モーリス・メルロ=ポンティ
知覚の現象学
法政大学出版局 1982
Maurice Merleau-Ponty
Phenomenologie de perception 1945
[訳]中島盛夫

 中村宏が「あのメルロ=ポンティの『眼と精神』ね、あれはダメだね。レンズと精神じゃなきゃダメなんだよ」と言った。
 いまは『ドルメン』編集長をしている田中基といまは東大出版会にいる門倉弘は、ふーんとすぐ頷いたが、ぼくは『眼と精神』を読んでいなかった。あとで知ったが、それはメルロ=ポンティの最後の論文のことだった。
 ラディカルな中村宏の発言にもかかわらず、会話がこの程度でおわったのは、われわれが未熟か、寛容だったからなのだろう。もし一冊の書物をめぐって戦後フランスの苛烈な思想時代のような状況があったなら、こんな程度ではすまなかった。よく知られているように、アルベール・カミュはメルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』に激しい怒りをおぼえて、ボリス・ヴィアンの家でメルロ=ポンティと大論争をくりひろげ、絶交状態までのぼりつめたのだ。いつまでも甘いコミュニズムにすがっているメルロ=ポンティの姿勢が気にいらなかったのである。これはメルロ=ポンティの学校時代からの親友サルトルやニザンとの“奇妙な関係”にもつねにあらわれていた衝突だった。
 もっとも日本にもそういう時代の、そういう日々があったが、それは1965年くらいで「政治と文学論争」と「スターリン批判」ともに終わっていた。

 メルロ=ポンティはベル・エポックの時代を南仏の陽光のなかで育っている。ぼくがこれまでいろいろなエッセイのなかで引用してきたピエール・ロチと同じ故郷である。
 実は『知覚の現象学』にもちょっとした回想部分があって、「当時の至福な想い」は環境のみならずひとつひとつの事物を輝かせていたと書いている。そのせいかメルロ=ポンティは環境的な思考にはかえって関心がなく、逆に知覚の設計回路の中に入りこむようなことを好んだ。「上空飛行的思考」(pensee du survol)が大嫌いなのだ。だからこそ、「知覚の上空を飛行するのではなく、その中に沈潜することを自らに課すような哲学」、すなわちベルグソンの哲学、ありていにいえば『物質と記憶』の解読こそが、青年メルロ=ポンティの最初の課題になった。
 しかし、時代は第一次大戦以降ナチズムの台頭とコミュニズムの拡張で席巻されていく。メルロ=ポンティも沈潜ばかりもしていられずに、現実や現象に対応することになる。
 こうした高等師範学校時代(1926~1930)のメルロ=ポンティの若々しい探索を見ていると、その後の哲学思考の原型があらわれているのがわかる。ベルグソン哲学にフッサール現象学とゲシュタルト心理学がくっつき、そこにマルクス主義が接ぎ木されたのだ。

 しかし、この時期のメルロ=ポンティには何かが決定的に欠けていた。それはやがて「知覚」と「身体」と「行動」、あるいはそれらの「関係」というかっこうをもってあらわれる。ぼくの領分に牽強付会すれば、まさに編集的関係である。けれども、その着想はまだ芽生えていなかった。
 ただ、そうした着想の苗床になるべき体験がメルロ=ポンティにおこった。それは二つの講義を聞いたことによる体験だ。
 ひとつは1929年にパリ大学で年老いたエドマンド・フッサールが行った講義(これはのちに『デカルト的省察』としてまとめられた)、もうひとつはアレクサンドル・コジェーブがパリ高等研究所でほぼ5年にわたってひらいたヘーゲル『精神現象学』の講義である(この講義には日本についての言及もあったため、その後、フランスのジャパノロジストの注目するところとなった)。
 これらがメルロ=ポンティの思索の内奥にこびりつき、関係の存在学を花開かせる苗床になった。
 ちなみにコジェーブの講義にはレイモン・アロン、ジャック・ラカンジョルジュ・バタイユらがしょっしゅう顔を見せていた。

