才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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天の夕顔

中河与一

新潮文庫 1954

若い男が年上の女に憧れたという話である。
しかし、何もおこらない。ひたすらに、もどかしい。
しかし、この「もどかしさ」というもの、
誰もが心身に抱いているものだ。
その正体は、掴めるようで掴めない。
それをときに、天体や夕顔になぞらえること、
あってもいいと思えるときもある。
蘇峰が激賞し、荷風が褒め、カミュが絶賛し、
与謝野晶子をして感嘆せしめた『天の夕顔』とは、
いったいどんな「人間の思想」だったのか。
今夜のぼくはちょっと不束(ふつつか)なところから、
その案内をしてみたい。
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人、
天くだり来むものならなくに。

 千夜千冊を綴るというのは、本をとりあげてその感想をのべるといえばそれまでだが、誰のどの本をどの気分の時合いにもってくるかということと、それをどこで書きあげてアップロードするかということには、いつも悩まされたり、ひらめいたり、韜晦したりする。
 今夜は中河与一の『天の夕顔』を選んだ。先だって夏の終わりの朝顔を古井由吉の『槿』(1315夜)に託したので、その前後から夕顔をフィーチャーして『天の夕顔』にしてみようと思っていたのだけれど、少し書いてそのままファイルの中に突っ込みっぱなしにしていたのである。それを今夜とりだして、ちょっとばかり仕上げてみようという気になった。
 古井の朝顔から中河の夕顔へというだけで、そうしたくなったのではない。その動機はとっくにおわっている。では、どうしてかといえば、朝な夕なに咲いては萎(しぼ)む花に託して、ぼくが“何か“を少々言ってみたい。
 ただ、その“何か”というのは、それがどんな気分に起因していたかということとともに、必ずしもいつも一定ではない。そこが千夜千冊を綴るときにたえず悩ましいものになる。今夜も仕上げてみないと、どうなるかはわからない。
 こういうふうに、その夜の千夜千冊に何を選んだのか、その動機をどこまで書くか、何をメッセージとするかということは、いつも微妙にゆらいできた。ずいぶん不束(ふつつか)なことで、1300冊を超えていまさら初心もあるまいと思うけれど、実はいよいよまして、ぼくの選本と配列は初心のままなのである。まあ、そんなことまで感じてくれる読者がどのくらいいるかといえば、それは心もとないけれど――。

 ともかくも、書きこんでみる。『槿』では、芭蕉の「朝顔や我は飯くふ男かな」を文章のなかに旋回させてみた。
 今夜もそのひそみに倣っていえば、引いておきたいのは「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人 天(あま)くだり来むものならなくに」という和歌である。「天くだり来む」がはなはだ象徴的で、今夜の『天の夕顔』のラストシーンにつながっていく。歌は和泉式部が詠んだ。
 で、夕顔だが、夕顔は夕方に花を開いて朝方にはしぼむ。それで夕顔なのだが、黄昏の薄闇に仄かな白をしだいに青白くも見せていく姿は、しばしば息を呑むほど美しい。ときどき見たくなる。そこで先日の秋の彼岸の中日に少しは花を飾ろうと思って、自宅からいちばん近い日赤通りの「花長」で夕顔を尋ねたところ、花屋ではめったに置いていないというだけでなく、お彼岸に夕顔はありえません、せいぜい曼珠沙華までですと諌められた。
 なるほど、一夜でしぼむ夕顔を仏の手向けに用いるのはよくないだろう。もっとも、「夕顔の花より蒼き 月 出でぬ」ということもある。そういう幽明こそ何かにふさわしいときもあるはずなのである。
 夕顔が蒼いのではない。夕暮れだから蒼く見えるのだ。そう見えることがあるのは、ぼくにも何度か体験がある。夕刻は大禍時(おおまがとき)であり、言霊(ことだま)がふらつく。“誰そ彼”のトワイライト・タイムなのである。それゆえ古人もそんなことは百も承知で、夕顔は昔から「たそがれぐさ」「ゆうごう」「おおまつよいぐさ」とも名付けられてきた。「まつよい」は宵待ちである。

