アンドレ・ジッド
狭き門
新潮文庫 1954
ISBN:4102045031
Andre Gide
La Porte Etroite 1909
[訳]山内義雄

 岩崎文江に勧められたのだったと思う。勧められたのではなく、アリサみたいな気持ちって、松岡さんにはわからないでしょ、と言われたのだ。
 それで小野寺という岩崎の親友にそのことを言ったら、「えっ、岩崎さんが好きなの?」と、隠していたわけでもないのに隠していたようなことを言われ、うん、まあ、それは別としてとかなんとか言ったのだろう。だめよ、『狭き門』くらい読まなくちゃと詰(なじ)られた。
 それからだ。岩崎文江が好きなのかもしれないなと思い始めたのは。高校2年の秋のことだった。その岩崎に言葉足らずに、まとまらない気持ちを打ち明けたのは卒業間際のこと、いまから思うとなぜそんな慌ただしいときに告白をしたのかと思う。

 アリサについては、ずっとたってから岩井寛さんから、「松岡さんはアリサをどう思いますか」と訊かれたことがあった。いまをときめく精神分析医の大家からそんなことを急に訊かれて困ったが、もっと困ったのはアリサの記憶は高校時代の女生徒の記憶とどこかで分かちがたく結びついたので、それを即座にほぐして話せることなどなかったことだ。
 岩井さんはぼくを助手席に乗せて、ぼくのことなど問題にもせずに(いや、何かを気遣ってのことだったかもしれないが)、アリサの愛が神の愛による代償なのか、死の愛をもって生の愛を越えようとしたのか、そこが結局われわれの精神医学に立ちはだかっているんですよねえと、ハンドルを持ちながら言った。ぼくはこれはえらいことになったと思いながら、おそらく曖昧なことを言ったのだろうと思うが、岩井さんは、まあエロスとタナトスの、そのどっちからから見ていくかということですね、と笑った。
 こういうわけなので、アリサの問題についてはぼくにはまともな解答がない。いったいアリサはジェロームを愛しながらも死を選んだのか、地上的な自縛する愛を天上的な愛で見放つために、ジッドがアリサを死なせたのか、ではジェロームはどうしたらいいのかというような、いずれの問題にも、ぼくは解答をもってこなかった。むしろ、ジッドという作家の表象力に感嘆しつづけているといったほうが正直な感想なのだ。
 それは『狭き門』の最後のアリサの日記に、「主よ、ジェロームとわたくしと二人で、二人ともあなたさまのほうへ近づいていくことができますように」というところを読んだときから、兜を脱いでいることだった。
 もっと正確にいえば、『法王庁の抜け穴』のラフカディオ(動機のない無償の行為を敢行する)や、『贋金つかい』のベルナールなど、ジッドの苦悩が生み出した人格表象には、手もなく脱帽しているということなのである。

 ジッドの少年期は『狭き門』の舞台とほとんど同じだったといってよいだろう。パリ大学の法学部教授の父親は11歳で死に、母親のかつての家庭教師が同居して、ジッドは育った。この特異なシチュエーションは『狭き門』にそっくり移行されている。
 ただ、少年期のことは省略されている。実際の少年ジッドは自伝的な『一粒の麦もし死なずば』を読めばわかるのだが、恐ろしいほどの病的な臆病者で、成績はたいてい不良、判断をつねに鈍らせて教師を困らせていた。おまけに自慰の悪習に悩みつづけていた。ようするに少年ジッドは、多くの少年がそうなるような蛹虫状態の中にいた。
 ただし、多くの少年一般には拡張できない事情も、そこにはあった。両親および家庭教師からうけた厳格なプロテスタンティズムがジッドにもたらした克己主義である。少年にはプロテスタンティズムの倫理は魂の平衡感覚をひどく乱すものだったのだ。
 このことはキリスト教の厳格な教育を受けていない者にはちょっと見当がつかないことで、しかし、それがかえって少年にバランスを失わさせるというのは、なるほどありそうなこととも思える(それでもジッドは、のちにポール・クローデルやフランシス・ジャムが再三勧めたにもかかわらず、生涯にわたってカトリックへの転身を拒みつづけた)。
 こうした蛹虫ジッドが殻から脱出しはじめるのは、二つ年上の従姉マドレーヌ・ロンドーの清純な美しさに寄せた思慕にめざめたときからである。ここからはまた誰にもおこることであるが、恋がなにもかもを変えるきっかけになったのだ。こうしてこのあと、ジッドはジェロームに、マドレーヌはアリサになっていく。『背徳者』のマルスリーヌもマドレーヌの変形になっていく。

