才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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「アラブの春」の正体

欧米とメディアに踊らされた民主化革命

重信メイ

角川書店(角川oneテーマ21) 2012

編集:菊地悟・タカザワケンジ
装幀:緒方修一

チュニジアのジャスミン革命から、
エジプトのムバラク大統領の退陣をへて、
リビアの民主化とカダフィの惨殺へ。
いや、バーレーン、イエメン、シリアまで、
「アラブの春」はまっしぐらに進んでいったかに見える。
すべてはフェイスブックやユーチューブなどの、
ソーシャルメディアが用意したとも報道された。
しかし、どうもそうではなかったようだ。
では、何がそうでもなかったのか。今夜はその実態を
かの重信メイが解析してみせた一冊を紹介する。
ぼくなりにも、いろいろな思いがこもる夜になった。

 重信メイは日本赤軍のリーダーだった重信房子の娘である。母は1971年に、パレスチナを拠点とする赤軍派の海外基地をつくるため、奥平剛士と偽装結婚した。その工作中に奥平はテルアビブ空港乱射テロで死亡、メイはレバノンのベイルートで房子とパレスチナ人の父の娘として生まれ、無国籍のままアラブ社会の空気を吸って育った。
 母がどんな苛烈な情況のなかでメイを生み育てようとしたかは、重信房子が『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎)に、またその苛烈な情況がどういうものだったかは『日本赤軍私史:パレスチナと共に』(河出書房新社)に、証している。
 ベイルートのアメリカン大学の国際政治学科の大学院を出たメイが、革命家の母とのあいだに何を交わしてきたかは、メイの最初の本『秘密:パレスチナから桜の国へ』(講談社)に詳しい。「母と私の28年」というサブタイトルがついている。もっと前に千夜千冊したかった本だ。
 そこにも書かれているが、母の重信房子はハーグ事件の関与疑惑で国際指名手配をうける日々をおくっていた。ハーグ事件とは1974年に日本赤軍の3人が短銃で武装してフランス大使館を占拠した事件のことをいう。重信房子と吉村和江がこの事件の共謀共犯者とみなされた。
 母は逃亡を続け、いくたの変転をくぐりぬけたすえ、2000年、偽造パスポートで日本に入国したところを、かねて日本赤軍支援者を監視してきた大阪府警公安第3課によって発見され、逮捕された。空港を進む重信房子の誇らしげな姿は、何度もニュースで流された。
 それにしても、なぜあれほどの「母」が捕まったのか。独特のタバコの吸い方で本人と特定されたようだ。ぼくも気をつけなければいけない。

テルアビブ空港乱射事件直後の様子。
一般市民を狙ったテロとしては前代未聞であるとともに、
PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と日本赤軍の協力関係もまた
世界を震撼させた。

 重信メイは2001年3月5日に日本国籍を取得、4月3日に「桜の国」の地を初めて踏んだ。さぞかしだったろう。
 母の裁判を見守るかたわら、同志社の渡辺武雄教授の指導のもとで同大学大学院のメディア科を修了し、その後はAPF通信社のリポーター、河合塾の英語講師、MBC(中東放送センター)の東京特派員などに従事しながら、執筆もするようになった。
 とくに目立ったのは2006年から「ニュースの深層」のキャスターを務めたことだろう。ぼくはメイが出る「深層」の半分か3分の1ほどを見たと思うのだが(この番組は当時最も好ましい報道解読番組だった)、出演回数がふえるたびに彼女のコメントの切り口、発言のタイミング、その場の役割の発揮などがめざましくなっていくのを感じた。
 ぼくの周辺ではメイはもっと活躍していた。とくに知ろうとしたわけではないのだが、なぜかその動向がぼくにも逐一入ってきた。たとえばアーティストの大浦信行君が映画制作中で、それが『日本心中 9.11~8.15』としてメイも登場させているということや、瀬々敬久監督がドキュメンタリー『頭脳警察』でメイを撮っていることなども、なぜか刻々と知らされていた。
 ちなみに重信メイのツイッターでは、この数日は若松孝二の突然の交通事故死が惜しまれている。メイも「悔しい」と呟いていた。ぼくもときどき覗いてきたが、このサイトは中東の空気が飛び交っていて、刺激になる。そのメイもそろそろ来年の3月には30代を卒業である。