 こういうトワイライトな夕顔については、むろんのこと古来からいろいろの形容がされてきた。
 『枕草子』(285夜)は、「夕顔は花のかたちも朝顔に似て、いひつづけたるにいとをかしかりぬべき花の姿に、実のありさまこそ、いと口惜しけれ」と綴った。「をかしかりぬべき花の姿」なのに、その実が瓠(ふくべ・瓢箪)のようなのが残念だとは、いかにも知的ではあるけれどシニックな清少納言らしい。
 それにくらべると、さすがに『源氏』は違っている。「かの白く咲けるをなむ、ゆふかおと申し侍る」と抒情を綴ったのち、「花の名は人めきて、かう、あやしき垣根になむ、咲き侍りける」と付け加えた。夕顔の花を女性の面影に託した。
 周知のように、この夕顔の面影から、『源氏物語』第四帖「夕顔」(1570夜)の一帖が綴られた。それをお望みなら「おもかげ」といわずに夕顔の「かんばせ」(貌・顔・容)と言ってもいいが、その「おもかげ」あるいは「かんばせ」は、紫式部にしてやはり女のものなのだ。

 光源氏の17歳の夏である。
 葵の上という正妻がありながら、そのころ7歳年上の六条御息所のもとに通いつめていた光源氏は、その日もそのようにしようとしていたのだが、乳母が臥せっているという知らせをうけて、見舞いのためにその五条の家に立ち寄った。
 門に錠がかかっていたので、従者に命じて乳母の子で源氏とは乳兄弟になる惟光を呼び出した。その惟光を待つあいだの夕刻近く、隣りの家から簾越しに女たちがちらちら見えた。粗末な家だったが垣根に緑の蔓草がのび、夕顔がふうわりと咲いている。
 源氏は夕闇に白く浮かぶ夕顔がいとおしく、手折らせる。そこへ隣家から可憐な少女がやってきて、その花をこれにのせておあげなさいと白い扇を差し出した。受け取って「ありつる扇御覧ずれば」、「もてならしたる移り香、いとしみ深うなつかしくて、をかしうすさび書きたり」と、事態がすすんだ。香りが薫き染められていて、一首が書いてある。それが夕顔の「心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花」という歌である。
 源氏はさっそく、「寄りてこそそれかとも見め たそかれに ほのぼの見つる花の夕顔」と、返歌を詠んだ。近寄って見られればその花かとわかるのだろうねという歌である。面影と貌の交わりが夕顔の花を介しておこっていく。

 こうして夕顔との出会いがあるのだが、『源氏物語』を読んだ者ならわかるように、この段で、源氏は上流の家の者でもなく気位が高くもない女性を、初めて知ったのだった。そのため、自分の素性を隠したままにする。夕顔も相手がわからないままにする。夕闇にもふさわしい。
 そのうち源氏は夕顔を奪うように廃墟めく屋敷に連れていき、そこで一夜をすごすことにした。ここからの紫式部のナラティブ・イマジネーションは冴えわたる。
 夕顔はその屋敷の荒れ果てた様子に怯えるが、源氏にはそこがかわいく、いとおしい。番人が「しかるべき人をお呼びしたほうがよろしいでしょうか」と聞いても、源氏は「誰にも気づかれそうもない場所をわざわざ選んだのだから、他言をするな」と言う。
 この恋は、誰にも知られてはならない恋なのである。ただ、素性はバレた。夕顔もうすうす気がついていたようだが、あらためてその眩しいほど美しい顔を見て、歌を詠む。「光ありと見し夕顔の上露は たそかれどきの そらめなりけり」。さすがに、うまい。あのとき夕顔の花の上の露かと見えたのは、たそがれ時の私のみまちがいでしたというものだ。

 その後も夕闇を選んだ源氏と夕顔の密会が続くのだが、あるとき添い寝をしている源氏が眠ってしまった。
 ふと気がつくと枕元に美しい女が坐っている。私がこんなにも慕っているのに、あなたは少しも訪ねてこない。そのあげくにこんなつまらない女にうつつを抜かしているのですねと言いながら、傍らの夕顔を起こそうとする。
 ハッとして目をさまますと、燈火も消えてあたりは真っ暗闇である。何かに襲われそうな気配がする。太刀を引き抜き身構えた。夕顔も怯えきっている。人を呼んではみたものの、誰もやってこない。源氏はやむなく妻戸を押して外の様子を確かめるのだが、不気味な気配はいっそう深まるばかりだ。慌てて夕顔を見ると、なんということか、息が聞こえない。心臓が飛び出るような思いで体にふれると、冷たくなっている。
 夕顔はこうして死んだ。死んでしまった。その後にわかることなのだが、実は夕顔は以前に頭中将が迫って逃げた女性でもあった。源氏はそのことをこっそり知るのだが、そういうことも、自分が夕顔を死なせたことも、もはや誰にも言うわけにはいかなくなっていく。
 このとき光源氏の心の奥に、一匹の鬼が棲みつくことになった‥‥。

