ヴィクトル・ユゴー
レ・ミゼラブル|全4冊
岩波文庫 1987
ISBN:4003253116
Victor Hugo
Les Miserables 1862
[訳]豊島与志雄

 書きたいことも、書かなければならないことも、書いたほうがいいだろうこともいっぱいある。たとえばグロテスクについて、アナンケについて。しかし、今夜に向き合いたことは、いったい何がレ・ミゼラブルなのか。何が「ああ無情」なのかということのようだ。
 むろん『レ・ミゼラブル』にも触れる必要はあるが、それだけでは今夜のぼくの気分はユゴーに向き合ったことにはならないようだ。
 無情とだけ向き合いたい。けれども無情なのはジャン・ヴァルジャンではあるまい。ミリエル司教でもない。コゼットとマリユスの別離が無情の主語というのでもなく、また浮浪児ガヴローシュに何かが託されたともかぎらない。時代社会もレ・ミゼラブルで、ヴィクトル・ユゴーその人にもレ・ミゼラブルが沈殿している。
 『レ・ミゼラブル』はぼくの子供時代からの愛読書のひとつだが、いつもこの「無情」がぐるぐる回転木馬のように動きまわっていた。

 黒岩涙香が翻案した少年少女向け『ああ無情』(初期の標記は『噫無情』。明治35年から「万朝報」に1年間連載)を、中学を含めて3回は読んだ。
 しかしそれからずっとたって、岩波文庫の『レ・ミゼラブル』が6冊にもなることを知って、びっくりした(最近、この6冊が分厚い4冊組になった)。これはアレクサンドル・デュマの子供用『巌窟王』が大人用の『モンテ・クリスト伯』では文庫7冊になるのに次いで、びっくりしたことだ。のちに『三国志』『水滸伝』の本体がこの膨張をはるかに凌いでいたのにも驚いた。いや、フランスより中国、と言いたいわけではない。馬琴の『南総里見八犬伝』ということもある。
 
 そのうち、これも少年少女向けの『ノートルダムの傴僂男』としてドキドキしていた『ノートルダム・ド・パリ』を読んだ。これがユゴーと向き合った最初だったろう。
 決定的だった。胸を突き上げるような痛切と哀歓、奈落と天界を脱兎のごとく昇降する落ち着かない感情、最も両極に離れあう美醜の二者が一挙に溶融する神秘。それが、まわりまわってノートルダム寺院の石造構造そのものであったという根本結構を提示していたなんて、ユゴーという表現者はいったいどこまで凄いのか、どこまで“知っている”のか。そういう驚きだった。
 ついでに言っておくが、のちのちになって感じたのは、ユイスマンスもマンディアルグも、結局は『ノートルダム・ド・パリ』だということだ。

 ジョン・ラスキンを読んでいて知らされたこともあった。ひとつは、ユゴーがフランス最大の詩人であったことである。このことも日本ではほとんど知られていない。『静観詩集』は神秘圧倒そのものなのにー。もうひとつは、ユゴーが自然観照においても他を抜きん出て、その岩石や鉱物に満ちた山塊を描いた絵画に、ラスキンがターナーに匹敵する賞賛をおくっていることだった。
 さっそく調べまわってユゴーの絵をいくつも見たが、その通り。まさに岩石と鉱物が表現されていた。そこには、あきらかに「グロテスク」(岩塊的観照性とでも訳しておきたい)の本質に迫る表現力が横溢していた。
 なんだ、そうか、そうか、グロテスクはユゴーこそが近代における確立者だったのか、と了解できた(だから石造のノートルダム寺院なのである!)。これものちに知ったことだが、このことはガストン・バシュラールもうすうす気がついていた。
 しかしユゴーは、このグロテスクを自然そのものがもつ宿命と人間がもつ宿命との対比としても理解した。だからこそ、ノートルダム寺院では聖職者フロロと怪人カジモドが対照されたのである。

 というわけで、ヴィクトル・ユゴーはとんでもない。説明がつかないようなことを仕出かしている。
 そのユゴーが、400字詰にして約5000枚をかけて「レ・ミゼラブル!」という刻印をした。いったい、どんな暗示だったのか。以下、このレ・ミゼラブルとは何だろうということについて多少の思いを述べる。

