才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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西田幾多郎哲学論集

西田幾多郎

岩波文庫 1987~1989

 自分を語ることは一番たやすいようでいて、一番むずかしい。リンゴや公園や北条泰時や集積回路を語るときは自分の位置が対象から離れた外にいるのでちょっと安閑としていられるが、自分を語ろうとすると、そういう自分を語っている自分の位置が言葉のたびに動いてしまうから、そこがむずかしい。哲学はそのむずかしさに挑む。そのため多くの哲学は自分の語り方を問うことに始まり、ついついそこに終始する。
 西田幾多郎は自分の生涯をふりかえって、こう言った。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。
 なかなか、こうは言えない。こうは言えないだけでなく、西田は自分を語るにあたってつねに他に席を譲るようにした。自分への問いを少なめにした。それでいてその内なるものを多様に語ってきた。少なめであることは清沢満之(1025夜)の「ミニマム・ポシブル」や「消極主義」に通じるものもあるが、その語りは苦渋にも飛躍にも満ちていたし、反省にも開放にも向かった。
 こういう語りの方法が西田の禅の体験からきているのはあきらかである。西田は昭和20年の6月、75歳で没するのだが、その最後に当たって書きあげたのが『場所的論理と宗教的世界観』だった。最後の最後まで禅とともにいた。
 西田の生涯の根底には一貫して「禅」と「無」があった。自分を語りながら禅と無を語り、禅と無を語って、語ることを問うた。それがつねに起爆しつづけていた。西田の最期はドイツが無条件降伏をした1ヵ月後、日本がポツダム宣言を受諾する2ヵ月前のことである。鈴木大拙(887夜)はせめて日本のため東洋全体のため、また兼ねて世界のために5年を生きながらえさせたかったと言った。
 西田の生涯は「人生坐り込み」であったのである。畳に坐り、思索に坐り、板に坐り、書に坐り、悲哀に坐り、日本に坐り、壁に向かって坐り、直観に坐り、夜半に坐り、無に坐り、石に坐って、逆にも坐った。
 
 西田の禅の師は雪門玄松である。生涯の同級生は大拙だ。そのことから今夜のぼくの話を始めようとおもう。西田の生涯のかたわらにずっと「禅」と「席」があった2人のことを話しておく。
 雪門玄松は京都相国寺の荻野独園の法を嗣ぎ、しばらく国泰寺の管長を務めているうちに突如としてそこを辞して、金沢郊外の卯辰山の洗心庵に庵居を結んだ。水上勉(674夜)が『破鞋』という作品に雪門の日々を克明に描いた。「この破天荒の僧の生き様は謎に満ちている」と言っている。そこへ西田は通った。少し禅を齧っていた。
 西田は明治3年に石川県河北郡の宇ノ気村に生まれ、四高に入ったときに北条時敬という数学者に出会っている。北条はのちの東北帝大の総長とも学習院の院長ともなった人士で、明治を代表する傑僧であった今北洪川(のちの円覚寺管長)のもとで居士となった。そうとうの変わり者だったようで、謡曲と囲碁と野球には目がなかったが、相手が気にいらないと何も話さない。西田はそこに食らいついて、17歳から1年ほどを書生として入りこんだ。これが西田の1枚目の底を作った。そのかわり高校は中途退学した。
 四高時代の同級生に大拙がいた。大拙も北条時敬に感化されておおいに唸り、こちらはさっさと東京帝大から鎌倉に入って今北洪川の門に身を投げ出した。西田のほうは雪門老師に翻弄されながらも、なんとか坐りつづけるのだが、どうも禅僧には向いていない。ひそかに哲学を志すなかで、それでも雪門老師の心に透体脱落を預けて、坐ることだけはやめないように決めた。「寸心」という居士号をもらった。いまでも西田を偲ぶ会は寸心会という。
 こうして西田は大拙を追って東京帝大に入り、禅門には入らず、金沢に戻って高校教師の職を得て、坐りつつ、哲学の準備にとりかかった。

