 細菌(真性細菌 bacteria)はれっきとした生物である。大腸菌・枯草菌・シアノバクテリアを含み、地球中のどこででも活躍して、広範囲の生物圏の底辺を支えてきた。光合成や窒素固定も細菌がいなければおこらなかった。ウイルスはどうか。
 細菌たちの三〇分の一のサイズしかないウイルス(virus)は、生きものとしては極小の存在者たちではあるが、実は生物の条件を満たしてはいない。生物の最低の条件は、わかりやすくいえば、①遺伝子をもっている、②細胞がある、③代謝エネルギーを生成する、④自己複製できる、という四つにあるだろうが、ウイルスは遺伝子をもつものの細胞がなく、自律的には複製できないし、代謝エネルギーももっていない。それでも「生きている」。
 ウイルスは生物ではなく、生物モドキなのである。生物モドキであるウイルスは、しかしながら生物の細胞を利用して自己複製をする。つまり増殖できる。他動的なのだ。これがなんとも微妙だ。
 増殖は「細胞表面への吸着→細胞内への侵入→脱殻→部品の合成→部品の集合→感染細胞からの放出」というふうに進むのだが、このプロセスのなかで、細胞はウイルスに感染した状態になり、われわれは感染症(infectious disease)に冒される。麻疹もインフルエンザもエイズもウイルスによる感染症である。

人獣共通感染症の脅威
科学技術白書より

 ウイルスが感染症をおこすのは、ウイルスがモドキであるからだ。自分のコピーをつくりたいくせにタンパク質合成に必要な遺伝情報や酵素をもたず、宿主細胞のものを借りて、自己複製や自己組織化をする。この「ちゃっかり」のメカニズムは、まだ十全には解けていない。
 そもそもウイルスの基本構造は粒子っぽい。粒子の中心にウイルス核酸があり、それをとりかこんでカプシド(capsid)というタンパク質の殻がある。カプシドとエンベロープ(envelope)の二重殻になっているものもある。
 おまけにウイルス殻はRNAかDNAかのどちらかしか含まない。通常の生物は一個の細胞にRNAとDNAの両方を含むのに、ウイルスは片方しかもたない。RNAウイルスかDNAウイルスしか、ない。それでどうするかというと、カプシドはウイルスが細胞に侵入したのちに壊れて脱殻し、あとは宿主の細胞のもつタンパク質合成機構や代謝力を利用する。「ちゃっかり」かつ「ハッキング」なのだ。
 ウイルスがどのように標的の細胞を感染させるのかは、宿主細胞の表面に露出しているレセプター(標的分子)に出会えるかどうかで決まる。この決まり方に感染症という事態が蔓延する最初の要因がある。

ウイルスの模式図
『ウイルスと感染のしくみ』p119

 感染症とは、医学的には寄生虫・細菌・真菌・ウイルス・異常プリオンなどの病原体(pathogen)によって、宿主(host)に生じる「望ましくない反応」(症状)の総称だ。「望ましくない反応」は人体のどこにでもおこる。
 ごく一部をあげても、脳(髄膜炎・脳炎)、顔(鼻炎・咽頭炎・喉頭炎)、肺・気管支(肺炎・気管支炎・結核)、心臓(心内膜炎・心筋炎・大動脈炎・敗血症)、消化器(胆囊炎・肝炎・胃炎・胃潰瘍・腸炎・虫垂炎・クラミジア肝炎)、泌尿器(腎盂炎・膀胱炎・前立腺炎・膣炎)、皮膚(蜂窩織炎・脂肪織炎・ガス壊疽・とびひ・せつ・よう・ブドウ球菌性傷様皮膚症候群・帯状疱疹・水痘・麻疹・風疹・疥癬)など、膨大だ。これでは感染症という名称は広範になりすぎていると思うのだが、いまのところそうなっている。

