才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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日本橋

泉鏡花

岩波文庫 1953

 今夜は泉鏡花である。新派でも馴染みの『日本橋』にした。ちょっとしたワケがある。
 一つは、『日本橋』には芸者の気っ風がずらりと並んだことだ。芸者は、鏡花にとっては母であって山霊であり雛であり、他人のものであって二十五菩薩であり、妖美でありながら清廉であるような、夜叉であって、かつ形代(かたしろ)であるようなものなのである。その芸者のことを書いておきたかった。
 二つめのワケについては、あとで書く。そこはちょっぴりぼくの事情にかかわっている。いや、芸者への思いも、ぼくの何かの事情にかかわっているのだが‥‥。
 三つめのワケは、そう、昨夜にハイデガーを書いたからである。

 鏡花について書くのは、思えば30年ぶりのことだ。若書きが羞かしいその小文は『遊学』(中公文庫)に収録してあるが、そのときは、「あたしはね、電車が走る街にお化けを出したいのよ」「お化けは私の感情である、その表現である」と言ってみせた鏡花の、「一に観音力、他に鬼神力」ともいうべきを覗き見た。
 そのころのぼくは、泉名月さんの回顧談を読んだせいもあって、オキシフルを浸した脱脂綿で指を拭いているとか、お辞儀をするときは畳に手をつけないで手の甲を向けていたとか、ナマモノは嫌なので料亭でも刺身を細い箸で避けていたといった、過度の潔癖美学を全身に張りめぐらせていた鏡花が、そのように“見えないバイキン”を極端に怖れているのに、その対蹠においては、変化(へんげ)しつづける見えない観音や、人を畏怖させる鬼神をあえて想定したことに、関心をもっていた。
 そういう鏡花の実在と非在を矛盾させるような「あはせ」と、見えるものと見えないものを交差させるような「きそひ」とが、おもしろかったのだ。

 当時は鏡花の大変なブームがおこっていた。身近な例をひとつ出すのなら、わが家に転がりこんできた久我君という青年が、他にはろくに本をもっていないくせに、新装再刊が始まっていた岩波の鏡花全集だけはせっせと買っているというような、そういうことがよくおこっていた。
 舞台や映画でも、ジュサブローや玉三郎(なぜか二人とも“三郎“だった)が、しきりに『夜叉ケ池』や『天守物語』や『辰巳巷談』を流行らせていた。昭和50年代だけで、玉三郎は15本以上の鏡花原作舞台に出ていたはずだ。『日本橋』も入っている。また、これより少し前の三島由紀夫も五木寛之も、鏡花復権を謳っていた。金沢には泉鏡花文学賞もできて、半村良やら唐十郎やら澁澤龍彦やらが鏡花に擬せられた。
 鏡花の幻想世界のアイコンをプルーストやユングやバシュラールふうに読み解くというのも、そこらじゅうに散らばっていた。
 曰く、あの水中幻想の奥には火のイメージがある、曰く、鏡花には「無意識の水」が湧いている、曰く、鏡花の蛇は自分の尾を噛むウロボロスというよりも多頭迷宮なのではないか、曰く、奇矯な破局を描くことが鏡花にとっての救済だったにちがいない、曰く、鏡花の緋色や朱色には処女生贄への願望がある‥‥。ほんまかいなというほどの散らかりようだった。
 たしか、メアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』さえ持ち出して、鏡花の汚辱の美にみずから埋没していった評者もあったかと憶う。よくぞまあ、クリステヴァのアブジェクシオンまで持ち出さなかったものである。

