アルトゥール・ショーペンハウアー
意志と表象としての世界|I・II・III
中央公論新社 2004
ISBN:412160069X
Arthur Schopenhauer
Die Welt als Wille und Vorstellung 1819
[訳]西尾幹二
ヘーゲルと闘った。
共感と共苦を哲学した。
ゲーテとワーグナーとニーチェを
揺さぶった。
このミットライトの意志哲学を、
いま、仏教徒はどう読むか。

 二つのハヤリ唄が高校時代に出入りしていた。懐かしい。ひとつは与謝野鉄幹の『人を恋ふる歌』で、こういうものだ。

嗚呼 我 ダンテの奇才なく 
バイロン ハイネの熱なくも
意志を抱きて 野にうたう
芭蕉のサビをよろこばず

 高校新聞部の1年上の山田勝利が、これを新入生歓迎コンパで渋い声で歌ったのだ。このほか「見よ西北にバルカンの それにも似たる国のさま 危うからずや 雲裂けて 天火いちどき降らんとき」、あるいは「妻子を忘れ家を捨て 義のため恥を忍ぶとや 遠くのがれて 腕を摩す ガリバルディやいま如何に」といった歌詞もあった。
 おそらく一番の歌詞は多くの者が知っているだろう。「妻を娶(めと)らば才長けて、見目(みめ)麗しく 情(なさけ)ある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気 四分の熱」というものだ。メロディも浮かぶだろう。
 が、当時のぼくには「芭蕉のサビをよろこばず」と「ガリバルディやいま如何に」がやたらに響いた。なんと高校というものは、こんなにも血潮の意志が滾(たぎ)っているところなのかと思った。
 ダンテ、バイロン、ハイネを出て、さらに芭蕉にも尻尾を振りたくないというのだから、これはどうみても与謝野鉄幹の益荒男(ますらお)ぶりだ。バンカラだ。のちに森繁久弥が好んでモリシゲ節で唄っていることも知った。ところが夏に入って、もっとバンカラな歌があったことをOBたち5人から聞かされたのだ。

 ぼくの高校(都立九段高校)では、夏休み劈頭に房総半島勝浦近くの海辺の寮「至大荘」に1年生全員が放りこまれ、連日連夜の遠泳・飛込み・キャンプファイヤー・放歌放吟・掃除洗濯・議論をすることになっていた。男はみんな褌(ふんどし)である。泳げる者は白帽に白褌(泳力によってさらに黒線が1本、2本、3本というふうにふえる)、泳げない者は赤帽に“赤ふん”だった。そこには水泳部のOBたちも来ていて、何かにつけ指導する。
 2日目の夜、なかで5人ばかりの先輩がずらりと横に並び、腕で拍子をとりながら次の歌を豪快に唄って聞かせた。これが二つ目のハヤリ唄だった。

 デカンショ デカンショで半年暮らす よいよい
  あとの半年ゃ 寝て暮らす 
 よーい よーい デッカンショ! 

 野蛮な調子というのか、おどけた調子というのか、ともかく張り切っている。「よーい・よーい・デッカンショ」が四股を踏んでもいるようだった。が、何のことやらさっぱりわからない。それを3回も続ける。「デカンショ節、始めぃ!」という号令があったけれども、それほどの号令に堪えられる歌とも思えない。
 先輩の大声の説明によると、デカンショというのは「デカルト、カント、ショーペンハウアー」のことだという。その「デ・カン・ショ」なのだそうだ。ふーん。
 旧制高校時代にハヤった唄で、寮生活している猛者たちがデカルト・カント・ショーペンハウアーを読み暮らして、あとはままよと学生生活を謳歌していたということらしい。ふーん。
 そんなことだけで、どうして張り切れるのかわからないが、一番わからないのは、哲学なんぞぶっ飛ばすと言っているのか、哲学以外はぶっ飛ばすと言っているのか、そこである。ぼくたちは神妙に聞いているしかなかった。ただのバンカラなのか。
 それにしても、デカルト・カントはともかく、ショーペンハウアーという哲人の名前は初めてだった(そのころはショーペンハウエルというふうに言っていた)。いったいショーペンハウアーとは何者か。

 ところが、ところが、だ。
 それから1年後、ぼくは安田毅彦が「あれはおもしろいぞ」というので、ショーペンハウアーの大著『意志と表象としての世界』を齧ることになったのだ。原因はただひとつ、親友の安田が水泳部のキャプテンになったからだった。九段高校では水泳部はもっぱらデカンショなのだ。
 ちなみに本来のデカンショ節は、丹波篠山(ささやま)地方の杜氏歌あるいは盆踊り歌で、そこにデカルト・カント・ショーペンハウアーをこじつけたのは大正の旧制高校の連中だったのだと、のちのち聞いた。もとは「出稼ぎしょ」がデカンショになったらしい。