 さて、『知覚の現象学』であるが、この画期的な議論を展開するに至った経緯を、少しだけだが説明しておく。
 1938年、メルロ=ポンティは『行動の構造』をまとめた。この年はフッサールが死んだ年でもあって、当時はその4万ページにおよぶ速記原稿や多様な原稿がナチスの侵害や戦争によって失われることが危惧されていた。そこでこの厖大な遺稿はフライブルクからベルギーのルーヴァン大学に移され、哲学研究所のヴァン・ブレダ神父が管理した。その研究所を最初に訪ね、フッサールの弟子のオイゲン・フィンクと交わり、フッサールの未完の草稿を閲覧したのがメルロ=ポンティだったのである。
 そして、ルーヴァンに移されたフッサールの遺稿のことを「後期フッサール」というのだが、この「後期フッサール」の批判的研究を糧として論述されはじめたのが『知覚の現象学』なのである。

 それまでメルロ=ポンティはおおむね次のようなことを考えていた。『行動の構造』に結実している内容にあたる。
 ひとつは、身体の自覚の問題である。
 これは実存哲学者のガブリエル・マルセルが『存在と所有』という本で「自分の身体」というものを持ち出したことにヒントをうけて、人間は自分の身体をつかって何を知覚しているのか、何を身体にあずけ、何を意識がひきとっているのか、という問題に突き進んでいったことがきっかけだった。
 マルセルは「自分の意のままにならない身体感覚」がありうることを「不随性」(indisponibilite)とよんだのだが、そこにメルロ=ポンティは関心をもったのである。

 もうひとつはゲシュタルト心理学からの影響だった。
 「知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか」というものだ。
 従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっているとみなされていた。要素還元主義である。しかし、ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげつつ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる“形態的で全体的な特性”に対応しているという仮説をぶちあげた。この“形態的で、かつ全体的な特性”のことをゲシュタルトという。
 これはメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準があらわれてくる、そのように考えられるからだった。

 ここでメルロ=ポンティに、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいたのである。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。そして、それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。少なくともメルロ=ポンティにはそう見えた。
 このような見方はデカルト的な心身二元論を決定的に打破するものである。それとともに、ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトを自然の中にあるものとみなしたことを越えて、ゲシュタルトが知覚や意識の中にあるはずだということを予感させた。
 のちに、この意識にとってのゲシュタルトが、実は言語というものを生み出すパターンなのではないかということも、メルロ=ポンティによって提案される。

 こうしてメルロ=ポンティは後期フッサールを読み替える。もともと現象学は、われわれの意識や思索や反省、あるいは科学による研究や哲学による熟考が始まる以前に、すでにそこにあったであろう“見なれた世界”にたちかえるということである。
 そこでメルロ=ポンティは、それならば、「現象学的世界とは、先行しているはずのある特定の存在の顕在化ではなくて、存在そのものの創設なのではないか」というふうに読み替えたのだった。これはフッサールすらもが現象学的還元ということの目標をさだめそこなったことを暗示した。
 ここから『知覚の現象学』は大胆な知覚論や身体論に分け入っていく。
 まず「私の身体」は私によって意識されるとされないとにかかわらず、ある種の「身体図式」(schema corporel)のようなものをもっていて、これがいろいろな知覚や体験の変換や翻訳をおこなっているとみなした。いわば身体の中に“編集部”をおいたのだった。
 ついでこの身体図式からは、しばしば「風景の形態」や「芸術の様式」に似たようなものが、身体の「地」に対する「図」のように立ち上がっていると考えた。
 そして、これらのゲシュタルトのようなもの、あるいはスタイルのようなものを媒介にして、「私の習慣的な世界内存在」がつくられているのではないかとみなしたのだ。これがいわゆる「間身体性」とよばれるものである。
 きっと言語もそのようなものなのだろう。メルロ=ポンティは、言語は身体が身体図式を用いて外部の世界に対しておこなっている応答だとみた。言語が意味をもつのもそのためだと考えた。言語は何かの「地」に対して浮き上がってきた「図」であったのだ。しかし、このあたりの考察は『知覚の現象学』では、まだぶよぶよしていた。のちの『シーニュ』などを待たなければならない。

 ところで本書には、序文がある。そこには「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験である」というすばらしい一文が書きつけられている。
 まさにメルロ=ポンティは「関係化」を考えつづけた人だった。それの関係化は底辺と端緒との両方で更新しつづけられた。根っこと葉っぱの両方である。きっと中村宏は、その根っこと葉っぱの両方を見るレンズがさらに必要だと言ったのであろう。

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