江藤淳
犬と私
三月書房 1966
ISBN:4782601654

 江藤さんは愛妻の死を追って死んだ。66歳の自殺だった。このニュースがテレビで流れたときはギョッとした。
 が、数日たってちょっとだけだが事情の断片が伝わってきて、むしろアーサー・ケストラーが老妻を伴って安楽死を選んだことを思い出すほうがよかったと考えなおした。

 本書は江藤淳の最初の随筆集である。したがってここに綴られた文章は1959年から1965年までのものになっている。これは江藤淳が生意気だった(ように見えた)26歳から32歳までにあたる。
 以前にも書いたように、ぼくはこのころ「文学界」「群像」「新潮」「文芸」を毎月の巡回雑誌でとっていて、早熟な江藤淳の文芸批評は27歳で始めた「朝日新聞」の文芸時評を含めてだいたい読んでいたとおもうのだが、ここに載っているような随筆はまったく読んでいなかったし、こんなことを書いていたとは見当すらしていなかった。それゆえ本書に顔を出すような愉快な江藤淳の相貌は、あの辛口で理屈っぽい憎まれっ子の江藤淳からはとうてい予想もつかないものだったのである。

 この随筆を綴っていたころの江藤さんはまだアパート暮らしだった。6畳・3畳に4畳半のダイニングキッチンという状態だ。なのに蔵書だけはどんどん増えていた。
 そんな江藤さんが部屋中を本だらけにしながら大きなペンギンのぬいぐるみを大事にしていたなんて、どうみても中村歌右衛門のようで、おかしな話なのである。しかし、そこにこそ“もう一人の江藤淳”がいて、その江藤淳があれこれの変転のうえ、老年になって夫人を追って自殺したわけだった。そのあれこれの変転という場面に、犬がいた。
 江藤さんは本の洪水を脱出するために一軒家に引っ越した。本のためだけではなく、実は犬を飼いたいせいでもあった。江藤夫妻には子供がいない。二人は夢中で仔犬選びに乗り出した。1ダース以上の仔犬が候補にあがるのだが、結局は黒いコッカースパニエルを貰い受けることにした。このミス・ダーキイちゃんが江藤家を変える。その変え方は文学作品の比ではない。
 まずダーキイは江藤さんの顔を舐めた。ぷんぷんとした仔犬の匂いに覆われながら、江藤さんは奇妙な感動に嗚咽する。「これがおれの犬だ」「これはおれだけの犬だ」という私有と支配の勝利に似たそわそわした感動だった。次にダーキイは夫婦のあいだにすぐもぐりこんできた。夫婦ケンカをしているときは互いの顔をのぞきこみながら部屋をうろうろした。これで江藤さん夫婦は人間以外に人間を動かすものがあることを知る。それにくらべれば、文学は人間のつくったものにすぎないのだ。
 ついでダーキイは等身大のペンギン人形に嫉妬した。江藤さんがペンギンを抱こうものなら、唸り声をあげ、すぐに手放さなければ噛みつかれそうだった。そこで江藤さんはペンギン人形を放棄するふりをするのだが、ダーキイは許さない。そのうちペンギン人形は忽然と姿を消したのだ。どこを探しても見つからない。ある日、庭の一角にした自分のうんこに向かって吠えているダーキイの動作を不審におもって見にいくと、なんとそこにはペンギンの目玉が無残にもこちらを向いていた。

 まあ、ここまではペットを飼ったことがある者には早晩おこることである。自慢するほどのことじゃない。ぼくだってこのくらいの体験はぞんぶんに味わった。
 ところが、ここから江藤さんは狂っていく。「犬馬鹿」になっていく。子母沢寛が「猿馬鹿」になったのはまだしも(何がまだしもかわからないが)、江藤淳が「犬馬鹿」になったのである。犬のために奉仕し、犬の下僕となり、将軍綱吉もどきの犬に仕える最高権力者をめざしてしまうのだ。もう、生活はほとんどダーキイの一挙手一投足で一喜一憂である。よくそんなことでオモテムキは文芸批評家でいられたなとおもうのだが、獣医がダーキイの見合いの相手を選ぶのに、黒いみすぼらしい犬を選んだというだけで不機嫌になる。それなのに、ちょっと見栄えのいい相手と見合いをしたとなると、なんだか理由もなくこみあげるものがある。首尾よくダーキイが4匹の赤ちゃんを生んだとなると、これはもうお手上げだ。江藤さんは目黒から麻布の巨大な邸宅に引っ越した。留守役だ、借家だとは弁解しているが、これが将軍綱吉でなくて何なのか。
 そして、ついには次のような文章を綴る男になりさがって、ぼくを感動させる。外国に1年少々ほど滞在しなければいけないことが決まったときの随筆である。「犬の問題」というタイトルがついている。

 私は他人がそばにいると、原稿が書けないたちで、ことに女房がこっちをむいているとよく書けない。きっと、ものを書くということに、どこか犯罪に似たところがあるからにちがいないが、犬は容赦もなく書斎にはいってきて、私の顔を眺めている。昔はおしっこが出たいのかと思ったものであるが、今は何をしに来たのかよくわかっている。彼女は私を憐んでいるのである。そして、男というものは、何でこんなつまらないことにむきになっているのだろうか、と変に智慧のありそうな眼で、少し首をかしげて不思議がっているのである。
 犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。これは妻妾同居という意味ではなくて、まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない、犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。どちらかにしなければ、私の精神のバランスが崩れてしまうのです。

 ともかくこの本は心底感動的な本である。どれほど江藤淳の思想や顔付きに偏見をもっていようと、この本を読めばたちまち病気は治る。
 ここでは紹介しないが、本書の後半はダーキイが出てこないかわりに、人間の宿世というものが描かれていて、これがダーキイの顔に付いている瞳のようなのである。この一連の随筆がなかなかの則天去私で、渋いのだ。まあ、騙されたとおもって『犬と私』を読みなさい。なにしろ『犬と私』だけが志賀直哉も川端康成をも感心させた江藤淳であり、もう一人の女房を追って自害したもう一人の江藤淳なのである。
 そしてその次に朝日選書の5冊本『漱石とその時代』を読むことだ。読めなくなったら、『紅茶のあとさき』で息をつぎ、また『漱石とその時代』を読んでみることだ。それでもやっぱり“もう一人の江藤淳”に触りたくなったら、『犬と私』に戻るか、『妻と私』に進むか、あるいは『昭和史』を読むとよい。

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