才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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一握の砂・悲しき玩具

石川啄木

新潮文庫 1952

[訳]金田一京助

何処やらに沢山の人があらそひて、
十四の春にかへる術なし。
ああ、ほんとに。

  どんよりと
  くもれる空を見てゐしに
  人を殺したくなりにけるかな

  やや遠きものに思ひし
  テロリストの悲しき心も――
  近づく日のあり。

  誰そ我に
  ピストルにても撃てよかし
  伊藤のごとく死にて見せなむ

 唐突に何かを打擲するような、いささか加撃的な短歌をあげてみた。静かに激震を引き受けているのがしんしんと伝わってくる。
 啄木は灰色の精神のテロリストで、ココア色の魂のアナキストであった。そういう心情をもっていた。『紙上の塵』という文章には、昔の日本の書生にははっきり「天下国家といふ庫」があり、キリスト教にも「神様といふ庫」があったと書いて、その庫にあたるものがわれわれにはなくなったのではないかと感想しているし、『所謂今度の事』には「無政府主義といふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬」と定義した。アナキズムが「熱烈なる憧憬」だったのである。『ココアのひと匙』には有名な次の詩句がある。

  はてしなき議論の後の
  冷めたるココアのひと匙を啜りて、
  その薄苦き舌触りに、
  われは知る、テロリストの
  かなしき、かなしき心を。

 啄木の思想は僅かな生涯のなかで、アレクサンドライトの光のように散乱し、変遷している。初期には仏教にもキリスト教にも惹かれているし、高山樗牛が抄訳したニーチェにも憧れていた。日露戦争前後では、日清戦争のときには好戦的だった「平民新聞」が非戦・厭戦・反戦に転じても、戦争は必ずしも罪悪ではないと断じて、愛国心を滾らせていた。
 その後は一方でクロポトキンに傾倒し、アナキズムを愛し、他方でハルビン駅頭の伊藤博文暗殺に哀しんだ。冒頭に掲げた「誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ」はそのときの心情を詠んでいる。
 ついで大逆事件がおこると、「時代閉塞」に陥っている日本社会全体を相手どって怒りに苦悩した。教育についても痛哭に吠えた。ぼくがかつて瞠目した『林中書』には「日本の教育は人の住まぬ美しい建築物である。別言すれば、日本の教育は教育の木乃伊である」「小学校教育を破壊しなければならない」と書いている。
 こうした思想や悲憤や弾劾をあらわす歌が多かったわけではなかった。そういう歌をのこすにはあまりに早く死にすぎた。思索を深めきれず、詩歌を彫琢しきれなかった。行動をおこす日々もない。夭折した啄木からそこを読みとるべきなのは、われわれのほうなのだ。近藤典彦の『国家を撃つ者――石川啄木』(同時代社)など、読むといい。

 今夜は7月7日の七夕である。千夜千冊の千夜目が七夕だった。千夜目を七夕にしたくて、そうした。良寛と炎に飛び込む兎のことを書いた。それを1年目とすると今夜で3年目になった。早いものだ。去年の七夕はどうしたかというと、1048夜として白秋を書いた。
 今年の七夕、つまり今夜は千鳥ケ淵の2期ギャラリー「册」で「松岡正剛・千夜千冊展」が始まる。求龍堂の「千夜千冊全集」は版元の都合で10月の刊行になったのだが、当初は7月刊行予定になっていたので、それに合わせた「千夜千冊展」がすでに予定されていたのである。ちょっとした書画とオブジェによる手わざ遊びを展示する。小品ながらも書は納得がいくものが書けた。見ていただきたい。井上ひさしさんのお嬢さんの井上麻矢さんがキュレーションをしてくれている。昨夜はオーナーの北山ひとみさんと展示にいろいろ手を加えた。
 書のひとつに《黒》という字を選んだ。見てもらうしかないけれど、「黒」とも「赤」とも読めるように書いた。書きながら、啄木の「ぢつとして黒はた赤のインク吸ひ堅くかわける海綿を見る」という歌を思い浮かべていた。
 というようなことがあれこれあって、今夜を啄木にしてみたのである。採り上げる一冊は全集でも歌集でもよかったが(詩集や小説はあまり好んでは読めなかった)、最後まで啄木を支援しつづけた金田一京助編纂の新潮文庫の一冊にした。

