長谷川時雨
近代美人伝|上・下
サイレン社 1936 岩波文庫 1985
ISBN:4003110323

 久々に女性ばかりが集まっておられるところで話すことになりました。主宰者のお話では、半分ほどはお子さんがいらっしゃる。仕事をしている方も少なくないようですね。大小濃淡の差はあれ、斉しく女性における編集冒険的な生き方というものにいくばくかの関心を寄せておられ、私の本をちょっとは読んでおられる方が多い集まりとも聞きました。
 それなら主宰者のご希望どおり、私の編集哲学のようなものの一端をお話しようかとも思ったのですが、いろいろ考えてそれはやめました。今夜はみなさんの予想をいささか裏切って、趣向を変えることにした。私がずっと気になっている一人の明治生まれの女性、長谷川時雨のことをお話したいと思います。どこかで私の編集哲学とも関係すると思います。

 残念ながらというか、困ったことにというか、長谷川時雨のことはいまはほとんど忘れられています。それでも数年前に岩波文庫から時雨の名著といわれる『近代美人伝』の上下2冊本が刊行され、広くその名文や思想にふれやすくなりました。また1993年には、作家の岩橋邦枝さんが詳細な『評伝長谷川時雨』を筑摩書房から上梓されたばかりなので、やっとその全貌が覗けるようになったのですが、それでも、やはりほとんど知られていないでしょう。
 長谷川時雨はまことに希有な女性です。たいそう貴重な女性です。
 女だけの文芸雑誌「女人芸術」を創刊して、そこから林芙美子や円地文子や吉屋信子を巣立たせたというのは一番よく知られた功績ですけれど、それだけでなかった。六代目菊五郎と男女をこえた友情を結んで、女性として初めて歌舞伎台本を何本も書いたことも、『近代美人伝』という名著をものして、明治生まれの近代日本をかたちづくった女性たちを次々に活写してみせたことも特筆されますし、晩年になって、「輝ク会」という女性グループをつくって、みずから魂を賭して日本を救おうとした社会活動もきわめて希有なものでした。ともかくも女性のための女性でありつづけようとした人です。
 つねに度胸があったし、つねに時代を背負おうとした女性です。しかも格別に美しい。とくに和服の着こなしがすばらしかったようですね。私は何枚かの写真でしかその容貌を知る由もないのですが、そのころに時雨と出会った女性たちがみんな「時雨さんほどの美人はいなかった」と言います。
 たしか円地文子だったと思いますが、「泣いても笑っても眉をひそめても、立っても坐っても、電話で印刷屋を叱りつけていても、どんなときでも時雨さんは美しかった」というようなことを書いている。のちにフランス文学者の山内義雄のところに嫁いでいった山内緑は、「先生の美しさですか。どう美しいかっていったら、雰囲気が断然に美しい。先生はいつも絵になっていた人です」と述懐しています。

 長谷川時雨は明治12年に日本橋の通油町で生まれたちゃきちゃきの江戸っ子です。
 この明治12年生まれにどんな同時代の人がいたかというと、同い歳に永井荷風や正宗白鳥がいて、1歳年上に与謝野晶子がいた。これでおわかりのように、時雨はあの樋口一葉が「奇跡の十三カ月」を疾走して倒れていった直後の、日本の女性が目覚めはじめた最初の疾風をうけた娘でした。
 日本橋で江戸っ子として育ったことは、時雨には決定的だったようです。おじいさんは高級呉服商、おばあさんは伊勢の庄屋の娘で気っ風のいい散財家、何が嫌いだっていって「卑屈」が大嫌いだったといいます。いいですねえ。こういうおばあさん。父親の長谷川深造は官許代言人で、いまでいう弁護士。明治政府が選んだ最初の12人の一人だから、かなりのエリートです。北辰一刀流の使い手だった父親には幕末の侍気質がのこっていたようで、寝るときも枕元に刀を置いていたとその覚悟のほどを時雨は書いてます。また、いつも「のての奴なんぞ、べらぼうめ」なんて啖呵を切っていたとも回顧している。「のて」というのは「山の手」のこと、あんな連中なんかと一緒にされたらたまらねえという下町の矜持ですね。
 母親の多喜のほうは、きびきびした女将タイプだったようで、のちに箱根塔ノ沢に温泉旅館「玉泉楼新玉」とか横浜鶴見に割烹旅館「花香苑新玉」を出し、その腕を買われて芝の「紅葉館」の雇われマダムになっています。
 紅葉館というのは洋風の「鹿鳴館」と並び称された政財界のゲストハウスのようなもので、和風料理で鳴らしていた東京随一の有名な社交倶楽部です。芸妓は入れずに五十人以上の美少女ばかりがお給仕コンパニオンになっていた。クーデンホーフ光子が17歳まで紅葉館の女中をしていましたね。

