北原白秋
北原白秋集
角川書店 1970

 あれから1年だ。
 その日はやたらに暑かった。「千夜千冊」のラスト・ダウンロードは出雲崎の良寛の歌に万感をこめるものとなったけれど、ぼく自身は以前からの予定で那須に飛んで、二期倶楽部の立床石(りっしょうせき)の儀にふらふらになって臨んでいた。
 春日大社の中東さんの祝詞が万緑の照り返しのなかで響くのを紋付袴で聞くうち、すうっと意識が遠のくのをおぼえた。 夜陰、やっとコテージの一室でのろのろ起き出して七夕の天空を眺めると、宇宙背景輻射3度Kの「宇宙のさざなみ」を幻聴したような気持ちになったものだ。
 良寛を「千夜千冊」最終回を待つ諸君に贈ったこの夜、自分は赤坂を遠く離れて那須の森の中にいる。この奇妙な感覚のまま千夜の営みがいったん閉じたのである。それから何がおこったかといえば、みんなに千夜の達成を祝われ、千鳥ヶ淵「册」のオープニング講演をする朝、医者に癌を宣告されかとおもうまもなく、腹を23センチ切って胃を摘まみ出されていた。あとは、うんうん、そればかり、あとは痩せるばかり。
 こうして、なむなむ、がんがん、1年がたった。
 思い返せばあのとき、第980夜第990夜あたりからだっけ、そうだ、北原白秋を入れなくてはと何度も思っていたのだった。けれどもそれが果たせぬまま、こうして1年がすぎた。
 今夜はまさに七夕の赤坂にいて、その赤坂稲荷坂から、やっと白秋琴線の調べの一端を贈りたい。

 ぼくの年代では、北原白秋はまずもって“童謡をたくさんつくったおじさん”だった。子供のころの数年で、いったいどのくらい唄ったか、どのくらい聴かされたか。昭和25年くらいから昭和33年くらいまでのことだ。
 「待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良かせぎ」「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ」「土手のすかんぽ、ジャワ更紗」は、新町松原の修徳小学校で唄った。「大寒、小寒、山から小僧が飛んできた」「雪のふる夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ、お話しましょ」「赤い鳥、小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実をたべた」は、ガキどもとがらがら唄った。「この道はいつか来た道、ああそうだよ、あかしやの花が咲いてる」「海は荒海、向こうは佐渡よ」「揺籃のうたをカナリヤが歌う、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ」は、綺麗な声の母に教わった‥‥。ぼくは、これらをすべてナマで聴き、その全部を歌って育ったのだ。
 なかで、その歌を母が唄ってくれると必ずや胸が詰まって、ううっと涙が溢れてくる定番があった。『ちんちん千鳥』『里ごころ』、『雨』である。
 「ちんちん千鳥の啼く夜さは」で始まるのは、千鳥が啼くと硝子戸をしめても寒いんだよ、千鳥の親はいないんだよ、ちんちん千鳥はだから眠れないんだよ、という歌詞である。母がこれを唄い出すと、とても寝付きの悪い子であったぼくは、途中からもう泣きべそになっていた。近衛秀麿のメロディである。
 いまはあまり知られていないかもしれない「里ごころ」のほうは、こういう歌詞だ。佐々木すぐるの曲が、またもの哀しい。

   笛や太鼓にさそわれて、
   山の祭に来てみたが、
   日暮はいやいや、里恋し、
   風吹きゃ木の葉の音ばかり
   母さま恋しと泣いたれば、
   どうでもねんねよ、お泊りよ。