 夕顔という貌(かお・かんばせ)。その貌を“誰そ彼”にしておぼつかなくさせる夕闇に浮かぶ面影。夕顔と夕暮とは、二つで一つの白と闇とを分けあうの葛藤なのである。夕顔にはそういうはたらきがある。
 これが『源氏』夕顔のコンセプトであったのだが、では、話を今夜の語り部である中河与一に進めて、その中河はそういう夕顔をどう綴ったのか。「夕顔は夕暮の色を濃くする」と書いたのだ。また、「やがてあの人は、道の端で夕顔の花を見つけると、それを摘みとるのでした。手に白い花がにじんで、それが夕暮の色を濃くするように思われました」と書いた。
 夕暮の色を濃くする中河与一の夕顔は、こういう場面での夕顔である。きっと『源氏』の夕顔の場面からのふらふらとした転写であろう。それほどに『源氏』の場面は日本の夕方の恋情をあらわすにあたって、その後の作家たちにとってあまりに象徴的だった。しかし中河の「あの人」というのは、夕顔のような少女ではなかった。若い女でもない。主人公の「わたくし」が生涯にわたって慕いつづけた7歳年上の夫人のことをいう。
 なぜそんなふうになったのかは、『天の夕顔』の冒頭でさらりと説明される。「わたくしが初めてその人に逢ったのは、わたくしがまだ京都の大学に通っていたころで、そのころ、わたくしはあの人の姿を、それも後ろ姿などを時々見ては見失っていたのです」と。
 そしてすぐに思いこむ。「わたくしは一つの夢に生涯を賭けました。わたくしの生まれ来たことの意味は、だから言ってみれば、その儚(はか)なげな、しかし切なる願いを、どこまで貫き、どこまで持ちつづけたかということになるのです」と。
 主人公はこうして年上の夫人を恋慕するのだが、ところがここからがまことにもどかしい。「わたくし」には源氏のような手練手管もなく、源氏のような器量があるわけでもない。ひたすらの思慕、それだけなのだ。それならなぜ中河は「あの人」を夕顔に見立ててこんな作品を書いたのか。

 ぼくが『天の夕顔』を読んだのは高校時代だった。
 何のきっかけで読んだのかすっかり忘れたが、そのころは梶井(485夜)や太宰(507夜)や川端(53夜)をつづけさまに読んでいた時期だったので、それなりの「儚」(はかなさ)に入りたくて読んだのだったろう。以来、再読はしていない。
 とはいえ、誰だって読めばわかるが、この作品は一度読んだら「わたくし」がどんな心情でどんな日々をおくったのかは忘れない。それほどわかりやすく、それほど儚い話になっている。
 どんなに儚いのか、中河はさて、そこをどう綴っていたのか。再読をしていなかったので、その場面を拾って原作の引用をしようとすると、いちいち新潮文庫のページを開いて、懐かしくもその数行を追わなければならないということになる。まあ、それが再読のたのしみともなるのだからそれでいいのだが、そうやって数週間前に再読して、ハッとした。
 ああ、この物語には登場人物の“名前”が問題になっていないんだということに気がついた。この作品、「記号なき儚さ」なのである。
 一度だけ、「わたくし」がその夫人の素足にさわりたくて「さわらして下さい、あき子さん」というところがあって、その名がわかるけれど、作品のなかではずっと「あの人」になっている。主人公の「わたくし」も一度だけ、あの人がわが子に「わたくし」の存在を促して、ふと「竜口(たつのくち)さんですよ」と言う場面があるけれど、それ以外は「わたくし」だ。

