銀河の世界

エドウィン・ハッブル

岩波文庫 1999

Edwin Hubble
The Realm of the Nebulae 1936
[訳]戒崎俊一

 ニュートンの万有引力の法則とロバート・フックの重力についての考察は、たいへんよく似ている。いずれも「引力(重力)が距離の二乗に反比例する」という逆二乗の法則を示した。二人は手紙のやりとりを頻繁にしていたので、フックが逆二乗の法則は自分がニュートンに与えたヒントにもとづいていると言っても、証拠だてられるものはないのだが、ニュートンとフック以降の力学や天体物理学の象徴的二面性が集約されているようにも思われた。
 ニュートンの『プリンキピア』(一六八七)とフックの『ミクログラフィア』(一六六五)が今日の自然科学の基台をつくった。ニュートンの光の粒子説とフックやホイヘンスの光の波動性は、今日の素粒子論を先駆した。そう思うとこの時代の科学者たちの議論や論争から目が離せなくなるのだが、同時代でニュートンの天体力学をいちはやく体現したのはエドマンド・ハリーだった。ハレー彗星の発見者だ。
 その後もニュートン宇宙を数々の天文学者や数学者たちが全知を傾けて追いかけた。ダランベール、クレロー、オイラー、ラグランジュ、ラプラスが支援者で、天王星を発見したウィリアム・ハーシェルや、ボーデの法則(惑星軌道の配列に関する法則)をもとに海王星を発見したルヴェリエやアダムズがその体現者だった。
 ニュートン宇宙をシンプルな運動模型にしてみせたのはコリオリの力を発見したレオン・フーコーである。上野の国立科学博物館で「フーコーの振り子」が悠然と動いているのを見たときは、われらが内外なるハイパーノスタルジーを感じて、しばし佇まざるをえなかった。

 ハーシェル以降の天体観測にとって重要になってくるのは、光行差の研究、年周視差の研究、統計的手法の開発と、そして大型望遠鏡と写真技術であろう。いずれも近代科学技術の先駆けとなった。
 そこに加わってくるのが分光学で、スペクトル分析による赤外線・紫外線の発見、フラウンホーファー線の発見、ブンゼンとキルヒホフによる分光器開発などが、めざましい成果をもたらした。今日では太陽が白熱の高温天体であることなど誰もが知っているが、キルヒホフが太陽光スペクトルと実験分光器のスペクトルを比較して、太陽に含まれる化学元素を特定するまで、そんなことはわからなかった。
 こうして「星の正体」が少しずつ明らかになってきた。天体写真撮影が精度を増し、巨大天文台と巨大天体望遠鏡が連動するようになると、天文学は星の一生の解明と、銀河にひそむ相互関係の解明に向かっていく。
 星の一生(星の進化)については、ヘルツシュプルングとラッセルによる「HR図」が大きな寄与をもたらした。星のスペクトル型(色指数・色温度)と星の距離から求められる絶対等級(光度・星の放射エネルギー)の相関性がプロットできるようになったのである。ぼくは京大の林忠四郎先生からHR図のイロハを教わった。
 ドップラー効果が星の運動や方向に適用されたのも大きかった。星がどのように遠ざかっているのか、その星が出しているスペクトル分析がものを言った。

 二十世紀に入ると、相対性理論と量子力学が出現して、ニュートン力学による宇宙像をぐらぐらとゆさぶっていった。空間と時間が「時空連続体」としてつながり、極大の宇宙と極小の素粒子が組み合わさり、天体観測の原理に「光速度から眺める」とか「波動関数から粒子を眺める」とかという見方が導入されるようになったのだ。
 もっと驚くべきは宇宙の誕生についての仮説が出現したことだ。ビッグバン仮説である。宇宙は一〇〇億年くらい前に小さな「火の玉」が爆発して、その直後の三分間ほどで今日の宇宙の構成要素の大半をつくってしまった。あとは宇宙はひたすら膨張して今日のような姿になったというのである。
 膨張する宇宙をさかのぼっていくと、一点の時空に行きつく。一点の時空が爆発すると、むくむくと今日の時空宇宙があらわれる。この仮説をめぐって、ジョージ・ガモフの「火の玉」モデルを中心に、アインシュタインやフリードマンやド・ジッターによる宇宙像モデルが提出されたのだが、いずれもどこかに矛盾があるか、欠陥が生じることがわかってきた。そんなとき、今夜の主人公であるエドウィン・ハッブルが颯爽と登場してきたのである。

 いま新聞やテレビでハッブルという名前が出てくれば、それはたいてい宇宙を飛んでいるハッブル宇宙望遠鏡のことである。刻々と息を呑むほどすばらしい宇宙の光景が送られてくる。が、ぼくの時代は、ハッブルといえば「ハッブルの法則」か「ハッブル定数」のことだった。
 そのころはハッブルという名前を聞くだけで神々しかった。天体ファンにとって天文学者は誰だって光っているのだが、なかでもハッブルはピカイチだった。ハッブルが天文学の中央舞台に登場したのは、宇宙像をめぐる次のような事情によっていた。今日の宇宙像の基本原理をめぐる劇的な仮説交代劇である。