   しくしくお背戸に出てみれば
   空には寒い茜雲。
   雁、雁、棹になれ。前(さき)になれ。
   お迎いたのむと言うておくれ。

 この歌は「どうでもねんねよ、お泊まりよ」から「しくしくお背戸に」にさしかかるところで、もうがまんができず、「雁、雁、棹になれ」の「か~り、か~り、さぁおになぁれ」の先まで、母の美しい声を聴けたためしはなかった。
 そして、「雨が降ります、雨がふる」の『雨』だ。作曲は弘田竜太郎。この歌には格別の思い出があって、そのことがあってから自分ではからっきし唄えなくなった。一番の「遊びにゆきたし、傘はなし。紅緒の木履(かっこ)も緒が切れた」や、二番の「雨がふります雨がふる。いやでもお家で遊びましょう。千代紙折りましょう、たたみましょう」までは、まだいい。
 だいたい、この歌は女の子の歌である。だから男の子は泣かない。泣いちゃいけない。けれどもあるとき、この歌をいとこの眞知子と一緒に唄っているとき、4番の「雨がふります、雨がふる。お人形寝かせどまだ止まぬ。お線香花火も、みな焚いた」で、眞知子がぐすぐすしはじめたのだ。そして最後のコーダ、

   雨がふります、雨がふる。
   昼もふるふる、夜もふる。
   雨がふります、雨がふる。

というふうに、ただ雨ばかりが降りつづけ、その「昼もふるふる、夜もふる」という空漠たる不条理に、ぼくが親戚中でいちばん好きだった眞知子が泣き崩れてしまったのだった。
 これがトラウマになった。以来、何度、「雨がふります」と唄いはじめても、その最後の「昼もふるふる、夜もふる」の曲と詞と眞知子の高く細く引き裂く憂いの声とが重なった思い出が忘れられず、ぼくはいっかな唄えなくなってしまったのだ。
 このことは、いま思うだに重大なことだった。まだ6つか7つの少女が、「昼もふるふる、夜もふる」で憂愁の本来というものに泣いたのである。嗚咽したのだ。ぼくはそれを知ったことを子供ごころに重大な秘密に立ち会えたと思ったのだ。もっともそのことを、のちに山口小夜子や萩尾望都木村久美子に尋ねてみると、「あら、その通りよ、少女はそのころときどき大人になって泣いているのよ」と、異口同音に言われてしまった。
 はい、はい、しかしそうだとしてもですね、ではそのように男の子を泣かせ、女の子を嗚咽させる一人の白秋がいなければ、そんなことはおこらなかったのである。

白秋のスケッチ

白秋のスケッチ

 北原白秋とは、わが少年期の童謡においてすでに、こういうフラジリティを極め、ヴァルネラヴィリティに差し迫った詩人なのである。子供に対しても、決して哀傷を辞さない詩人なのである。
 どんなふうに哀傷を辞さなかったのか、ちょっと啄みながら、解説してみよう。
 さきほどあげた『里ごころ』でいうのなら、「笛や太鼓にさそわれて、山の祭に来てみたが」の、「が」がめっぽう早いのだ。最初から逆接の提示なのである。ついで、「日暮はいやいや、里恋し」に「風吹きゃ木の葉の音ばかり」の「ばかり」がすぐに追い打ちをかけてくる。子供に向かって「音ばかり」とは何事か。ほかに、何もない。そのうえでさらに、「恋しい母」と「お泊まり」の矛盾が突きつけられる。
 
これはもはや行き場がない。それでもやっと一転、「しくしくお背戸に出てみれば」で全景がさあっと広がるのだけれど、しかしそこはもう、もはや取り戻し不可能な、あの「雁、雁、棹になれ。前になれ」になっている。
 こういうぐあいなのである。いやいや童謡についてなら、雨情にも八十にも露風にもこういう芸当はあったけれど、しかし白秋にはその芸当が、のちに「白秋百門」といわれたごとく、徹底して広く、また深かった。つまりこの芸当は童謡だけでなく、近代詩にも短歌にも、そして長歌にも歌謡曲にも民謡にも彫琢されていた。

