フリードリッヒ・ニーチェ
ツァラトストラかく語りき
新潮文庫 1953
ISBN:4003363922
Friedrich Nietzsche
Also Sprach Zarathustra 1885
[訳]竹山道雄

 ニーチェは1889年1月3日に発狂した。トリノの広場で昏倒した。この日はニーチェがワーグナーの妻コジマに送った手紙に、自分は十字架に架けられた者だとかディオニソスだとか、また私はブッダだ、ナポレオンだなどと書いた日であった。ニーチェは病院に運ばれた。それから12年後、20世紀がまさに明けようとしていた1900年8月25日に死ぬまで、狂人としての日々を送った。
 このことからニーチェを論じてはいけない。この発狂以降、ニーチェは何も書けなくなっている。だからニーチェの哲学はすべてそれ以前の著作からしか導きえない。ただしコジマへの手紙にはひとつだけニーチェらしいことが書いてある。「私は人間というよりはダイナマイトです」というふうに。たしかにニーチェはダイナマイトだった。その爆撃にやられた連中がゴマンといる。そのなかにはニーチェなんか読まなければよかったと思った連中も少なくないはずだ。
 これはよく聞く話だが、ニーチェを読みふけるようになったら終わりだよ、ワーグナーばかり聴くようになったら危ないよ、と言われることがある。そういうこともあるのだろうが(ぼくの周辺にも何人かいた)、そうなるとしたら、それはニーチェやワーグナーに思いを入れすぎたのだ。
 ニーチェがダイナマイトだというのは、そういう意味ではない。哲学や思想という重たいものを動かしたり飛ばしたりする力が、まさにダイナマイトのようなのだ。機関銃でもミサイルでも原爆でもない。まさに吹き飛ばすという意味で、ダイナマイトなのである。

 では、ここから先はマジメに書いてみたい。ニーチェが異様な健筆を奮いつづけた30年余の聞きしにまさる思索と表現の波濤から、その波濤の一沫をある種の順に抜き出してみたいとおもう。マジメにというのはリキまないで、ということだ。
 その前に一言注釈をつけておくと、ぼくがニーチェについてこのような試みをするのは初めてなのである。これまでニーチェについては内容のある発言は一度もしてこなかった。十行以上は書いてもこなかった。そもそも書物の読者というものは誰かの著書を読んでいろいろ感じてはいても、その感想を吐露するということはないのが当たり前である。だから紫式部であろうとドストエフスキーであろうとホーキングであろうと、べつだんその感想を何も言っていなくともまったくおかしくはない。これは文筆家にもあてはまる。文筆家たちも書評を頼まれないかぎりは、たいてい黙っている。そうではあるのだが、ぼくにおいては、ニーチェを書かなかったということはかなりめずらしいことなのだ。
 ニーチェを綴ることを避けてきたのか、理解が乏しいと思いすぎていたのか、それとも嫌いだったのか、わざと知らんぷりをしていたのか、そこもはっきりしていなかった。それが10年ほど前に、ニーチェの読み方に決着がついたのだ。その決着は、けっこうマジメなものだった。これから書くことで、どんな決着ですませたかは多少は結像するだろう。それには今夜はできるだけマジメに、わかりやすく書くことだろうと、そう思ったわけである。

 最初に結論のひとつを言っておく。ニーチェの哲学は使うにはかなり注意を要するものだということだ。
 これはニーチェの哲学に魅力や長所がないという意味ではない。魅力と長所というなら、ニーチェを読んでそれを感じないところはないといっていいほどに、強烈なアトラクションが連打されつづけていると言ったほうがいい。しかし、それはあくまでニーチェを読むおもしろさであって、それを使えるものにするということではない。
 つまり、ぼくなりの言い方でいうと、ニーチェを「方法」としては読めないということなのだ。
 これについては永井均さんが『これがニーチェだ』という本のなかで興味深いことを言っている。「ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない」「どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない」「マルクスにはなお復活の可能性があるが、ニーチェにはない」‥‥と。
 むろんこれには説明がついている。ニーチェは人間社会の構成原理とはとうてい両立しがたい反社会的なことを書いた。いわば余計なことをしたのである。だからこそニーチェは凄かったのだ。けれどもその凄さを受け取るには、ニーチェの「問い」を見なければならい。ニーチェから「答え」を引き出したのでは、ニーチェを読んだことにはならない。ニーチェは誰も感じてなどいなかった問題をただ一人で感じ、ただ一人でその問題と格闘しつづけた。ニーチェは巨大な問題提起者なのだ。だいたいこんな説明だ。
 もっと炯眼に近いことを永井さんはいろいろ書いているけれど、さしあたっては、これで十分だろう。これはぼくの「方法としては読まない」という立場とぴったり重なっているわけではないが、当たらずとも遠からぬものはあるはずだ。
 というわけで、願うらくは以下に綴るこの一文によって、これまでニーチェについての誤解や曲解をしている読者がいるのなら、そのクモの巣を取ってみてはどうかとおもうのだ。もっとも、世の中にはクモの巣が引っかかっているほうが雑木林を歩くようでいい、空き家に一人で入りこんだようでいいという変わった趣味の持ち主もいる。そういう諸君には、以下の話はマジメすぎてお役には立たない。あらかじめ断っておく。