 まず、ヴィクトル・ユゴーは19世紀フランスそのものだったということを言っておきたい。1802年に生まれて1885年に83歳の生涯を閉じたからではない。

 第1に、父親があまりにナポレオン主義者だった。ユゴーが生まれたのはナポレオンが皇帝になった2年前で、そのまますぐにマルセイユ・コルシカ島・エルバ島・ナポリに、ナポレオン軍の将校だった父とともに転居した。
 ナポレオンは情熱的なナショナリストであって、王位簒奪者であって、革命簒奪者である。そのナポレオンをユゴーの父が一心に追ったことは、ユゴーを騒動に巻きこみ、ユゴーの思想を形づくった。
 第2に、ユゴーが生きたフランス19世紀はその政治体制が史上まれにみるほどに変転きわまりなかった。政治文化も実にめまぐるしく動いた。これは幕末明治の比ではない。トップに立つ者の交替が過激に政治文化をいちいち色付けた。
 そのなかでユゴーは父譲りの王党派にいたことで、揺さぶるような激動に巻き込まれる。

 どんなめまぐるしさかというと、こうである。
 ナポレオンが崩落したのちに王政復古をとげ(1815~1830)、それが壊れて(七月革命)、オルレアン家のルイ・フィリップによる立憲王政になり、さらに1848年の二月革命で第二共和政になったかとおもうまもなく、ルイ・ナポレオンが出てきてクーデタをおこし、ナポレオン3世となって第2帝政になった。
 ユゴーはこのときナポレオン3世に接近した状態にいて、王党派議員にさえなったのだが、やがて関係は冷え、ユゴーはベルギーに引っ込んだ。
 ところが、ナポレオン3世はプロシアと普仏戦争をおこしてあっけなく敗退、スダンで捕虜になってしまう。この混沌を突いておこったのがパリ・コミューンの動乱である。ユゴーは政府軍の苛酷な弾圧に怒りを禁じえず、コミューン参加者がベルギーに亡命してくるなら自分が保護するという声明を出した。
 こういうめまぐるしい変転のなかで、政治文化そのものがつねに色付きと表情と価値観を変えた。それが、あのフランス革命をおこした自由・平等・博愛の国でおこったのである。これは近代史のなかでもそうとうに特異なことで、このことを勘定に入れないでは、近代フランス文学は一も十もわからない。
 このなかでバルザックもスタンダールも、ラマルチーヌもシャトーブリアンも、フローベールランボーも、その精神を動乱させた。

 第3に、19世紀フランスの中葉を飾ったのはロマン主義であって、その中心にユゴーがいたということだ。
 フランスにおけるロマン主義は長めに見ると1830年から1930年にまでわたっているが、その最初の絶頂を「フランボワイヤン(真紅)のロマン主義」という。このフランボワイヤンをひっさげてユゴーはロマン主義の頂点に立った。『ノートルダム・ド・パリ』も『レ・ミゼラブル』もロマン主義文学の最高傑作である。
 これは何を意味しているかというと、ギリシアやローマに対する憧憬を下敷きにした古典主義も擬古典主義も崩れて(それはディドロあたりで先駆していたのだが)、文学が自国自民族の歴史や文化に回帰しようとしたことをあわらしていた。加えてスタール夫人やシャトーブリアンによってカトリシズムが復活し、その動きをまきこんだラマルチーヌによって王党主義が芽生えた。
 日本でいうなら中国的な漢意を捨てて古意に入るということになるけれど、そこはすでにフランス革命をおこした近代ブルジョワ社会があってのこと、またそこにもうひとつの革命であったプロテスタントの宗教革命を意識のうえで切り捨てたあとでの、そういう特色をもったフランス・ロマン主義なのである。
 ユゴーの出発点はここにあった。ユゴーが創刊した「コンセルヴァトゥール・リテレール」という雑誌の名前に、このことは端的に象徴されている。これは「文学保守」という意味なのだ。

 第4に、政治変転めまぐるしく、ロマン主義抬頭のこの時期は、劇場性と演劇性が芸術文学活動の切り札になっていて、この面でもユゴーは断固として先頭に立っていたということがある。
 とくに有名なのはエルナニ事件というもので、七月革命直前(1830)、ユゴーの『エルナニ』がコメディ・フランセーズで初演されて、これが古い文学と新しい文学の衝突現場となった。このときユゴーを奉じる青年たちは劇場のそこかしこに陣取って、沸き上がる野次を制して舞台を圧倒的成功に導いた。
 王党ロマン主義はこの『エルナニ』によって確立したといってよい。ついでに言っておくけれど、近代フランスにはこういう“舞台をめぐる闘争の習俗”があるからこそ、アルフレッド・ジャリトリスタン・ツァラディアギレフジャン・コクトーの劇場闘争が、たえず芸術運動の意相を破る突破口になってきたわけである。