 啄木は本名を石川一という。26歳2ヵ月で死んだ。27歳に満たないとは、まことに悲痛である。啄木は白秋とは一歳しかちがわない。けれども白秋は昭和17年まで詩魂をそれなりにまっとうし、啄木は明治の終焉とともにまるで断頭台の露と消えるかのように、この世を去った。
 肺結核だった。その短い日々のなかでつねに見えない敵と戦っていた。「かく弱き我を生かさず殺さざる姿も見せぬ残忍の敵」という歌がある。その「残忍の敵」との日々をいささかふりかえりたい。

 陸奥に葛原対月という名僧がいた。盛岡の名刹龍谷寺の住職になった。曹洞宗だ。啄木の父の石川一禎はその禅僧の対月を少年期から慕っていた。啄木の母はその対月の妹だった。一禎は岩手郡平舘の農民の五男で、早々に養子先に預けられ、そこから曹洞宗大泉院に託されて育った。
 やがて対月の妹を世話してもらい、明治20年の春に岩手郡の渋民村の宝徳寺に入った。啄木はその1年前に貧しい仏門に生まれたのである。
 渋民村は盛岡よりまだ北に20キロほど行ったところにある。奥州街道のごくごく小さな宿場だった。啄木が生前に書いた唯一の新聞連載小説の『鳥影』には、「人通りの少い青森街道を、盛岡から北へ5里、北上川に架けた船綱橋といふを渡つて67町も行くと、若松の並木が途絶えて見すぼらしい田舎町に入る。両側百戸足らずの家並の、10が9までは古い茅葺勝で、屋根の上には百合や萱草や桔梗が生えた、昔の道中記にある渋民の宿場の跡がこれで、村人はただ町と呼んでゐる」とある。
 寒村だ。それでも雑貨屋・床屋・呉服屋・荒物屋などはあったらしく、近代が捨て去った生活があった。そのかわりそこは姫神山系の山裾で、前には岩手山が大きく望め、しばらく行くと北上川の清流が輝いていた。
 いま渋民村は盛岡市玉山区になっていて、1970年には石川啄木記念館が開設された。北隣りに古い2階建ての農家があって、そこは啄木が盛岡尋常中学を中退して、いっとき過ごしたところだ。畳の間は1畳。農家の隣りが渋民尋常小学校の遺構になっていて、小さな教室が見られる。見ているとなんとも茫然としてくる。

 啄木は渋民村にずっといたわけではない。実のところは田舎には閉口していた。自分で「東京病」と名付けていたほどに都会に憧れていた。それにもかかわらず、村を離れると啄木の望郷の念は時を追えば追うほど名状しがたく募った。そして、こういう歌がのこされた。

  かにかくに渋民村は恋しかり 
  おもひでの山 
  おもひでの川

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに

  岩手山
  秋はふもとの三方の
  野に満つる虫を何と聴くらむ

 まるで望郷のためにそういう村に育ったと言いたくなるほどだが、実際にも啄木は9歳で父母の膝下を離れて盛岡に行った。高等小学校に入るためで、伯父の工藤常象のところに寄宿した。明治31年には盛岡尋常中学校に進み、そこで生涯の盟友・金田一京助と、のちに結婚する堀合節子と出会った。
 歌を詠みはじめたのはそのころである。すでに花明の雅号をもっていた早熟の金田一が与謝野鉄幹と晶子の「明星」に投稿していた。「明星」は明治32年に結社された新詩社から刊行していたのだが、金田一少年は早々にその社友になっていた。誇らしげだった。中学3年のとき、少年啄木もつられていっぱしの社友になった。さっそく晶子の『みだれ髪』を貪り読んだ。当時の歌「見ずや雲の朱むらさきのうすれうすれやがて下りくる女神のとばり」など、晶子そっくりだ。
 啄木は節子に淡い恋心を抱きつつ、歌に耽り、しだいに学業を疎かにするようになった。そのうちカンニングがばれて、卒業があやしくなってきた。このときやけっぱちになって作った歌が「明星」に載った。啄木は狂喜する。白頻と号した。「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」。
 明治35年、16歳の啄木は上京を決意する。憂鬱きわまりない東京病少年なのである。行く先はひとつしかなかった。鉄幹と晶子を訪ねた。「人生の高調に自己の理想郷を建設せん」という意気込みになっていた。短い生涯のあいだ、啄木はのべつ失望し、のべつ高揚する青年だったのだが、このときはさすがに故郷を捨てる気分と節子との別れはせつなく、次の歌をノートに書きとめている。