 『狭き門』では、アリサはジェロームに対する無上の愛をのこして自らの命を断っていくのだが、実生活ではジッドはマドレーヌに求愛ののち、結婚する。
 このジッドとマドレーヌの現実の結婚生活は異常なものだったようだ。ジットの死後に公開された『秘められた生活』が明かしているのだが、ジッドはマドレーヌのような精神的に清純な女性には性欲がないと思いこんでいたというのだ。
 これはしかし、にわかに信じがたいことで、一方ではジッドが異常性欲の持ち主で、また過度の同性愛志向をもっていたことがよく知られていて(ジッドの告白もある)、マドレーヌと交わろうとしなかったことを上記の理由だけで説明できるとは思えない。実際にマドレーヌが「マリアージュ・ブラン」(白い結婚)のうえの“処女妻”として生涯を送ったかどうかも(そう言われているのだが)、あきらかではない。
 このあたり、どうもジッドは何かを隠し、何かを暗示して死んでいったふうにも見えるのだ。

 ロレンスの『チャタレイ夫人』がそうであったように、ジッドの『背徳者』や『狭き門』がプロテスタンティズムの批判になっていることも、よく知られている。
 しかしこれもジッドからすると正反あいなかばしていることで、現状のキリスト教には我慢ならなかっただけで、本来のキリスト教の愛の哲学は、それが実践さえされるのなら、何にもまして秀れたものだと考えていた。のちにジッドは共産主義に共鳴して「真に理解された個人主義は共同体に奉仕すべきだ」という自説を現状のキリスト教よりも共産主義に求めようとするのだが、もしキリスト教が偽善を打破して、愛の原始性に回帰できるなら、そちらのほうがずっといいとも考えていた。しかし、そんなキリスト教は、もはやどこにもなくなっていた

 話を『狭き門』に戻す。この作品はまことに平易な文章で綴られている。それなのに、その行間がもたらす緊張感とこの作品を読みながら促される思索の一貫性については、まったく類がないほどの質になっている。まさにアンドレ・ジッドの彫琢だ。
 きっと何度も書きなおしたのであろう。大正末年、かつて石川淳は「ここには鑿(のみ)の冴えがある」と書き、「葉陰を洩れて水に沈む日の光」というメタファーで『狭き門』を絶賛したものだった。構成も緻密というより、作家の想像力に頼らない力、すなわち信仰とその破れ目の導入を図って、作品の中に自己を預けているようなところがあって、そこが文体を天上から引き上げるようになっている。
 とくに『ルカ伝』第13章第24節に「力を尽くして狭き門より入れ」とあるのをエピグラフにおき、作品の冒頭で、「ほかの人たちだったら、これをもって一巻の書物を書きあげることもできただろう。だが、わたしがここに物語る話は、わたしがそうした生活を生きんがために全力をつくし、そして、わたしの精根がそれに傾けつくされたところのものなのだ」という“投げ捨て”をやってみせているところも、なんともこの作品の金輪際を思わせて、一気に物語に入っていく発動装置になっている。
 ジッドはもともと物語は「ロマン」(記録もの)ではなくて「レシ」(語りもの)であることをめざした文学者であるが、そのような狙いは、こうして巧んでこそ成功した。

 実はぼくがこの作品を高校時代以来ほったらかしにし、やっと再読したのは先週のことだった。「千夜千冊」はそういうことの繰り返しにつぐ繰り返しではあるものの、ときにその読書体験のあまりにかけはなれた様相に驚くことのほうが多い。
 けれども『狭き門』については、まったく困ったことに、あの岩崎文江を慕って読んだあのときの印象と、およそ変わっていなかった。これはいったいジッドを褒めるべきことなのか、それともぼくの拙い恋心がいまだになんらの成長もしていないことを告げているのか(あー、あ)、そこはあまり定かではないのだが、ともかくも文学作品のもつ不変なシチュエーションの設定の力というものを久々に感じさせた。
 ジェロームとアリサについても、ぼくはまたまたジェロームの身にもアリサの心にもなって、悩んでしまった。これではまるで高校生を一歩も出ていないというお粗末であるが、まあ、そうなのだ。あえてちゃんといえば、われわれは少年や青春の記憶の襞にひそんでいるところの、その後は二度と体験できなかった失望や悲哀や落胆の気配を、いったいどのように再生できるかという問題なのでもある。
 アリサはこう日記に書いている。「悲哀は一種の罪の状態で、錯綜なのである」。
 悲哀は罪になる? 悲哀は錯綜? そうだとすると、ぼくは59歳にして、むしろいまだなお悲哀が足りず、いますこし静謐で、いますこし困難な悲哀をこそ求めているということになるのだが‥‥。

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