マルセル・プルースト
失われた時を求めて|全13巻
集英社 1996
ISBN:4081440018
Marcel Proust
A la Recherche du Temps Perdu
[訳]鈴木道彦

 鈴木道彦個人全訳の『失われた時を求めて』を選んだ。理由はいくつかあるが、鈴木道彦による編訳2巻本『失われた時を求めて』(集英社)に感嘆したからである。
 この2巻本が出たころだったと思うのだが、ジル・ドゥルーズの文学機械論『プルーストとシーニュ』をちょうど読んだばかりだったので、久々に原作を読みたくなった。けれども、翻訳13巻全部(原作は7巻)はいささか面倒だと思っているところへ書店で2巻本に出会い、それでふと開いたのがもっけの僥倖、そのテイストといい、香りといい、なるほどプルーストをここまで自在にコンデンスできる人がいたと、驚いた。
 ふつう、要約やダイジェストといえば「隙間」や「行間」がどこかへ消えてなくなってしまうのだが、鈴木道彦の達人芸はそこをちゃんとつくっている。そこで編集の妙ということからも、この2巻本を編訳した鈴木訳を採り上げた。

 その『失われた時を求めて』であるが、さすがにぼくも、いまさらこの大作を紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの味や、敷石に躓いて思い出したヴェニスの寺院の石段から話すつもりはない。
 それでもいくぶんかはプルースト風にこれを書きたい気分なので、静岡の一軒のカフェの話から書くことにする。
 その店は「コンブレ」という店で、静岡に残るただ一軒の倉俣史朗のデザインによるカフェだった。ぼくはその呉服町の店へ甲賀雅章君という地域文化のリーダーに誘われて初めて行った。
 階段を上がって店に入ったとたんに、亡くなっていた倉俣さんが透明樹脂の色椅子をいじっている姿が蘇ってきた。そして、ああ、そうだ、そうだ、こういうことかと思ったのだ。それは『失われた時を求めて』の発端が「私」の故郷コンブレー(コンブレ)への回帰から始まっていたということとの暗合で、プルーストは、あの長すぎる記憶の物語の冒頭で、コンブレーは狭い階段で結ばれた二つの階でしかないとか、夕方の7時にしか存在していないなどと書いていたことが、ほんの一瞬だが、静岡の店の嬌声につながったからだった。

 静岡のカフェは、きっと静岡中のデザイナーが集まってきたかというほどに混雑してきたが、ぼくは次々に見知らぬデザイナーたちから声をかけられながら、倉俣さんの「時」を追憶しかけては、そのまどろみを破られていた。
 そして、なんだか急に納得して、ぼくも騒然たる夜の盛り上がりの一員になっていったものだった。
 その納得というのは、いつか書くかもしれないプルーストをめぐるぼくの断章は、ひょっとして静岡呉服町の一脚の透明な色椅子に始まってよかったということ、また、どこかでエットレ・ソットサスや内田繁のデザイン人生に大きな重なりを見せている倉俣史朗は、このように人々の根源的な郷愁を引きつけた遊びを各地の内装のなかでしつづけているだろうという納得、あるいは川崎和男や井上志保がそのことを書きたくてしかたのないほど空中に浮かんでいる倉俣史朗の意匠とは、この夜の密集にも沈黙しつづける「失われた時」のことだったのかというような、そういう納得だった。
 そのときである。ぼくのそばに満員の「コンブレ」の片隅から一人の初老の男がにこやかに近づいてきて、ぼくの腰に手を触れたのだ。そして、こう言った。「コンブレって、いいでしょ。ここ、あたしの夢なのよね」。