 中河にとっては“名前”などはどうでもよかったのである。ただ「わたくし」と「あの人」がいれば、それですべてにしたかったのだろう。
 ということは、これは「人称性をこえた恋情」というものなのである。だからこそ中河は、エピグラムに和泉式部の歌をおいて、この作品の行方を暗示した。さきほど示した、「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人 天(あま)くだり来むものならなくに」という歌だ。
 この歌は『天の夕顔』の結末を暗示する。「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人」とは「あの人」で、「天(あま)くだり来むもの」は「わたくし」の生涯なのである。「わたくし」は生涯を「あの人」を思うことに捧げ、そして死んでしまった「あの人」を天に咲かせる夕顔としたかった。
 こんな見えすいたロマチシズムは、高校生のときに読んだのでなかったら、やりきれなかったろうが、中河はそういう心情を持ちつづけられた稀有な作家であろうとして、まさにそのようでありつづけた。
 そんなこと、ずいぶん強引なことだろうとも思うけれど、男はそういう感傷に浸りたがるものなのだ。ぼくもいま突然に、そういえば川端康成(53夜)が高齢になりながらも若い女と心中してしまったことを思い出した。
 そんなことを思い出してみると、ふいに、そのような中河の生き方もありうるかもしれないと思えてしまう。

 中河は香川県坂出に生まれた。
 父親は坂出病院を設立した病院長だった。6歳で母親の郷里の岡山県赤磐の湯瀬村に移って、小学校をここですごした。病院に生まれ、寒村に育ったことは、きっと中河の皮膚にオキシドールと稲の哲学を化合したような、過敏な何かをもたらしたはずだ。
 丸亀中学を出ていったん京都に弟と暮らすと、創刊まもない「朱欒」(ザンボア)に短歌を寄せるかたわら、夜間の学習塾で数学を教えたりしていた。ただ人間関係に潔癖すぎるようで、今日にいう心身症気味でもあったため、母親のはからいで東京に行って好きなことをすれば少しは気も晴れるだろうと、上京する。本郷の赤心館で下宿をしながら、今度は岡田三郎助の本郷美術研究所に通った。画家になりたかったらしい。
 しかし画才に自信がなかったのか、それとも潔癖症に加えて、そのころから過剰になってきた幻覚症に悩まされたせいか、転身した。早稲田の英文科に入り、歌を詠んだり、掌篇小説を書くようになる。しかしその早稲田も中退してしまった。短歌には精を出したようだ。このときまでの歌が、25歳のときの『光る波』という歌集になっている。
 「朱欒」について、一言しておく。「朱欒」は明治末年に創刊された文芸誌で、北原白秋(1048夜)が編集して全18冊を世に送り出した。日本頽唐文学の拠点となったもので、上田敏、蒲原有明、永井荷風(450夜)、内田魯庵、与謝野鉄幹、晶子(20夜)、阿部次郎や、さらには「パンの会」の石井柏亭、高村光太郎、木下杢太郎、吉井勇(938夜)、やはり明治末年に創刊していた「白樺」の里見敦(弓ヘン)、志賀直哉(1236夜)らが執筆し、萩原朔太郎(665夜)、室生犀星(870夜)らはここを出発点にした。
 なぜこんなことを書いておいたかというと、ここに日本のロマンティシズムの感傷が出所したからだ。中河はそのなかにいた。

(後列左から)保田与重郎、萩原朔太郎、中河与一、福田清人、十返肇
(前列)枇杷田圭子、岡本かの子、佐藤春夫、与謝野晶子、
戸川秋骨、中河幹子
昭和13年9月 東京会館 「北村透谷会」にて

 早稲田を途中で出た中河は、村野次郎と歌誌「香蘭」をつくると、金星堂の編集部に入ってさまざまな文芸作家と交わりつつ、創作に打ちこんでいった。その間、歌人仲間の林幹子と結婚した。
 ついで関東大震災の翌年の大正12年には、菊池寛(1287夜)の「文芸春秋」の同人に、その翌年には金星堂の「文芸時代」の同人になっている。広く文芸にめざめたのだ。「文芸時代」は「文芸春秋」の新人たちが旗を揚げたもので、片岡鉄兵、川端康成(53夜)、横光利一、十一谷義三郎たちが集って、横光を筆頭とする「新感覚派」の呼び声をほしいままにした。川端の『伊豆の踊子』や、中河のいささか神秘的な趣きの『刺繍せられた野菜』『氷る舞踏場』は、ここに掲載されている。
 が、中河は新感覚派にとどまらなかった。昭和3、4年の満州事変前後から形式的芸術論を提唱し、自身で「新科学的文芸」を創刊したりした。形式的文学とか形式主義というのは、フォルマリズムのことである。
 そうではあるが、中河のフォルマリズムは、そこに東洋思想と量子力学と相対性理論の香りをひとつまみ滴(したた)らせたもので、たいそう特異なものだった。あまり知られていないようだが、昭和9年に朝日新聞に書いた『偶然の毛毬』というエッセイでは、マッハ(157夜)、ハイゼンベルク(220夜)、ディラック、アインシュタイン(570夜)を持ち出して、物質が内容をもって運動しているのではなく「空間の癖」のようなものによって不確定な軌道を描いているように、人の世の出来事もそのような偶然の契機によって揺欒するのだと述べている。
 この東洋科学的フォルマリズムは戦後の「偶然文学」や「非合理美学」の訴求にもつながっていくもので、中河の真骨頂になっている。

