カール・グスタフ・ユング
心理学と錬金術|I II
人文書院 1976
ISBN:4409330071
Carl Gustav Jung
Psychologie und Alchemie 1944
[訳]池田紘一・鎌田道生

 ずっと以前のこと、「フロイトとユングの心理学の違いって何ですか」と何かの会で読者から聞かれたことがある。「うーん、そうねえ。ハリウッドの映画でね、カウンセラーが患者を長椅子に寝かせていたらフロイト派、患者と椅子を向き合わせて腰掛けながら話していたらユング派かな」と答えたことがあった。
 質問者は不満そうだった。その後、このだいそれた冗談を、これも何かの会のおりに河合隼雄さんに言ってみたら、このユング派の領袖は「松岡さん、そりゃ御名答だねえ」と大笑いした。河合隼雄という人はよほどの大物か、もしくは無責任な人なのだろう。
 それにしても、だいたいユング心理学など、人に聞かれたからといって急いで説明したり解説するものではないのである。ユング心理学の本質があるとすれば、それは「布置」(コンステレーション)なのだ。

 1923年にユングの母親が死んだ。ユングはチューリッヒ湖畔のボーリンゲンに土地を入手し、そこに塔を建てはじめる。自分で石を積むようにもした。古風な塔である。ユングは休日をできるだけそこで過ごし、思索の成熟を待った。1955年に夫人のエンマが死んだときも、塔に手を入れ拡張し、そこに行きたがった。それにしてもなぜ塔なのか。
 1898年、23歳のユングにちょっとした事件がおこる。古いテーブルがバーンという音とともに割れたのだ。10日後、今度は食器棚の中のナイフの刃が4つに割れていた。やがてユングはこの奇妙な現象が従妹のヘレーネの霊能力と関係があると確信するようになる。ユングはヘレーネが霊媒になっている降霊会に頻繁に出入りするようになった。それにしてもユングはどうしてオカルトに走ってしまうのか。
 その後もユングはUFOに関心をもったり、グノーシス主義に心酔したりする。1913年にフロイトと訣別することになったのも、ユングのオカルト好きが原因になっている。これもちょっとした冗談だが、性欲に関心をもっているのがフロイト派、オカルトに関心をもっているのがユング派だ。

チューリッヒ湖畔のボーリンゲン ”塔”

チューリッヒ湖畔のボーリンゲン ”塔”

 ユングの父親はプロテスタントの牧師で、言語学の博士号をもっていたが、慢性的に不満をかこっているようなところがあった。神経質でもあった。祖父はバーゼル大学医学部の教授から、のちに総長になっている。
 それだけならユングは名士の生まれだったということだけなのだが(その後は没落して貧しい一家になっていく)、この祖父はゲーテの私生児だという噂もあって、さらにフリーメーソンの会員だとも言われてきた。母親もバーゼル地方の牧師長の娘で、その家系には何人かの霊能者がいたらしい。
 こうした子供時代の生活環境のなかでユングが何を感じていたかというと、おそらくはイエス・キリストを恐怖していたか、さもなくば疑問視していたのではないかと思われる。
 聖餐式で葡萄酒をイエスの血として飲み、パンをイエスの肉体として食するというようなキリスト教に、かなり不気味なものを感じていたにちがいない。それなのに父親がキリストの存在を信じていたフリをしていたのが、ユングの疑問だったのだ。
 こうして少年期のユングは、村人たちが制止するのも聞かずに水死体を覗くとか、洞窟にファロス(男根神)が鎮座していることに興味をもつような、そして、友人に突き飛ばされたというだけで半年もの不登校をしてしまうというような、そういうトラウマを抱える少年になっていた。
 のちにユングは、自分の中には「牧師の息子」という第一の自分と、「古い時代のことを知っている老人」という第二の自分がいたと言っている。ユング心理学の本質は、だいたいこうした二つ以上の自己の「対話」から成っている。その片割れが「古い塔」であって、「オカルト」だった。

