才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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細川ガラシャ夫人

三浦綾子

新潮文庫 1986

 三浦綾子は『氷点』で話題を攫(さら)ってから、初めての歴史小説となった『細川ガラシャ夫人』を書くまでに十年をかけている。ぼくの母は「主婦の友」に連載が始まったガラシャの物語をとてもたのしみに読んでいた。
 この作家は苛酷な病魔と闘いつづけた作家である。雪の旭川に生まれ、長じて7年間ほど小学校で教鞭をとったのち、敗戦直後に脊椎カリエスに罹って、病床のままキリスト教の洗礼を受けた。昭和34年に結婚して雑貨業を夫と営むうち、そのかたわらに書いたのがベストセラー『氷点』である。朝日新聞が”一千万円懸賞小説”と銘打った賞の入選作品だった。北海道作家として『挽歌』の原田康子と並び称される一方、この”一千万円懸賞小説”を機に、日本の女性現代作家が雨後のタケノコのように輩出した。
 が、この作家は幸甚きわまりないデビューだったにもかかわらず、一作でおわることがなかった。のみならず次の『積木の箱』も大ヒットした。いずれも映画にもテレビドラマにもなった。三浦綾子の名はこういう事情でたちまち広まったので、さぞかし大衆的な作家だろうとタカをくくりたくなるが、まったくそうではない。4作目の『塩狩峠』を読むとわかるように、そこにはつねに神と人とのあいだの原罪と贖罪を激しく問う姿勢が貫かれてきた。ぼくは、とりわけ『母』を読んでガツンとやられた。『母』は小林多喜二の母セキの目で惨殺された多喜二の生涯を追跡している。
 そういう三浦綾子がガラシャを書けばどうなるか。ぼくの母がこれをどんなふうに読んだかはいまとなっては知る由もないけれど、しばしば母を思いながら読んだことを思い出す

 細川ガラシャ夫人は本名を玉子(玉)という。ガラシャは洗礼名のグレーシアが桃山ふうの日本読みになった。
 玉子の父親は誰だったか。このことをぼくの周囲の多くの連中が知らなかったので驚いたのだが、玉子の父は明智光秀である。この父をもったということに、玉子の第一の、そして決定的な宿命のルーツがあった。玉子の母親のほうは妻木勘解由左衛門の家から光秀のところに嫁いできた。そこにも多少の宿命が投影するのだが、それはいま省くとして、その玉子が嫁いだ先が細川家の忠興だった。細川幽斎こと細川藤孝の長男である。のちに茶数寄の名人の一人と評された藤孝=幽斎には、将軍足利義晴の御落胤だという噂がつきまとう。
 その藤孝の子の忠興と玉子の結婚は信長の命令によるものだった。ここに第2の宿命が待っていた。あとで説明するが、細川家という弱肉強食の世で延命を懸命に重視する家の宿命も関与した。
 しかし第3の、そして玉子にとっての最大の宿命は何だったかといえば、玉子が育った時代そのものが喉の奥まで当時の男と女の定めを咥えこんでいたということだ。玉子ガラシャが光秀の娘であったこと、信長の命令によって16歳で細川家に嫁いだこと、その父が信長を暗殺したこと、それらすべてが玉子を変えた。
 おまけに玉子はデウスを信じて受洗した。キリシタンになった。これで玉子の宿命が決まらないはずがない。案の定、関ヶ原合戦の戦端が開かれた当夜、玉子は38歳で自害する(実際には自害ではなく家来に殺させた)。
 と、いうふうに、ふつうなら記述する。けれども三浦綾子はそうはこの物語を書かなかったのだ。玉子はみずからキリシタンとしての第4の、神に導かれる宿命を選んだと書いた。だから、玉子がガラシャとして選んだ死は自害ではなく、家老の小笠原少斎に討たせた天礼への昇華だったのだ、と。

 もっとも、これだけではガラシャ玉子の波瀾万丈の宿命の物語はわかるまい。父・明智光秀の謀反はどう玉子にかかわったのか。光秀が信長を本能寺に襲ったことは玉子にとってどんな意味だったのか。夫の細川忠興は玉子をどう見ていたのか。キリシタンたち、たとえばパウロパウロや高山右近はどんな役回りだったのか。説明しないとわからないことが多すぎる。
 しかし最初に言っておくべきことは、玉子は夫の細川忠興には決意を秘めてキリシタンに走っても、父の光秀に背いたことはなかったということである。

