有島武郎
小さき者へ
角川文庫 1956

 こういう悲痛な文章はもっと読まれるべきだ。
 なぜなら、この悲痛はわれわれの「存在の印画紙」ともいうべきにうっすらと感光しているものと似ているからだ。われわれは「生まれ生まれ生まれて、その生の始めに暗い」はずの生をうけてこの世に誕生した者ではあるけれど、その印画紙は無地ではなかったのである。そこには当初の地模様というものが感光されていた。有島武郎は、生涯を賭けてその当初の感光が何であったかを問いつづけた優しい知識人だった。
 『小さき者へ』。いったい何を意味しての「小さき者」なのか。これは、母を失ったわが子に贈った有島の壮絶な覚悟の証文であって、誰も彼もを存在の深淵に招きかねない恐ろしい招待状であり、また、冷徹な現実をつねに未来に向かって突き刺さるものだということを公開した果たし状のようなものだった。

 有島が19歳の陸軍中将の娘・神尾安子と結婚したのは31歳のときである。まだ本格的に作家になるまでには至っていないころで、創刊まもない「白樺」に短編や戯曲を書いていた程度だった。
 ところが安子は5年ほどで肺結核になり、平塚の杏雲堂病院に入院したまま、7年目に死んでしまった。まだ幼い3人の男の子がのこされた。長男がのちの名優・森雅之である。安子は自分が死んだことを子供たちには伏せるように、葬儀にも子供たちを参列させないように言い遺していた。その4カ月後に有能な明治の官僚だった父親も死ぬ。
 有島はこの直後に猛然と執筆の嵐の中に突入していった。
 大正6年(1917)、39歳である。まさに猛然と、『惜しみなく愛は奪ふ』『カインの末裔』『クララの出家』『実験室』『迷路』などの問題作を、たった1年でたてつづけに発表する。ぼくは有島を『カインの末裔』から読んだ。そして高校時代に打ちのめされていた。のちにのべるように、有島はわが子を僅かでも救うために、この物語を思いついていた。
 こうしてその翌年、「新潮」に発表したのが、痛ましい『小さき者へ』なのである。

有島がわが子に伝えたかったことは、母を失ったお前たちは根本的に不幸だということである。とても大切な何かが奪われたのだということだった。
 母を失っても元気でやりなさい、大丈夫なのだから、とは書かなかった。冒頭から次のように書いたのだ。
 「お前たちは去年、一人の、たつた一人のママを永久に失つてしまつた。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪はれてしまつたのだ。お前たちの人生は既に暗いのだ」。
 幼な子に向かって、いったい「お前たちの人生はすでにして暗いのだ」と書く父親がどこにいるだろうか。父がのこした文章を子供たちが読むのが10歳であれ、15歳であれ、こんなものを読んだら必ずやその時点で、子供たちは自分が存在すること自身の暗部を自覚しなければならないのである。こんな言葉を贈ることが子供への救済になるとは、ふつうは考えられない。
 いまでは精神医学や心理学があまりにも安易に発達しすぎたために、子供時代のトラウマを残さないように、子供を育てる親や教師たちは、できるだけ子供の心に傷をつけないようにする。また、時すでに傷を負った者には、できるだけそのトラウマを取り除いてしまおうとしたり、それを忘れさせようとする。まるで君にはどんな負い目もないんだよと、忌まわしい過去を指一本でデリートするかのように。
 しかし、有島はそんなことを忖度せず、逆に、さらに激越な言葉を続けたのである。
 「お前たちは不幸だ。恢復の途(みち)なく不幸だ。不幸なものたちよ」。

 異様な手記『小さき者へ』にどんな意図があったかは、その直後に知人に送った手紙に、これをもとに作品を書く予定があることが告げられている。
 実際にも、有島はその3カ月後から「大阪毎日新聞」に初めての新聞連載小説『生まれ出づる悩み』を書きはじめた。生まれ出づる悩み。このあまりに象徴的な標題にはまさしく『小さき者へ』が抱えたはずの宿命が問われていよう。誰もが、そう、思う。
 しかしながら、この作品を読めばわかるように、有島は「出生の苦悩」を人間の出生に求めたわけではなかったのだ。有島は「生まれ出づる悩み」は、地球そのものが背負っているのだという結論を導くために書いたのだった。
 こんなふうに、ある。「ほんたうに地球は生きてゐる。生きて呼吸してゐる。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生れ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみ君によつて感ずる事が出来る」。

 ここで「君」と呼ばれているのは、この作品の主人公である木本という青年のことである。
 木本は実在のモデルのある青年で、かつて札幌にいた有島のところにヘタな絵をもってきて、自分は画家を志望しているが、漁師の家に育ち、しかも周囲の誰よりも頑健な体で育ったので、誰もが自分の芸術への憧れを理解してくれない。どうしたらいいかと相談にきた。
 有島はこの青年を応援しようとするのだが、青年はなぜか消息を断ってしまう。それから8年ほどたって、有島のところへ油臭い2冊のスケッチ帳と手紙が届く。青年はまだ画家の夢を捨ててはいずに、東京に出て勉強したいと書いていた。有島は青年が北海道の自然の中にいてこそ大きな画家の資質が磨けると見て、上京を止まらせ、北海道で修行をするのなら自分が学資を援助すると言う。青年は有島の援助を断った。