 日本橋に育った時雨は、だから日本橋には一家言があります。あの天下の泉鏡花をさえ、「そう言っちゃ失礼だけれど、あれは田舎者の勘違いなのよ」とまで言っているんですね。鏡花の日本橋趣味に文句をつけているんです。これは大変な自信ですよ。鏡花をこんなふうに言った女性はいないでしょう。『旧聞日本橋』という達意の名著もある。だいたい時雨の文章は小気味のよい名文で、つねに言葉を選びきっています。
 そんな羽振りの日本橋の長谷川家には、いつも歌舞伎や芝居や音曲の達者が集まり、「水魚連」や「六二連」といった見巧者の「連」がそこから繰り出していったといいます。
 そのことはあとにまたお話しするとして、ともかくそういう日本橋の家に育った時雨は6つの時から長唄や踊りの稽古、生け花や茶の湯や裁縫を嗜みとしてちょんちょんと身につけていくのですが、親譲りの負けん気がめっぽう強い一方で、草双紙や一葉を夢中に読み耽る腺病質な文学少女だったようです。一葉についてはとくにぞっこんだったらしく、のちに一葉を「蕗の匂いと、あの苦み」と表現したあたりは、さすがです。「蕗の匂いと、あの苦み」なんて、まさに一葉をみごとに言い当てていますね。
 でも、みんなからは「アンポンタン」と揶かわれていた。何がアンポンタンだったかよくわからないのですが、これだけの鉄火肌の家族のなかで育てば、文学少女なんてのはアンポンタンなのでしょう。また妹の色白にくらべて「カラス」とも徒名されたらしい。

 やがて時雨は秋山源泉小学校という代用小学校に入ります。代用小学校といっても校長の自宅で読み書きそろばんを教わるという寺子屋ふうのもので、これは公立学校が全国に普及するまでの過渡期に各地にあったものです。久保田万太郎が『大寺学校』に浅草の代用小学校を舞台にしていますね。
 時雨はそこへ、加賀紋のついた紅裏の羽織、黒羅紗のマント、下駄に鈴の入ったぽっくりを履いて、ひょこひょこ通いました。途中から「温習科」といって唱歌や英語も2年制で教えたようで、時雨にはこれがたのしみだったようですが、しかし母親からはおまえは学問なんてしなくていいと叱られ、結局、奉公へ出されてしまう。それが15歳のころ。大崎の池田章政侯爵のだだっ広いお屋敷です。
 奉公では奥女中あたりから"いじめ"にあったらしいのですが、それより夜に一人の時間ができたのが嬉しくて、時雨は寸暇を惜しんで『大日本女学講義録』や雑誌の「女鑑」などを、蝋燭の灯火がもれるのを恐れながらも一心不乱に読んでます。
 けれどもお勤めがたたったのか、病気をしてしまう。肋膜炎がひどくて、さすがに母親は娘を家に戻すことにする。やっと治った時雨はさっそく佐佐木信綱の「竹柏園」に通って、そこで万葉や源氏を知ります。古典開眼がこうしておこります。このときの学衆は、生涯の時雨の「女ますらをぶり」を支え切ったようですね。
 ところがそれも束の間、数えの19歳のとき鉄屑で大儲けをしていた鉄成金のところへ嫁に出されてしまいます。そういう時代だったんです。好きな男のところへ行ったのではなくて、見知らぬ「家」という掟に嫁いでいった。みなさんのなかにもきっとそういう方がいることでしょう。

 嫁ぎ先の鉄成金のどら息子は、案の定の放蕩三昧で、釜石鉱山の社宅に引っ越してからも家にはめったに寄り付かない。仕方なく時雨は山道を歩いたり、川辺で思索するようになった。それがよかったのか、このとき意を決してとりくんだのが小説だったんですね。当時、一番売れていた博文館の雑誌「女学世界」の懸賞小説に『うずみ火』を書いた。
 これが特賞になり、ここに長谷川時雨がデビューすることになります。最初は「しぐれ女」というペンネームでした。明治34年、時雨22歳、ちょうど与謝野晶子や岡田八千代が颯爽と登場した直後のことです。この岡田八千代は小山内薫の妹のことで、のちに岡田三郎助と結婚した才女、時雨とは生涯にわたってずっと親友として付き合います。
 時雨はこうして自立を決意した。
 なんとか夫とのあいだを協議離婚で決着をつけると、一挙に文才を開花させていきました。歌舞伎座の寄付興行の上演台本募集にも応募して優勝。明治41年2月、その『花王丸』という演目が六代目菊五郎によって上演されると、『海潮音』という新作も新派の喜多村緑郎・伊井蓉峰らによって新富座で上演されました。それからは立て続け。『さくら吹雪』が六代目菊五郎によって、『竹取物語』が五代目歌右衛門によって上演され、それぞれ大当たりします。
 時雨も気合が入ってきて、演劇雑誌「シバヰ」を創刊し、牛込余丁町の坪内逍遥のところにしょっちゅう通って劇作の勉強も始めます。なにしろ"入門"が好きだったんですね。
 ちなみに『さくら吹雪』という題名は、饗庭篁村から「古来、花吹雪とはいうが桜吹雪とは言わない」というクレームがつくのですが、時雨はつっぱねて、これが逆に当たるんですね。いまではアン・ルイスも谷村新司も「さくら吹雪」という歌詞を高らかに唄っていますけれど、あれは実は長谷川時雨の造語だったんです。