 あれから30年がたった。ぼくの鏡花イメージもずいぶん変成(へんじょう)し、あのころはほとんど知らなかった鏡花の短編を啄むようになっていた。
 そこで感じた印象は、もはや鏡花の潔癖美学から遠く、ましてユングやバシュラールからはすっかり遠い。
 新たな印象は、そのころさまざまな日本の職人芸に魅せられていたのだが、そういう工芸象嵌の感覚に近かった。しかし、たんなる象嵌(ぞうがん)なのではない。鏡花における象嵌細工は仕上げは凄いのに、どこか現実とも幻想とも食い違うようなものになっていて、しかもそういう精緻なものがわざと投げやりに、また意想外に、どこかに邪険に放置されているというような、そんな印象なのである。
 というだけでは、わかりにくいだろうから、『歌仙彫』という短い作品を例にする。

 この話は、矢的(やまと)某という、技術は未熟なのは承知していたが矜持はすこぶる高い青年彫刻家がいて、その将来の才能に援助する夫人が遠方にいるという設定になっている。
 ところがいい彫刻はなかなか作れない。これは青年に憧れの夫人を表現したいという願望が渦巻くせいか、焦燥感のせいか、それとも実は才能がないせいなのか、そこは定かではない。そんなあるとき、久々に夫人が工房を訪れた。夫人は、桔梗紫の羽織をその場の材木にふわりと掛けた。その羽織のかたちが美しい。
 以来、青年は、その羽織のかかった材木をそのまま展覧会に出したいと思い、ついでは目黒の郊外を連れ立って歩いたときの夫人の声をそのまま彫りたいと思ってしまっていた。が、そんなことを思えば思うほどますます作品は手につかない。
 夫人は、私、体が弱いので、菖蒲の咲くころには、と言う。青年は苦しんで酒を呑み、金がなくなると小遣いかせぎの六歌仙の小ぶりの人形など作って、一つできれば、出入りの研ぎ屋のじいさんに金にしてもらうようになっていた。それが二つ、三つと出来上がるたび、じいさんは必ず代金をもってきてくれる。
 礼を言うと、「わしが売ってるのじゃない、別の人じゃから」と言う。誰が売ってくれるのか、じいさんの住処が深川あたりと聞いて、そのへんをぶらついてみるのだが、見つからない。

 そんな深川の昼下がり、近くの冬木の弁天堂で休んでいると、とんとんと若い娘が額堂に入ってきて風呂敷包みを開いた。なんと、そこには自分の人形がいる。業平、小町、喜撰、遍照‥‥。
 思わず駆け寄って、「研ぎ屋さんから手に入れたのですか」と尋ねると、「いえ、姉さんに‥‥」。
 青年がその姉さんに是非会いたいと言えば、妹は、ちょうど近くで用足しをしておりますので、では連れて参りますからと行ってしまった。待つうちに日が暮れて、弁天堂の真っ黒な蛇の絵が浮き出して、こちらを睨んだかに見えたとき、堂守から声をかけられた。
 そのお堂にいる所在のない場面を、鏡花はあの独特の文体で、こう書いた、「時に、おのづから、ひとりでに音が出たやうに、からからと鈴が鳴つた」。とたん、「頸(うなじ)の雪のやうなのが、烏羽玉の髪の艶、撫肩のあたりが、低くさした枝は連れに、樹の下闇の石段を、すッと雲を踏むか、と音もなく下りるが見える」。
 これでついに一切の事情が明かされるかと思うと、そうではない。鏡花はにべもなく、「かうした光景(ようす)、かうした事は、このお堂には時々あるらしい」、と結ぶばかりなのである。

 この不思議な感覚の消息は、ユングやバシュラールでは解けまい。観音力・鬼神力も適わない。鏡花は、何も説明していない。はたして姉が夫人なのやら、その姉の正体が何であるのかも、説明していない。
 それでいて、われわれはここに一匹の夫人の妖しい容姿が君臨していることを知る。また、この青年の彫塑の感覚が並々ならぬものであり、青年はただただ夫人の感覚を想定することによって、世のたいていの力量を凌駕できていることを知る。青年は桔梗紫の羽織すら、きっとふわりとしたまま木彫できるのだ。
 けれども、その一匹の夫人をかたどった精緻な細工物ができあがったとしても、それはなぜか現実にも幻想にもそぐわず、どこか別世界に放擲されるのだ。

