才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

日本仏教入門

末木文美士

角川選書 2014

編集:小島直人
装幀:片岡忠彦

   私は、私たちの中に流れ込んでいる思想的伝統を   
   分析し、解明し、そして批判的に新たな思想形成を   
   準備してゆく、その最善の手がかりとして   
   仏教を考えてみたい。私はそれをかりに   
   「方法としての仏教」と呼んでいる。——『思想としての仏教入門』

 あれは慈円(624夜)、山崎闇斎、清沢満之(1025夜)を続けさまに読んでいたころだった。ある確信がやってきた。日本の思想史や文化史はできるかぎり「抜き型」で語られるのがいい!
 「抜き型」というのは知覚環境学のフォン・ユクスキュル(735夜)の生態学的な用語なので、知らない諸君も多いかもしれないが、たとえば昆虫には昆虫独自の触覚などの知覚があるわけだが、昆虫はそういった独自のフィルターを抜き型にして環境世界を捉えている(ユクスキュルは「環世界」と呼ぶ)。それが昆虫にもコウモリにもキツネにもチンパンジーにもおこっている。抜き型によって動物の知覚環境は異なってくる。「抜き型で語る」とはそういうことをいう。ユクスキュルは抜き型が世界に関する「トーン」をつくっていると考えた。
 おそらく、われわれの文明文化にも「抜き型」がある。技術文明という抜き型、進化と淘汰という抜き型、王制や国民国家という抜き型、ジェンダーという抜き型、キリスト教という抜き型、グローバル資本主義という抜き型、「おたく」という抜き型、オリンピックという抜き型、メキシコやロシアという抜き型、いろいろだ。これらによって世界はトーンを変える。
 二つ以上の抜き型で抜き合うことも少なくない。いやむしろそういうほうが多い。西欧文明はもともとユダヤ・キリスト教という大きな抜き型で象られていて、そこにいくつもの抜き型が組み合わさって出来てきた。
 では、仏教という抜き型によって日本を眺めるとどうなるのか。また仏教を日本という抜き型で射貫いていくと、どうなるのか。日本仏教にはインド仏教や中国仏教や東南アジア仏教と異なる「トーン」があるはずだが、それをどう語ればいいのか。今夜は末木文美士(すえきふみひこ)を選んだ。

   日本思想の大きな特徴は、
   常に外来思想に決定的に規定されながら、
   その中でどのように独自なものを打ち出せるかということが
   求められてきたところにある。その外来思想は、
   前近代においては中国思想であり、
   近代においては西洋思想であった。——『日本思想史』

 日本を眺めるための仏教は、インド的な原始仏教やシルクロード仏教や中国仏教を通してスクリーニングされてきた。これが日本仏教というものだ。スクリーニングというのは、さまざまな抜き型によって日本仏教が編集されてきたことをいう。
 6世紀の半ば、仏教は欽明天皇の時代前後に中国や朝鮮半島からやってきた。日本人には「蕃神」(あだしくにのかみ)に見えた外来宗教である。それを受けた蘇我馬子や一部の豪族や仏師らは氏族仏教をプレゼンテーションした。
 すぐさまそれなりの日本化をおこして、ひとつは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」に象徴されるややニヒルな信仰論に、もうひとつは大仏開眼や南都六宗に象徴される鎮護国家型の仏教になっていった。そこには北魏仏教・新羅仏教・隋唐仏教のフィルターがかかっていた。
 大きな転換点のひとつは、聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、鑑真を招聘して「仏門プロ」をつくることにしたことだ。本格的戒律の導入だ。これで六宗型(倶舎・成実・律・三論・法相・華厳)の奈良仏教が伽藍を並べて栄えたが、いくぶん大雑把になったり、道鏡の登場などで偏向したりもした。王法と仏法もくっつきすぎていた。
 そのため最澄・空海による戒律と即身成仏思想と密教による革新がおこり、そこからは黒田俊雄(777夜)のいう「顕密体制」(顕教と密教のダブルスタンダード)が作動するようになるのだが、また専修念仏や鎌倉新仏教の動向が興っていったのだが、さあ、大筋、こんな説明でいいのかということが問われる。
 そこを問うたのが末木文美士だった。歴史の中の日本仏教だけでなく、近代仏教や今日の仏教の在り方まで、日本語や神祇神道との関係から生死の哲学としての仏教まで、いろいろ問うた。とくに宗教史を通しては、「顕と密」よりも「顕と冥」を問うた。このことについては今夜の最後に説明する。

仏教伝来の地図。仏教の伝播は南伝・北伝・チベットという系統に大別されるが、インド・中央アジア・インドネシアなどでは、ヒンドゥー教やイスラム教などの影響で教えが衰えた。
「仏教新発見・法隆寺」(朝日新聞社)より
イラスト:ヨシザワスタジオ

   既知の世界とそれを超えた領域とを結ぶ
   中間的なところに立って、
   我々をもう一つ広い世界に導いていくのが、
   仏ではないかと思います。——『日本仏教の可能性』

