藤原公任撰
和漢朗詠集
冨山房 1909 岩波書店 1978 講談社学術文庫 1982
ISBN:4061583255
[訳注]川口久雄

 この詞華集を読むと、さまざまなおもいが去来する。そのうち最も大きな感興は、ここにひそむ日本的編集方法とは何だろうかということである。
 詞華集とはアンソロジーのことをいう。アンソロジーでは編集の技量がそうとうに問われる。何を選ぶかだけが重要なのではない。その按配をどうするか。内容で選ぶか、作者で選ぶか。主題のバランスをどうするか。男女の作者の比率はこれでいいか。長短をどうするか。巧拙をどこで見るか。有名無名をどうするか。これらのいずれにも十全な配慮が問われる。
 しかも、『和漢朗詠集』は和漢の秀れた詩歌を此彼の文化表現にまたがって、かつ同時に選んで見せるという編集である。漢詩から詩句を選び、そこに和歌をもってくる。和歌を選んで、そのあいだに漢詩を入れる。そのような作業と工夫に当時の日本の編集思想が出ないはずはない。
 こういうことをやっと終えたとしても、さらにこれらをどう並べるか、さてレイアウトをどうするかが待っている。とくに順番が難しい。

 『和漢朗詠集』は関白頼忠の子の藤原公任が編集した。編集したといっても勅選ではなく、自分が好きで編集したものである。誰かに頼まれたわけでもない。ハウスメイドの、カスタマイズ・ヴァージョンなのである。こういう仕事はいちばん楽しい。
 公任は娘が結婚するときの引出物として詞華集を贈ることをふと思いついた。そこで当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソングめいたものに自分なりに手を加え、新しいものをふやして贈ることにした。それだけでは贈り物にならないので、これを藤原行成に清書してもらい、粘葉本(でっちょうぼん)に仕立てた。まことに美しい。

 まず料紙が凝っている。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母引きの唐花文をさらに刷りこんだ。行成の手はさすがに華麗で、変容の極みを尽くした。漢詩は楷書・行書・草書を交ぜ書きにした。和歌は得意の行成流の草仮名である。これが交互に、息を呑むほど巧みに並んでいる。
 部立ては上巻(上帖)を春夏秋冬の順にして、それぞれ春21、夏12、秋24、冬9を配当した。たとえば冬は「初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名」と並ぶ。つまり時間の推移を追った。いわば「うつろひ」の巻、月次の巻である。これに対して下巻すなわち下帖は、もっと自由に組んだ。その構成感覚がうまかった。「風・雲・松・猿・古京・眺望・祝‥」といったイメージ・アイコンが48主題にわたって並ぶ。最後はよくよく考えてのことだろうが、「無常」「白」である。すべてが真っ白になってしまうのだ。なかなか憎い。
 これをしかも漢詩と和歌の両方でつなぐ。つなぎのしくみはイメージとエクリチュールの重ね結びである。いわば洋服と着物を併せて楽しむようにするわけだから、ここにはかなりの「好み」が動かなければならない。公任にして編集できたことである。

 結局、漢詩が588詩、和歌が216首を数えた。
 漢詩は白楽天(白居易)が断然に多い。135も入っている。ところが李白と杜甫が一つずつしか入っていない。全体には中唐・晩唐の漢詩人から選んでいるので、公任がよほど李白・杜甫を嫌ったということになる。これは実は当時の風潮でもある。中西進さんが快著『源氏物語と白楽天』で詳述したように、当時は白楽天がビートルズのように日本を席巻していた。日本人の漢詩ではさすがに菅原文時・菅原道真がトップで選ばれている。
 この「好み」は紫式部に近くて、和泉式部に遠い。公任だけではなく、この当時の一派の「好み」なのである。先の中西進の『源氏物語と白楽天』、および大岡信の『うたげと孤心』や丸谷才一の『詞華集的人間』などを読むと、このへんの見当がつく。
 和歌は貫之26、躬恒12、人麻呂8の順である。ここにも紫式部に近くて、和泉式部に遠い「好み」があらわれる。公任はそうした独断的編集を随所に発揮した。
 公任はこれらの漢詩と和歌を交互にならべたのではない。自由に並べた。漢詩ひとつのあとに和歌がつづくこともあれば、部立てによっては和歌がつづいて、これを漢詩が一篇でうけるということも工夫した。その並びは絶妙である。しかも漢詩は全詩ではなく、適宜、朗詠しやすいような詩句だけを抽出した。
 こうして最初にもってきたのが紀淑望の立春の漢詩からのエピグラフであった。なかなか溌剌とした漢詩なので、むろんその内容と表現でも選んだのだろうが、公任はこの歌の作者が淑望であることに注目したのであろう。紀淑望は紀長谷雄の子で、いわずとしれた貫之の従兄弟だが、それよりも公任は淑望が『古今集』の真名序を書いたということを重視したにちがいない。真名序は漢文で書かれた序文のことをいう。仮名序は貫之の執筆である。
 こうして『和漢朗詠集』の冒頭を立春から始め、その歌詞を真名序の紀淑望としたことによって、ここに「和漢」の並立というコンセプトが立ったのである。それにしても全篇を通じてまことに巧みな編集構成である。