 本書はチュニジアやエジプトに連続しておこった「アラブの春」を、欧米や日本のメディアが「民主化」への前進だと称えたことに大いなる疑問を呈した一冊である。わかりやすく書くことをこころがけているようだが、中東の空気を肺腑の奥まで吸ってきた者ならではの説得力だった。
 チュニジアを代表する花はジャスミンである。そのチュニジアを23年のあいだベン・アリー大統領とその仲間が支配していた。
 若者たちは大学を卒業しても就職ができず、さまざまな閉塞感を感じていた。そうした一人の青年ムハンマド・ブーアズィーズィーは、やむなく友人から荷車を借りて、露天で野菜を売っていた。しかし露天商をやるには許可がいる。青年は検査官につかまり、荷車・野菜などすべてを没収され、女の検査官からは平手打ちをくらった。
 チュニジアは女性の社会進出が進んでいる。女性検査官もめずらしくはない。けれどもアラブ社会で男が女に引っぱたかれるのはそうとうの屈辱だった。青年は心の傷を負い、焼身自殺した。
 これが2010年12月17日のこと。病院に運ばれるブーアズィーズィーの姿は居合わせた市民によってモバイル動画で撮られていた。青年の焼身自殺は国内でも海外でもニュースにはならなかった。そのかわりフェイスブックやユーチューブがこの動画をあげた。この動画の効果はラディカルだった。青年の境遇に共感した者たちが次々に焼身自殺していったのだ。焼身自殺をすることが政府に対する反対行動だと思われたからだ。
 デモや集会が連打された。そのころのフェイスブックのデモの写真にはたいてい赤旗がひるがえっていたと、メイは思い出している。弾圧がおこり、300名をこえる死者が出た。そして1カ月後、ベン・アリーがサウジアラビアに亡命し、下院議長が暫定大統領になった。これがいわゆる「ジャスミン革命」だった。

 ベン・アリー政権を倒したのは左派とリベラル派の勢力だったが、革命がおこったあとの議会選挙で台頭してきたのは、ムスリム同胞団を母体とするアンナハダだった。なぜイスラム系の政党が勝ったのかといえば、ジャスミン革命の民衆勢力から有力なリーダーが登場しなかったからだ。
 もともとイスラム社会には多様なリーダーがいる。リベラル派も少なくない。たとえば、かねてからメイが最もリベラルだと感じてきたのは、2010年に74歳で亡くなったムハンマド・ファドララだった。レバノンのシーア派のスピリチュアルリーダーで、科学と宗教の融合をはかったりした。受精卵からつくられる胚性幹細胞を取り出して研究することはアメリカでもまだまだ議論されていることなのだが、ファドララは真っ先にそれを許容するファトワ(宗教見解)を発表していた。
 ファドララには「イジュティハード」が豊かにあったのだ。コーランに書いていない判断をイジュティハードというのだが、ファドララにはその判断をくだすに足る知識と教養と見識があったようだ。
 中東のイスラム社会にはこうしたリーダーが複雑多様に輩出している。既存政権を打倒するところまでなら民衆蜂起でもできるのだが、その後の社会を指導していくには組織力と判断力をもったリーダーがいる。そういうリーダーをかかえた政党が台頭してくるのは当然なのである。