 コンブレーは幼年時代を「私」が過ごした田園の村である。そこには、「われわれ」もそのように幼年時代の一点を思い出せばきっとそうであるように、二つの散歩道があって、ひとつはスワン家の方へ、もうひとつはゲルマント家に向かっていた。
 ユダヤ人の株式仲買業で、ジョッキー・クラブの伊達男とよばれていたスワンには一人娘のジルベルトがいて、「私」はジルベルトを見かけたときから初めて異性を感じた。これは横浜山手町の「ぼく」の家の隣りのエンジェリカ・レリオにあたっている。
 一方のゲルマント家にはゲルマント公爵夫人がいて、「私」の中の高貴なものに震える何かを象徴していた。「ぼく」の少年期にはこの高貴な夫人は見当たらないが、もしかしたらそれは母であり、もしかしたらそれは、足利からお菓子をわんさと持ってときどき遊びに来てくれた正子伯母がそれにあたるのかと思われた。
 やがて少し長じた「私」はパリに出て、「ぼく」は京都から横浜に出て、スワン家に出入りする。この思い出のなか、つねにヴァントゥイユのピアノ・ソナタが流れている。
 ここでは述べないが、この作品では、必ず音楽と絵画が決定的な役どころをもって、「私」の記憶を遠くに運ぼうとしている。
 ここまでが第1部「スワン家の方へ」で、かつてこのタイトルをもじって、土方巽が『澁澤さんの家の方へ』という暗黒舞踏会を開いたものだった。

 ところで、コンブレーをこのように切れ切れに思い出したプルーストである「私」は、これらのことを、半ばまどろみながら、半ばベンガル花火を見るように、「私」のすべての面倒を見てくれているフランソワーズの柔らかい手の中で、あたかも睡神モルフェウスのふるまいのように辿っているだけなのである。
 けれども、この記憶を辿る手法のなかに、すでにプルーストの入念な実験が始まっていた。それこそは倉俣史朗や内田繁が試みた「記憶という方法」の、最初の最初の、まだ湯気が出ているような先駆であった。
 こういうことは、実はよく繰り返されていることなのだ。「ぼく」にとっても静岡呉服町の夜半の記憶には、そのどこかに痩身で楚々とした仁科玲子の姿が交じっていて、そのときはうんと遠くにいた彼女が、いつしかまわりまわって「ぼく」の事務所にくるようになったのは、あるときセーヌ川の船の上でのパーティで、「そろそろだよね」と、何が「そろそろ」かを示さない会話をほんのちょっとしたことが機縁となって、そこからプルースト的ブーメランが「われわれ」の頭上をぐるぐると飛んだのだった。
 コンブレはその船上にも、赤坂稲荷坂の3階にもあったわけである。

 第2部「花咲く乙女たちのかげに」では、数々のサロン文化が登場する。なかでもヴェルデュラン夫人のサロンは特別で、スワンは娼婦オデットとともにここに出入りする。
 「私」のほうは、それまではまるでお伽の国の主人公だったスワン夫妻とも、お目当てだったジルベルトとも、親しくなった。ブローニュの森のなかの遊園地にも一緒に行った。スワン夫人は「美の種類」を集めているようだった。
 おばあさんと一緒に出掛けたノルマンディの避暑地バルベックの海岸では、ゲルマント家の人々とも出会った。そこには貴公子ロベール・ド・サン・ルーと、その伯父の社交界の大立者シャルリュス男爵がいた。
 ここでの第2章「土地の名・土地」は第1部でも同じ章立てがもうけられていたのだが、プルーストがこの作品全篇にこめてゲニウス・ロキの解読にあたっていることをあらわしている。
 さて、ある日、「私」は海岸で華やかな少女たちの一団と遭遇し、そのことに強い印象をうけた。彼女らはあたかも光を発する彗星集団のようだった。すでに「われわれ」がフェリーニやヴィスコンティの映像で教えられてきた、あの花のような一団だ。画家エルスチールになんとか仲介してもらい、「私」はその少女の一団の一人アルベルチーヌと知り合うようになった。彼女は「ぼく」が五色沼で出会ったトチハラにちがいない。
 理想の少女と出会えた「私」の心は激しく高揚していたが、アルベルチーヌは「私」の柔らかな接吻を拒み、そのうちバルベックに雨の季節がやってきて、どこかへ出発してしまった。「私」の夏の季節が終わったのだ。
 こうしてプルーストは「名」の記憶を過ぎて、少しずつ「物」の世界を思い出していく。呉服町にも朝がくる。