 さて、その半年を寝て暮らすために読むべきショーペンハウアーを、ふたたび読む日がずいぶんたってやってきた。
 安田とともに高校時代に齧ってみてから、どのくらいたったころだったか。たしかMACを辞めて、そろそろ雑誌づくりに取り組もうか、その前に何をしておこうかと思っていた矢先だったろう(まだ『遊』というタイトルに決めていなかった)。
 世田谷三宿の「三徳荘」というちっぽけなアパートで、夏は素麺(そうめん)、冬は稲荷ずしを、春はゴマ油と醤油をかけた水さらしのモヤシ、秋は魚フライを食べながら、白水社の全集の1、2冊ずつを図書館で借りてきて、一気呵成に読んだのだと憶う(6冊あった)。
 やっと父親の借金を返しおわったばかりで、懐中はすかんぴん、家財道具もまったく手持ちがなく、それこそテレビも冷蔵庫も、Zライトさえ、友人たちが不憫に思って中古を持ってきてくれていた時期だ(テレビを持ってきてくれたのはフォークシンガーの小室等だった)。
 しかし、そんな時期だからショーペンハウアーを読む気になったというのでは、なかった。赤貧だからといって、ぼく自身はまったくペシミスティックにはなってはいなかったし、かえって雑誌創刊に向けておおいに蛮勇が沸いていた。それにショーペンハウアーだけではなく、その時期は折口信夫・南方熊楠・岡倉天心の全集と、量子力学分子生物学のテキストにも熱中していた。

 では、どうしてこの時期に哲人ショーペンハウアーを読んだのかというと、ペシミズムという未知の哲学が積極的な意味でおもしろく思えたのである。高校時代に齧った香りを、あらためてちゃんと胸に吸いこんでみたかったのだ。
 これはいまふりかえっても、けっこう真っ当で立派な動機だったのではないかと思う。というのも、読み出してたちまちわかったのは、「厭世」とは「活世」と紙一重であるということだったのだ。なんだ、ショーペンハウアーは実に生き生きしているじゃないか。堂々としているじゃないか。そう感じたのだ。
 以下に、そのショーペンハウアーは堂々としているじゃないかというところを、懐かしく摘まみたい。
 ただし、ショーペンハウアーの哲学にはかなり意外な紆余曲折があるので、注意深く読まれたい。その「ミットライトのペシミズム」は、すこぶる変化球に富んでいる。

 ざっとした話を、まずしておこう。
 ショーペンハウアーの哲学を一言でいうなら、「世界は意志の発現である」というものだ。世界そのものが意志をもっているということを言う。
 これが何を意味するかはあとで説明するが、意志は世界でありうるというメッセージになっているのは、わかると思う。意志によって世界を語ろうというのだから、たいそう強い哲学だ。もっとも、ここで意志といっているのは、ラテン語でいえば「リベルム・アルビトリウム」のことで、「自由意志」のことをさす。リベルム・アルビトリウムは古代ギリシアから問題にされてきたもので、必ずしも人間の意志をさすとはかぎらない。むしろ自然や世界や宇宙にひそむ力の発動を「自由意志」とみなした。
 ところが、これをカントが「物自体」のリベルム・アルビトリウムまでもちこんだのである。話はここから展開していく。

 周知のことだろうけれど、プラトンは感覚にあらわれる世界は真の実在ではないと考えた。「洞窟の比喩」はそのことを説明するための巧みな方便で、洞窟の中で火の前に映し出されて壁に映る影像(エイドーラ)は、ずっと洞窟にいて洞窟の全貌を知らない人間にとっては世界であるが、真の世界ではないとした。
 真の世界は、その洞窟を出て洞窟全体を眺める者にしか見えてはこない。プラトンはだから、人間は目に見えていない「イデアという世界」に包まれているはずだとした。
 これに対してデカルトは、物と心はひとつではなく、物質界と精神界はおのずから分断されていると見た。有名な二分論(ダイコトミー)の出現である。「我思う、ゆえに我あり」の、「我思う」の精神と、「我あり」の物質性は、ただちに合流できないと見たわけだ。いや、デカルトはこれを截然と分離してしまったのだ。デカルトの哲学的犯罪とさえ言われている。
 カントも大筋では二分論を踏襲した。ただし精神と物質を分けるのではなくて、感性界と悟性界とを分けた。感知できる現象が所属するのが感性界で、物自体が属するのは悟性界だとした。
 カントのいう「物自体」は現象の背後にひそむもので、認識の限界をこえている。知ることができないもの、それが物自体である。そう、カントは見た。その知りえないものは「ヌーメノン」(可想体)ともよばれた。しかし人間は、おそらくこの両方を感知していく必要がある。それなら真の認識は、感性と悟性の総合のうえに成り立つはずだとカントは考えた。
 ここまでが「デカンショ」の、デとカンのところだ。