 座禅とは、存在が無から坐りなおすことである。直立二足をもっぱらとして文明文化を築いた歴史を、ただちに短絡ないしは終局させて坐る。世界も存在も恋も男も、山も両親も音楽も何もかも、坐り込んだら何もない。
 しかし、座禅には座禅から立ち上がる「出定」というものがある。座禅が座禅のままであるなら、それはただの状態になってしまう。だから、どこかでガバっと立ち上がる。そして日常の作務をする。そしてまた迷って坐る。こうしてしだいに結跏も出定も身についていく。西田はこれに懸けた。不動の座禅が立ち上がったまま、そのままのかたちで哲学できないかと観じた。しかもヨーロッパ哲学のすぐれた論理や概念をとりこんで、そこへ「無」の哲学をもちこめないかと考えた。片っ端から哲学書を読んだ。これが西田の2枚目の底となった。
 西田の生涯は、禅にひそむ「無」に向かい、「無」を哲学し、「無」に投企するための人生なのである。30歳前後は1日に10数時間を只管打坐して、そのあいまにダンテ(913夜)の『神曲』に耽ったようだ。
 
 中江兆民(405夜)は「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」と『一年有半』に書いた。このことを知ってか知らないでか、西田はこれを初めて覆してみせた。兆民がそう書いてから10年後のこと、明治が大帝と乃木と啄木とともに倒壊する直前の明治44年の、金沢を出て京都帝大に迎えられてすぐの、満を持しての『善の研究』の刊行だった。日本哲学の誕生である。
 もっともそのような評判が立つのは、大正15年に左右田喜一郎が「西田哲学」という言葉をつかってからのことで、学生たちが京都帝大で沸然として講義する西田の『善の研究』に惹かれていったことをべつにすれば、すぐに『善の研究』が評判になったわけではなかった。あとで説明するが、西田自身もこの著作には不満をもった。
 西田は『善の研究』を書く直前の明治40年、次女と五女をあいついで亡くした。ここで覚悟した。「名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられた様な心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日の様な清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た」と『思索と体験』に書いている。このあたり、清沢満之に通じるものがある。そしてさらに、次のように加えた。「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となると云うのは、如何なる訳であろうか。若し人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ」。
 西田は「疑うに疑いようのない直接の知識」を追究する気になった。人間にとって疑うことのできない確実なものとは何か。ふつうは、外界の事物や現象はわれわれの感覚や意識とは独立して確実に存在しているように思われる。すなわち主観がどうあれ、客観的なものは実在しているように見える。けれども西田はそれだって疑おうと思えばいくらでも疑えると考えた。だいたいそれらを実感しているわれわれの感覚や知覚の実在性が突きとめられていない。
 そこで西田は、自分の主観と客観がまだ分かれる以前の、また知・情・意の区別もまったくない「純粋経験」というものを想定してみた。だから『善の研究』の冒頭に、「たとえば、色を見、音を聞く刹那、(中略)未だ主もなく客もない」と書いた。この「純粋経験」はある程度の複雑な体系をもつだろうと考えた。
 
 原初の経験であるはずの「純粋経験」が複雑な体系をもつとはおかしく見えようが、西田はそうではないと見た。
 たとえばここにコップがあるとして、そのコップを自分が認知できるのは、コップ以外のさまざまなものを知覚しているからであって、つまりはコップ一個をめぐる知覚や認識にはけっこう複雑な体系が動員されているわけである。そうだとしたら、「純粋経験」にもそういうことが想定されてもよい。ただしそれは原初的なものなのだからちゃんとした体系があるわけではないだろう。そこには分裂や衝突がおこっていて、それがなんらかの恰好で統一されているのだろうと推理した。
 このような複雑な「純粋経験」が人間の意識のなかでその後に成長し、発展していったらどうなるか。西田はいずれ闊達きわまりない宇宙のような活動になっていくだろうと想像した。また、そこには最初から「我」などというものは入っていないだろうと考えた。きっと「我」は「純粋経験」のあとから派生してきたもの、あとから抽出されたものにすぎない。最初から入っていたのは統一への意志のようなものだけではないか。そう、考えた。
 こうして西田はこの「純粋経験」が発展した宇宙的なるものを「神」と見なし、またそれを人間が獲得しえたときのものを「善」と見なした。
 ごくごくはしょっていえば、以上が『善の研究』の骨格である。その言い分を漠然と見れば、たとえばホワイトヘッドの有機体哲学やベルクソン(1212夜)の純粋持続の哲学のようにも感じられるが、あまりにも形而上学的で、最初から理想と理念で論理をはこんだだけとも見える。実は西田自身もそれを感じて、このあと自分の思索の限界を切り開いていくのだが、それでもこれが日本哲学の本格的な第一歩だと評価されたのは、ヨーロッパ哲学の概念を検討しながら、ひとつずつ日本語の語法にその思索の跡を位置づけていったからだった。西田哲学とは日本哲学である前に、まず日本語哲学だったのである。
 