 では、順番に行く。
 順番というのは話をわかりやすくするための順番であって、ニーチェがこのような順で著作をしたということではない。だから、ここで第1思想段階とか第2段思想階とかと区分けしたのは、いま研究者たちが共有しているニーチェ研究の常套的スタイルとはまったく関係がない。ぼくが便宜的に段階を追ったのである。
 ついでにもうひとつ断っておくが、今夜に『ツァラトストラはかく語りき』を、それも竹山道雄訳で選本したということにはたいした理由はない。『権力への意志』でも『この人を見よ』でもよかった。ただ、それ以外の著作では全貌が見えにくいので、きっと選ばなかったろう。最近はちくま学芸文庫の「ニーチェ全集」が読みやすいから、全集全部でもよかったのだ。ただ、竹山訳の『ツァラトストラはかく語りき』は、ぼくが大学時代に最初に読んだ記念すべきニーチェなのである。とくにツァラトストラが最初に永遠回帰のヴィジョンに出会うところで「むなしさ」を感じるところが好きなのだ。念のために言っておくが、ツァラトストラとは、ヨーロッパ人にとって最も恐るべき未知の宗祖であったゾロアスターのことをいう
 では、順番に行く。

 ニーチェは1844年に北ドイツのプロテスタントの牧師の長男に生まれた。母親の実家も牧師だった。だから少年ニーチェの徒名は「ちび牧師」だった。プロテスタントの渦中にいたということは重要だ。のちに対決することになる。
 父親はニーチェ5歳のときに死んでいる。そのためギムナジウム時代をはさんだ少年期、「ちび牧師」は祖母・母・妹・二人の伯母・女中という女ばかり6人に囲まれて育った。
 父を幼くして亡くしたことや女ばかりに育てられたことと、のちにニーチェが「全人類の父の喪失」としての「神の死」を持ち出したことを万力で締めるように重ねすぎてはいけない。巧妙に折りたたんでもいけない。誰かの例と似ていると見すぎてもいけない。たとえば、三島由紀夫が『絹と明察』前後から自決するまで、「日本及び日本人の父親像」を書こうとし、それを自分の身に引き受けたからといって、またその三島が若いときからニーチェに影響をうけていたからといって、ニーチェを三島に似ているなどと思うのは、まったく的外れだということだ。
 二人はほとんど似ていない。三島のみならず、ニーチェの思想を他のどんな人生の似たような例にあてはめようとしても、無理がある。それくらいニーチェは「異例者」だったのだ。そう思っておいたほうがいい。

 青年ニーチェがとりくんだのは古典文献学だった。ラテン語で書かれた記録の行間から理想の文化を髣髴とさせる学問だ。この下地はかなり大きい。このあとのすべてのニーチェのテキスト性・言語感覚・概念分析力・歴史展望を支えた。
 ボン大学からライプツィヒ大学に移ったときのディオゲネス・ラエルティオスについての分析がのこっている。この論文はけっこう評判がよかったらしく、ニーチェは24歳という弱冠で、スイスのバーゼル大学に迎えられた。
 バーゼルで古典文献学にとりくんだ大先輩には、『母権制』を書いたバハオーフェンがいた(第1026夜)。ニーチェはバハオーフェンからかなりの影響をうけた。とくにディオニソスのイメージに揺さぶられている。ただ、バハオーフェンが太母神的世界像に関心を示したのに対して、ニーチェはそういった大地型のグレートマザーを追求するのではなく、眩しすぎるほどに太陽的な神々に心を惹かれていた。それにバハオーフェンは最後まで敬虔なプロテスタントだったが、ニーチェは途中からプロテスタントの神を殺したいと思っていた。二人の交遊はあるところでプツリと切れた。

 ここで第1思想段階である。
 まだ学究的だった文献学の研究者ニーチェを横殴りした、もう一人のドイツ人の思想者がいた。アルトゥール・ショーペンハウアーだ。ぼくも『意志と表象としての世界』を高校時代に読んでやけに高揚したことがあるのだが、ニーチェの高揚はとんでもなく逆上に近いほどの高揚だったようだ。
 ショーペンハウアーが何を言ったかというと、世界を動かしているのは「生きるという意志」だけだというのである。けれどもその意志には究極の目的などはない。仮にそんなものを想定してみても、すぐに欲望がその目的を乱していく。爛(ただ)れていく。それゆえ、意志は「生の欲望と苦悩」から離れることはなく、その離れることのない意志が世界の表象のすべてだと、そう言った。意志と表象を、根源なるものと仮象なるものを、対比させたのだ。
 哲学史ではこれを「ペシミズム」(厭世主義)の哲学的発芽と見ている。オプティミズム(楽観主義)と対極にある。ふつうは楽観は悲観よりおもしろがれるのだが、ショーペンハウアーはその逆を突いたのだ。第878夜の『虚無の信仰』のところに書いておいたが、このショーペンハウアー思想はヨーロッパでは「恐るべき仏教」と似ていると受けとられた。

 ニーチェはショーペンハウアーをうけて、悲観の凄さに気がついた。そして、ソクラテスやプラトンを「理論的オプティミズム」と批判して、それより「実践的ペシミズム」のほうが上等だと考えた。
 ショーペンハウアー思想は哲学者ばかりに受容されたのではなかった。リヒャルト・ワーグナーも受容した。ワーグナーは「ショーペンハウアーこそ音楽の本質を認識した唯一の哲学者」と褒めそやした。よく知られているように、ニーチェはこのワーグナーの音楽思想にいたく共感する。とくにバーゼル大学教授となった1869年前後からはトリープシェンのワーグナー家にしばしば出入りして、夫人のコジマとも親しくした。「音楽という芸術」と「意志と表象としての世界」とが、青年ニーチェのなかで音をたてて接合した。
 ニーチェの第1思想段階は、こうして強烈なロマン主義に彩られていった。
 ロマン主義とは、矛盾と葛藤にさいなまれた現実の奥に、全体としての理想の流れがひそんでいて、それを取り出し、そこに自身のヴィジョンをできるかぎり没入させたいと思うことをいう。だからロマン主義には部分的な感情よりもずっと全体の感情が横溢する。ニーチェはショーペンハウアーとワーグナーによって、ロマン主義的ペシミズムをしばらく謳歌する。ニーチェの哲学の全般を覆っている全体主義的な相貌は、この第1思想段階にすでに投影されていた。