 で、やっとここからがショーペンハウアーになるのだが、ところがショーペンハウアーは、デカルトやカントが「物質界」とか「物自体」とみなしたところのものを、大胆にも「意志」とみなしたのである。
 いったいそんなことがありうるのかというほどの、見方の転換だった。しかもこの「意志」は、世界にあまねく広がっているリベルム・アルビトリウムではなかった。もっと妙なものだった。
 いや、早とちりしてはまずい。これは物活論なのではない。アニミズムを持ち出したのではない。ユングエリアーデのように、意志にアニマやアニムスを想定したのではないのだ。見えている世界をふくむ感知できない世界そのものに意志があって、その一部を、人間は適当に切り取っているとみなしたのである。
 このことがどういう意味をもつかは、にわかには理解しにくいかもしれない。物自体が意志だと言っておきながら、その物自体の意志が何かにあらわれるのではなくて、そこから人間が勝手な意志を切り取っているというのだから、いったい世界の意志は人間の意志にろくなものしか提供していないように思えるからだ。
 しかしもし、ショーペンハウアーが言うように、そのような物自体が意志ならば、世界そのものはもともと「見えない意志」だということになる。それを人間は一知半解に反映して、自分の意志と思いこんでいるということになる。ショーペンハウアーの哲学が「意志の形而上学」といわれるのは、ここだった。

 が、ここからがなかなかややこしい。紆余曲折がある。
 ふつう、意志といえば何事かを意識的に追求したり、意欲していることをいう。けれどもショーペンハウアーがいう意志は、きわめて反理性的な意志なのだ。
 誤解をおそれずわかりやすくいうのなら、意志には大別して二種類のものがあって、一般的な意味で「何かをしようとしている意志」と、他方で「無目的に人間をかりたてる意志」とがあって、ショーペンハウアーにおいてはこの後者のほうの意志が主題となったのだった。
 のちのことになるけれど先に言っておくと、このようなショーペンハウアーの意志は「意志は盲目である」というフレーズとともにかなり拡大解釈されて、フロイトに深い影響をもたらした。フロイトの「リビドー」「エス」「トリープ」などは、ほぼショーペンハウアーの意志をつきつめたものだった(第895夜第582夜第951夜参照)。
 しかし、このように見るだけではショーペンハウアーの意志の哲学はまだ、ほとんどわからない。むしろ、ショーペンハウアーが「盲目の意志」に注目したのだとしたら、問題は「盲目の意志」の否定によってしか何かが始まらないと見ただろうと予想する必要がある。
 そうなのだ、ショーペンハウアーはここからしか「生の哲学」が切り開けないと見たはずなのである。
 これまたのちのことになるが、このようにショーペンハウアーを読むべきだということに気がついたのが、ニーチェだった。詳しいことは第1023夜(第4巻所収)に書いておいたので、ここではいたずらな説明を重ねないが、今日のショーペンハウアー解釈ではニーチェ以降の解釈がたいていは前提になっている。

 これで少しはショーペンハウアーの意志が見えてきたかもしれない。この意志は、つまりは「原因をもたない意志」だったのだ。いわば「原意志」とでもいうものだった。
 因果性をもたない意志、それが「意志としての世界」なのである。いや、そう言ったのではなおまだ正確ではない。第2巻でのべているように、ショーペンハウアーは、世界はそのような世界意志のなかの個別化の意志を取り出しあう抗争の場だとみなしたのだ。
 さあ、こうなるとどうなるか。
 われわれが見聞している世界は本来の意志とは結びつかない意志だらけ、それゆえそういう曲解された意志にまみれたまちがった世界だということになる。もっと端的にいえば、世界は最悪なものだ(!)ということになる。なんら本来の意志とは出会えないままになっている。
 まさにそうなのだ、ショーペンハウアーはここで「世界は最悪にあらわれている」と告げたのだ。そう、言い放つことにしたのだ。ということは、ショーペンハウアーの哲学は、世界は苦悩と矛盾にまみれているということを思索することだったというふうになる。
 すぐさま連想できるように、このような見方は仏教が確立したものと似ている。ブッダが最初に思想したことは「一切皆苦」ということだった(1021夜『インド古代史』)。しかし、ショーペンハウアーは、この時点では仏教のことをほとんど知ってはいなかった。
 では、どうしてこんな苦悩観が生まれたのか。実はこの苦悩観はたんなる苦悩観ではなく、それがぼくを震わせた「ミットライト・ペシミズム」というものだったのだが、ここから先は、少々、時代背景を知る必要があるだろう。
 そのことを挟まないと、これ以上のショーペンハウアーのディープ・サーカスを眺めようがない。