 雨にまつわる詩歌だけをとりあげても、白秋は多彩の表意と多様の意表なのである。
 詩の『雨の日ぐらし』では、「ち、ち、ち、ち、と、ものせはしく刻む音。河岸のそば、黴の香のしめりも暗し」とあって、「かくて、あな、暮れてもゆくか、駅逓の局の長壁」と、言葉が近代都市の一郭を抉(えぐ)っていく。短歌では「長雨の蒼くさみしく淫(たは)れしてその日かの日もいまは戀しき」というふうに、青年の淫する日々を雨に回顧する。「ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな」といった相対静寂の雨もある。一方、男たちの濫賞に向けては、「雨‥雨‥雨‥雨。雨は銀座に新しく、しみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、敷石の上、雪の上」というふうに男バカボンドの歌謡に乗せる。
 白秋の表意と意表は綺語歌語縁語の宗匠というほどに、幅がある。だいたいこの時期、近代詩人で長歌に凝った者などいなかった。白秋は折口信夫と「親類つきあひ」をした人であったのだが、その折口が唯一、長歌をものしたくらいなのである。
 のちに萩原朔太郎は「日本に幾多の詩人はあるが、概ね詩歌俳句等の一局部に偏するのみで、白秋氏の如く日本韻文学の殆んどあらゆる広汎な全野に渡つた、英雄的非凡の大事業を為した人はいない」と評した。

 こういう広範きわまりない白秋を、さてぼくはどのように読んだかというと、これは子供のころにオルガン童謡、アカペラ童謡で育ったこととは、まったく異なってくる。

 最初に活字として読んだのは第二詩集『思ひ出』だった。高校3年くらいのころだったろうか。しかし、これで思いは存分なほどに打擲された。おおげさにいえば、この詩集でぼくのフラジリティをめぐる感覚は劇的に発端したといってよい。
 
とりわけ「蛍」で比喩の美に凌辱されて、「青いとんぼ」で極微の表現に幽閉された。青年は、子供のころの寂しい日々の印象に戻っていいんだ、そこからしか寂しい本質の何物かに触れうるはずはないんだ。そういう負の確信をもてたのが『思ひ出』だったのだ。
 なかでも「蛍」は、昼の蛍を夏の日なかのヂキタリスに譬え、その小さな形象を五感に刻んでいくようになっていて、どぎまぎさせられた。とくに「そなたの首は骨牌(トランプ)の赤いヂャックの帽子かな」の2行に、とっくり、まいった。昼の蛍の首筋の赤に目をとめ、幼児の記憶に戻って「赤いヂャックの帽子かな」の換喩に遊んでいるのが、ああ、ひたすらに羨ましいかぎりだった。

 もっと驚いたのが「青いとんぼ」である。「青いとんぼの眼を見れば 緑の、銀の、エメロウド、青いとんぼの薄い翅、燈心草の穂に光る」の出だしはともかく、「青いとんぼの奇麗さは 手に触るすら恐ろしく、青いとんぼの落つきは 眼にねたきまで憎々し」とあって、こういうふうに蜻蛉にでも赤裸々な感情移入ができるものかと思った瞬間、次の2行の結末に、わが17歳の精神幾何学の全身にビリビリッと電気が走っていた。
 
こういう結末の2行だ、「青いとんぼをきりきりと夏の雪駄(せった)で踏みつぶす」。嗚呼!

 それからは、白秋を読み耽ったというより、その精神の電撃を眼で拾うために、白秋の詩集や歌集のページの中をうろつきまわったというに近い。
 これはいま憶えば、白秋が「幼年期の記憶の再生」をもって、新たな感覚のフラジリティの表現を獲得したことを追走したかったのだろうとおもう。この、「幼年に戻る」ということ、「幼な心にこそ言葉の発見がある」ということが、ぼくが白秋から最初に学んだことだったのである。
 そのことは『思ひ出』冒頭の「わが生ひたち」の、そのまた冒頭に白秋自身がちゃんと書いている。明かしている。「時は過ぎた。さうして温かい苅麦のほのめきに、赤い首の蛍に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい経路に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい思ひ出の哀歓となつてゆく‥」。
 また、こうもはっきり書いている。「‥玉蟲もよく捕へて針で殺した、蟻の穴を独楽の心棒でほぢくり回し、時には憎いもののやうに毛蟲を踏みにじつた。女の子の唇に毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、静かに蠶室の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてて食み盡す蠶の眼のふちの無智な薄褐色の慄きを凝と眺めながら、子供ごころにも寂しい人生の何ものから触れえたやうな氣がした」。
 これでフラジリティの国への断呼たる出立がなくてどうするか。白秋にとっては背水の、そういう文章だ。

