磯田光一
鹿鳴館の系譜
文藝春秋 1983 講談社文芸文庫 1991
ISBN:4061961101

 明治16年11月28日に鹿鳴館は麹町内山下町に開館した。いま日比谷の帝国ホテルがあるところより少し南側にあたる。
 プロデューサーは井上馨、設計はジョサイア・コンドル、総工事費が18万円だった。すぐに洋装舞踏会が開かれた。ピエール・ロティは「東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は、まったくの猿真似だった」とからかった。
 しかし、これが日本の翻訳文化の確立であり、江戸とは無縁の文学の誕生であり、初の日本モダニズムの樹立であったのである。実際にも、これらはだいたいが明治16年の前後におこったことばかりだった。磯田光一はそのことをあえて積極的に認めないかぎり、日本の「近代」の意味など見えてこないと考えた。
 これが本書を貫く基本姿勢である。これより数年前、すでに磯田は『思想としての東京』および『永井荷風』によって、明治日本のモダニズムの原点をさぐろうとしていたのだが、その原点にひそむ謎の解明は、本書に任された。

 磯田光一は大学紛争に愚直なほどに真摯にかかわって、そして中央大学をやめていった人である。そのころ、吉本隆明はそうした磯田のことを“モダンな隠棲者”などと揶揄していた。
 けれども、磯田の文芸的隠棲ぶりには徹底したところがあった。三島由紀夫の死後、知人に自分はこれから三島の喪に服するという通告を出したりもするような律義なところ、ようするに何かをつねに一筋だけ通すようなところ、そういう隠棲だった。なにしろ磯田は、三島を扱った『殉教の美学』によって文芸評論家としてのスタートを切った人なのである。
 本書はそうした磯田の晩年の隠棲的金字塔にあたっている。どこが金字塔かといえば、明治という時代が近代をどこで獲得したかという“概念工事上の原点”ともいうべき一筋が丹念に探られている点である。
 少なくともぼくは、本書によって初めて「明治文化の概念の出来事を読む」というおもしろみを知った。それは、平川祐弘の『和魂洋才の系譜』江藤淳の『漱石とその時代』が明治的人物の文脈を読ませたのに対して、また前田愛が明治的都市の文脈を読ませたのに対して、「モダン」という概念の文脈を読ませてくれる初の試みだった。

 本書は一方で、近代日本のモダニズムの発生の仕方について議論しようとする者たちのための、語り口のプロトタイプをつくりだした。これは磯田光一の隠れた功績である。
 もうひとつのプロトタイプは、おそらく前田愛や芳賀徹やらがつくった。その後、これらのプロトタイプはさまざまに変奏され、編集されて、樋口覚から松山巌までが、関川夏央から東秀紀までが、それぞれに発展して踏襲した。
 このプロトタイプを、磯田光一がどのような議論によって肉付けしたかというのが、本書を読むフォークとナイフの使い方になる。切り口は、まず江戸晩期の「文学」がそもそもは「洋学」に対抗するもので、かつリベラルアーツの意味をもっていたにもかかわらず、やがて文学は単なる文芸作品の羅列の意味に変わっていったという問いから始まっている。少なくとも『日本開化小史』の田口卯吉のあたりまで「文学とは人の心の顕像なり」であったのである。ところが、いつのまにか文学は文芸意匠の代名詞になっていく。これはなぜなのかというのが、磯田の最初の問いである。これで本書における磯田の包丁捌きがどういうものかが、だいたいわかる。

 つづいて磯田は、文学を「心の顕像」から「モダンの意匠」に変えていった明治人のたくらみが文学だけにとどまってはいなかったことを次々にあげ、これを巧みに料理する。ときに刺身に、ときに蕪蒸しに、ときには煮物というふうに。
 たとえば小学唱歌、たとえば鹿鳴館、たとえば丸善、たとえば東京外国語学校である。これらは「文学」が「文芸」というシャレた意匠に変わっていったことに見られるように、単に外国の意匠を借りた日本というものではなく、あえて近代日本が進んで選んだモダンの意匠だったのである。
 長いあいだにわたって、われわれはこのことを「肯定した近代」として解釈するのを嫌っていた。その理由はいうまでもない。戦後民主主義にとっては、日清日露の両戦争を犯し、韓国併合を企てた日本の近代は唾棄すべきものだったのである。
 けれども磯田は、そこを時代を呼吸した代表的な人間の表象の内側から突破しようとした。そこで選ばれた食材が、『明星』と漱石『田園の憂鬱』と萩原恭次郎である。このあたりの語り口は、いまではそんなに新しいものとはいえないが、当時は舌鼓を打たせるものだった。

 本書は次の文章でおわっている。「つぎつぎに日本に訪れてきた外来文化とその影響を、軽薄と呼ぶのは容易であるが、小林秀雄に倣って近代日本の文化を“翻訳文化”としてとらえ、われわれの喜怒哀楽さえそのなかにしかなかったことに想いをいたすとき、翻訳文化も抜きさしならぬ歴史を形成してきたことに、われわれは気づくであろう。古代文化の形成さえ、翻訳文化にもとづくものであった」というふうに。
 小林秀雄などを引くことはなかったろうものの、そのように書きたい心境はよくわかる。
 しかし、ここには本書が磯田光一の甘美な幻想でおわってしまったことを、はからずも告げてもしまっている。ほんとうは、磯田光一は次のように書くべきだったのである。「明治のモダニズム以上のことを、その後は誰がしてみせたのか」というふうに。

コメントは受け付けていません。