 これでだいたいの時雨を取り巻く初期の状況のことがわかったかと思います。およその時代の符牒も見えてきたでしょう。
 かの『さくら吹雪』の歌舞伎座上演が明治44年なのですが、この年は平塚雷鳥が「元始、女性は太陽だった」という戦闘宣言を掲げて「青鞜」を創刊した年なんです。
 御存知のように、「青鞜」はヨーロッパの女性運動"ブルーストッキング"を日本語に訳した生田長江の命名ですね。雷鳥はそれを貰い、「新しい女」を名乗ります。与謝野晶子・岡田八千代・国木田治子・小金井喜美子たちが「青鞜」賛助会員でした。明治末期というのは、まさにこうした「新しい女」の蕾が一斉に爆発する時代なのです。
 時雨はこうした花形女流スターの一翼の「新しい女」として迎えられていきました。しかし、この時代、「新しい女」ならば、意を決して雑誌をつくるか結社を組むか、断乎、婦人解放や社会主義などの社会活動をするか、あるいは店を構えるか芸能に打ちこむか、そのいずれかでした。ただおシャレをするとか、ホテルのヴァイキングを食べにいくとか、外資系でキャリアウーマンになるというのは「新しい女」なんかじゃなかったんです。何かを表現するか、行動をおこさなければならなかったんです。
 時雨もこれによく応えた。さっそく「シバヰ」創刊とともに「舞踊研究会」を主宰して、踊りのうまい菊五郎・三津五郎・猿之助といった役者、五代目藤間勘十郎や勘右衛門(これは七代目松本幸四郎ですね)、さらに名人といわれた四代目清元延寿太夫、吉住小三郎、常磐津文字兵衛らを集めて、歌舞伎座で大会を2回、紅葉館で6回もの公演を打ちます。それが三十そこそこですよ。たいしたもんですね。

 踊りの台本も書きました。『玉ははき』『空華』といった作品が日本文林社の『長谷川時雨全集』に入っていますけれど、『空華』は振付が市川猿之助、長唄作曲が杵屋和三郎、舞楽が山井景高と東儀文礼、箏曲の監督が萩原浜子(のちの朱絃舎浜子ですね)、背景と衣裳が日本画家の松岡映丘、出演は猿之助と団右衛門と市川翠扇といった錚々たる陣容で、これはまさしく、”日本歌劇”の草分けといっていいものでしょう。
 だいたい男女が共演するのも、箏と長唄と舞楽の合奏も、それまでにまったくなかったんです。時雨の実験精神の賜物です。さらに大正2年には菊五郎と「狂言座」を結成、歌舞伎狂言も『さくら吹雪』に続いて連打する。『絵島生島』などはいまでもよく上演されていますね。
 ようするに長谷川時雨は劇作家あるいは舞台芸術作家として、一挙に名を知られたのです。アンポンタンが大変身したのです。しかし時雨は芝居や踊りばかりに手を出していたのではなく、文章を磨いていたし、小説も試みていたし、また母親の「花香苑」や「紅葉館」も手伝っていた。鏑木清方の絵や九代目団十郎の貼り交ぜなどをそうした接客ロビーに飾ったのはたいてい時雨でした。
 そこへ新たな恋人があらわれるんです。三上於菟吉(おときち)です。

 三上於菟吉といってもいまは知らない人のほうが多いと思いますけれど、『雪之丞変化』で有名な売れっ子作家で、大正末期には"二大老四天王"とよばれた一人です。二大老は村上浪六と佐藤紅緑、四天王は大仏次郎・白井喬二・佐々木邦・三上於菟吉。昭和10年の作家収入番付では、1位が菊池寛、2位が三上於菟吉、3位が吉川英治です。『雪之丞変化』は市川雷蔵、美空ひばり、美輪明宏、大川橋蔵などの主演で何度も映画化されましたね。
 でも、於菟吉はそういう大衆文学ばかりでなく、ゾラの『獣人』などの翻訳もしている自然主義文学者でもあって、もともとは田山花袋の「文章世界」で力をつけた早稲田派に属します。
 早稲田派というのは、明治24年生まれの宇野浩二・広津和郎・日夏耿之介・谷崎精二や、その前後の沢田正二郎・直木三十五たちの早稲田出身者のことをいうのですが、その一人の広津が「当時の於菟吉はともかく別格だった」と述懐しています。「三上は驚くほど本を読んでいる。18世紀のイギリス文学をあんなに読んでいる奴は早稲田にはいなかった」というのですから、日夏などよりずっと読書通だったのです。もうひとつ、エピソード。北原白秋が密通事件で自殺を思案して三浦半島をさまよっていたころ、船の中で泣いていた白秋にハンカチを差し出したのが三上於菟吉だったという話もあります。
 その三上が時雨を惚れぬいたんですね。
 三上は年下だったけれども、すらりと背が高く、なかなか男ぶりもいい。ついつい時雨も絆(ほだ)される。二人の仲はかなりな話題になったようで、二人がおめかしして歌舞伎座にあらわれると、二階席の久米正雄や菊池寛が、美女をしとめた於菟吉を見て「三上の奴、ちくしょう!」とくやしがったといいますし、吉川英治などは於菟吉に面と向かって「君にはもったいないほどの才色兼備なんだ」と諭したともいいます。
 ようするにみんながやっかんだわけですが、二人はゴールインして子供をもうけます。姉さん女房でした。

 時代はやがて関東大震災に向かい、人々がやっと夢から醒めようとしていました。時雨もこうしちゃいられないと思い始めます。親友の岡田八千代とともに雑誌をつくろうと決める。これが大正12年7月に創刊された「女人芸術」です。
 それまで女性だけの文芸誌がなかったわけではないんです。明治末年の「青鞜」をはじめ、雷鳥の門にいた尾竹紅吉の「番紅花」(サフラン)、生田花世や今井邦子の「ビアトリス」、三宅やす子の「ウーマン・カレント」、島崎藤村出資の「処女地」などがあったのですが、あんまり長続きしていない。
 時雨は夫の於菟吉に2万円を出させて、一気に戦線を拡張します。「青鞜」のような気張った発刊の辞をやめて、後記にこんなふうに記します。「初夏のあした、澎湃と潮が押しあげてくるように、押さえきれない若々しい力をためそうとしている同性の呻きをきくと、涙ぐましい勇躍を感じないではいられない。あたしもその潮に躍りこみ、波の起伏に動きたいと祈る」というような、実に瑞々しい調子です。
 つまり、同性の才能に機会を提供したいというのが時雨のメッセージと覚悟なんですね。「女性文筆の公器」とも銘打っている。編集部も生田花世に来てもらい、アナキストの堀江かど江や八木秋子をかかえると、若い素川絹子を抜擢して編集長にしています。一部40銭、創刊にあたっては時雨はお茶会や講演会を催して話題を集め、若いスタッフはビラを配りに全国に散ったりしています。