 ぼくが新たに近づいていった鏡花とは、このように、精緻でありながらもどこかの「あてど」に放擲されるという印象なのである。
 この感覚は、かつてぼくが『花鳥風月の科学』(淡交社)で、「ほか」とか「あてど」とか「べつ」として言及したものとも近い。前夜のハイデガーでもほのめかしたことだ。おわかりだろうか。わかってもらわずともいいが、ここが鏡花の真骨頂なのである。

 この「あてど」は鏡花の「黄昏」をめぐる思想にも裏打ちされている。
 鏡花はあるところで、「たそがれの味を、ほんたうに解してゐる人が幾人あるでせうか」と書いて、「朝でも昼でも夜でもない一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です」と言っていた。
 さらに、「善と悪とは昼と夜のやうなものですが、その善と悪との間には、そこには、滅すべからず、消すべからざる、一種微妙な所があります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙な形象、心状を現じます。私はさういふ黄昏的な世界を主に描きたい」と。
 これが「ほか」「べつ」の、あてどのないところへの「投企」というものなのである。
 しかし、印象はこれだけでは終わらない。鏡花にとってはさらに大事なことになるのだが、この「ほか」「べつ」「あてど」には、異性というものに託した一切本来が、たえず刻々に変成しているということである。
 これは最初に言っておいた、鏡花にとっての異性は、芸者であって母であり、夜叉でも菩薩でもある形代なのだということに、つながっている。

 そもそも鏡花はウツリの人だった。ウツリは移りであって、映りであって、写りというものだ。
 鏡花は大変な多作に加えて、長編もほとんどない。自身、代表作を書きたいとも思っていなかった。まるで川の流れのように、一艘の舟にのって流れていた。鏡花から一冊を選ぶのが難しいのも、このせいである。そこで、こちらの感想も書きたいことも、一作ごとに浮沈し、変化(へんげ)する。目移りする。また、そうさせたいのが鏡花だったのである。
 ぼく自身のこれまでの目移りをいくつか例にしても、なるほど、視点はいつも蝶のごとくにひらひらとし、舟のごとくにゆらゆら揺れていた。
 たとえばのこと、『歌行燈』の恩地喜多八が身を侘びて博多節を流すあたりも書きたいし、湊屋の芸妓お三重こそを鏡花の憧れともしてみたい。『高野聖』では、その鏡花アニミズムの朦朧画のような気味もよく、旅の説教僧が参謀本部の地図を広げる冒頭や山の女との出会いについても、言ってみたいことがある。
 いや、もっと目移りは激しくて、『照葉狂言』のフラジャイルな少年貢の感覚や仙冠者の描写、『天守物語』の第5層にひそむ母性原理と軍事力の重合も捨てがたい。加えて、『星の歌舞伎』という小品はずっと以前から映画にしたいと思ってきたし(このことは鈴木清順にも映画にしませんかと喋ったことがある)、『草迷宮』の霊をめぐる球形幻想や、それにまつわる繭の中のエロスのような雰囲気も書いてみたいことではある。

 そういうこととは一転して、『風流線』の村岡不二夫の「悪」を考えるのもおもしろい。
 これは風流組という乞食行にやつした一種のテロリストたちを描いたもので、その悪魔主義に人妻がみずから犠牲を提供するという物語になっている。村岡は哲人めいた悪、いわば“哲悪”だった。いつか色悪についても書きたいと思っていたので、これはさしずめ「鶴屋南北から泉鏡花へ」という短絡でも考えてみるべきことである。
 あるいは「千夜千冊」では紅葉を『金色夜叉』にしたのだから、鏡花はお蔦主税の『婦系図』も、いい、あの清元「三千歳」が流れてくる場面に触れない手はないなどなど・・・、左見右見(とみこうみ)迷っていたのだった。
 こんなふうだから、ま、何を選んでも、鏡花は止まらない。動いていく。移っていく。本質がウツロヒなのである。
 それならば、ぼくはぼくで、鏡花という羽織をどこかにふわりと掛けて、これを諸君のほうが鏡花の展示だと見てもらえるようにすべきなのである。

