父の先見
宇宙をぼくの手の上に
創元推理文庫 1969
Fredric Brown
Space on My Hands 1951
[訳]中村保男
ぼくは一人一人に手を取り足を取って、何かを教えるほうではない。一緒に仕事をして何かを感じながら学んでもらうか、あるいは「私塾」のように、ぼくの考え方を連続的に何人かに同時に伝えるほうが、やりやすい。
それが「編集」という、新たな領域をまたぐ方法を重視したぼくのやりかたである。しかし、ときにまったく別のことを勧めて、ぼくなりに伝えたいことを擬似体験してもらうこともある。何かの本を勧めるのはそのひとつで、これは相手の年齢や趣向や状況によって推薦する本を選ぶ。
いっとき、雑誌のエディターや広告のコピーライターになりたい連中がぼくの周辺に集まっていたころ、また、そのような養成講座に頻繁に招かれていたころは、しばしばフレドリック・ブラウンを勧めた。
ブラウンにはSFとミステリー、長編と短編があって、そのどれもがおもしろいのではあるけれど、エディターやコピーライターに勧めるのはSF短編集だった。
なにしろ1947年に『シカゴ・ブルース』でエドガー・アラン・ポオ賞をとって以来、その絶妙なストーリーテリングの技は冴えに冴えわたってきた。1972年に66歳で死んでしまったが、どれを読んでもスタイルやエディトリアル・モードにおいては「いまいち」「残念賞」というものが、ない。
とくにSF短編は抜群なのである。びっくりするほど奇抜でもある。サンドイッチの中の宇宙船、ゴキブリのテレパシーに関心を寄せた男、火星人から地球を守ったロバ、魂をもっているメリーゴーラウンド、ビールを飲んでいるうちに世界がおしまいになった夜、ボストンの核爆発すら知らないですんだドーム、時間の組み合わせが変わる鏡の間、そんなメニューが目白押しなのだ。
これらはいずれも、われわれの生活のすぐそばにとんでもない謎があり、それがみるみる加速力をもって事態を信じがたいものにしていくというラール・マジックに富んでいる。そこへもって機知が効き、省略が効いている。だからたいていの作品の読後感がすばらしい。
では、一作だけ、そのお手並みを案内しておく。これを読んでどこかにちょっとでも気にいるものがあるのなら、諸君はエディターにもコピーライターにもなれるし、そんな職業が嫌なら、勇気を出してぼくのところを尋ねてくるがよい。
こんな話なんだが‥‥。
フラター君は何の取り柄もないコール天文台の職員である。その夜、フラター君は二つの作業をしていた。ひとつは双子座の乾板を比較視器で調べること、もうひとつはいまの給料の残りでエルジーにデートを申し込めるかどうかという作業だ。
このとき、比較視器の光の一点がちょっとぶれたことに気がついた。もう一度、よく見てみたが、今度は10分の1も横にぶれた。双子座のポラックス星である。そんなことがありうるはずはなかったが、昨夜の写真と今夜の写真のあいだに、このぶれは動いている。ポラックスは32光年の恒星なのだ。一夜のうちに10分の1秒も動くはずがない。
フラター君はともかく帰ることにして、念のため夜空を見上げてみた。獅子座の大鎌で見当をつけると双子座にぶつかる。肉眼で見えるのはカスターとポラックスだけだが、心なしかいつもより間隔が広い。そうおもうと、眼の端に入ってくる周辺の星もあやしいような気がする。おそるおそる北斗七星を見てみると、ごく僅かだが星と星の間が歪んでいる!
フラター君は仰天して天文台に電話をかけた。交換手はニベもない。いまこの電話はいっぱいで、あなたにはつなげないという。
翌朝、たいていの新聞が星たちの異常を報じていた。過去48時間で天体が目につくほどの固有運動をおこしたというニュースになっていた。
こうして世界中の天文台が不眠不休の大騒ぎとなり、コーヒーというコーヒーが天文台に届けられた。アマチュア天文ファンが天文台に突入する事件がおこり、シドニーとメルボルンでは形をなさなくなった南十字星を見て、老人たちがおかしくなりはじめた。ジャーナリストは天文学者に原因を問い質したがったが、どれもこれもが「こんな天体異常は不可能なことである。したがって原因などありえない」というものだった。
フラター君に残されたのはエルジーとのデートを成就させることだけだったが、電話に出たエルジーは応じなかった。仕方なくラジオをつけてみると、物理学者のミルトン・ヘイル博士が天体異常の"解説"をしていた。ハイゼンベルクの不確定性原理とエントロピー斜度の平行関係というわけのわからない話である。
ヘイル博士はヘイル博士で、わざわざムツカシー話をして、この信じがたい出来事によって大衆を混乱に陥れない工夫をしていたのだったが、実はアタマの中は気が狂いそうになっていた。ラジオ局を出てふらふらとバーに立ち寄り、バーテンとムダ話をするしかなかった。が、バーテンだって、この大先生が相手なら星のことを知りたがる。
「先生、星たちはどこへ行こうとしてるんですかねえ」 「うん、計算するとおおまかには大熊座と獅子座のあいだあたりかな」 |
そんなことを話しているうちに、ヘイル博士はあることに気がついた。すぐに電話をすると、「新たに固有運動を始めた恒星の数は468個だったな」と天文台職員に念を押し、しばらく深く考えこんだ。
どうも、考えられることはひとつしかない! ヘイル博士は確信を得た。
こうしてヘイル博士ののちのちまで語り継がれることになる一夜の大冒険が始まった。ひとつは"あの男"をつかまえること、もうひとつはホワイトハウスに連絡することだった。
"あの男"とは、ラザフォード・スルヴェニーで、元は優秀な科学技術者でありながら、いまはアメリカ有数の製造会社を経営している男だった。最近は特別の石鹸開発に挑んでいるらしい。
しかし、その夜にかぎってどちらもまったくうまく進まない。スルヴェニーもつかまらないし、夜中に飛ばしたタクシーはホワイトハウスへの道をまちがえた。そのうち、ついに恐るべき瞬間がやってきた。ヘイル博士は無念そうに空を見上げた。
468個の星たちがついについに動きを止めて、夜空にある形をとって並んだのである。それは、こう読めた。
石鹸なら
なにをおいても
スニヴェリー印
むろん、この話、『狂った星座』という話には、読者をあれこれ納得させるための多少の説明もついている。
大気中のレンズ効果を利用して468個の投射装置が作動していた云々という話だ。さらにまた、オチも二つもくっついてくる。夜空に"広告の星"が出てからも、まだブラウン得意の"狂い"が生じてくるのである。
けれども、フレドリック・ブラウンの作品ではどんな説明も、その物語のスピードにはついてはいけない。そして、どんな不条理も読者には納得できてしまうのである。
ぼくがブラウンの本を工作舎の最初の5年ほどのあいだ、誰彼なく勧めていた日々が懐かしい。