 チュニジアのジャスミン革命がエジプトに飛び火した。
 そう、一般には報道されてきた。けれどもメイが見るに、エジプトでは2006年くらいからすでにストライキが頻繁におこるようになっていた。
 2008年4月にはアルマヘッラ・アルコブラという工業都市で、悪い労働条件の改善をもとめるストライキが立ち上がっていた。このとき労働者の闘いを学生たちがソーシャルメディアをつかって支援しはじめていた。
 そうしたなか、一人の男性ブロガーが警察官が没収した麻薬を横流している現場映像を入手した。ハリード・サイードという。サイードは「映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅した。警察側はインターネットカフェにいたサイードを突き止めて、殴る蹴るの暴行をはたらいたうえ、刑務所に放りこんだ。2010年6月6日のことだ。
 サイードは獄中死した。しかし仲間たちは納得しない。「私たちすべてがハリード・サイードだ」というページをネットに立ち上げた。そこにチュニジアのジャスミン革命の追い風が吹きこんできた。2011年1月、チュニジアのベン・アリーが国外脱出をはかった日、カイロでデモが広まり、抗議の焼身自殺者たちが相次いであらわれた。
 ムバラク大統領は強気だった。1月25日のデモには5万人が集まったのだが、エジプト政府はソーシャルメディアを妨害し、インターネットと携帯サービスの接続機能を遮断した。そのうえでムバラクは国営テレビに出て首相以下の全閣僚を解任して、自分は経済改革の先頭に立つことを誓ってみせた。しかし2月1日になって、反対勢力が100万人規模のデモを呼びかけたところで、潮目が逆流していった。ムバラク政権はこのとき、実質的に崩壊した。
 なぜ、強気のムバラクを短時間で倒すほどのことが急速におこったのか。民衆革命の力によるものだったのか。ソーシャルメディアの力が政府を倒したのか。かんたんな答えでは説明できない。

 エジプトはアメリカから毎年20億ドルの経済援助を受けてきた。その大半が軍部に流れ、その軍部が大企業に投資していた。エジプトでは軍が金融機関をもち、経済活動をしているのである。
 国民からすれば政府高官や軍部の奢侈と腐敗はとうてい許しがたいものだったが、それを利用活用する上層経済社会にとってはきわめて便利なものでもあった。その反面、労働者のストライキが長引いて経済的な損失が大きくなれば、大企業に投資している軍も大きな損失になる。軍はおそらくムバラクを見限るタイミングを見て、その損得勘定の目で民衆の動向を読んでいたのだったろう。
 ムバラクのほうも迷っていた。自分の外交政策に満足していたアメリカが最後は自分を助けるだろうと見ていたからだ。しかしカイロで民衆暴動がおこったときの、国務長官ヒラリー・クリントンの発言はかなり迷走していた。結局、アメリカはムバラクを見限り、けれども反米反イスラエル政権が生まれてこないようにシナリオを仕組むという作戦に向かったのだ。

 「ジャスミン革命はリビアにも及び、カダフィ政権を転覆させた」。またまたこのように、欧米メディアや日本のマスコミが報じてきた。メイはこれも怪しいと睨んでいる。
 リビアでは教育費は大学まで無料である。医療費・電気代・水道代もことごとく無料だ。家やクルマを買うときのローンも、国が半分を援助する。メイは「私が知るかぎり、世界で最も豊富な福祉国家だったのではないかと思う」と書いている。スカンジナビア諸国のように高い税金によって得られる福祉サービスではなく、ふんだんに石油が採れることによって実現した福祉なので、国民の懐がまったく痛まない。驚くべき国家だったのである。
 しかもリビアは、正式国名を「大リビア・アラブ社会主義人民共和国」というように、アラブ・ナショナリズムとイスラムと社会主義を絶妙に組み合わせた国なのだ。アラブ・ナショナリズムとは、厳密な定義が難しいが、大きくはアラビア語を話す民族として誇りをもつことを意味する。
 カダフィはこのアラブ・ナショナリズムと、政教を分離しないイスラム社会と、そして社会主義とをアクロバティックにまぜたのだ。