 ところで、昨年末のこと、NHKの「ようこそ先輩」への出演を依頼された。ぼくはいなかった。
 依頼の件をその夜に聞き、ああ、あの番組か、あれはおもしろそうだと思い、OKするように伝えた。そこで、何をしたらいいかな、小学生に編集稽古でもさせようかなと思い始めたのだが、はて、ちょっと待った。ぼくの京都の修徳小学校は統廃合されて、だいぶん前になくなっている。東洞院姉小路の初音中学校も、いまはない。
 これは困った。先輩ではあっても、後輩がいない。尻切れトンボなのだ。そう思っていたら、太田香保が「東華小学校はどうですか」と言った。そうか、そうなのである。ぼくの最初の小学校は日本橋芳町だったのだ。そこに3年の1学期までいた。
 昭和19年に京都に生まれて1年半で敗戦、父は、母とぼくを連れて戦後の焼け跡の東京に引っ越した。京都にいたらよさそうなのに、そのときは呉服では仕事にならず、東京で何でもやってみようと思ったらしい。それで引っ越したのが日本橋芳町(葭町)だった。店と家が一緒になっていた。そこで妹が生まれた。

 芳町は戦後まもなくのことで、さすがに貞奴をルーツとする芳町芸者、明治の小唄を作詞作曲してみせたあの芳町芸者たちは、まだ復活していないようだったが、それでも三味線の音はときどき流れていた。
 家の隣りは伊香保湯で、いつも裏から入った。裏が蓬莱屋という佃煮屋で火事になった。近くに寄席の人形町末広亭があって、ほぼ毎週土日のどちらかに父に連れられて笑いに行っていた。
 その芳町から人形町の東華幼稚園と東華小学校に通った。そう、そう、小学校は背の高い川瀬先生だった。「ようこそ先輩」は、この小学校でもよいわけだ。
 そういうことを年があけたら担当者に言おう思っているうちに、そうだ、鏡花はやっぱり『日本橋』にしようと思ったのだ。冒頭に書いたちょっとしたワケとはこのことである。また、この程度のワケがないと、鏡花は選べない。

 さて、『日本橋』に決めてみて、こう言うのも変だけれども、なんだかホッとした。
 鏡花の時代の日本橋とはすっかり様変わりはしているが、それでも芳町の気分はまだ残っていたところにぼくが育ったというのも、何かの縁とも思われる。それになんといっても、『日本橋』こそ、鏡花の芸者がずらりと揃う。

 鏡花が『日本橋』を書いたのは41歳のときである。大正3年になる。教科書的な文学史では、ここから後期円熟の鏡花が始まるということになっている。
 が、ぼくがまずもって言っておきたいのは、この小説が千章館から上梓されたときに、初めて小村雪岱が装幀をしたということだ。左の欄外に掲げた2、3の写真を見てもらえばわかるように、溜息がでるほどに、美しい。とくに見返しが日本橋なのだ。以来、鏡花といえば雪岱(せったい)で、新派の舞台の大半も雪岱が手がけた。
 2年前、美輪明宏さんとNHKの番組で対談したときは、ぼくのほうで資生堂から借りた雪岱の墨絵の本物をスタジオに飾ってもらい、二人でそれを褒めあげた(雪岱はいっとき資生堂意匠部に所属していた)。それほど雪岱は鏡花の機微情緒を切り上げて、それを絶妙な線やら空間に、つまりは「ほか」に移す天才だった。