 明智は美濃の可児あるいは恵那に居城をもつ土岐一族の一門で、水色桔梗の紋で知られる。ただし光秀の青年期に明智家は急成長しつつあった斎藤道三一族の勢力に押され、光秀はいったん越前の朝倉義景に仕えた。玉子が生まれたのはその越前でのこと、永禄6年(1563)だった。三女である。
 この年は桶狭間の合戦の年でもあって、今川義元が敗死する。このころまでの光秀は不遇だったといってよい。玉子が5歳のときに、やっと光秀は信長に重用された。
 その光秀と信長の関係にはいろいろ複雑なところがある。なにしろ主君殺しの犯人なのだから、複雑な関係があったと想定できるだろうが、それがなまなかではなかった。なかで一番有名な関係は、光秀の叔母が斎藤道三に嫁いでいたこと、道三と叔母のあいだに生まれた濃姫が信長に嫁いで、やがて正室となったことである。こう書いただけでは現代人にはわかりにくいだろうが、この関係だけでも光秀は信長の掌中に入らざるをえない。道三も義理の父となって、信長傘下に組み込まれたのである。
 それだけではない。光秀はことごとく信長に翻弄された。それでついに謀反をおこしたということになっている。しかし必ずしもそれだけの理由で光秀が「敵は本能寺」と決断したかどうか、疑問がある。三浦綾子もこの小説の3分の1ほどをつかって、その疑問を静かに投げかけた。

 それにしても、明智光秀ほど評価が定まらない武将はいない。主君に謀反をおこしたために逆臣のレッテルを貼られ、「三日天下」しかとれなかった戦略戦術家としても、まったく計画性がなかったかのように思われてきたのだが、日本史上、そんな謀反者はザラにいたし、そういう連中はたいてい計画性がなく破滅した。うまく立ち回れたのは尊氏や家康くらいのものなのに、そんななか、なぜか光秀ばかりが嫌われた。
 その一方で、光秀には秀吉の「中国大返し」のあと、山崎で農民の槍に突き殺されたのではなく、辛くも逃亡して生き延びたという説が早くからつきまとってきた。落ちのびて姿を変えて怪僧天海として活躍したというのは半村良が『産霊山秘録』に採用した突飛な話だし、これも半村が好んだのだが、坂本龍馬が明智一族の血を引いていたという一部の地方文書から、きっと光秀は土佐にまで流れていったのだという説もある。そもそも光秀は本能寺に信長を討ってはいないというさらに突飛な説も、八切止夫をはじめいくつもあらわれた。光秀が本能寺に着く前に、信長はすでに別の”犯人”に包囲され、自害していたというのだ。
 最近の研究では、静岡大学の小和田哲男がそういう説なのだが、光秀が逆臣や謀反人扱いをうけたのはほんのちょっとした”差”によるもので、ごくわずかに時計の針が変わっていたら、秀吉以下、何人もが信長を殺していた逆賊になっていただろうというのが定説になっている。
 ぼくは光秀を描いた小説では藤沢周平の『逆軍の旗』が好きなのだが、そこでも光秀は秀吉との対決のために「お主殺し」をひらめいたというふうになっている。秀吉が光秀との争いに勝っていれば、秀吉こそが信長を殺していたということが暗示されている。ちなみに藤沢周平は、戦国武将のなかでは明智光秀に最も惹かれてきたとどこかに書いていた。