 おそらく詩集なら、いまでも『思ひ出』がいちばん好きだろう。山本健吉三島由紀夫も、そんなことを言っていたかとおもう。

詩集『思ひ出』より
詩集『思ひ出』より

詩集『思ひ出』より

 ついで早稲田に入ってしばらくして、第一詩集の『邪宗門』をやっと読んだけれど、これは、言葉の耽美主義の錬磨が果報であったことに目を奪われたくらいなのもので、それほどの衝撃はなかった。ぼく自身が白秋と同じ早稲田の学生になったこと、しかし白秋は青春に甘んずることなく早稲田を放り捨て、『天地玄黄』で世を震撼とさせた与謝野鉄幹主宰の新詩社の門をくぐり、さらに晶子の放埒がめざましい『明星』に入って、かつそこから離脱するにいたったことなど、ぼくのほうも白秋に関する知識も近代詩についての知識もふえていて、そういう経緯に詳しくなったことが邪魔なフィルターになり、まともな耽読に向かわなかったのだろうと憶う。
 しかしそれでも、白秋をとりまく詩魂たち機運に押され、ぼく自身の日々が叱咤されているような気になった時期の『邪宗門』なのである。

 学生時代、そこまで白秋が気になったことについては、実はちょっとした理由もあった。ひとつは同じ早稲田に入ったというどうでもよいことだが、もうひとつは白秋もぼくも同じく1月25日に生まれていたということだ。
 
これもどうでもいいようなことだが、そうではない。いま初めて言うのだが、ぼくには、歴史の中の逸材とこそ伴走する癖があった。

 そもそもぼくには、誰かと競いあうという競争意識がまったく欠けている。小中高を通じていっさい誰とも競わなかったし、その後も誰かをライバル視することも、貶めたいとおもうことも、あいつには負けられないと思ったことも、ない。
 その後も、誰が成功しようと、誰が大儲けしようと、まったく関係がない。嫉妬もない。また、挑まれたこともなく(そういう相手がいたとしても気づかない)、誰かを選んで挑んだこともない。そのかわり、ここがなぜだか妙なことなのだが、歴史の中を遊弋した人物にはめっぽう惹かれて、その歴史の活動の奥に分け入っては、まるでその時代の息吹を同時代でうけているかのように、その者たちとともに、当時の熱情や哀愁や、また革命や孤立に駆り立てられてしうまうのである。ぼくには、そういう性癖がある。
 早稲田時代は、いまおもえば、ブルームズベイリー・グループやゲバラや、明恵・大日能忍・道元や、ガンジーやアンベードカルや、またド・ブロイハイゼンベルクシュレディンガー、あるいはディアギレフやルドルフ・サリなどとともに、白秋やその周辺が、そういうぼくを伴走に駆り立てる群像だったのである。まして、二人は同じ誕生日‥‥。

 白秋がその早稲田に入ってきたのは明治37年の19歳のときである。それまではずっと北九州屈指の水都・柳河にいた。海産問屋と酒造りを営んでいた素封家のトンカ・ジョン(大きな家の子)で、病弱で寂しがり屋の、何の苦労もない子供時代と見える。
 むろんそんなことは見かけ上のこと、実際には妹がチフスで亡くなり、明治23年のコレラの流行に脅えたりして、不安きわまりない少年期をすごしている。柳河ですら、白秋自身は「廃市」と呼んでいた。
 そういう白秋が傾きつつある家業から逃れて、親や周囲の反対を押し切って早稲田に入ってきた。英文予科だった。同級に若山牧水がいて、土岐善麿、佐藤緑葉、安成貞雄がいた。白秋はあっさり授業を捨ててこの破格の友人たちと語らい、図書館にこもって鴎外の『即興詩人』を、上田敏の『海潮音』を、さらに『大言海』の単語を片っ端から繰っていく。牧水と同じ部屋に下宿もした。
 早稲田にはまた、相馬御風、人見東明、野口雨情、三木露風、加糖介春らのいずれ劣らぬ綺羅星がいて早稲田詩社が結成されていた。