校正刷への訂正

第2部「花咲く乙女たちのかげに」校正刷への訂正

 第3部は「ゲルマントの方」である。なぜゲルマントの方かといえば、「私」の家族がゲルマント家の館の一部に引っ越したのだ。これはいくぶん寂しいことで、コンブレーの散歩道の向こうに輝くゲルマント家の幻想はこれでもろくも壊れていった。
 けれどもゲルマント公爵夫人のしだいに若返るかのような美しい容姿だけは、あいかわらず「私」の心をときめかせた。夫人の甥で好ましい性格のサン・ルーに頼み、「私」は夫人の行く先々に姿をあらわしたいと思うようになっていた。けれどもサン・ルーにはユダヤの娼婦との恋の問題がある。
 その一方、「私」にはそのようなゲルマント家の変化を話してみせるフランソワーズの言葉づかいがヒントになって(たとえば「気の毒がる」をラ・ブリュイエールのように「出し惜しみする」という意味でつかう)、くすくす笑いながらも、これらのエクリチュールの変化をフランソワーズぐるみで愛するようになっていた。

 そんなおり、「私」のおばあさんが死んだ。最後は一枚の毛布すら沖積世の土砂のように重かったらしい。ここではプルーストは吉本ばなななのである。
 「われわれ」は小説の中の死をたいていは「われわれ」の付近にあてはめて読んでいるけれど、プルーストはまさにこの「付近」を先取りして文学にしてみせた張本人だった。そうしてみれば、いまならこう言ってのけられるはずなのだが、倉俣史郎のデザインの本来は、この「付近」をこそコンセプトにしたデザインだったということなのである。
 そんなときアルベルチーヌがついに「私」のところに訪れてきた。
 家というものは奇妙なもので、人々はそこに誰が住んでいるかという格式で、その家と交際をしたがるものだ。「私」はアルベルチーヌとついに接吻をし、そういうものなのだろうと思うけれど、そこからは一転して、にわか仕立ての恋人のような関係になっていった。
 けれども、このころから、シャルリュス男爵がどうにも理解しがたい言動をとりはじめたのだ。

 第4部「ソドムとゴモラ」にさしかかったときは、「ぼく」は、さあ、ついに「われわれ」がまだ触知してない何かがやってきたという気持ちの高ぶりを抑えられなかったものだ。
 シャルリュス男爵は男色家だったのである。仕立屋のジュピアン、ヴィオロン弾きのモレルに熱をあげている。すでに『禁色』を読んでいた「ぼく」は、最初は三島のソドミズムのほうが強烈で、むしろプルーストは軟弱に見えていた。のみならず稲垣足穂のA感覚からすれば、ワイルドコクトージュネはともかくも、プルーストはどう見てもゲイ感覚の王城からもずれていた。
 しかし、このような感想が早計で、プルーストがとんでもない葛藤を用意していたことがすぐにわかってきた。
 ひとつは、シャルリュス男爵の恋の相手の脚は華麗なキャミソールをからげてこの世のものともつかぬほど美しく、その顔は未知のスパニッシュダンサーのように妖艶になりうることを、「私」が目撃してしまったということ、もうひとつは、どこかアルベルチーヌには妖しい秘密があるらしいことを感じてはいたのだが、そのアルベルチーヌにも同性愛の傾向があったということだ。

 さすがに「私」はこの葛藤に苦しんだ。嫉妬もした。あまりの嫉妬に、情けないことに「私」は母にアルベルチーヌと結婚する許しを乞うた。そのとき「私」は泣いていた。
 すでによく知られていることであるが、プルーストは若い母にはいつも恋情をもっていた。そして、これをこそ言っておかなくてはならないのだが、プルーストその人が男色の囚人だったのである。これについては最近になって原田武の『プルーストと同性愛の世界』(せりか書房)が刊行され、その一部始終が証かされている。
 第4部は、こうした異常な出来事が、ラ・ラスプリエール荘を中心に、目眩く夜会の進行のように繰り広げられていく。「時」はいつだって、こうした節会(せちえ)でおこるのだ。「ぼく」の少年期のばあいは、それが高倉押小路の家か、法然院か詩仙堂か、あるいは寺町の「スマート」という喫茶店での出来事だった。