 ロマン主義的ペシミズムの謳歌が最初に応用されたのは、ニーチェにおいては悲劇をめぐる考察である。著作でいえば1872年の『悲劇の誕生』がこの段階にあてはまる。
 ニーチェはソフォクレスの『オイディプス』にとりくんで、なぜ悲劇が自分をここまで感動させるのかを考えた。悲劇とは(とくにギリア悲劇やシェイクスピアは)、巨大な宿命に人間の運命が圧倒され、押し潰されていく心身の痛みや悲しみを如実に描いたものである。そのような悲劇は運命に敗北した人間ばかりを描いているのではない。燦々たる陽差しを浴びる者もちゃんと描かれる。この対比があるため、悲劇には感動がある(と、ニーチェは考えた)。だから登場人物がもらす悲嘆や落胆にすら共感がおこる。これは物語が悲劇的な筋書きをもっているからではなく、そこに「生きる」という充実と失敗が如実に、必死に描かれているからなのである。
 ニーチェは人間の世界には「悲劇という生の充実」があると見た。「悲しみ」と「生の充実」とは必ずしも対立していないと知ったのだ。ニーチェはその理由を考え、悲劇の構造と特質を分析し、そこにアポロン型とディオニソス型が絡まっていることを発見する。
 アポロンは理性の神である。予告する。ディオニソスはバッカスのことで、酒に酔う情念の神だ。何かを解放する力をもっている。アポロンは秩序をかたちづくり、ディオニソスはそれを打ち破るエネルギーである。ニーチェは発問した。この対比の構造こそは悲劇にひそむ「生」を漲らせているのではないか。では、それはどこから出てくるのか。おそらくギリシア悲劇のもうひとつ前の時代のなかに光るソクラテス以前の原型的な知的エネルギーが湧き出てきているのではないか。ニーチェはそういうふうに問いを発したのだ。
 ここで、ニーチェは第2段階に移っていく。

 ニーチェの第2思想段階は、自分がいったん傾倒したロマン主義的ペシミズムを揚棄することに始まる。
 揚棄というのは弁証法の用語だからぴったりはしないのだが、ここは大目に見てもらう。まあ、いまふうにいえば"脱構築"すると言ってもいいが、こういうカッコつけた言い方をしていると、ニーチェの問いに注目せずに自分の解釈ばかり説明したくなるから、やめたほうがいい。
 話を戻すと、この第2段階はディオニソス的なるものの強調によっておこっている。なぜディオニソスを強調すると次の思想の段階が始まるのだろうか。
 ニーチェには『悦ばしき知識』(1882~1887)という著作がある。哲学や芸術は苦悩する人間を描くことで生命の成長やその闘争力を高めるという主旨なのだが、そこでニーチェは苦悩には2種類があると見た。健康で満ち溢れた者がその力を放出できずにもてあましている苦悩と、疲れて不健康となり、自分からも逃れたがっている者の苦悩である。ロマン主義的な苦悩はおおむね後者にある。
 ニーチェはこのことから、ロマン主義者が永遠や静寂や神を求めるのは、自身の苦悩や欠陥を世界の本質に由来するものとみなして(つまりは責任逃れをして)、それによって世界との逢着を錯覚するような慰みを得るためなのではないかと考えた。
 この見方はぼくには肯んじられないものもあるのだが、それはべつとして、ニーチェはこの見方によってペシミズムがデカダンスに陥ることを巧みに回避した。この見方によって、健康で陽気なディオニソスのイメージと、ときに病的な意味に陥りがちな苦悩と悲劇のもつイメージとの連なりの可能性が、ペシミズムに新たな突破口を得たのである。
 これがソクラテスともバハオーフェンとも異なる「ディオニソス的ペシミズム」というものだ。

 ニーチェはディオニソスを踏み台にしてロマン主義から脱出した。それゆえこのあとニーチェは二度とショーペンハウアーやワーグナーには戻らない。のちに『反時代的考察』(1873~1876)に組み入れられた『ニーチェ対ワーグナー』というタイトルにも、それは端的にあらわされている。こういうときのニーチェは未練がましいところがない。よく言われる「ニーチェとワーグナーに溺れると危ない」という噂は、このあたりのことがわかっていないわけである。
 だいたいニーチェはつねに自分の哲学を更新登録しつづけた哲学者だった。よくいえば、自分の哲学を螺旋的に上昇発展させていったのであり、あからさまにいえば昨日の思索の矛盾などものともせず、明日や明後日の方向のなかで強引に消化していった。石ころでも鉄釘でも呑みこんだ。そして、その嚥下のたびに強烈な問いを発した。たとえ呻吟する思索がいまだ矛盾や欠点をかかえたままであっても、そうした途中の思索を後方に蹴って、前方に飛び出すのが平気だった。とくに自分自身の「生」をたっぷり含む認識論をつかって次のステージに飛び移るのがうまかった。
 しかし、これは「方法」ではない。ニーチェ一人にしかできないような、ニーチェだけが好きにやってのけてしまった飛び移りというもので、それを「方法」としてジェネラルに取り出すなんてことはできない。だから読者がニーチェの思想を「方法」としてなんとか自分にあてはめようと思っても、できない。気にいったハリウッド映画の主人公の真似をしようたって、絶対にできないことと同じことである。そんな映画のようなことは現実にはめったにおこらないし、そんな場面の連続は映画以外のどこにもない。
 逆にいうのなら、ニーチェはそういう特別の哲学映画を独自につくったわけである。ただ、それはカメラによる映画ではなく、「言葉の映画」だったのだ。