 この体験を小説にしたのが『生まれ出づる悩み』となった。
 けれども、どうもここには『小さき者へ』との連続性がない。幼な子の将来に宿命づけられた暗部の問題は、『生まれ出づる悩み』では青年画家の自然との融合にすりかわる。主題は北海道の大自然に引き取られ、急にエコロジカルに開放されていってしまう。
 これはまさに、すでに有島作品として最初の評判をとった『カインの末裔』が提示した二極対応への解消だった。
 すなわち、有島はわが子に突き付けた果たし状を、ここでは『カインの末裔』の仁右衛門同様に、自然との格闘からの昇華に導いてしまったのである。対決から融合へ、文明から自然へ、技術から芸術へ、というふうに。
 しかし、作品としてはそういう道があったにせよ、また、わが子に対しては、そのように導く道があったとしても、これは有島がわが子や青年画家に託して自分に課した宿命との闘いを回避させるには、あまりに有島自身の行方を苛酷にするやりかただったのである。そのぶん、文学としての『生まれ出づる悩み』を曖昧にすることにもなった。
 有島武郎を読むばあい、いつもこのあたりの、有島自身の問題と作品を使って乗り切ろうとする方法的主題の問題とが、あたかも生死の境界をどうやって跨げばいいのかという様相を呈して、互いに矛盾しあいながら立ちはだかってくる。
 これはもともと有島が裕福な大蔵官吏の家に生まれ育ったこと、そこから離れるためにあえて札幌農学校に入り、キリスト教を浴びたこと、にもかかわらずアメリカで体験したことは師の内村鑑三の実感に似て「ひどい文明主義」と「人種差別」だったこと(有島はハーバード大学大学院にも入ってそうとうに優秀な成績を収めているのだが、自主参加した精神病院で患者たちから“ジャップ”呼ばわりされて、悩んでいた)、時代が急速に社会主義の理想や白樺派の理想に包まれていたことなど、有島を独自にとりかこむ数々の事態そのものが、現実と理想の劇的ともいえる二極化を痛切に通過しつつあったことにも、それぞれ関係がある。
 そうしたなか、有島はたえず自身の立場というものに疑問を抱き続けたわけである。
 けれども、その立場をとことん倫理的に追求していけば、自分がおめおめと生きているという存在者の根拠に対する容赦ない否定ともなりかねない。それでも有島はその「否定」を選んだようだ。

 有島武郎は二度、心中を試みた。
 一度目は21歳のときで、札幌農学校の級友森本厚吉と定山渓で死にそこねた。あまり議論されてこなかったことだが、男どうしの心中計画である。どうも森本が「君との友情を大事にするために、他の連中を切っている」などと言われたことを、有島がまっすぐに受け止めたのではないかとも推測されているが、ぼくは有島に“孤独な汎神的白虎隊”のような気分がなかったとはいえないと思っている。
 死にそこねた有島は、その直後、キリスト者になる決意をして内村鑑三を読み耽った。神への愛に切り替えようとしたわけである。しかしそれでも離れない森本と一緒にアメリカにわたったのち、有島はアメリカのキリスト教徒たちの堕落を見て、キリスト者になることを断念してしまう。すでにこれら事態の推移に、有島が今後抱えることになるいっさいの矛盾は噴き出ている。
 二度目の心中は45歳のときで、いまさら言うまでもなく、「婦人公論」のとびきりの美人記者だった波多野秋子と、かねての計画通りに軽井沢の自分の別荘「浄月庵」で心中をはかって、思いを遂げた。大正12年6月9日のこと、新聞はこの大ニュースをスキャンダラスに書きたてた。
 関東大震災がおこる3カ月前のことである。

二つの心中に挟まれた有島の生涯に接してみると、死ぬことは有島にとっては何でもなかったことのように見えてくる。
 事実、有島はつねに生と死の境界に挑みつづけた思索と表現を試みてきた。けれども、その試みは創作意欲をけっして満たすものではなく、まさに有島自身の生まれ出づる苦悩を感光するためのものとなっていた。
 もっとはっきりいえば、有島がその後に書いた『或る女』『宣言一つ』などにあらわれているように、有島は理想を創作作品に託しつつも、自身はそれらのコンセプトワークによって毫も救われていなかったのである。それは有島の心中以外の現実的な行動、たとえば北海道の狩太農場を小作人に開放して、それを「共生農場」と唱えるというような社会的行動によっても、なんらの充実や実感を引き出すことができなかったという一事にもあらわれている。
そこで、こんな有島武郎論も横行することになる。もし有島に溢れるようなフィクショナルな才能が迸(ほとばし)っていたら、有島は婦人記者と心中する羽目などにはならなかったのではないか。結局、有島には作家の才能が皆無だったのではないか。こういう感想だ。