WHOが注意喚起する感染症

 本書は石弘之さんによるダイナミックな感染症案内記である。感染症に関する本はゴマンとあるけれど、とてもいい本だ。
 石さんはぼくが初めてお会いした頃はまだ朝日新聞の編集委員をしていて、その精力的な活動範囲で、多くの人脈ネットワークの雄弁なハブになっていた。その後はもっと大事なハブになられただろう。著書も多く、新聞記者時代に鍛えた文章もうまい。かなり自在に文章を書く。
 とくに『地球環境報告』1・2(岩波新書)は画期的だった。最初に読んだときはかなり衝撃を受けた。歪みながら腐食しつつあるリアルな地球像の実情を突きつけられた。ぼくは湯浅赳男・安田喜憲さんと自在に語りあっていた『環境と文明の世界史』(洋泉社)も愛読した。これもたいへん仮説に富んでいた。意外な名著に『鉄条網の歴史』(洋泉社)などもある。
 石さんはずっと「文明」とは何かを考えてきた人だ。本書も、文明の伝搬にあたっては農耕・道具・言語・技術・神話・音楽・信仰・武器・服飾などとともに、ネズミ・ダニ・ゴキブリ・ノミ・カ・シラミ・寄生虫たちがいたこと、膨大な細菌・ウイルス・原虫・カビなどこそが猛威をふるうグローバライザーであったことをくりかえし訴えて、病原性の微生物としてのウイルスがもたらす感染症をわかりやすく案内した。

石弘之と中村桂子
「水と風の惑星」である地球をめぐって日本のナチュラルヒストリーを語り合う。(『めぐる』p74-75より)

 石さんが本書で重視したことは、大きくは三つある。
 第一に、感染症をもたらすウイルスがなぜ感染網を広げるのかということだ。答えははっきりしている。通常の遺伝子は親から子へとタテ(垂直型)に移動するけれど、ウイルスはヨコ(水平型)に遺伝子を移動させてきたからだ。
 ヒトゲノムが二〇〇三年にすべて解読されて、タンパク質をつくる機能のある遺伝子はわずか一・五パーセントしかなくて、全体のほぼ半分くらいはウイルスに由来することがわかってきた。多くはトランスポゾンといわれる自由に動きまわれる遺伝子の断片だった。
 ウイルスが進化の途上でわれわれの遺伝子に潜りこんだのか、それとも遺伝子がウイルスを利用したのか、どちらが「つもり」で、どちらが「ほんと」かはわからない。なかでもRNAウイルスの一種のレトロウイルスは、自分の遺伝子を別の生物の遺伝子に組み込むことによってまんまと生き延びてきた。これでヨコ水平ネットワークをつくりあげたのだ。
 第二に石さんは、いったいいつごろから人間とウイルスが共生してきたのかということを考える。
 われわれの祖先がアフリカのサバンナから出所したことはわかっている。そこからさまざまな文明が発達し、多くの為政者が世界を征服するつもりになってきた。その一方、結核菌、ピロリ菌、エイズ、パピローマウイルス、マラリア、麻疹、水痘(水疱瘡)、成人T細胞白血病などの原因になる病原性微生物が、いずれもアフリカ起源であることもわかってきた。
 この二つのことは生物と人間と文明の展開のなかできわめて重大な両義性もしくは多義性が、アフリカで発揚されていただろうこと、直立二足歩行とともに何かが始まっていたことを暗示する。ウイルスはわれわれに厄災をもたらすとともに、その半面でわれわれをここまで進化させたのだ。

