マルティン・ハイデガー
存在と時間
中央公論新社 2003
ISBN:4121600517
Martin Heidegger
Sein Und Zeit 1927
[訳]原佑・渡邊二郎

 ごくわかりやすいエピソディックな話を二、三案内して、『存在と時間』という、とてつもなく難解な哲学書を柔らかくしておこう。
 まずは、意外かもしれないが、女の話をしておく。
 というのも、ハイデガーの存在学(ontology)は、荒っぽくいえば、存在が存在するということで、こんなことをどうして考える必要があるかと問うたわけである。
 およそ世界に存在しないものなんてないはずだ。宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そんなことをわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、いずれにしても、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、自分という存在を賭けて感じる必要がある。
 このことを実感できる最も身近なことは、むろん虫や星や音楽に夢中になってもいいのだが、時期によっては男と女がどのように感じあえるかということが、最もセンシティブである。とくに若いあいだは、このことに勝る存在の感じ方はない。それで女の話なのである。いや、男の話でもかまわない。

 ハイデガーがその女学生を虜にしたいと切に感じたとき、その女学生は18歳だった。写真を見てもらえばわかるように絶世の美少女だった。ハンナ・アレントである。
 かくしてハイデガーは1924年にフライブルク大学からすでにマールブルク大学に移っていて、そこの哲学教授になったばかり、35歳である。その教室にアレントが来た。
 アレントはただちにハイデガーが「思考の王国を統べる隠れた王」であると見抜いた。またそこには、「中世騎士道物語から抜け出したような意志」があると見えた。が、これだけでは、何もおこらない。ハイデガーも突拍子もなく、ときめいた。ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど、アレントの魅力が飛び抜けすぎていた。ハイデガーはアレントを、アレントはハイデガーを求めあった。むろん不倫だった。
 アレントはこのときのことを、のちに「ただ一人の人への一途な献身」を募らせたと回顧している。
 不倫というのは、すでにハイデガーはエルフリーデという、これもたいへん美しい女性と結婚していたからだ。それでも、ハイデガーはアレントにぞっこんになった。その数年後、『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば、アレントを貪りながら草稿を書いていたといったほうがいい。

 ハンナ・アレントについては、すでに第341夜に『人間の条件』を採り上げておいた。
 ここで最低限に付け加えておくべきは、アレントがユダヤ系であること、ハイデガーと出会う前の14歳のときに、池田晶子の『14歳からの哲学』ではないけれど、はやくもカントやヤスパースを耽読していたこと、16歳になるとギリシア語で古典作品を読んでいたこと、それから、流行の服を着るのが好きな、やけに目立った学生だったこと、とくに緑色を好んだので、学生のあいだで「みどり」と呼ばれていたことなどである。さらに詳しいことを知りたいなら、エリザベス・ヤングブルエールの大著『ハンナ・アーレント伝』(晶文社)を読まれると、よい。
 もうひとつ付け加えておくと、エルフリーデとハイデガーが結婚するきっかけはドイツ青年運動に共感したせいだった。ドイツ青年運動がどういうものかは、第749夜に書いておいた。
 ハイデガーはこのように、自分が苛烈になるときには、そこにつねに異性の存在があったのである。