 玉子は、そうい毀誉褒貶定まらぬ光秀の娘なのである。たえず時代の波濤に振りまわされ、砂に足をとられ、そのつど天空を仰いで踏みとどまった。この小説では玉子がキリシタンに惹かれる経緯に多くのページを割いているのだが、むろんそこにはいくつもの伏線と経緯があった。
 6歳のときに信長がルイス・フロイスを引見した。7歳のときに父が京都奉行になった。光秀が暇にまかせて開いていた軍学塾の評判を信長が聞いて、登用したためだ。けれども光秀はこの職には満足していない。光秀はある事情で知り合った年上の細川藤孝(幽斎)から将軍足利義昭を紹介されて、そのころはむしろ将軍のほうに敬意を払っていた。
 ところが藤孝が信長の配下になってからは信長の言うことを聞くようになり、坂本城に入った。信長は楽市楽座のあと、この坂本城を拠点に比叡全山を焼く。やむなく光秀はこれを扶けたが、一方で僧侶を逃がしていたとも言われる。のちに光秀が天海だったという風聞が流布したのは、このときの光秀の配慮を比叡の僧がおぼえていて流布したのだという説もある。
 信長はそういう巧妙に立ち回る光秀の使い道を考えていた。悪用法といってよい。秀吉と競わせるようにも仕向けた。玉子が12歳のときは、藤孝の息子与一郎と玉子が同じ歳なのを知って、「おまえたちは一緒になるとよい」と言った。二人に言ったのではなく、父親の幽斎にそう諭したのだ。それがその通りになった。与一郎は青年忠興として玉子を迎えた。天正6年(1578)、互いに16歳である。信長は二人の結びの神などではなく、藤孝の子を光秀の娘と縁組させておけば、操りにくい光秀を動かすときに細川家を使えばよいと見抜いていたのである。細川が強い側に靡く一族であることをとっくに知り抜いていたのである。

 細川家に嫁いだ玉子が安穏な結婚生活をおくれたわけがない。忠興は幽斎藤孝とともに石山本願寺攻めに出陣したままに、執拗で頑強な抵抗に手こずっていたのだから、留守がちだった。玉子は最初の最初から一人で生きることを強いられた新妻だった。
 そこであるとき紹介された清原佳代とちょくちょく会うようになっていく。清原家は細川家の親戚にあたる高位の公家で、佳代はその息女である。玉子がデウスを知るのはこの佳代からのことだった。
 清原枝賢(しげかた)はぼくにとっても興味深い公家である。唯一神道の吉田兼倶の曾孫にあたっていて、和漢に通じる宮内卿でありながら、前代未聞のキリシタン公家になった。そのきっかけというのが、松永久秀がキリシタン封じ込めとして画策した法華宗徒と宣教師ガスパル・ヴィレラとの宗論に立ち会って、かえってキリシタンに感動してしまったというものだった。この前後に高山右近の父親の飛騨守もヴィレラの宗論に参加して感化をうけ、高山ダリオとして入信していた。この時代の激しい価値観の変動を象徴する。
 結局、その父親の感化が娘におよび、清原佳代は玉子の侍女となり玉子を感化していく。ついには佳代は清原マリアとなり、玉子が細川ガラシャ夫人になったのである。清原家はそういう扇が閉じて開いていく役割をもっていた。
 ちなみに松永久秀は名器「平蜘蛛の釜」を所持していた茶の湯大名としても有名だが、それを欲しがった信長に逆らい、信長に烈火のごとく怒られて、釜を城から落として自害した。こういう男も目白押しの世の中だった。
 ここから先、光秀が本能寺に信長を討つまでに数年しかたたない。また、この間、キリシタンの動向が有為転変するのもまことに慌ただしいほどに劇的である。その劇的な事情をつぶさに知ってみることは日本史をまったく新しい観点から読みかえるには急務のことであろうとおもうのだが、ここではそのことを書く暇はない。なかで、この小説ではとりわけ高山右近が重視されている。