  岩を踏みて
  天の装ひ 地のひびき
  朝の光の陸奥を見る

 鉄幹と晶子は憂鬱少年啄木を温かく迎えた。そうではあったが、新詩社に屯する岩野泡鳴・相馬御風・高村光太郎はやたらに巨きく見えた。晶子と鉄幹を恋争いしたという山川登美子もいた。みんなキラキラしている。
 そうした東京文化の渦中、啄木は猛然と歌を詠み、貪欲に文学に走った。バイロン、シェイクスピア、トルストイ、イプセンを唸りながら読み、鷗外が訳したアンデルセン『即興詩人』を読みおわった日の日記には「飄然として吾心を襲ふ者、ああ何らの妙筆ぞ」と書きとめた。
 ここで最初の不幸がやってくる。中学時代の攻めこんだ日々がたたって高熱と頭痛に襲われるようになった。襲ったのはバイロンやアンデルセンや病気だけではなかった。あっというまに借金もたまった。
 知らせをうけとった父は驚いて、裏山の栗の木をあわてて檀家に売った20円の金で上京し、青息吐息の啄木を連れ帰った。「人生の高調に自己の理想郷を建設せん」とした意気込みはたった四ヵ月で挫折してしまったのである。東京病はまさに病いを高じさせた。痩せ衰えた自身の姿を啄木鳥になぞらえ、ここから石川白頻は「石川啄木」になる。独特の自嘲もここから始まった。

  ほほけては藪かけめぐる啄木鳥の
  みにくきがごと我は痩せにき

 渋民村に戻った啄木は、体が回復するとともに創作意欲が旺盛になっている。こういうところは切り替えが早い。「明星」に『沈吟』八首を投稿したのをきっかけに『愁調』という五篇の詩も発表した。
 啄木がいったい歌を得意としたのか(歌ばかりすぐ作れるというのは気がひけると感想を漏らしていた)、詩に賭けていたのか(つねに詩人としての過剰な矜恃を持っていた)、それとも小説家になりたかったのかは(何度も小説への意欲を吐露している)、いまなお議論が分かれるところだが、このときは初めて自身の内に眠る詩人性に気がついたようだ。今夜はそのことを強調する気はないけれど、しかし少なくとも二六歳の生涯のなかでは、自身の才能の本格とは出会えなかったと思われる。
 故郷に帰った啄木を駆り立てたことが、もう二つほどあった。ひとつは堀合節子との念願の結婚である。病身と傷心の啄木を心やさしく慰め、励ましつづけたのは節子だった。反対を押し切り、啄木は結納にこぎつけた。
 もうひとつは、意外なことにアメリカ行である。これまであまり取り沙汰されてこなかった啄木のアメリカ願望はたちまち挫折するのではあるが、いっとき夢中になった計画だった。
 アメリカ願望に火を付けたのは野口米次郎の詩集『東海より』(From the Eastern Sea)である。野口は志賀重昂の影響もあって18歳でアメリカに渡り、すでに日米両国で詩人として名をなしていた。「日本」を海の向こうから謳うということをやってみせた最初の詩人だ。かのイサム・ノグチの父親にあたる。啄木はそのヨネ・ノグチにめっぽう憧れた。何でも憧れ、そのすべてに失意したのが啄木なのではあるけれど、野口米次郎への憧れは尋常ではない。
 こんなふうに書いている。「我近頃、しきりに太平洋の波のかなた、ロツキイの山彙走る自由の国に参りたく、夜な夜な思ひに耽り居候」。
 姉崎正治に宛てた手紙だ。姉崎は明治6年生まれの姉崎嘲風のことで、イギリス・ドイツ・インドに留学した宗教学者だ。ハーバード大学で日本文明講座をもった最初の日本人でもある。高山樗牛とともに「帝国文学」を主宰し、ニーチェを称揚する国粋主義者でもあった。少年期に仏教環境のなかで育った啄木には、嘲風姉崎正治はつねに師匠であった。
 それにしてもアメリカ行とは啄木らしくない。らしくはないし、このあとも述べるように、たしかに啄木はその貧困ゆえにつねに行き当たりばったりのアナーキーな行動ばかりとったのであるが、そこにアメリカ的自由が混入していたということは、啄木を語るうえでは見逃せない。おそらく渡米が叶ったとしてもきっと失望するだけだったろうとは想うけれど(内村鑑三や有島武郎やのちの竹久夢二のように)、それでもアメリカもまた啄木の分身になりうるものだったのである。
 