 さて「ぼく」は、第5部の「囚われた女」のところで、長いあいだ『失われた時を求めて』を読むのを中断していた。
 その後に続きを読んだものの、中断のせいか、ほんとうにこの部分がそうなのかはわからなくなっているのだが、ここで「私」がアルベルチーヌを監視し、閉じこめるようにして暮らし(つまりは「私」が世紀末ストーカーのはしりになって)、あげくにアルベルチーヌが失踪してしまうというのは、どうも納得のしがたい展開に見えた。
 同じく第6部「消え去ったアルベルチーヌ」も、失踪したアルベルチーヌが落馬して死んだという噂を聞いたというだけでは、何かが充実しなかった。「私」は絶望するのだが、「ぼく」は絶望とはほど遠い。「私」がこの絶望から逃れるのには、「私」の中のアルベルチーヌの記憶を消し去っていくしかないというのも、腑に落ちない。
 まして、そのためには自分の死というものを、記憶の一般性に拡散していけばいいというプルーストの判断も、承服しがたかった。

 けれども、どのようなきっかけかは忘れたが、おそらくはアルベルチーヌが自動ピアノの「ピアソラ」でヴァントゥイユの曲を「私」に聞かせているくだりあたりから少しずつということだったと思うけれど、「ぼく」はまたプルーストの“旋法”にはまっていった。
 のみならず、このあたりからプルーストのこの叙述の方法に、「記憶という方法」や「方法としての記憶」がぴたり狙いどうりに進んでいることに、感嘆するようになっていた。
 それは記憶と忘却ということだ。記憶にも方法があるのだが、忘却にも方法がある。どのように忘れるかということが、「われわれ」の現在をつくっているわけなのである。案の定、倉俣史朗もこの両方を駆使したうえで、「コンブレ」や、そして未詳倶楽部が白石加代子とともに訪れた東京湾岸最上階の、あの「ラピュタ」を意匠した。
 「われわれ」は何かを忘れさせてくれるデザインに、たいてい夢中になるものなのだ。

 最後の第7部は有名な「見出された時」である。ここではすでに、かつては貴公子の、いまは「私」の親友となったロベール・ド・サン・ルーがジルベルトと結婚していて、ロベールが不毛な情事に耽って、妻のジルベルトを苦しめていることになっている。
 不毛な情事とは、またもや同性愛のことである。すでに第一次世界大戦が始まっていた。
 プルーストである「私」はここまで書いてきて、自分の文学的才能に思い悩んでいる。体もすぐれず、サナトリウムでの療養生活でもしないといられないほどの体調とノイローゼになっていた。そこでパリを発つことにした。
 パリは戦火に見舞われ、かつての社交界はついに没落の一途を辿っていった。新たな輝きは、単に消費を誇るプチ・ブルジョワジーか、ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人の手中に落ちた。それでもシャルリュスはいよいよ凄惨に、いよいよ倒錯を深めてやまない。
 ジルベルトを悩ませつづけたサン・ルーは愛国者となり、ワグナーに匹敵する戦争をなしとげるのだという気概のもと、前線であっけなく戦死した。
 けれども、さしもの戦争も終わりを告げた。全員が病気だったのである。しかし、いったい何が終わりを告げたのか。「私」の心は索漠としたままであり、何も前途に見えるものなどなかった。

 時間が流れた。「私」はすっかり追憶からも現実からも遁がれたままにいる。そこへ一枚のマチネー(午後の集い)の招待状がきて、ゲルマント太公妃の屋敷に赴いた。どうやら仮面舞踏会が開かれているようだ。
 屋敷の前で車を降りた私は、ふと中庭の不揃いの敷石に躓いた。そのときである、その感覚がヴェニスの寺院の敷石の感覚に通じ、そのままヴェニスについてのすべての記憶が蘇り、自分でも信じられないほどの大きな歓喜が体を満たしたのだ。それはプチット・マドレーヌの味が幼い日々のコンブレーを蘇らせたのと、まったく同じ連動連想の現象だった。
 プルーストは書く。皿に匙の触れる音、ナプキンの固い手ざわり、髪から零れる香油の匂い、コンブレーの眼鏡屋‥‥。これらはすべて過去と現在をまたいで“そこ”にありうるものなのだ。そのときこそは、「われわれ」は超越的な時間の中に溶け合えるのだ。
 「私」はついに確信できた。「ぼく」もわかった。ドゥルーズは『失われた時を求めて』はシーニュの生産のための文学機械だと言ったけれど、いやいや、それだけではない、この方法にこそ芸術というものがかつて見いだされたことのない方法がひそんでいたのであるということを。そこには「クオリアの文学」ともいうべきが萌芽していたということを。