 編集企画と宣伝企画には、工夫に工夫を重ねているんですね。「女人芸術」は昭和3年から第2期に入るのですが、このときは読者組織「女人聯盟」を結成して、飛行船ツェッペリン号に花束を贈るキャンペーンなどを組み立てているし、ジャンボ石鹸などというものも読者サービスとして売り出している。
 こうした「女人芸術」を足場に林芙美子の『放浪記』の連載が始まり、平林たい子・佐多稲子・吉屋信子・円地文子・尾崎翠・小山いと子らが次々に羽ばたいていきました。神近市子・岡本かの子・松村みね子は常連となりましたし、高群逸枝・村岡花子たちはゲストの執筆者、加えて「異説恋愛座談会」「女性欠点摘発座談会」「多方面恋愛座談会」といった柔らかい企画も連発していった。
 先行して「文芸春秋」を創刊していた菊池寛もついつい協力体制をしきます。このとき文春側であれこれ小まめに動いて「女人芸術」との中をとりもっていたのが、『ノンちゃん雲に乗る』の童話作家の石井桃子です。私の子供時代の愛読書でした。

 この「女人芸術」は当たりました。そして、そこに時雨がずっと連載していたのが『美人伝』や『近代美人伝』だったのです。これらを読むと、どのように時雨が同性を深く深く愛していたか、いかに片肌を脱ごうとしていたかが、よくわかります。
 では、ちょっとだけですが、時雨が選びぬいた美人たちを紹介したいと思います。
 その前に申し上げておきたいのは、『近代美人伝』はともかくおもしろい。おもしろいだけでなく、日本の近代を生き抜いた女性たちの真骨頂が伝わってくるということです。それを華奢で鉄火肌の長谷川時雨が委曲を尽くして綴っているのだから、絶品です。うーんと唸らせるところが随所にありますし、歴史を知るにも、日本の女性に炎のようにひそむ葉隠精神とは何かということに打擲されるにも、こんなにいいテキストはない。是非、読んでいただきたい。
 いま、岩波文庫に入っている『近代美人伝』は新たに杉本苑子さんが選んだ珠玉の18人18篇ですが、実際には100篇以上があり、大半は人物一人ずつに触れています。男はいっさいとりあげない。男が嫌いだったのではなくて、女性のことを叙述する文章や歴史観やその評定があまりにも少なかったのです。
 だから時雨は、そのほかにも「明治美人伝」「明治大正美女追憶」などという女性活動史の流れの要約もして、いろいろ執筆しています。おそらく時雨の生き方を知ることと、『近代美人伝』に登場する貞奴や一葉、お鯉や朱絃舎浜子、柳原白蓮や九条武子を知ることは、表裏一体なものだと思います。

 年齢順はたいへん失礼なことですが、わかりやすいのでそうしますけれど、かんたんに紹介していきましょう。岩波の『近代美人伝』で選抜された18人のうちの最古参は"女団州"の異名をとった市川九女八(くめはち)です。
 九代目団十郎に入門して旅芝居で『勧進帳』をやってのけ、いったん破門されるのですが、また許されて女団十郎になった名優です。最初で最後の歌舞伎女優でしょうね。木下尚江は「日本の秀れた女は神功皇后、紫式部、それから市川九女八だ」と言ったといいます。
 次が樋口一葉で、時雨は何度も一葉については書いているのですが、自分が死ぬ間際になっても甥の長谷川仁に、「早く治ってくださいね」と言われると、「あたしにゃ書かなきゃならないものがあるんだ」と顔を向け、「一葉のことだよ、あたしが書かなくて誰が書けるかい」と一言、そう付け加えて死んでいったそうです。まことに凄まじいですね。
だから一葉についてはたくさんのことを書いていますが、さっき申し上げた「一葉は蕗の匂いと、あの苦み」が最高です。
 それから、オッペケペー節の川上音二郎と一緒になって書生劇や正劇や新派を次々におこした芳町芸者の貞奴(さだやっこ)と、名古屋から大阪に出て浄瑠璃を語り、東京で軒並み文士たちを虜にした「女(むすめ)義太夫」の豊竹呂昇が続きます。
 貞奴については黒紋付の羽織が多かった貞奴が、がらりと洋風に装い、煙草を吸ってワインを片手にしたときの姿は「日本で最初の新たな妖艶」というもので、それでいて芝居の楽日に贈られた花束を仕分けおえ、「何かに凭(もた)れて茫然としている姿を見ると、こちらが涙ぐむ」と絶賛しています。この「何かに凭れて」というところが、時雨ならではの特徴表現です。また、そういう貞奴の正体こそが日本の「少女心」(をとめごころ)ではないかとも書きます。
 呂昇には「豊艶な面立ちと円転滑脱な声」がありながら、「紅筆を噛んで薄墨の滲み書きに、思いあまる思案をうちあけた文が繰り広げられる纏綿たる情緒」があるため、これが聴衆を真底魅了するのだと指摘しているあたりが、いいですね。