 ここで啄木の身辺を新たな不幸が襲った。父の一禎が宗費を滞納したのを理由に宝徳寺の住職を罷免されたのだ。およそ生活能力がからっきしの啄木は、それなのに父母を養わざるをえなくなる。結婚などとうてい無理そうだった。
 やむなく啄木はまだ諦めきれないアメリカ行と処女詩集の刊行の目処をつけに、ふたたび上京した。岩手山は雪に覆われ、節子が黒沢尻まで送ってきた。
 明治38年の正月は旅順陥落で日本中が沸き立った。アメリカ行にも詩集刊行にも失敗した啄木は、それでも日露の戦勝には気分が高揚したようだ。花電車にも乗り、新詩社の新年会にも駆けつけている。このあたり、あいかわらず意気が揚がったり消沈したりの、どこか懲りないところが目立つ。
 詩集は5月に小田島書房が引き受けた。『あこがれ』と題した。上田敏の序詩、与謝野鉄幹の跋、石掛友造の装幀が飾った。啄木はこれは売れるにちがいないと確信して(またまた自信過剰になって)、印税を結婚資金にあてがうつもりで媒酌人やらを手配する。故郷に錦を飾るつもりで結婚式の日取りも決めた。
 けれども詩は一部で注目されたものの、まったく売れなかったのである。啄木はまたまた落胆し、都落ちのつもりで盛岡に帰るしかないと腹をくくった。
 ちなみに『あこがれ』を、ぼくは買わない。日夏耿之介がいう「イミテイションがうますぎる」という意味ではなく、詩としてつまらない。突起性もない。それでも啄木の心情は打ち水のような言葉になっている。それがたとえば『枯林』の第3連によくあらわれている。「をはり」「くれ」「落ちて」が「さびしみ」なのである。

  さびしみに胸を捲かれて
  うなだれて、黄葉のいく片
  猶のこる楢の木下に
  佇めば、人の世は皆
  遠のきて、終滅に似たる
  冬の晩、この天地に、
  落ちて行く日と、かの音と、
  我とのみあるものにも似たり。

 さて、ここからの啄木こそデラシネきわまりない放浪の啄木だ。一所不在の啄木だ。壮絶な啄木だ。
 上野を発った啄木は仙台で途中下車すると、何を思ったのか、土井晩翠を訪ねたり、友人たちに会ったり、「東北新聞」に原稿を書いたりしながら大泉旅館に宿をとり、10日ばかりを過ごしている。日取りの決まっている結婚式が迫っていたにもかかわらず。なんとか晩翠夫人から15円をせしめてやっと盛岡に向かうのだが、そこでは下車せずに好摩駅にまで行ってしまう。
 こうして「新郎のいない結婚式」がおこなわれてしまったのだ。節子は泣きじゃくるばかり。まさに花嫁人形と化した。
 常軌を逸している。前代未聞である。いかにも寂しい。「さびしみ」だ。なぜこんなことを仕出かしたのか。啄木にはプライドがあったのだ。一家を養う者としての体裁があったようだ。それが目の前で破綻していく姿を人目に晒したくないという行動に走らせた。が、こんな勝手な行動はまだ序の口だった。
 やっと盛岡に姿を見せた啄木を、節子も親族もよろこんで迎え、2人は盛岡の帷子小路に4畳半を求めて新婚生活に入る。啄木、19歳である。もう少年ではない。こんな4畳半暮らしでは啄木のプライドは落ち着かない。だから「狭いながらも楽しいわが家」は嫌だった。またもや借金をすると、加賀野の磧町の一軒家に転居した。
 さすがに友人たちは呆れた。媒酌人になった上野広一は啄木との交際を断つと通達してきた。中学以来の親友の小沢恒一も、これ以上同様のことを続けるなら君とは敵として闘うしかないと言ってきた。
 それでも啄木の矜持は挫けない。啄木の名声に引かれて近づく東北の文学青年たちを前に、文芸雑誌を創刊する計画を見せる。雑誌「小天地」である。鉄幹・岩野泡鳴・正宗白鳥・小山内薫・綱島梁川に原稿を依頼もした。雑誌は大信田落花が費用を負担したので1号目は出たのだが、あとが続くわけはない。啄木は借金をさらにふくらませて動きがとれなくなり、ついに渋民村に戻ることにした。啄木の日々はこうした寄せては返す憂鬱のリフレインなのである。