マラリアの注意喚起
国境なき医師団制作

 第三に、いったいウイルスと人間は敵対しているのか、それとも共生しているのかということを問う。
 生物は感染したウイルスの遺伝子を自分にとりこむことで、突然変異をおこして遺伝情報を多様にし、進化ゲームを有利に進めてきた。とりこんだのだから、われわれにとってウイルスがすべて有害者や敵対者だったはずはない。たんなる居候だったはずもないし、お互いにそれなりの利得をなにがしか交換しあったはずだ。ウイルスはわれわれを感染病に罹らせるだけではなく、なんらかの恩恵も提供したはずなのだ。
 たとえば、ウイルスは哺乳動物の胎児を守っていることがわかってきた。胎児の遺伝形質の半分は父親に由来するもので、それは移植された臓器のように母親の免疫系にとっては異質なものである。だから胎児は母体がもつ免疫反応によって生きていけなくなってもおかしくなかったのだが、そうならなかった。なぜなのか。このことは学界でも長らく謎になっていた。
 一九七〇年代になって、哺乳動物の胎盤から大量のウイルスが発見され、拒絶反応を引きおこすはずの母親のリンパ球が一枚の膜(合胞体細胞膜)に遮られ、胎児の血管に入るのが阻止されていたことが判明した。一九八八年にはウプサラ大学のエリック・ラーソンによって、この細胞膜が体内に棲むウイルスによってつくられていたことが発見された。最新の研究報告では、どうやら海洋にうごめく大量のウイルスが、大気中の二酸化炭素の蓄積や雲の形成にかかわっていることもわかってきた。
 こうなると、ウイルスによって地球生態系を語る方法がもっとあっていいということになるのだが、しかし一方、人体と文明に危険な状態をもたらすウイルスも少なくない。ふつう、感染症といえばこの「由々しいウイルス」との闘いをどうするかという問題になる。

ウイルス感染時期(推定)と胎盤の系統樹
ウシ亜科動物とヤギ亜科動物が分かれたおよそ2000万年前に、ウシ亜科動物の祖先動物にBERV-K1ウイルスが感染したことを示唆している。ウイルス感染が胎盤を進化させた。

 感染症についての本は、最近になってずいぶんふえたようだ。ぼくもちょいちょい目を通してきた。よく読まれてきたものとしては、国立感染症研究所の初代感染症情報センター長だった井上栄の『感染症の時代』(講談社現代新書)や『感染症』(中公新書)、山本太郎の『感染症と文明』(岩波新書)、益田昭吾の『病原体から見た人間』(ちくま新書)などの新書がある。いずれも新書だから入手しやすいだろう。
 世界の感染症をセンセーショナルなヴィジュアル・リストにしたのは、日本疫病研究会が編集した『人類を滅ぼす感染症ファイル』(竹書房)だった。二〇一四年にエボラ出血熱が大ニュースになったとき緊急出版された。ペストやチフスやマラリアだけでなく、炭疽症、クロイツフェルト・ヤコブ病、ラッサ熱、SARS、サルモネラ症、O157、ボツリヌス食中毒なども採り上げていた。一冊入手しておくことを薦めたい。
 それでも千夜千冊としては石さんのものを選んだのは、ぼくが大の石ファンであったからだ。そのうちフランク・ライアンの『破壊する創造者―ウイルスがヒトを進化させた』(早川書房)、ポール・イーワルドの『病原体進化論』(新曜社)といった本格的なウイルス論も採り上げたいが、まずは石さんだ。そう思って本書を千夜千冊しようとしていたら、ごくごく身近で感染症の実例がおこった。

 二、三週間ほど前、編集工学研究所のスタッフがノロウイルスに感染した症状を見せたのである。それも続けさまに四人だ。一日おいたり、四日ほどしてからだったり、一週間をこえてからだったりした。みんな、嘔吐や下痢に苦しんだようだ。一人は、パソコンを打っていたら急に何かがズンとやってきて目の前でしていることが手につかなくなったと、一人は「出産以来の辛さだった」と言っていた。
 ノロウイルスは牡蠣などの二枚貝をナマで食べるとおこりやすいが、小腸粘膜の細胞だけで増殖し、嘔吐物や糞便によって感染が広がる。感染も速い。八〇度以上二分間をこえて加熱しないと死滅しないところが悩ましい。水洗トイレもあやしい。当然、四人とも仕事場に来るのを控えた(これを書いているときに、「出産以来の辛さだった」と言った彼女の娘もノロになった)。まもなく一人はアニサキスによる食中毒だとわかった。自分で捌いたシメ鯖をばくばく食べたせいだ。シメ鯖の彼は、みんなから自業自得だと詰られた。