 アルトゥール・ショーペンハウアーが生まれたのは1788年、ダンツィヒである。いまはポーランドのグダニスクにあたる。そのころはダンツィヒはプロイセンの支配下の自由都市だった。
 1788年というのは、ヨーロッパではフランス革命がおこる1年前で、アメリカ新大陸で憲法が制定された年、日本では天明の大飢饉の最後にあたる。
 父は富裕な商人だったが、プロイセンの支配を嫌って相当な財産没収をうけたにもかかわらず、ハンザ自由都市のハンブルクに移住した。けっこうな自由派だったのだろう。母も早々にゲーテと交流し、ワイマールで文芸に熱中するような作家気質の女性だった。
 こういう父母のもと、ショーペンハウアーは居間に掲げられた「自由のないところ幸福はない」という額を見て、育った。まずはこんな出発点だ。

現在のグダニスクの風景

 ハンブルクで少年期を10年ほどすごしたのち、少年ショーペンハウアーは父の勧めでフランス語を学ぶために、パリ旅行のあと、ルアーブルの商人の家に預けられ、その後にハンブルクに戻って哲学者のルンゲのところに通うようになった。
 父はあくまでショーペンハウアーを商人に育てたくて、こうした教養を身につけさせたかったようだ。このあたりが、江戸の町人哲学を思わせて興味深いのだが、父の狙いは息子を高邁に向かわせるのではなく、商人になるために深みを湛えさせたいというものだった。このへんが今日の商人教育とは異なっている。
 こういう教育方針のせいで、ショーペンハウアーはさらに両親ともども1803年から2年にもわたってヨーロッパを滞在旅行した。オランダ、イギリスのウィンブルドン(ここで6カ月を過ごして英語をマスターする)、ベルギー、フランスのオルレアン、ボルドー、マルセイユ、スイス、ウィーンなどだ。200年前にしては、驚くほど贅沢で適確なヨーロッパ旅行だった。
 この時期のショーペンハウアーの旅行日記が残っている。それを読むと、ペシミズムの萌芽とは言わないまでも、すでに冷静沈着に世の中を観察していたことが伝わってくる。感情の過剰な反応がない。だいたいにおいて異国の都市や文化や人間や風習を、相対的に見ている。しっかりとした観察者なのである。
 しかし、ショーペンハウアーはまだ商人をめざしていた。が、ここで思いがけないことがおこった。
 父が倉庫から河の中に墜落死してしまったのだ。研究者たちの調査によってもいまなお原因不明らしいけれど、おそらくは自殺だったにちがいない。さらにこのあと、母が妹を連れてワイマールにさっさと引っ越してしまった。
 18歳になっていたショーペンハウアーは、ハンブルクのイエニッシュ商会に置き去りになり、おおいに悩む。最初にして最大の苦悩であった。とくに父の自殺が大きかった。あれほど自分を駆り立てた偉大な父親の突然死なのだ。いったい、生きつづけるとか、死んでしまうとは何のことかと深慮した。

 時代は、ナポレオンがヨーロッパ各地で会戦をおこす時期に入っている。ヘーゲルはイエナ会戦のナポレオンの行進を見ながら、『精神現象学』を脱稿しようとしていた。
 ショーペンハウアーは商人を諦め、ハンブルクを去った。それでもハンブルクの十数年は、ショーペンハウアーの世界観にひとつの思考の母型を与えていた。この母型はハンブルクに言い伝えられてきた言い伝えにあるもので、「地上の棲みかである大地は苦しみの谷であり、この世は害悪に満ちた町である」というものだ。
 この「苦しみの谷・害悪の町」が、父の死とともに、のちのちまでショーペンハウアーの心に鳴り響く。

