バルーフ・スピノザ
エチカ|上・下
岩波文庫 1951
ISBN:4003361547
Baruch Spinoza
Ethica 1677
[訳]畠中尚志

 おぼえやすいだろうから言うのだが、スピノザと画家のフェルメールは同じ年の1632年にアムステルダムに生まれている。レンブラントもスピノザの近くに住んでいた
 しかし重要なのはスピノザとフェルメールが同い歳だということではなくて、スピノザが生まれたときからユダヤ教徒で、マラーノだったということ、日常会話はポルトガル語あるいはスペイン語が多く、オランダ語は堪能ではなかったらしいこと、そして、ユダヤ人学校(タルムード・トーラー学院)でヘブライ語を学んで旧約聖書の研究に打ちこむが、あとは学校には行かず、独自の思索に耽ったため、ラテン語は独学だったということ、そのスピノザが1656年にアムステルダムのユダヤ共同体から異端として破門されたということである。
 以上のことがスピノザを解く鍵になる。『エチカ』は冒頭に「自己原因」という概念の定義から始まっているのだが、そしてそれが『エチカ』全体の魅力になっているのだが、その魅力は同時にスピノザの思想から生い立ちまでを含む問題の大半を象徴的に解こうとしているかのようなのだ。

 スピノザについて数行以上のことを書くのは、たしか初めてのことだとおもう。『エチカ』の幾何学的な香りと神を操る二重性にながらく惹かれてきたわりに、なぜか感想をまったく書いてこなかった。
 ぼくにとってのスピノザは、かつてはそうとうに近しい哲人だった。かつてというのは、学生時代と20代半ばまでのことをいう。『エチカ』だけを読んでのことではあるが、まことにすらすら読めた。そればかりか、神を考えるのはこういうふうでいいんだという“実感”さえ細かく掴めたような気分になっていた。デカルトを読んでいたせいだろうとおもうが(スピノザはデカルト研究に時間をかけて幾何学的論証性を身につけた)、むしろデカルトより読みやすく、不遜な言い方になるけれど、もし自分が中世の神学やスコラ哲学になじんでいたら、そう、そう、こういうふうに神を論証するんではないかとさえ感じた。
 それがいつしかスピノザが遠のいたのである。以下にその理由を憶測して書くが、その理由の背景には、17世紀のユダヤ人が神を論じることの凄まじさがだんだん見えてきたという光景がかかわっている。

 まず、行きがかり上の理由だが、ひとつには工作舎時代にライプニッツが身近にあった。下村寅太郎さんの影響だが(というよりもぼくが好んで影響下に入ったというほうがあたっているが)、ぼくは工作舎をつくってからはほとんどライプニッツにばかり加担した。とくに『単子論』がおもしろく、これを『モナドロジー・ダイジェスト』というふうに全文を書き変えて、なんとかそこから「思考の方法」のようなものを導き出そうとしていた。
 この試みは半ばで挫折するのだが、それが工作舎では新たな広がりとなって『ライプニッツ著作集』の企画になっていった。これをほとんど単身で十川治江がやりとげたのが大きくて、ぼくはそれに逆刺激され、またまたライプニッツ・ブギウギを続行していたものだった。こうなると、いくら同時代とはいえスピノザとライプニッツではあまりに対照的すぎたのだ(スピノザが14歳年上である)。

 またひとつには、こう言っていいかどうかはわからないけれど、いつしかスピノザに怖れを抱いてしまったということがある。あれほど身近に感じていたにもかかわらず、これはあとで説明するけれど(説明できるかどうか自信がないが)、あることを知ってからというもの、スピノザは光輝に満ちた複雑怪奇な暗黒神のように見えたのだ。そしてスピノザを警戒し、あえて心酔を避けるようになっていたようなのだ。
 ぼくがこうした「惧れ」を抱くのはめずらしく、むろん畏怖する思想家や作家やアーティストはいくらもいるけれど、それを避けるなどということはめったにしてこなかった。それが絞っていえば、そのころから20年間ほどは、スピノザとニーチェに対してはあえて心酔を避けるようになっていた。それゆえついでに言っておくのだが、この両者を徹底して研究していたジル・ドゥルーズのような思想家には、どこか頭が上がらないという気がしていた。いや、おいそれとドゥルーズに従うわけにはいかないものも感じてきたといったほうがいいだろうか。