 ごくかいつまんで説明することにするが、アインシュタインが一九一六年に発表した一般相対性理論を宇宙像にあてはめようとしたところから、いろいろな仮説があらわれていた。
 当のアインシュタインは自分が提出した宇宙モデルではどうしても「潰れてしまう宇宙」しか出てこないので、これはおかしいと思ってわざわざ宇宙項λというものを付け足した。引力だけがはたらく宇宙はぺしゃんこに潰れてしまうので、そこに斥力を導入してみたのである。これを「静止する宇宙」「閉じた宇宙」あるいは「アインシュタインの宇宙模型」という。
 しかし「静止する宇宙」とか「閉じた宇宙」というのはいかにもあやしい。アインシュタインはどうも自分の方程式の扱い方をまちがえた。自分の方程式というのはアインシュタイン方程式(重力場方程式)とよばれるものをいうのだが、それなら他の方法でこの方程式を解けばなんとかなるのではないかという機運が天文学者や天体力学者や数学者のあいだに出てきた。
 オランダのド・ジッターは膨張宇宙の解がありうることを発表して、宇宙はじっとしているのではなく、「運動する宇宙」のほうがほんとうの姿ではないかと言い出した。有名な「ド・ジッターの宇宙模型」だ(稲垣足穂の『遠方では時計が遅れる』や『僕の〝ユリーカ〟』はこの宇宙模型へのキラキラとした憧れで綴られた)。
 ところが、ド・ジッターの宇宙模型は物質が何もない「真空の宇宙」であることがわかってきて、これはたんなる数学上の解にすぎないと言われはじめた。物質のない宇宙はありえない。どこかがおかしい。ひょっとしたら数学の扱いにも問題があるかもしれない。案の定、一九二二年にアレクサンドル・フリードマンがアインシュタイン方程式に新しい解を見つけた。これは「物質の詰まった宇宙」であった。これで天文学界の大勢が「運動する宇宙」に傾き、いよいよ証拠捜しが始まった。
 このとき、古代ギリシア以来の華麗なアンドロメダ伝説をひっさげて登場してきたのがエドウィン・ハッブルなのである。

 ハッブルは一九一七年に完成したウィルソン山天文台の口径二・五メートルの、当時はお化けのようにばかでかいとよばれた天体望遠鏡を徹底駆使して、ひたすら星雲の観測をしていた。本書にも報告されているのだが、やがてその中からアンドロメダ星雲にセファイド型変光星があることを発見すると、その周期と絶対光度の関係から、アンドロメダまでの距離を七五万光年と推定した(現在は二三〇万光年くらいと考えられている)。
 この発見が新しい宇宙像にとっての大事件となった。七五万光年という距離は当時想定されていた銀河系の大きさをはるかに超えていたからだ。ハッブルの計算にもとづいてみるとアンドロメダ星雲は銀河系の外にある天体だということになった。突然、宇宙が二倍以上になったのだ。
 ハッブルの発見は、宇宙の一角は星が一〇〇〇億個ほど集まった銀河でできていること、宇宙にはそのような銀河がもっといくつもあるはずだということを告げた。本書の『銀河の世界』はこのことを高らかに象徴するタイトルになっている。
 話はこれだけでは終わらない。アンドロメダ星雲のスペクトル観測をずっと続けていたスライファーが、光のドップラー効果の大きさから視線方向の速度を綿密に計算して、星雲は秒速一〇〇キロの速さで近づいているのではないかと言い始めた。別の研究者たちは、アンドロメダ以外の他の星雲の大半はわれわれから遠ざかっているのではないかと推測した。でも、遠ざかっている理由やそのことが地上から観測できる理由はわからない。
 ここでふたたびハッブルが登場する。ハッブルはスライファーの視線速度の方向に注目して、互いに独立していそうな銀河のセファイド型変光星の周期を詳細に調べあげ、この二つの観測を結びつけた。こうして到達したのが「ハッブルの法則」(現在は「ハッブル゠ルメートルの法則」)である。すなわち、われわれが見ている銀河の大半はわれわれから遠ざかっている、その速度は距離に比例するというもの、宇宙像をすっかり塗り替えた法則だ。
 ハッブルの法則を満足させる解釈はたったひとつしかなかった。それは宇宙は一様に膨張しているということだった。かくて膨張宇宙論というまったく新たな宇宙像が全世界の科学者の前に提示されることになっていく……。
 この劇的な交代劇は本書の第八章に集約されている。が、本書が読みごたえがあるのは、そこまでにいたる観測結果による仮説の組み立てにある。いまではすっかり定説になったビッグバン理論に走る前に、宇宙風船を膨らますことになったエドウィン・ハッブルを堪能してほしい。