 第5に、これも書いておかなければならないだろうことだが、ユゴーには降霊術に心酔した時期があった。
 上にも書いたように、ユゴーはナポレオン3世の追捕を逃れてベルギーのブリュッセルに引っ込んだのだが、その期間、ジャージー島にも滞在する。
 この島は風光明媚な外観とは裏腹に、なんと幽霊が出る島だった。そこへもってきてユゴーをぞっこん気にいった驕奢なジラルダン夫人がここに乗りこんできて、毎夜、降霊術の宴を開くようになった。ユゴーはいささか迷惑げだったのだが、ところがある夜、テーブルが動いた。
 それだけでなく、セーヌ河に溺死してユゴーを悲しませていた愛娘の霊が出た。
 これでユゴーはすっかり心霊神秘主義に浸っていく。『静観詩集』はこの時期の感覚が言葉になっていて、W・B・イエーツに共感がある者なら、こういうユゴーの詩は見逃せない。
 しかし降霊術も、やはりこの時代の典型的な産物なのである。流行だった。ユゴーはこうした19世紀フランスの時代の潮流の大半を呑みこみ、そして晦渋していったのだ。

 以上は前提で、こういう背景と体験をもって、ユゴーはまず『ノートルダム・ド・パリ』を書く。
 大聖堂司教補佐のクロード・フロロ、大聖堂の前庭で踊るジプシーのエスメラルダ、そのエスメラルダにありったけの純情を寄せる鐘つき番のカジモド。この3人が寺院を舞台に三つ巴に絡まった。
 聖職者フロロはカジモドにエスメラルダを攫わせておいて、密かな欲望を成就しようとした。けれどもエスメラルダは王室近衛兵の隊長に心を奪われていて、フロロはそれが許せない。ついにフロロは我が身を制御できずに、策略を用いてエスメラルダを絞首刑にする。そこでカジモドがフロロを殺す。
 これは最初にあげた対比された宿命を石造的に描こうとする「グロテスク」の方法をユゴーが独自に文芸獲得したということであって、また「アナンケ」(運命・宿命)の主題にユゴーが立ち向かったということである。
 それとともにこの作品で、ユゴーは二つの実験をしてみせた。ひとつは、パリそのものであるノートルダム寺院を舞台にすることによって、ギリシア・ローマ型の古典主義に颯爽と反旗を翻し、これを使わずとも、普遍的な物語が現出しうることを見せた。もうひとつは、もはやカトリックと王党ではない民衆にこそ普遍的な物語が潜んでいるという確信をもったことだろう。
 聖職者フロロの追落した欲望を描ききったことは、こうしてユゴーを新たな問題に向かわせる。しかし、そこに待っていたのがレ・ミゼラブルなのである。

 このあとユゴーが向かった問題はおそらく「」である。それはナポレオン3世の悪であり、社会にすだく悪であり、一人の聖職者を襲う悪であり、自身にひそむ悪だった。
 それぞれ吟味のうえに発表された『懲罰詩集』『リュイ・ブラース』『静観詩集』をへて、ユゴーは社会と人間の深淵から聞こえてくる喇叭(らっぱ)の音に、悪が交じっているのを聞き分ける。
 この悪はいったい何なのか。どのように悪が排除できないことを認識すればいいものか。
 そこで有名な『サタンの終わり』を詩の構造をもって描き切ろうとするのだが、ここには神や天使が出すぎていて、うまくいかない。それをするならダンテではないが、やはりヴェルギリウスの古典に倣うほかはない。
 けれども、それはすでに19世紀フランス・ロマン主義が捨てた光景である。ユゴーは『サタンの終わり』を未完のままに放置する。では、どうするか。
 
 こうしてユゴーが選んだのが、この現実社会そのものに巣食った神と悪魔を、天使と闇を、贖罪と宿命を、それらをすべて描ききることだった。
 そのためユゴーは『諸世紀の伝説』を書いて、そこに世界の伝説をすべて埋めこんだ模型をつくった。最近は、この詩集こそがユゴー文学の解読の鍵だと騒がれている作品である。
 しかしぼくが見るには、これは詩語を懸命に駆使した“世界模型"なのである。これはいってみれば、江戸社会の歌舞伎における『忠臣蔵』なのだ。それならこれに対して、ユゴーはもうひとつの鏡像として『東海道四谷怪談』を書かなければならなかったのだ。
 『レ・ミゼラブル』がこうして準備されていく。