 時はまさに鉄幹の「明星」全盛期。
 鉄幹はすでに明治25年には正岡子規・大町桂月・落合直文らと浅香社で新派和歌運動をおこし、30年代にはこれに佐佐木信綱・土井晩翠・外山正一・矢田部良吉が加わって新体詩会をかまえて、第一歌集『東西南北』では虎剣調とよばれた男性的謳歌を、第二歌集『天地玄黄』では万葉調の浪漫主義を標榜、その牽引力は絶顛ぎりぎのところまで達していた。そこへ晶子が飛びこんで、『明星』は新たな星菫調をもって女だてらのソフィスティケーションをおこしつつあったところだった。
 白秋も短歌や詩を寄稿しているうち、この歌壇新撰組組長ともいうべき偉大な大丈夫(ますらお)に目をつけられて、たちまち詩壇歌壇の麒麟児ともくされた。それが弱冠22歳のときである。白秋は夜な夜な、鉄幹、晶子、木下杢太郎、吉井勇、まもなく死ぬことになる石川啄木らの、才能ほとばしる詩才たちと語らうことになる。
 ぼくがそこにこそ参画して伴走したかったと思ったのは、明治40年7月下旬から1カ月をかけて、与謝野鉄幹、平野万里、木下杢太郎、吉井勇と連れ立って、故郷柳河を振り出しに、佐賀・唐津・佐世保・平戸・長崎・天草・島原・熊本・阿蘇を遊歴したという、例の「五足の靴」の旅である。このときの「天草雅歌」こそ第一詩集『邪宗門』の頂点を飾っていく。そんな「五足の靴」の経緯を知ったとき、ぼくは思わず「ちくしょう!」と叫んだはずだ。

詩集『邪宗門』より

詩集『邪宗門』より

 このあとの白秋については、ぼくはその軌跡を追いかけなかった。白秋が鴎外の観潮楼の歌会に招待されたこと、そこで佐佐木信綱・伊藤左千夫・斎藤茂吉と知りあった直後、木下杢太郎・吉井勇・長田秀雄らと「明星」を脱退したこと、そこに石井柏亭・森田恒友・山本鼎らの青年画家が加わって浪漫異風の「パンの会」を結成したこと、翌年の明治42年の「スバル」創刊に『邪宗門新派体』の総題で「天鵝絨のにほひ」ほか七編を発表したこと、そこからは白秋こそが「スバル」を代表する詩人になったことなどについては、追いかけたい白秋には見えなくなったのだ。
 そんなこんなで、白秋を読まなくなった日々が10年ほどあったろうか。そのころのぼくはどちらかといえば、たとえば蒲原有明や薄田泣菫などの、むしろ白秋以前の近代短詩型の異端児を徘徊していたのだ。それがあることがきっかけで、『桐の花』を読むことになったのである。白秋が「またまた、御免よ」と帰ってきた。

 あることというのは、テレビで美空ひばりの「城ヶ島の雨」を、ふーん、やっぱりひばりは絶品だ、こんなふうにこの歌を唄うなんて、すごい、凄い、サイコーだと思って聞き終わり、スタジオで司会の誰かが「えー、これは北原白秋の作詞ですよね」と言ったとたんのことである。

 ここで白秋が急に蘇ったのだ。それにしても、またもや“雨”の白秋だった。

雨はふるふる、城ヶ島の磯に、
利休鼠の雨がふる。
雨は真珠か、夜明の霧か、
それともわたしの忍び泣き。
舟はゆくゆく通り矢のはなを、
濡れて帆あげた主の舟。
ええ、舟は櫓でやる、櫓は唄でやる、
唄は船頭さんの心意気。
雨はふるふる、日はうす曇る。
舟はゆくゆく、帆はかすむ。

 曲は梁田貞。完璧な歌詞である。一聯ずつのトランジットが抜群にいい。
 最初に城ヶ島に「利休鼠の雨がふる」と、独特の水墨イメージを切り取っておいて、「真珠・霧・忍び泣き」のメタファー3発を並べて見せつつ、ついでは「わたしの忍び泣き」という自他の橋懸かり。その光景に舟を走らせ、そこからは「舟は櫓でやる、櫓は唄でやる」の返しがえし。そのくせ「唄は船頭さんの心意気」という親しみのこもった呼びかけが入って、あとはふたたび遠水幽帆の水墨画なのである。
 ぼくは白秋がどうしてここまでモノクロームな烟語をつかいきれるかと思って、久々に白秋を読みたくなっていた。本屋に走った。
 このとき、近所の本屋には白秋の詩集はたしか新潮文庫の『からたちの花』しかなく、よく探しはしなかったのだろうけれど、そのほかは講談社「日本現代文学全集」の『北原白秋・三木露風・日夏耿之介集』があっただけだったので、これを買った。そこに『邪宗門』『思ひ出』全詩のほか、『真珠抄』『白金ノ独楽』『水墨集』の抄録とともに、『桐の花』全歌が収められていたのである。