 安土桃山期のキリシタンの動きほど、日本史をまったく新たな光で浮上させてくれる変遷史はない。とくに九州の大伴宗麟や大村純忠の西国の動向が先行して目立つのであるけれど、それをべつにすれば畿内の動きこそさまざまな可能性に満ちて大きく、もしそのまま日本の中央部にキリスト教が定着していたら近世日本は見ちがえるほどに変わっていて、たとえばルネサンスとほぼ同じほどの稀有の充実がおこっていただろうとおもわせる。それほどに、畿内キリシタンのあいだではありとあらゆる”実験”がめまぐるしく動いていた。その中心に光となり陰となっていたのが高山右近だったのである。
 すでに右近の父親がヴィレラによって高山ダリオになっていた。当時は大和沢城の城主だった。この城に宣教師ロレンソを招いたとき、高山一族はことごとく受洗した。右近が12歳のときのこと、これが高山ジュスト右近の誕生である。
 右近はその後、父が高槻領主和田惟政の家老となると摂津に赴き、そこから京都布教に精を出し、教会やセミナリヨの建設に尽力する。天正3年の三層に聳えた輝く聖堂いわゆる南蛮寺は、フロイスとオルガンティーノの指導にもとづいて、ほとんど右近がプロジェクト・マネージャー役を引き受けて完成したものだった。
 当然、玉子は右近の噂を聞いている。憧れていた。ところが信長が光秀に荒木村重を攻めさせたとき、右近が信長側についたと聞かされて気が動顛した。玉子の姉が荒木の嫡男に嫁いでいて、それを父の光秀が攻めていることと、それに右近が加担しているかのように見えたからである。が、右近はやむなくそのような行動をとっただけで、やがて信長がそのような右近に心証をよくすると、ただちにキリシタン布教の拡張を願い出ることに奔走した。
 玉子はそうした右近の心映えを知り、しだいに自分も右近のような覚悟をもつことを決意しはじめるというのが、この小説の伏線になっている。

 ついでに書いておくが、右近のその後も劇的である。
 本能寺に信長が討たれると、明智方に加担していた多くの関係者が討たれるか左遷されるのであるが、そのなかに三箇アントニオやパウロ三木もいて、これらがことごとく殉教した。難を免れた右近は秀吉によって大坂に移された教会やセミナリヨをいっとき引き受けるものの、突然のバテレン追放令によって苦境に立たされ、秀吉から拝領した明石も財産も捨ててしまう。このとき右近を呼んだのが加賀の前田利家である。ジュスト右近は能登に迎えられ、ここにキリシタン小国をつくろうとする。これが慶長元年前後のことだった。
 利家は右近をおもしろがって、さらに能登に2館、金沢に1館の聖堂を建てさせた。内藤ジョアンが右近のもとではたらいた。しかし家康によるキリシタン全国迫害がはじまると、能登・金沢のキリシタンたちは七尾の本行寺に隠れ、右近もついにマニラに流される。その後の右近がどうなったかは、もはや今夜の主題をはるかに超えている。詳しくは、本書同様に、ある意味ではそれ以上の傑作のキリシタン小説である加賀乙彦の『高山右近』を読まれるとよい。これは泣かずにはいられない。

 話が先に進みすぎたので書きにくくなってしまったが、では、玉子ガラシャがどうなったかである。手短かに紹介しておく。
 二度にわたって寂寞の地に居することを強いられた。最初は丹後宮津に、次には丹後の味土野(みとの)に、である。最初の宮津は細川忠興の居城になったのだから左遷でも幽閉でもないが、実際にはそれに近かった。味土野のときはまさに幽閉だった。父が信長を討ったことを咎められての、夫と別居しての居宅幽閉である。忠興は秀吉の手前、これを受容した。しかし先にも書いておいたように、細川一族はこのような延命策をとるのは得意だったのである。三浦綾子はこのころの玉子は毎晩泣いていたと書いている。
 2年後、玉子はやっと大坂の忠興のもとに戻ることが許されるのだが、もう夫のことなど何も信用していない。忠興は玉子の留守中に側室に子を産ませていた。
玉子は決断をする。清原マリアの先達でバテレン禁断の『こんてむつすむん地』(キリストにならいて)を読み、これをすべて暗記すると、天正15年(1587)に入信して、セスペデス神父とコスメ修士のもと、晴れて細川ガラシャ玉子になった。
 これを聞いた忠興は驚いて、キリシタン信仰を捨てることをガラシャに迫るが、玉子は動じない。そのうち忠興は秀吉の暴挙に加わって朝鮮に渡り戦場を駆けめぐる。どちらにせよ玉子は放っておかれたのだ。忠興は2千余の首を挙げて帰ってきた。そんなことが玉子に快挙に見えるはずはない。
 その後に秀吉が死ぬと、天下は大荒れとなり、戦国の世を駆け抜けたすべての武将が敵味方に分かれることになった。五大老の一人の家康と五奉行の一人の石田三成が眦(まなじり)を決して対立した。このとき三成が前田利家に近づき、家康が利家と対立した。細川家は密かに家康についた。利家のほうには高山右近の動静がある。玉子は固唾をのんで成り行きを見守りつつも、信仰を深めていた。
 ここで三成が軽挙に走った。細川忠興に家康暗殺の計画を相談したのである。慶長4年(1599)、利家が死んだ。事態は家康のほうに動く。加藤清正・福島正則・黒田長政らは三成を討つ気になっていた。これに忠興も加担した。家康はこのような翻意をよろこばない。家康は細川を討つつもりになった。そこで細川家は懸命の釈明に出る。人質も差し出した。翌年、家康は細川を許すかわりに、忠興に三成征討を命じた。