 つづいて、山田美妙と結婚しながらわずか3カ月で別れた夭折の作家の田沢稲舟、男たちにやるせない「堂摺連」(どうするれん)を結ばせた女義太夫の竹本綾之助、和歌を佐佐木信綱に、小説を漱石に、絵を跡見玉枝と橋本雅邦に習った作家で歌人で詩人であった大塚楠緒子(なおこ)というふうに続いて、次が芸妓あがりでありながら、天下を沸かせた二人の美人です。
 一人は、新橋芸者から法律学者の江木衷に嫁いで、詩・書・画・篆刻・謡曲に異彩を放って社交界の花形になりながら、夫と死別してからは悲哀をこそ愛して自殺した江木欣々こと江木ませ子です。
 もう一人は江木欣々と同じく新橋近江屋の半玉から出発して、「照近江(てるおうみ)のお鯉」として鳴らした一世お鯉です。お鯉は芸妓のころに市村羽左衛門に贔屓にされて結婚するのですが、さっさと別れてふたたび芸妓となると、今度は総理大臣陸軍大将の桂太郎の妾となって銀座に「カフェ・ナショナル」を、赤坂に待合「鯉住」をひらいている。いまを時めく歌舞伎役者と総理大臣を二人ながら夫にした芸妓さんなんて、お鯉だけでしょう。
 時雨がお鯉を描写した文章は絶品です。時雨は功なり名をあげたのちのお鯉に会うのですが、それだけにその美貌と情緒が衰えぬことに驚くのです。こんな文章です。読みますね。

 美しいお鯉。わたしは手箱に秘めてあったものが、ほどへて開いて見たおりに、色も褪せずにそのままあったように、安心と悦びと満足の軽い吐息が出るのを知った。
 お鯉さんは朝のままで、髪も結いたてではなかった。別段おめかしもしていなかった。無地の、藍紫を加味した縮緬の半襟に、縞のふだん着らしいお召と、小紋に染めたような、去年から今年の春にかけて流行ったお召の羽織で、いったいに黒ずんだ地味なつくりであった。変わらないのは、眉から額、富士額の生え際へかけて、あの人のもつ麗々しい気品のある、そして横顔の可愛らしさ、わたしは訪ねて来て、近々と見ることの甲斐のあったのをよろこんだ。
 思い出はさまざまに、あとからあとからと浮かみあがってくる。その折お鯉は何事も思うままで、世の憂きことなどは知ろうようもないと思われた時代である。花の三月、日本橋倶楽部で催された竹柏園の大会の余興に、時の総理大臣侯爵桂大将の、寵娘の仕舞を見ることができるのを、人々は興ありとした。金春流の名人、桜間左陣翁が見込みのある弟子として骨を折っておしえているというこの麗人が、春日(しゅんじつ)のもとに師翁の後見で「熊野」(ゆや)を舞うというのであった。美しき人は白き襟に、松と桜と、濃淡色彩(いろ)よき裾模様の、黒の着付けであった。輝くばかりの面影に、うらうらと霞めるさまの眉つき。人々は魅せられた。ひるがえる袖、ひらめく扇。時と人のよくあって、古えを今に見る思いがした。

 こんな感じの文章です。何かが切々と伝わりますね。なぜ時雨がこのように"思い出語り"をしているかというと、お鯉は絶頂の日々のあと、折りからの帝人疑獄事件にあっというまにまきこまれて偽証罪に問われるんです。そして執行猶予3年の判決を受けた。晴天の霹靂です。名声もいっぺんに地に落ちた。
 どうしようかと思い迷うお鯉に、玄洋社の怪物・頭山満永平寺の日置黙仙(へきもくせん)禅師について参禅することをすすめます。昭和3年のことです。こののちお鯉は、勇躍、目黒の羅漢寺に入っていった。そこで切髪をし、薙髪した。こうしてお鯉は往時とはすっかり様変わりをしてしまう。時雨はそういうお鯉の激変した身の上をずっと案じていたんですね。そのことも縷々書いて、こう結んでいます、「おお! 何処までまろぶ、露の玉やら――」。

 次が明治14年生まれの大橋須磨子とモルガンお雪です。二人とも東西を代表する大金持ちに嫁いでいます。大橋須磨子は『金色夜叉』の「お宮」のモデルとしても知られていますね。巌谷小波がモデルの「貫一」に愛されながら、飛ぶ鳥を落とす博文館の大橋新太郎に嫁いだ。だから「ダイアモンドに目が眩み・・・・」なんですねもとは「紅葉館」のコンパニオンです。
 モルガンお雪はアメリカの大富豪モルガン商会の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに祇園の芸妓のときに気にいられて、4万円の落籍金で足抜けをして結婚、アメリカに渡った玉の輿の象徴のような女性です。京都生まれの京都育ち。でも、世の中、なかなかうまくはいかないもの、お雪はモルガン一族に拒否されてフランスに移住してしまい、その後は帰国してカトリックの洗礼をうけて、静かな余生を送ります。
 この大橋須磨子とモルガンお雪には共通の人物がいる。それは「紅葉館」のお給仕コンパニオンの総指揮役をやっていたお鹿姐さんで、この人自体が数奇な宿命を負っています。威海衛で毒を仰いで死んだ日清戦争の清国側の提督だった丁汝昌(ていじょうしょう)の恋人でした。そのあとは近衛篤麿の寵愛をうけるのですが、操を守って紅葉館の老女として終わる道を選ぶ。京都生まれで井上八千代とともに京舞の名人、長唄・富本・清元・常磐津なんでもござれの芸達者といわれた女将です。そのお鹿姐さんに須磨子もお雪も、心の面倒を見てもらっていたんです。
 昔は、こういう"人生の老女役"という人がいましたね。日本はこれから高齢化社会に向かうのですが、はたしてどれほどこういう"粋なおばあさん"を大事にできるでしょう。

