蕗谷虹児
花嫁人形
国書刊行会 1984

「金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」

 三傳。かつて新潟新発田で蕗谷家が営んでいた廻船問屋の屋号である。が、三傳は没落し、明治31年(1898)に蕗谷虹児が生まれたころには街の小さな活版屋になっていた。
 廻船問屋から活版屋へ。ここには蕗谷虹児がのちにめざめることになるメディアの夢がひそんでいた。
 母親の実家は「有馬湯」という湯屋で、明治末期にはまだ賑わいをもっていた。そこから蕗谷傳松のところに嫁いできた母のエツは病弱だったようで、酒呑みの父の家計がまわらなくなると、姉の嫁ぎ先の髪結いを手伝ったりしていたのだが、虹児ほか3人の男を育てながら、虹児が12歳のときに先立ってしまう。
 27歳の若さである。きれいなままだった。母が27歳のまま死んでしまうことがどのようなことをもたらすのか、ぼくにはとうてい推り知れないが、蕗谷虹児にとっての少女の母型がすべて、この「嫁いできて自分を生んで死んでいった美しいお母さん」にあったことは確実である。

◆「文金島田に髪結ひながら花嫁御寮はなぜ泣くのだらう」

 新潟には反骨覇気の気性をもつ文人や芸術家が育つ。良寛も会津八一もそうだし、小林古径も土田麦遷も横山操もそうだった。
 蕗谷虹児がめぐりあったのも新潟を代表する画人の血液である。尾竹越堂・竹坡・国観の三兄弟と出会い、そのうちの尾竹竹坡に日本画を習った。竹坡は尾竹三兄弟のうちでも最も激しい気性の持ち主で、すでに文展の新しいスターになっていたが、そのころ横山大観と激突して文展を去っていた。内弟子になった虹児はその孤立した竹坡のデスペレートな活動にまきこまれる。
 竹坡は大正4年に衆議院選挙に打って出て、落選、その後は絵の濫作に溺れる。5年ほどこうした混乱を内側で支えた虹児は、父親が新聞社の仕事で行っていた樺太に渡る。ここで2年半にわたって放浪をしながら絵を描くことになるのである。
 そのころの樺太はロシアとも日本ともいえる“国”で、10代の最後の青春をこのようなエキゾチックだが、広く荒れ果てた厳寒をもつ“国”におくったことは、蕗谷虹児にさらに新たな「寂寞の物語因子」とでもいうものを注入したようだ。
 やがて樺太から新発田に戻った21歳の虹児は、決心を変えて上京し、竹坡門の先輩にあたる戸田海笛の紹介で日米図案社に入る。住み込みだった。今度はデザイナー修業である。
 デザイナー蕗谷虹児の仕事は、まだ多くが発掘されていないのだが、「アルルの女」のレコードジャケット(図版1)、「現代叙情曲集」(図版2)や南部修太郎の『鳥籠』(図版3)の装禎などを見るかぎり、ジャパンアールデコ風で、香りを重視するデザインだったことが見えてくる。

◆「あねさんごっこの花嫁人形は赤い鹿の子の振袖きてる」

 大正9年、虹児は竹久夢二を訪ねた。これが決定的だった。すぐに「少女画報」主筆の水谷まさるを紹介され、これがきっかけで蕗谷虹児の挿画家としての活躍が始まっていく。虹児の雅号もこのときに生まれる。
 のちにライバルになるかもしれない虹児の才能を気前よくメディアに紹介した竹久夢二を、虹児はその後、生涯にわたって「夢二先生」として尊敬しつづけたという。
 大正11年、吉屋信子が朝日新聞に『海の極みまで』を連載することになると、虹児はこの挿絵を担当した。翌年には「令女界」が創刊され、時代は一挙に少女文化の開花になっていく。
 これは鈴木三重吉の『赤い鳥』を筆頭にして、三木露風・北原白秋・西条八十・野口雨情らが率先した「大正童少文化」とも「大正童心芸術運動」ともいうべきムーブメントのなかで少年主義が先行していたのに対し、竹久夢二、吉屋信子、高畠華宵、中原淳一らのいわゆる“少女派”がこの感覚を一挙に少女にもちこんだ時期と一
致する。
 これを試みに「令嬢文化」あるいは「令女文化」とよぶといい。この感覚は少年主義が少年の魂に広く鬱屈したものや粗野なるものをも含んだのに対して、どちらかといえば社会に晒されていない深窓の少女たちの感覚を引き出そうとしたもので、それこそ小林一三による阪神文化の台頭などとも軌を一にしていた。
 その大正令女文化は、蕗谷虹児のデビューとともに開花したのである。

