メアリー・シェリー
フランケンシュタイン
国書刊行会 1979 創元推理文庫 1984 角川文庫 1994
ISBN:4488532012
Mary Shelley
Frankenstein ; or The Modern Prometheus 1818
[訳]山本政喜

 リドリー・スコットの『ブレードランナー』を観たとき、これがフランケンシュタイン・テーゼの新たな発展であることがすぐに伝わってきた。
 ということは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』がフランケンシュタイン・テーゼの思索の重要な成果だったということである。
 その10年前、ティム・カリーの『ロッキー・ホラー・ショー』を観たときも、そこにフランケンシュタイン・テーゼが如実に生きているのを知った。電気魔法がいっぱいに効いて、嬉しくなるほどの傑作だった。そのほかヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』にも、アンディ・ウォーホルとポール・モリセイの記念碑的ホラー映画『悪魔のはらわた』にも、フランケンシュタイン・テーゼがつかわれていた。きっと数多くの映画作品がこの伝統を守り、そこに新たなクリーチャーの誕生と二重意識の課題を描こうとして、この普遍のテーゼに取り組んだことだろう。
 怪物が出てくるからではない。フランケンシュタイン・テーゼとは、ジョン・ミルトンの「失楽園テーゼ」を母型としているということである。人間が人間の社会から追放されるとは何かということなのである。

 実はこのようにフランケンシュタイン・テーゼがさまざまな場面に活用可能なことを普及させたのは、第538夜で採り上げた『地球の長い午後』のブライアン・オールディスだった。
 オールディスは『十億年の宴』(創元社)というすばらしい超SF史をエドマンド・バークの「サブライム」(崇高)をコンセプトにして綴り、その後のSFファンタジーが進むべき道を傲然と照らしてみせた。
 その劈頭の栄光を飾ったのがメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』なのである。
 すべてのSFはここに始まったというよりも、ここに始まるべきだとオールディスは結論づけた。なぜなら、オールディスの考えたSFは空想のかぎりを勝手気儘に尽くすものではなく、その空想がもたらすファンタジーが人間の本質を予告するものでなければならなかったからである。
 オールディスは『十億年の宴』でH・G・ウェルズの『モロー博士の島』も絶賛し、そこにもフランケンシュタイン・テーゼが生きていることを示した。人が神にかかわって生命をつくってしまう罪とは何か。これがフランケンシュタイン博士にもモロー博士にも共通する二重意識の罪である。オールディスはSF作家もその罪を負っていると見た。
 つまりオールディスは科学と文学の合体にあたって、科学を人間を改造しつづける罪の光条を放つ両刃の剣とみなし、すべからくSFの本質には神と人をめぐるアンドロギュヌスの論理が生きてくると予言した。科学はどんな良心的な科学でも、人間を改造しているはずである。このことをやめた科学技術というものは、いまのところごく少ない。ほぼ大半が環境改造と人間改造にかかわっている。そうであるならば、空想科学小説としてのSFは、この問題から目をそらすべきではない。オールディスはそこに新たな文学の課題をおいたのだった。
 ちなみに『十億年の宴』の二番目に出てくるSFはエドカー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』だった。二重意識(ドッペルゲンガー)を文学史上初めて物語に昇華した傑作である。

 しかしオールディスは、『フランケンシュタイン』に科学と文学の逢着と合体を見るにあたって、ついつい進化論との逢着を見すぎたようだ。
 実際には“フランケンシュタインの科学”は進化論というよりも電磁気学の予見に満ちている。そういう時代だった。フランクリンの電気凧の実験が1752年、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の初版は1818年。彼女の想像力は未知の電気がもたらす世界でいっぱいだったはずである。
 では、メアリー・シェリーは電気の夢だけでこんな傑作を書けたのかというと、そうでもなかった。フランケンシュタインの物語が誕生した背景には、三人の図抜けた才能が控えていた。それらの才能がメアリーに乗り移ったとしかいいようがない。

 一人はシェリーの父親のウィリアム・ゴドウィン。ぼくがいっとき関心をもった人物で、その急進的で純理的なアナーキー政治思想を表明した『政治的正義』(1793)やゴシック・ロマンの先駆にあたる『ケイレブ・ウィリアムス』(1794)などを書いて、フランス革命以降の政治思想を刮目させている。
 二人目は、そのゴドウィンに惹かれて『プロメテウスの解縛』や『詩の擁護』を書いた若きロマン派の詩人パーシー・シェリーだ。彼はゴドウィンのところでメアリーに出会い一目惚れ、たちまち妻を捨ててメアリーとともに旅に出る。
 三人目は、そのシェリーとメアリーが駆け落ちまがいに出掛けた先にいたジョージ・ゴードン・バイロン卿。『チャイルド・ハロルドの遍歴』で名声を博していたバイロンは、そのころ離婚問題でイギリスを永久追放になり、ジュネーブ近郊にいた(のちにイタリアに住む)。そこへ、シェリー、メアリー、バイロンの主治医ボリドリー、メアリーの異母妹クレアが打ち揃って滞在する。こう書くとなにやら運命の邂逅のようであるが、裏をいえば、ほんとうはメアリーは『チャイルド・ハロルドの遍歴』の前半を清書していた仲だったのだし、クレアはバイロンの妖しい遊び相手でもあった。みんながみんなバイロン卿にぞっこん参っていたわけなのである。これが1816年のことだった。