 最初に男と女のことを持ち出したけれど、むろんハイデガーが世間体を忍んでまで男女の恋愛に入っていったのには、いくつかの背景がある。身体と時代の生い立ちに関しての背景だ。
 ハイデガーは病弱だった。ときどき心臓発作がおこる。それが25歳くらいまで何度か間歇的に続いた。
 生きようとすると、死にかける。ずっと病気なのではなく、間歇的であることが気になる。このことがハイデガーの思索に微妙に影響を与えた。そして、どちらかといえば、“彼岸的な生の価値”のほうに思想的関心が動いていった。
 このことはハイデガーの生い立ちとも少なからぬ関係がある。ハイデガーは南ドイツの田園地帯(バーデン州)のカトリック教会の堂守の子である。かなり質素な生活だったようだ。それを伝来の信仰の日々が支えた。
 生まれはパリ博でエッフェル塔が立った1889年で、「千夜千冊」に採り上げた人物でいえば、ハッブルトインビーヴィトゲンシュタインコクトーとまったくの同い歳、いわゆるベルエポック世代だ。
 しかしこの世代は、等し並みに第一次世界大戦で青春の蹉跌を受ける。兵士だけで900万人が死んだ。ベルエポックはヘルエポックになった。ハイデガーのばあいはそこに心臓疾患が加わった。
 これで、聖職の道が断たれた。19歳でイエズス会の修道院に入るのだが、身体の疾患でそこを出た。ドイツは戦争の渦中にある。ハイデガーはしだいに「死を通じて生へ」(per mortem ad vitam)という思考に傾いていく。彼岸から此岸への転戦だ。
 かくてハイデガーは修道院からフライブルク大学に転じた。神学は哲学に変わった。

 死をつきつめて考えるということは、存在の究極に思考を致すということである。しかしながら、生きたまま存在の究極としての死を考えるというのはいささか妙なことで(生と死を天秤にかけている)、この思考には何か別の回路が必要だった。
 それをハイデガーは、当初は「擬死化の技法」(メレテ・タナト)が必要なのかと考えてみたのだが、どうもそれだけではすみそうもない。

 すでにニーチェによって「神の死」が宣告されていた。ドイツの知識人はみんなそのことが気になっていた。が、いったい神の存在に代わるものなんて、あるのだろうか。
 どうみても人間しか残らない。そこでハイデガーは人間という存在を考える。けれどもそれまでのような彼岸の目だけでは、人間は掴めない。むしろ、いまだやってこない「事実ではない死」よりも、どうやら、いまある「生の事実」の“裸”の現実ほうが重要になってくるようだ。
 もっとも、その「生の事実」だって、ふだんはぼうっとしたままになっているか(生の朦朧性)、あるいはそこに埋没した耽落(Verfallen)のままにある。だから「生の存在」を感じるには、死や否定や放下や負といった回路をいったん媒介にしたほうが、感じやすいということになる。そこから見つめなおした人間という存在こそが、新たにハイデガーの相手にすべき存在問題だった。
 この回路をへて残った存在というものが、有名な「現存在」(Dasein)という新概念として、次に投入されることになっていく。

 こうしてハイデガーは「存在と死」から、「存在と生」という方向へ進んだのである。その時期にハンナ・アレントがかかわったのだ。
 ハイデガーがアレントと不倫関係になったことと『存在と時間』が関係ありそうな書きっぷりをしたかもしれないが、まさにその通り。おそらく深い関係がある。互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい。そのことを証明する気はないが、そんなことはすぐに見当がつくことだ。最近では、やっと刊行された二人の書簡集がそれを証している。
 ただし、ハイデガーはのちにナチズムを称揚する態度を示して、たとえば1933年のフライブルク大学の総長演説では、国家社会主義的な国家の行方と教育の方針を重ねたりした。のちにハイデガーが「わが生涯最大の過誤」と苦痛に満ちて反省したことである。アメリカに亡命していたアレントは、そういう師を非難した。
 アレントだけではなく、ハイデガーはマールブルク大学の次に母校のフライブルグ大学の哲学教授になるのだが、そこで最初の助手を勤めたヘルベルト・マルクーゼも師のナチズム参画を非難した。マルクーゼについては第302夜に『エロス的文明』を紹介しておいた。
 ハイデガーがいっときナチズムに共感を示したことについては、このところずいぶん問題になり、それに関する研究もだいぶん出揃ってきた。ヴィクトル・ファリスの『ハイデガーとナチズム』(名古屋大学出版会)はそういう一冊だ。帯に「逸脱か、本質か」とある。
 ただし、このような出来事は、むろん『存在と時間』を書いたのちのことになる。『存在と時間』の前半部を書きおえてから、ドイツは戦争の悲劇を乗り越えて、ヒトラーによる「異胎」に向かっていったのだ。