 しかし、このような見方では、有島の存在の感光紙がもたらすものの「すさまじさ」にはとうてい迫れない。
 まさに有島は、かつての王朝人が感覚した「すさまじきもの」の淵の上を、最初から明治の王朝人としてすれすれに歩んでいたというべきなのである。それは、学習院予備科に入った10歳の有島が、早々に皇太子明宮(のちの大正天皇)の学友に選ばれていたことにも如実に投影されている。有島はそのように「上の人間」になることにほとほと嫌気をおぼえて育ったのである。むしろ「上の人間」になればなるほど、差別の亀裂が深まっていくことを実感しつづけていたのだった。
 こうして有島は『小さき者へ』を書いているときに、自身につきまとうこのような宿命を、はたしてわが子にどのように伝えるべきかと呻吟し、あえて「存在は最初からなにものかに奪われている」というテーゼを突き付けることを決断したのである。

 ぼくは、ずいぶん早くに有島武郎に惹かれていた。けれども「敗北の哲学」に惹かれたという気分は、おそらくなかったようにおもう。そうではなくて、なんといえばいいか、有島のような、何をしてもアクチュアルな実感から遠くなるように自分を仕向けている生き方に惹かれたのだとおもう。
 もっとありていにいうと、卑怯者であることをどこかで隠せばいいものを、そのように「隠せそうだという思い」がおこること自体が許せなくなって、また卑怯者であることをうまく告白もできそうにもなくて、そうしたことを感じてしまう自分の実感の全貌からどんどん薄くなっていくような考え方や生き方をしている有島武郎の「宿世」の感覚に、なんだかホッとしていたのだろうとおもう。
 少なくとも、ぼくの『小さき者へ』の読み方はそういうものだった。ただ、有島自身にとってはそんなことをしたところで何の救いにもならなかったわけである。

 ところで、有島には実は『卑怯者』という小篇がある。
 牛乳配達の荷車で遊んでいた子供が、何かの拍子でその掛け金をはずし、いまにも牛乳瓶がガラガラと飛び出しそうな瞬間、子供がそれを必死で押さえている現場に出くわしたときの話である。
 それを見ていた「私」は、その光景をなんだか面白い見世物を見るように眺め、やがて子供がこの辛い危機をもう食い止められないと知ったとたん、その場を立ち去ってしまったという顛末になっている。
 「私」は、このような誰かが困っている場に望んで傍観する者たちを、つねづね「卑怯者」とみなしてきたのである。ところが、いざその瞬間になると、そこを立ち去っただけではなく、いっときではあったとしても、その光景が面白くも見えた。そんな卑怯な一日があったという話。
 この短い話は、まるで有島武郎の生涯の圧縮のようでもある。おそらく有島自身がそう思って、この作品を書いたにちがいない。しかもここには、自分の幼い子に「真実」を伝えようとして、その書き方にさえ戸惑っている有島の、去りもせず進みもしない根本衝動のようなものがあらわれている。

 きっと有島武郎はキリスト者になればよかったのである。
 それを拒否しながら「普遍の愛」を表現しようとしたときから、有島自身がすべての苦悩の解放を自分自身への懴悔を作品にしながら表明せざるをえない「たった一人の旧約聖書の書き手」になってしまったのだ。
 こんなことは、なかなかできるものではない。神を除いて「普遍の愛」を自身の周囲に近づけたいとすれば、これ人間を相手にするしかないのだが、今度は誰かが神の変わりを演じるか、そのように演じてもらうための犠牲が必要になる。
 有島は「神なき愛」などさっさとごまかせばよかったのに、ここで自身をこそ犠牲とし、自身をこそ卑怯者にすることを選んだのである。
 すでに有島が書きはじめた旧約の物語は、もう何十ページも進んでいた。書きつづけるか、中断するか。波多野秋子は「中断の美」を煽ったようだ。有島自身も自分が書きはじめてしまった旧約の文章の、一行ずつの矛盾を引き受けたかったのだろう。そう、おもうしか、ない。

 こんな文章が『生まれ出づる悩み』にある。「だれも気もつかず注意も払はない地球のすみつこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでゐる」。
 この一文の前半も有島武郎、後半も有島武郎なのである。
 前半と後半をつなげると、「尊いものが、苦しんでいる」というふうになる。この前後はさかさまに対同しあっている。前は美しくも、後は受苦からの脱出が待っているという、この脈絡。その脈絡が有島にとってはあっというまの根本対同なのである。
 これでは、一週間とて生きられない蝉のようなもの。あんなに美しく翅を輝かせ、あんなに真夏を謳歌しながらも、その存在自体が宿命の刻印であるような蝉である。
 そしてまさに『小さき者へ』には、その蝉の翅の光のような深い矛盾が宿ったのだった。蝉的なるものへの否定しがたい憧れが、いまなお残響することになったのである。
 千夜千冊650冊。ぼくはさらにさらに「小さきもの」を慈しみたいとおもうばかりである。

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