藤田正勝・安富信哉
清沢満之
法蔵館 2002
ISBN:4831878596

 明治の仏教は神仏分離令と廃仏毀釈もあって、語るのも辛いところがある。興福寺の塔が二束三文で売りに出されたり、廃業やむなき寺院が続出し、キリスト教解禁の嵐も押し寄せた。
 馬篭にいた島崎藤村の父親は「王政復古なんて嘘だった」と言って、日本は「夜明け前」でしかないと断じたけれど、仏教界はその幕末維新を浮き立たせた黎明の動きすらなく、僧侶たちはかなり暗澹たる気持ちになっていた。富国強兵・殖産興業の政策は経営力のないところを切り捨てる寺院削減論につながった。たとえば佐渡には明治元年の時点で500余寺あったのだが、それがわずか1~2年で80ケ寺に合寺され、50の浄土真宗の寺院があっというまに14に減ったのだ。明治仏教は一種の"法難"に見舞われたのである。
 とくに国家神道に向かっていったうねりは巨大なもので、これに対抗できる仏教界の力などまさに風前の灯の状態だった。それならばと仏教のもつ合理性を訴えようとしても、まだその学術的基盤もなく、説得力も用意されてない。まさに明治仏教は暗黒の淵に立たされていたといってよい。しかし、この明治仏教の現実とそれを乗り越えた苦労を語らないかぎり、これからの日本仏教はない。近代仏教はここからしか始まらない。

 この本が出版された2002年がちょうど清沢満之没後100年だった。清沢は文久3年(1863)に生まれて、明治36年(1903)に40歳で亡くなった。この年は日露戦争の予兆が見えはじめて日本中が開戦熱に吹き荒れ、内村鑑三幸徳秋水堺利彦が非戦を唱えて「万朝報」を退社した年にあたる。露伴が『天うつ浪』を発表有島武郎が渡米岡倉天心が『東洋の理想』を英文で出版した年だ。
 40歳は仏教改革の先頭を切る狼煙をあげた革命者としてはあまりに早い死であるが、清沢は天心同様に東京帝国大学でアーネスト・フェノロサにヘーゲルやスペンサーを教えられ、西と東の目によって仏教を改革しなければならないことに目覚めたのである。しかし、それから100年たったのだ。それならば天心を語るように、その清沢をまさに同時に語るべきなのである。清沢か死んだ年は近代音楽の夜明けを告げた滝廉太郎が死んだ年でもあった。そうであるのなら、その滝の音楽が今日に継承されているように、清沢の精神も今日に受け継がれなければならない。それが清沢満之没後100年という意味だろう。

 明治初頭、仏教界がどのように立ち上がろうとしたのかは、やっと調査研究も整ってきて、ぼくなどにもその全貌があらかた見えてくるようになった。ここではそのごく一部を見るにとどめるが、その苦労が偲ばれる。
 廃仏毀釈のなかの仏教界は、最初は大混乱である。たとえば当時の諸宗同徳会盟がつかった用語でいうのなら、「王仏不離」(王法と仏法を一致させて護国思想のために仏教界が動く)、「防邪一体」(キリスト教の嵐に対して一体となって当たる)、「三道鼎立」(仏教・神道・儒教が連携して国民教化を引き受ける)といった議論が始まっていたのだが、これはただただ仏教界の焦りを伝える。旧来の考え方をなんとか再確立しようという程度のもので、こんなことで仏教界が活性するわけはなかった。
 そこで、西本願寺の島地黙雷や大洲鉄然は政府の仏教政策を転換させないかぎり新たな展望は見えないとして、民部省に寺院寮を設置させ、寺院廃合の動きにブレーキをかけるようにした。これが神祇省が教部省に代わることにつながった。教部省のトップの大教正に東西本願寺の光勝と光尊が就いたのはこのときである。
 大教院もつくられた。国民教化運動のセンターのひとつであるが、これは仏教側の期待に反してまたしても神道中心のものになり、島地黙雷や石川舜台はここからの分離をはたすべきだと見て、真宗自立の運動をおこした。これをきっかけに、真宗各派はやがて仏教界の指導的役割をはたしていくことになる。そのなかから最後に立ち上がったのが、「禁欲」と「精神主義」を訴えた清沢満之であり、親鸞の近代性と「求道」を力説した近角常観であり、若き川上肇も加わった「無我愛」運動の伊藤証信だったのである。