 これで、初期のハイデガーをめぐる重要人物をあらかた紹介したことになるのだが、もう一人、重要な影響を与えた人物がいる。エドムント・フッサールである。
 これもわかりやすくするため、エピソディックに紹介しておく。

 神学から哲学に移動したハイデガーは、大学に入ってまもなくフッサールの『論理学研究』や『算術の哲学』を図書館から借り出して、読み耽っている。そのフッサールがフライブルク大学にゲッチンゲンから転任してやってきた。
 フッサールはすでにゲッチンゲン時代に「現象学的還元」という方法を“発見”していて、これによって、われわれのふだんの意識においてなんとなく働いてしまっている世界との信憑関係を遮断して、超越論的な意識をあからさまに取り出すことができるというようなことを、提案していた。これが『イデーン』Iという成果になった。
 着任後のフッサールはハイデガーを気にいるが、フッサールがゲッチンゲンから連れてきた弟子の女性エーディット・シュタインはハイデガーを気にいらない。大学なんて、いつもこういうことが渦巻く社会なのである。
 ちなみにフッサールという哲人はかなり愛国的な人物で、夫人が反戦を主張する独立社会民主党(その左派がいわゆるスパルタクス団、のちのドイツ共産党)を支持すると、のべつ夫婦喧嘩をするようなところがあった。次男が戦死していて、その悲痛との対峙もかかわっていた。

 一方、ハイデガーは第一次世界大戦のため戦時勤務と国民軍観測隊に編入したので、師弟の研究活動はいったん中断、その後、復員してやっとフッサールの第一講座の助手となった。
 ここでハイデガーは現象学の方法をあらためて学び、「概念構成以前」とか「体系構成以前」という方法を思いつく。“現在”“いま”“ここに”にいるという立場をもって、現象学をやろうとした。これはさきほど書いた「生の事実性」にもとづく現象学を試みるということにあたっている。のちにアメリカン・ヒッピーやニューエイジが好んだ“be,here,now”とそれほど変わりない。
 ただ、ハイデガーはこういう方法による現象学的思索を難しく「根源学」(Urwissenschaft)と呼んで、根源的な体験をすることを「原体験」とか「環境体験」と名付けた。

 根源的な原体験といったって、これだけでは何のことかわかりにくいだろうが、ハイデガーが現象学の定義として使った次の説明から察すれば、多少はわかりやすい。
 ハイデガーは現象学を、「みずから示すものを、それ自身でみずからが示すとおりに、それ自身のほうから見えるようにすること」というふうに捉えた。ようするに、「それ」を最低限の方法で示すことによって、かえって「それ」が「それ」自身を示すようにすること、これを重視したのだ。実質的な叙述には頼らずに、暗示的にほのめかすといってもよい。それがかえって根源的な体験を、それを示した者に維持させるのである。
 しかし哲学では、ほのめかしを文芸するわけではないから、ここに最低限の概念をポンと入れこむ。たとえば「現存在」とか「世界内存在」というふうに。

 こういう最小限の概念投入を、ハイデガーはあまりいい言葉ではないが、「形式的指標」(die formale Anzeige)の投入だとみた。指標が必要だと感じたのだ。
 こうしてポンと投入された「それ」は、“それ”自身として示されただけなので、あとは「それ」としての開示を“それ”がしていくしかない。なんだか変な方法に思われるかもしれないが、これがハイデガーの異能による“発明”だったのである。
 この方法はぼくも以前から大好きな方法で、ぼくのばあいは、たとえば「遊星的失望」とか「最も過激なフラジリティ」とか「分母の消息」とか「負の山水」といった言葉で投入してきた。
 こういう言葉は、それ自体としては意味が掴めないようになっていて、にもかかわらず、その言葉が或る文脈や或る場面に入ったとたんに、劇的に動き出すようになっている。ハイデガーは、この投入法に気がついたのだ。