 萩原朔太郎(665夜)がそういう中河の思想について昭和10年に感想した一文がある。
 中河の反合理主義・反自然主義・反卑俗主義におおいにエールを送り、その蓋然律(プロバビリティ)にゆれうごく人間の生と死のロマンティシズムに傾倒しようとしていると称揚した。
 かくて、そういう反合理主義や反自然主義や、あるいは反卑俗主義ともいうべきものの頂点に、『天の夕顔』が書かれることになったわけである。このこと、日本のこの時代のものを読むには、ちょっと重大だ。
 ちなみにあるとき、ぼくは筑摩書房「現代日本文学大系」第62巻を入手して、そこに中河与一が入っているのを知って、なんだか万事がうすうす理解できたような気がしたことがあった。ここには牧野信一(1056夜)、犬養健、稲垣足穂(879夜)、十一谷義三郎、今東光とともに中河与一が収められていた。ハイパーロマンティックの極みを揃えたような顔触れのなかで、ぼく中河の“席次”を知ったような気がしたものだ。
 中河にかぎらず、タルホや牧野においてもそうなのだが、感傷は日本のロマンティシズムにおいては、意外にも妙にコズミックであって、かつコスメティックなのである。中河を読むときはこのことを勘定に入れておいたほうがいい。とりあえず、そこまでのことを書いておく。

 さっき、『天の夕顔』での「わたくし」の夫人への恋情がもどかしいと書いた。まったくもどかしい。
 そもそも主人公が「あの人」に心を奪われることになったのは、「あの人」のお母さんが営んでいた下宿に学生生活を送っているうちに、そのお母さんが亡くなったので通夜に出たところ、四十九日の観音講にも来てほしいと言われたことに始まっている。
 ついで、そんなことをしているうちに、「あの人」の蔵書を借りることになって、その借りた『アンナ・カレーニナ』(580夜)のページに紙切れが入っていて、そこに「いつも逢いたいと想うばかりに」と書いてあったこと、次に借りた『ボヴァリー夫人』(287夜)のページにも紙切れがあって、そこに「わすれじの行末までも難ければ今日をかぎりの命ともがな」という高内侍の歌が書いてあったこと、このことで、なぜか強烈な恋情に至っただけなのである。
 そのころ「あの人」は夫が外国勤務で一人身の日々をおくっていて、主人公のほうは天体物理の学生上がりにすぎず、そこには何もつながりがあるはずもないのが、そういう誰に宛てたかもわからない紙切れくらいで、「わたくし」は舞い上がっていったのだ。
 が、ここまでは必ずしももどかしいというのではない。青年の妄想はどこまで理不尽であってもかまわない。ぼくも、そうだった。たった一枚の紙切れで悶々とするのもありえないことはない。ぼくもまた、日生劇場の『アンドロマック』を一緒に見にいった大好きなガールフレンドが、休憩時間にそのまま消えてしまったあと、一通の手紙をもらったその便箋2枚の消息で、しばらく人生の転換を思いめぐらされたという思い出をもっている。
 しかし、中河はここからを、そうとうにもどかしくしていった。主人公の気持ちを「あの人」に察知させ、こんなふうではいけませんから、私たちはお別れしましょうと言わせ、その日から「わたくし」の心情がもはや戻れぬものになったというふうに仕向け、それでもなんとか再会を期してみると、そこに「あの人」の“威厳”があったというところから、この主人公は、ひたすらもどかしくなっていく。