 実は、このような編集方法は、藤原公任ひとりの手柄なのではなかった。この時代の貴族に流行し、これらに先立って試みられた日本的編集方法の、そのまた再編集だったのである。
 まず「漢風本文屏風」というものがあった。小野道風が書いた延長6年の内裏屏風詩、天暦期の内裏坤元屏風詩をはじめ、漢詩を書きつけた屏風である。このほかにも長恨歌屏風、王昭君屏風、新楽府屏風、月令屏風、劉白唱和集屏風、漢書屏風、後漢書屏風、文選屏風、文集屏風などがある。いずれも唐絵を描いた屏風に漢詩句漢詩文の色紙が貼ってある。公任はこれらから漢詩をピックアップしたにちがいない。
 和歌にも似たような屏風が出回っていた。大和絵を描いた屏風に和歌色紙を貼ったもので、これもかなりたくさんの種類がある。扇面和歌散らし屏風、和歌巻屏風などもある。これらはぼくも『アート・ジャパネスク』編集中にかなり出くわした。
 もっと調べてみると、『古今著聞集』の図画部に「和漢抄屏風二百帖」というものがあったと載っている。藤原道長の邸宅に出入りしていた藤原能通が絵師の良親に描かせたもので、道長の子の教通に進呈された。唐絵と倭絵(大和絵)を対応させ、それぞれにふさわしい漢詩と和歌を配当してあった。しかもこの屏風の色紙の歌詞は公任の清書であったというのである。

 これではっきりする。公任はすでにこうした和漢屏風の流行に熟知していたばかりか、その制作過程にもしばしば携わっていたのであった。
 今日の言葉でいえば、和漢屏風や和漢朗詠集は二カ国対応型ヴィジュアルテキスト・ライブラリーといったところで、屏風システムというOSに色紙というソフトを自由に貼りこんでいるという点では、マルチメディアライクで、マルチウィンドウ型の編集によるデータベースになっている。下巻はどちらかというと主題別百科事典にさえなっている。王朝エンカルタなのである。

 ぼくは、王朝時代にはやくも徹底化されていたこうした日本的編集方法に注目している。
 いったいこうした方法感覚がどこから出てきたかということはここでは省略するが、その背景には日本文化の確立には中国から漢字や律令を導入せざるをえなかったということが大きな原因になっていることだけは指摘しておきたい。ともかくもまずは中国のシステムを入れ、これをフィルタリングして、一部をゆっくり日本化し、それが確立できたところで、元の中国システムと日本システムを対照的に並列させる。
 こういう方法が古代すでに確立していたのである。確立したのは天智・天武の時代であった。この編集方法はいろいろな場面にあらわれる。政治と立法の舞台の大極殿を瓦葺の石造りの中国風にし、生活の舞台の清涼殿などを檜皮葺で白木造りの寝殿にするというのも、その例である。もっと象徴的なのが『古今集』に真名序と仮名序を配したことだった。

 『和漢朗詠集』は、いまほとんど読まれていないという。そういう本はいくらも日本の古典にはあるのだから仕方がないが、『和漢朗詠集』だけは一度は覗いたほうがいい。少なくともインターネットやライブラリーに関心があるのなら、覗きたい。
 『平家物語』や『太平記』に関心がある者も、覗きたい。とくに下巻の「無常」「白」にいたる漢詩と和歌の進行に心を寄せてみたい。ぼくは公任の『北山抄』が有職故実を巧みに編集しているのを見て公任の編集手腕に関心をもち、そのうえで『和漢朗詠集』の編集構造に注目するようになったのだが、いまではたいそう便利な王朝感覚データベースになっている。お試しあれ。

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