ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
ヴィルヘルム・マイスター
岩波文庫 2002
ISBN:4003240529
Johann Wolfgang Goethe
Wilhelm Meisters 1796~1829
[訳]山崎章甫

 ヴィルヘルム・マイスターを語るということは、ドイツにおける精神の修養の過程をすべからく語るということ。ドイツ人の修養を語るとはまさにゲーテを語ること。
 ゲーテを語ることはドイツの意情そのものを語ること、ドイツの意情はその最もドイツ的な時向を語ることにほかならない。そのドイツ的な時向を語るにはゲーテの疾風怒涛を語らないかぎりは、何も始まらない。
 すべてがゲーテで始まったとは言わないが、ドイツを語ることはゲーテから出自する。これ、当然。‥《あれっ、ぼくはこんなにもゲーテ主義者だっけ? それならシュタイナーになれたのに》

 ぼくはゲーテを語ろうとはしてこなかった。こういう言い草は奇異に聞こえるかもしれないが、ゲーテをしてゲーテに語ってもらうのが好きだった。
 とくにヨハン・ペーター・エッカーマンが記録した『ゲーテとの対話』(岩波文庫 全3冊)で、ゲーテの語るところにひたすら耳を傾けているのは、なるほどニーチェがルター訳聖書とショーペンハウアー『意志と表象としての世界』と『ゲーテとの対話』の3冊のみによって、その思索の始点と終点をいつも決めていたというのがよくわかるほどに、心服がよかった。‥《文章を読みながら一心に耳を傾けるという体験をしたのは、これが初めてだった》
 もっともぼくは、ニーチェとは異なる読み方をしたのだろうと思う。ゲーテの語りに耳を傾けていたのは高校時代のことだったけれど、そのころこっそり併読してみた『ツァラトゥストラ』や『この人を見よ』は痛くて尊大で、辛くて高邁、しかも陶酔的でありながらチクチクとしているのに、ゲーテの言葉を聞いているのは、言葉の音楽のように浄感があって、また、真実というものがあるとすれば、なるほどこういうものなのかと、つねに思わせた。
 いまは「真実」なんていう言葉に照れるようになってしまったのに、ゲーテが正面で、自然も人間も愛も悪も受け止めて、これを全身全霊をもってふたたび正面で言葉にしていくという語り方をしつづけたということは、わが青春には、やっぱり比類がないほどの激発だったのだ。このことは正直、いまもって忘れられない。‥《ところで、なぜ、あのころニーチェをこっそり読んだのだろう? やっぱりニーチェは不幸なのだろうと思う。この記憶もまだ忘れない》

 ともかくも『ゲーテとの対話』は、芸術者というものが何を見聞して、何を表意しなければならないのか、そのことを連日連夜に10年にわたって細部におよんで語りつづけた記録だった。こんな記録はその後のどこにも存在していないのだから、これはモニュメントとして特筆すべきなのである。‥《ぼくがここに多少とも比況させたいのはカフカの日記、アナイス・ニンの日記、それから『岸田劉生全集』くらいかな》
 さて、それはそれとして、また昔日のことはスミレ色の昔日の片隅にそのまま日光写真として放置して、いまはゲーテをちょっぴりナマに語ることにする。まずは疾風怒涛の波頭に乗って――。

 その時代はロココだったのである。ゲーテが16歳で故郷のフランクフルトを出てライプツィッヒ大学で法律を学んでいた1776年あたりのことだ。
 ライプツィッヒはそのころ「小さなパリ」と言われていたのだが、このプチ感覚こそがロココの本質だったのである。それはフランスから移入された瀟洒な文物主義というもので、なんでもプチにしさえすれば流行した。『情報の歴史を読む』(NTT出版)にも、第503夜にも書いておいたことだが、そのころフランスでは「贅沢」と「小物」が流行して、ゾンバルトによればそれが資本主義の起爆点とも成功の原資にもなったというのだが、これがドイツに入ってはプチ・フランス主義となって蔓延しはじめていた。ライプツィッヒはそのショーケースのような町だった。
 ゲーテがそんなライプツィッヒで喀血して体を壊し、親戚の敬虔なクレッテンベルク嬢の感化によってアルノルトの『境界と異端者の歴史』を読んで、いわば「心の宗教」をうっすら知ったのちに、1770年に移ったアルザスの風光に包まれたストラスブールの大学に入ったときは、このプチ・フランス主義を脱却することこそがゲーテの課題になった。
 ドイツ精神をフランス擬古主義の文学的植民地から脱却させようというものだった。‥《これって、本居宣長が「からごころ」を排除して思索をしようとしたことに、似ている。実は宣長とゲーテはまったくの同時代人なのである》