 関ヶ原の一戦の裏で何がやりとりされたかは、想像を絶する。その大半がフェイントと裏切りと寝返りと虚偽で塗りつくされている。
 なかでも忠興・三成の関係が玉子の生死を決めた。それがまた関ヶ原の運命を左右した。忠興は玉子を残して出陣するのだが、これを見て三成が最初に打った手が、忠興を制して細川家を締めあげれば家康が折れてくるという勘違いの読みだったのである。三成は細川が寝返りすると思いこんだのだ。
 しかし三成はそれを勘違いとはおもわずに、そのためには早々に加藤清正・福島正則・黒田長政の妻子を人質にとることを決めた。そんなことしか思いつかなかったのではなく、この時代はそんなことしか戦乱の発端にならなかったのだ。その人質の重要な候補に細川邸に残るガラシャ玉子がいた。
 こうして三成が家康打倒の兵を挙げたのが慶長5年の7月17日である。三成挙兵の報を知ると、ガラシャ玉子は家人に申し渡して、居宅から一歩も動かずに死を待つように言い渡した。それから数刻後、三成の使者が玉子のもとにやってきた。玉子は一人部屋に入ると白無垢を着て、天主デウスに祈りを捧げた。そして、「明智の一族はすべて非業の死を遂げる」とそっと加えた。
 つづいて家来を呼ぶと火を放たせ、家中に火薬を撒かせた。みずから絹をかぶり、そのまま轟音とともに果てた。38歳の昇天だった。
 キリシタンは自害を禁じていた。それを玉子は守った。その日が必ずくると信じて――。三浦綾子は苦々しく書いている。「玉子の死は大きく徳川方の士気を鼓舞し、結束を固めることになった。天下分け目の関ヶ原の合戦において、徳川方を勝利に導いた一因に、実にこの玉子の死があった」というふうに。
 そして、さらにこう書き継いで、この小説を閉じた。「逆臣光秀の娘という恥を見事に雪(そそ)ぎ、立派な最期を遂げた玉子のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの『緋文字』の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによってその緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う」。
 細川ガラシャ夫人のことを、なぜぼくの周辺の連中は何も知らなかったのだろう?

附記¶ここに紹介した三浦綾子の作品はだいたい新潮文庫で読める。同じく新潮文庫に『千利休とその妻たち』がある。高山右近が利休七哲に数えられる経緯はこちらのほうに詳しい。『母』は角川文庫に入った。
明智光秀に関する文献は少なくないが、ここでは小和田哲男『明智光秀』(PHP新書)、藤沢周平『逆軍の旗』(文春文庫)、桜田晋也『明智光秀』全3冊(学陽書房)、それに八切止夫の『信長殺しは光秀ではない』(作品社)というあからさますぎるような本をあげておく。加賀乙彦『高山右近』(講談社)はできれば「千夜千冊」に入れたかった傑作である。右近はマニラで客死したのだ。
ここにはまったく言及できなかったのだが、実は細川藤孝がどのように戦国の世を切り抜け、利休に称賛される数寄の茶人となったのかということは、多岐にわたる謎と含蓄と虚実皮膜を含んでいて、興味がつきない。たとえば桑田忠親の『細川幽斎』(講談社学術文庫)などにあたられるとよい。もう一冊、気になっていたものに安部龍太郎の『関ヶ原連判状』(新潮社)というとんでもない仮説を吐露した時代小説がある。連歌と和歌の「古今伝授」の切り紙が関ヶ原の決戦の決定的な鍵と鍵穴になっていたというお話だ。関ヶ原はガラシャをとりまく幽斎・忠興・三成・家康・利家のからみで発端し、あっというまに収束していったということになる。すべてが明智光秀の非業に結びついていた。