レフ・トルストイ
アンナ・カレーニナ
新潮文庫 1972
ISBN:4102060014
Lev Nikolaevich Tolstoi
Anna Karenina 1878
[訳]木村浩

 東洋大学に奥井潔という英文学の先生がいた。そのシニカルで挑発的な知的刺激を受けたくて、駿台予備校四谷校にいっとき通ったことがある。受験英語にはほとんど役に立たなかったが、そのかわりグレアム・グリーンやサマセット・モームの短編が透き通るような瑞々しさで堪能できた。
 しかし、それはまだ表面上のことで、実際にはなんといってもその美を弄ぶピンセットの先の妖しい毒舌が繰り出すペダンティックな言葉に酔わされた。その奥井センセーがどういう話の順序かは忘れたが、ある昼下がりに『アンナ・カレーニナ』の話をした。「君たちはアンナ・カレーニンという女を知らないだろうね。読んだ者はいるかね?」と、例の挑発的な口調で話し始めたのだ。誰も手をあげなかった。だいたい予備校で読書履歴を問われるなどとは誰も思ってはいやしない。
 すると奥井センセーはニヤリと笑って、「あのねえ、大学へ行くのもいいが、アンナ・カレーニンと出会えるかどうか、そのほうがずっと君たちの人生には大きなことなんだよ。わかるかな、この感覚。歓喜がいっさいの後悔を消し去ると思えたとき、アンナ・カレーニンは決断をするんだね」と続けたのである。

 ぼくはボーッとして聞いていた。「アンナはすべての社会と人間の辛辣を感じて、死ぬんだよ。爆走する列車にみずからの身を投じて、死ぬんだね。女が愛や恋で死ぬなんて、尋常じゃない。それにくらべたら男なんて弱いもんだよ。好きな女に振られたくらいで、すぐに苦しい、辛い、死ぬ死ぬと言い出すが、女はそういう心の深みを体で飲み込むもんだ。知ってるかな、そういう女の深さを。いや深さというより、これは女のね、美しくも苦い味というもんだ。そのアンナ・カレーニンが死を選ぶんだね」。
 女も知らなければ、その深さも苦さも、そういうことをまったく知らないぼくは、もうひたすらボーッとして聞いていた。かまわず奥井センセーは続けている。
 「アンナは人妻なんだな。北方の大都ペテルブルクの社交界の美貌のスターだよ。夫のカレーニンは政府高官でね、社会の形骸を体じゅう身につけて面子を気にする男だね。君たちもこうなったらおしまいという男だよ。そういう身にありながらアンナはヴロンスキーという貴公子のような青年将校に恋をするんだな。女は青年将校にこそ惚れる、その凛然というものにね、ハッハッハ」。
 人妻。青年将校。凛然。女は男の凛然に惚れる‥‥?? ぼくのウブな頭はクラクラしはじめていた。
 「まあ、君たちには女はわからんだろうね。青年将校こそが男の中の青い果実なんだよ。2・26事件の青年将校なんて、日本人の男の究極だよ。そうだろ。美しい女はそれを見逃さない。しかも人妻はね。しかしねえ、君たちにはキチイがせいぜい理想の娘というところだろうな。キチイは青年将校に惚れるんだが、アンナとヴロンスキーが昵懇になったので諦める。まあ、読んでみなさい。キチイの娘心よりもアンナの女心がわかるようになったら、たいしたもんだ」。
 奥井センセーがあと何を言ったか、おぼえていない。まるで別世界の話を浴びせられたようなものだった。ただそのときのアンナの印象が忘れられなくて、白樺派が依拠したトルストイなんて読むものかと思っていたぼくは、数日後に夢中に『アンナ・カレーニナ』にとりくんでいた。

 読みはじめて驚いた。いつまでたってもアンナ・カレーニンが出てこない。さきほど手元の文庫本で調べてみたらやはり130ページまで登場しない。
 おそらくこんな小説はほかにはあるまい。ヒロインの動きがふつうの長さの小説なら終わりに近いほどの場面になってやっと始まるわけだから、それだけでも前代未聞である。とくにぼくは奥井センセーの挑発に乗ったわけなので、それこそすぐにアンナ・カレーニンに出会えるものと思っていたのだが、開幕このかたオブロンスキー家の出来事やキチイの愛くるしい姿にばかり付き合わされる。たしかに奥井センセーが言うように、これではうっかりキチイに惑わされてしまう。焦(じ)らされたというのか、裏切られたというのか、ぼくは呆れてしまった。
 ところが、いったんアンナが出現したとたん、物語の舞台はガラリと一変する。青年士官ヴロンスキーの焼きつくような気概と恋情とともに、われわれは漆黒のビロードの、真紅のドレスの、いつも身を反らすように立つ人妻の、知も愛も知り尽くしていながら夫カレーニンだけには厭きているにもかかわらず、男にも子供にも通りすがりの者にも愛される絶世の美女アンナ・カレーニンの魅力の囚人になっていく。
 これだけでも、トルストイという魂胆のすさまじさを思い知らされたものである。