 ドイツ精神のフランスからの独立をゲーテに決断させたのは、誰あろうヨハン・ヘルダーである。ぼくはヘルダーの自然と民族の個性を謳歌する人間史が大好きなのだが、それ以上にゲーテはヘルダーに全身を揺さぶられたにちがいない。‥《これも懐かしい思い出なのでヤバイけれど、中公「世界の名著」が第38巻にヘルダーとゲーテを一緒に入れたのは嬉しくてしかたなかったものだった》
 ここに勃興したのが疾風怒涛(シュトゥルム・ウント・ドラング)である。ドイツ詩人の意情の個性がここに沙羅双樹のごとく絶対開花する。
 この時期、牧師の娘と恋をして、自分の才能を選ぶためにこの娘を捨てたことは、実はゲーテ生涯の自責になるのだが、それはいまは問わない。‥《けれども、このことこそ、ゲーテにグレートヒェンを思いつかせた》

 このあと故郷のフランクフルトで弁護士を開業したゲーテは、一方では自由のために闘う篤実剛毅な中世騎士を主人公とした戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書き、他方では恋に自殺する『若きウェルテルの悩み』を小説にして、その名を一躍とどろかす。
 このデビューは鮮やかだった。無理もないことだけれど、これで自身の才覚に無窮を感じはじめたのが、ゲーテのゲーテたるゆえんだった。
 ふつうなら、これでゲーテは只の流行作家に終わっても文句は言えまいに、そうならなかったのは、次の究極の体験が待っていたからだった。
 1775年、ゲーテは人口10万のワイマール公国の宮廷に入ったのである。26歳だ。ここでゲーテはドイツのどんな市民生活からも得られぬ全局的な活動の舞台を与えられていく。

 それを出世などとよんでいいのかどうかもわからないが、9カ月後に枢密院に議席をもつ顧問官となって、若き大公カール・アウグストと奔放な遊楽を享受した。
 それならそのまま遊びほうけてもよかったのに、この文豪は決してそうならない。アウグストを英明な君主たらしめるために、あらゆる知識と政務の提供に入っていった。そこで研究着手したのが、のちの自得自若な自然科学観を形成する解剖学や植物学や色彩学への放電だ。鉱物学・地質学・動物学への投身だ。
 これは凄かった。ゲーテの原型思考がみごとに発揚されていた。こんな広範囲な領域への取り組みは、のちのキュビエか、ラマルク以外にはめったに見当たらない。
 ぼくはなかでも、その「形態学」の着想と構想に惚れきったことがある。『遊』を創刊する直前のことだ。だから『遊』の第Ⅰ期にひそんでいる視線の一部は直接にゲーテから受け継いだものだった。・・《そのことをたちどころに喝破してくれたのは、芸大の三木成夫さんだった。第217夜を参照してほしい。三木さんはシュタイナーにならないゲーテ主義者だったのだろう》

 ゲーテは32歳には貴族に列せられ、ついで内閣主席となっている。自信を高揚させることも自分の欠陥を洞察することも、ともに得意なゲーテにとっては、このワイマールの日々は極上無比であったろう。
 文豪詩人がワイマールに入ったことについては、ゲーテの意情に内なる王国理念のようなものがあったと思われる。生まれ育ったフランクフルトはドイツ皇帝の戴冠式が必ずおこなわれていた町である。少年ゲーテはヨーゼフ2世の戴冠を目の当たりにして、胸打ち震えるおもいをしている。
 それにしても小国の宰相になる文学者なんて、日本では森鴎外がそれを望めばなれただろうが、それ以外には考えもおよばない。わずかに昭和の橋田邦彦がいるくらいだろうか。‥《ときどき日本のブンカジンが文化庁長官の椅子に坐るのとはわけがちがうのだ》

 その後、ゲーテは生涯の大半をワイマールに暮らす。晩年であるけれど、エッカーマンにも何度もワイマールという国のすばらしさを説いている。もっともゲーテを慕い、ゲーテを包んだ夫人シャルロッテの慈愛のようなものも、大きかったのだろう。どこで読んだか忘れたので正確な数はさだかではないが、たしか二人が交わした手紙だけでも1700通をこえていたはずだ。
 しかし、そのようなゲーテでも、この理想主義的活動の日々を抜け出さざるをえない日がやってくる。これが有名なイタリア旅行というものになる。
 1786年9月からの約1年。ここでいよいよ『ヴィルヘルム・マイスター』の書き継ぎが始まった。
 これも本当かどうかは確かめてないが、このイタリア旅行はワイマールの誰にも知らせずに、たった一人で旅立ったらしい。‥《ぼくがこれまでできなかったことが、実はこれなのだ》