 さて第3思想段階は、ディオニソス性を内包した「悦ばしき知識」をもって、何をするかということになる。
 ふつうに考えると、そんな悦びに満ちた知識が会得されているのなら、真理を探究したくなる。その真理を手にしてみんなに自慢したくなる。が、ニーチェはこのことに疑問を呈した。結論から先にいえば、驚いたことに、真理は「誤謬」だと言ったのだ。そう、真理は誤謬であると言ったのだ。
 この言い草はまるでパラドックスを言っているようなので(まさに半分以上はパラドックスでもあるのだが)、ちょっと説明がいる。
 ヨーロッパ、とりわけキリスト教社会においては、真理とは「神の真理」のことをさしている。それ以外はない(科学も含めて)。一方、ニーチェの哲学の基本は出発点からして「生の哲学」である。すなわち「生成」(Werden)というものが大前提になっている。何が生成するかいうと、世界が生成する。世界をいきいきととらえて自成しつつあるもの、それが生成である。ニーチェにとっての真理があるとしたら、それは生成そのものなのである。生成だけなのだ。
 生成はヘラクレイトスが早くに喝破したように、止まらない。流れている。成長や変化もある。人間でいえば赤児は生成そのもので、その後に変化し、分別をもつ。しかし、赤児は誕生して世界を「生」として小さな両手と輝く双眸で感じるものの、そこで真理をつかまえたわけではない。なんとなく感知するだけだ。むしろ大半は「誤謬」ばかりだと言うべきだろう。うんこを手にし、おもちゃを食べる。それをお母さんが訂正する。社会が待ったをかける。
 そうだとすると、生成の原点には誤謬しかないことになる。真理はない。少なくとも原初にひそむ生成の真理(赤児の感知)を、人間は取り出すことはできない。ニーチェは『権力への意志』に、こう書いていた、「諸物の流動という究極の真理は、血肉化が不能なものだ。われわれの器官は誤謬を掴むようにできている」。ニーチェは、このような原初における取りまちがいを「根本誤謬」とよんだ。

 いったいこれはどういうことだろうか。世界は生成であって、それが真理だというのに、その真理を生成の発端においてとらえられないというのは、奇妙である。
 が、ニーチェはそう考えるしかないではないかと言った。人間がこれと思って掴むのは大小軽重のちがいはあっても誤謬でしかなく、しかもそれを生成の原点においてとらえるとすれば、それは「根本誤謬」の発動になってしまうのだ。もしそうだとしたら、こうした生成の現象でおこっている矛盾を無視して、別途に「神の真理」を主張できると思いこむのは、おかしいではないか。
 いったいニーチェは何を言っているのだろうか。真理を誤謬と見たほうが、すべてにあからさまに接することができるのではないか、そう、言ったのだ。ちょっと面倒な推論だったかもしれないが、これらのことについてもっと知りたいなら『生成の無垢』を読むとよい。このタイトルがあらわしているように、生成と無垢はニーチェにとっては同義語なのである。

 こうして第4思想段階になる。
 いまのべたように、真理は誤謬からしか始まらなかった。それなら「神の真理」への道はもともと誤謬から始まっていたということになる。ということは、ずばり言うのなら、神は根本誤謬の発端なのである。かくてニーチェは傲然と「神は死んだ」と言い放ったのである。『ツァラトストラかく語りき』の最も中心的な主張になっているところだ。
 10年間、山中の孤独で叡知を鍛えたツァラトストラは、その叡知を人間に分け与えるために下山した。この下山はツァラトストラが現世に戻って、あえて「没落してみせる」という覚悟をしたことを暗示する。故意の没落によって何かを察知したかったのだ。ところが下山の途中、麓の森で老賢者と出会い問答をしてみると、賢者が「神の死」を知らないことに驚いてしまう。高い知識をもっているはずの賢者すら、いまだ古い道徳に囚われていることに呆れる。ここにツァラトストラの"実験"は始まっていく。
 ツァラトストラの"実験"がどういうものだったかについてはあとで話すことにして、これはふつうの哲学史では「道徳批判」とされている問題をニーチェふうに提出しているところなのである。
 ここでいう道徳は、主にユダヤ・キリスト教社会が築きあげてきた「神の真理への道」のことをさす。またニーチェにとっては、それを居丈高に叫ぶプロテスタントの道徳観をいう。森の賢者はそのシンボルだった。ニーチェはそのシンボルに向かって「神の死」をぶつけ、道徳の系譜に疑問を投げかけたのだ。その詳細は『道徳の系譜』(1887)にまとまっている。この一冊は道徳解剖学の書ともいうべきもので、もっぱらキリスト教僧侶の道徳を嗜虐に富んだ言葉で突き刺した。
 しかし道徳を批判したところで、何も事態は好転しない。すでにニーチェは「神の死」を宣告しているのである。社会には神がいなくなったのだ。神がいない社会は何もないわけではない。神がいなくても社会はすべてある。神以外のすべてのものがある。矛盾も犯罪も渇望もある。混乱もある。では、そういう神の摂理がなくなった社会では、それに代るどんな道徳をもてばいいのか。ニーチェは新たな提案をせざるをえなくなる。神に代わる視点を導入しなければならなくなる。それは善悪の判断をくだす拠点を新たにどこかに設けるということだ。
 けれども、生の快感溢るるディオニソス的なことが好きなニーチェは、そういう拠点はできるだけつくりたくない。そんな拠点をつくったら、神の代用品をつくるだけのことになる。もっと流れのようなもので覆いたい。そこでニーチェは身をひるがえす。善悪両方を彼岸から見るという立場のほうへ移るのだ。道徳的な善悪の価値基準を超えるという立場だ。
 ニーチェはこういう立場を「超人」とよんだ。また、その立場がどのように生成されるかということを、『善悪の彼岸』に書いた。