『高野聖』

『日本橋』見返し 雪岱画

 その雪岱の鏡花感覚がもっぱら『日本橋』に出ていたことは、もっと知られておいてよい。
 だから『日本橋』は雪岱の絵のように感想することが、まずは前提なのである。詳しいことは星川清司に名著『小村雪岱』(平凡社)があるので、それを読まれるとよい。
 だいたい雪岱は幼いときに父を失って、16歳のときに日本橋の安並家に引き取られた境遇で、その安並家というのが歌吉心中のあった家だった。鏡花が東京のなかで一番好きだった日本橋檜物町あたりは、雪岱にも懐旧のかぎりの界隈だったのだ。

 しかし、いうまでもないことだが、鏡花は雪岱の絵から『日本橋』を書いたわけではない。芸者の日々や花街を書きたかったのだ。紅燈の巷に流される男女がモチーフなのである。
 その風情は、吉行淳之介が『原色の街』や『驟雨』を書いた理由とは、まったく違っていた(吉行の意図については第551夜に書いてある)。鏡花にとっては、芸者こそは幻想の起源であり、人生の原点であり、憧憬の根拠律動なのである。ハイデガーなのである。
 その芸者のことをこそ、書いておかなくてはならない。すでに鏡花ファンにはよく知られていることであろうが、いささか回りまわった消息をのべて、感想としてみたい。

 桃太郎という。芸者がいた。
 明治32年のこと、紅葉主催の新年宴会が神楽坂の座敷で開かれていた。硯友社の一同が集まった。その座敷に顔を出したのが18歳の桃太郎だった。
 鏡花は26歳、すでに金沢から上京して、紅葉を訪ねて翌日から玄関脇に住みこみを許されて書生となり、博文館の婿養子の大橋乙羽のもとで日用百科の編集を手伝いがてら、早くも傑作の兆しなのだが、短編『夜行巡査』や『外科室』を書き終えていた。このデビュー当時の鏡花は、川上眉山の『書記官』と一緒に“観念小説”と名付けられていた。鏡花は気にいらなかったろう。
 が、その前に紅葉との連名で脱稿発表していた『義血侠血』が、明治28年、川上音二郎の一座によって『滝の白糸』という外題として上演されて、それが評判となってからは、周囲の鏡花を見る目がやっと変わってきていた。
 こうして23歳、『化銀杏』と『照葉狂言』を書く。23歳でよくもこんなことが書けるものだと驚くが、ここに鏡花の原点がすべからく出来(しゅったい)した。

 『化銀杏』(ばけいちょう)は、鏡花をあまり読んでいない者が最初に鏡花を知るにはもってこいの作品である。
 少年を愛したお貞が「一体、操を守れだのなんのと、掟かなんか知らないが、さういつたやうなことを決めたのは、誰だと、まあ、お思ひだえ」と言いながら、恋の自由を説くあまり、自分がながらく縛られてきた夫を刺してしまうという筋立てだ。
 ラストシーンに金沢の町に覆いかかるお化け銀杏がふたたび出てきて、それがふわっと銀杏返しの黒髪にダブるという、なんとも凄い映像感覚を見せていた。