 原郷に帰ってきた啄木が選んだ職業は渋民小学校の代用教員だった。月給は8円。校長と訓導と女教師と啄木の4人の小学校。女教師(上野さめ子)はクリスチャンだった。それでも啄木は「日本一の代用教員」であることを自負した。
 もとより教育には一家言をもっていた。とくに教育勅語が気にいらない。その日々は有名な『渋民村より』にも綴られているが、こんな歌も書いた。「わが村に/初めてイエス・クリストの道を説きたる/若き女かな」。
 啄木は日本の「教育の仮面」を剝ぎ取りたいと思っていた。そこで独自の教え方をほどこし、放課後には英語まで教えようとした。その一方では、鼓腹撃壌を甘ったるい旋律にのせた自作の歌を生徒たちに歌わせてもいた。

  自主の剣を右手に持ち
  左手にかざす愛の旗
  自由の駒に跨がりて
  進む理想の路すがら
  今宵 生命の森の蔭
  水のほとりに宿かりぬ

 ぼくは啄木のこうした教育観をどこかで少しくらい議論したいと思うのだが、ここでは追いかけない。ただ、そこにはのちに宮沢賢治が教育に熱情をふるったことの先駆があらわれていると思っていることだけ、告げておきたい(賢治の教育観については900夜に書いておいた)。
 教育に義憤をもっていたので代用教員をしてはいたが、文学の夢も捨てがたい。夏休みには上京して東京の文芸界を観察し、自分が小説を書けばこの程度の水準なら覆せると思いこんでいた。漱石と藤村だけは学殖のある新作家だが、あとはみんなダメだと日記に書いたりもしている。
 そこで急激に小説を書きはじめた。『雲は天才である』がその処女作であるが、途中で飽きたのか、未完のまま『面影』や『葬列』を書いた。いずれもそんなに上出来の作品ではなく、これじゃ売れないだろうという感想をぼくももったが、案の定、啄木は小説家としてはまったく認められなかった。
 結局、代用教員の日々も小説の日々も一年すらもたない。やむなく啄木はいったん浪漫主義から這い出て別の日々に脱出するという方向を模索する。
 そこへ事件がおこった。父の一禎が罷免を解かれて宝徳寺に復帰できるようになったのだが、一家の窮状を見かねて突如として家を出てしまったのだ。蒸発である。啄木はその日の日記に「我家の記録の中で極めて重大な一日であった」と綴り、「一家は正に貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居る」と書いた。これではリアリズムにめざめるしかなかったろう。
 学校をやめた啄木は北海道へ行く。節子と生まれて5ヵ月の乳飲み子(京子)を盛岡の実家に戻し、妹を小樽の姉の家に行かせることにして、函館をめざした。まさに絵に描いたような一家離散だった。函館青柳町の松岡蕗堂のところへ転がりこんだ。明治40年5月4日のことである。