 ここで、問題が残った。神が死んだあとに人生や世界がむなしくなる人々が出てくるということだった。ここをどうするか。第5思想段階は、この問題に挑むこと、すなわちニヒリズムをどう考えるかというステージになる。
 ニヒリズムとは何か。虚無感にさいなまれることだと決めつけてはいけない。すでにツルゲーネフが定義しているのだが、「権威に屈せず、どんな原理にも屈しない信条」というのも立派なニヒリズムなのだ。こういうニヒリズムはバクーニンやドストエフスキーに継承されている。一方、ニーチェは早くにペシミズムをわがものにしていた。そして、それをショーペンハウアーからディオニソスのほうへ転換させていた。ただし、そのときはまだ神は生きていた。だからペシミズムは現世を厭世するだけでよかった。では、「神の死」のあとにやってくる極度のペシミズム、すなわち、ツルゲーネフが言うような、どんな原理にも屈しないニヒリズムをどう見たらいいのだろうか。
 そういうニヒリズムは、神なき生を察知した者の根底の態度のことである。何事にもゆるがない。ニーチェもそれでいいのだと、最初は考えた。ところが、その態度から見ると、神の消失や不在に不平をいい、不満をのべ、なんだかんかんだと言い連ねて、それをもって社会に勝手な原理をもちこんでいる者たちに腹が立ってきた。これは「神の死」を隠蔽するものである。そこでニーチェは何事にもゆるがないニヒリズムをあえて動かそうと考える。そして、あろうことか、能動的なニヒリズムをつくったのだ。

 能動的ニヒリズムの発動は、いったん善悪の彼岸に立って超人となったニーチェが、もう一度、社会に戻ってきたようなものである。やむなくニーチェは、いっさいの権威と対決することになり、いっさいの欺瞞と対決することになる。
 ちょっと整理してみよう。なぜニーチェは戻ってくることになったのか。すでにのべたように、第4段階のニーチェは世界を「超人」の目で見ている。超人はすでに「神の死」を超えてしまっている。超人は神の真理を求める道徳に決別し、善悪の彼岸に立つことを見通したのだから、現世的なニヒリズムを当初において超えてしまったのだ。そんな超人がニヒリズムの能動を叫んでも、誰もそこにはついてはいけない。超人とは現世からの脱出を終えた姿なのである。でも、残された世界のほうはどうなるのか。どう見ればいいのか。
 ニーチェは先に進みすぎたのだ。現世の穢土にいる者にはニヒリズムを能動させることはできそうもない。現世こそ現世ニヒルの巣窟なのだ。
 かくてニーチェは、もう一度、「神の死」のあとの現世に戻っていかなくてはならなくなったのである。まさにツァラストラの下山とは、その残された世界をどう見るかという問題だったのである。
 これで見当がついたとおもうのだが、第5思想段階とは、ニーチェがニヒリズムの本質に分け入るという、やや逆戻り的なステージだったのだ。ここでのニーチェは下山したツァラストラ同様に、神の不在に文句をつけたり、神の助言がないことを不平とするものの歴史にメスを入れていくことになる‥‥。

 ニーチェの逆戻りは格闘だった。そのあげく、ニーチェはそこに怨恨と復讐の気持ちがわだかまっていることを新たに発見した。何を発見したのだろうか。ニヒリズムを卑しいものにしているのは(ニヒリズムを現世に押しとどめているものは)、復讐をのぞむ気持ちだったのである。
 ニーチェはこれを摘まみ出すしかないと考える。『ツァラトストラ』ではこう書いた、「人間が復讐から解放されること、これが私にとって最高の希望への橋であり、長かった悪天候ののちにかかる虹である」。こうしてニーチェは、いわゆる「ルサンチマンの哲学」の披瀝をする。
 ルサンチマンは「怨恨」と訳されることが多いのだが、一筋縄では縛れない。モンテーニュの『エセー』に使われていて、ドイツ語にはフランス語から転用された。「不満」「憎悪」の意味も含むし、「傷つきやすさ」のニュアンスもある。が、ニーチェが使うルサンチマンには、世の中にはびこる正義感も入っている。ニーチェはこの正義感があやしいと踏んだ。正義感はそのどこかに復讐心を秘めているというのだ。こうしてニーチェの「下山したニヒリズムの哲学」は現世における数々のルサンチマンを暴いて、現世に広がるいっぱしの正義感を次々に叩きつぶしてしまうのである。
 ニーチェは暴走する。ニーチェのダイナマイトは、「神の死」だけでは物足りなくなって、道徳を、正義を次々に打倒して、ニヒリズムの奥に隠れていたものを晒してしまったのである。
 これがニーチェの本来の意図だったかどうかは、ぼくは疑問に思っている。
 もともとはニーチェは「神の死」の前に進んでいたのだから、わざわざ現世に戻って怨恨する者に斧をふるわなくともよかったはずである。それをニーチェはやってのけた。たしかにその打撃力は凄まじい。爆発力は凄まじい。しかしこれで迷惑したのは、こうしたニーチェに奮いたってしまった者たちだったのだ。ニーチェを読んでその思想を真似た者たちは、まるで世の迷妄を払うニーチェの斧として、世の中のどんな正義ぶった主張にも対抗できるようになってしまったのだ。自分を正当化できるようになってしまったのである。これはニーチェの不幸というよりも、ニーチェ共感派の不幸をつくった。

