榧野八束
近代日本のデザイン文化史
フィルムアート社 1992
ISBN:4845992051

 著者のことはよく知らないのだが、時代とデザインの関係がよく書けている『夜明け前』の青山半蔵が信州馬篭から上京して、ランプ(玻璃燈)の光が明るくなったことに驚くエピソードが冒頭で紹介され、それが街燈を光線画に描いた小林清親の『日本橋夜』や『日本橋夜景』につながっていく。
 文明開化は日本を変えたが、その信じがたいほどに多様な変化の一部始終は、馬場孤蝶をもってしても矢田挿雲をもってしても、むろん山田風太郎をもってしても、とうてい書き尽くせない。ともかくありとあらゆる場面や細部に入りこんでいる。富国強兵・殖産興業では何の説明にもならない。なかでも意匠やデザインや職人の変化についてはこれまで深く研究されてはこなかった。
 たとえばランプの変化。0.195燭光から3.20燭光へ。
 このランプの燭光変化も明治維新なのである。この変化は蝋燭職人を変え、家の中の意匠を変え、都市の景観を変え、ショーウィンドーを変え、さらに放射状の光条パターンを商標デザインに登場させた。単に「夜の文化」が登場したというだけではない。その背景にはまた、江戸時代の不定時法が明治6年の太陽暦導入とともに定時法に変わっていた。それとともに度量衡(尺貫法)が変わり、職人の目盛の感覚に変化があらわれたのである。

 何が一番変化したかといえば、なんといってもタテがヨコになった。近代日本のデザイン革命はそこから始まる。
 たとえば紙幣。藩札や太政官札や西郷札のタテから、国立銀行札やキヨソネがいじった神功皇后像が入っている改造紙幣のヨコへ。たとえば国旗。幕府の日本船惣船印や島津斉彬の昇平丸のタテ長から、明治3年の政府規定による7対10のヨコ長へ。ちなみに日の丸の直径はタテの長さの5分の3とされた。
 ヨコ文字も侵食していく。「横文字」という言葉を最初に使ったのは新井白石の『西洋紀聞』で、そのころはまだ「草のつるのごとく書てよみがたし」と言っていた。が、たちまちヨコ文字ハイカラ感覚が席巻した。印刷物では『横浜毎日新聞』が先頭をきったが、むしろ二代広重や三代広重も動員された茶標やマッチラベルを筆頭に、商標デザインが一挙にヨコ文字を採用していった。浮世絵や錦絵も好んでヨコ文字を採り入れた。

 むろんデザインという言葉はない。図案といった。
 志賀直哉が明治45年発表の『大津順吉』に、エジプト煙草を手にしながらデザインを思うという場面があるものの、これはそうとうに珍しく、デザインという言葉は昭和中期まで日本では使われていなかった。ずっと図案、図案家だった。
 図案という言葉をつくったのは岩倉使節団に同行していた納富介次郎である。明治6年(1873)にウィーン博が開かれ、日本も招待された。ところが博覧会のテーマが「デザイン」だったため、これに対応する言葉が緊急に必要になり、画家出身官僚である納富が造語した。かつて渡辺素舟さんは「図工」と「案家」の合体だったのではないかと説明をしていた。
 さっそく大蔵省に「図案調整所」が設置され、製品図案協議員が組織化され、東京府立商工奨励館が『商品意匠図案』というカタログを編集した。こうした官の奨励に呼応して大活躍したのが、納富とともにウィーン博に随行した松尾儀助と若山兼三郎の二人が設立した「起立商工会社」である。起立商工の活動はもっと脚光を浴びてよい。

 図案とともに「造家」という言葉が生まれた。アーキテクトにあたる。最初の造家は清水喜助の第一国立銀行や築地ホテルに代表される擬洋風建築で、てっぺんに天守閣が、ファサードに千鳥破風や唐破風があしらわれた。
 このあたりの事情は最近は藤森照信や陣内孝信らがさかんに"探検"したので、いまではよく知られていようが、見落としがちなのが本書にも出てくる鉄橋である。たとえば、本木昌造が計画して出島商館のフォーゲルが設計した長崎の中島川に架かった「くろがね橋」、ぼくもよく知っている横浜堀川の吉田橋、後藤象二郎による大阪の高麗橋、ボーストリングトラス方式の心斎橋、原口要設計による吾妻橋などは、まさに文明開化の象徴であった。これは"鉄橋見物"が流行したことでも、よくわかる。

 図案、造家とくれば、もうひとつは「布置」である。布置はレイアウトにあたるのだが、これは下岡蓮杖らの写真師たちがけっこう使った以外は、なぜかあまり使われずにおわった。
 ただし、これをもって近代日本におけるグラフィック・デザインの立ち遅れと、レイアウト感覚の欠如を指摘してはいけない。むしろ当時の近代日本人は、とくに職人は、わざわざレイアウトや布置をもちださずとも、存分な空間配置感覚をもっていたというべきなのである。
 ぼくの判断では、近代日本が布置を意識したのは明治30年をすぎて、おそらくは新聞にゴシック活字が登場してからのことではないかとおもう。ついで明治38年に築地活版製造所がポイント活字を試作し、翌年にルビ付活字が登場したあたりに、メディアが意識した布置感覚の芽生えを感じる。まだ段数は6段だった。その6段が号数活字のまま8段になるのは大正3年あたりからで、ポイント活字のほうは一挙に9段組になった。
 同時に、このころから「広告」の自覚が始まった。広告という言葉をつくったのは、はっきりはしないが福澤諭吉のメディア『時事新報』あたりであろう。明治38年というのは仁丹が発売された年でもある。広告についてはこれまでいろいろの案内解説書が出されてきたので(そればかりが多すぎたきらいもあるが)、ある程度のことは知られていようが、新聞の布置間隔との関係こそがもっと研究されてもよい。

 このほか、日本の近代デザイン史についてはいろいろ言いたいことがたくさんあるし、本書もよく明治大正昭和初期までの変化をさまざまな領域で追っていた。
 とくにブリキ缶などの容器の素材との関係、女性の白粉の普及との関係、歯磨きの習慣の普及とデザインの関係、さらには口笛を吹くようになった日本人とデザインの関係など、なかなか凝った視線も伸ばしている。
 しかし、デザインの歴史というものはデザイナーが想像している以上に深く、また重要なのである。今後は、デザインのための歴史学や民族学や民俗学が、またデザイン・コンセプトによって時代文化や生活文化や情報文化を語りうる視点が、もっともっと出現すべきなのである。
 1998年から桑沢デザイン研究所の卒業生たちが設営した講座で、ぼくが3年にわたって「日本文化とデザイン」を講義したときは、そうした従来にない視点をこそ起爆させたいというおもいが滾(たぎ)っていた。

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