  石をもて追はるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし

 北方の洗礼をうけることになった啄木はどうしたか。5月11日に紹介された函館商業会議所は20日間でやめた。6月11日に始めた弥生尋常小学校の代用教員は1ヵ月でやめた。7月7日に節子と京子を函館に呼んだ。8月18日には函館日日新聞に勤めた。「月曜歌壇」なるものをおこして、歌の講釈を書いた。
 ところが1週間後、東川町の出火がおりからの大風に煽られて町を嘗めつくし、函館は全市の3分の2を焼失した。函館日日新聞社も焼け落ちた。みんな、いっときの職を求めて札幌に動いた。啄木も9月14日には札幌に入り、北門新報の校正係にありついている。月給は15円だった(こんなふうに短時日しか函館にいなかった啄木だが、いま立待岬には啄木と石川家の墓があるし、函館図書館には啄木文庫が開設されている)。
 校正係は2週間で終わった。新たに創刊される小樽日報に移った。月給は20円。妻子と母を呼ぶことにした。このとき一緒に小樽に動いたのが野口雨情であったことは、すでに700夜に書いた。それが9月末のこと。啄木と雨情は3面を担当して張り切るのだが、12月20日に社内の紛争に巻きこまれて(自分でも意図的にかかわって)、退社する。やはりのこと、3ヵ月ももたなかった。仕事ができない男なのだ。

 啄木は妻子と母を小樽に残したまま年末年始を了えると、最果ての釧路に旅立っていく。職場を釧路新聞に移したのだ。明治41年1月21日、夜の9時30分に着いた釧路は町も雑木林も海も真っ白だった。

  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき

 釧路の啄木についてはさまざまな憶測が語られてきた。文芸欄と政治欄を担当した啄木は町の新規名士であって料亭にも出入りできた。小奴という芸者と馴染みとなり、看護婦の梅川ミサホや寺の娘の小菅まさえなどとも交際した。それなのに3月28日、啄木は釧路を去った。新聞社での人間関係がうまくいかなかったのだ。どんな職場でも問題をおこしつづける男だったのである。
 1年足らずの北海道滞在は、かくして不首尾をかこった。新たに親しくなった宮崎郁雨(歌人で節子の妹の夫)はやはり啄木は東京で勝負すべきだと説いた。啄木には胸元から口元まで社会に対する苦情と不満と絶望がいっぱいつかえていたが、それによって切りこむべき土俵はやはり東京にしかないと思われた。
 啄木一家の死活を懸けての最後の東京暮らしがこうして始まった。その帝都東京では「明星」の時代が去り、自然主義文学が燎原の火のごとく広まりつつあった。啄木の「国」は北へ東へひたすら動きまわったのである。

  飄然と国を出でては飄然と
  帰りたること
  既に五度

 啄木が最後の賭けに出た中央文芸界では劇的な世代交代が進行していた。1048夜の白秋、938夜の吉井勇のところにも書いたように、北原白秋・吉井勇・長田秀雄・木下杢太郎らが袂を連ねて新詩社を脱退してしまっていた。
 鉄幹には往年の覇気はなく、晶子が一人気を吐いているだけ、歌壇の風も明星派から伊藤左千夫らの根岸派に移りつつあった。こういう時期の文芸界を収められるのは鷗外くらいのもの、実際にも鷗外は観潮楼に歌会を催して、文芸界がガラスのように割れるのを防ごうとしていた。
 しかし啄木はまず生活しなければならない。どこに勤めてもダメだから、小説が一番実入りがいいのでそれに自分の気持ちを向けるのだが、あいかわらず評判はよくない。「夏目の『虞美人草』なら一ヵ月で書ける」と踏んだのに、試みに書いてみた『病院の窓』も『天鵞絨』も、「新小説」の後藤宙外にも「太陽」の長谷川天渓にもまったく受けなかった。そのころ作家の川上眉山が自殺する(国木田独歩は病死する)。啄木はそういう作家たちの死がいよいよ他人事ではないと思いはじめていた。
 住処は金田一京助が助けて、本郷菊坂町の赤心館の1室を用意してくれた。けれども家賃は払えない。6月12日、金田一が見るにみかねて冬服を質において12円を用立てた。啄木はそれで下宿代を払うのだが、さすがにこんなことではまずいと思う。赤心館の名が泣いていた。
 やはり、歌か。啄木は眉山の死がまだ周辺に漂う6月23日の夜、意を決して歌を作りはじめ、25日までに141首の歌を書きなぐっていった。それが『一握の砂』に収録された数々の歌である。『一握の砂』の巻頭は次の三首になっている。

