才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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元始、女性は太陽であった

平塚らいてう

大月書店・国民文庫 1992

わが生涯のシステムを貫徹す。
こんな言葉を22歳で雷鳥は放っていた。
そしてそのように生きた。
新しい女。
ブルーストッキングな女。
青鞜の女。
海賊になりたかった女。
融通無碍の自己変革。
いったい平塚雷鳥とは何者だったのか。
長い自伝である本書は、
その謎をあますところなく告白し、
他方で、日本近代が背負った
宿命の意味を考えさせる。

 森田草平の『煤煙』(ばいえん)に、ヒロインが「私は女ぢゃない」と言い放つ場面がある。ヒロインというのは平塚雷鳥。言い放たれたのは森田。ぼくはこのセリフが妙にアタマに残っている。
 雷鳥はこのとき22歳だった。森田に迫られていた。森田は漱石の門下にいる文学青年で、ある勉強会のようなもの(閨秀文学会)で講師をしていて、そこに顔を出していた雷鳥にぞっこん惚れて、半ば強引な交際を申し込んだ。そこで雷鳥は「女ぢゃない」と言った。そのあと「男でもない」とも言った。世間知らずというより、世間などハナから相手にしていない。
 雷鳥はあることがきっかけで、そのころ浅草の海禅寺という禅寺に修行に通っていて、寺の住職に「いたずらキス」をしたりしていた。そういうことをしてもいたけれど、禅のもつ見性体験には強力に惹かれていた。
 森田は雷鳥が書いた小作品『愛の末日』(処女作になる)を話題にしながら、雷鳥に迫った。すったもんだのすえ(何があったかはあとで説明する)、二人で死のうということになった。「あなたを殺す」「殺して頂く」。そんな言葉をじゃれたように交わしあっている。
 雷鳥は、森田がからっきし覚悟のない男で、とうてい死ぬ気がないことを見抜いていたのだが、それでも覚悟の懐刀を持参していた。二人は海禅寺で待ち合わせ、汽車で北をめざすと、雪の塩原温泉の尾頭峠を彷徨したあげく、死にそこなった。二人には捜索届けが出ていて、近くの旅館にいるところを発見された。

 この心中未遂事件はあっというまに知れわたる。雷鳥が嫌いな世間は、好奇な耳目をそばだてた。新聞は連日、センセーショナルに書きたてた。話題になったのは森田のほうではなくて、雷鳥ばかりだった。総じては、雷鳥が色情狂であるという結論である。
 「東京朝日新聞」は「紳士淑女の情死未遂」「情夫は文学士・小説家、情婦は女子大卒業生」と書いた。「万朝報」は「いやはや呆れ返つた禅学令嬢といふべし」と嘲笑し、「蜜の如き恋学の研究中なりしこそあさましき限りなり」とからかった。
 さらに「時事新報」は「涙の父の談話」をとりあげた。このあたり、いまの芸能ニュースと変わらない。漱石の「狂言と言ふ噂もあるが、それは信ぜられぬ」という談話も報じられた。
 新聞だけではない。センセーションは尾を引いた。「女学世界」は三宅雪嶺・内田魯庵・二葉亭四迷・三輪田元道に「緊急・謎の解明」にあたらせた。魯庵は森田が事件の朝の新聞を読んでいたらしいことをとりあげ、「こんな事でとても死ぬる訳のものでない」と批判した。四迷は、二人がダヌンツィオの『死の勝利』に酔ったのであろうという説を披露し、雷鳥が本気で禅学に凝っていたのなら、「死ぬの生きるのと騒ぐはずはなかったはずだ」と切り捨てた。

 この事件、いまではまとめて「塩原事件」とか「平塚らいてう心中未遂事件」といわれているのだが、事件はさらに尾を引いた。まあ、雷鳥の生涯を染め抜いたといったほうがいいだろう。
 翌年、森田草平がこの事件をまるまる扱った告白小説『煤煙』を「東京朝日」に連載しはじめたからである。漱石の指し金だった。当然、事実のままに書いているのかどうかで、またまた世間は騒然となった。いささか事件の内幕を知っているらしい馬場孤蝶(120夜)は連載を読んで、「よくもあんなに綺麗事に仕上げたものだ」と、青山菊栄(山川菊栄)にもらしたという。
 しかし雷鳥はまったくゆるがなかった。すでに、この事件の直前に遺書めいたものを書いて、自室の机の抽斗に入れておいた。そこには「わが生涯の体系を貫徹す」とあった。親友の木村政子にも手紙を出していて、そこにはやはり「自己のシステムを全うせんがためなり」と書いていた。この言葉は、いい。
 雷鳥はこの事件の体験を決して軽視しなかったのだ。だから、こうも書いていた。「私がやったことは、曾てない大事業である。この経験は生涯私の所有である」。事件後、森田への手紙にも、こんなふうに書いている。「今回私のいたしましたことは何処迄も私の所有である。他人の所有を許さない」。
 決然たるものだ。これが明治日本を騒がせた「新しい女」の誕生だった。「生涯のシステムを貫徹した女」の誕生。それにしても「女ぢゃない」と「わが生涯のシステムの貫徹」とは! 

 今夜は、この「新しい女」「ブルーストッキングな女」としての雷鳥をちょっとばかり淡々と書こうと思う。ちなみに雷鳥は「らいてう」というのが正式の表記だが、めんどうなので雷鳥とする。本名は明(はる)、ないしは明子(はるこ)という。
 とりあげたのは、雷鳥の自伝『元始、女性は太陽であった』で、文庫本でも4冊になる。かなり詳しく、丁寧で(ですます調になっている)、おそらく誰が読んでもさまざまな感興がしんしんと伝わるだろうと思われる。まあ、めったにない人生をおくった人だから、しかも文章もお手のものだから、この読書はきっと誰もがたのしめるにちがいない。
 ただし、論旨を追ってはいけない。そういうものではない。ロジックなどはない。雷鳥の人生観が滋味ゆたかによく綴られていて、明治・大正・昭和を駆け抜けた比類のない女性の行動哲学が矛盾を孕んだまま、よくわかるように書いてあると思ったほうがいい。日本の近現代史についても、いわゆる女性解放運動の一部始終についても、およその見取図が飲みこめるようになっている。
 だいたい「青鞜」にかかわった女性たちのことは、『「青鞜」人物事典』を何度も開けたり閉じたりしていたり、長谷川時雨(1051夜)の近代女性群像伝をのべつひっくりかえしている者はともかくとして、いまなおあまり知られていない(とくに男たちに)。その“知られざる雷鳥”が、近代日本の女性運動の中心にいた平塚雷鳥自身の言葉と解説によって手にとるように見えてくること自体が、本書を比類のないものにしているのである。
 おおざっぱにはそうではあるのだが、たとえば「塩原事件」や「戦時中」の出来事については、あまり書きこんではいない。研究者によると、いろいろ事実とそぐわないところもあるらしい。またあえて記述をしていないことも多いらしい。また、ほかのエッセイや発言では過激な言い回しも目立つのだが、この自伝ではそのあたりは抑制されている。それゆえこの自伝は、原糸そのままではなく、雷鳥ふうに紡いであると思えばよろしい。たとえば雷鳥は漱石をあまり信用していなかったのだが(漱石をインチキだと見ていたふしもある)、そのへんは上品に仕上げてしまっていた。
 そこでぼくとしても、本書だけでなく、大月書店の『平塚らいてう著作集』や岩波文庫の『平塚らいてう評論集』をはじめ、これまで読んできたさまざまな雷鳥についての評伝やら雷鳥論やらを、まさに『「青鞜」人物事典』の記述を再生するかのようにして、ちょいちょいとりまぜることにした。
 フェミニストが書いたものも少なくない。参考にした。フェミニストは雷鳥には半ばは甘く、半ばは辛い。