 1809年秋、ショーペンハウアーはゲッティゲン大学の医学部(のちに哲学部)に入った。その準備が凄かった。ゴータやワイマールに移ってギリシア語・ラテン語・数学・歴史学にとりくんでいる。
 加えて大きな影響を与えたのは、ヴィルヘルム・ヴァッケンローダーの往時のドイツを追慕したロマン主義的魂と、ツァハリス・ヴェルナーの運命悲劇に溢れる霊感哲学だった。
 これは、よくわかる。ヴァッケンローダーもヴェルナーもぼくが好きな作家なので、いつかあらためて別の感想をものしたいと思うのだが、一言でいえば、ヴァッケンローダーは「魂は啓蒙や装飾と亜流を殺ぐべきだ」とみなし、司祭ともなったヴェルナーは「運命は受容されるべきだ」とみなしたと見ればいいだろう。
 ヴァッケンローダーらについてのそれ以上の感想はいまは控えて先にすすむと、このあと21歳になったショーペンハウアーは、そうしたロマン主義と霊感を頭部のどこかにビリビリ感じつつ、ゲッティゲン大学に入り、さらに創設されたばかりのベルリン大学に行くことになっていく。

 ベルリン大学の初代総長は、かの愛国的な『ドイツ国民に告ぐ』を語りおえたフィヒテである(390夜・第4巻所収)
 フィヒテは「学校こそが経済国家のモデルだろう」「宗教そのものが感性界の教育でなければならない」と考えていた。ショーペンハウアーはそのフィヒテ自身の講義と、これまた当時のドイツ哲学を代表していたシュライエルマッハーの講義、およびヴォルフの古典語学の講義を傾聴する一方、生物学や天文学などの自然科学に没頭した。
 この異様な学術の広がりこそ、ショーペンハウアーにのちのちまで続く思索力の底辺になる。どんな知識の淵源も、ショーペンハウアーは見過ごしたくなかったのだ。しかし、本人の表現方法は何にするかといえば、すでに哲学をこそ専門にしたかった。

 25歳になった哲学学徒ショーペンハウアーは、二人の加護によってさらに深まっていく。加護者の一人はゲーテ、一人はフリードリッヒ・マイヤーだ。
 ゲーテは以前からの母との交流もあって、哲学談義から色彩論談義の若きお相手として、この哲学学徒を認めた。ショーペンハウアーは大ゲーテに認められて天にものぼる気分になっている。マイヤーはヘルダーの弟子の東洋学者で、若き哲学学徒を一挙にインド哲学に導いた。これはゲーテとの出会い以上に決定的だった。のちに仏教をふくむ東洋哲学の精髄に気がつくショーペンハウアーであるが、このときすでに『ヴェーダ』とブッダの「一切皆苦」の一歩手前の納得にまで、近づいていたわけである。 
 哲学学徒は自分に何がおこりつつあったのかを突き止めたい。その正体は、まだ見えない。けれども、倫理学と形而上学はひとつのものでなければならないのではないかという予感が、ショーペンハウアーの脳髄を埋めはじめていた。
 このあと青年はベルリンからワイマールへ、さらにドレンスデンに移る。ともかく、ここまではよく動いている。ヨーロッパ中を感じ、祖国ドイツを実感している。また、そのたびにそれなりの成果を収穫した。ようするに早熟だった。
 たとえば27歳のときはゲーテとの共同研究『視覚と色彩について』をまとめているし、28歳のときにはいよいよ「意志」についての自分なりの世界観が、あたかも濃厚な空気のように膨らんでいくのを興奮して感じている。このあたり、しだいに思索速度が加速していったのであろう。この時期の思索がショーペンハウアーののちのちまでの原型をつくったのである。
 かくて1818年、30歳のとき、一気に執筆された『意志と表象としての世界』が発表されるのだ。

「旅をする」という概念が別の概念の範囲に多種多様に食い込んでいく様子
(『意志と表象としての世界 I』のなかの図)

 だいたい、このくらいでいいだろう。
 実際には、このあとベルリン大学の講師の地位を得たり、教授資格をとったりするけれど、ショーペンハウアーにとっては『意志と表象としての世界』という著作こそがすべてだった。
 ベルリン大学ではヘーゲルと同時間帯の講義担当となって、大半の学生をヘーゲルの教室にもっていかれ、ひどい失意に陥ったり、逆にヘーゲルとの徹底闘争を展開する決意をしたりするのだが、また、大学在籍中もイタリアに長期旅行をしたり、スペイン語をマスターしてスペインの道徳哲学バルタサール・グシアンを研究したり、さらにはアレクサンダー・フォン・フンボルトとの強烈な出会いを体験したり、あまりの集中のために右の耳が聴こえなくなったりしているのだが、そういうこともすべて、そういうことではないこともすべて、このあとは『意志と表象としての世界』の改稿や続編や続々編の思索として投入されるのだ。
 というわけで、ここからがやっと『意志と表象としての世界』という大著に何が書かれているかという案内になる。ふーっ。
 ちなみにショーペンハウアーは1860年の72歳まで生きた。何人かの女性と短く暮らしたが、生涯を通して独身だった(そのため女性嫌いだとも喧伝された)。死ぬ前年まで『意志と表象としての世界』の第3版の校正をしつづけていた。
 ついでながら日本では、明治末年に、姉崎正治が『意志と表象としての世界』を、『意志と現識としての世界』として翻訳している。のちに日本主義に回帰した姉崎は、「ショーペンハウアー協会」を設立した哲人パウル・ドイセンの弟子だった。