 第二次大戦後の1951年、リビアはそれまでの英仏による共同統治から独立し、リビア連合王国(1963年からリビア王国)になった。東(キレナイカ)、西(トリポリタニア)、南(フェーザン)の王国を統合した。
 当初は農業国だったが、1955年から油田開発が順調に進捗し、60年代にはアフリカ最大の埋蔵量を誇る産油国になった。油田の多くは東のキレナイカに集中する。
 それから18年後、ナセル主義者のカダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー)が青年将校たちを集めてクーデターをおこして政権を握った。西のトリポリタニアを代表するカダーフという大部族の出身だった。その中心都市がトリポリだ。
 カダフィは「緑の書」(グリーンブック)を発表して新国家の建設に邁進し、独裁者ではありながらも、世界の革命勢力や民衆運動を支援しながら国力を増強していくという、きわめて独自の方針を貫いた。とくに欧米に対しては頑として反抗するという態度を鮮明にした。
 そのため1985年に発生した西ヨーロッパの一連のテロ事件を理由に、リビアは欧米からの経済制裁を受け、翌年にはアメリカ軍の空爆にさらされた。カダフィの自宅もピンポイントで爆撃された。しかしカダフィは報復としてパンナム機を爆破し、敵対関係を譲らなかった。
 90年代に入ると、カダフィは欧米に対する挑発的な発言を控える一方で、少しずつアフリカ諸国に接近し、なんと「アフリカ合衆国」の構想をもつようになっていった。2009年にはアフリカ連合の総会議長になり、翌年には金本位の「ディナール」による地域通貨計画を発表した。
 これら一連のカダフィの大胆な方針に、アメリカは業を煮やしていた。リビアが中国資本や中国企業の進出をどしどし受け入れていることも気がかりである。すでに中国はリビアを足場にアフリカ投資計画の多角化を狙っていた。リビアと中国は社会主義国で、その二つが資本主義市場力をもったのではたまらない。
 リビアに中央銀行がないことにも、アメリカは苦りきっていた。当時、中央銀行がないのは世界でイラン、アフガニスタン、イラク、リビアの4カ国だけだったのだが、これらの国にはIMFや世界銀行の力は及ばない。自国でソブリンファンド(国債)の運用に失敗しないかぎり、世界のグローバル経済からは独立できるからだ。
 それだけではない。迫りくるグローバリゼーションのことをアラブでは「アウラマ」と言うのだが、そのアウラマとは別の経済社会システムがアフリカを包むようになれば、これは欧米グローバリゼーションにとっては最大の敵対物なのである。
 メイはここで、イラクのサダム・フセインが2002年に石油売買をドルではなくユーロに切り替えると発言したあとに、アメリカによるイラク戦争が仕掛けられたことを想起することを、読者に促している。

 日本が3・11の未曾有の体験に遭遇していた2011年3月17日、国連安保理はリビア空爆を決議した。カダフィは最後まで国民に抵抗を呼びかけたが、ついに無残に爆殺された。その映像はむごたらしいものではあったが、テレビは何度も放映した。
 いったい何がおこったのか。リビアに民衆革命や民主化革命がおこらなかったとは言えない。言えないものの、しかし、カダフィ政権が覆った要因にはもっと政治的な問題も絡んでいたとも見るべきだったのである。
 他方、リビアに国会がなく、ダイレクト・デモクラシーが施行されていたことにも目を致す必要がある。リビアの国民は640万人で、国土からすれば少なく、財政規模も岐阜県くらいである。そこで「マジレス」(基礎人民会議)という会議体がつくられ、国民の声をそこで吸い上げるというしくみを継続してきた。選挙もそのマジレスが機能した。
 これを「民主的ではない国だった」と誰が言えるだろうか。リビアはある意味ではアテネ以来の直接民主主義国家だったのである。