 もうひとつの『照葉狂言』は、さっきも書いたが、主人公は早くに両親を失った貢という美少年である。北陸の暗い街に生まれて、薄闇の中の歌舞伎女優に憧れた鏡花自身の少年期の日々が、この作品の前半で描かれる。
 中盤、そこへ旅の一座「照葉狂言」がやってきて、舞の師匠が貢を可愛がる。この可愛がりかたが妖しくて、男女の交わりなどではなくて姉弟の戯れなのであるのに、それがかえってエロティックで、ぼくは最初にこれを読んだときはどうしようかと思った。緋色の鹿子の布など胸に温めたり、口紅の濡色などが乱れとび、女師匠は小稲だ重子だ小松だのにかしずかれて、この女と女の妖しさにも目がちらついて困ったものである。
 それが襖ごしの声をともなうから、なお、いけない。「丹よ」「すがはらよ」などの声が洩れ、すべてが露見を怖れるかのように、なんだか大切なことだけが憚られているかのように、読める。
 鏡花の、この隠して伏せてはちょっとずつ開く手法は、その後はさらに粋にも、さらに濃艶にもなっていく。
 後半、こうして一座に身を投じた貢に8年の月日が流れて、いまは狂言・仕舞・謡曲の一人前、故郷に錦を飾る日となった。貢はかつての住まいの近くに仮小屋を拵え、興行をする。ここで昔日の人々の因縁ともいうべきが次々にめぐってきて、物語は貢のもとにいっさいが押し寄せる。
 そこへ、野良猫が血まみれの鳩を屠って咥え去っていくという鮮烈な場面が入ると、あとは「峰の堂」のラストは霧に包まれた貢の心を描いた名場面――。
 こんなことを書いていてはいっこうに話が進まないが、この『照葉狂言』でいったん頂点に達した鏡花が、ついに因縁の回りまわった神楽坂の座敷で芸者の桃太郎に出会ったのが、このあとの鏡花の作品にも人生にも決定的だったのである。

 桃太郎の本名は伊藤すずという。
 すずは鈴でもいいのだが、これは鏡花が10歳のときに亡くした母の名でもあった。
 すでにどこにも書いてあることだから詳しいことは省くけれど、鏡花の亡母への思慕といったら尋常じゃなかった。12歳で松任の「成の摩耶祠」に詣でたときに、摩耶婦人に母を重ね、鏡花がその後は死ぬまで摩耶信仰を捨てなかったこともよく知られている。
 その母すずが芸者桃太郎のすずとして、たったいま、神楽坂に舞い降りた。しかも紅葉が座敷の中央に端座する硯友社の新年の宴の夜である。
 鏡花は桃太郎にいっさいを感じる4年をおくる。二人は同棲をし、それを紅葉はひどく叱って、鏡花は何よりも尊敬していた紅葉の言葉にさすがに動揺するのだが、その直後に紅葉は死ぬ。
 結局そのあと、二人は結婚、鏡花はついに「母なるもの」と「摩耶なるもの」を、つまりは母と菩薩と雛と形代を、芸者桃太郎の裡に発見できた。
 こうして鏡花は、柳暗花明の機微人情の大半を、母であり恋人であり妻である芸者桃太郎から、肌でも言葉でも脂粉でも、微細に知ることになったのである。そして、この柳暗花明の芸妓がらみの機微人情のいっさいが、『湯島詣』『婦系図』『白鷺』『歌行燈』をへて、鏡花の42歳に花柳情緒として結晶したのが、『日本橋』だった。


 哀切、水よりも清いという。鏡花はこの哀切を信じて(というより信心して)、作品を書いてきた。
 ところが、『歌行燈』を発表した明治43年(1910)は、学習院の青年たちによる「白樺」の創刊があり、翌年は平塚雷鳥の「青鞜」と堺利彦・大杉栄の「近代思想」の創刊が加わって、明治天皇の崩御以降の時代はそのまま一挙に、自然主義やリアリズムの波に覆われていった。そのあとは大正デモクラシーである。
 芸者を描いている作家なんて、啄木の言う「時代閉塞の状況」には、あわなくなってきた。鏡花は時代遅れの作家となり、そのような烙印も捺されるようになった。
 ここで鏡花がたじろいでいたら、その後の鏡花はなかった。けれども鏡花は信念を変えなかったのだ。むしろあえて、哀切に芸者の「いさみ」を加えていった。
 これには反省もあった。明治末期に書いた『白鷺』では、芸妓小篠が哀切の立ち姿をもちながら日本画家の稲本淳一にあまりに尽くしすぎ、『歌行燈』では桑名の花街を描きながら、お三重をあまりに哀切のままに描いた。つまりは、もっともっと芸者や遊女の本来を書き切ればよかったという反省だ。