 ハイデガーにとってはこのような方法は、従来は健全だとおもわれてきた二分法による思考(昼と夜、善と悪、男と女、国家と個人など)を、一挙に宙づりにして、そこから脱出して新たな思考に入ることを、つまりは根源に入ることを意味していた。
 あとでも少しふれるが、これはどこか「不在による現前」という方法の可能性を開いたものだった。
 なぜなら、「それ」は最小限にまで穿たれることによって、かえって燦然と輝いてくるからだ。ぼくの言葉でいえば「負の方法」の自覚ということになる。

 さて、こんなような「存在の現象学」に熱心になってきたハイデガーは、すでにフッサールの現象学からしだいにはずれていた。師と弟子は、エンサイクロペディア・ブリタニカの「現象学」の項目執筆を前に、意見の対立が目立つようになる。しかし、フッサールの『内的時間意識の現象学』はハイデガーの編集によるものだった。
 ハイデガーはマールブルク大学の哲学教授に着任し、そこで女学生ハンナ・アレントにぞっこんになる。このあとフライブルク大学に戻るまでのあいだが、『存在と時間』を苛烈に執筆した時期になっていく。
 ということで、やっと『存在と時間』の説明に入っていくことにする。

 80歳になったハイデガーが若き日々の『存在と時間』をふりかえって言った説明がある。きわめて端的なもので、「あれは、思考の場所の革命だった」というものだ。
 まさに、そうなのである。
 近代哲学というものは思考を意識の中にもちこむことによって成立した。デカルトのコギト(自己思考・意識主体)とはそういうことだ。ハイデガーはこれを嫌って、意識が慣れすぎた場所から、ふいに「べつ」や「ほか」に移すための方法を開示した。その瞬間移動の中間に“裸の場所”があり、そこにポツンとおかれた存在の“裸の姿”が、いわゆる「現存在」(存在を理解するための特異な存在者)なのである。
 この現存在はそのようにポツンとおかれることによって、自身が次の開示を遂げる可能性をもっている。つまり、そのような現存在は、そもそもが「世界内存在」(In-der-Welt-sein)になりうるのである。

 この稿のはじめに、「宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前。そんなことをわざわざ哲学するには、世の中の存在というものをいったん否定するか、まるごと許容する以外はない。いずれにしても、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、自分という存在を賭けて感じる必要がある」と、書いた。
 この「存在を賭けて感じる」ための媒介的な拠点が、現存在というギリちょんに剥いだ人間の姿なのである。

 さて、以上のことは、だいたい見当がついただろうか。ついたとして、話を進めるが、世の中の存在として、もうひとつ素材にあげなくてはならないことがある。
 それは、宇宙や杉や人間や病原菌やテーブルが存在するとしても、では、時間はどうなのか。思い出や音楽は存在するのか。それらは存在といえるのか。恋や食欲や関係は存在するといえるのか、そういう問題だ。
 これはなかなかの難問で、ハイデガーもアタマを悩ました。『存在と時間』の悩ましさは、このあたりかをなんとか切り抜けようとする“もがき”からくるといってもいい。しかし、ハイデガーはここでも驚くべき執念と異能をもってこれを踏破した。
 では、その踏破ぶりを、一気に駆け抜けて短絡してみたい。すでにそのようにしてきたが、ハイデガーが最小指標として投入した概念にはドイツ語がつけてある。