 ゲルマント家のサロンでは、すでに変わり果てた知己の顔が雑然と戯れていた。みんなが仮面をかぶり、みんながかつての役割を脱いだのだ。そこには「時」があるばかりで、静岡の「コンブレ」同様に、昨日と明日の区別のつかない人々が酔いしれていた。
 そこへジルベルトと故ロベールとのあいだに生まれたサン・ルー嬢が紹介された。「私」はハッとした。この少女の中にこそ「スワン家の方」と「ゲルマント家の方」の両方の散歩道が重なっているではないか。「私」はそのイメージを見た。
 これですべての準備が終わったのである。もう何も新しく加わる必要はなくなった。「私」は忠実なフランソワーズに愛され、世話をされ、しだいに近づきつつある死の床で、いよいよ念願の『失われた時を求めて』に取り組もうと思っている‥‥。

 マルセル・プルーストは1871年にパリ郊外のオートゥイユに生まれた。父方の敬虔なカトリックの家系はイリエにあって、ここがコンブレーのモデルになった。
 プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので、この発作が何をもたらすかはよくわかる。コンドルセ中学では、プルーストは半分を文才に、半分をシャンゼリゼなどを戯れる乙女に見とれることに費やした。
 17歳で社交界への出入りをスタートすると、プルーストは生涯の半分以上を、このスタイルで貫いた。すなわち、サロンの夫人に次々に憧れる一方、どこかで新たな恋に出会うことばかりを考えた。
 ところがちょうどオスカー・ワイルドがパリに滞在したころの20歳前後から、プルーストは自身の内なる男色に目覚めたのである。ついでは22歳のとき、審美倒錯詩人にして世紀末頽廃の代表者であって、かつ名だたる男色伯爵でもあった38歳のロベール・ド・モンテスキューを知り、異常に惹かれてしまっていた。
 御存知、ユイスマンスの『さかしま』のモデルであって、プルーストが造形した倒錯者シャルリュス男爵のモデルである。このあたりの世紀末男色事情の雰囲気については、第572夜の『コルヴォー男爵』にも書いておいた。ヨーロッパの世紀末は、この男色感覚がどのように都市に侵入していったかという事件簿でもあった。

 20代のプルーストについて、そのほかのことでぼくが関心をもつのは、両親の庇護のもとにかなり贅沢な晩餐会を開いていること、ドレフェス事件で熱烈な弁護活動に加担したこと(アナトール・フランスの牽引のもとに)、そしてジョン・ラスキンの著作を耽読していることである。
 とくにラスキンについては、その著作を手引きにして各地の寺院をめぐり、その経済倫理学の翻訳も引き受けていった。その姿勢は当時のフランスが採用しようとしていた政教分離政策への反対表明にまで至っている。ラスキンからプルーストへ、この回路は、もっともっと研究されてよいものだ。

[表紙]『秀吉と利休』

1900年、ラスキン巡礼の旅のひとつとしてヴェニスを訪れる。
海岸のテラスで海を眺めるプルースト

 30代のプルーストには、母親の死が最大の事件である。その悲嘆はかなりのもので、このあとサナトリウム療養に入っている。
 読書をするか、運転手アゴスチネリによる自動車寺院巡りか、やっと書き始めた自伝づくりか、そんなことしか30代のプルーストの関心にない。
 が、プルーストはもともとバイセクシャルだったから、つねに夫人にも娘にも少女にも心を惹かれつづけた。こうして38歳、ある日、紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味をきっかけに、失われた時のクオリアをいかに綴るかという方法的模索に入っていったのである。コンブレーは、ここで蘇ったのだ。
 この方法を思いつこうとしたことは、プルーストのこれまでの全生活の点検でもあって、その細密きわまりない点検自体が、プルーストが発明した「クオリアの文学」となったものである。
 たとえば間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は“記憶を辿る文学”ではなく、“思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学”というものであることを、思いつかせたのだった。
 こうしてプルーストの40代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やしたといってよい。
 51歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまま疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。
 ぼくはその一瞬の終息を、あの夜の「コンブレ」の透明な色椅子にも見たようだった。

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