 大正6年、『善の研究』以後の思索の成果を問う『自覚における直観と反省』を発表した。ここで西田は直観を反省とカップリングして掴むという目標をたてている。
 西田は直観を「主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識」というふうにとらえた。純粋経験が原初の状態から意識の状態まで進んで、そこに直観が生じていると見た。その直観を反省する自分がいる。ということは、直観する自分とそれを反省する自分がいるということになる。つまり2つの自分が分裂ないしは対比されている。
 これを西田は「意識する自己」と「意識される自己」と見た。いわば自分をめぐるシニフィアンとシニフィエであろう。この2つの自分を放っておけば分裂したままになる。そこで、その2つの自分を統一する自己が必要になる。ただし、統一する自己を新たにふやすと、その統一する自己を直観し、その自己を反省する自己がまた必要になり、やがて自己だらけになる。これではまずい。そこで「意識する自己」(直観)と「意識される自己」(反省)の両方を生んだ能動的自己のようなものを手前に想定した。これが西田独得の「自覚」のはたらきである。
 ここまででだいたい前半の推論になるのだが、後半になって、西田はこの自覚のはたらきは「絶対自由意志」のようなものではないかという提案をする。自覚の根底にそういう意思の動向のようなものがあるのではないかというのだ。いわば最も深い自覚ともいうべきものだが、それは西田にとっては「思惟の極限」であって、それとともにいっさいの反省的な思惟を生み出す「創造作用の根源」でもあった。
 こうして西田はやっと世界を成立させる哲学の根拠の候補をうっすらと手にしたような気になる。そこではあたかも雪門玄松老師のような「絶対自由意志」が世界をみずからあらわしているのである。そこはきっと「無から有が生ずる創造作用」の原郷なのである。しかし、その原郷を説明しようとすると、もうペンが走らない。
 何かがまちがっているにちがいない。西田はこうした自分の思索にうんざりする。「此書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドキュメントである。幾多の紆余曲折の後、余は遂に何等の新しい思想も解決も得なかったと言わなければならない。刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うたという譏を免れないかも知れない」と、率直に書いている。
 
 大正7年から、ふたたび不幸が続いた。母の死、長男の死、子供たちの病気、妻の死などである。西田はこの時期にかなり歌を詠む。たとえば、「運命の鉄の鎖につながれて打ちのめされて立つ術もなし」「しみじみと此人生を厭ひけりけふ此頃の冬の日のごと」「かくしても生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし」「かにかくに思ひし事の跡絶へてただ春の日ぞ親しまれける」「愛宕山入る日の如くあかあかと燃し尽さん残れる命」というふうに……。
 この4首目の歌はぼくも下村寅太郎さんの家で見せてもらった。下村さんは西田を心から敬愛する門下生であるが(久松真一(1041夜)・田辺元・三木清らとともに京都学派を構成していったメンバーの一人である)、その西田先生から頂戴した書をぼくに見せるときは、嬉しそうというよりも、泣きそうな顔をしていた。
 泣きそうなのは下村さんだけではない。西田自身が泣きそうだった時期の歌だ。西田は悩む。ここまでの自分の思索は半ばは失敗だったかもしれない。『善の研究』に孕まれた胚種からの発芽はなるほど日本哲学不毛の土壌に一条の芳香を放ったかもしれないが、それを受け取る論理やそれを開花させるイメージの花弁やそこに蜜を蓄える説得力を欠いた。西田は脱出を試みた。脱構築に向かった。それが「無の場所」の構想になる。
 