 勿体なくもこのときまで、ぼくは白秋が短歌の名人でもあることを知らなかったのだ(岩波文庫の『北原白秋歌集』もまだ出ていなかった)。が、この歌集で“わが知らざる白秋の絲”ともいうべきものに切りきりきり、切りまわされた。

 『桐の花』の歌集名は、「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花のごとくに消えはつべき‥云々」にもとづいている。白秋は桐の花の薄い咲き方、はかない散り方を三十一文字の歌に託していた。ぼくは、まず花の歌に目をやった。

   いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみの
      ちりそめぬれば五月(さつき)はきたる
   廃(すた)れたる園に踏み入りたんぽぽの
         白きを踏めば春たけにける
   桐の花ことにかはゆき半玉(はんぎょく)の
         泣かまほしさにあゆむ雨かな
   君と見て一期の別れする時も
         ダリヤは紅しダリヤは紅し
   男泣きに泣かむとすれば龍膽(りんどう)が
         わが足もとに光りて居たり
   どれどれ春の支度にかかりませう
         紅い椿が咲いたぞなもし

 このなかで「ダリヤは紅しダリヤは紅し」だけは、高校時代に誰かが放課後の黒板に書き残していて、白秋の歌と知らずに心の隅にひっかかっていた歌だった。ぼくは「桐の花」と「かはゆき半玉」が根本対同した歌に感服した。

 が、こういう花の歌もよいのだが、この歌集でぼくをふたたび白秋に向かわせるきっかけになったのは、「秋思五章」に歌われた“絲”の音である。きりきり、きりり、こんな音がする短歌だ。

   清元の新しき撥(ばち)君が撥
         あまりに冴えて痛き夜は来ぬ
   手の指のそろへてつよくそりかへす
         薄らあかりのもののつれづれ
   微かにも光る蟲あり三味線の
         弾きすてられしこまのほとりに
   円喬のするりと羽織すべらせる
         かろき手つきにこほろぎの鳴く
   太棹のびんと鳴りたる手元より
         よるのかなしみや眼をあけにけむ
   常磐津の連弾(つれびき)の撥いちやうに
         白く光りて夜のふけにけり

 第2首をのぞいて、とくに仕上がりがよい歌ではない。白秋にしてまだ未成熟のままであるけれど、それをこえて常磐津や清元の絲の音がする。のみならず、歌集全首がその三絃に切り結んで、魂を裸にさせている。
 いったいどうしてこのような『桐の花』になったのか。ぼくはふたたび白秋の「パンの会」のあとを追う気になった。そして、意外なことを知ったのだ。
 それは明治末年のことである。28歳の白秋は前年に原宿に転居したときに隣家の人妻松下俊子と知りあい、その後に熱烈な恋愛に落ちている。ここまでならよくあることだが、運悪くというのか、白秋は俊子の夫に姦通罪で告訴され、市ケ谷の未決監に放りこまれてしまったのだ。つい先だっては『思ひ出』が上田敏によって激賞されて栄光に包まれたのだし、高踏文芸誌「朱欒」(ざぼん)を創刊して気勢をあげたのだった。名声まっただなかの事件なのだ。
 事件はさいわい、1カ月後に無罪免訴となったのだが、白秋はそうとうに苦しんだ。一時は発狂寸前まで追いこまれ、憂悶のあまりふらふらと木更津あたりをさまよいもしている。ここで詠んだのが『桐の花』の哀傷短歌群なのである。それを詠んで白秋は三浦海岸に渡り、死を決意する。
 そんなことがあったのだ。