 その後、二人は何度かにわたっての理由のない離反と何もおこらない淡い逢瀬をくりかえす。それがなんとも焦れったい。2年も会わないこともあれば、急にどちらかが訪ねることもある。
 それでも何もおこらない。単衣(ひとえ)の着物に触ってみたら痛かったとか、素足に触ろうとしたら「くすぐったいわ」と叱られたとか、そんな風情の交流ばかりなのである。そのくせ、そのたびに「わたくし」の心臓だけはドキンと搏えてばかりいる。たとえば、こうである。「そしてあの人の部屋から階段に降りようとした時、二人が向いあった時、あの人の身体に電気がかかったように、一瞬間、くねくねしたのをわたくしは見たのです。同時にわたくしもそれを感じ、何か恐ろしいものが身体の中を走るの感じました」。
 困ったものだ。これでは、夕顔の白と夕暮の闇のアンビバレンツそのものだ。どうにも小世界がまとまらない。
 夫人は西灘に住むようになり、以前は参禅していたという禅機がいっそう鋭くなっているように見える。「わたくし」のほうは剣道に凝って、一応は修養のようなものをしてみるのだが、そのうち沼津の連隊に入ることになり、さらには富士山麓の気象観測所の所員になった。それで近くに下宿すると、その下宿の隣りの娘がなんだか妙に愛らしく近寄ってくる。多少は戯れたもののとくに何もおこってもいないのに、あるときその兄貴というのが出てきて、「僕の妹を穢していいと思っているのか」と詰(なじ)られた。

 そうこうして夫人と会わない5年がすぎると、さすがにもはや居ても立ってもいられない。汽車を乗り継ぎ、西灘の家を訪ねると、夫人はますます毅然としているのに、さらに艶っぽい。
 どうしていいかわからず、「あなたはどうしているの?」と聞かれるままに、例の隣りの娘の話などすると、「それはいけません、すぐに一緒になってあげなさい」と言う。あいかわらず夫人は「わたくし」を受け入れず、またまた悲しませるだけなのだ。27歳になっていた。
 いろいろあって、娘とは一緒に暮らすことにした。そうすれば夫人のことを諦められると思ってみたのだが、若い妻が肋膜になり、日々の介抱ばかりが続くことになった。
 こうして、男は疲労困憊していくことになる。これは「自分は一人で生きていくしかないんだ」と悟り、病身の妻をのこして家を出た。それが31歳の春である。「あの人」とあって十年の月日がたっていた。

 話はこういうぐあいに、もどかしい。ところがここで様子が変る。
 男は自分の持ち物や着物を大半処分して、山に入ることにする。テントに暮らし、銃を片手の憂鬱な猟師になることをめざすのだ。ここまで読んできた読者にとっては、予想外の転身である。さらには35歳の晩秋には、飛騨の古川から1時間ほど奥に分け入った僻村で、本気の山人生活をすることになる。
 中河はここからは、山人としての「わたくし」を静かに描写する。鋸の挽き方、小鳥の撃ち方、熊の唸り声の聞き方、山の神秘との交わり方、雪山のなかでの飲み水の探し方などが、淡々と実直に綴られる。そしてときに、なんともちっぽけではあるが、そのあいだに見方によっては甚だ象徴的な行為を挟んでいく。
 そのひとつは、あるとき小鳥を3羽ほど撃ち落としてみると、その尾羽が赤い鳥の一羽が胸をいっぱいに膨らませているので、腹をぐうっと押さえると、食べたばかりの寄生木(やどりぎ)の実があとからあとから出てきた、というものだ。
 そこに加えて、中河はひっそりと書く。「わたくし」はこのことに慰みも客観も、そして可憐も悲哀も、感じるようになっていましたというふうに。

 主人公は嗚咽をこらえて寂寥に対峙していったのである。そのぶん、もどかしい日々はなくなった。
 思い出すのは、かつて道端で見つけた夕顔を摘みとったときの、夫人の手に白い花が滲んだその夜、初めて唇をふれあったその夜天に琴座のベガが青白く光っていたことばかり、しかし、仮りにそんなことを思い出しても愕然と知ることは、「自分はこうやって生きているが、本当の自分の家は地上のどこにもない、誰一人自分を待ってくれる人もない」ということなのである。
 むろん勝手に、そうなっただけなのだ。そういうふうに自分で自分を仕向けただけなのだ。こんな男に読者が同情すらしないだろうことは、中河もよくわかっている。けれども中河は、この男を「いよいよ寂寞と何か狂気じみたもの」がまじっているものに向かわせるしかなくなっていく。