 昭和2年、『働くものから見るものへ』という、ある意味では『善の研究』よりずっと重要な、日本哲学史上の最初の金字塔ともいうべきが立ち上った。これは前年の『場所』に続くものだった。西田が「場所」を重視することにしたのは、ヨーロッパの「有の哲学」から東洋の「無の哲学」に向かうには、必ずや「於いて有る」ということの、その「於いて」に着目しなければならないと気づいたからだった。この「於いて」が場所である。
 ここで西田は、これまでの自覚や絶対自由意志を「働く」という動作的な言葉にこめて、直観を「見る」という言葉に集約させた。そして、その直観の対象あるいは受け皿に「無の場所」という概念を導入した。
 それまで西田は主観と客観が分かれる以前の「純粋経験」に哲学の出発点を求めていた。それが『善の研究』だった。しかしここにきて西田は人間の意識のはたらきというものは、主観が客観を「包む」のだと考えるようになった。自分という「見る」ものには、その自分を含む「無の場所」のようなものが介在していると考えた。
 これは大胆だ。たとえばカントの哲学では主観が客観にはたらきかけて客観を構成していく作用が認識であるというふうにとらえていた。それを西田は、主観が客観を包む「包摂関係」こそが認識であるととらえ、意識とはそのような包摂関係を反映して映し出す「場所」なのではないかとみなしたのである。

 西田は何を掴んだのか。まず、主観が客観を包むということを、一般が特殊を包むというふうに判断した。たとえばコップを認知するばあい、われわれはコップでないものやコップに似たものなどを次々に認知していくなかで、このコップという特殊をガラス製品や日用品といった一般概念のうちに措く(措定する)ようにしているわけである。だからコップをコップとして識別できる。
 ということは、われわれは一般によって特殊を包むなんらかの能力や向きというものをもっているはずなのである。しかもその一般概念にはさまざまなレベルやレイヤーがあって、これを高次にも低次にもすることができる。コップの上には容器が、容器の上には器物が、その上には物質という概念が待っている。アリストテレス(291夜)以来、この高次の終点にある一般概念はカテゴリーというふうに規定された。
 では、そのように特殊と一般に包摂関係があると見えるのはなぜなのか。アリストテレス以来の哲学が「特殊(客観)は一般(主観)に含まれる」というふうに決めたからである。「物質はコップである」と言うより、「コップは物質である」と言ったほうが理解しやすくなると感じたからだ。これはカテゴリーの包摂関係としては便利であろう。けれども、そのようにコップや物質を認識している自分との関係はどうか。そうしたカテゴリー関係が成立するのも、自分がその用語を発するときに区分けしたからであるにちがいない。そう、みなしたほうがいい。
 
 幼児は「ブーブー」と「まんま」を区別しながら、いつしか「ぼく」や「わたし」にたどりつく。最初から自分があるということはない。そうだとしたら、特殊と一般をめぐるカテゴリーの包摂関係の直前には、「主語は述語のなかに含まれる」「述語は主語を包摂する」ということがおこっているのではないか。まとめれば、「主語=客観=特殊」は「述語=主観=一般」に包まれていくようになっているのではないか。そのように西田は考えていった。
 これは大筋でのちのゴットロープ・フレーゲの「述語は主語を包摂する」という述語論理そのままの先取りだった。このことについてはぼくも『知の編集工学』(朝日文庫)に書いておいた。
 ただし、西田はそこにとどまっていたのではない。そうした包摂関係が生じる以前を考えたい。いったい何がどこで主語と述語に分かれていくのか。どこかに分かれ道があるのか。そこを考えたい。西田はそこで、「主語となって述語にならないもの」や「述語になって主語にならないもの」があるだろうと考えた。ここがおもしろい。西田はそのことを詳しくは説明しなかったのだが、ここには文法や語法を含む言語そのものの本質からの推理がはたらいていた。
 こうして、とりあえずの中間結論をいえば、意識のようなものはつねに述語的で、主語にはなりにくいと考えたのである。たとえば「自分」とか「われわれ」とか、また「エス」や「イド」や「絶対意志」などというふうに意識を統括しているもの、ないしは意識を動かしていそうなものを主語にもってこようとすると、意識は意識でなくなっていく。かえってたくさんの述語を必要としてしまう。それは西田自身が苦労して「純粋経験」などと名付けて意識の奥をさぐろうとして失敗したことでもある。
 それよりもむしろ述語性にこそ意識が見えてくる、発芽してくると考えたほうがいいのではないか。そこまで推理した西田は、この述語的な一般のほうにこそ無限の入れ物のような作用をもつ「場所」があって、それを「見る」ことによってこそ直観が動くのではないか、そうだとすれは、その場所は「無の場所」のようなものではないかと結論づけたのだ。「無の場所」というのは、そこへくるとカテゴリー関係と自分との関係が溶けあっていくところであった。
 