 スピノザについて書かなかった理由ではなく、なんとなく書きにくかった理由に、もうひとつ、スピノザをめぐる周囲の騒音が多すぎるということがあった。これはドゥルーズのことじゃない(ドゥルーズのスピノザ論はたいへんに静寂に富んだものである)。
 すでにヘーゲルにして、「スピノザは近代哲学の原点である。スピノザ主義か、いかなる哲学でもないか、そのどちらかだ」と言っていたのだし、ベルグソンは「すべての哲学者には二つの哲学がある。自分の哲学とスピノザの哲学である」とまで書いていた。スピノザとほぼ同時代の神学者ピエール・ベールですら、はやくも「宗教心がほとんどなくて、それをあまり隠さないのであれば、誰だってスピノザ主義者なのである」と囃したてていた。
 ようするに、スピノザについて発言することは、たちまち全ヨーロッパの知との関係を問われるか、さもなくば自分の哲学を問われるということなのだ。
 まさに踏絵なのである。それも全ヨーロッパの知を賭けた踏絵として、スピノザは位置づけられてきたわけなのだ。だからこそ、そこがプラトンを批判して全ヨーロッパの知を問題にしたニーチェとつながる畏怖ともなっているのであろう。ともかくも、こういうスピノザでは、ぼくでなくとも引っ込み思案にもなろう。

 こうして、しだいにスピノザが遠のいていったのだが、あるとき次のようなことが見えてきた。それはスピノザのマラーノとしての歴史境遇にまつわることで、これがなかなかわかりにくかったのに、なんだかギクッとしてしまったのである。一言でいえば、スピノザとユダヤ人問題はひとつながりになってしまったのだ。これでスピノザを読むにはユダヤ人問題を見なければならないというふうになり、ぼくは完全に手が出なくなっていた。
 ただしずいぶんのちになって、イルミヤフ・ヨベルの大著『スピノザ・異端の系譜』(人文書院)を読んで、このあたりの事情もようやく概略が見えてきた。こういうことはいくらスピノザを読んでも、ドゥルーズを読んでも見えてこないことなのだ。
 ではちょっとだけ、マラーノとスピノザの関係について、ふれておく。

 最初に書いたように、スピノザはフェルメールと同じ年にアムステルダムで生まれた。生まれただけではなく、マラーノの血と知を継いだ。フェルメールがスピノザの近所に住んでいたレンブラントを継ぐ油彩画家になったように、スピノザはユダヤの血と知を継いだのだ。そこからスピノザの汎神的でありながら、かつ無神的な独創も出た。
 マラーノはその多くがスペインからポルトガルやオランダに“脱出”してきた改宗ユダヤ人ともいうべき一群で、スピノザ一族のばあいはポルトガルからオランダにやってきた。ということは、マラーノはスペインの国土回復運動やイスラムとの対決を経験した歴史の土血をもっているということで、しかもそこを“脱出”することで、表向きはキリスト教社会に入っていながらも、奥ではユダヤ人でありつづけられたという「突出」と「同化」の宿命を背負っていたということである。その発端は14世紀にあった。
 こうしてマラーノはヨーロッパに溶けこみ、アムステルダムにも住みこみ、シナゴーグで祈りを捧げる大きな一群になっていくのだが、このマラーノの背景にはいわゆる「スファラディ」という滔々たるユダヤの血があった

 現在1500万人とも2000万人ともいわれるユダヤ人は大別すると、「アシュケナージ」と「スファラディ」に分けられる。アシュケナージが約90パーセント、スファラディが約10パーセントを占める。 アシュケナージは西アジアや黒海・カスピ海近辺や東欧にいたハザール(カザール)系の民族で、モーセが「約束の地」を求めたときに集まった十二支族とはまったく異なる血の流れにある。モーセの十二支族のほう、すなわちのちにディアスポーラの憂き目にあったユダヤ人はスファラディのほうだった。
 このスファラディはユダヤ純血型で、しだいに追われて中世以降はほとんどスペインに入っていた。それが14世紀から15世紀にかけてスペインをも追われる。決定的なのは1492年にグラナダが陥落し、スペインが国土回復運動をおえてキリスト教社会になっていったことである。ここでスファラディは改宗させられるか、移住するかを迫られる。こうして一部はポルトガルやアフリカへ、そして一部がオランダなどの中部ヨーロッパに流れこんできた(うーん、こんな説明をしていてはスピノザから離れるばかりなので、これらのユダヤ人の問題はあらためて別の本でとりあげようという気になってきた‥‥)。
 ともかくもこのとき、すでに混血も始まっていたスファラディの流れに、表向きはキリスト教に改宗した改宗ユダヤ人、すなわちマラーノが混じったのである。スピノザの一族はここにつながっていた。
 スピノザがポルトガル語あるいはスペイン語を喋っていたというのは、以上のような事情からも重要なのである。いささか複雑な話になりかけてしまったが、ぼくはこうした事情を少しずつ知るようになって、しだいにスピノザを畏怖し、遠くから眺めるようになったのである。