 ここから先は第380夜にも書いたことなのだが、毎夜、エラズマズ・ダーウィンの生物思想などの話をしていたバイロン卿が、6月のある夜、怪奇譚集『ファンタスマゴリア』をたっぷり読んで聞かせたのち(『ファンタスマゴリア』については高山宏の卓抜な一冊があるので、それを読まれたい)、ひとつみんなで怪談を書いてみようという趣向を提案、ボリドリーが『吸血鬼』を、そしてメアリーが『フランケンシュタイン』を真剣に書いたということになっていく。
 こうして、1816年のジュネーブ郊外のディオダディ荘が世界文学史を変えてしまったのだ。われわれはこの別荘からドラキュラ幻想とフランケンシュタイン・テーゼという、二つのとびきりの幻想をめぐる「種の起源」を得たことになる。
 ついでながら、このディオダディ荘をめぐる男女の目眩き関係を描いたのが、ケン・ラッセルの映画『ゴシック』である。

 作品『フランケンシュタイン』はいくつかの「語り」によって構成されている。
 姉に前代未聞の物語についての手紙を書いているロバート・ウォルトンの驚愕を隠せない語り、そのウォルトンに自身がおこした異常な科学実験の経緯を物語る若き天才科学者のヴィクター・フランケンシュタインの自負と苦悩と復讐の語り、そのフランケンシュタインによって造物されてしまった「怪物」自身が孤独を訴えながらせつせつと告白する殺人と悲哀の語り。
 驚愕と異常と苦悩と孤独と復讐と悲哀。その組み合わせ。そのあいだにいくつかの手紙も入る。
 しかし、それらの語りの群は、事件の真相がだんだんあきらかになっていくなどというよりも、しだいに人間というものの奥に逆巻く「存在の耐えられない重さ」を炙り出していく力をもっている。その「存在の耐えられない重さ」のルーツが、そもそもはミルトンの「失楽園」にあることはすでにのべたけれど、そんな深々とした問題を痩身の“夢見る女”メアリーが綴りきったということ、それを物語というシステムにあてはめえたことに驚かされる。
 いったい文学史上、メアリー・シェリー以外の誰が造物主と人間の関係を、人間と怪物の関係に“移調”できただろうか。おそらくはアイザック・アシモフがロボットの法則をつくるまでは、あるいはアーサー・C・クラークが『地球幼年期の終わり』を、スタニスラフ・レムが『惑星ソラリス』を書くまでは、この主題はメアリーだけの禁断の木の実であった。

 死体の断片を集めてそこに電気ショックを与え、それで死者の蘇えりをおこそうという発想そのものは、ヨーロッパ中世のダンス・マカブル(死の舞踏)や奇跡劇の伝統からすれば、それほど突飛ではない。
 メアリーの卓抜な発想はそこにあるのではなく、ヴィクター・フランケンシュタインが試みたそのような実験があえなく失敗に終わり、「できそこないの人間」すなわち「怪物」が出現してしまったということ(原作には、「怪物」としか出てこない。名前はついてはいない)、しかもその怪物が、人間のような、あるいは人間が忘れていたような孤独と悲哀を感じたということにある。
 この怪物は身を震わせて言う、「呪われた創造者よ、私が生命を受けた日は憎むべき日になったのである。神は慈悲をもって人間を自らの姿に似せて美しく造ったのに、私の姿は人間に似ているがゆえにかえって不快で醜いものになったおまえ自身なのではないか」というふうに。
 この問いに答えられる者なんて、まずいない。あまりにも未来的であり、あまりにも古代的である。哲学的にもそんなことを考えた者はまだいない。
 こんなことを言うとなんだか問題を放置したかのように映るだろうが、おそらく、いまイタリアで由々しくも進行中という“クローン人間”が成長したのちに、いったい何を言うのかを待つしかないにちがいない。
 しかしメアリーは、こうした「存在の耐えられない重さ」にさらにさらに難題を重ねて、これをヴィクター・フランケンシュタインと怪物に突き付けていく。ひとつはヴィクターに心ならずも燃え上がった復讐のおもいとして、もうひとつは怪物がみずから死を選んでいったというおもいとして。
 ぼくは、作品の最後の最後になって、怪物が創造主に愛とも呪いともつかない言葉を述べながら死んでいく場面に、『ヨブ記』を読んだとき以上の衝撃をおぼえ、本を閉じてもしばらく立ち上がれなかった。そうなのか、こんな終わり方があったのかという壮絶な気持ちに陥った。『失楽園』にも『ファウスト』にも腰は抜けなかったのに。

 ところで、『フランケンシュタイン』は文学史上でも最もよく知られた作品でありながら、ほとんど読まれていないということでも有名な作品である。
 そのかわり、誰もが映画『フランケンシュタイン』を観て、フランケンシュタイン・テーゼが何であるかをうすうす知ってきた。とくにジェームズ・ホエールが1931年に発表した『フランケンシュタイン』が決定的だった。ホエールはこのとき無名の俳優ボリス・カーロフを怪物に起用したのだが、世界中の観客はこのカーロフの怪物がフランケンシュタイン・テーゼの“正体”なのだと思いこんでしまったのである。
 その後、何十本、何百本というフランケンシュタイン映画が製作されたのだろうが、このカーロフのイメージを破るものはいまだに出ていない。あの抒情の極みを知っているヴィクトル・エリセさえカーロフのイメージの踏襲を払拭しなかった。
 けれども、ホエールの映画には決定的な問題があった。思い出してもらえばいいのだが、あの映画は奇妙なハッピーエンドで終わっている。そうではない。メアリー・シェリーはそうではなかったのだ。メアリーはフランケンシュタインにも、怪物にも、ともに死を与えたのだった。

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