 こうして大正3年に発表された『日本橋』は、かつて玉三郎が演じて唸らせたお孝をはじめ、清葉、お千世らをずらりと並べ、芸者尽くしともいうべき反撃に出た。
 その生きざまと気っ風を、濃くも、潔くも、勝ち気にも描いてみせたのだ。その「いさみ」はお孝の次の言葉に象徴されている。とくに最初の一行と最後の一行は、玉三郎の名セリフともなっている。かつてなら喜多村緑郎や花柳章太郎や水谷八重子、だった。

  雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日。
  同じ栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)を放して、
  巡査の帳面に、名を並べて、女房と名告つて、
  一所に参る西河岸の、お地蔵様が縁結び。
  これで出来なきや、日本は暗夜(やみ)だわ。

 これで出来なきゃ日本は闇だわと、芸者の啖呵に言わせたところが鏡花なのである。
 鏡花は切り込みたかったのだ。どこへかといえば、社会を自然主義に捉えるなどという野暮な連中に切り込みたかった。実際にも鏡花は書いている、「自然派というのは、弓の作法も妙味も知らぬ野暮天なんじゃありませんか」。
 これを、鏡花が社会から逃げた姿勢などと思ってはいけない。鏡花は社会をむしろ逆悪魔に描いてこそ、社会になると考えていた。その悪の入れ方もたえず壮絶で、『日本橋』では赤熊をお孝が好きな葛木の前で刺し殺すという場面にさえなっている。

 これは自然主義リアリズムへの抵抗であり、反逆なのである。それも色街からの抵抗である。それもデラシネとしての反逆ではない。そこに本来の「母」がひそむという反逆だった。
 ただし、鏡花一人の反逆ではない。鏡花とともに闘う者があらわれた。永井荷風が『新橋夜話』を明治45年に書いて、鏡花をよろこばせたのであった。
 荷風はフランスから帰って、江戸情緒に耽ることこそ日本文芸の赴くべきところであることを実感していた。そこは鏡花のように、最初から金沢や神楽坂の脂粉に馴染んできたのとは違っていたが、しかしかえって、アメリカやフランスを知る荷風が柳暗花明の機微人情に没頭することは、鏡花にとっては勇気百倍だったのである。
 ちなみに、この鏡花・荷風の花柳界好みは、その後は久保田万太郎や水上滝太郎や川口松太郎らに続いていった。なぜかみんな“太郎”が付いている。

 『日本橋』は、発表の翌年の大正4年、本郷座でお孝を喜多村緑郎が、葛木を伊井蓉峰が、お千世を花柳章太郎が演じて芝居になった。小村雪岱が舞台美術を手がけた。
 これがきっかけとなって、鏡花は新派の通り相場になっていく。ぼくの父は花柳章太郎・水谷八重子がご贔屓で、ときどき自宅の座敷に招いていたが、いま思い出しても、章太郎・八重子という人はまさに鏡花の行間を、いま抜け出てきたという風情をもっていた。
 
 それにしても、である。日本橋は、いまや醜い町になっていて、見る影もない。
 かの日本橋そのものが高速道路を覆い被されて、喘いでいる。お孝と葛木が出会った一石橋は、ビルとビルとのあいだに押しこまれ、死に体になっている。かつて人形町にいまも店を構える辻村ジュサブローさんと、さんざん今の日本橋の悪口を交わしたことだった。
 これはもはや、鏡花のセリフだけでも日本橋を立たせなくてはいけないということなのだろう。
 芸能花組の加納幸和座長が、こんなことを言っていた。ぼくの『日本橋』のポイントは、葛木が「やっぱり私は、貴女からも巡礼にならなければならない」と言うと、お孝が「たとい、からけし炭になろうとも、燃え立つ心はこの身一つに引き受けます」と答えるところにあるんです。
 よくぞ、芸能花組。この身一つに引き受けた。それなら、そうか、こんなところにハンナ・アレントがいたわけだ。