 さて、ここからがもっと複雑というか、難問になるのだが、こうした改宗ユダヤ人としてのスピノザが、ユダヤ共同体から異端として破門されたのである。1656年のことだった。スファラディになろうとしているマラーノの中で、旧約聖書研究(ユダヤの神の研究)に打ちこんでいたスピノザが異端とされたのだ。まるで複雑骨折である。そしてスピノザはこれ以降、生涯をかけて『エチカ』を断続的に書きつづけることになったのである。その出版は死後のものとなる。
 いったい、これはどういうことなのか。実は真相はよくわからないままになっている。スピノザが破門になった理由を示す資料がないままなのだ。おそらくは過激な言動か、表向きの話と裏向きの話が取り違えられたか、あるいは草稿などが見つかってしまったか。
 しかし異端視されても仕方のない潜在条件は揃っていた。そもそもマラーノには、たぶんに二重信仰状態があった。表向きはキリスト教社会で活動しながらも、血の共同体としてはユダヤ人に属するという二重性である。それに加えてスピノザは最初にも紹介したように二重言語状態ないしは三重言語状態にあった。
 これらの認識と表現にまたがる多重性は、生活者としてながらえるだけならそんなに問題はおこらない。プロテンタントや隠れキリシタンアーミッシュの例もある。しかし、いざ神の名前を証明しようとしたり、その本性を語ろうとしたとたん、たいへんに矛盾に満ちてくる。スピノザが思索し、表現しようとした神の弁証というものは、こうした交錯した二重信仰・多重言語の渦中で開花していったのである。そこは、『エチカ』を読んでいても感じることであるけれど、平気で概念の意味を変えて使うようなところもあったのだ。

 それにしても、スピノザはキリスト教社会からでなく、ユダヤ共同体から追放されてしまったのである。スピノザの内心とはまったく違った現実が強要されたのだ。
 きっとスピノザの神があまりにも抽象性をもちすぎ、あまりにも自己の本性との関係を追いすぎ、語りえないものを語りすぎたのである。しかし、この複雑骨折ともいうべき状況が、かえってスピノザを奮い立たせ、その堪能な多重弁明力を神の証明と認識の解明にあてさせたともいえたのである。それこそは、『エチカ』が冒頭に「自己原因」という概念の定義をおいた理由ともなってくる。
 遠まわりばかりしてしまったが、ぼくにとっての『エチカ』を語ろうとすると、こういう迂回路をいくつも辿ることになってしまうのだ――。

 『エチカ』とは神のための幾何学である。その論証そのものの意匠が「神」と「神ならざるもの」をめぐっての自己原因の発露なのである。その全貌は「概念の構成のための手順の提示」であって、また「知性によっていかに神に酔えるのか」という「方法の提示」になっている
 しかし、そこにはスピノザ独特の概念の意味の読み替えがあり、スピノザが得意の多重言語の中に神を引きずりこんだという印象もある。ぼく自身はそれをかつては編集的技能として読んだために、きっとわかりやすかったのであろうけれど、あらためて考えてみると、その読み替えを含めて異端者を越える論証性を一貫させようとするスピノザの概念操作には、やはり鬼気迫るものがあったといわなければならないようである。
 ところで、そういうことを棚に上げていうのなら、ぼくがかつて読んだ『エチカ』のなかで最も影響をうけたのは、第2部「精神の本性および起源について」の「延長」をめぐる議論のところであった。ぼくは30代に入ってアルフレッド・ホワイトヘッドを知ることになるのだが、それはほとんどこのスピノザの「延長」概念から手を伸ばしてホワイトヘッドの果実を食べさせてもらったようなものだった。いつの日か、今度はホワイトヘッドからスピノザへという回路をめぐりたい。

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