 40歳近くになった冬、「わたくし」は村の猟師に誘われて1カ月にわたる熊狩りを決行することにした。そのことが何をもたらしたのかわからぬまま、その山に今年も春が来た。雪の中からゼンマイやワラビが百本も二百本もにょきにょきと迫(せ)り出してくる。
 それを見たとき、この男は「人間の思想」というものに、突如として立ち戻る。かくて男はついに下山をすることにした。下山をしたら、「あの人」のところに向かう以外のことはない。
 夫人は47歳になっていた。そして、「自分は夫と子供のためにここまで生きてきた、でも、あと5年をへれば少しは自由になるでしょう。あなたはあと5年が待てますか」と言った。
 男はこれで、5年を山に戻って過ごしていればいいんだという、初めての充実を知る。人生初めての充実というものだ。勇躍、黒部五郎岳に登攀し、立山連峰を攻略し、三俣蓮華の小屋に籠もり、有峰から乗越(のっこし)にまで立ち入った。峠では、ピーピーピーという断腸の思いをほとばしらせるような鳥が鳴いている。近くの登山者に尋ねると、「無縁鳥といいますわ」。そのとき、山犬がササッと先を走っていった。「わたくし」はなんともいえぬ満足に浸れたのである。
 おそらく読者は、このへんの中河の仕向けた山人としての主人公の展開に多少は戸惑い、多少は底知れないものを感じるにちがいない。どうも、この小説は徒者(ただもの)ではないらしい。

 こうしてあと1カ月で約束の5年がたつという日、45歳になった「わたくし」はすべての山を捨て、地上に降りることになる。
 ところが、そこに一通の手紙が届けられたのである。こう、丁寧な字でしたためられていた。「弱いわたくしが病気しながらも、お約束の前日まで生きたことをほめて下さいませ。わたくしの心は、地上では果たせませんでした。でも、どうぞ、このわたくしをお許しくださいませ。わたくしはこれだけの手紙を、どんなに長い間、書いたり消したりしてこしらましたでしょう」。
 何度、読み返しても、そうとしか書いてはいない。そして、話はこれで、あっけなくも終わりなのだ。
 やはりすべては、もどかしかったのである。男は目が潰れるほど泣くと、もはや何をする気力も失せている。ただ、たったひとつ、天にいる「あの人」に消息する方法を思いつく。夕顔に似た花火を天に向かって打ち上げるということを‥‥。

 いささか筋書きに似たものを案内しすぎたかもしれないが、どっちみち、こういう物語は自分で読んでみなければ気がすまないだろうから、これでいいことにする。
 それにしても、このように『天の夕顔』を書きおえた中河与一は、「わたくし」と同様の、ちょうど41歳になったばかりだったのだ。それが、日本がどんどん異胎の国になっていく昭和12年のことだった。
 その直後、何を思ったのか、中河は今度は一転して『日本の理想』をエッセイとして発表すると、たちまち世に言う“右傾化”をはたすのだ。いったい、何がおこったというのか。『天の夕顔』を書きおえたことは、浄化ではなくて、自身の過去へのレクイエムであったのか。投擲であったのか。廃棄であったのか。そこを疑いたくなるような転身なのである。
 わかりやすい符牒でいうのなら、日本が戦争を展開するようになるにつれ、中河のロマンティシズムはナショナリズムと重なっていき、一方では極端に倫理的なるものに関心を寄せ、他方では「文芸世紀」を創刊して、さかんに文芸による日本の確立を訴えるようになったのだ、
 42歳のときに創刊した「文芸世紀」はいまはすっかり顧みられなくなっているが、中河が編集主幹をして、そこに芳賀檀(まゆみ)、十返(とがえり)肇、保田与重郎(203夜)、神保光太郎、青山虎之助が同人として加わったもので、文芸新誌社からは全部で65冊が発行された。けっこうな刊行数である。丸山薫、島崎藤村(196夜)らも寄稿した。けれども、その内容はどうみても国粋主義を出るものではなく、戦闘的なコラムは「陸」「海」「空」という匿名記事で成り立っていた。

