父の先見
ココ・シャネルの秘密
ハヤカワ文庫 1995
Marcel Haedrich & Herve Mille
Coco Chanel Secrete 1971
[訳]山中啓子
日本には世界中の大衆が決してそこまでは手を伸ばさない異常な言葉がいっぱいある。そのひとつが"シャネラー"である。いったい誰がこんな言葉を言い出したのか。
ここで"シャネラー"の登場なんぞを詳しく分析してみる気はないが(それをやれば、なぜ日本人の購買力によってエルメス、グッチ、ヴィトンが販売力の半分以上を確保できているかという事情を解剖できるだろうが)、日本のお姉さん、おばさんたちがシャネラーになったのは1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルの主任デザイナーになってからのこと、それ以前はそんなことはおこりっこなかったはずである。
だいたいいまシャネラーがもてはやしているシャネル・スーツは本来のシャネル・スーツではなくて、1985年の春夏コレクション以降のスタイルなのだ。それにシャネルがプレタポルテ部門を始めたのがやっと1977年なのである。ココ・シャネルが晩年を逼塞するかのごとく送ったパリのホテル・リッツで亡くなったのが1971年だから、6年後のことだ。
それまではシャネルといえばオートクチュールのメゾンのことであった。またシャネル・スーツといえばシャネルレングスという、ちょうど膝が隠れる程度の丈と決まっていた。
著者は「サムディ・ソワール」の創刊者であって、「マリー・クレール」の元編集長である。だからというのではないが、本書はふつうの評伝よりずっとオシャレに、そこにココがお気にいりの椅子に坐って、こちらを向いて早口に喋っているかのように、とてもスタイリッシュにできている。
ふんだんにココの言葉が引用されているのも、類書には見られない特徴になっている。周知のようにココの言葉は勝手なもので、直観に富み、しばしば逆説的である。たとえば、こんなふうに。いささか順番をぼくがいじってある。
☆私は本のように服をさわってみたり、いじってみたりするのが好きなの。
☆私はクラシックなものを作りたい。
☆私はいつもむらなく売れるハンドバッグを、20年前からひとつもっている。みんなはほかの型をもうひとつ売り出さないかと勧める。でも何のために? 私は自分が使いやすいハンドバッグを売りたい。
☆私は仕事は念をいれてやるの。これはもう病気のようなものです。
☆私がやっている仕事は限られているんです。だから念を入れるんです。布地は美しいものでなければならないし、私の好みを見せなければならないでしょう。☆モードってね、建築に近い。プロポーションが大事。
☆私は長続きしないモードには反対だ。これは私の男性的な面である。
☆流行遅れはというのはね、帽子とドレスの長さからおこるものなのよ。
☆髪の毛が顔にかかっていることほど、女性の美しさを損なうものはないわね。
☆自分に規律をつくること。そこから女のすべてが始まっていくのよ。
☆人は醜いものは慣れることがあるけれど、だらしないことには絶対に慣れないんです。☆私は着古した服しか好まない。決して新しいドレスを着て外に出るなんてことはしない。
☆コピーすることができないモードがあるとすれば、それは「サロンのモード」だ。いま、それを誰もつくれない。
☆エレガンスっていうのは新しいドレスを着ることではない。エレガントな人が服をエレガントにする。よく選ばれた一枚のスカートと一枚のトリコでだってエレガントになれるものです。
☆モデルって時計のようなものよ。時計は時間を教えてくれるけど、モデルは服の時のことを教えてくれる。
☆ドレスはね、あまり恭しく着るものじゃないの。☆男というのは私たちが考えているほど強くはない。女のほうがずっと抜け目がなくて、世才に長けている。男は女よりもナイーブで傷つきやすい(フラジール)ね。
☆自分のコスチュームで人の注意を引こうとするような男はどうしょうもないバカね。
☆女はね、いくらバカげた恰好をしてもなんとかなるのよ。ところがバカげた男というのは、もうどうにもならない。女がバカなのは、そんな男を見抜けないときね。男がバカげていても許せるのは、その男が天才のときだけね。
これでココ・シャネルがどんな女なのか、あらかた伝わってこよう。そんじょそこらの輩とは出来がちがうということが、これらの片言節句でもよくわかるとおもう。シャネルのほかに、こんなことを言えるファッションデザイナーはいない。
ただし、これではシャネルが生き抜いた時代文化のことはまったくわからない。シャネルの人生こそは時代文化の賜物であり、そこに乱舞する才能こそはシャネルの感覚を磨きぬいた生きた装置だったのである。ごくごく少々だが、歴史の中のシャネルをスケッチしておくことにする。
まずコレットとポワレがいたのである。ガブリエル・コレットは1873年の生まれで、シャネルはそれより10歳の年下だ。そのコレットの『学校のクロディーヌ』『パリのクロディーヌ』で、たくさんの"クロディーヌたち"がパリに溢れたとおもわれたい。『アンアン』『ノンノ』を読んで東京に出てくる少女たちが溢れたという状況である。そこへ1909年にシャネルがパリにやってくる。彼女の両親は行商人だった。