ノロウイルスと集団感染
2013年12月、京都総合病院で患者や職員ら101人がノロウイルスに集団感染し、4人の入院患者が死亡した
2014年1月22日「朝日新聞 朝刊」に掲載

 日本語になったノロウイルスという響きはまるで呪われたような名前に聞こえるが、もとはノーウォーク・ウイルス(Norwalk virus)と呼ばれていた。一九六八年にオハイオ州ノーウォークで集団発生したときの糞便から該当ウイルスが検出された。
 検出されたのはSRSV(小型球形ウイルス)で、一九九〇年に全塩基配列がほぼあきらかになり、二〇〇二年にノロウイルス(Norovirus)と名付けられた。経口感染して、たちまち感染性胃腸炎をおこす。潜伏期間は十二時間から七二時間。わがスタッフたちは仕事場で感染したとおぼしいが、こんなに感染力があるとは思わなかった。
 ノロウイルスのことなど、てっきり遠方のニュースで知るものだと感じていたが、いやいや、こんなふうに身近なところでもおこるのである。

 そういえばこの数年で、スタッフの中にはインフルエンザに罹る者が必ず出るようになった。タミフルで治った者もいる。症状はどうあれ、いったん罹ると医者からは自宅軟禁のお達しが出るし、仕事場には急にマスク派がふえる。
 ぼくの家内も昨年の冬に罹った。ちょうどぼくが肺癌手術を了えて退院する一日前のことで、おかげで家には戻れず、数日を渋谷のホテルで待機した。肺をやられた者にはインフルエンザは致命傷になることがあるので隔離されたのだ。右肺三分の一をもぎとられた直後のホテル滞在は、なんとも落ち着かなかった。
 インフルエンザのことを、ぼくの子供の頃はリューカンと言っていた。流感、つまり流行性感冒だ。リューカンは近所とか学校で流行る「きっつい風邪」のことで、昔は友達の多くが罹ってもよほどのことがないかぎり学校は休みにならなかった。マスクなど誰もしなかった。当時のリューカンは冬の風物詩のようなものだったのだ。ちなみにぼくはいまなおマスクが苦手で、息苦しくなるので、すぐ外してしまう。
 風邪とリューカンの区別も知らず、いつからリューカンがインフルエンザと呼ばれるようになったかも知らなかったが、むろん両方ともウイルスが原因である。
 医療的な病名では、風邪(common cold)は「急性上気道感染症」で、一番多いライノウイルス、夏風邪(プール熱)をおこさせるアデノウイルス、冬に広まるコロナウイルスなど、一〇種類以上のウイルスがいたずらをしてきた。
 風邪ウイルスにくらべて、インフルエンザ・ウイルスはそうとうに強い。毒性ももつ。季節性を伴うものとしてA型・B型・C型があり、A型から新型インフルエンザが派生する。毎年、世界中で三〇〇万人から五〇〇万人が罹り(A型が多い)、二五万人から五〇万人が死んでいる。