 平塚雷鳥は明治19年(1886)に麹町三番町に生まれた。父の定二郎は会計検査院の役人で、ドイツ語が堪能ではあったものの、儒教を確信した典型的な保守主義者だった。母の光沢(つや)は楚々として、何事にも丹念だった。そして雷鳥の逸脱をつねに庇(かば)った。が、幼い雷鳥は祖母の八重のほうが好きだったようだ。よくあることだ。
 幼少の雷鳥は食が細く、頭痛もちである。口が重く、声も小さく、容易に大人に反応しなかった。どちらかといえば“ぼんやりした少女”だが、周囲に対する観察はちゃんとしていたという印象だ。そういう家庭の日々のなか、雷鳥は金銭を卑しむことを教えられた。「女子は金銭など持つな」と育てられた。

平塚家。右より母、雷鳥、祖母、義兄、父、姉、
祖母の両側は姉の長女と次女。(明治45年)

 世の中は鹿鳴館時代の余波による「欧化主義」と、その反対の「日本主義」の勃興とに対比されていた。平塚家は二念なく“復古主義”を選んでいる、断髪していた母の光沢が丸髷に戻した日のことは、本書にも懐かしく綴られている。
 やがて雷鳥は麹町富士見小学校に入り、日清戦争勝利のニュースを聞いた。本郷曙町に越してから、東京女子高等師範付属女学校に入った。通称、お茶の水高女という。ここでは良妻賢母たらんことを叩きこまれた。「あそばす」言葉で、「わたし」や「あたし」は厳禁、つねに「わたくし」と言わなければならなかった。雷鳥は琴や茶の湯の稽古事と、テニスに熱中した。テニスに興じたのは白洲正子を数十年早く演じていたようなものだ。
 そのうち雷鳥は授業で習った「倭寇」に憧れた。「わたしの理想は海賊だ」と確信した。さっそく友達と「海賊組」を名のることにした。このエピソードはおもしろい。「海賊組」を名のっただけでなく、世のアウトサイダーに早くも共感を示すようになっている。とくに東京市役所の議場で刺殺された星亨(ほし・とおる)に示した熱い共感は、いささか異常ともいえるものだった。
 星が当時すでに権力に阿(おもね)る政治家であったことは、誰でも知っていた。自由党から身をおこし、第4次伊藤博文内閣の逓信大臣までのぼりつめ、そこから汚職事件で転落した。それでも東京市議会の議長にしがみついているところを刺殺されたのである。いまでいうところの金権政治家のはしりに近い。
 そういう男なのだが、雷鳥は、白昼の議場で殺されたこの男に妙に心を奪われた。世間から「星は悪玉だ」とやりこめられればやりこめられるほど、この男が英雄に見えたのだ。そこで「お墓参りにいきましょうよ」と言いあって、池上本門寺の星亨の墓を訪れてもいる。
 このエピソードは、新聞をろくすっぽ読んでいなかった雷鳥の政治音痴や社会音痴を如実にあらわしているともいえるのだが(雷鳥の社会的なめざめは「青鞜」以降なのである)、とはいえ、このように命を投げ出したかのように見える男には、ついつい義侠心や気っ風を感じてしまうという雷鳥の、持って生まれた性格をよくあらわしてもいる。
 そのころは、バイロンの背徳にも惹かれたようだ(380夜563夜)。ぼくは、この「乱心賊子」の応援に走る雷鳥が大好きなのである。

 お茶の水女の良妻賢母主義にはおおいに反発し、修身の授業をさぼっていた雷鳥だが、次に入った日本女子大では、校長の成瀬仁蔵の「実践倫理」にいたく感銘した。女子は「自主・自治・独創」に徹せよというのである。そのせいか、進んで寮生活に入った。そしてそこから「観念の彷徨」へ向かった。
 この観念癖がまたおもしろい。ぼくが工作舎をやっていたとき、いま大問題になっている社会保険庁を勤めて数年後の女性が、「こんなところには居られない」というんで、役所をドロップアウトして「遊塾」にやってきたことがある。この27歳が、やはり「私は観念にしか関心がありません」と言っていた。「女は観念です」とも言っていた。とても印象深かった。ぼくは彼女をモデルにして、「木谷三千子のバロック・アジテーション」を書いた。池田晶子に似ていたが、いまはどうしているのやら。
 雷鳥の寮生活は長続きはしなかった。寮には寮のリーダーがいて、これが嫌だったのだ。のちに日本女子大に入った宮本百合子(当時は中条百合子)も、女子が女子を仕切る“オンナ親分感覚”ほど嫌なものはなかったと述懐している。
 時代は日露戦争に向かっていた。与謝野晶子が『君死にたまふこと勿れ』を詠い、「万朝報」の幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が「非戦」を唱えて退社をしたニュースが世間を賑わせていたが、雷鳥はこのへんのことにも社会音痴らしく、当時のものを読んでもほとんど反応がない。
 それが心中未遂事件をおこし、それからまもなくして「青鞜」創刊に踏み切っていったのには、以下のような事情があった。あらためて、この明治きっての心中未遂事件の推移を書いておく。