 もう一度まとめていうと、「働くもの」は主語をもって能動的にはたらこうとしている行為なのである。「見るもの」はそのような作用を根底で受けとめている。その根底に「無の場所」がある。それはすぐれて述語的で、かつまた「一般の一般」とでもいうべきもので、その場所は無底なのである。ちょうどコップには底があり、その底によってコップという意味や実在が支えられているのだが、その底自体には底はないのと同じことで、場所そのものは無底なのである。
 西田はそのように考えて、ひょっとしたら、この「無の場所」には禅が極めた「絶対無」と言ってもいいようなものがひそんでいるのではないかと期待した。
  
 昭和3年、西田は京都帝大の教授の席を退くと、毎年、夏と冬を鎌倉でおくるようにしていた。そこでいっそうの洞察を深めることにした。ここで涌いて出てきたのが昭和5年の『一般者の自覚的体系』と昭和7年の『無の自覚的限定』である。
 なかでも『無の自覚的限定』は冴えわたった。実はぼくが最初に西田を読んだのがこの『無の自覚的限定』だった。その数節が高校の全校実力テストの国語の読解問題に出た。どのくらい解答できたのかは忘れたが、実力テストの結果が発表されると国語の部門はぼくがトップになっていた(あとにも先にも試験でトップになったのはこのときだけ)。それで勢いづいたのかどうかも忘れたが(きっと気合が入ったのだろう)、西田の文章をもっと読みたくなって図書館の全集を拾い読みはじめた。
 それはともかく、この段階の西田がまず着手したのは、場所を述語性にのみ限定しないで、主語(客観)と述語(主観)の両方の相互作用を底で担うものと見直すということだった。そこで『一般者の自覚的体系』では、いったん場所という考え方を奥にひっこめて、そのかわり場所から立ち上がってくる一般者を、判断的一般者、自覚的一般者、叡智的一般者などと分類してみた。「判断的一般者」というのは客観的世界としての自然界を認識している一般者のことで、自覚的に世界を見ていない。「自覚的一般者」は自己を意識してそこへ判断的一般者を引き入れる。これまで西田が考えてきた反省というはたらきはここにおこる。
 こうして知的な自己というものが形成されていくのだが、知的な自己はついつい自己意志をもちすぎることもある。そこを出定する必要がある。この出定したものが「叡智的一般者」である。ここには自在に直観が動き、もともと西田が出発点にした「善」が自由に作用する。
 ここまで書いて、西田は女子英学塾(のちの津田塾大学)の教師だった山田琴とめぐりあい、再婚をした。琴はその後の西田を死ぬまで慕い、また献身的にサポートしたようだ。西田は良寛(1000夜)における貞心尼に出会ったのだ。それがよかったのか、次の『無の自覚的限定』が冴えに冴えた。
 西田はふたたび場所の思想に回帰して、すべてが「絶対無の場所」から成立している世界を想定し、その無の作用が世界を染め上げていくことを構想する。そこには、西田が62歳にして初めて導入した「他者」というものが燻し銀のように光っていた。ここには大乗仏教の「菩薩道」あるいは浄土真宗や清沢満之の「他力」との接近があったのか、どうか。
 
 再婚以来、西田は、われわれはいったいどのように他者を理解するのだろうかと考えていたようだ。自分が自分のことを考える哲学ではなくて、自分が他者のことを考える哲学を考えようとした。
 ふつうは、他人が何を考えているかということはわからない。顔色を見たり言葉尻にひっかかったりしてみるが、どうも掴めない。しかし、では自分は何を考えているかということがわかっているかというと、もっとわかっていない。他人のこともわからないが、自分のこともわからない。そのくせ他者を自分の問題にしがちになっている。このままでは、おかしい。おかしいのは何か想定するべきものが欠けているせいだ。きっと自分と他者を一緒に考えられる何かがあるはずにちがいない。
 そこで西田は、実は「各自が自分自身のうちに内界を分かつ」ということがそれぞれにおこっていて、「私と汝」は相互に境界をまたぎながら、互いが互いを構成するように、あるいは再構成するようになっているのではないかという仮説を立てた。ここはブーバー(588夜)の『我と汝』とも関係して興味深い。
 ただし、ここから西田はいったん面倒なほうに進んだ。この「私と汝」は互いに否定をもって媒介的に述語性を共有させつつ一般者としての自覚に達すると考えたのだ。いわば弁証法的な論理をつかったのである。思うに、これは失敗だった。せっかく結跏と出定をくりかえしてきた禅にもなっていない。
 西田はいつもこのような失敗をしては坐りなおす。このときも坐りこんだ。こうして西田は、ここに「絶対の他」という概念を入れて、そこに喪失や悲哀を媒介とした格別な哲学を確立しようとした。いよいよ清沢の「外物他人」が滲み出してきたのだろうか。こんなふうに書いている。
 