 そこで第6思想段階になっていく。ここの特色は『権力への意志』の問題を問うことにある。
 ニーチェの生前、『権力への意志』は著作物になってはいなかった。ノートを執っているうちに発狂した。それゆえ、『権力への意志』は妹のエリザベートらがニーチェのプランにそってのちに編集したものだ。そういう事情だったにもかかわらず、『権力への意志』は圧倒的に示唆に富む。
 理由ははっきりしている。すでに何度も指摘しておいたが、ニーチェの思想には「飛び」がある。矛盾を抱えたまま飛び上がり、次のステージに移っていく。そのうち矛盾が消化されたり、昇華されることもある。そうでないまま、ニーチェ自身が自分が用意した二律背反や行き過ぎをむりやり引っ張っていくこともある。そのため長い論文をベタの文章で読んでいると、わかりにくいところが多く、かなり苛々させられる。僕は何度、苛々したことか。それが『権力への意志』にはない。
 すべてがアフォリズムとして編集されているからだ。ニーチェはこの本の素材をノートに短文のかたまりでしか残せなかったのである。けれども、それがよかった。このことからニーチェの思想の特色はそもそもがアフォリズム的なものなのではないかと推察することもできる。ニーチェはベーコンやヘーゲルのような体系的な思想家ではなかったのだ。ちなみにぼくは、自分の文体を一定のものにはしないように、ずっと心がけてきた。

 それで、さて、『権力への意志』であるが、ニーチェにとっての権力とは自己保存力のことなのである。ラテン語では「コナトゥス」という。スコトゥスやスピノザホッブスがよく使った。だから権力というより社会と人間が関与するすべての「力」とみたほうがわかりやすい。アメリカ的な英語用法にするのは気にいらないけれど、まあ、「パワー」といえばいいだろう。
 ニーチェはこの「力」を、「力を求める衝動」と、これを抑制する教育本能や育成本能との関係でつかまえようとした。これで見当がつくように、力はその根源で爆発(解放)できないことのほうが多い。教育とか育成とかは連鎖のことである。小学校や中学校での影響は大量の連鎖思想となっている。この力は社会全体の自己保存力になっている。容易には変質するはずはない。それならそこに連続的なダイナマイトを仕掛けてみたい。下山したニーチェはまだ斧をふるっているわけだ。
 このダイナマイトは大きなビルの爆破に似て、いくつも各所に仕掛けなければならなかった。なぜなら、自己保存力は成長した自己を保存したいということなのだが、近代に向かうにつれどこの国でも教育や育成は充実してくるのだから、その規模や質量はかなりがっしりしたものになっている。しかも、近現代の人間は個人主義や自我が大好きである。そのためその奥にひそむ「力」を引き出すのが難しい。それを爆破するのは一筋縄じゃない。
 では仮に、爆破ができたとして、その廃墟の奥からどうしたら力の本来を引き出せるだろうか。いや、そういう本来の力は引き出せないと、ニーチェは結論づけたのだ。

 このことを理解するには、資本主義市場を考えてみるとよい。
 ニーチェの時代はビスマルクの時代である。ニーチェが発狂したときはビスマルクは失脚していた。それを合図にドイツの資本主義は帝国主義に向かっていった。ニーチェはそういうドイツの資本主義をよく観察していた。
 資本主義市場とは、全員が成長した自己保存力を競いあう場のことである。力の市場のことである。力のある者は商品も売りたいし、労働力もほしい。資金もたくさん調達したいし、できれば名誉や名声も手に入れたい。広告をしたり、プロ野球球団を買ってでも名前を売りたいときもある。テレビ会社の株もふんどりたい。ようするにパワーが勝負なのだ。しかしながら、こうした市場で何がおこるかは、アダム・スミスが洞察したように、ひとつとしてシナリオで決定できるものはない。どんなことも予想がつきにくい。「見えざる手」がそこに無数にかかわって、次々に結果が出てくるだけだ。パワーの本質はついに顔を見せないのである。
 すなわちこのパワーは本質的には無目的なのだ。資本主義市場という場の作用が、相互的に何かをおこしているだけなのだ。
 ニーチェもだいたいはこのような推理によって、権力の意志というものが特定のイデオロギーなどで構成されているわけではなかったことを知るのである。これは同時期に資本主義市場を観察していたマルクスとはまったく別の見方であった。

 ニーチェはこう考えた。
 重力や電磁気力といった自然がもつ力のように、社会の力があるわけではない。それなのに人々が政治力や資本力や教育力などの「力」に巻きこまれていくのは、それらをめぐる「解釈」が進行し、その説得に負けているからなのである。たとえば"お金"はたしかに力をもっているようだが、その実体である貨幣の力は交換力でしかない。貨幣はAの欲望とBの欲望をつなげるための解釈の基準でしかない。貨幣そのものに力であったのではなかったのである。
 そのように見抜いたニーチェは、あらためて「力」や「権力」というものは、解釈のレベルで掴まえられたものでしかないと実感したしたのだった。そうだとすると、連続的な爆破など、試みたところでムダである。「力」ではなく「解釈」だけを爆破しても詮かたない。
 では、そうなると、これまで「意志」だろうと見ていたものは何だったのかということになる。「力」を支えていた意志とは何だったのか。おそらくは、都合のよい解釈をほどこした人々の「欲望」にすぎなかったということになる。いや、本来の意志はもともと「生」の発現としてあるのだが、それはとっくに原初の姿を離れて、さまざまな欲望解釈にまみれたものになっている。しかもその欲望と力とのあいだには、何が原因で何が結果であるというような因果関係はない。「空腹」と「牛肉」は最初から因果関係をもっていたのではなく、しだいに欲望と交換と解釈によってつながっただけなのだ(実際にも日本人に空腹と牛肉が結びついたのは明治になってからのことだった)。
 またまた比喩的な例でいうが、ドルと円にも因果関係はない。アメリカ大陸と日本列島に住む人々が欲望と交換を重ねたうえでドルと円が別々にできあがってきただけで、それが出会ってからかなりの時間をへて、二つの関係に新たな解釈が加わっただけなのだ。それが国際通貨社会になってからは、またまた別途の交換レートによる解釈が加わっただけなのだ。他のもろもろの商品だって同じことである。それらを市場の出来事として見れば、そこにはまさに「見えざる手」だけが動いただけなのである。
 つまりは、これまでの歴史社会で見えている「力」の諸相は、結局は「生」に端緒したさまざまな欲望諸関係を、時代や民族や政府や企業が次々に解釈を加えてかたちにしてきた痕跡の数々なのである。そう言うしか、ない。それゆえ、本来の「力」にめぐりあうには、爆破をつづけたって、ダメなのである。解釈論争に分け入ってもダメなのだ。「生」に戻ってそこを無垢にするしかないのであった。