 雷鳥が青春の真っ只中で、何か強烈なものを求めていたのはあきらかだ。それが日本女子大で急激な角度で次々に実験されることになっていく。この「実験を惜しまない気分」こそ雷鳥の真骨頂だった。
 たとえばキリスト教である。なんだか気になった。そこで海老名弾正の本郷教会に通ってみたが、ピンとこなかった(ここにはのちのアナキスト石川三四郎も通っていた)。神を絶対的な超越者にしてしまうところが納得できなかったらしい。ドイツ観念哲学にも首をつっこんだ。スピノザ(842夜)、ヘーゲル、ショーペンハウエル(1164夜)ニーチェ(1023夜)、それにトルストイ(580夜)を夢中で読んでいる。
 ただ雷鳥は、どうも哲学書や文学書だけでめざめられるタイプではないようだ。自分の“体”が没入できないと、ピンとこない。生命感が溢れないと感じない。そういうところが男女の問題にまつわると、世間からは「色情狂」などと曲解されるところになるのだろう。ただし、読書をすることはなんでも好きだった。自伝にも読書体験はいつも重視されている。
 そんなとき、雷鳥はある文章に出会う。明治38年の春、本郷教会機関誌「新人」にのっていた「予が見神の実験」というエッセイである。綱島梁川が書いていた。梁川が瀕死の病床で「神を見る」という宗教体験をしるしたものだった。
 雷鳥はこれに撃たれた。神を観念に求めていても限界がある。それを自分に引きこまなければと思った。では、どうすればいいのか。そのとき女子大の親友の木村政子がもっていた一冊の和綴本が目に入る。今北洪川(いまきた・こうせん)の『禅海一瀾』だった。
 今北洪川がどういう禅者であったかは、1086夜の西田幾多郎のところにものべておいたけれど、当時の禅門の筆頭にいた。幕末維新の傑僧中の傑僧ともいうべき老師で、鎌倉円覚寺の管長ともなった。儒学と禅学の一致を終生求めていたといっていいだろう。弟子に洪川の思想をさらに広めた釈宗演がいる。
 雷鳥はこの『禅海一瀾』がもつただならぬ気迫に、何かを感じた。木村政子に聞くと、なんとなく坐禅をするようになったら、この本を勧められた。だから読んでいるんだという。雷鳥は居ても立ってもいられない。さっそく日暮里のなかの一軒家だった両忘庵に参禅することにした。 

 いまでも「擇木道場」の名で参禅会をしている両忘庵は、釈宗演の若い法嗣の釈宗活が師家をしていた。まだ30歳そこそこである。漱石の『門』に出てくる“宜道”は、この釈宗活をモデルにしている。漱石が禅に惹かれて、明治27年に円覚寺の帰源院に参禅したときの院主だった。
 雷鳥はこの若い禅僧から最初の課題(公案まがいのもの)を示されている。「父母未生以前の自己本来の面目」だ。あまりにも有名な公案だが、20歳前後の雷鳥にとっては、とんでもない課題だったろう。「おまえの父や母が生まれていなかった時分のおまえとは何者か」という問いだ。何を見解(けんげ)しても、許されない。雷鳥は初めて世の中には「難問」というものがあるということを知る。そして、この禅がしだいに雷鳥を変えていった。
 雷鳥は坐禅ばかりしていたのではなかった。英語と漢文の力をつけたくて津田梅子の女子英学塾と、三島中洲の二松学舎にも通った。禅書を読む必要もあって漢文の講義には熱中したようだが、英学塾には乗っていない。津田梅子にアメリカ帰りの古臭いものしか感じなかったようだ。木村政子と一緒に速記も習った。
 そういうところに出向くに、雷鳥は洋装を絶対にしなかった。いつも袴を穿いていた。それも、ふつうの女学生なら紫紺や海老茶が多かったのに、オリーブ色、ネズミ色や縞ものを穿いた。だから目立った。このへんも雷鳥が誤解されていく理由のひとつになっている。

 やがて両忘庵で見性(けんしょう)が許された。「慧薫」(えくん)という名をもらった。そこで雷鳥としてはそのまま両忘庵に通いつづけるつもりだったのだが、釈宗活がアメリカ布教に行くことになったので、浅草松葉町の海禅寺で開かれている接心会に通うことにした。
 海禅寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、境内もバカでかく、堂宇の座敷の数も多いのだが、そのころは無住の廃寺同然になっていて、その復興のために円覚寺から一人の青年僧が派遣されていた。
 これが中原秀嶽で、雷鳥が「いたずらキス」をした相手になる。秀獄は、当時の傑僧・中原南天棒が松島瑞巌寺で重職をしていたときに養子になって出家して、そのあとは円覚寺の釈宗演のもとに修行に出されていた青年僧である。
 「いたずらキス」の顛末など、詳しく書いてもしかたがないだろうけれど、つまりは一人残って長い坐禅をしたあと、夜の8時もまわり、この青年僧に出口まで送ってもらったときに、チュッと接吻したという程度のことらしい。
 秀嶽のほうは驚いた。そりゃ驚くだろう。日露戦争さなかの明治39年のことだ。驚いただけでなく、秀嶽は真剣になった。悩んだあげく、日ごろは「おやじ」とよんでいる鎌倉の釈宗演のところへ相談に行き、求婚することを決意した。
 これには雷鳥のほうが驚いた。もともと雷鳥は、男女感覚が格別に晩生(おくて)のほうで、男性に対する性的な関心はゼロ以下だったらしい。そこで言下に「結婚なんてとんでもない」といえば、「それなら君はぼくを翻弄したのか」と怒られた。秀嶽は、自分が僧侶であることが嫌なら還俗してもいいとさえ言った。困りはてた雷鳥を手助けしたのは親友の木村政子のようで、なんとか秀嶽の燃えさかる激情のなだめ役になってくれた。
 雷鳥はのちに、この接吻事件はゲーテの『若きウェルテルの悩み』の影響のもとにあったと卒然と綴っているのだが、これでは青年僧にしてはたまらない。雷鳥は、まったく男女の機微など実は皆目わからなかったのである。
 ぼくも、これと少々似た話が渋谷恭子の身の上におこったことを聞いたことがある。渋谷の親友の殿川朝子から聞いた話だったのだが、彼女も北里大学で誰かにチュッをしてしまったらしい。渋谷というのは雷鳥同様かどうかはわからないけれど、たいへんな晩生で、いまなお男嫌いを通しているようなところがあるのだが、たんに軽い親愛の挨拶のつもりでチュッをしたらしい。が、それが相手の大学生をたいそう混乱させたという。のちに確かめたところ、本人もそう言って笑っていた。
 雷鳥も「ありがとう」と「さようなら」を一緒にしてチュッとしたと述懐している。が、世の中というものはそれではすまないようになっている。

 明治39年、雷鳥は女子大を卒業、英語をもっとマスターするため、今度は成美女子英語学校に通うことにした。
 翌年、その成美女子に「閨秀文学会」という文学講座ができた。1週間1回、土曜日に開かれたもので、生田長江が主宰した。新聞の折込みもあり、若い女性が30名ほど聴講したようだ。講師は生田長江のほかに、馬場孤蝶、与謝野晶子、戸川秋骨、平田禿木、島崎藤村、森田草平がいた。みんな、生田が頼みの綱とする与謝野鉄幹夫妻の肝入りによるボランティアであろう。
 雷鳥はここに顔を出して、まずは青山菊栄(山川菊栄)に出会えた。国語伝習所に通う向学心旺盛な“青女”である。その後、婦人解放運動をめぐっては、ずいぶん影響をうけている。雷鳥が日本の古典にめざめて、上野の図書館で図書カードと首っぴきに、万葉・古今・徒然方丈記などを片っ端から読むようになったのも、この青山菊栄のせいだった。
 ついで初めて小説を書いた。これは生田が閨秀文学会で回覧雑誌をつくらせたためで、参加者に物語を書くことを勧めたものだ。雷鳥もその気になって、『愛の末日』を発表した。江戸川半紙の罫紙に毛筆で丹念に書いた。
 女子大を出た自我の強い主人公が恋愛の相手に不満をもって、信州の女学校の教師になっていくというありきたりなストーリーで、その後の雷鳥は「まったくの想像で書いた」と言っているけれど、雷鳥没後に発見されたメモには、「秀獄師との顛末が伏線になった」とあった。
 こうして、この『愛の末日』をめぐって、講師の森田草平が雷鳥に接近してきたのである。

