清少納言
枕草子
岩波文庫 1962
ISBN:4000044621

 春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。この言いぶんである。この言いなりだ。海は琵琶湖に、与謝に、河内がいいでしょう。草花は撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗、朝顔、刈萱(かるかや)、菊、壷すみれ。けれども萩はといえば、朝露に濡れていてほしい。御陵といえば、それはうぐひす、かしはぎ、雨の帝のみささぎだ。そして峰なら摂津はゆづる葉の峰、山城が阿弥陀の峰、播磨の弥高の峰である。
 
こう、断定されると逃げ場がない。けれども、追いこんでいるようでいて、さっと引く。ヒット・アンド・アウェイなのである。美の遊撃であって、知の遊動なのだ。「同じことなれども聞き耳異なる物語、法師の言葉。男の言葉、女の言葉。下衆の言葉にはかならず文字余りたり」。
 
この気になる配分に、この応答をすかさず散らせるところに『枕草子』の『枕草子』たるゆえんがある。編集がある。現代語になおしてみる。「同じ内容を聞いていましても、その言葉が違って聞こえることがあるものですが、たとえば坊さまが言うことはたいてい同じことを言っているはずなのに、坊さまごとに聞こえかたが違ってまいります。男と女も同じ言葉が違った意味に聞こえますでしょ。下衆(げす)の勘ぐりなど、そのつどほとんど言葉の意味を変えておりますね…」。右や左や後ろや前に飛ぶ。飛ぶたびにこう、言い切っていく。

 言い切るだけではない。屋形(やかた)は玉造、家は近衛の御門、二条の院、その他云々と言っておいて、ところで清涼殿の東北の隅には障子があって、これは荒海障子というもので、奇妙な手長足長が描いてあるのに、それを上の御局(おつぼね)の戸があけはなしてあるからよく見える。その御局の簀子の高欄には青い大きな瓶が置いてあって、そこにみごとな桜の五尺におよぶ枝を活けているから、まさに咲きこぼれているようなのですと、急に詳しく細部に入っていく。さらにそのまま、その桜が咲きこぼれているところへ、ある日、大納言さまが桜襲(さくらがさね)の直衣(なおし)など着てというふうに、情景や人物の風情や趣向の評定を始めて、あとは延々、日ごろあれこれ感じていた中宮の話をしてしまうというような、そういうカメラがゆっくりまわっていくというようなこともする。
 
ようするに、言いたいことを大小、長短、内外に自在に分けて、まったくもって清少納言は勝手気儘に自分の好みを言いたいほうだいなのである。
 

 
清少納言の話題はほとんど「好み」に類する。何が好きで何が嫌いなのかをはっきりと言う。そのときすばやく比較を入れる。これはのちのちの数寄の文化の先駆ともいうべきで、「好み」の「取り合わせ」がさすがなのである。それが世事に速く、ファッショナブルで、かつそれでいて大胆に斬る。
 
リストのあげかた、それを答える手順、順序、序破急、守破離が巧みなのである。わかりやすい例でいえば、猫は背中全体が黒くて腹が真っ白なのがいいと書いたあと、雑色や随身はちょっと痩せて細身なのがとてもよくて、あまり太ると眠たくていけないなどと続け、小舎人童(ことねりわらわ)は髪の先がさっぱり落ち細って、やや青みがかっていると色っぽい、などと付け加えるのだ。こんなコメンテーターはめったにいない。
 
ピーター・グリーナウェイが気にいってポストモダンな現代人に向けた前衛映像にしたかったのも、よくわかる。もっともこれにはヒントがあった。グリーナウェイより十年ほど前に、クリス・マルケルが『枕草子』に大きな影響をうけて、映像化を試みていた。清少納言が思いつくままにリストをあげたように、マルケルも次々に当時の日本の光景、たとえば酒を立ち飲みする浮浪者、海岸の注連縄、青函連絡船で眠りこける人々、屋上の稲荷明神、夏目雅子の顔などを切り取って、次々に羅列した。実験的な『サン・ソレイユ』という作品だった。マルケルもグリーナウェイもよく『枕草子』を理解していた。
 

 
清少納言は好きに出題をしている。自分でお題を出して、ただちに答えてみせているのだ。ぼくの仕事でいえば、これはISIS編集学校でやっている編集稽古の方法なのである。その連打。しかも、なかには巧みに大喜利のようなユーモアもとりこんでいる。
 