  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる

  頰につたふ
  なみだのごはず
  一握の砂を示しし人を忘れず

  大海にむかひて一人
  七八日
  泣きなむとすと家を出でにき

 たいしてうまくはない。格調があるわけでもない。独創的でもない。けれども、このようにしか詠めない、こういうふうに言うしかないというものが五七五七七状にひりついている。
 歌われているのは「悲想」「哀切」「孤愁」「憂鬱」である。啄木の歌はたいていの歌が回想か想定だから、この「悲想」「哀切」「孤愁」「憂鬱」は思い返したその時その場の感想のリプレゼンテーションであって、現実から放たれた言葉ではない。実際、これらの歌は東京で詠んだ。だから「東海の小島の磯」は函館の大森浜かもしれないし、野口米次郎の『東海より』が転んでやってきたのかもしれない。「一握の砂」がどこの海岸かもはっきりしない。どこの東海の砂であれ、啄木にとっては歌が卒然と手元を離れていけばよかったのである。もとより啄木の「国」は動きまわるものだったのだ。それが啄木の“一握の国家”というものだったのだ。

 それにしても、歌はできたが家族をどうするか。やはり歌では何も食べられない。体も蝕まれるばかりだ。そこへ宮崎郁雨から手紙がきて、これ以上、節子さんと京子ちゃんとお母さんを放ってはおけないと言ってきた。郁雨は現金書留で15円を送って、どんな片隅でもいいから一家が一緒になりなさいと促した。一人でさえ苦しい生活は、これでどんづまりの極貧を一家が分けあうところまで追いこまれた。
 耐えられない節子が盛岡の実家に帰ってしまったのは10月2日である。啄木は妻子の家出に愕然とする。それまで啄木はどこか人生をとことん甘く見くびっていた。しかしこのたびの愕然は心底のものだったようだ。「泣き沈む六十三の老母を前にして妻の書置読み候心地は、生涯忘れがたく候。昼は物食はで飢を覚えず、夜は寝られぬ苦しさに飲みならはぬ酒飲み候」と新渡戸仙岳(のちの教育者)への手紙に書いた。

 もはや啄木が敵とするべきは、社会が自分にもたらした窮状になったのである。灰色の精神のテロリストに、ココア色の魂のアナキストになるしかなくなっていた。
 明治42年の「スバル」(鷗外が引き受けた明星派とパンの会を合流させた雑誌)12月号に、啄木は「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」を寄せ、国家と道徳の関係を詰問した。また同じころに「食ふべき詩」を東京毎日新聞に寄せて、これからの詩歌は「実人生と何等の間隔なき心地」をもって作られるべきだと書いた。
 自分への責でもあった。社会と啄木はまさに敵対せざるをえなかったのだ。松本健一は『石川啄木』(筑摩書房)に「近代がムラから誘い出した詩人」として、それゆえにまた「近代の大衆が実感する詩歌を歌った詩人」として、啄木が国家と社会の反対のほうへ傾いていった理由を描いている。
 翌年、幸徳秋水らの拘束逮捕が世間を騒がせた。大逆事件の開幕である。啄木はこの事件に心を動かされ、ノートに『時代閉塞の現状』を綴る(生前未発表)。明治44年は26歳、死の前年で腹膜炎で入退院をしていた1年だが、啄木は頻りにクロポトキンをはじめとするアナキズム文献に耽り、大逆事件の背景の解読に心血を注いでいる。
 しかしもはや生活も身体も最期の状態を告げていた。節子の実家と絶縁し、郁雨とも義絶、節子も啄木への不信をあらわにした。