 1900年は、プランクの量子定数の発見や新渡戸稲造の『武士道』発表をはじめ、いろいろの意味で象徴的な年だった(それに対して2000年にはロクなことがおこっていない)。フロイトの『夢判断』が刊行された年としても象徴される。
 フロイトの著書に最も影響をうけたのがユングである。二人はすぐさま文通を始め、ユングがフロイトに会うためにウィーンに行ったときは、玄関で顔を会わした瞬間から旧知の間柄のように13時間も話しこんだ。二人をここまで結び付けたのは人間の心の奥に動く「無意識」の存在である。
 しかし、ユングにとってのフロイトは「擬似的な父親」との逢着でもあった。こういうことは歳の差のある研究者仲間ではよくおこることで、代父の役割をもてない研究リーダーなど、いないといってよい。1909年、二人はアメリカのクラーク大学に招かれ、1カ月の日々を共有する。蜜月といってよい。けれどもこのとき、フロイトはアメリカがすでに巨大な誤謬に陥っていると感じたのだが、ユングは混沌の魅力を感じていた。
 結局、二人のアメリカ旅行がアメリカ社会に精神分析学を植え付けることになり、しかも二人によって世界の心理学界が動き出すことになる契機となったのだが、そこで二人はしだいに衝突していくことになる。ユングがフロイトのリビドー論を批判したのが亀裂の直接の原因である。意外にも(意外でもないが)、フロイトは怒りに震え、ユングはそこに自分自身の中に蹲っていた父親コンプレックスを見る。1913年、ユングは絶縁状を書く。
 ユングがしばしば幻覚を見るようになるのは、このあとである。そこにはときどき老人エリアと盲目の少女サロメが登場する。

 ユングは学者というよりも、一個の「生きた深層心理」あるいは「断絶のない連想心理」そのものだったというべきだろう。これは『ユング自伝』(みすず書房)を読むと、すぐわかる。
 したがってユングという一個の人間像はそれ自体が精神医学の偉大な対象ともいうべきで、それはそれでたいへん興味深いのだが、それ以上に興味がそそられるのは(それ以上に大事なのは)、ユングが「集合的無意識」や「元型」(アーキタイプ)といったコンセプトにもとづいて、「変容」のプロセスに分け入ったことである。またまたフロイトとユングの比較でいえば、症例の定位的な解釈の“深化”に才能を発揮したフロイトにくらべて、ユングはつねに症例そのものの解釈の“変化”に目を向けたのだ。
 たとえばわかりやすいところでは、男にひそむアニマ(男性の中の女性性)と女にひそむアニムス(女性の中の男性性)の変容である
 男はその内なる女性性を、①肉体的なアニマ、②ロマンティックなアニマ、③スピリチュアルなアニマ(たとえば聖母マリア志向や女神志向)、④知的なアニマ(モノセクシャルな女性)というふうに変容させる。これに対して、女は自身の内なる男性を、①力のアニムス、②行為のアニムス(行動力としての男性感覚)、③言葉のアニムス(表現された男性性)、④意味のアニムス(意味の指導への憧れ)というふうに変化させていくという。
 当たっているかどうかは(あまりに常識的な気もするが)、問題ではない。ユングはこうした「変容」が個人の中の心理に影響を与えているとともに(これについては『変容の象徴』筑摩書房を参考にするとよい)、むしろ文化そのものの本質的動向にあらわれるとみた。元型や集合的無意識のはたらきは文化そのものの変容にあらわれているとみた
 ぼくがユングをさかんに読み始めたのも、このことに惹かれてのことだった。

「ポリフィロの夢」

「ポリフィロの夢」

 本書は、ぼくが杉浦康平さんに頼まれて『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社「現代のグラフィックデザイン」第1巻)の文章を書いていたころに、平行して読んでいたもので、そのときは同時にテームズ&ハドソン社の“Art Imagination”シリーズや藤沢衛彦の図説民俗学シリーズを片っ端から調べていた。そんな時期の読書である。