A型ウイルスの増殖のしかた
『ウイルスと感染のしくみ』p124

 インフルエンザ・ウイルスの正体や感染経路は一様ではない。もともとはシベリア・スカンディナビア・アラスカ・カナダなどの北極圏の近くで、凍りついた湖や沼の中にじっと潜んでいて、それが春になって水鳥のカモやガンなどの体内に入り込み、腸管で増殖し、その鳥たちが渡り鳥として各地に飛来するとともに撒布されるという定式で、流行する。
 インフルエンザは鳥インフルエンザがルーツなのである。その水鳥のウイルスが変異をくりかえしているうちに、だんだん多様な亜型を生んでいった。鳥インフルエンザ・ウイルスの表面には二種類のトゲ状のタンパク質の、HA(ヘマグルチニン)とNA(ノイラミニダーゼ)がある。HAは宿主の細胞に付着するときに使われ、NAはウイルスが別の細胞に乗り移るときに機能する。
 このHAが抗原によって一七種ほどの違いをもつ亜型ヴァージョンをつくる。そうすると、NAが一〇種類ほどの亜型に分かれる。となるとHAとNAの順列組み合わせだけでも、理論的には鳥インフルエンザ・ウイルスは一七〇種のインフルエンザのパターンをもっていることになる。
 しかし奇妙なことに、宿主のカモやガンはインフルエンザには罹らない。長らく共生してきたからだ。けれどもそのウイルスがアヒルやニワトリなどに入りこむと、とたんに感染がおこる。ウイルスには「他者」が必要なのである。感染がくりかえされるうちに遺伝子がさまざまに変化して、強い毒性を発揮するようにもなった。
 それでもすぐに人には感染しなかった。それなのに鳥インフルエンザ・ウイルスが今度はブタに入ると、人に感染する亜型ウイルスがつくられるようになった。鳥インフルエンザから豚インフルエンザへ。養豚場がふえたからだ。そのうちブタが新種の亜型ウイルスの製造工場になっていた。ブタが媒介になったのは中国南部での出来事だったと推測されている。
 こうしてかつての二十世紀初頭のスペイン風邪、一九五七年のアジア風邪、一九六八年の香港風邪、一九七七年のソ連風邪などのインフルエンザ大流行がおこったわけである。スペイン風邪ではエゴン・シーレ、クリムト、アポリネール、島村抱月、辰野金吾、関根正二らが死んだ。
 問題はここから新型ウイルスが次から次へと派生していったということだ。とくにA型だ。インフルエンザ・ウイルスの遺伝子はRNAでできている。これが驚くべき連続抗原変異をおこす。増殖速度も異様に速い。一個のウイルスが翌日には一〇〇万個になる。哺乳類が一〇〇万年をかけておこしてきた変異がたった一年でおこるのだ。

鳥インフルエンザのルート
『人類を驚かす感染症の正体』(宝島社)p59

 二〇一四年、南極のアデリーペンギンから鳥インフルエンザの新型が見つかったニュースは、関係者を震え上がらせた。唯一の空白地帯だった南極にもウイルスが届いていたのだ。これでインフルエンザ・ウイルスは全地球にくまなく撒布されていることになった。
 インフルエンザの正体と経路をめぐることは、文明の正体と経路を辿ることである。さまざまな推理が乱立してきた。かつてはフレッド・ホイルやウィクラマシンジがそういう仮説をたてたのだが、彗星や隕石によってウイルスが撒き散らされるとも思われていた。そういったなか、インフルエンザについてはジョン・バリー『グレート・インフルエンザ』(共同通信社)、アルフレッド・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)、山本太郎『新型インフルエンザ―世界がふるえる日』(岩波新書)、NHK「最強ウイルス」プロジェクト『最強ウイルス­―新型インフルエンザの恐怖』(NHK出版)、岡田晴恵『鳥インフルエンザの脅威』(河出書房新社)、外岡立人『豚インフルエンザの真実』(幻冬舎新書)などが、かなりヤバイ話を満載している。
 いわゆる風邪についての本も家庭医療本をふくめてかなり出回っているが、ジェニファー・アッカーマンの『かぜの科学』(早川書房)が詳しく、岸田直樹の『誰も教えてくれなかった「風邪」の診かた』(医学書院)が専門家たちに受けている。

千夜関連書籍

 身近で感染症を知ったという例では、イシス編集学校にデング熱に罹った者がいた。たいへん優秀な学衆で、チェンマイに住む化粧品クリエイターだった。当時の症状を聞いたが、高熱・関節痛・発疹のほか、口や鼻からの出血がとまらなかったようだ。
 デング熱(dengue fever)はフラビウイルス科に属するデングウイルスによるもので(血清型で四種類に分けられている)、このウイルスの仲間は黄熱病・西ナイル熱・日本脳炎・リフトバレー熱・ダニ媒介性脳炎などを発症させる。いずれも蚊やマダニが媒介する。デング熱はヤブ蚊の一種のヒトスジシマカ(タイガー・モスキート)による。
 それでも一九七〇年代までは、デング熱は九ヵ国でしか発症していなかった。デングウイルス四種類が発見されたのも東南アジアだけだった。それがいまでは一〇〇ヵ国をこえる。二〇一四年の夏には東京の代々木公園でダンスの練習をしていた若者が発病した。ただちに蚊の退治が徹底されたが、わずか二ヵ月で感染者が青森から高知に及んでいたことが確認された。
 世界で最も大量の人間を殺してきた野生動物は何か。わかるだろうか。第一位は、なんと蚊なのである。第二位は何か。蚊に続くのは人間だ。蚊は人間と並ぶ殺戮生物なのである。マラリア、デング熱、黄熱病、日本脳炎などで毎年一〇〇〇万人が死ぬ。これらの感染症は人から人へと感染するのではない。必ず蚊が媒介になる。