白秋のスケッチ

白秋のスケッチ

 結局、白秋は死を選べない。そのかわり敗残者の烙印を秘めて、心の巡礼者になることを誓う。そこへ夫に離別され、胸も病んでいた俊子から助けを求められ、白秋は新生を求めて結婚、死にそこなった三浦の三崎町の異人館に転居する。
 ああ、そうだったのか、そういうめぐりあわせかと思ったのは、このとき三浦三崎の臨済宗見桃寺に仮寓していた白秋が、一気に仕上げたのが『城ヶ島の雨』だったということだ。だからこその、♪舟はゆくゆく通り矢のはなを、濡れて帆あげた主の舟‥‥。
 詩壇の寵児白秋は、あっというまの無一物なのである。それでも白秋はまだ心の巡礼を始めたばかりの日々。そこで、あえて船上の人となり、小笠原の父島にまで渡って俊子の療養にあたる。白秋が白秋自身を「寂寥コワレモノ」の極限にまで追いこんだのだ。けれども、俊子は耐えられずに東京に帰ってしまう。一人白秋はそのまま貧窮を厭わず父島に留まった。大正3年のことである。
 そう、白秋にして、そんな絶海の孤島にいたことがあったのだ。

 以上のことは最初から白秋のことを調べていれば、容易にわかったことではあるけれど、ぼくは幸か不幸か、これらを『桐の花』とともに知り、その後は三崎時代に詠んだ歌を収めた『雲母集』や『雀の卵』を見開いて、うーむ、白秋はやっぱりただならないと、そんな溜息をついていた。
 その『雀の卵』には、「南海の離れ小島の荒磯辺に我が痩せ痩せてゐきと傳へよ」などという歌とともに、こんな文章も入っている。「我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め、妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我は心より畏れ、妻は心より淫る。我未だ絶海の離島小笠原にあり‥」。

 俊子に文句をつけているところが気にくわないものの(白秋には根本的にフェミニズムが欠けている。白秋の女性は母と少女と人形なのだ)、白秋その人はあまりに切々と痛々しい。それから大正8年の35歳あたりまで、さすがに白秋は窮乏のなかにいた。
 けれども、裸になれば人の世はときに大きく旋回したり寄り戻してくるもので、事態はしだいに変わっていく。まずは、「朱欒」に育った室生犀星・萩原朔太郎・大手拓次が“白秋三羽烏”として頭角をあらわし、次々に白秋に序文を求めて、傑作『月に吠える』などに結晶していった。
 
また、『城ヶ島の雨』は島村抱月によって芸術座の舞台で唄われ、つづいて中山晋平が曲をつけた『さすらひの唄』が大ヒットした。例の、「行こか戻ろか、北極光(オーロラ)の下を、露西亜は北国(きたぐに)、はてしらず。西は夕焼、東は夜明、鐘が鳴ります、中空(なかぞら)に」に始まる、一度口ずさんだら、胸をかきむしって離れぬ歌だ。
 このあと経済的にも復活し、白秋は平塚雷鳥のもとに身をよせていた大分の江口章子と結婚する。それで、やっと安定を得ると家を建てるのだが、その地鎮祭の夜に章子に逃げられ、ふたたび「心の巡礼」の杜撰であったことを思い知る。が、それも大正10年にはまたまた新たな大分の女性佐藤菊子と、今度こそはと結んで、子供を生むにいたった。
 このあとの白秋がいよいよ童謡に磨きをかけたのである。三好達治だったか、白秋の作品では童謡が最もすぐれていると言っていたのは言うまでもなく当然のこと、こうした激越な天罰の果てでの童謡ポイエーシスだったのである。

『北原白秋集』セイゴオのマーキング

『北原白秋集』セイゴオのマーキング

 さて、ここまでがぼくの拙(つたな)い白秋遍歴であって、その後はときおり白秋に対座する夜がつれづれあって、そのつど、白秋百門に唸る、ちょんちょん読む、考えこむ、飽きてくる、また唸る、黙って読みたい、なんだか胸騒ぎがしてくるという、そんな断続にすぎない。
 そうしたなか、いま書いておきたいとおもうのは、ひとつには、白秋はついに“雅俗”を分離しなかったということ、その言葉の旋律はつねにノスタルジアとフラジリティに接しようとして生まれていたこと、それが歳を食むごとに「無常の観相」や「もののあはれ」にまで結びついたことである。「鳴かぬ小鳥のさびしさ、それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である」と白秋自身は書いた。白秋は「欠如からの表意」に賭けたのだ。
 が、これらのことはいまさら説明するまい。