 明治41年1月、森田は『愛の末日』に対する批評を手紙にして雷鳥に送った。薄墨の達筆で巻紙に書かれていた。いかにも文学者の批評のよそおいをとってはいるものの、褒めそやしてある。雷鳥も自分の作品が評価されるのは嬉しくて、返事の手紙を書いた。かくて1週間後のこと、二人はデートをする。
 朝の9時から夜の9時まで、水道橋で落ち合って、中野あたりを散歩し、九段の富士見軒で夕食をとり、上野公園まで出向くという、とんでもない長丁場のコースだが(ぼくも昔はこんなふうに歩きまわることしか思いつかなかったものだ)、これで二人はキスすることにもなった。これは挨拶のチュッではない。少なくとも森田にとってはかなり本気のキスだった。森田はこのデートのあいだ、何度となくダヌンツィオの『死の勝利』を口にしていた。
 雷鳥は雷鳥で、男性との初めての逢引きにさすがに半ばは上気していたようだ。しかし上野公園に来て、森田がとった行動は雷鳥を苛立たせた。その苛立ちがかえって雷鳥を奔らせた。
 森田は並んで座っていたベンチから急に立ち上がると、地面に膝をつき、雷鳥の袴に接吻したのだ。まるで中世の騎士の仕草だが、雷鳥にはこの芝居かがったやりかたが我慢ならない。雷鳥はつい、「そんな真似事みたいなことは嫌です」、さらには「遠慮せずにもっとしっかりやってください」と言ってしまっていた。つまりは女のほうがぐずぐずする男に、体をぶつけていったのだ。
 「しっかりやってください」。雷鳥のこの逆襲感覚こそ、平塚雷鳥の謎を解く鍵である。ボタンはすでに掛けちがっている。それでも雷鳥は「まっとう」に突き進む。まさに「システムの貫徹」なのだが、これは精神のシステムであり、理性がつくりだす「まっとう」である。
 一方、森田のほうにはすでに性欲の火がついていた。かけちがったボタンはそのまま進む。これでは雷鳥が「しっかりやってください」と言っている真意がまったく伝わらない。案の定、2日後のこと、森田は“しっかりやる”ために、雷鳥を富士見町花街の「待合」に呼んだ。

 火鉢ひとつの寒々しい待合の座敷。運ばれてきたビールを飲みながら、森田は「ここは生田がよく来るところでね」などとくだらないことを言う。さらに「生田は偽善者ですよ」と、もっとつまらないことを言う。
 そのうち、森田はやおら立ち上がり、襖の陰の布団を引きずり出して体を横たえ、「ここにいらっしゃい」と誘った。そのときである、雷鳥は「私は女ぢゃない」と言い放ったのだ。性欲などまったく感じない雷鳥も、こんなやりくちでは、性欲すらままならなくなるだろうことがわかった。
 「女ぢゃない」と言い、さらに「男でもない」と言った。そして、ついつい「それ以前のものです」と言った。禅の「未生以前の自己」が顔を出したのだ。
 これで今度は、森田がシラけた。シラけながら、男はこういうときにたいていこうなるのだが、自己弁護するしかなくなった。「恋愛や性欲のない人生はどこにもないんです。それじゃ無のようなものじゃないですか」と言った。雷鳥はきっぱりと「無で結構です」と言い放つ。
 これで二人の関係がなくなるならふつうだ。ところが、そうならなかったのだ。二人はやけっぱちになっていく。
 森田が「われは執拗に君を愛す。日夜に君を想い、君を慕う」というふうに手紙を何通も書くようになったところまでは、ふつうだろう。が、そこから閨秀文学会の途中でメモを渡し、そこに「君は若くして死ぬ人なり」と書くようになってはかなりサイアクだった。
 しかし、その激情と、雷鳥を追いつめたいという執着とが、「だから死ぬ瞬間が一番美しいあなたを殺したい」というふうになってくると、そのように言わせた雷鳥が、さて、いったいどういうつもりだったかということになってくる。雷鳥も「あらゆる矛盾を含んだままの無の世界がわたくしの世界だ」「すでに死を通りすぎた寂滅の世界です」というふうに挑発もしていたのである。
 ここを、雷鳥が決然としているといえば、これほど若くして決然としている女性はめったにいないと言っていい。が、これが禅学に染まった女のいっときの陶酔だとすれば(青年僧にキスをするくらいなのだ)、これは森田のような男にしてみると、どうしても放っておけない。ダヌンツィオの『死の勝利』を何がなんでも演じたいというふうになっていく。
 こうして二人はまるで絵に描いたような「危険な遊戯」に乗り出していくことになる。「わたくしはあなたなら殺せると思う。殺すよりほか、あなたを愛する道がない」と森田が言えば、ここまできて雷鳥がこの局面を引き下がるはずはなかった。
 かくて明治41年3月21日、「塩原心中未遂事件」にまで事態が進むことになった。雷鳥は懐剣をもって、死に臨む。けれども森田のほうは、すべてが演出にすぎなかったのである。死ぬ覚悟などこれっぽっちももっていなかった。

 事件のあと、当然の成り行きだが、森田草平は懲りもせず雷鳥の前にあらわれた。翻弄された男の未練というもの、かなり面倒なものである。それが森田には小説を書かせるエンジンだか、火種だかになるのだが、むろん雷鳥にはその未練に何も反応できるものはない。
 それよりなにより、世間が二人を引き離した。母の光沢は娘をそれとなく庇い、父は怒り、生田長江はつねにあいだに入り、漱石は一貫して森田の肩をもった。そういう漱石のやりかたを、雷鳥はつねに批判的に見ている。
 その後の雷鳥はいったん信州に身を寄せ、戻ってきてからはふたたび坐禅に邁進することにした。神田美土代町の日本禅学堂に行った。日本禅学堂は南天棒門下の岡田自適が開いた有名な道場で、ここで雷鳥はついに「趙州無字」の公案をもらって、うんうん唸った。道場には中野正剛も来ていた(575夜)。
 明治42年元旦から、小説『煤煙』が朝日に連載された。そうとうに赤裸々だ。嘘も書いている。しかし雷鳥はそんなことはおかまいなしに、さらに西宮の海清寺の「臘八接心」に顔を出す。もはや23歳の雷鳥には塩原事件は馬鹿らしくなっていたはずだ。
 そのぶん、雷鳥にも一線を超えておかなくてはならないことがあった。いったい「性」とは何なのかということだ。このまま“おぼこ”でいるわけにはいかない。翌年、雷鳥はまた秀嶽と再会するのだが、ここで雷鳥はオトナになることにした。いやオンナになることにした。秀嶽もいっぱしのオトナになっていた。いやオトコになっていた。すでに遊郭で遊んでもいた。雷鳥はあっさりこの男に処女をあげることにする。番町での待合でのことである。
 それで雷鳥が何を感じたのか、本書には、この経緯についてはまことにあっさりと触れられているだけで、雷鳥の気持ちや体に、実際にはどんな感懐があったのか、去来したのか、窺い知れない。ふうん、そんなものかというところなのだろうか。のちのち『処女の真価』というエッセイで、女には「処女破棄の最も適当なる時」というものがあるとは書いているけれど、そこにも「異性に対する強烈な好奇心」という説明以外に、なんら説得力のある説明はしていない。
 ただ、そこに「冒険」と「快楽」と「損失」と「虚偽」と「罪悪」というものは、ときに同義語になりうるといった感想を書いているのが、ぼくにはおもしろい。