 さて、ここまで書いてきて、念のために、周辺の文献から『レ・ミゼラブル』についての日本人の論評がどういうものになっているかを、ざっと調べてみた。予想はしていたものの、はたして、ろくなものがない。何ひとつ議論されてはいないといっていいほどである。
 そのかわり、よくできているのは要約や翻案だった。黒岩涙香の『ああ無情』がまさにその嚆矢だが、それ以外の子供向けのジャン・ヴァルジャンもよくできている。7、8年前に出版された鹿島茂の『レ・ミゼラブル百六景』(文藝春秋)もユーグ版の挿絵ごとに物語を要約していて、まことによくできていた。
 ようするにヴィクトル・ユゴーは日本では物語の作者でしかなかったのである(いや、きっといい評論もあるだろうが、ぼくはちゃんとは知らない)。
 むろん物語としては完璧に近いものがある。ただしそれは『アンナ・カレーニナ』が完璧だったことに比較していうと、近代社会がもつ矛盾を描き切ろうとしていたことにおいて完璧なのであって、いいかえれば、その完璧から近代が封じこめたいっさいの矛盾が吹き出るところの用意が周到だったということなのである。

 ぼくは、フランス・ロマン主義が古典主義を切り捨てたと言った。ユゴーたちは、フランス語で文芸をするにあたって、古典主義の面倒な規則を離れたのだ。
 古典主義では「モ・プロプル」ということを嫌う。そのものずばりを言わないということだ。たとえばハンカチのフランス語は「ムーショワール」だが、これは「鼻をかんでやるぞ」(ムーシェ)という言葉からできている。
 こういう言葉を絶対に使わないのが古典主義というものだった。これを「ペリフラーズ」(迂言法)といった。だからアルフレッド・ヴィニーがロマン派の初期の旗手として「ムーショワール」を詩の中で使ったときは、たいへんなスキャンダルになった。
 そのほか「アンジャンプマン」(句またがり)や「三単一の規則」など、いろいろがある。これをフランス・ロマン主義は駆逐した。
 そこまではいい。問題は、このようにして古典主義のレトリックを捨てたからといって、言葉の暗示性を失うわけにはいかないし、ましてや意味の暗示性を破棄することは不可能だということである。
 そこでユゴーが試みたこと、それは現実の出来事をあらわす言葉によって多重な暗示性を取り戻すことだったのである。

 ユゴーはあらゆる現実に自ら介入して、その行動や出来事がもつ二重多重の意味を体験してきた。そのために劇場で闘い、議員になり、亡命し、降霊術に耽り、コミューンの志士を受け入れた。
 こうした体験は、ユゴーにとってはペリフラーズに代わる言葉そのものであったのだ。それは新たに装着された近代言語による意味の武器だった。それを詩にし、劇にしているうちに、ユゴーは気がついた。
 意味の武器による砲列は、まだ誰も体験したことのない相互に矛盾しあう悲劇をつくりだしていることに気がついたのである。

脱線の一章「隠語」の挿絵。
ユゴーは隠語を社会の底辺にうごめく怪物に見立てた。

 そうなのだ。ユゴーは近代言語による周到な物語そのものを「レ・ミゼラブル」と名付けたのだ。ああ無情とは、つねに言葉がそこへ至れば必ずおこりうる根本矛盾をあばいてしまう最終暗示力のことなのである。

 ヴィクトル・ユゴーは、19世紀フランスの人間社会の動向の大半を言葉にしてみせたお化け鏡のようなものだったのだ。
 だから、その作品は瞠目すべき「言葉の社会」の出現だったのだ。文学とは、ここまでするのかという出来事だ。
 しかしユゴーは、それこそが「レ・ミゼラブル」かもしれないと、そこまで読んでいた。言葉が言葉を殺し、言葉が言葉を救いあう。言葉が言葉を犯し、言葉が言葉を再生する。近代言語による完璧な物語とは、そういうものなのだ。ああ、無情。

 最後に一言、付け加えておく。ユゴーの実験は近代文学の究極到達点だった。このため20世紀文学はこれを切り崩し、これを放棄することを課題とした。それは成功した。

 ところが、そのうちに、ふたたびユゴーやデュマがもつ物語の悲劇的完璧に再帰しているジャンルが蹴り出てきた。そのひとつがアメリカン・シネマ、もうひとつがニッポン劇画とジャパン・アニメーションである。ああ、無情。

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