 蚊(Culicidae)にはナガハシ蚊、イエ蚊、ヤブ蚊、ハマダラ蚊など三五属、約二五〇〇種がいる。一億七〇〇〇万年前のジュラ紀の化石に発見されているのだから、小さな恐竜と言っていい。
 われわれを刺すのはメスである。メスだけが吸血する。それも交尾した直後のメスが産卵に必要な栄養分として血を選ぶようになった。ふだんの蚊が血を必要としているのではなく、オスもメスも花の蜜などで一般養分を確保するのだが、メスは卵巣を活性化させるために吸血をする。一滴吸えばそれだけで何百個もの卵を産める。気温が一五度以上にならないと、蚊は吸血活動をしないこともわかっている。
 どうやって吸うのかというと、まず口吻(極細の針が六本束ねられている)を皮膚に刺し、タンパク質などの生理活性物質がまじった唾液を注入しておいてから(この液によって血小板の凝固反応を巧みにくいとめる)、毛細血管の血を吸い上げる。人体のほうはこれで小さなアレルギー反応がおこり、血管が拡張して痒くなる(搔いてはまずいらしい。冷たいタオルなどを当てるか、ひどいときは抗ヒスタミン薬を塗るかする)。
 よく血液型がO型の者が刺されやすいといわれるが、これについては証拠がないらしい(O型説を調査しているグループもある)。それよりも汗が蒸発するときに汗の中のL(+)乳酸が誘引物質になったり、皮膚呼吸による炭酸ガスがその気にさせたり、女性ホルモンの分泌周期が原因になったりすることが多いようだ。

 いつのまにか話がぼくの周辺事情や蚊に片寄ってしまったが、本書は今日の地球文明にとって感染症がどんな緊急事態をもたらしたかということを縦横無尽に説明してくれている。せっかくなので、猛威をふるった新興感染症(エマージング感染症)について、二、三、とりあげておく。
 二〇一四年に西アフリカで発症したエボラ出血熱は、内臓が溶けて全身から血を噴き出して死んでいくという悲惨な症状で、死亡率はほぼ九〇パーセントに達する。治療対策もまったく見つかっていない。
 エボラ・ウイルスは細長いRNAウイルスで、糖タンパク質を鍵にして人間の細胞の鍵穴をこじあける。マールブルグ出血熱の要素や機能に似ていた。治療対策が見つからないのは、鍵になる糖タンパク質が細胞に入ってくるとき、「おとり」を使っているためで、この巧妙な手口によってウイルス本体を叩くことがなかなか成功しないせいでもあった。ザイール株が最も毒性が強く、レストン株はフィリピンからアメリカとイタリアに輸出されたカニクイザルの大量死によって発見された。感染源はまだ不明だが、熱帯林で果実を貪るオオコウモリが有力視されている。ちなみにコウモリたちは、一〇〇種以上の多様なウイルスを媒介することで知られる名うての「運び屋」なのである。