 このほか年齢順でざっと紹介すると、横浜生糸問屋の野沢屋の総支配人萩原平兵衛の娘として京極流を習い、たちまち一世一代の箏曲の名人となった朱絃舎浜子――。英語教師・電報通信社をへて治安警察法と闘って岩野抱鳴と結婚し、「青鞜」に身を投じた岩野清子――。炭鉱王の伊藤伝右衛門に嫁して"筑紫の女王"といわれた歌人の柳原白蓮――。島村抱月の急死を追って自殺した、みなさんよく御存知の女優の松井須磨子――。「青鞜」の女丈夫で「新しい女」第1号の平塚雷鳥、本願寺大谷光尊の次女で九条男爵家に入ってからは才色兼備の歌人として慕われながら去っていった九条武子――。東京府知事で文部大臣を務めた芳川顕正の娘として育ち、子爵の曾彌家に嫁ぎながらもそのお抱え運転手と心中事件をおこした芳川鎌子――などが、とりあげられています。
 いずれも天下に名声や浮名を流した名うての美人たち揃いですが、時雨はその一人ずつの宿命と薄命と、埒外の消息と不埒な風聞を、あるいは心をそこに託し、あるいは心をときに傷めて、しかし存分の美の持ち主としての敬意をこめて、それぞれ嫋々と綴っています。これが『近代美人伝』なんです。何度、読んでもあきません。
 そもそも人の一生は、誰だって一筋縄ではないんです。誰にだって唐突が訪れ、予想外のことが続き、思いもよらない出会いがあるものです。そこをどのように自己編集し、相互に編集しあっていくか。人生結局、縮めればそれしかありません。
 長谷川時雨はそのことを美人に絞って描こうとしたのですが、もとよりここで美人とよばれているのは見かけの美人とはかぎらない。いわば「心根の美貌」と「仕草の器量」と「表現の美粧」をもっていた女性のことを、美人とよんでいるのです。それでは、いまあげた柳原白蓮と九条武子の例を出しておきます。

 柳原白蓮は鹿鳴館華やかなりし明治18年に、柳原前光伯爵の次女として生まれます。お兄さんは貴族院議員、でも白蓮の生母は柳橋の芸妓さんです。だから麻布笄町の別邸で育った。やがて北小路子爵のところに嫁ぐのですが、ほどなく離婚します。
 そして、さっきも言ったように、福岡の炭鉱王の伊藤伝右衛門に請われて入籍するのですが、亭主が52歳だったこと、無学な鉱夫あがりだったこと、成金だったこともあって、人の噂に「人身御供」だと騒がれます。けれども暮らしのほうは豪勢きわまりないものだったので、"筑紫の女王"と揶揄される。そのうち佐佐木信綱に和歌を学ぶようになって『踏絵』という歌集を出します。なんとも意味深長なタイトルですが、収められた歌もそういう感じです。たとえば、

  殊更に黒き花などかざしける
           わが十六の涙の日記
  わが魂(たま)は吾に背きて面(おも)見せず
           昨日も今日も寂しき日かな
  おとなしく身をまかせつる幾年は
           親を恨みし反逆者ぞよ
  われといふ小さきものを天地(あめつち)の
           中に生みける不可思議おもふ

"筑紫の女王"柳原白蓮

"筑紫の女王"柳原白蓮

 こういう歌が発表されたんですね。なかには「毒の香たきて静かに眠らばや小瓶の花のくづるる夕べ」といった、ぎょっとする歌もいくつも入っている。それが33歳のときです。みんなびっくりしてしまいます。あるいは、ああやっぱりと思った。
 そこへもってきて大正10年10月22日の新聞に「柳原白蓮女子失踪!」の記事が突如として躍ったんですね。「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」という記事です。記事によると福岡へ帰る夫を東京駅で見送ったまま、白蓮は東京の宿にも帰らず、そのまま姿をくらましてしまったというのです。そしてやがて、伝右衛門に宛てた絶縁状が新聞に載る。「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まる、とんでもない文面です。それが満天下に公開された。
 さあ、これで世間も新聞社も蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。そこに伝右衛門の談話が発表される。「天才的の妻を理解していた」という見出しです。
 やがて白蓮は東京帝国大学の宮崎竜介という青年と駆け落ちしていたことがわかるのですが、それがわかればわかったで、今度は外野席や帝大の教授たちもいろいろのことを論評するようになり、ついに姿をあらわせなくなっていくんですね。その後、白蓮は「ことたま」というすばらしい歌誌を主宰して、詩集・戯曲・随筆を書きつづけたにもかかわらず、その白蓮を世間はついに"認証"しなかったのです。
 時雨はこう書いています、「ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間の交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽くせようか」と。

 もう一人の"遠き麗人"とよばれた九条武子についても、ちょっとだけお話しておきます。そのころから細川ガラシャ夫人と並び称されてきた女性です。時雨はこんなふうに書き出している。
 「人間は悲しい。率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字も書けない」。
 これでなんとなく察せられるように、九条武子という人は現代にはまったく存在していないような、信じられないほど美しい女性です。多くの美人伝を綴ってきた時雨にして、一行も書けなくなるような、そういう女性です。生まれは本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、お兄さんが英傑とうたわれた大谷光瑞。西域の仏跡探検家でもあり、多くの支持者をえた仏教者です。妹の武子は親が生まれる前から決めていた九条家に輿入れして、九条を名のるのですが、時雨は「武子さんはついに女を見せることを嫌ったのだ」と書いています。
 残したのは「聖女」のイメージと歌集だけ。明治20年に生まれて、昭和3年に敗血症のために、深窓に閉じられたまま死んでいく。そういう人がいたんです。
 だから、どういう人だったかは、歌を読んで推しはかるしかありません。それ以外にほとんど情報がないんです。その歌も、なんとも切ない歌ばかり。『金鈴』『薫染』(くんぜん)『白孔雀』といった歌集がありますが、ちょっと拾って読みます。

  ゆふがすみ西の山の端つつむころ
           ひとりの吾は悲しかりけり
  緋の房のふすまはかたく閉ざされて
           今日も寂しくものおもへとや
  百人(ももたり)のわれにそしりの火はふるも
           ひとりの人の涙にぞ足る
  夕されば今日もかなしき悔いの色
           昨日(きそ)よりさらに濃さのまされる
  何気なく書きつけし日の消息が
           かばかり今日のわれを責むるや
  君にききし勝鬘経のものがたり
           ことばことばに光りありしか
  ただひとり生まれしゆえにひとりただ
           死ねとしいふや落ちてゆく日は

"遠き麗人"九条武子

"遠き麗人"九条武子

 3首目の「百人のわれにそしりの火はふるも‥」の歌については、『白孔雀』の巻末に柳原白蓮が、「この歌に私は涙ぐんでしまいました」と書いていました。吉井勇もまたこの歌に痛切な感動をおぼえたと綴っています。「ただひとり生まれしゆえにひとりただ」も凄い歌ですね。

 さて、こんなところで『近代美人伝』の紹介をおえますが、では、その後の長谷川時雨のほうはどうだったかということを、付け加えたいと思います。
 まず、三上於菟吉との夫婦生活はあまりうまくいかなかった。これはまあ、予想できますね。だいたい時雨が12歳も年上なんです。それで婦人雑誌がしきりに「年上の妻」というレッテルをつけて随筆を書かせようとするのですが、時雨はそのたびに「妻という名なんてたいしたことだとは思わない」と書いて、「そんな心得よりも人間の女であることを鍛練したい」と書きます。ではなぜまたそんな結婚をしたのかというと、それはハズミというものだそうです。ま、そういうものでしょう。

 仕事の「女人芸術」のほうは、1周年記念号で八木秋子が藤森成吉にあてた公開手紙を掲載したころから、その後ずっとアナキスト感覚とマルキスト感覚の応酬が続くことになって、いわゆるアナ・ボル論争にまきこまれていきます。アナはアナキズム、ボルはボルシェヴィズムですね。これで時雨は板挟みになるんです。「長谷川時雨には思想がない」とも批判された。
 しかしこれについては、アナキストやその同調者たち、たとえば望月百合子や平塚雷鳥から擁護論が出た。「長谷川時雨は一党一派にちぢこまる人じゃない、いわば人間主義である。
あれほど大きなおなかをもっている人は、男にも女にもめったにいない」というふうな擁護です。これは望月百合子の言葉です。ソルボンヌに留学して大杉栄と伊藤野枝が虐殺されたニュースをパリで聞き、怒りをもって日本に帰ってきたアナキストです。
 けれども、こうしたアナキストは時雨に迷惑をかけたくないので、しだいに雑誌の経営から離れるんですね。そのため「女人芸術」には神近市子や平林たい子などのマルクス主義者系のほうがふえてきた。ソビエト色が強くなる。これが「長谷川時雨のアカい白粉」といわれた傾向です。
 そのうち思想検閲にふれ、発禁号も出てくると、時雨はそれでも健闘して次々に編集企画を工夫します。「全女性進出行進曲」とか「虐×・×問特集号」とか「秋夜講習文芸思想講座」とか。でも、いったん左傾化や右傾化をおこしてしまうと、雑誌というのはメディア性よりも思想性が強くなって、ダメなんですね。同人誌のようになってくる。ときどきは野上弥生子のような人が応援するんですが、だんだん孤立してきます。
 こうして昭和7年6月号で「女人芸術」は終刊を迎えます。もう満州事変がおこって日中関係が逼迫していた時代です。時雨はすっかり疲れて入院してしまいます。

 病気が回復してからの時雨は、また動き出しました。昭和8年、「輝ク会」を発足させた。西暦1933年の「三三」をとって「燦々輝く」だから「輝ク会」。時雨は54歳でした。
 この会は「全女性が手をつないで進んでゆく」がモットーで、機関誌「輝ク」を発刊します。タブロイド判4ページ。「黎明は近づく、われらの行く手」と題字の横に黒地白抜きで飾られた文句を見るとなにやら勇ましいのですが、むろんそういう気概に溢れているのでしょうけれど、時雨自身は「女人芸術」のようなスタイルをとれなかったことについて、「襦袢の半襟のようなもの」と言ってました。私はこれを知って唸りました。そうか、「半襟のようなメディア」とは!「小さくて細くしか見えないけれど、それで決まってしまう価値」という意味だったようです。すばらしい編集哲学です。この「輝ク」は8年続きます。