 明治仏教を語るには、宗教学がやっと日本に上陸したことにも注目したい。ちょうどイギリスのマックス・ミューラー、ドイツのエルンスト・ロイマン、フランスのシルバン・レビーが広く活躍していた時期で、南条文雄・高楠順次郎・渡辺海旭・荻原雲来らが海外に雄飛して日本に宗教学の礎をもたらした。
 これに呼応したのが近代仏教学の確立であり、アジア諸地域への伝道活動であり、西域などの仏教美術遺跡の学術探検であり、そして仏教近代化への総合的なとりくみだった。明治仏教は明治20年代になって、やっと離陸する。
 仏教近代化の歩みは、最初は曹洞宗の原坦山による医療と仏教をつなげる試みや、真宗大谷派の井上円了の哲学的研究『仏教活論』などが先行した。次がおそらく村上専精の『仏教統一論』『大乗仏説論批判』、姉崎正治の『根本仏教』などによる仏教史研究で、いわゆる大乗非仏説論の提唱につながった。そこへ在家仏教者たちの独自の活動が加わっていく。山岡鉄舟・鳥尾得庵・大内青巒はその象徴だが、青巒の「共存同衆」のコンセプト、楽善会による築地養育院での身障者教育、尊皇奉仏大同団の結成などは、その活動の特徴をよくあらわしている。田中智学や高山樗牛が先導した法華精神の高揚強化も動き出した。こうした流れをうけて、いよいよ清沢満之が立ち上がる。

 清沢は尾張藩士の家に生まれ、16歳で真宗大谷派の僧籍に入り、東本願寺の育英教校に学んだ。さきほども書いたように、東京帝国大学ではフェノロサの薫陶をうけてヘーゲル哲学・スペンサー進化論に共鳴し、井上円了の哲学会創設にも参画した。そのうち「自己」と「無限」の関係を深く考えるようになっていた。
 大学院に進んで宗教哲学を専攻すると、その才能を高く評価した教授たちから将来が嘱望されたのだが、明治20年、京都府が真宗に運営をまかせる京都中学校を創立するとき、その校長に招かれることになり、きっぱりとアカデミシャンの道を断った。仲間たちはその決断に驚いたようだ。やがて校長を辞した後は、きわめて厳格な禁欲生活に入り、妻子を遠ざけて各地の高僧を訪ねる行脚に出た。このときの清沢のことを、ぼくはかつて『遊学』(いま中公文庫)に「フロックコートを脱いだ浄土」とタイトリングした。
 清沢の信仰生活の態度を一言でいえば「ミニマル・ポシブル」である。最小限の可能性で最大限の努力をしようとした。しかしその度が過ぎて健康を害することになり、結核に冒される。明治27年からの1年間は兵庫県垂水で療養を余儀なくされた。ここで清沢は二つのことを実感する。他力による自己統一と結核による死の覚悟である。しかし宗門から応援に来てほしいと頼まれると、決然とそのミッションを果たしに京都に戻ってきた。

 ここからの清沢の断固とした宗門改革活動はよく知られている。いわゆる白川党の改革革新運動である。が、ぼくが注目したいのはやはり「精神界」誌を母体として主張した「精神主義」の標榜である。
 これは「自己精神の充足」とも「万物同体原理」とも「純正哲学の確立の試み」とも「内観思想」ともいえるもので、まことに清沢の独特の思索の航跡をあらわしている。とくにぼくが驚いたのは「二項同体」という方法的概念である。ヨーロッパ思想なら二項対立を常識として、これを止揚していくのが弁証法であり、またそれに代わる試みなのだが、清沢はそこをずばり「二項同体」というふうにして、対立そのものを発祥させない方法から精神をかたちづくろうとした。
 この方法は西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」に先駆ける方法的凱歌であり、また仏教哲学の近代的先駆性にあたる方法論の提起だったと思われる。つまり清沢は根本撞着や矛盾や葛藤をまったく恐れていないのだ。「根本撞着」ではなく「根本の撞着」を発動させている。すばらしい方法的自覚だというべきだ。
 もうひとつ注目しているのは「消極主義」である

『精神界』

『精神界』

 清沢の宗教観は「有限と無限との関係を覚了する」ということにある。これを仏教に分け入り、親鸞を通貫して、新たな近代の人間の生命観に伝えることが清沢がみずからに課した役割だった。このため、清沢は約していうなら「処世の実行」「内観」「満足の現前」「他力の確信」を主張して、精神主義を唱えた。
 このとき清沢は無責任と全責任の関係を説いた。全責任とは自分の過去に責任をとることである。何かがうまくいかなかった、あのせいで失敗した、どうせ世の中は邪魔ばかりする、などとは思わないということである。こんなことを言い出したら、自己など確立できるわけがない。これが全責任である。しかし一方、どうせ私のせいです、自分の責任ですと言うばかりでは、むしろ無責任になる。清沢は「奮起を促すこと」を信条としていたから、こうした無責任に転化する責任主義は許さない。
 では、責任と無責任をどうとらえれば奮起できるのか。全責任を負いつつも、如来に任せる無責任を感じるべきだというのである。「なんであれ私の責任です」などというのは、清沢によれば「如来の責任まで盗んでいる」ということになる。「なんであれ」とは如来において初めてありうることなのである。これを裏返していえば、自己責任をとれないことは赤裸々に表白されるべきだということだ。そして、その表白を通して絶対他力を知るべきなのだ。この表白ができるようになることが、清沢のいう精神主義なのである。すなわち、責任と無責任の対立の奥に仏性の広さと深さを覚知していることが精神主義なのである。