◎自己が自己において絶対の他を見ると考える時、我々の自己は死することによって生きるという意味を有し、他の人格を認めることによって自己が自己になる。私の根底に汝があり、汝の根底に私があるということができる。
◎自己の底に絶対の他を認めることによって、内から無媒介的に他に移り行くということは、単に無差別に自他合一するという意味ではない。かえって絶対の他を媒介にして汝と私が結合することでなければならない。
◎私は他に於いて私自身を失う、之と共に汝も亦この他に於いて汝自身を失わなければならない。私はこの他に於いて汝の呼声を、汝はこの他に於いて私の呼声を聞くことができる。
 
 この西田のメッセージは強烈である。哀しいところもある。ちょっと危険なところも感じる。また、禅僧に胸倉を掴まれて、さあ、おまえの肝っ玉を儂がくれてやろうかと言われているようなところもある。さもなければ、ここにはエロスとタナトスの真の交歓すら感じられる。
 かつて、ある精神医学者はこのような西田の発想にはすこぶる分裂症的な特質が出ていると指摘したことがあった。さもあろうともおもう。ぼくはとっくに、このあたりの西田にはドゥルーズ&ガタリ(1082夜)が『アンチ・オイディプス』(資本主義と分裂症)で持ち出した議論を感じていた。だから西田がポストモダンだなどというのではない。そこにはむしろポストモダン思想がいまだ踏み込めないでいるものが、すでに西田に用意されていたといったほうがいいだろう。それは、西田が分裂症のように自己のなかに他者が陥入するのではなく、自己と他者はあくまで「絶対に他なるもの」であるのに、それなのに互いに通底するはずだという展望をもったことにある。
 こうして昭和8年の『哲学の根本問題』が鮮やかなターンオーバーをはたすのだ。西田は父殺しにも向かわなかったし、フロイトにも向かわなかった。西田は脱構築の名人ではあったし、「種別」という用語を頻りに用いて「差異」の哲学を先取りしているようなところも多々あったのだが、精神医学にも精神医学との対決にも向かわなかった。だいたい雪門玄松とともに坐った座禅の者が心理学などに関心をもつはずがない。けれどもターンオーバーをおこしてみせた。

 西田が『哲学の根本問題』でやってのけたことは、学者や研究者ではめったにできないことだったろう。西田はこれまで、主観は意識によって包む側にいて(述語面にあって)、客観が意識によって包まれる側にあった(主語面にあった)と言っていたのに、これをまったく逆転させてしまったのだ。主観が包まれ、客観が包むようにした。180度、逆のことを言い出したのだ。ターンオーバーなのだ。
 これはふつうは考えられない。しかし西田は平ちゃらである(のちにこの平ちゃらを大拙らとともに「逆対応」と名付けるのだが、まだそこまでは進んでいない)。この時点での西田が、なぜ平ちゃらであるかといえば、ひとつには、意識の視点で世界を展望する哲学を組み立てることをやめてしまったからである。意識は、もういい。自分も、もういい。意識を自分において純粋にしてからことに向かうから変だったのだ。自分を純粋にしてから他に向かうことがちゃちだったのだ。しばしば禅にもおこる過誤である。それよりも自分を中途においたまま世界によって世界を見る方法に関心をもったほうがいい。そう考えた。これがひとつだ。
 もうひとつには、そこに相互作用そのものを軸に考えるという方法を導入した。この相互作用をおこすことを西田は「行為」とよんだ。また、そのような行為に気づくことを「行為的直観」とよんだ。こうすることで何を考えようとしたかというと、以前には「働くもの」と「見るもの」を分けて考えていたのだが、いわば「働くことが見る」「見ることで働く」というふうに、見方をごっそり掴みきったまま、そのまま動かすようにした。
 