 ハイデガーは『存在と時間』を書く前に、すなわちハンナ・アレントと密(蜜?)になっていたころ、『仮面論』『根拠とは何か』を書いて、そこで「世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ」と指摘していた。
 つまりハイデガーがいう「世界」は世界劇場なのである。その舞台は、それを知ったときには、すでになんらかの演劇が進んでいるというような、そういう舞台世界のことをいう。われわれは自分に気がつくと、そこにいる。
 ということは、われわれは当初から共世界的(mitweltilich)で、存在そのものが世界内存在で、ようするに、はなっから世界制作的だということになる。
 こうしてハイデガーは、すでに存在は世界(世界劇場)に投企(Entwurf企投)されていると考えた。
 ただし、この投企に気がつかないでは、これは埋没であり、耽落(Verfallen)である。ちなみに、このヴェルハーレンというドイツ語の概念は、ハイデガーがけっこう気にいっていた埋没概念で、ぼくにはすぐに六本木のディスコが思い浮かぶ。
 ともかくも、このようにすべてを「世界内存在」としてみれば、ここに主体と客体というような二分法をもちこむのは、まったくムダになってくる。それならまだしも世界と人間の関係を、スケーネー(場面)とドラーマ(活動)とペルソナ(役柄)に分けて見たほうがいい。誰だって、このいずれかの渦中にいるはずだ。
 そこで問題は、この“降りられない舞台”で、いったんは耽落した自身が、いよいよ何にめざめていくかということ、このことになる。

 世界劇場においては、われわれは“役柄の自己”から始まっている(たとえば氏名をもっている、学校の生徒だ、居住の住所がある、肩書がついている)。
 それゆえ、この役柄を耽落から出て、捨てるにあたっては、そこに待ち構えている“本来の自己”をちゃんと覚悟しておかなくてはならない。だって本来性というものは、急に剥き出しに露頭してくることもあるからだ。それができないようならば、まだしも役柄を続けていたほうがいい。
 つまりは、耽落から一歩めざめれば、そこは役柄がはがれて裸の存在が見え隠れする。このことを知っていなければならない。
 問題は、この自分の奥にある裸の自己がどの程度のものかということだ。インチキかもしれないし、見るに堪えられないかもしれない。
 こうしてハイデガーは、この裸の自己をそれなりに覚悟しておくことを、存在学(存在論)としたわけである。そのためには、ハイデガーは最低でも、二つのことが必要になると見た。

 第1には、その本来の自己に先立つ思想をもつことだ。突然に裸の自己を見ようとしたって、うまくいくわけがない。がっかりするか、動物的な本能に負けていくか。そのどちらかだ。
 そこでハイデガーは「自身に先立つこと」(Sich-vorweg)を第1にあげた。あらかじめ「それ」に先立つようにすることだ。
 これはどういう意味かというと、「それ」としての本来の自己は、役柄の自己からすると「外」にあるものなのである。「ほか」や「べつ」なのだ。だから、「それ」をあらかじめ凝視していなければならない。そして、その「外」へ脱自していくことを惧れないようにしなくてはならない。
 第2に、そのように「それ」を想定できるのなら、その本来自己と役柄自己とのあいだで、自由に「自身の取り戻し」(wiederholen)をすることを勧めた。
 これは、もはや役柄に惑わされない存在を自覚できるということにあたっている。
 ざっとこんな順番でハイデガーは、世界内存在における自己の二重性ともいうべきを、すばやく往復するような存在学を提示した。

 さあ、そうなると、この世界劇場での時間というものは、演技上の時間を本来の自己の時間が刻一刻という単位で、如実させているということになる。また、その逆もおこっているということになる。その入れ替わりは、まことに速い。
 この存在のすばやく入れ替わる二重性に関与している時間こそが、ハイデガーの時間論の中核にある「刻一刻性」(Jeweligkeit)、あるいは「刻時性」(Zeitlichkeit)なのである。
 『存在と時間』というタイトルの「時間」には、このような特色があったのだ。ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間なのである。
 ところで、このZeitlichkeitの“Zeitlich”というドイツ語には、そもそもが「はかない」とか「無常の」という意味をもっているということには、もうすこし注目が集まっていい。ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社)では、この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って「まにまに」としたものだ。

 これでおよその見取図が見えたと思うのだが、これらをまとめていえば、ハイデガーの存在学では、現前が不在であり、隠れることが現れることなのである。存在とは、このような現出の様式をもっているということなのだ。
 ということは、存在には、究極の依り所なんてものはないのだということでもある。存在の起源や存在の理由をもちだそうにも、もちだせない。それが存在なのだ。