 時代はいよいよ戦火の只中に突入です。「婦人公論」「主婦之友」などはいっせいに時局に歩調を合わせるようになります。
 「輝ク」もよくよく考えての「皇軍慰問号」という特集号にして、巻頭に岡本かの子の「出征軍人将士となりたまふ時、日本男子は既に神なるを感ぢる」を掲げます。そしてその次の号に、この特集号に対する賛否両論をのせた。宮本百合子と佐多稲子は皇軍特集号の甘さを批判した。とくに宮本は岡本かの子の文章を「ヒロイズムの自己欺瞞」と難じました。一方、平塚雷鳥は「ようこそ言ってくださった」と堂々と賛意を示します。
 みなさんは、もしも今日の日本でこのような事態がちょっとでもおこりそうになったら、どちらの肩をもちますか。宮本百合子ですか、平塚雷鳥ですか。時雨はどうだったかというと、徹底して人間主義と義侠心から編集をしつづけるんですね。どちらにも片寄らない。そして中国人留学生を支援する行動に出る。そのかたわらで『旧聞日本橋』を綴りつづけたようです。これについては単行本になったとき、野上弥生子がその滋味深い日本橋描写を褒めています。

 やがてのこと、さすがの時雨も勇み足を禁じえない時点まで、日本は泥沼に突っ込んでいきました。時雨は昭和14年には「輝ク部隊」の結成に乗り出すんです。
 当初は慰問活動のための部隊だったのですが、その会合や大会に軍人や満州国からの代表の出席が打ち続くようになると、なんだか戦闘的な部隊のような雰囲気になってきます。度量の大きい時雨も、ここはなんとかふんばりたい。愛国婦人会や国防婦人会の奉賛活動とは一線を画して、日中親善や芸能慰問や青少年応援に動きの舵を切ろうとするのですが、すでに事態はそれを許しません。
 やっと白扇に作家や芸能者が揮毫して、それを靖国神社に参拝する遺児たちに贈るという奉仕活動を敢行するのですが、その揮毫がすでに、与謝野晶子にして「やすくにの神の御子にかなひつつ光あらしめ大和魂」ですし、佐多稲子が「早く芽を出せ柿の種」、時雨もまた「二千六百年の春の陽ぞさす靖国の神にぬかずく子たちのうえに」というものでした。
 さらに日中親善を推進するため昭和15年に「輝華会」をつくり、満蒙開拓整少年団に図書寄贈などを始めます。こうした時雨の活動はのちに「戦争のお先棒をかついだ」と一部から非難されるところとなるのですが、どうも時雨はそういうイデオロギーとは無縁だったようです。

 かくて時雨は60歳で中国南方方面への慰問団の統率者として、戦地に入っていくことになります。ついにそういう日が来てしまうんですね。
 昭和16年正月3日、神戸港からサントス号に乗って、時雨は円地文子・熱田優子・尾崎一雄・宮尾しげおらを引き連れて、中国に旅立ちます。厦門から広東へ、そこから南シナ海を渡って海南島へ。さらに仏印まで足をのばそうというところで、戦況が激化して引き返します。途中、どんな戦地でも時雨は兵士に贈る小さな香水瓶にひとつずつ言葉を書きこんでいたといいます。

 時雨は疲れ果てて帰国します。が、それでも体に鞭打って、日本女流文学者会を発足させると、どっと疲労を重ねて喉を痛め、慶応内科病院に入院してしまいます。妹の春と甥の仁が病院に連れていこうとすると、「どこへ連れていくのかい。いやだ、いやだ」と言ったそうです。白血球顆粒細胞減少症でした。
 それから3日もたたないうちに、長谷川時雨は「一葉について書かなきゃね」と言いながら、息を引き取ります。女たちの先頭を走りつづけての、享年61歳でした。アンポンタンは天下の美人に見取られて死んでいったのです。
 野上弥生子は「鴎外や漱石のような不世出の人だった」と追悼しました。お墓には、「長谷川時雨 さくら吹雪」と刻まれているそうです。
 こういう女性がいたのです。私の話はこれで終りです。いまはいったい誰に長谷川時雨を期待すればいいんでしょうね。あるいは、誰に長谷川時雨のことを、長谷川時雨が選んだ美女たちのことを伝えればいいんでしょうね。今日のみなんさんかなと思ったわけです。
 どうもありがとうございました。

附記¶いまは懐かしい1993年の講演会のテープからの採録だ。麹町の女性グループからのお誘いで、1時間ほどの短い講演だった。長谷川時雨を選んだのは、ぼくが女性の聴衆を意識したからだが、それとともに近代日本のひとつのジェンダー偶像を語ってみたかったせいでもある。ちょうど岩橋邦枝の『評伝長谷川時雨』(そのころは筑摩書房、いまは講談社文芸文庫)が出たばかりで、そんな機縁もあった。ともかくぼく自身がこういう女性がいたことに感嘆したというのが正直な感想だった。こういうときにはぼくは必ず決行するのだが、感動は独り占めにはしたくない。すぐにぼくなりの編集を加えて、内外の誰かに提供したものだ。
 『長谷川時雨全集』は1942年に日本文林社から刊行されたまま、これではもったいない。ほかに長谷川仁・紅野敏郎編集の『長谷川時雨 人と生涯』(ドメス出版)、吉屋信子の『自伝的女流文壇史』(中央公論社)、生田花世『一葉と時雨』(潮文閣)などが参考になる。ちまみに、昨年のISIS編集学校の「感門之盟」で、ぼくは『近代美人伝』を師範の小清水美恵に贈った。時雨のあとは頼んだからね、という意味をこめて──。


コメントは受け付けていません。