 ともかくも、以上が、明治43年までの雷鳥である。これで24歳になっている。まだ24歳ともいうべきだが、それでどうなったかというと、翌年、「青鞜」を創刊してしまうのだ。大逆事件がおこり、30歳の管野スガが絞首台に消え、日本が韓国併合を果たしおえた年、明治が瓦解していく年である。石川啄木(1148夜)は「時代閉塞の病状」を訴えながら、若くして死んでいった。
 意外なことに、「青鞜」創刊は雷鳥が特段に決意したことではなかった。生田長江に女性だけの雑誌の発刊を勧められて、動機が発見できないまま、踏み切っただけのことだった。
 だから雑誌名も生田が決めた。18世紀半ばのロンドンにモンタギュー夫人のサロンが青い靴下を流行させた「ブルーストッキング」派を、日本ふうに「青鞜」としたものだ。
 発起人は、雷鳥、雷鳥の姉の友人で国文科の保持研子(やすもち・よしこ)、「二六新報」で編集をしていた中野初子、保持の同級生だった木内錠(てい)、物集(もずめ)高見の娘で、跡見高女出身の物集和子の5人。とうてい雑誌が出せるメンバーではなかったが、それでも雑誌はつくれるときがあるものだ。
 ぼくが「遊」を創刊したときもすべて素人で踏み切った。たまたまぼくが入院していて、そこに見舞いに来てくれた最初の3人に声をかけたのだ。あとは中上千里夫さんに100万円を借り、エディトリアル・グラフィックを杉浦康平さんにあれこれ相談したくらいだった。
 それにくらべれば、雷鳥のほうは生田長江のアイディアで賛助会員をずらりと揃える出発で、その鳴り物入りぐあいがちがっている。与謝野晶子、長谷川時雨、岡田八千代、鴎外夫人の森しげ女、独歩夫人の国木田治子、小栗風葉夫人の加藤かず子、鴎外の妹の小金井喜美子らが名前を並べた。それになにより、すでに平塚明子(雷鳥)が有名人だった。

青鞜社の集い。巣鴨宮仲の宮瀬清子宅で、右より雷鳥、
保持研子、荒木郁子、中野初子、岩野清子、小林哥津子。
(大正3年)

 女性だけが雑誌を出すことは、「青鞜」が初めてではない。河井酔茗が明治38年に「女子文壇」を創刊して、女子の文芸登竜門をつくっていた。生田はこの河井の雑誌に対抗したかったのだと思われる。
 また、新しい時代を告げる雑誌もこの時期に連打されていた。大杉栄の「近代思想」と、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎らの学習院の坊ちゃんたちが創刊する「白樺」などである。
 しかし、「青鞜」はこれらとは異なる「風切り羽根」をもっていた。なんといっても素人の女性たちが何だかわからない「大きな憤懣」にむやみやたらに取っ組んだ。とくに計画もなく、その「大きな憤懣」をぶちまけた。ストレート・ファイトだった。雷鳥も「元始、女性は太陽であつた」と宣言し、「心の総てを尽くして産みあげた子供が『青鞜』なのだ」と大上段の見得を切った。そして「私は精神集注の只中に天才を求めやうと思ふ。天才とは神秘そのものである」と結んだ。
 これがよかった。そこに与謝野晶子らの先達がエールを送った。晶子が創刊号に寄せたメッセージ「山の動く日 来(きた)る」は、とくにいい。追っつけ田村俊子や尾島菊子や阿久根俊子が加わった。田村は、樋口一葉以来の最初の女流職業作家だった。
 ちょっとアバンギャルドな娘たちも加わった。たとえば尾竹紅吉(一枝)だ。叔父が尾竹竹坡で、女だてらに遊郭に乗りこんで、その体験記を書いたりした。「千夜千冊」では、この紅吉をふくむ尾竹一族の大胆な活動について、137夜303夜569夜630夜1051夜などに触れまくったので、ぼくの読者ならおなじみだろう。紅吉はのちに神市近子や松井須磨子と「番紅花」(サフラン)という雑誌を創刊し、やがて陶芸家の富本憲吉のもとに嫁いでいった。
 ちなみに「青鞜」の表紙は無名の長沼智恵子が描いた。のちに高村光太郎の夫人となり、『智恵子抄』に謳われた、あの智恵子である。実はきのう、浅葉克己さんが佐藤卓とともに訪ねてきてくれたのだが、そのとき浅葉さんが長沼智恵子の切り絵の絵葉書を取り出して、「これ、すごいよね」と驚嘆していた。あのころ、そういう表現者はけっこういたものなのだ。ぼくは「智恵子が長生きしていたら、日本のジョージア・オキーフになっていたでしょう」と言った。

 こういうぐあいに「青鞜」は誕生したのだが、「青鞜」にラディカルな動力を注入したしたのは、雷鳥ではなく、やはり伊藤野枝だろう。
 野枝は九州福岡で「青鞜」創刊号を読んで家出をすると、上京して上野高女に入り、そこの英語教師であった辻潤のところに飛びこみ(同棲し)、「青鞜」に詩を投稿し、大正1年(1912)10月あたりからは、ほぼ毎日、青鞜社に出入りした。
 出入りしただけではなかった。毎号、少しずつ論稿を書いた。3巻1号付録には「新しき女の道」を書いて、「女の自覚を促すと同時に、より以上の力を以て男の自覚を迫りたい」と、一挙に頭角をあらわした。エマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を真っ先に紹介したのも野枝だった。辻の子供も産んだ。
 そういう野枝に、雷鳥は目を細めた。こうして野枝は大正3年に雷鳥から「青鞜」の編集兼発行人を引き受ける。そのとき、まだ20歳。その後の野枝が辻の第2子を産み、山川菊栄と「赤瀾会」をおこしたのちに、辻と離婚して大杉栄のもとに走り、最後に大杉栄とともに無惨に虐殺されていったことは、736夜にも書いたことなので、ここでは繰り返さない。
 ともかくも野枝によって「青鞜」は、社会的な「正当」になったというべきなのである。その功績は雷鳥を上回る。