 なんという変なものだろうか。
 しかし、これこそは稲垣足穂が黒森の哲人ハイデガーに憧れた「ハイデガー存在学の無底性」という、まことにカッコよい考え方なのだ。
 存在には底がない? そうなのである。存在は底なしなのだ。いいかえれば、存在が底なのである。これは『存在と時間』のひとつの結論ともいうべき提唱である。ハイデガーはこれをもって「存在の途方もない不可解」とも言っている。
 しかし、いったいこれはどういう意味なのか。ここは難しく考える必要はない。たとえばペットボトルには底がある。その底で「生茶」や「十六茶」が支えられている。けれども、そのペットボトルの底自体には、底はない。バスの終点はたしかに終点である。けれども、その終点のバスストップそのものには、終点がない。
 人間存在も、そのように底がない。それこそ、無底という底自体が発現した存在なのである

 存在とはそういうものなのだ。そのような存在の赤裸々の事実を知ることが、役柄を捨てても平ちゃらに本来の存在に向き合える方法なのである。
 これをオントロギッシュ(存在論的)な方法という。「現存在」という人間の特異な存在性にかかわって人間存在を考えることをいう。これに対してモノを取りのけると、そのモノの行方ばかりが気になるような思考を、オンティッシュ(存在的)な考え方という。オンティッシュな見方には存在の開示という根本動機が欠けているわけだ。
 ハイデガーはあくまでオントロギッシュであろうとし、これを「存在関与構造」(zu-Sein)とも呼んだ。

 だいたい見えてきたと思うが、ハイデガーの存在学は喚起哲学なのである。投げかけ、なのだ。どこで喚起するかといえば、「近さ」(Nahe)で喚起する。また「あたり」(Gegend)で喚起する。
 喚起してどうするのか。そこへ「放下」(Gelassenheit)すればいいんじゃないかと言う。
 この「近さ」「」あたり」「放下」については、ここでは説明を省略するが、ハイデガー選集第15巻に『放下』(理想社)があり、また、短文ではあるが、『遊学』(中公文庫)に「無の存在学」を通したハイデガーの一端、すなわち関心(ソルゲ)の連続体としての存在にかかわる「差異の哲学」がどういうものであるかを、スケッチしておいたので、それらを読まれたい。
 そこではぼくは、関係ABが存在の本質だと書いた。文末にリルケの次の言葉を引いておいたのも、参考にしてほしい。「われわれは、彼女よりも彼女の持ち物のほうに存在の本意を知ることがある」、というやつだ。


 大急ぎで『存在と時間』の近道(猫道?)のようなところを走ってみた。むろんこれだけでは、ハイデガー存在学の部分要約にもなっていない。とくにハイデガーの後半期における思索について、何もふれはしなかった。
 そこでは、世界の組み立ての構造(ゲシュテル)についての想定があって、ハイデガーが世界ニヒリズムと根本対決を迫っていく日々がある。必ずしも器用でなかったハイデガーが、さらに不器用にこの対決を試みる姿は、ぼくにはどこか痛ましい。ヘルダーリンは熟知しても、清元や新内に「東洋の無」を窺い知ることができなかったハイデガーは、どこか根本的な寂寞の微笑から、遠ざけられていたようにも見えるのだ。
 そういうことはあるのだが、またナチズムに触れて感染症に罹ったハイデガーもいたのだが、ぼくはハンナ・アレントと燃えつつ綴った『存在と時間』のハイデガーの投企と放下にこそ、あいかわらず関心を寄せている。
 また、そのようなハイデガーを、ハンス・ゲオルグ・ガダマーやエマニュエル・レヴィナスが何度も描きなおそうとしつづけたことに、いまは時間をさいている。

 マルティン・ハイデガー。黒森の哲人。いまだその本懐がとげられない存在学の人。
 ぼくとしては、もう少し深入りしたかったところだが、この先の話は、明日の夜の意想外の一人の日本人に託すことにする。

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