 「アラブの春」はチュニジア、エジプト、リビアという北アフリカの国から、アラブ諸国が密集する中東に移動していったかに見える。まさに中世のイスラム社会の燎原の火のような拡張だが、コースは逆だった。またとんでもないスピードだった。
 たしかにバーレーンにも飛び火した。2011年2月14日の首都マナーマでのデモでは1000人が逮捕された。ところがその直後、この事態を鎮圧するためにやってきたのはサウジアラビア軍とUAE(アラブ首長国連邦)の警察隊だった。
 この2国は「湾岸協力会議」(GCC=サウジアラビア、UAE、オマーン、カタール、クウェート、バーレーン)に入っていて、やがては共通通貨「ハリージー」を導入したいという経済連携の約束をとっている。そのためバーレーンの“紛争”を「石油産業を守るために」という名目によって介入したのだが、実はバーレーンに親イラン政権を出現させないための先手必勝でもあった。
 イエメンでも、2011年1月27日にサーレハ大統領の退陣を求める反政府デモが勃発した。首都サヌアでは1万6000人が集まった。が、ここでもGCCが動いた。政治的な罪は問わないからという条件付きで、サーレハの辞任を要請したのだ。サーレハが首を縦にふらなかったため、事態は泥沼化していった。サーレハが退陣したのは年末だった。
 そうして残されたのはイエメンの貧困だけだったように見えましたと、メイは書いている。
 オマーンへの飛び火は2011年2月2日だった。ただ、絶対君主制のオマーンでは、民衆の改革の要求を王家がすんなり認めた。スンニ派から分派したイバード派の国王たちの一族である。また、サウジアラビアが資金援助した。オマーンの領海にあるホムルズ海峡は世界の原油輸送の4割を通行させているのだが、そこが不安定になっては困るからだった。

 2011年1月23日、サウジアラビアで労働者の一人が貧困に抗議して焼身自殺をした。
 その後、3月11日に「怒りの日」と名付けた大規模なデモがおこった。日本ではまさに3・11とぴったり重なったため、その日が「怒りの日」であったことはあまり知られていない。
 サウジアラビアは世界最大の石油埋蔵量を誇る。絶対君主制の国家である。サウード家が支配する。王家も国民もスンニ派が多数を占める。湾岸最大の国土をもつともに、ムスリムたちの二大聖地のメッカとメディーナが国土の中にある。そのためワッハーブ家の権威が国中にゆきとどく。
 これらはいずれもサウジアラビアの保守的な求心力になっている。なかで女性が規律に縛られ、シーア派が貧困を強いられている。
 女性が縛られているのは、たとえば女性がクルマを運転することが禁じられていることなどにあらわれる。「怒りの日」のあと、女性がクルマを運転している映像がユーチューブにアップされたときは喧々囂々となった。
 シーア派の貧困とともに、いまだに奴隷制がのこっていることや、「ビドゥーン」(「持っていない」の意味)という国籍のない者たちがいることも、社会の歪みをつくっている。このようなサウジアラビアには「アラブの春」も「民主化革命」も、まったくやってきていない。

 イラクでは、2011年2月25日にバクダッドで大規模なデモがあった。数万人が徒歩でタハリール広場に集まって、「バース党反対! マーリキ首相反対!」のシュプレヒコールを叫んだ。
 が、イラクで最も望まれているのはアメリカが用意した民主主義ではなく、イラク人自身による民主主義なのである。当然だ。
 ヨルダンはどうか。
 この国はイスラエル、パレスチナ自治区、サウジアラビア、イラク、シリアという5カ国と国境を接している。尖閣や竹島どころではない。いつも政情が安定しない。おまけに人口の4分の3がパレスチナ人でもある。イスラエルとの戦争から逃げてきた人々だ。
 そのヨルダンにも1月21日にデモがおきた。物価とインフレと失業に対する不満がリファイー政権にぶつけられた。しかし、この運動はほとんど報道されなかった。左派による王政反対の表明が含まれていたからだった。それでもリファイー内閣は2月1日に総辞職した。
 ヨルダンの王家はハシーム家で、さかのぼればムハンマド(マホメット)の末娘ファーティマの系譜のひとつ、ハサンの末裔を自称する。ハシーム王家はタイと似て国民から親愛されている。
 そのハサンの末裔を同じく名のっているのが、モロッコのアラウィー王家である。安泰とはいえない。そうしたモロッコでも、やはり「2月20日運動」とよばれるデモがあった。そして内閣が辞職した。では、これが民主化のための革命だったかというと、それにはほど遠い。
 モロッコは、ポリサリオ戦線という勢力が独立を宣言した「サハラ・アラブ民主共和国」をかかえ、またアラビア語ではないベルベル語を喋る先住民ベルベル人をかかえている。ベルベル人もイスラムの信仰者で、ベルベル語やベルベル文化の正当な教育を受けられるようにするべきだと主張している。当然だろう。チェンマイにいて、しばしばモロッコに材料を仕入れにいく花岡安佐枝はベルベル人の威厳と工夫が大好きで、「あそこは中世からの民が生きているんです」と言っていた。同じことをピーター・ブルックと何度も北アフリカを移動していた土取利行さんも言っていた。
 モロッコにはこうした要求がいろいろくすぶっているわけだ。けれども、王家や政府がその要求を何かひとつを受け入れれば、次々に連鎖がおこるにちがいない。それゆえ、まだモロッコはこれらすべてに慎重なのである。ベルベルを除いて、モロッコはまだ「春」にはなっていないのだ。