 もうひとつは、そのことを書いて今宵の白秋と別れたいとおもうのだが、白秋には特別のオブジェの感覚に寄せる眼があったということだ。オブヂェと綴ったほうがいいだろうか。むろんいっぱしの詩人や歌人や俳人なら、なにかしら事物や物体に注意のカーソルが細かく動くのであるけれど、それが白秋ではやや風変わりだった。けれども、ぼくが白秋を贔屓にしたいのは、実はこの風変わりなのである。
 たとえば、カステラのことだ。
 そもそも『桐の花』には序文があって「桐の花とカステラ」が綴られている。そこで白秋は、夏の帽子をかぶるころ、眼で見るカステラの感触がわずかに変化するのが好きなんだと言い、触れぬのに感じるタッチというものの渋みこそ、自分が表現したかったものだと告白する。カステラの端の茶色が筋となって切れるところにも、眼を寄せる。
 こういう感覚は、舌出し人形の赤い舌、テレビン油のしめり、病いのときに一口だけ飲むシャンペンの味、銀箔の裏の黒、恍惚に達する寸前の発電機、堅い椅子に射す光、いままさに汽車が駅に入ってくるときの匂い、日曜の朝の蕎麦、背後の花火の音、そして、白金浄土のキリギリスというふうに、どんどん滑っていく。

 これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。たとえては、「一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく訪(おとな)ふ身とは知らしたまはじ」という、そのココアと一瞬だけ交わった眼の言葉、タッチの渋みなのである。
 この感覚は風の変わりというものだ。風変わりとは、そのことだ。その場を魂が立ち去る直前の風趣の変わりというものだ。いえいえ、それこそが郷愁という風趣、さもなくば風趣というオブヂェたちなのである。
 晩年、白秋は水墨山水の画境老荘思想や黄表紙の戯れにも、さらにはついに「ほそみ」の趣向にさえ入っていくのだが、その趣向はすでにハッカの味がするオブヂェ感触の、風の去来に発端していたのではあるまいか。

 しかしそれはまた、次の文章に秘められた白秋の風趣の極北を暗示していたともいうべきだった。「つくづく慕はしいのは芭蕉である。光悦である。北斎である。利休である。遠州である。また武芸神宮本玄心である。私もどうかしてあそこまで行きたい」。
 そうなのだ。白秋は昭和の戦争の渦中、ひたすら日本回帰の人となり、日本語だけがもつ風来ばかりに耳を澄ませていたようにも想われる。

 では、千夜千冊目から1年目の七夕は、こんなふうに良寛と響きあう二つの白秋を贈って、黒の夜を締めたい。ひとつはごく僅かな星の歌から一首、もうひとつは『他ト我』という、こんな詩が白秋にあったとはほとんどが気がついてない、こういう詩だ。

   寂しくも永久(とは)に消ゆなと離るなと
      仰ぎ乞ひのむ母父(おもちち)の星

   二人デ居タレド マダ淋シ。
   一人ニナツタラナホ淋シ。
   シンジツ二人ハ 遣瀬(やるせ)ナシ。
   シンジツ一人ハ 堪ヘガタシ。

附記¶七夕さらさら、軒端にゆれて、オホシサマひとつ、金銀砂子。たいそう遅れましたね。でも、これがぼくの白秋です。『思ひ出』にしようかと思いましたが、それはこの七夕の夜の文間すべてに撒いて、あえて白秋の律動のちんちん千鳥の啼く夜だけにしました。だって、きっとそうでしょうが、いったい誰が今夜、慕える人と銀漢を眺めあえるでしょう? みんなみんな、本当にしたいことなんて、いつもできないのです。そう、七夕のこの夜だって。北原白秋とは、それでいいじゃないかと言いつづけた切実の人でした。良寛、思い出されます。

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