 では、集約しておきたい。
 ショーペンハウアーの哲学は「意志の哲学」であって、「存在の倫理学」である。
 その意志と存在は、第1には「共感」によって支えられている。第2に、この共感を動かす動機は「同情」(シンパシー)にある。まずはこの共感と同情によって世界があらわれてくると、みなされた。
 このうち、「このように世界があらわれている」ということを、「表象」(フォアシュテルング)という。人間の知覚にもとづいて意識にあらわれる外界のイメージのすべてが、表象だ。ドイツ語では、語源的には「私の前におかれるもの」とか「私が前におくもの」といった意味をもつ。ここからショーペンハウアーの有名な「世界は私の表象である」という言明が生まれた。
 しかしこれだけでは、多くの哲学の基底とそれほどちがわない。ヒュームやアダム・スミスも、共感や同情を社会を起動させる最も重要な要因と考えたし、ショーペンハウアーの出発点であり、また批判の原点ともなったカントも、共感は人間の悟性に基本的に埋め込まれているとみなした(カントはそれを「感受性」とよんだ)。
 そこでショーペンハウアーは、第3に、共感や同情が実は「共苦」に裏打ちされていると見た。この「共苦」という見方を持ち出したところに、独特のものがある。おそらく「いじめ」や「自殺」の絶えない今日の日本人にとっても、意外なヒントをもたらすだろう。
 ただし、ここからは強靭な推理力が必要になってくる。なぜなら、これまでショーペンハウアーはしばしば誤解されて「自殺の擁護者」などと揶揄されるのだが、どっこい、ショーペンハウアーはまったくその逆の哲学を打ち出し得た最初の哲人であったからで、そのような、一見、逆説的な印象のなかでショーペンハウアーの「共苦の哲学」を語ることが、一般にはかなり難解だとみられているからだ。

 「共苦」(Mitleid=ミットライト)とは、やや聞きなれない概念であろう。
 しかしながら、よくよく考えてみると、この言葉をつかうことがそうとうに深い意味をあらわすのかもしれないことが見えてくる。
 われわれは自分の苦しみというものを、自分だけの苦しみだと感じていることが多い。けれども、多くの苦しみ、たとえば失意・病気・貧困・過小評価・失敗・混迷・災害などは、その体験の相対的な差異こそあれ、結局は自分以外の誰にとっても苦しみなのである。まして、自分の苦しみが相手の苦しみよりも強いとか深いということを、相手に押し付けることはできない。相手も同じことを言うに決まっている。
 このとき、われわれは「共苦」の中にいることになる。誰だって「苦しみがない」などとは言えないはずなのだ。

 そこで、ショーペンハウアーが考える。
 共感や同情も、その深部においては「共に苦しんでいる」ということが発動しているのではないか。われわれは自分よりも相手が優秀であったり成功していることを共感するよりも、共に似たように苦悩をもっているということに共感を示すのではないか。
 さらに、こう考えた。世界は「共苦」を前提にできていて、そこから意志があらわれてくるのではないか。その意志の行方には放っておけば必ず欲望が待っていて、富裕や長寿や支配に向かおうとする。幼児だって、そうである。幼児が泣くのは自分が苦痛にあることを告げている。やがて幼児が子供となり、子供が少年や少女になるにしたがって、苦痛や苦悩から解放されることが社会の通念だということが教えられ、そのうち欲望や支配が意志の行方になっていく。
 そうだとすれば、世界は当初においてその意志を、原初の苦しみは何かということを表象しているのではないか。そうだとすれば、世界は当初において「共苦」なのではなかったか。

 この考え方は、何かに似ている。そうなのだ、すでに書いておいたことだが、ブッダが「一切皆苦」を出発点にしたことと、とてもよく似ている。
 ショーペンハウアーは、ここにおいてウパニシャッド哲学や仏教に急速に近づいていったのである。ヨーロッパの哲人として初めて東洋哲学の起源を観照したのだ。そして「皆苦」や「共苦」が前提であるなら、そこを端緒とする哲学がドイツにも、ヨーロッパにも、そして全世界において樹立されなければならないと考えた。
 これこそ、ショーペンハウアーの「ミットライト・ペシミズム」の誕生である。共通の苦悩から共通の世界意志を見いだし、そこに新たな哲学を萌芽させること、そこに『意志と表象としての世界』の意図があった。
 これを、一面でいうならドイツにおける「解脱の思想」の誕生といっていいだろう。実際にもショーペンハウアーは、しばしば「解脱」(ニルヴァーナ)にも言及した。