 まことに思い切ったものである。かつて西田は「見るものなくして見る」とか「形なきものの形を見る」というふうにしか言えなかった。そこを一気に「行為的直観」が作用そのものとなって動けるようにした。その作用が「主観と客観」や「我と汝」を通して相互作用になること自体をもって、世界を語ろうというふうにした。
 西田は、こうして「行為」を前面に出しながら、ヨーロッパ哲学の原点に変更を加えていった。これはさかのぼっていえばアリストテレスがテオリア(観相)、プラクシス(実践)、ポイエーシス(制作)と名付けたところのものを、「プラクシス=ポイエーシス」に集約できるというふうに組みなおした作業だった(ポイエシスと西田は綴っている)。
 西田がポイエーシスに注目したのは、行為というのは「作る」ことであって、そこには自己や意志を作ることも含まれると見なしたからである。西田は「行為的直観」という用語をつかったが、ロラン・バルト(714夜)ならば「行為者」と呼んだであろう発想がここに生じたとみていいだろう。物語学なら「物語の行為者」と、スペンサー゠ブラウンなら「行為の代数学」と言ったろうか。西田はこのような考え方を驀進させるにおよんで、「身体」や「道具」にも注意を払った。とくに「制作的身体」と「歴史的身体」を重視して、身体は行為における主体であって精神であるという、これまたメルロ゠ポンティ(123夜)から大澤真幸(1084夜)までが挙って言いそうなことを、平然と披露したのである。
 では、「絶対無」や「無の場所」はどうなったのか。ほったらかしになっていたのではい。すべての相互作用や行為に華厳の鏡のように寄り添っていた。「無」を思索に入れない西田は、生涯において一度もなかった。
 
 かくて西田に晩年の円熟が訪れる。ふいに、まったくふいに、有名な「絶対矛盾的自己同一」と「逆対応」が持ち出されるのは、ここである。
 晩年の西田は最初に自分の構築しつつあった哲学の特徴を「一即多」とか「多即一」というふうに見るようになっていた。個物と一般者の関係を、まるで大拙が晩年に華厳に耽ったように、融通無礙に動かすようになったのだ。そしてその直後、そのような「一即多」とか「多即一」を成立させている世界の見方は「絶対矛盾的自己同一なんだ」と断じた。ついに西田は哲学の禅僧になりきったようである。
 まことに解説しにくい「絶対矛盾的自己同一」とは、わかりやすくは個物も一般者も、主観も客観も、精神も物質も、ヨーロッパ的に考えられてきた大半の対立的で対比的な現象や概念や感想は、いったん「一」と「多」を入れ替えつつ、その直後に「無」に肯定されることによって、その矛盾したはたらきを失うことなく自己同一されるという意味である。
 ここでは絶対・矛盾・自己・同一という用語にとらわれないほうがいい。西田も「これは一息に読むんです」と解説している。つまり、これは華厳の相依相入であって、禅の「喝」であり、「持っているのならあげよう、持っていないのなら奪うぞ」なのである。盤珪和尚の「このまま」から「そのまま」へなのである。しかし、そこに、よしんば矛盾や葛藤があろうとも、それも「そのまま」、そのかわり私と汝も一切が「このまま」なのである。
 このような「絶対矛盾的自己同一」を瞬時においておこしたとき、そこに西田は「平常底」があらわれると見た。そして、そのようになること、そのようにすることを「逆対応」と名付けた。
 すでに親鸞(397夜)は「悪人こそが往生する」と言った。これは親鸞における「逆対応」である。その論理を超える論理には「絶対矛盾的自己同一」がある。日本仏教は早くからそれを「自然法爾」とも言ってきた。大拙はそれを「即非の論理」とも言った。何かにつけ、そこには「一抹の無」というものがまぶされている。「一抹の無」の混入を「面目の変換」だとみなせばいい。
 西田幾多郎はあくまで哲学をまっとうしようとしたが、その西田を読むわれわれは、無の自転車でそのへんを乗りまわり、無の茶碗で一服の茶をいただけたと思うのがいいのかもしれない。それでももし、西田のように思索をしたいのなら、「人生坐り込み」だと観じるべきなのだろう。