 このような事情になっていったのだったにせよ、さて、いったいなぜ中河がロマンティック・ナショナリズムにあれほど加担していったかは、まことに納得がいかないところだろう。
 なぜなら『天の夕顔』については、徳富蘇峰(885夜)も与謝野晶子(20夜)も永井荷風(450夜)も、その純乎たるものを絶賛したのだし、フランス語の翻訳で読んだアルベール・カミュ(509夜)にあっては、「毅然として、しかも慎み深いものがある。その技巧の簡潔と含蓄がそのことを支えきっている」と褒めちぎったのだ。
 荷風はこれをゲーテの『若きウェルテルの悩み」に対同させて、「我日本の文壇も夕顔の一篇を得て、ギョーテのウエルテル、ミュツセの世紀の児の告白、この二篇に匹敵すべき名篇を得た心地致し候」と書いたのだし、晶子は「心と心とで堅く抱き合った二人の恋人が、いつも一歩手前で辛くも踏みとどまる痛々しい姿が忘れられない」と書いたのだ。
 けれども中河は、あたかもラストシーンで天に放った夕顔に添いながらも、このような評価をすべて振り切るかのように、そこからまったく異なる行方に向かって旋回していったのだ。なぜ、そんなふうになったのか。ぼくも、そのあたりのこと、しばらく見当がつかなかった。それがやっと見えてきたのは保田与重郎を読むようになってからである。
 そのこと、詳しく書こうと思ったが、今夜の分量の予想をかなり超えてきてしまったので、本書の新潮文庫の解説を書いている保田の文章の多少の抜き書きをもって、そのあたりを補填しておく。保田は「これは真の保守文学というものだ」と説明したのだ。いまとなっては、ほとんど喪失されている見方であろう。いや、そんな見方はアナクロニズムだろうとさえ思われている。
 諸君はどのように感じるだろうか。ぼくは保田が最後に書いた中河についての見方の肩をもつ。

 わが国の多くの浪漫的な作家が、その才能をいはゆる大衆小説の分野へうつし、時に従つて才能の堕落を伴つたのは悲しむべきことでもあるが、『天の夕顔』はさういふ危険な崖の手前で踏み止り、さういふ危機に耐へて、典雅な小説をなした。その簡潔な文章は、作者の自覚した自衛の発露といふべきであらう。
 (中略)世界に共通する保守的文学は、人間性の美しさ、理想の情緒、魂と道徳と愛の権威を樹立し、献身と宗教的自己規制の灌頂を尊ぶ点で、人間を機械化する今日の傾向と機構に反対するのである。だから浪漫主義は、文学上の右翼と考へられ、また自らも自称してはばからなかつた。
 しかるにわが国おいては、この人間の立場を自覚して守る浪漫の文芸も、学芸上の保守も右翼も存在してゐない。この我々の国の歪んだ文明機構は、国の文明の未熟の証であらうか。
 (中略)人間を機械化し、ものごとを――恋愛さへ簡便に事務的に解決して満足であるといふことは、極端な人間性の衰退であり、合理主義や実用主義とも無関係である。人間の愛情とか良心とか煩悶とか悔いといつたものは、かつて十九世紀文芸の主題であつたが、今日のわが国の文学のどこに、十九世紀の大作家らの発見して教えた愛情や恋愛の高さとその作法を豊かに述べた文芸があるか。それらの文芸を知らないといふことは不幸であり、またさういふ時代は人間喪失の危険をもつ。

 と、ここまで書いた保田は、ここで中河が、それでもなお『天の夕顔』を通俗的に読む読者がひきもきらないことに、自身の思想をもって背(そむ)こうとしたことにふれていく。
 保田は、中河のような「最も浪漫的な才能が文壇を離れるといふことは、日本の文化のために悲しむべき現象」であることを嘆きつつも、しかし「文壇よりもさらに広い近代的経済機構をもつ通俗文学」に、中河がこれ以上は与(くみ)すまいとした決断を、さらに潔いものとして高く評価する。そして、そうだとすれば、ひょっとすると、中河自身こそ『天の夕顔』にはいまだ通俗性があることを知悉していたのではないかとも、予想した。
 どうだろうか。諸君には、何か得心するものはあったろうか。人称を超える恋など、認められるだろうか。
 『天の夕顔』を振り返ることのなかった中河は、戦火渦巻く昭和17年の45歳のときは万葉研究に没入し、戦後があけては55歳になって、『非合理の美学』を書くに及んだのである。ぼくはここで思い出す、埴谷雄高が『不合理ゆえに吾信ず』(932夜)と書いたことを‥‥。

「天の夕顔」碑 (富山県 大多和峠)