 聞きしに勝る作品である。アンナ見たさに不純な動機で読んだぼくには、こんな作品とはまったく想像ができなかった。なんというのか、圧倒的なのだ。
 かつてドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』について書いたものである。「文学作品として完璧なものである」。またそれにつづけて「現代ヨーロッパ文学のなかには比肩するものがない」とさえ言い切った。トーマス・マンすら唸ったようだ、「全体の構図も細部の仕上げも、一点の非の打ちどころがない」。こんな絶賛はめったにありえない。
 これはよほどのことである。およそ文学作品が「完璧」であるとか「一点の非の打ちどころもない」などと評価されたことはない。しかも『アンナ・カレーニナ』は大長編なのだ。新潮文庫で上484ページ、中633ページ、下551ページ。全8部全1668ページの堂々たる大河小説である。それが「一点の非の打ちどころもない完璧な作品」と激賞される。
 実際にもトルストイは書き出しだけで17回(これはよくあることだが、それにしても17回は多い)、全般にわたってはなんと12回の改稿をくりかえした。完成まで5年、その何十本もの細工刀で彫琢された芸術的完成度はトルストイにおいて最高傑作となったばかりか、ドストエフスキーやマンが言うように、近現代文学がめざしたあらゆる作品の至高点を示した。しかし、どうしてそんなことが可能になったのかということになると、われわれはお手上げになる。レオナルドやゲーテやベートーベンを漠然と思い浮かべるしかなくなっていく。
 チェーホフがその点については、わずかにこんなヒントを書いている。「『アンナ・カレーニナ』にはすべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです」。すべての問題を正確に書くとは、すべての人間を正確に書いたということでもある。そんなありえないことがおこったのである。トルストイにはそれができたのだ。ぼくは白樺派が何に憧れたか、ちょっとだけだが見当がついたものだった。

 しかし、ぼくはチェーホフの水準にはとうてい達しなかった。奥井センセーの挑発のままにひたすらアンナ・カレーニンの幻影を追って読んだにすぎなかった。
 高校3年生が完璧に描かれた人妻の愛と死の境涯を追跡したところで、徒労に終わるだけである。ドストエフスキーならまだ哲学できる。ぼくはトルストイの前にはずっとドストエフスキーを読んでいたのだが、そこでは程度の差はあれ、ともかくいろいろなことを考えた。それがドストエフスキー文学というものだ。
 ところがトルストイはすべてを書いている。アンナの崇高な嫉妬もキチイの可憐な失望も、ヴロンスキーの端正な冷淡も、オブロンスキーの裏側にひそむ良心も、カレーニンの面子を貫く社会的倫理観も、すべてをあますところなく書いた。書き残さなかったものがない。
 ぼくは何も考えつけないままに、打ちのめされていた。
 この、何もすることがなく感銘してしまうという感覚は、その後に何かに似ているようにおもえた。それが何なのか、ずいぶん掴めないままにいたのだが、スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』を見終わったとき、ふと、「ひょっとすると、これなのかな」と思った。
 丹念に描かれた映画こそが『アンナ・カレーニナ』の読後感に似ているのだ。映画館に入り、またたくまに2時間・3時間の人間と風景と街区のドラマに見入って、その映画が終わってしまったときの、あの何も発することができなくなってしまった感覚である。音楽を浴び、カメラのままに惑わされ、セリフとともに感情を掻きまわされ、部屋の一隅に入る光に誘われ、食器とフォークがたてる音が迫り、ただただ身を頑なにして映画館に座りつづけたあの感銘である。
 だとすればトルストイは完璧な映画監督なのである。しかし、トルストイは音楽を使わなかった。眩しい光も使わなかった。トルストイはひたすら言葉と文章だけによって、全身没頭感覚をわれわれの「眼」に見えるようにした。

参考¶その後、ぼくがトルストイをちゃんと読んだかどうか、はなはだおぼつかない。『戦争と平和』は挫折したままになっている。ごく最近になって徳富蘇峰がトルストイを訪ねた記録を読んで、そのうち再びトルストイに浸りたくなっている。どうやら、ぼくには奥井センセーや蘇峰やらの、卓抜したトルストイ案内人が必要なようである。

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