 では、そのように野枝が驚くべき活動をしているあいだ、雷鳥がどうしていたかというと、徹底して「新しい女」を擁護した。17歳の野枝が上京したときは、わざわざ辻と会って野枝を預けるに足る男かどうかを首実検し、その後も野枝の奔放な行動力を支える側にまわった。
 誌面では、自身で「私は新しい女である」を書き、たえず婦人問題の特集を組んだ。福田英子の「婦人問題の解決」を掲載したときは発禁処分をうけるのだが、まったく怯まない。
 講演会も主催した。筆をもつ「新しい女」がいても、いまだ弁舌をもつ女がいないことがわかると、生田長江・岩野泡鳴・馬場孤蝶を弁士にし、そこに岩野清子を加えた。大衆の前で女性が発言する機会がこうしてつくられた。つまり雷鳥は「新しい女」のプロデューサーあるいはディレクターになったのだ。
 しかし、こういう「新しがり屋」を詰る者たちはいくらでもいた。津田梅子が全校生徒に「青鞜は危険思想である。悪魔である。この学校の生徒は一人でもそういう悪魔に迷わされてはならない」と訓示したのは、有名な話だ。それでも雷鳥は次々におこる反発を、ものともしない。
 だいたい雷鳥は、嵐が収まるのを待つタイプではない。嵐がおこればその嵐の最中に次の手を打つようなところがある。問題がおこれば、すぐに次の問題をおこしていく。そんなやりかたなのである。
 嵐は、次に進めというシグナルだったのだ。必ずしも過激一辺倒なのではない。むしろひとつには、危険に対してあまりに鷹揚なのだ。そういう「胆」をもっていた。またもうひとつには、ぼくが想うには、何をもって闘えばいいのかを知っている。戦場がどこかを知っていた。いいかえれば、問題の渦中から絶対に逃げないことが、事態を突破する方法になることを、勘のようなものでわかっていた。
 もっともこういう雷鳥のやりかたは、多くの女性たちを戸惑わせた。婦人問題などに関心のない青鞜ファンを離れさせもした。いまから見ると、雷鳥の路線に賛同できていたのは、伊藤野枝・岩野清子・加藤みどり・山田わかくらいのものではなかったか。

 雷鳥の言動でさらに周囲を惑わせたのは、雷鳥の「共存の愛」という方針だったろう。雷鳥が打倒したいのはあくまで「近代的自我」であって、男女の不倫やレズビアンやホモセクシャルではない。浮気や姦通ですらなかった。そのため、男女が「共存の愛」を求めることにはおおっぴらなところがあった。
 しかし、この考え方には無理もあった。「共存の愛」は、実際の共存をつくりあげるしかなく、そこには実生活が待っていた。案の定、雷鳥自身、「青鞜」の編集に追われる真つ只中、洋画家の奥村博に出会ってぞっこんになると、この5歳年下の男を猫かわいがりしている。これが高じて大正3年には、ついに「青鞜」をほっぽりだして(野枝にいっさいを押し付けて)、奥村と千葉の御宿にしけこんでしまったのだ(このとき雷鳥は30歳)。
 ここには、「共存の愛」は「生活の共存」に向かうべきだという、当時流行しつつあったスウェーデンの女性解放論者エレン・ケイの思想の反映もあったけれど、当然、中心人物たるべき雷鳥が仕事をほっぽりだすことには、非難が巻き上がる。のちに与謝野晶子や宮本百合子や山川菊栄や市川房江が雷鳥を批判するのは、そこだった。
 それでも雷鳥は他人には甘くはない。「新しい女」は応援するが、そのようなポーズをとる女には厳しかった。たとえば津田女子英学塾の学生だった神近市子が「青鞜」にやってきたのは創刊2年目のときだったのだが、雷鳥は、神近が「不徹底な態度をとるのが、ひどく物足りなく、頼りないものに思われた」と書いている。

 「青鞜」は、伊藤野枝の力が尽きたときに廃刊される。歴史は、大正6年(1917)のロシア革命をターニングポイントにして、大きく展開していった。
 売れない画家の奥村博に「共存の愛」を感じてしまった雷鳥は、しばらく子育てや母性本能にくすぐられる日々をおくるようになっていた。これは世間から見れば雷鳥の堕落であった。与謝野晶子は「婦人公論」に「女子の徹底した独立」を書いて、女が国家に対して母性保護を要求するのは依頼主義だと批判し、経済的独立をあくまで自力で獲得するべきだと説いた。雷鳥への批判が滲んでいる。
 晶子が11人の子を育てながら、貧窮にもめげず、夫の鉄幹の勝手にも後退せず、断固としてあらゆる文芸活動や社会活動をしていたのにくらべると、たしかに雷鳥は母性主義に逃げこみ、一人の男を愛する女にすぎないとみられても仕方がなかった。
 しかし、雷鳥はこういうときには黙ってはいない。売られた喧嘩は買って出る。次の「婦人公論」に「母性保護の主張は依頼主義か」と題する反論を書いた。
 もっともこの論稿はいま読むと、いささか育児というものを天職化あるいは美化するような論調になっていて、今日のフェミニズムからするとかなり中途半端なものになっているのだが、それでも雷鳥は黙っていられなかったのだ。
 が、そこに、別の見解が出てきて、雷鳥をゆさぶった。雷鳥の考え方は社会主義者の目から見て、はなはだ物足りないものに映ったのだ。そこを雷鳥に指摘したのが山川菊栄である。菊栄は、「そもそもいっさいの矛盾をつくっているのは資本主義である」と喝破して、雷鳥のていたらくに激震を送ったのである。
 かくて、ここから雷鳥の第2、あるいは第3の転身が始まっていく。それを雷鳥にもたらしたのは、山田わかから紹介された市川房江だった。雷鳥は房江に会って、ハッとする。「いままでの日本女性にまったくない活動性と実務性を感じた」「いづれこの人の力を借りたい」と、本書に書いている。
 大正8年、雷鳥は房江に引きずられるようにして、名古屋地域の11の工場を見てまわる。さらには東京モスリン工場に入り、女工の山内みなを知ると、「国民新聞」に10回にわたる女工見聞記を書くようになっていた。