 1月、母が喀血し、3月に世を去った。1ヵ月後の4月13日午前9時30分、啄木も死んだ。死に立ち会ったのは父と節子と若山牧水だけだった。それからまもなく明治大帝が崩御し、乃木希典夫妻が自害した。鷗外が愕然として「簡浄」に転回していったのは、それからまもなくだ(これについては758夜『阿部一族』に書いておいた)。
 死後、土岐哀果(善麿)が奔走して、『悲しき玩具』が刊行された。まことに恐ろしい題名だが、「歌は私の悲しい玩具である」という章句から採られた表題だ。友人たちがこれしかあるまいと選んだ題名だ。遺品に残っていた歌も加えられた。「呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!」というものだ。
 が、啄木はあえて死ぬことを望んでもいたようだ。いや、こういうときは「死を臨む」と綴るべきだろう。こんな歌もある。「看護婦の徹夜するまで、わが病ひ、わるくなれとも、ひそかに願へる」。

 啄木の歌は、そのスタイルからみれば薄田泣菫と蒲原有明の亜流であろう。啄木は名うての修辞者であったのだ。一首を3行に分かち書きするようになったのも、土岐哀果のローマ字歌集『NAKIWARAI』の踏襲である。
 しかしそうではあるものの、啄木の歌はまさに「編集の歌」であったとも言いたい。たとえば三行の分かち書きには、啄木独自の構想が動いていた。『一握の砂』は啄木生前に刊行された歌集であるが(東雲堂刊行)、その初版本を見ると、そこには5号活字がそれまでにない行間で3行組になっていることがわかる。ぼくはそのことを日本近代文学館が復刻した東雲堂初版本を見るまで知らなかったのだが、手にとってみてハッとした。啄木が活字を組んだのではないかというほどの新しい組なのだ。一首三行一頁二首の仕立て組。こんな歌集はなかったのだ。
 考えてみれば、啄木は函館と小樽と釧路で新聞活字にとっくんでいたのだった。余白と行間とは十全に格闘してきた詩歌人だったのだ。ならば啄木は、たんに土岐哀果を踏襲していただけではなかったのである。句読点を歌に含ませることも、考えたすえのことだったのだ。おそらくはのちの釈迢空(折口信夫)の『海やまのあひだ』、宮沢賢治の分かち書き、俳諧における高柳重信の句集まで、その余波は響きつづけたと思われる。
 セマンティックスの編集だけではない。シンタックスもタイポグラフィも、句読点も啄木は編集し、意匠した。較ぶるべきはステファヌ・マラルメなのである。

 もうひとつ、感想がある。啄木はたえずロマンティックな革命に憧れ、それをこえて革命の挫折に憧れ、さらにそれをこえて革命のはかなさに憧れていたということだ。
 これは陳腐だろうか。陳腐であろう。革命が砕けていく浪漫なんて、どう見ても陳腐である。しかしながら、この陳腐を啄木は正面突破して散りぢりにした。いや、社会主義も無政府主義も知らないころから、啄木は革命の失敗を感覚の尖端において知っていたというべきだろう。啄木は、どの歌もどんな人間の日々の断片にも思い当たるようにし、そういう断片がこれを読む者の胸に突き刺さる瞬間に、そのことにすら失望していることを詠んだのである。さらにいうのなら、そのようにしか詠まない啄木が、すでにその歌から自分が追いやられていることを感じているのだ。
 この瞬間の去来と、残像の悔恨を、たとえば次の歌などから感じることができる。物騒なことにもキスにも他人の横顔にも、啄木はじっとしていられなかったのだ。

  何か一つ騒ぎを起こしてみたかりし、
  先刻の我を
  いとしと思へる。

  かなしきは
  かの白玉のごとくなる腕に残せし
  キスの痕かな

  人がみな
  同じ方角に向いて行く。
  それを横より見てゐる心。

 こんなところが啄木への七夕追悼であるが、最後に次の一文を引用しておきたい。『巻煙草』の中にある。「浪漫主義は弱き心の所産である。如何なる人にも、如何なる時代にも弱き心はある。従つて浪漫主義は何時の時代にも跡を絶つ事はないであらう」。そして啄木は、次のように結んだのだ。「最も強き心を持つた人には最も弱き心がある」というふうに。
 ぼくはスティングの《フラジャイル》のボリュームを静かに上げて、次の一首を読みなおす。

  己が名をほのかに呼びて
  涙せし
  十四の春にかへる術なし