鴨長明
方丈記
岩波文庫 他 1989
[校注]市古貞次

 われわれは心のどこかで、いつかは方丈の庵をくみたいと思っている。なぜ、そのように思うのか。
 長明が求めたことは、ただ「閑居の気味」という、このひとつのことだけである。閑居して、その気味を感じてみたい。それだけのことである。長明はそのことを実現して、やっと「空蝉(うつせみ)の世をかなしむ」ことができた。そうすれば「観念の便り、なきにしもあらず」であった。

 時代の転形期を読むのは容易ではない。肌で感じるのはもっと困難だ。まして予想もつかぬ変動が次々におこった転形期にいあわせて、そのめまぐるしい動向の渦中で激しく揺動する分銅を、目を泳がせずにひたすら凝視するにはずいぶんの魂胆がいる。長明にその魂胆があったとしたら(あまりなかったとはおもうが)、それは長明が失意の人であって、典型的な挫折者であったからだ。内田魯庵のいう“理想負け”、山口昌男のいう“敗け組”だったからだ。

 鴨長明は後白河がまだ天皇だった在位期に生まれた。死んだのは後鳥羽院の時代である。その半世紀のあいだ、日本史上でも特筆すべき大きな変化がつづいた。武家が登場し、その代表の清盛がまたたくまに貴族社会を席巻して新たな「武者(むさ)の世」を準備したのもつかのま、その武家を大きく二分する源平の争乱が列島各地を次々に走った。
 それで収まるかとおもえば、初めて東国に幕府を構えた頼朝政権はわずか三代で潰えた。まさに「世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず」。平家が滅亡し、そして源氏が滅亡したのである。見れば、「むかしありし家はまれなり」「古へ見し人は二三十人が中に、わづかに一人二人なり」なのだ。
 そのなかで法然や親鸞が、栄西や道元が、明恵や重源がまったく新しい価値観を求めて立ち上がっていった。文化史上では、俊成・定家の親子が和歌の世界を仕切って、いわゆる新古今時代をつくった。のちに本居宣長が言っていることだが、このとき日本語がはっきりと姿をあらわした

 長明はそういう転形期に人生を送った。その半世紀は一国のなかだけでおこった激動ではあるものの、その国の最も大きな価値観の転倒をもたらした。最近の現代の事情とくらべるわけにはいかないが、あえて比較をすればソ連の崩壊やユーゴの解体などにあたる体験だったろう。
 が、その長明も、『方丈記』を綴る晩年にいたるまではただただ目を泳がせていた。目を泳がせていたからこそ、最後の出家遁世の目が極まったともいえた。

 長明は鴨神社の禰宜(ねぎ)の次男に生まれている。いまの下鴨神社である。ぼくも子供時代によく遊んだ糺(ただす)の森が長明の実家のあったところだった。前半生はよくわかっていないのだが、清盛の子の徳子が入内したころ、父を失った。おそらく18歳あたりのことである。長明はそういう境涯のみずからを「みなし児」とよんだ。
 その「みなし児」が父を継ぎ、禰宜になれれば、われわれの知る長明はいなかった。ところが、欠員が生じたにもかかわらず長明は禰宜に推されずじまいとなり、見かねた後白河院が鴨の氏社を昇格させてそこを担当させようとはからったのだが、長明は拗ねて行方をくらました。家職を継ぐことが長明の安定だったのに、それがかなわぬことを知ったとき、そこにわれわれの知る長明が誕生するのである。

 33歳のころ、長明の歌が一首だけ『千載集』に採られたことがある。「思ひあまりうちぬる宵の幻も浪路を分けてゆき通ひけり」というものだ。けっして上等ではないが、どこか正直な浪漫がある。長明はこの歌が採用されたことをかなりよろこんだ。そのことは『無名抄』に綴られている。ところが長明は、あえて自分の歌風を定家風に修正していった。当時の定家風あるいは寂蓮風のスタイルを当時の言葉で「近代」という。まさにモダンの意味である。ようするに感興の表現を「今の世」のモダリティに変えたのだ。つまりは新しい日本語の調子を気取ったのだ。
 この気取りは功を奏した。46歳で後鳥羽院の北面に召され、おりから建仁元年に設けられた和歌所の寄人(よりうど)となった。このときは首尾よく宮廷歌人33人の一人に入った。けれども、定家『明月記』を見るかぎり、長明の歌は定家によって無視しつづけられた。長明はかくて歌人としての名声も得られなかったのである。