 こう、考えきったニーチェは、自分の組み立てた推理や論理に満足しただろうか。実はそうではなかったのだ。まだまだ何かがおかしかったのだ。
 何がおかしかったのか。ニーチェはこのように考えること自体の虚構性や仮想性に自分がさしかかっていることに、突如として気がついたのである。道徳の変遷は解釈の変遷でしかないと言いながら、その反面で、歴史や社会や道徳の因果を自分がはからずも記述してしまっていることに気がついたのだ。もっと言うなら、力と欲望とのあいだに因果関係はないと言いながら、その本来の姿を見るには「生の無垢」に戻るしかないというふうに差し戻したにすぎなかったのだ。
 ニーチェは愕然とする。こんなことを自分がしたかったのかと、落胆もした。
 しかしここにおいてまた、ニーチェは自分の思索の全プロセスを問うたのである。ニーチェはいっさいの思考をふりかえる。自分で自分に「この人を見よ」と言って聞かせる。あれこれ考えぬいたあげく、気がついた。
 これはひょっとすると堂々めぐりではないか。ひたすら何かの問答を繰り返し、ある回路を指し示してきただけではなかったのか。ほんとうのところは、自分はつねに太始をめざすための回帰を伝えようとしているだけだったのではないか。そう、思ったのである。
 考えてみると、これはまことに奇怪な自己撞着というものである。ぼくならとっくにあきらめていただろう。しかしニーチェには、この繰り返しとしての堂々めぐりこそ、これまで求めてきた思考が最後に向かうべき様式のように思えたのだった。 こうしてニーチェは、いよいよ第7思想段階の「永遠回帰の思想」というものにすべてを向かわせていくことになる。

 話は最後の頂点にさしかかる。
 この仕上げの段階は、これまでのすべてのニーチェの考え方を、一挙に並べなおして堂々めぐりさせてしまうことをいう。それは、1881年の8月中旬に、スイスの山村シルス・マリアでの滞在中に、ニーチェが散歩の途中に岩のそばで霊感のごとく感得したヴィジョンに始まった。
 それにしても、なぜ堂々めぐりなどがいいのだろうか。なぜそんなことが「永遠回帰」といったような高尚な概念で語られる必要があるのだろうか。この問いは、論理的にはニーチェの最後の問いになる。しかしながら、この問いにはついに答えはなかった。ここにおいてニーチェは、問いを発することにも終止符を打ったからである。そして永遠回帰こそ最後の思考であり、最後の思考回路の様式だとみなしたのだ。『この人を見よ』では、こう書いている、「永遠回帰はおよそ到達しうる最高の肯定の様式である」。
 このことを今夜は『ツァラストラ』の物語から暗示してみたいと思う。ここに、ニーチェのいっさいの意図が隠されているからである。

 さきほど書いておいたように、この物語の冒頭は叡知を身につけたツァラトストラが下山してくるところから始まっていた。「神の死」に気づかない人間に呆れながら、ツァラトストラは最初に着いた町で群衆に説法を始めるのである。まず「超人」について、ついで「おしまいの人間」について語った。
 が、群衆は大笑いするばかりだった。無意味な話に聞こえたのである。
 ツァラトストラは真理を聞きうる群衆に出会うためには、聞き手を成育しなければならないと感じた。教育の必要を感じてしまったのだ。そこで「まだら牛」という名の町では弟子をとって、二十二にのぼる説法を組み立てた。そして「生」や「大地」の意味を教えた。しかし弟子たちはまだ成長していなかった。失望したツァラトストラはいったん山に帰ることにする。ここまでが第1部にあたる。
 第2部では、ツァラトストラは自分が教えた弟子たちがはやくも邪教に犯されていることを知り、ふたたび下山を決意する。そこで「至福の島」に渡って、以前に倍する布教に専念した。とくに「同情」が美徳であるんだとか、「真理」が純粋なんだといった妄想から人々を解放しようと努めた。ところが、それをしているときに、声なき声が聞こえきて、ツァラトストラに「究極の真理を語りなさい」とささやきかけた。ツァラトストラはそれには答えられなかった。
 第3部、ツァラトストラは船の中で船乗りを相手に語り始めた。かれらは総じて「大胆に求める人」や「あえて試みる人」だった。ツァラトストラは繰り返し同じ話をしてみた。なにか静かな納得が広まっていったように見えた。また、船員たちは無気力になっているようにも見えた。ツァラトストラはただ繰り返しただけだったのが、人々を奮いたたせていないことに気づき、自分がしていることがムダのようにも見えた。むしろ語るのではなくて歌うべきだったかと思う。
 最後の第4部では、ツァラトストラが山中に戻っているところへ、噂を聞いた者たちが教えを求めてやってくる。かれらは並外れた者たちで、何かを試しにやってきたのだった。案の定、驢馬を神々に仕立てて遊興したり、祭りをしたりして騒ぐ。ツァラトストラは困りはてるのだが、気をとりなおし、思いをこめて「夜にさすらうものの歌」を唄った。けれども、それはかれらの誘惑だったのである。
 ツァラトストラは三たび、山を降りることにする。没落に向かうことを三たび選ぶのである。今度こそは、自信をもってただ繰り返すことをめざせばいいと確信して――。