 その後、世界のニュースを驚かせたのがシリアだった。いまでもジッグザッグに混乱しつづけている。しかし、混乱させているのは誰なのか。何なのか。すこぶるわかりにくい。
 シリアは1961年からバース党が政権を握り、1970年にハフィーズ・アル・アサドがクーデターで大統領になった。いまのアサド大統領の父親だ。アラウィ派というイスラム少数派に属している。
 2000年、実に29年にわたって君臨してきたハフィーズが亡くなり、兄も交通事故で亡くなったので、次男のバッシャール・アル・アサドが大統領を継いだ。バッシャールは父アサド同様にバース党を仕切り、いまは内戦状態に突入したままにある。
 2011年の暮れから今年にかけて、シリアでは連続的な自爆攻撃があった。反政府勢力とアメリカは「アサド政権が仕掛けたものだ」と非難した。ちょうど取材でシリアに訪れていたメイは、これが反政府勢力によるものだということにピンときた。だいたい自爆攻撃はムスリム同胞団やアルカイダがとってきた戦法である。ところが犠牲者が出るたび、メディアは政府に責任があるかのような報道をしつづけた。
 5月25日から翌日にかけて、シリア中部のホウラで少なくとも109人の犠牲者を出した虐殺事件がおきた。子供49人、女性34人が含まれていた。アメリカと国連はすぐにシリア政府を批判した。アサドは反政府テロによるものだと反論した。

 シリアの反政府勢力は複雑である。左派と政教分離主義者が合流したNCC(民主的変革のための全国調整委員会)、国外で活動するSNC(シリア国民評議会)、地域調整委員会、革命最高評議会、シリア革命総合委員会などがある。
 これらは入り乱れて活動しているが、関係諸国が構成する「シリアの友人」ではSNCをシリアの正当な代表とする動きになっている。だが何もかもが予断を許さない。
 いったいシリアの過激な内戦はどこが仕組んでいるのか。反政府側なのか、政府側なのか、それとも第3の黒幕なのか。
 メイはこの事件が政府によるものとはどうしても思えない。ホウラは9割がスンニ派である。虐殺がおきたとき、この町は反政府勢力の支配下にあった。反政府勢力は犯行はアラウィ派のシャッビーハという暴力集団によるものだと断じている。しかし、反政府勢力が実効支配しているホウラにシャッビーハが入るのは難しい。そのほか不自然なことがいろいろある。
 おそらくこれは、反政府勢力が親アサドともくされた連中を一挙に殺害したのであって、そのうえでその罪をアサド勢力になすりつけ、これをきっかけにNATOなどの軍事介入をよびこもうとしたものだったのではないか。メイはそのように推理した。