◆「泣けば鹿の子のたもとがきれる涙で鹿の子の赤い紅にじむ」

 かくて大正13年、「令女界」に『花嫁人形』が発表される。「金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」というメッセージは、たちまち少女だけではなく大人の心も捉えた。作曲は杉山長谷夫。
 虹児は寵児となった。「花嫁人形」もいくつかの詩や童謡とともにすぐに詩画集となって出版された。いま読んでもなかなか哀切に訴える詩歌が載っている。いくつか紹介しておこう。

  わたしはなんにも言へなんだ
  あの子もなんにも言はなんだ
  ふたりはだまって花つんだ (萌芽)

  海辺にちらばる貝がらは
  みんなむかしは生きた貝
  みんなむかしは生きた貝
  銀色キシャゴやさくら貝
  象牙のやうなはまぐりも
  みんなむかしは生きた貝 (松葉の十字架)

  聞いたか 聞いたか 長崎の
  異人屋敷の不思議さを
  青い目玉で見えるとサ
  赤い髪の毛 ちぢれっ毛
  お鼻がこんなに高いとサ
  のっぽで緋羅紗の笠だとサ
  磔(はりつけ)すがたの 神さまを
  毎日拝んで暮らすとサ
  聞いたか 聞いたか 長崎の
  異人屋敷の不思議さを (異人屋敷)

◆「泣くに泣かれぬ花嫁人形は赤い鹿の子の千代紙衣裳」

 蕗谷虹児は大正14年にパリに発った。歓送会の写真を見ると、両側に竹久夢二と野口雨情がいる。このときがシンデレラ・ボーイの絶頂なのだろう。
 パリでは藤田嗣治や東郷青児らとも交流し、何枚もの絵がサロンの美術展に入選し、さらに昭和4年には画廊ジヴィで個展も開いているのだが、もうひとつパッとしない。いや、パリでどんな絵を描いていたのか、資料が少なすぎてパリ時代の蕗谷虹児が立ち上がってこない。
 そうおもっていたら、1991年に朝日新聞社が「蕗谷虹児展」を開いて、そこに『ベトエイユの風景』(図版4)が飾ってあった。いままで白黒の写真でしか見たことがなかった作品だが、パリ郊外の一隅をふっくら胸に入れたような絵で、なんともいえない柔らかさがある。これに「令女界」に連載した「巴里通信」の絵がこの時期の蕗谷虹児の作品では、ぼくが好きなものである。
 蕗谷虹児。いまはいささか忘れ去られてしまった画家である。先だって、帝塚山の女学生たちに美輪明宏のファンが多かったので、ホワイトボードに「蕗谷虹児」と書いて、「ハイ、これは誰?」と訊いてみたら、誰も知らなかったばかりか、「先生、どう読むんですか」と言われてしまった。フキヤコージ。美輪明宏が好きな挿画家だったと言うと、今度、絵を見せてくださいと言う。
 少女漫画のルーツだよと言ってみたが、どうも遠すぎた。そのフキヤコージを知らない彼女たちのためにも、今宵は蕗谷虹児の『花嫁人形』を採り上げてみた。

コメントは受け付けていません。