試みに、清少納言に代わって問題を出してみると、たとえば「間の悪いもの」は何か、「名前のこわいもの」「つらそうなもの」「羨ましくみえるもの」は何かなどと連発される。「間の悪いもの」って何だといえば、ほかの人を呼んだのに自分かと思って顔を出してしまった時、というふうに答えてみせる。また、何げなくだれかのちょっとした悪口を言ったところ、それをその場にいた子供が憶えていて本人の前で口にしてしまった時、というふうにあげる。「名前のこわいもの」は青淵、雷、荒野。「つらそうなもの」は愛人が二人いて両方から嫉妬されている男とか、疑い深い男にぞっこん惚れられた女というところ、というふうに答える。「羨ましくみえるもの」は、一大決心をして稲荷参りをして坂道を気張って上っているときに、スイスイと上へ行く人が信心深く見えるときであるというふうに。

 あまりによくできた応答なので、こうまでされるとつい反発もしたくなるが、読んでみればわかるように反発の隙間もなく、ただただ引っ張りまわされる。
 
知たり顔に自分だけが知っている知識の問答をしているのではない。ここにはピエール・ブルデューの「ハビトゥス」こそが躍っているのである。ハビトゥスとは人々が習慣的に知っているはずの趣味・趣向のことをいうのだが、清少納言はその扱いを徹底して動かした。そのうえで趣味趣向を自分のハンドリングのなかでのみ動けるようにした。
 
そのため、『枕草子』はリストアップとその回答の羅列でありながらも、つねにどこかで読む者の「好み」の心を打つ決定打を放つようになっている。研ぎすました決定打を放つときはそこでチョーンと拍子木が打たれるように、幕なのだ。たとえば「きれいにみえるもの」は土器(かわらけ)と水を何かの器に入れるときの光というふうに、才気煥発を期待する読者をさらりとかわしてしまう。「下品なもの」では、ずばり「新しい布屏風」と言ってのけ、しかもその屏風が新調されて満開の桜などを描いているともっとうんざりする、とさらに決定打なのである。
 

 
いっときぼくはパーソナル・メディア「半巡通信」に、「キレイダ・キライダ」を毎月あげて、ぼくがキレイダと思ったもの、キライダと感じたものや人物たちを2、3例ずつ“公表”していたことがある。
 
反響が多いのに驚いた。みんながおもしろがってくれる。勝手な判定なのは承知のことだ。いまは京都造形芸術大学の学長をしている芳賀徹さんなどは、キライダに「子安宣邦の宣長論、吉村作治のエジプト語り」とあったのを見て、胸のつかえがおりるほど感動したよと言っていた。
 
図にのって、キカイダ、キシンダ、キケンダ、キホンダというふうにふやしていったのだが、2001年になったのをきっかけに、やめた。実はキコンダ、キザンダなども用意していたのだが、少し長めの文章を多くしたくなったので、中断してしまったのだった。あれ、おもしろかったのにと今でも再開を望まれる。実はこの「キレイダ・キライダ」シリーズは、その前に書いていた「今月の収穫・今月の失望」という書物選びの延長だった。
 
そのとき感じたのだが、自分で出題をした価値観に自分で答えていくというのは、選び出しはふだんから感じていさえすればなんとかなるのだが、その組み合わせ、取り合わせに苦労する。フィル・コリンズ、マドンナ、エルトン・ジョンではつまらないと言ったあとに、そこからルー・リード、桑田佳祐、坂本冬美、清元(きよもと)延寿太夫というふうに攻めていくのが大変なのである。
 
もうひとつは文句をつけるのは楽なのだが、案外に肯定がむずかしい。よほどに選びこまないと、肯定した対象が跳び上がらない。弾みがつかない。清少納言はそこが用意周到というのか、思い切りがいいというのか、それともよくよく観察がゆきとどいているのか、ともかく“はずれ”をおこさない。
 
そういう清少納言の感覚と美意識が、さらに研ぎすまされるのは「あてなるもの」や「うつくしきもの」によせる気持ちを披露するときである。「あてなるもの」とは上品な感じがするものといった意味だが、さすがに目が透明になっている。何をあげたかというと、薄紫色の衵(あこめ)に白がさねの汗衫(かざみ)、カルガモの卵、水晶の数珠、藤の花、梅に雪が降りかかっている風情、小さな童子がいちごなどを食べている様子、というものだ。完璧だ。「いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる」といった、チゴ・イチゴの語調の連動もある。
 
一方、「うつくしきもの」は今日の言葉なら「かわいい」というところだが、これも順番がみごとで、酔わされる。まずは雀の子のちょんちょんしたところやヒヨコが人の後をついてくるところ、幼な子がほんの小さな塵などを見つけて摘まもうとしている仕草がよくて、それから、人形の道具類、蓮の小さな浮葉をふっと池から掬いあげたときの小ささ、小さな葵、水鳥の卵がすばらしい。そして最後に、玻璃(は り)の壷が極め付き。これは、唸る。玻璃の壷とは、今日ならごく小さな香水瓶のようなものである。