 ユングはこのなかで新しいことを加えようとはしていない。いったいイメージやイマジネーションがどのように変容するかということを、錬金術を通して執拗に追いつけている。これにはそうとうに感動した。杉浦さんと試みてみたかったことも、そのイメージとイマジネーションの起源と変容であったからである。逆に名著といわれてきたホグベンの『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』などが(そのほかのいっさいのデザインの本が)、まったく役に立たないことに呆れてもいたものだ。

 ユングが錬金術に関心をもったのは、友人の中国研究者のリヒャルト・ウィルヘルムがマンダラの本(『太乙金華宗旨』)を送ってきてからのことだと言われる。
 ユングはたちまちマンダラと道教(タオイズム)に熱中し、そこから中国錬金術を、そして西洋錬金術に入りこむようになった。東から西へ、なのである。
 正直な感想をいうと、ユングの東洋的神秘に対するのめりこみはあまり当を得ていなかったように思われる。書いていることも、ほとんど参考にならない。そのため、その後にユングやユング派の東洋神秘主義の紹介によって欧米の若い知識人に東洋哲学が入りやすくなったことが、ニューエイジ・サイエンスなどにおける東洋哲学の安直な活用になってしまったわけだった。これはいささか残念なことである。
 しかしさすがに西の神秘主義や錬金術に対する取り組みには、唸らせるものがある。
 ユングは錬金術を調べるなかで、錬金術師たちが「プリマ・マテリア」(第一質料)や「賢者の石」をつねに想定していること、それらがおおむね「ニグレード」(黒化)、「アルベード」(白化)、「ルベード」(赤化)の順番をとって変容すると考えていたこと、そのうえでこれらの変容の結末に、たいていは「輝きとしての黄金の生成」や「理想としての王と王妃の結合」がメルクリウスの蛇のように予定されていることに注目し、なぜこんなような“不可能”がめざされたの、なぜそんなことに“執着”したかに考察の時間を費やしたのだった。

 考察のすえにユングが得た構図は、錬金術のみならずいっさいの神秘主義というものが、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
 このことは「無意識の世界」のサブタイトルをもつ共著『人間と象徴』(河出書房新社)ではさらに一般化されている。
 ユング派の精神医学がもつ治療効果については、ぼくは何も言えない。その知識も体験がないからだ(なかで「箱庭療法」にはコロンブスの卵を感じた)。しかし、ユングが69歳のときの『心理学と錬金術』によってスタートさせた「文化にひそむイメージの変容のプロセス」の析出については、これはもっと評価されてよいと思っている。
 この析出の研究はその後、『アイオーン』『ヨブへの答え』、80歳のときの『結合の神秘』、最後の『現代の神秘』というふうに連打されるのだが、その成果の全貌からは、いまなお低迷しつづけている神秘主義思想や神秘的宗教が入手すべき数多くのヒントがあると思われる。

 ところで、ユングがこのような視点を自在に文化の奥に介入させることができたのは、ユングが個人の無意識の中に「自我の中心」を見ずに、むしろ自我が欲している「補償作用」を重視するという見方を採ったことによるのではないかと、ぼくは思っている。
 それが文化の流れにまで及んで適用されたことは『心理学と錬金術師』から『現代の神秘』に証かされているのだが、このことが現代の思想や宗教にほとんどまったくといってよいほど生かされていないのは、どうしたことなのだろう。
 これは、いまなお思想や宗教を「補償作用」とみなしたくない思想家や宗教家の自我が禍いしている問題なのである。
 たまには、ユングを読むことだ。ユング派のではなく、ユングその人の。もしユングから最も過激な衝撃をうけたかったら『ヨブへの答え』(みすず書房)がいいだろう。ユングの父親への疑問の謎を解きたくなったら、『アイオーン』(人文書院)を読むのがいいだろう。

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