 こうして長明は出家遁世した。「家を出て、世をそむけり」と書いている。覚悟したのである。50歳のころだった。そういう男が58歳のときに『方丈記』を綴りはじめたのだ。われわれもよほど覚悟して、その意図の表裏に惑わされずに読む必要がある。
 長明はもともとが数寄者(すきしゃ)である。琵琶は中原有安について、けっこう腕自慢であった。和歌は俊恵に教わった。二人とも当代のトップクラスのインストラクターだ。とくに琵琶についてはよっぽどの自信があったとみえる。
 隆円法師の『文机談』によると、長明は師の有安から秘曲の伝授を受けきらぬうちに有安が死んだ。そこで長明は絃楽の名人達人を集めてサロンを催し、みずから秘曲『啄木』を弾いた。参加者たちは「知らぬ国に来たりぬ心地」がしたという。そのことが楽所預(がくしょあずかり)の藤原孝道に伝わり、さらに後鳥羽院に上奏された。ところが、「啄木を広座にほどこす事、未だ先例を知らず」という、長明にとっては予期せぬ非難が返ってきた。いたずらに芸道の伝統を乱したというのであった。

 おそらく長明はいったん興じたら図に乗る性向をもっていた。啄木事件はそのことをあらわしている。数寄をかこつのに、その態度に度がすぎた。数寄とはどこか度がすぎることこそが本質なのにもかかわらず、それが周囲の目を曇らせたのだ。長明はついてなかったのだ。歌人としての道もいまひとつ、まして禰宜への道もおもわしくない。
 そこで、そのような自身の「無制限な数寄」の気分をさらに梳いて漉いて「極小の数寄」となし、徹して捨てるべきものを捨てようとしたのが、大原への幽隠であり、その五年後の日野への隠遁だったのである。だから、『方丈記』は長明の「最後の出発」と「最初の凝視」を表現したものとならなければすまなかったはずである。また、そのように『方丈記』を読むことがわれわれの身心を注意深くする。

 日本の文芸史上、『方丈記』ほど極端に短くて、かつ有名な文芸はない。目で追いながら読むには30分もかからない。声を出しても、せいぜい2時間くらいであろう。しかし、その「言語としての方丈記」には凝結の気配が漲っている。省略の極北があらわれている。それゆえ『方丈記』がつくった文体ほどその後の日本で流行した文体もない。それは、漢文の調子そのままを和文に巧みに移した和漢をまたぐ名文であり、それ以前の何人(なんぴと)も試みなかった文体だった。
 長明は、この文体によって、初めて歌人であることと神官であろうとすることを離れた。が、そのためには、もうひとつ離れるべきことがあった。「世」というものを捨てる必要があったのだ。「閑居の気味」に近づく必要があった。それが当時の「数寄の遁世」というものである。

附記¶鴨長明が山科の日野山に「方丈」を仕立てたのは1208年のことだった。鎌倉政権は源実朝を将軍に擁し、北条義時が執権体制を整え、後鳥羽上皇の京都政権との緊張は高まってきはじめていた。そんな世俗をよそに、長明は一丈四方(およそ五畳半)の組み立て式の庵を紡ぎ出した。土台を置き柱を立てる掘っ立て小屋で、中央に炉があり、壁に下鴨神社の本地仏の阿弥陀如来・普賢菩薩の仏画を掛け、琵琶・琴・書物を置き、日常の物質的・精神的生活に必要なものを整えた。『方丈記』に方丈の庵を「老いたる蚕の繭をいとなむがごとし」と紹介している。すべてを捨てて自分の身体や心に合うように工夫しながらつくりあげた繭のようなものだというのだ。それは貴族や武家の館でもなく、自然発生的な庶民の住居でもない、新たな「数寄のライフスタイル」の提案ともなっていた。1216年、62歳で没した。


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