 もともと「小ささ」というスモールサイズに気をとめ、スケアシティを重視した人である。気象も現象も事象も「少なめ」にこそ目を光らせた。そこは「ほころび」や「足りなさ」に着目した兼好法師とはちがっていた。どちらにも軍配をあげたいが、まずは「小ささの発見」であるだろう。もしも清少納言がそこを注目しなかったとしたら、きっと兼好法師がそのことを綴っていたにちがいない。
 

 
清少納言については、そんなに多くのことがわかってはいない。血筋ははっきりしている。父親は歌人の清原元輔で、曾祖父が清原深養父(ふかやぶ)。「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」が百人一首にとられている。その清原家の娘だから、「清」の一字をとって清少納言と呼ばれた。ちなみにセイショー・ナゴンではなく、セイ・ショーナゴンである。なぜ少納言だったかはわかっていない。
 
これほどの歌人の血をひいたわりには、歌はあまり得意ではなかった。自分でもそう思っていたらしいことが『枕草子』にもふれられているが、歌より早く文章が出て、歌より短くフレーズを切るのがうまかったせいだろう。
 
これは漢詩漢文に堪能だったことにも関係がある。ぼくの推理でいうのなら、彼女は表意文字的だったのだ。きっと漢字の連なりでイメージを記憶し、保持していたのではないかと思われる。もっとも百人一首には、「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」が採用されていて、この一首だけはよく知られるようになった。編集工学研究所の代表である澁谷恭子は百人一首をかなり諳(そらん)じているが、聞けば少女時代に最初におぼえたのが、この清少納言の歌だったらしい。めずらしい。

 結婚もして、離婚もした。16歳のころに橘則光に嫁いで、すぐ別れた。そこで正暦4年の993年に一条天皇の中宮だった定子(ていし)のもとに女房として出仕した。中宮は17歳、一条帝は14歳である。『枕』182段に詳しい。
 
定子の父は藤原道隆で、関白になっている。世に「中の関白家」と誉めそやされた。定子はそういう栄華絶頂の14歳のときに、11歳の一条帝に入内した。が、5年後に父は死ぬ。そこで関白の席をめぐって道隆の息子の伊周と道隆の弟の道長のあいだで対立がおこり、道長が圧勝した。定子は伊周に後見役になってもらっていたので、立場が悪くなる。宮中を出て屋敷を転々ともしたようだ。そこを狙って道長は自分の娘の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させた。この彰子に仕えたのが紫式部である。
 
かくて清少納言も旗色が悪くなる。それでも才気煥発だけは緩めなかった。紫式部が口をきわめてそういう清少納言を批判したことは、よく知られている。ところが、清少納言が女房として出仕して7、8年目にあたる長保2年の、西暦でいえばちょうど1000年に、中宮はお産がこじれて24歳の若さで亡くなった。清少納言はこのあとに宮仕えを辞したようである。言わずもがなだが、『枕』はこの7、8年間の記録ともいうべきエッセイである。

 エッセイとはいえ、こんなすごいエッセイは堀田善衞さんの言い草ではないが、ヨーロッパの10世紀、11世紀の説教・寓話にはまったくなかった。あえて20世紀をもちだせば、アドルノの「ミニマ・モラリア」か、ベンヤミンの「パサージュ」なのである。が、これを観照の物語とみるとその出来栄えはさらに群を抜いている。今度、さあっと読んでいて、なんだこれは編集稽古だと感じたことだった。

附記¶書に想をえたピーター・グリーナウェイの映画は『The Pillow Book』という。1996年に製作され、ワダエミさんがコスチュームとともにさまざまなアレンジを買って出た。ともかく『枕』はいまもって日本でもさまざまなアレンジの対象になる。橋本治『桃尻語訳枕草子』(河出書房新社)、田辺聖子『むかし・あけぼの―小説枕草子』(角川文庫)、作画・大和和紀、文・紀野恵『イラスト古典枕草子』(学習研究社)などはそのひとつ。最近では酒井順子『枕草子remix』(新潮社)がよかった。『枕』では学校で教えるせいなのか、「香炉峰の雪」をめぐる中宮定子とのやりとりが有名だが、藤原公任との言葉の贈答も雅致がある。公任がよこした「すこし春あるここちこそすれ」に清少納言は「空寒み花にまがへて散る雪に」を付けて返した。白楽天『南秦雪』の一節「三時雲冷多飛雪 二月山寒少有春」を踏まえた漢詩の本歌取り。とくに白楽天なら得意なのである。

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