ヒトスジスマカとオオコウモリ
左はデング熱、右はエボラ出血熱の感染源
出典:国立感染症研究所ホームページ「ヒトスジスマカ」(国立感染症研究所)を加工して作成

 エイズ(AIDS)については、すでに畑中正一の『エイズ』(共立出版)を千夜千冊したことがあるが、文明社会に突如として姿をあらわしたのは一九七九年から翌々年にかけてのことだった。最初はその末期症状からカリニ肺炎などと呼ばれた。実はHIV(ヒト免疫不全ウイルス)による感染だということがわかった。
 一九八二年には「スリム病」の名のエイズが、タンザニア国境近くのウガンダ南部で流行した。五〇〇人の村人のうちの一七人が死に、五年後に患者は六〇〇〇人に達した。
 リュック・モンタニエ、ロバート・ギャロをはじめ、多くの医学者がこの奇病の原因究明に乗り出した。こうしてひとまずはエイズ・ウイルスHIVがつきとめられたのだが(二人はノーベル賞をもらった)、一方では各国の研究機関がエイズ・ウイルスに似たもの、すなわち“モドキ探索”に一斉に取り組んだ。
 その結果、ミドリザル、マンガベイ、バブーン、マンドリルなどのアフリカ産の霊長類の大半、および牛・家猫・ライオン・馬・羊・ヤギなどに同類のウイルスがあることが判明した。マカクザルから摘出されたウイルスもHIVに酷似していたため、こちらはSAIDS(セイズ)と名付けられ、ウイルスのほうはSIVと命名された。
 やがてロスアラモス国立研究所のチームが、ツェゴチンパンジーのSIVが突然変異をおこして人間感染型のHIV︲1型に変わったのではないかという仮説を発表した。そういうことがおこったのは一九五〇年前後のことだという。
 なぜこんなことがおこったかは推測するしかないけれど、おそらくはチンパンジー狩りをしているうちに、この異常な転移と変異が生じたのではないかと予想されている。「ハンター(狩人)仮説」と呼ばれる。

 エイズの症状は恐ろしい。最初は全身の倦怠感、体重の急激な減少、慢性的な下痢、極度の疲労、帯状疱疹などが発症し、しだいに過呼吸、めまい、発疹、口内炎、発熱などを併発するため、いったんは風邪とまちがえるほどなのだが、この時期の自覚では医者もお手上げなのだ。
 やがてCD4陽性T細胞の減少とともに、ニューモシスチス肺炎、カポジ肉腫、悪性リンパ腫、皮膚癌などが次々におこり、悪性腫瘍やサイトメガロウイルスによる身体異常が目に見えてくる。HIV感染細胞が中枢神経系組織に浸潤してしまったのだ。これが脳に及べば認知症や精神障害になる。
 いまでは二三にのぼるエイズ指標疾患がリストアップされている。カンジダ症、サルモネラ菌血症、壊疽、クリプトコッカス症、活動性結核、反復性肺炎、原発性脳リンパ腫などだ。これほど恐ろしいエイズなのだが、潜伏期間が十年近いため、気が付きにくい。感染源となりうる体液は血液・精液・膣分泌液・母乳などで、これも警戒がしにくい。

 疫病や厄災が世界的に広がることをパンデミック(pandemic)という。
 これまで感染症パンデミックで歴史上最大の犠牲者を出したのは、六世紀の「ユスティニアヌスの疫病」である。ペストのことだ。約一億人が死んだ。第二位が一三四六年から四年間に猛威をふるった黒死病(ペスト)で五〇〇〇万人が死に、第三位は一九一八年からの二年間でパンデミックになったスペイン風邪で、約四〇〇〇万人が犠牲者になった。
 そして第四位がエイズなのである。すでに三六〇〇万人を突破している。ロック・ハドソン、アンソニー・パーキンス、フレディ・マーキュリーなどのスターも倒れていった。ちなみにパンデミック第一三位に、二〇〇九年の二八万人を失った豚インフルエンザが入っている。
 それでもエイズ対策はそこそこ進んでいて、いま先進地域でエイズ患者がふえているのはどうやら日本だけになった。なぜなのかははっきりしないけれど、日本はスリーパーエージェント(潜伏ウイルス)に対する警戒心が極端に甘いからだという説が有力だ。