 ここから先、どのように雷鳥が婦人運動に入っていったのか、なぜそのなかのリーダーの一人になっていったのかということは、日本の女性解放運動史にとってすこぶる興味深いものがあるのだが、今夜はそこを詳しく紹介するのはやめておく。なぜなら、この運動の中心思想を雷鳥は決して担っていなかったからだ。雷鳥はあくまで伴走者、あるいはもうちょっと正確にいえば絆走者であったのだ。
 しかしながら、ぼくには雷鳥の婦人運動感覚にはやはり独特の発想があって、そこにはおおいに感ずるものがある。それは、房江と雷鳥とが「新婦人協会」をおこしたその当初のやりとりに、如実にあらわれている。
 市川房江が社会制度の改革を通して婦人運動を構想して雷鳥と組もうとしたとき、雷鳥は「婦人会館」を建設することを構想していたのだ。房江は、「機関誌を出すだけでも大変なんだから、会館なんてとんでもない。そういう計画はいまは同志に言わないほうがいい」と雷鳥にたしなめる。雷鳥もそれもそうだと引っ込めるのだが、ここには雷鳥らしい夢がある。時代を包んでしまう象徴的な大きさがある。
 ぼくが雷鳥を買うのは、ここなのである。会館というスペースをひょいと発想するような、この漠然とした大きさなのだ。こういう女性は、なかなかいない。漠然とした夢を語るのならいくらでもいるけれど、それを、これと見極めたコラボレーターに向かって最初に大きく持ち出すという器量が少ない。このときはコラボレーターは市川房江だった。
 だから雷鳥の生涯を見ていて感心するのは、まずは、つねにどんな時期にも女性のキーパーソンを見極めていることなのだ。それもまだ海のものとも山のものともつかない最初期に、その人物を見極めている。伊藤野枝を見いだしたのも、そういうことだった。
 それとともに、ついで、そのキーパーソンに自分の夢をかぶせていっている。これが不思議な雷鳥の魅力なのである。これを雷鳥の「手抜き」と指弾する目も少なくないけれど、見方を変えれば、そこに雷鳥の大きさがあったのだ。ぼくなら、そのように思いたい。
 新婦人協会は、発起人に奥むめお(のちの主婦連合会会長)を加えて、全国に呼びかけが始まり、大正9年に発足した。発会式は上野の静養軒。大山郁夫・堺利彦・嶋中雄作・秋田雨雀らが駆けつけ、機関誌「女性同盟」の発刊、政治法律部・社会部・教育部・衣食住部の4部門の組織が決まり、翌年から婦人団体有志連合会による全国講演活動と全国小学校女教育委員会をスタートさせることになった。
 のちに雨後の竹の子のように婦人団体が生まれていったから、いまではこの新婦人協会の役割はたいしたものとはなっていないのだが、この発足はやはり群を抜いて早い試みだった。

 雷鳥は「女性同盟」に書くことをもって、新たな婦人運動の活動とした。もともと声が小さい雷鳥には、演説はからっきし似合わない。また政治活動の担い手やその突破者になることは、雷鳥自身がどうしても好きになれないものだった。
 そこで婦人論や軍縮論を書くほうにまわった。それを通して、当時の最大の政治目標だった婦人参政権の獲得に寄与するつもりだった。あくまで寄与であって、政治活動の主体になることではない。
 けれども、この程度の活動では、当時の婦人運動の担い手たちは納得しない。山川菊栄もそこが不満だった。『山内みな自伝』には、「らいてうさんの、なによりもブルジョア的雰囲気」が納得がいかないと書いてある。すでに日本社会の底辺に「労働者」という新たな階級が生じていたのである。そこから見れば、どう転んでも雷鳥はブルジョアだったのだ。
 これにはコラボレーターの市川房江も考えこんだ。自分が雷鳥といるかぎりは新婦人協会はうまくいかないと見て、アメリカに転進していった。雷鳥もむろん何もできない。実務能力はゼロ、政治センスもまったくない(実は料理も裁縫もできない)。しばらくすると雷鳥も離れることになった。さすがに労働運動の介在に疲れていたし、実は質屋に通うほどに、お金にも困っていた。
 大正10年(1921)、雷鳥は奥村博と信州に転地して、農家を借りうけ、「村の生活」をするようになる。これはこれで、雷鳥の新たな生活実験だったのだが、世間はそうは見なかった。しかし雷鳥は、このとき初めて日本の農村の実態に触れたのである。

 時代は昭和に入る。戦時中の雷鳥は社会活動の担い手ではなくなっていた。子育てや自然問題に関心を寄せている。では、社会活動を何もしなかったかといえば、そうではなかった。
 昭和2年、41歳になった雷鳥は成城学園の住宅地、いわゆる砧村(きぬたむら)に引っ越した。このとき、一方で高群逸枝に出会って共鳴し、一方でクロポトキンの「相互扶助論」に共鳴した。そこで何をしたかというと、東京共働社の「消費組合」に異様に関心を寄せた。
 これが44歳のとき、成城に消費組合「我等の家」をつくることになり、その組合長をつとめることにまでなったのだ。まさに「婦人会館」の発想を思わせる。思わせるのだが、そこには共同組合という“フーリエ共同体”のような発想も加わっていた(838夜)
 雷鳥の組合主義は過激なものではない。あくまで生活者としての消費者運動のはしりのようなものだったのだが、そこに高群逸枝のアナキズムが加わると、とたんに「無産者」としての自覚が育まれていった。
 昭和5年、44歳、雷鳥は高群による「無産婦人芸術連盟」に参加、本書によれば「新しい自治社会の建設と、母性文化の創造」を謳うようになっていた。この連盟には、高群、雷鳥のほかに、八木秋子、城しづか(夏子)、望月百合子、伊福部敬子、竹内てるよ、住井すゑらが参加し、「婦人戦線」を創刊した。
 ひるがえって、そもそも雷鳥が高群に接近したのは、高群の詩集『東京は熱病にかかっている』を読んだからだった。かつての自分の「青鞜」宣言を思い出したのであろうか。久々に雷鳥の体を血潮が駆けめぐっている。以降、高群と雷鳥はまるで「精神的な姉妹のやうに」重なっていく。高群が断髪をすると、すぐに雷鳥も断髪した。
 ついでながら余談になるが、高群と雷鳥を結んだ無産婦人芸術連盟のメンバーの一人の八木秋子については、ぼくがいまイシス編集学校の「離」の別当を託している相京範昭が詳細な調査研究をしつづけているようだ。