 イタリア旅行については追走追慕したいことはいくつもあるが(たとえばタルコフスキーとの比較など)、ここでは省く。なかで二つだけあげるなら、「原」(ウル)と「変形」(メタモルフォーゼ)の概念を発見したことと、ゲーテ自身がヴィルヘルム・マイスターとして圧縮遍歴を体験したことだろう。
 ゲーテは「普遍」と「原型」を本気で探したのである。異国に赴いて「普遍」と「原型」を探しだすなんて、その後はダーウィンや南方熊楠やレヴィ=ストロースがやっとなしとげたことである。それをゲーテは1年でやってのけている。‥《実は宣長も「普遍」と「原型」を探したのであるが、それは『古事記』を44年にわたって旅することだった。ぼくはこの点に関しては宣長的なのだろう》

 マイスターとしての圧縮的遍歴も、人間という「普遍」と「原型」に確信をもつためだった。いったいこの堂々たる人間探求に自身の思索の全貌を投げ打つという吟考の構想は、まったくもってお手上げである。
 こんなこと、トルストイドストエフスキーでもしなかったことで、むろん極限の状況に人間をおいてこの全貌を観察するというのなら、それはメルヴィルから大岡昇平まで実に多くの文学者が挑んだことであるけれど、そうではなくて、最初から普遍をめざす大才が最後におよぶまで普遍を求めてそこに大才を描き果たすということは、ちょっとありそうでもないこと。

 さて、そのような全人的教養に達するための主人公をもったマスタープログラムが『ウィルヘルム・マイスター』だったのである。
 これがとんでもない長丁場だった。しかし、そのゲーテでさえその完遂には30年近くをかけている。これを読むぶんには気楽なものだ。十全に仕上がった大長編映画を安心しきって見るようなものだから、それを堪能していればすむのだが、これを構想通りに一点の破綻もなく書き上げるとなると、やはりゲーテの精神の強靭に驚嘆せざるをえなくなってくる。
 ちなみにこの作品は、『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』とシラーの激励で再開して完成させた『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に分かれて発表されていて、その程度の難渋があったことにはホッとさせられる。‥《さあ、ぼくも、まだ10年後にも生きているのなら、なんだか誰も書いていないような、普遍が特殊に恋するような物語を書いてみようかな》

 ワイマールに戻ったゲーテが、意外にも「寂寞」を思い知らされたということを、文学史家たちはどう見ているのだろうか。
 政務から退き、交友こそ断たなかったものの、ひたすら「普遍の人間」であろうとしてワイマールの一隅に蟄居したことは、大才ゲーテの生きる計画のシナリオの、いったいどこにメモってあったことなのだろう。さすがにエッカーマンもこのことについては質問を発しはしなかった。
 おそらくはどこにもなかったシナリオが、ここで発露したのだとぼくは思いたい。それは、クリスチアーネ・ヴルピウスという造花の花売り娘にゲーテの情感のすべてが注がれたことにあらわれている。
 ゲーテは少女を引き取って、妻子とは別のちっぽけな擬似時空のようなものをつくりあげたのだ。ゲーテは前歴を捨て、栄光を脇に押しやり、少女に賭けたのである。‥《これがロリコンならわかりやすいけれど、そこがゲーテのとんでもないところ、やはりのこと、この少女を居住させた擬似時空体験は『ローマ哀歌』に昇華した。それもまことに格調正しい様式で》

 つまりはゲーテは、これっぽっちも川端康成にはならなかったのである。
 それどころか、ここに勃発したフランス革命のさなかには、対仏作戦の連隊長として2度にわたって従軍するとともに、戻ってはワイマール宮廷劇場の総監督として、今度はあらゆる演劇的古典性の快挙のために一身を捧げはじめた。
 その渦中、『ファウスト』と『ヴィルヘルム・マイスター』が書き継がれていった。

 そもそもゲーテにおける少女とは何なのか。この謎を解きたいのなら意を決して『ファウスト』を読むべきである。『ヴィルヘルム・マイスター』はそのあとでないとわからない。
 ファウストがメフィストフェレスに魂を売ったという、缶コーヒーの宣伝コピーのような文句だけをおぼえていて、それで『ファウスト』を読もうというなら、そういう先入観は捨てたほうがいい。
 『ファウスト』はたしかに壮大な生命観の賛歌をめざしてはいるが、実は自身の罪業を負い、「悪」と戦う活動精神の悲劇を描いているのであって、メフィストフェレスは悪魔というより、つねに悪を欲することによってかえって善をなしている人格なのである。‥《この逆倒のメフィストフェレスこそ、のちに手塚治虫が想像力の厳選としたものだ》
 では、ファウストは自身の活動の善と悪とをどこで分けられるかといえば、僅かに少女グレートヒェンに接しているときの補償によってしか、内なるメフィストフェレスとの分別が叶わない。