 いささか暗示的に縮めすぎたかもしれないが、ニーチェはツァラトストラに半身を託して、永遠回帰の思想を語りの様式そのものとしたわけである。
 ここでは、なんとなく感じてもらえただろうと思うが、「無意味」や「無気力」や「無駄」といった、すれすれの問題が滑空する。たとえば、ツァラトストラが真理を伝えられなかったのは教育の必要からだったのだが、その生徒たちは邪教化してしまったのである。またたとえば、ツァラストラが繰り返しを見せたとき、船員たちが感じた無気力とはニヒリズムのことである。これについてはすでに説明しておいたので省く。一方、ツァラストラの話が無意味に聞こえたというのは、そこに「無垢」があったからである。
 では、無駄とは何か。ニーチェはついに意味や意図の根底にひそむ謎に向っていく。ドイツ人ニーチェとなって考えてみよう。
 「無駄」のドイツ語は"umsonst"である。"um"は「遠回り」とか「回避する」といった意味をもつ。「ここには何かがない」という状態の暗示だ。無意味のことだと思えばいい。"sonst"は「これ以外」とか「ほかの時」といった意味をもつ。ニーチェはハッとした。ここにすべての暗合を感じた。結論をいうのなら、ニーチェはこの"umsonst"という言葉を使って「無」に近づいたのである。
 絶対の無ではない。相対の無でもない。繰り返される無の導入なのだ。もっとわかりやすくいえば、「そこ」に近づくと無が、また別の「そこ」に近づくと無が出てくるような、そういうとびとびの無が繰り返されるということなのだ。これこそまさにニーチェが「究極のニヒリズム」とよんだフォーマットでもあるのだが、ぼくからすると、「べつ」や「ほか」を作用させた思想に見える。たいへんデリケートなところなので、このことをニーチェの言葉で説明する自信がない。そこでここでは禁を破って、ちょっと、ぼくの話をさしはみたい。

 いまは中公文庫に入っている『花鳥風月の科学』は、ぼくが25年前に朝日カルチャーセンターで10回にわたって話したことを録音再生して加筆したものである。
 その最終回近く、ぼくは「べつ」と「ほか」の感覚について語っている。月という得体の知れない存在に寄せた人間の想像力について説明した。月は地球上の人間にとっては繰り返しあらわれる。しかもまったく正体がわからない。そこへ行った者もない。月は、われわれとは「べつのもの」「ほかのもの」なのだ。それでいて地球とつながった運動をしつづけている。
 こういう前段を話したうえで、われわれにはどうしても「べつ」とか「ほか」が必要になるときがあるのではないか、のみならず、「べつ」や「ほか」に出入りしようとする瞬間だけにパッとわかることがあるのではないか。そういうことを話してみた。春秋社の『空海の夢』を書きおろしたときにも、われわれはよく「代わるがわる」と言うけれど、その「代わる」と「がわる」のあいだにすべてが見えるときがあるのではないかと書いた。
 うまくニーチェに戻って説明しがたいのであるが、ニーチェは、ぼくが感覚的に言ったことを、とっくに気がついていたのだ。瞬間的に解釈の転換をおこすことが、解釈でもなく瞬間でもないことを告知するということがありうるということをよくよく悟っていて、その転換がどこでおこるかをツァラストラに託して語ったのだ。
 これはきっと、「意志」や「生成」の消息を暗示する最も重要な語り方だったろう。われわれはいつもは「意志」や「生成」のことなど忘れているものだが、しかし、その忘れているその瞬間に、いいかえれば無意味や無駄がおこっていそうなそのときに、実はいっさいの意志や生成が永遠にるもののふりをして脱兎のごとく駆けぬけたかもしれないし、そこにだけは永遠回帰が巨大な影のように高速に擦過したかもしれないのだとも言えるのである。
 ツァラトストラが繰り返しを終えた瞬間に見たものとは、おそらくはこういう消息だったのである。そして、ニーチェの第7思想段階の最終場面から高速にやってくるのも、この消息なのだ。さらにいえば、われわれがニーチェの全哲学をへて覗き見られるのは、こういう消息の光景なのである。
 そして、この光景を覗き見るためになら、そういう見方でニーチェを読んでもいいのではないかというのが、いやいや回り道をしすぎたかもしれないが、ぼくの今夜のマジメな結論なのである。

 ニーチェには精神に関する有名な比喩がある。「最初は駱駝のごとくあり、次に獅子となり、最後に童子とならん」というものだ。『ツァラストラはかく語りき』にある。「われら汝らに精神の三態を説く。精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、かくて最後に獅子が童子となる」という箇所だ。
 その一節の最後で、ニーチェはさらにこう書いた。これがおそらくニーチェの全貌のなかの最も過不足ない思想を物語っていると思われる一文だ。ぼくが今夜に案内したこともすべて入っている。

 童子は無垢であり、忘却である。新しい発端である、遊びである。みずから回りいずる車輪である。第一の運動である、聖なる肯定である。そうではないか、わが同胞よ。創造の遊びには聖なる肯定を必要とする。かくして精神は、いま、みずからの意志を意志するようになる。世界を喪失していた者よ、いま、みずからの世界を獲得する。

附記¶付け加えたいことは山ほどあるが、やめておく。全集は生田長江の個人全訳という偉業をはじめ、いくつかの刊行がめざされたのだが、全巻刊行をおえたのは理想社と新潮社の『ニーチェ全集』だけである。参考図書も山ほどにある。ニーチェにあまり親しくない読者のために絞っていえば、ハイデガーの『ニーチェ』2巻(平凡社ライブラリー)から読んで、ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』(国文社)に行くのがひとつ、樋口克巳の『図解雑学ニーチェ』(ナツメ社)から永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書)に進むのがひとつだろうか。ニーチェその人を絞って読みたいなら、『この人を見よ』から『権力への意志』に入ってみるのが、全貌がつかみやすいとおもう。傍らに『ニーチェ事典』(弘文堂)などおいて‥‥。

セイゴオの推敲
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