犬のことば辞典

きたやまようこ

理論社 1999

 こういう犬の専門家がいることをぜひ伝えておきたいので、今夜は「犬ことば」による犬心を絵本にできる作家の例をお目にかける。
 きたやまようこは犬の気持ちが見える作家なのである。見えるだけではなく言葉にできる。いや、言葉にあますといったほうがいい。われわれはジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』ときたやまようこの『犬のことば辞典』を持ったことを幸甚としなければならない。大人と子供と比較されていることに注目したい。説明はいらないだろう。
 
「いいこ」子どもはいいこにしなさいといわれるが、大人はいいこになるときらわれる。犬は「いいこね」といわれる。
「うそ」子どもはばれるうそをつくが、大人はばれないようにうそをつく。犬はつけない。
「きのう」子どもはあまりかんがえないが、大人はよくかんがえる。犬はとつぜんおもいだす。
「けんか」子どもはしないとわからないが、大人はしないようにする。犬はたいていしなくてもわかる。
「しり」子どもはだすが、大人はかくす。犬はかぐ。
「しんぶん」大人はよむ。子どもはやぶく。犬はトイレにつかう。
「すてる」大人はすてるものはすてるが、子どもはすてるものもすてない。犬はすてるものはないが、すてられたりする。
「つち」子どもはつける。大人ははらう。犬はかける。
「つまらないもの」子どもはすてるのに、大人はひとにあげる。犬はさいしょからもたない。
「と」子どもはあけはなつ。大人はしめる。犬はそばでまつ。
「ねる」子どもは大きくなるためにねて、大人はつかれをとるためにねる。犬がねているのをみると、人はあんしんする。
「のこす」子どもはのこすとおこられるのに、大人はわざとのこしたりする。犬はそれをまっている。
「ほんと」子どもは「ほんと?」をくりかえす。大人は「ほんと?」「うそー」をくりかえす。犬はうそもほんともない。
「まちがえる」子どもはことばをまちがえる。大人はかんがえかたをまちがえる。犬は人をまちがえる。
「まつ」大人はまたすけど、まつ。子どもはまたせても、まてない。犬はまたせない。ひたすら、まつ。
「めじるし」子どもはめだつものをめじるしにする。大人はずっとあるものをめじるしにする。犬はにおいをめじるしにする。
「もしも」子どもは万にひとつもないことをかんがえたりするが、大人は万にひとつはあることをかんがえる。犬は万にひとつもかんがえない。
「もと」子どもはもともとあかちゃん。大人はもともと子ども。犬はもともと犬。
「らいきゃく」子どもはよろこぶが、大人はつかれる。犬はあやしむ。
「れんらく」子どもはたいていれんらくがつくが、大人はなかなかつけにくい。犬はいつもつく。

 傑作である。ここまで見抜いていると、日本社会で問われるべき問題の大半が暗示できる。しかし本人はそういうつもりで、この『犬のことば辞典』を書いたのではないらしい。彼女はいろいろの絵本を描き書く作家さんなのだ。
 デビュー作の『いただきまーす』『ただいまー』(偕成社)をはじめ、たくさんの絵本を世に問うてきた。途中、シベリアンハスキーを飼うことになってちょっと休業し、そのあとからは俄然、犬の心に思い入れをする犬めく絵本を次々につくるようになった。「ゆうたくんちのいばりいぬ」シリーズ(あかね書房)は、たまらない。
 そうした絵本は本屋さんで手にとってみることをお奨めするとして、ついでに書いておきたいことがある。
 それはほかでもない、子母澤寛のサル、江藤淳のイヌ、日高敏隆のネコについてのエッセイがそうだったのだが、なぜわれわれは動物たちに思い入れをすると、ふわりとどこかに自在な遊弋ができるのだろうかということだ。ファンタジックになるというのではなくて、断然に言葉がおもしろくなるのである。言葉づかいが楽チンになるのだ。これは、言葉というものの長所と限界を考えるうえで、何かとても大きなヒントになっているような気がする。
 われわれは動物とちがって言葉を操れるようになった。そのぶん言葉にしようとすると哲学語や社会語や心理語になってしまって、それで言いたいことが言えたのかどうか、わからない。そういうときに、言葉のないサルやイヌやネコに言葉を託すのだ。
 こうして、心豊かな語り部や作家たちが、ブレーメンの音楽隊や三匹の子豚を、長くつ下のピッピやごんぎつねを、ムーミンやぼのぼのを、創出してくれたのである。言葉というもの、何度も何度も「言葉のないものたち」に代入することで蘇生させるしかないようである。

参考¶きたやまようこ(北山葉子)は例の文化学院(例の西村伊作が大正時代につくった学校)を出身した絵本作家で、実にうまい。ただし、たいていの絵本の中心に犬がいる。『ゆうたくんちのいばりいぬ』シリーズ(あかね書房)で講談社出版文化賞、『りっぱな犬になる方法』(理論社)で児童出版文化賞をとった。『りっぱなうんち』(あすなろ書房)には驚かされた。本書が示すメッセージにも格別の説得力とユーモアがある。犬を味方にした者の文脈編集の勝利というところだ。