 グレートヒェンは本名がマルガレーテという貧しい父なし子で、どんな器用なこともできないのだけれど、愛することだけを知っている。それでグレートヒェンと愛称されて、ファウストの前に現れる。
 少女に愛されたファウストは、そのときは忽然とするだけで、活動を失っている。ファウストは活動こそが生きがいの精神ロボットなのである。けれどもグレートヒェンには愛だけがある。
 かくしてブロッケン山の山頂で開かれているワルプルギスの魔女の祝宴の夜、誤って罪を犯したグレートヒェンの幻影をファウストは誤またずに見たはずなのに、ファウストは活動が何らおこせなくなっていく。このためグレートヒェンは獄門に送られる。
 このときファウストが何を考えたのかが、まさに『ファウスト』全巻のテーマになっている。

 ゲーテはファウストの罪を、厳正に描いたのだ。その罪とはなにか。すでに壊れてしまった相手の姿がそこにあることを知っていること、それが罪なのである。フラジリティの極北を知っていながらそこまで放置していたことが罪なのだ。
 こうしてゲーテにとっての少女とは、フラジリティの極北をあらわした。ぼくはそう考えている。『ファウスト』の最後に何が書いてあるか、知っているだろうか。
 「永遠的なものは女性的なるものである、そこへわれらをひいて昇らしめよ」、だった。‥《このゲーテこそ、ぼくが最も信用しているゲーテなのだ。これがあるから、ゲーテはヴィルヘルム・マイスターになれたのよ》

 ゲーテに残された仕事は『ヴィルヘルム・マイスター』を完成させることだけになる。
 だからここには、ゲーテのドイツとドイツのゲーテが通過したすべての人格と、あらゆる感情と知性の体験にあたる出来事とが、ことごとく鮮やかにあらわれる。グレートヒェンは男装の少女ミニョンであり、ミニョンと組んでいる老いた竪琴師は、ゲーテがイタリア旅行で出会った老人の「原型」なのである。
 主人公ヴィルヘルム・マイスターはといえば、失恋の末に演劇に投じた青年で、ずたずたになった魂の回復のために一座に交じり、結社に入り、実に多様な体験を通過して、他者を知る。魂の回復はこの他者との共働性のなかにしかないことを知る。
 しかし、そのためには、時向の総体をできるだけ小さくしながら受け止めて、これをともに働く者たちとのあいだで意情をこそ共有しなければならない。
 青年はそれを知るためにのみ修業と遍歴を重ねてきたのだった。‥《ぼくはこれを最初に読み進んだとき、すぐさま『華厳経』を思い出し、マイスターが善財童子に見えたものだった。でも、これって、これはあくまでドイツの魂の遍歴だったよね》

 もはや多くを語らないことにするが、どうしても最後に指摘しておかなければならないことがある。それはドイツや日本を超えてのことになる。
 それは何かというと、この物語の主題は「諦念」であるということだ。‥《ようするに九鬼周造が「いき」とよんだもの》
 この諦念はゲーテがさしかかった19世紀が捨て去ろうとしているものである。ところがゲーテはこの偉大なる諦念をもって人間が遠ざかる真実に、たとえ一瞬でもいいから、夜陰にきらめく稲妻のような光を投げかけることを希んだのだった。‥《この諦念を日本語に訳せば「無常」というものだ》
 のちに『ファウスト博士』という作品も仕上げてみせたトーマス・マンは、こう書いた。
 『ヴィルヘルム・マイスター』がわれわれに告げているのは、個人主義的人道主義をいいかげんに捨てて、共働体で出会った者たちとの連帯をはかってほしいということだったのではあるまいか、というふうに。
 ヴィルヘルム・マイスターは一から十までドイツの凱歌であるが、これを読む日本人はゲーテを内村鑑三に引きこめばよかったのである。

★お知らせ★
ジャーン!明日をもって「千夜千冊」はついに30冊を切ることになりました。執筆者の本人ともども、ISIS主宰者としては無事の千冊達成を祈るばかりであります。このあと、このサイトに何がおこるのか、毎夜、気をつけてご覧ください。ひょっとして、賑やかにも記念の終着をめざす「おつり」がふえるかもしれません。それがまたひょっとして「千夜千冊パンディモニアム」の開始ともいうべき意外な予告なのかもしれません。ま、お楽しみに。だって、だって、「千夜千冊」があと30夜でそのまま終わるなんて、そんなこと考えにくいですものね。

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