 ペシミズムという考え方は、かなり古くからあった。
 その世界史上での圧倒的代表はゴータマ・ブッダその人だろうが、それ以外にも、ペシミズムはのべつ表明されてきた。ギリシア神話でディオニュソスの師になっているシレノスは、「最善のことは生まれてこないこと、次善のことはまもなく死ぬことだ」と述べていたし、聖徳太子も「世間虚仮・唯仏是真」と言ってのけていた。11世紀末のペルシアの大詩人ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』は、全編がすべからくデカダンスともペシミズムともいえる。
 日本文化の担い手の多くもペシミストだった。長明兼好、心敬、近松秋成たちが、ペシミストでないわけがない。
 いや、ドストエフスキーだってモーパッサンだって、ランボーだってボードレールだって、漱石だって芥川だって、川端だって中上健次だって、マーラーだってシェーンベルクだって、黒澤明だってタルコフスキーだって、そうとうのペシミストだった。本物のアーティストの大半はどこかに強靭なペシミズムをもっている。とくにぼくが好きなペシミストは、エミール・シオラン(23夜・第4巻所収)だ。シオランは「涙ぐむことだけが福音である」とした。
 そのペシミズムは、しばしば「厭世主義」とか「悲観主義」と訳されてきた。が、この訳語はあやしいと見たほうがいい。何かというとオプティミズム(楽観主義)と比較されすぎた。
 ペシミズムは厭世主義なのではない。むしろ「最悪主義」なのであって、ペシミストは世間を厭っているのではなく、こんなものは最悪だと突き離せているだけなのだ。いや、世間がくだらないというのではない。世界はそういうくだらない世間しかつくれないと見切ったのだ。
 ブッダの「一切皆苦主義」とは、このことだ。それゆえペシミストはブッダがまさにそうであるけれど、世界の再生や心の安寧は「苦しみ」を直視できないところからはおこらないと洞察したわけだった。
 ショーペンハウアーも、そうだった。しだいに本来のペシミズムの只中において世界を認識し、そこにありうるのは「解脱」の可能性でしかないだろうと見たのであった。それは意外にも、ヨーロッパ哲学史上最初の「生の哲学」の開闢というものになる。

 われわれにとって最も悲しいことは、死ではない。死は存在が立ち向かう歩みにおいて、不断に延期された一線にすぎない。だいいち、死は少なくとも退屈ではない。
 ぼくが大嫌いな言葉に「幸福」とか「ハッピー」がある。ショーペンハウアーもそういう感覚をもっていたらしく、もしも幸福というものを定義するなら、何かが欠けている状態のこと、すなわち「欠乏こそが幸福なのだ」と書いた。逆に、何かが容易に手に入った状態が持続すると、かえって恐ろしい空虚と退屈がやってくる。そして新たな欠乏を探索しないかぎりは、この空虚と退屈は覆(くつがえ)らない。
 そう見ればわかるように、幸福的なるものは、実のところは「苦の慰謝料」なのである。だから幸福は高くつく(笑)。これに対して、苦しみは世界の意志のそもそもの発露であって、そのことを理解できるなら、そこからこそ救済も安寧もおこりうる。
 ショーペンハウアーが父の死をはじめ観察した世界とは、決してちっぽけなものではなかった。ヨーロッパの全貌ではないにしても、ナポレオンの支配から凋落まで、ロンドンからウィーンまで、それなりのスケールと劇的性をもっていた。
 しかし、しょせんは五十歩百歩なのだ。いくらそれぞれの因果に理由を与えても、世界がリアルであると見るかぎりは、苦悩が去ることはない。幸福がいつまでも続くとはかぎらない。