感染症パンデミック死亡者比較リスト
『人類を驚かす感染症の正体』p43

 スリーパーエージェントで最も厄介なのはヘルペスである。ヘルペス・ウイルスはいつ暴れだすのかがわからない。宿主の状態を見きわめているとしか思えない。疲労、ストレス、紫外線、妊娠、病気がち、免疫力の低下などを見計らって、てきめんにヘルペスは動き出す。
 子供のころに罹る水痘(水疱瘡)、口のまわりに水ぶくれができる口唇ヘルペス、陰部が痒くなる性器ヘルペス、加齢につれて脇腹や背中に激痛が走る帯状疱疹、いずれもヘルペス・ウイルスの悪さだ。なかでもHSV︲1(単純ヘルペス・ウイルス1型)は、感染すると三叉神経節に潜伏して、じっと出動の機会を待っている。
 ヘルペス・ウイルスは二億二〇〇〇万年前に、哺乳類が出現する以前に登場したとみられている。真核生物とともにスタートを切って、変異をとげながら動物間にヨコ水平に広がっていった。そのうち七〇〇〇万年前に分化をおこして、その一部が人間を好み、その最も狡猾なウイルスが三叉神経節に隠れることを学んだのだろう。
 ぼくの友人や知人も三人がヘルペスに悩まされた。なかには有名な写真家もいる。なんとも名状しがたい鈍痛に苦しむようだ。帯状疱疹にかかると、自分の皮膚が異質なものに冒されているという奇怪な実感に耐えられなくなると言っていた。しかも日本はワクチン対策がかなり遅れている。抗ヘルペス薬「アシクロビル」のこともあまり知られていない。感染症の歴史は、いまや生物学の歴史に介入してしまったのである。

Leprosy.jp ハンセン病制圧活動サイト
世界のハンセン病制圧事業に取り組んでいる日本財団(笹川陽平会長)からの委託で、国内外のハンセン病の歴史と現在を伝えるWEBサイトを松岡事務所が総合監修している。ハンセン病は、らい菌による慢性の感染症で、皮膚や神経に症状があらわれる。古来より感染者は差別や偏見に苦しんだ。

⊕ 感染症の世界史 ⊕

∈ 著者:石弘之
∈ 発行者:江澤隆志
∈ 発行所:洋泉社
∈ 出版年:2014年
∈ 印刷・製本所:中央精版印刷株式会社
∈ 装幀:黒岩二三
∈ 本文組版:フジマックオフィス

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ まえがき―「幸運な先祖」の子孫たち
∈  序章 エボラ出血熱とデング熱―突発的流行の衝撃
∈  第1部 二〇万年の地球環境史と感染症
   第1章 人類と病気の果てしない軍拡競争史
   第2章 環境変化が招いた感染症
   第3章 人類の移動と病気の拡散
 
∈  第2部 人類と共存するウイルスと細菌
   第4章 ピロリ菌は敵か味方か
   第5章 寄生虫が人を操る?
   第6章 性交渉とウイルスの関係
   第7章 八種類あるヘルペスウイルス
   第8章 世界で増殖するインフルエンザ
   第9章 エイズ感染は一〇〇年前から

∈  第3部 日本列島史と感染症の現状
   第10章 ハシカを侮る後進国・日本
   第11章 風疹の流行を止められない日本
   第12章 縄文人が持ち込んだ成人T細胞白血病
   第13章 弥生人が持ち込んだ結核

∈  終章 今後、感染症との激戦が予想される地域は?
∈∈ あとがき―病気の環境史への挑戦
∈∈ 主要な参考文献

⊕ 著者略歴 ⊕
石弘之(いし・ひろゆき)
1940年東京都に生まれる。東京大学卒業後、朝日新聞に入社。ニューヨーク特派員、編集委員などを経て退社。国連環境計画(UNEP=本部ナイロビ)上級顧問。96年から東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授、東京農業大学教授を歴任。この間、国際協力事業団参与、東中欧環境センター理事(ブダペスト)などを兼務。英国ロイヤルソサエティ(RSA)会員。国連ボーマ賞、国連グローバル500賞、毎日出版文化賞をそれぞれ受賞。

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