 ところが、このような説明は生ぬるい、消極的すぎるという批判が出た。当時の社会は日清日露を背景に、何でも進め主義だった。消極的な態度はどこにおいても非難された。が、ここにおいて清沢が敢然と反論に出たのである。むしろ消極主義に徹することこそ真の精神主義なのだと反論をぶちまけたのだ。
 もともと清沢の精神主義は、仮にこの世が崩壊しつつあるときも、そこにおいて生きることを可能にするような精神を各人が自己の根拠につかむことをいう。つまり精神主義の背景には、何かが壊れやすいものだという認識がある。その壊れやすさを知る消極性こそ、積極主義に勝る方法である、そう、清沢は論陣を張った。
 これは、当時の名誉追求欲や立身出世欲や金銭獲得欲を痛烈に批判するところともなった。清沢は富国強兵・殖産興業の積極主義に真っ向から挑んだのだった。そしてむしろ、徒らに積極主義をごり押しすることに重大な禍根がのこることを指摘して、ラディカルな消極主義を思想としたのである。
 ぼくはこの清沢の消極主義思想こそ、近代日本の「弱さの哲学」の最初の着歩だったと思っている。このことについては、これまでほとんど議論がされていないことなのではあるが、もっともっと注目されてよい。

 明治33年、東京の真宗大学の学監(初代学長)を引き受けていた清沢の本郷森川町の借家のもとに、すばらしい門下生たちが集うようになった。これが「浩々洞」のはじまりである。借家は近角常観が欧州視察で留守にしたあいだを借りうけたもので、近角が帰って求道学舎を開いてからは、片平町に移った。
 中心となったのは暁烏敏(あけがらす・はや)、佐々木月樵、多田鼎の3人で、そこへ月見覚了・原子広宣・曾我量深・金子大栄・近藤純悟たちが次々に加わってきた。全員が学生か学生あがりである。暁烏は「あの折のことを今思ひ出しても涙の出るやうな嬉しい気がする」と、多田は「この家は我等の此世に於ける浄土なりき」と回想した。よほどの共感共同体だったのだろう。内村鑑三の日曜学校にしばしば較べられるゆえんだ。この「浩々洞」のメンバーから「精神界」が発行されたのである。企画をたてたのは暁烏敏、表紙の絵を中村不折が担当した。
 創刊号に清沢は満を持して『精神主義』を執筆する。斎藤孝ではないが、声を出して読むとよい。「吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。もしこれなくして、世に処し、事をなさんとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものの如く、その転覆を免るること能はざること言を待たざるなり。しからば吾人はいかにして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限者によるの外ある能はざるべし」。まさにフラジャイルな認識にもとづく精神主義宣言である。

附記¶本書は宗教学や思想史の研究者たち15人が分担執筆したもので、これまでになく清沢満之の全貌を伝える。示唆にも富む。『宗教哲学骸骨』などの清沢自身の文章は、全集として有光社版・法蔵館版・大谷大学版などがあるのだが、手に入りやすいのは「日本の名著」43『清沢満之・鈴木大拙』(中央公論社)だろう。評伝としては定番とされている吉田久一『清沢満之』(吉川弘文館)、脇本平也『評伝清沢満之』(法蔵館)がある。
 ごく最近になって、岩波文庫から『現代語訳・清沢満之語録』が刊行された。いよいよ清沢をわかりやすく読める世代が登場することだろう。現代語訳を試みたのは今村仁司さんである。フランス現代思想の最高の案内者だった今村さんが清沢にいつごろ関心をもったのかは知らないが、この逢着はすばらしい。今村さんはさっそくエマニュエル・レヴィナスが宗教と世俗の対立を他者との関係で止揚していることを例にして、清沢の現代的意義を解説していた。
 型破りの暁烏敏については知られていないだろうが、石和鷹の『地獄は一定すみかぞかし』(新潮文庫)が抜群におもしろい。石和はこの小説で伊藤整文学賞を受賞した。元「すばる」編集長である。癌で亡くなった。

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