 かくてショーペンハウアーは「解脱」による意志の哲学の確立に向かうことを決意する。そして、「生の意志」があるとするのなら、おそらくは倫理的な解脱感か、もしくは芸術的な解脱感をもつしかないのではないかと、まさにペシミスティックに断じたのである。
 これはのちにニーチェを狂喜させた断定だった。ニーチェはただちにソクラテスやプラトンを理論的オプティミズムと批判した。それよりも実践的ペシミズムのほうがよっぽど合理的であり、実践的であると確信するようになった。
 『意志と表象としての世界』では、第3巻が芸術的解脱の可能性に割り当てられている。そこでは、イデア、美、崇高、自然、天才、かわいいもの、建築、音楽、性格、模倣などが議論され、おそらくは真の芸術行為が「共苦」を媒介にした世界意志の発現として、最も可能性に満ちたものだろうと結論づけるのだ。
 このショーペンハウアーの結論に狂喜したのは、ニーチェだけではなかった。ワーグナーこそ心酔した。ワーグナーは詩人のゲオルグ・ヘルヴェークから『意志と表象としての世界』を見せられて強烈な感銘をうけ、その後、4回にわたって読み耽った。のみならずショーペンハウアーその人を『さまよえるオランダ人』に招待し、批評家が『ニーベルンゲンの指輪』はショーペンハウアーの真似事ではないかと皮肉ったときも、むしろそれをこそ自分は実現したかったのだと言ってのけた。
 たしかに『ニーベルンゲンの指輪』の最高神ヴォータンの諦念と、その後の「世界の没落」というテーマの進行は、ショーペンハウアーそのものである。それが『さまよえるオランダ人』から『ローエングリーン』に及んで救済をテーマにしていくあたりも、かなり酷似する。
 ワーグナーとショーペンハウアーの関係がどれほど濃いものであったかということは、まだ十分な研究がない。しかしどうみても、ワーグナーこそはニーチェに先行する最初のショーペンハウアーの継承者だったのである。

 ところで、ショーペンハウアーのペシミズムは、「世界は私の表象である」という言明にも示されているように、あくまで「私」を残響させた解脱の展望である。「滅私」や「無我」までは持ち出さない。
 ここに、ショーペンハウアー哲学の限界もある。そこは仏教哲学の核心そのものとは異なっている。
 それでもショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』第4巻の最後の最後のところで、ついに「無」(Nichts)を持ち出した。そして、こう書いた。
 「意志を完全になくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆にまして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとっては、これほどにも現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである」。
 ショーペンハウアーは、この最後の一文に次のような脚注をつけた。「これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか。認識の彼岸に到達した世界意志なのではないか」。

 だいぶん長くなってしまった。こんなところで店仕舞にしよう。
 いま、ショーペンハウアーを読む者はほとんどいないと言っていいだろう。それはいま、大乗仏教にとりくむ者がきわめて少ないということにつながっている。しかし、姉崎正治が『意志と現識としての世界』を翻訳刊行したときは、鴎外も花袋も泡鳴も、清沢満之西田幾多郎鈴木大拙もショーペンハウアーに熱中したものだった。
 トーマス・マンを読みたいなら、ショーペンハウアーも読んだほうがいい。芥川龍之介や太宰治に何かを感じたことがあるのなら、その奥にショーペンハウアーがいることを覗いてみたほうがいい。ヴィトゲンシュタインも、実はショーペンハウアーなのである。
 ミットライト・ペシミズム。
 ぼくの感じでは、このミットライト・ペシミズムの“共感と共苦の同時感覚”がわからないで、世をはかなんだり、自己意識に溺れたり、世の中に文句をつけるのは、あまりにも杜撰なのである。また、数滴のミットライト・ペシミズムがなくて、頽廃やアヴァンギャルドをかこつのも、かなりぐさぐさなことなのだ。
 とくに仏教において、ミットライト・ペシミズムの彼方についての議論が沸きおこることを期待する。

晩年の肖像と自筆サイン
附記¶ショーペンハウアーの著作は多い。白水社の『ショーペンハウアー全集』で全14巻がある(新版では全16巻)。『意志と表象としての世界』はそのうちの6巻ぶんにあたる。
 そこでお薦めは、西尾幹二が訳した「世界の名著」45巻目の翻訳だということになるのだが、最近は今夜提示した赤と白のブックデザインの「中公クラシックス」にそのまま入った。コンパクトな3分冊なので読みやすいだろう。
 参考になる書籍はそんなに多くない。定番はゲオルグ・ジンメルの『ショーペンハウアーとニーチェ』(白水社)、エドゥアール・サンス『ショーペンハウアー』(クセジュ文庫)、アルフレート・シュミット『理念と世界意志・ヘーゲルの批判者としてのショーペンハウアー』(行路社)などだが、ここでは、湯田豊『ショーペンハウアーとインド哲学』(晃洋書房)、ディビッド・エイブラハム『天才と才人・ヴィトゲンシュタインへのショーペンハウアーの影響』(三和書籍)、梅崎光生『ショーペンハウアーの笛』(新樹社)、橋本智津子『ニヒリズムと無』(京都大学学術出版会)、鎌田康男『ショーペンハウアー・哲学の再構築』(法政大学出版会)など、いかが。とりわけラルフ・ヴィナーの『笑うショーペンハウアー』(白水社)など!

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