 ぼくには真相はまったくわからないが、アメリカがシリア内戦に介入している理由ならはっきりしている。アメリカはイランがアサド政権を支持しているのが気にいらないのだ。
 イランとシリアは国境を接しあっている。この接触地域に対して力をもっているのはヒズボラである。イランの資金援助や武器供与はヒズボラが握っている。のみならずヒズボラは反イスラエルの武装闘争をしている。アメリカはヒズボラを叩きたい。かくて、アメリカはイラン牽制のイニシアチブをとるためにも、シリア内戦に介入しているわけなのである。
 もうひとつ、理由があった。シリアのタルトゥースにはロシアの中東唯一の軍事基地がある。アサド政権を倒せば、ロシアの軍事基地を撤退させられるかもしれないのだ。
 ぼくは知らなかったのだが、ユーチューブにはシャッビーハが暴力をふるっている映像が何度も流れたらしい。CNNもこれを紹介した。しかし、メイはこれもまた事実であるかどうかも疑わしいと言う。シリアではすでにインターネット上の“自作自演”まがいのものが、いくつも流れているというのだ。アラビア語やアラブ社会に通じていれば、そのおかしな点がいくつも見つかるはずだという。

 レバノンはメイが生まれ育った国である。メイが生まれた1973年の3年後から、レバノンはずっと戦争状態が続いている。外から持ち込まれた戦争もあれば、イスラエルと闘った戦争もあった。
 そのレバノンでも「アラブの春」と同期するようなデモがあった。けれどもレバノンのデモは宗派ごとに決められている法律に反対するデモだった。レバノンには民法がないため、宗派ごとに規定や規約をつくっているのである。そのため、宗派の異なる二人が結婚しようとすると、どちらかが改宗しなければならない。むろん無宗教の結婚という選択肢などはない。
 このことは、大統領がマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派というふうに、政治家個人が宗派と結びつくという政教複合型の政治社会をつくりあげた。とうていぼくなどの想像力がおよばない状況だ。
 そんな国に重信メイが育ち、母の革命計画と国際手配からの逃亡をどんなふうに眺めていたのかと思うと、さまざまな気分が押し寄せてくる。いろんな気持ちがまざっていく。
 ぼくはファイルーズのエキゾチックな歌やマルセル・ハリーファなどの音楽や、さらには西洋との融合を拒否して「ジャバリ」(山より来る)を守っているレバノン伝統音楽も好きなので、今夜、「アラブの春」の正体をめぐりながらも、ついつい重信メイに国籍を与えなかったレバノンの日々がメロディックにも空想されてしまうのだ。

 ちなみに中東問題や「アラブの春」については、書き手によっていろいろな見方がとびかっている。
 今夜のぼくはメイの本書に依拠したが、ほかに田原牧の『中東民衆革命の真実』(集英社新書)、森孝一『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店)、アントワーヌ・バスブース『サウジアラビア:中東の鍵を握る王国』(集英社新書)など、いろいろ読まれるといい。それにしても3・11と中東の「春」が同時進行していたこと、ぼくにはけっこう重くのしかかっている。

アラブ諸国マップ

 『「アラブの春」の正体:欧米とメディアに踊らされた民主化革命』
著者:重信メイ
編集:菊地悟・タカザワケンジ
装幀:緒方修一(ラーフィン・ワークショップ)
発行者:井上伸一郎
発行所:株式会社角川書店
発売元:株式会社角川グループパブリッシング
2012年 10月10日 第1刷発行
印刷所:焼印刷
製本所:BBC

【目次情報】
はじめに
第1章 北アフリカの小国、チュニジアから始まった「アラブの春」

第2章 アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実
第3章 メディアによってねつ造された「アラブの春」~リビア内戦
第4章 アラビア半島へ飛び火した「アラブの春」
第5章 報じられなかった革命、違う用語にすり替えられた革命
第6章 メディアが伝えないシリアで内戦が激化する本当の事情
おわりに 

【著者情報】
重信メイ(しげのぶ・めい)
中東問題、中東メディア専門家。1973年、レバノン・ベイルート生まれ。日本赤軍のリーダー重信房子とパレスチナ人の父の娘として、無国籍のままアラブ社会で育つ。1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業後、同国際政治学科大学院で政治学国際関係論を専攻。2001年3月に日本国籍を取得。来日後はアラブ関連のジャーナリストとして活躍。2011年同志社大学大学院でメディア学専攻博士課程を修了。現在、ジャーナリストとしてパレスチナ問題を中心に広く講演活動を行なっている。