ようするにコレットとシャネルが夢見る田舎娘だったこと、これがシャネル物語の最初の出発点になる。シャネルはオバジーヌの教会の救済院で生まれ、修道院の孤児院で育ち、18歳でムーランのノートルダム修道院の寄宿生になるまでは、どんな夢も想像力の中だけで育てていた貧しい少女にすぎなかったのだ。のちのシャネルも少女時代や両親のことは語りたがらない。
そして20歳、シャネルは友達と下着衣料店に奉公に出て、そこで縫い仕事をおぼえた。1905年、ラ・ロトンドの舞台に立って「コ・コ・リ・コ」というシャンソンを唄い、ココと徒名された。やっとシャネルのベル・エポックが始まったのだ。
次に、ポール・ポワレのモード革命があったということがシャネル物語の前提になる。それまでのファッションはイギリスから来たガストン・ウォルトの世界である。ついでマダム・パカン、キャロ姉妹、シェリュイ、ランヴァンが続いたが、ポワレがすべてを一新した。その象徴がドニーズだ。ドニーズはポワレと連れ添った美しい妻であるが、その痩身のシルエットこそはのちの1920年代のモデルになっていく。
さて、ここからがシャネルがココになっていく段になるのだが、その前にポワレがドニーズを仕立てたように、田舎娘のシャネルを最初のマイフェア・レディに仕立てる装置が必要だった。これを買って出たのがエティエンヌ・バルサンとアーサー・カペルという二人の男である。それぞれシャネルがぞっこんになった男性で、最初の店はかれらが引き受けた。そして風変わりなシャネルをパリ好みのココにしていった。
しかし、シャネルを本当に変えたのは、当時のパリの社交界を代表したミシア・セール(本書ではミジア)だったろう。ドビュッシー、ロートレアモン、プルースト、ロシアからバレエ団リュスを引き連れてきたディアギレフ、ピカソ、ストラヴィンスキー、そしてジャン・コクトー。みんながみんなミシアの美貌と感覚に酔わされた。そのミシアがシャネルを引き立てるのだ。
ミシアの社交がなかったなら、シャネルはココ・シャネルにならなかった。とくにミシアが会わせたディアギレフがシャネルと深くなって、シャネルは大いに変わる。1920年代のシャネルはロシアの色を濃くしていくことによって自分を磨いたといってよい。シャネルはディアギレフの公演後のパーティを必ず引き受けたのだ。そして、女たちが何を着ればよいのか、見抜いていった。
ディアギレフの舞台とパーティがココの才能を引き出したわけである。
コクトーとシャネルの関係についても知っておいたほうがよい。シャネルはいつも「コクトー? ああ、調子のいいエセ天才よ」と言い、小遣いをねだられると人前では突っぱねたくせに、あとでお金を届けたりした。
それだけでなくレイモン・ラディゲを失ったコクトーが阿片中毒になっていったのを身を呈して救ったのはシャネルだった。このことはのちのシャネルに何百倍にもなって戻ってくる。が、計算はなかった。シャネルは「自分の身柄を男に預ける才能」とともに、もともと「気になる男の身の危難を一身に引き受ける愛情と度胸」をもっていたのである。
そんなシャネルに何も困らない境遇の男たちが関心をもつのは当然である。男というものは、その女性が何に犠牲的になるかを見ているのであって、どんな自己保身的な女性にも関心をもたないものなのだ。とくにちょっと犠牲を払ってすぐにその報酬をほしがる女からは身を引きたくなるものだ。シャネルには、その「相手に何かをほしがる」というケチな根性がなかった。このシャネルの魅力はかえって何かに充実している男をぐらりとさせた。
だから、イートンホールの持ち主で大金持ちのウェストミンスター公爵や、ポワレをはじめとするデザイナーのデッサンを担当していた花形イラストレーターだったポール・イリブが、美と男に関する
献身の哲学をもったシャネルに近づいたのは当然だった。
すでに「シャネル・スーツ」でも「シャネルNo.5」でも名をあげつつあったシャネルは、二人に対してやっと落ち着いた女心を見せはじめた。とくにイリブとは結婚してもよいと思っていたのだが、何の因果か、イリブは急死する。シャネルの人生を見ていると、自分が賭けた男はたいてい早死にするか、身をもちくずす。シャネルが獅子座の宿命を背負っていると言われはじめたのはこのころからである。
こうして戦争になる。フランスは戦火に巻きこまれ、シャネルも結局は、男との生活を一度としてすることなく、モードにすら関心を失って長い沈黙に入っていく。
知っている人は知っているだろうが、シャネルはほぼ15年にわたる沈黙期をもっていた。その沈黙にこそシャネルの謎があるはずだが、本書では淡々と語られている。
かくてシャネルがふたたび姿をあらわすのは1954年の2月なのである。いよいよシャネルが復活するそうだという噂は世界中に飛び散った。しかしすでにクリスチャン・ディオールがニュールック革命をおこしていたせいで、このカンバック・ショーはパリではさんざんだった。業界もシャネル叩きをおもしろがった。
けれども、このバッシングこそがシャネルを蘇らせたようなのである。やがてシャネルは揺るぎない地位を築いていく。膝くらいのシャネル・スーツが世界のエレガンスの原点になっていったのは、それからまもないころのことである。けれどもシャネルは、このとき以来、決してマスコミに媚びを売ることをしなくなり、世の中の"シャネラー"を批判しつづけるようになる。そして、リッツに住みこむと、何日も何ケ月も人に会わないままに、世界のモードを動かしていったのだ。