 戦時中の雷鳥は、成城の「我等の家」が経済統制で経営困難になってからは、さすがに打つ手を失っていく。雷鳥だけではない。治安維持法のなか、いっさいの社会主義活動や著述活動もいちじるしい弾圧をうけるようになったので、多くの女性活動家も沈黙せざるをえなくなっている。
 もっとも雷鳥は運動のための運動はしないほうだったから、それでも困らない。それどころか「手のひら療法」に夢中になったり、神秘主義に傾倒していたり、長谷川時雨の「輝ク」に「紀元二千六百年頌」を綴ったりしていた。「輝ク」は時雨がおこした「女人芸術」を発展させたものである(1051夜)。やっと奥村博(博史)と正式に婚姻をしたのも、この時期だった。
 疎開は茨城県小文間戸田井、ほとんど自給自足の農耕の日々である。ヤギを飼って乳を搾り、野菜を育て、梅干、漬物、ラッキョウ、味噌を仕込んだ。
 ところで、本書を読んで、おそらくおおかたの読者が意外ないしは奇異に感じるのは、雷鳥には戦争に対する言及がほとんどないことであろう。
 たしかに雷鳥はこのことをあえて封印するか、抹消するかのようにしているふしがある。しかしこれは、昭和15年に「紀元二千六百年頌」を書いたことに呼応して、当時の雷鳥の意識を率直にあらわしていたともいえる。
 岡本かの子が「輝ク」皇軍慰問号に「わが将士を想ふ言葉」を寄せたのに対して、雷鳥は全面的な共感を示したのだ。のみならず、「国とともに とはに生きますたらちねの 神なる父に 守らるる子よ」という歌を寄せたりもした。
 これらは、のちに雷鳥における「女性史観と国体意識の一体化」と批判されるところとなるのだが、高群が「二千六百年を寿ぎて」を書いたり、『女性二千六百年史』を出版したりしたのと同様、これらを鬼の首をとったかのように「右傾化とか国粋主義への加担」と断罪するのは、つまらない。
 この“過誤”は日本人の大半が冒したフライングなのである。しかもこのときから1年後、日本が太平洋戦争に突入したときは、雷鳥は震撼として口を閉ざしたのだ。

 日本が敗戦した年、雷鳥は60歳になっていた。写真を見ると、いくぶん白髪がまじってはいるが、たいへん上品な老婦人の面立ちになっている。
 雷鳥はしばらく疎開先にとどまっていた。市川房江が「新日本婦人同盟」を立ち上げて、雷鳥にも参加を促したのだが、雷鳥はうんともすんとも呼応しなかった。GHQのエセル・ウィードの声がかりで「婦人民主クラブ」ができて、松岡洋子を代表に、宮本百合子・佐多稲子・羽仁もと子・加藤シズエ・河崎なつ・櫛田ふき・赤松常子・山室民子らが参加したが、ここにも参加していない。
 文部省は「婦人教育研究会」を立ち上げて、有識者27人を呼びかけた。奥むめお・ガントレット恒子・佐多稲子・市川房江・松岡洋子・加藤シズエらが集ったが、雷鳥には声がかからなかった。
 では、雷鳥はどうしていたのか。なんと世界連邦構想の夢をふくらませていたのである。本書には「これぞ探しもとめていたもの」として、世界連邦建設同盟に参加したことをのべている。総裁は尾崎行雄、副総裁は賀川豊彦。雷鳥はやがて理事にも常任理事にもなった。雷鳥の元始の太陽は、一気に世界平和に飛んでいたのだった。
 サンフランシスコ講和条約に向かって日本が“独立”する日が近づいてくると、雷鳥はむくむくと動き始める。世論は全面講和か単独講和かで割れていたが、雷鳥は「非武装の日本」をアメリカに訴えたいと考え、上代たの、野上弥生子(934夜)、ガントレット恒子、植村環、市川房江を誘って、「非武装日本女性の講和問題についての希望要綱」をダレス国務長官に提出することにした。「どんな名目の戦争にも協力せず、夫や息子を戦場に送らない」という宣言である。
 しかし、日米はサンフランシスコで単独講和条約とともに安保条約を結んだ。けれども雷鳥らの動きはなりやまない。「再軍備反対婦人委員会」(雷鳥が委員長)、「日本婦人団体連合会」(雷鳥が会長)、「国際民主婦人連盟」(雷鳥は副会長)を次々に立ち上げ、そこに原水爆禁止全国協議会(原水禁)や母親大会やらがまじっていった。

安保廃棄のデモ行進をする雷鳥(中央)

 雷鳥の最後の役職は、1955年の69歳のときの「世界平和アピール七人委員会」と1966年の80歳のときの「ベトナム話し合いの会」だったろうか。前者は平凡社の下中弥三郎の呼びかけで、茅誠司・湯川秀樹・上代たの・前田多門・植村環(のちに朝永振一郎・川端康成)らとともに名を連ね、後者はベトナム戦争を終結させるための会議メンバーだった。
こうした雷鳥の昭和30年代からの最後の活動は、野坂参三の選挙応援をしたことも手伝って、一部からはかなりの“アカ”だとみなされている。だが、のちに市川房江が「平塚さんは最後は共産主義者のように言われましたが、私はあれは本物じゃないと思います、彼女はイデオロギーは持っていませんでした」と言っているのだが、これが当たっているだろう。
また、これも市川房江が言っていることだが、雷鳥の母性主義が、戦時中の「靖国の母」や「軍国の母」の様相を呈していたというのも、たしかにそのように足並みが揃ったことはあるけれど、必ずしも雷鳥の本意ではなかったということも、当たっているだろう。
1971年5月24日、雷鳥は85歳で亡くなった。最後まで、日本の「ブルーストッキングな女」を応援しつづけ、そして淡々と亡くなった。それから35日後、ぼくは「遊」を創刊した。自伝『元始、女性は太陽であった』が小林登美枝の献身によって完結したのは、1973年のことである。「途中、どんなに困難に試されることがあろうとも、わたくしは永遠に失望しないでしょう」というふうに結ばれている。

 雷鳥は謎である。書き足りないことばかりの案内になってしまったが、仮にそれらを埋めていったところで、雷鳥の本来はあいかわらず謎に包まれるだけだろう。今夜はそのことだけを伝えたい。
 そもそも雷鳥はつねに誤解に包まれていた人だったのだ。そして、それでもなお、「わが生涯のシステムを貫徹する」という生き方をやめなかった人だった。それをオポチュニストとみる声もある。自由闊達の風に向かえた唯一の近代女性だったという声もある。母性主義者だとも優生主義者だとも言われてきた。
 そんなレッテルはどうでもいいのだ。ぼくは雷鳥が「海賊に憧れた少女」であったというだけで、すべてを信用したい。昭和19年、58歳の3月、こんな句を詠んでいる、「木瓜(ぼけ)咲くやわれに乙女の日のありき」。

附記¶大半の著作は『平塚らいてう著作集』全7巻・補巻(大月書店)で読める。自伝には本書のほかに、1955年に刊行された『わたくしの歩いた道』(新評論社)、再編集ものの『作家の自伝・8・平塚らいてう』(日本図書センター)もある。そのほか『平塚らいてう評論集』(岩波文庫)。評伝にもいろいろある。大森かほる『平塚らいてうの光と蔭』(第一書林)、小林登美枝『平塚らいてう』(大月書店)、米田佐代子『平塚らいてう』(吉川弘文館)、佐々木英昭『「新しい女」の到来』(名古屋大学出版会)。「青鞜」については、『「青鞜」女性解放論集』(岩波文庫)が秀逸だが、とくに「らいてう研究会」が編集した『「青鞜」人物事典』(大修館書店)を勧めたい。