 末木さんは甲府の出身で(中沢新一と同じ高校)、東大のインド哲学科に学んで大学院では天台の安然(あんねん)を突っ込んで研究した。その成果が『平安初期仏教思想の研究』(春秋社)である。最澄・円仁・円珍を継いだ安然の研究に本格的に取り組んだのは末木さんが初めてだったようだ。東大、東方研究会、京都の日文研で教鞭をとった。
 最もよく知られた本で、多くの読者がいるであろう本は、1992年刊行の『日本仏教史』(いまは新潮文庫)だろう。あの本には痺れましたという知人が何人かいる。日本仏教の特色をどう書くか、何かが極端に欠けているところや薄いところがあるのではないか、それらを加味してどんな通史になりうるのか、そこを彫塑した。

末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)

 ぼくも『日本仏教史』から読み始めた。とくに天台本覚については末木さんのものをずっと追った。しばしば目から鱗が落ちた。あのころは後に「失われた十年」と言われたほど不毛の時期で、世界は湾岸戦争が、日本はバブル崩壊がおこったあとの十年で、グローバリズムに擦り寄る日本の姿があまりに醜悪だったので、ぼくはできるかぎりメディアから遠ざかり、ひたすら沈潜して「世界と日本の関係を新たに観相するための8つほどの視軸」をたて、それらを解読するにあたって読み込むべき数十冊のキーブックにとりくんでいた。
 文化人類学系のもの、複雑系に関するもの、遺伝科学や脳科学の本、チューリングマシンもの、グノーシスから神秘主義に及ぶもの、いろいろな著作や問題作を選んだが、そのうちの一冊が『日本仏教史』だった。サブタイトルは「思想史としてのアプローチ」。日本思想史を日本仏教のボラタリティでフィルタリングするという見方だ。『図説日本の仏教』全6巻(新潮社)の思想解説を担当執筆したものも散りばめられていた。論考版は『日本仏教思想史論考』(大蔵出版)にまとまっている。
 その後、多くの著作をものされたが、末木さんの本はできるだけいろいろ読んだほうがいいように思う。仏教思想の網目が歴史的かつ俯瞰的に見えてくるだけではなく、日本思想の骨法がわかる。シンタクスとセマンティクスの両方がわかる。『草木成仏の思想』(サンガ)、『日本仏教の可能性』(新潮文庫)、『浄土思想論』(春秋社)、『中世の神と仏』(山川出版社)、『近代日本と仏教』(トランスビュー)など、お勧めだ。
 もっと複合的に通史をマッピングしたいなら『日本仏教史』とともに、『日本宗教史』『日本思想史』(いずれも岩波新書)、『日本思想史の射程』(敬文社)、『仏教:言葉の思想史』(岩波書店)を併読するのがいいだろう。
 ちなみに末木さんの父上は論理学者の末木剛博で、「遊」創刊前後のころ、ぼくはこちらの末木さんの『東洋の合理思想』(講談社→法蔵館)の影響を受けた。ヴィトゲンシュタイン(833夜)、分析哲学、西田幾多郎(1086夜)、東洋思想にとりくんでおられた。父子ともに短歌や茶道に明るい。
 ついでながら弟の末木恭彦は東海大・駒沢大の中国哲学の研究者で、子供時代は兄ともどもに「ガロ」や少女マンガに夢中になっていたらしい。兄貴はタカラヅカのファンでもある。
 今夜はそうした末木さんの試みを、比較的最近の『日本仏教入門』を通して、ざっと紹介したい。その話に入る前に、ぼくが日本仏教を考えなおすきっかけになった少しエピソディックな話を挟んでおく。

HCU(ハイパーコーポレートユイニバーシティ)11期で講義する末木文美士さん。天台本覚、菩薩とケアの関係、田中智学と国体のこと、政教分離論まで、日本仏教の行方をめぐって話した。

末木さんの仏教本の数々。千夜千冊のために社内にある末木本をかき集めたところ、30冊以上になった。

   僕は、「お釈迦様はこんなことを言っています。
   やはり仏教はすばらしい」というお説教は絶対にしない。
   仏教もまた疑ってかかるべきだ。——『反・仏教学』

 こんなことがあった。80年代はじめにニューヨークのスーザン・ソンタグ(695夜)の書斎にいたときのことだ。「セイゴオねえ、日本人はせっかく仏教をソフィスティケーションしたのに、なぜにまたジョン・レノンやヨガブームなどに煽られて野卑なインド仏教などにこだわったの? 中国の漢字仏教より日本の仮名仏教をちゃんとやったほうがいいんじゃないの?」。そう言われたのだ。
 ソフィスティケーション? そう見えるのか、なるほどと思ったが、さてその理由をうまく説明するのは至難の業だろうとたじろいだ。たとえば法然の「専修念仏」や一遍の「遊行」が易行(いぎょう)という意味ではソフィスティケーションだったとしても、そこに併存する「他力本願」はソフィスティケートされているとは思えない。
 でも、中世の無常観と結びついた「草木悉皆成仏」という感じ方はいかにも日本的でこまやかなだ。『沙石集』の無住は畿内の寺々で修行を積んで、そのうえであんなに柔らかい説話集を編んだ。浄土教系や神仏習合を許容してきたところにもソフィスティケーションがあらわれてはいるとは思うけれど、とはいえそこが日本仏教の特色とどのように関係づけられるのか、実はあまり研究されてこなかった。ソンタグは日本の中世に詳しいわけではなかったが、その勘はわれわれの虚を突いていたわけだ。
 虚を突かれてみると、それが気になって、あれこれ考えるようになったのだが、とはいえ分け入る竹薮は密生する熊笹で切り傷が絶えず、けっこう険しい。そんなとき、こういう問題を拾えるスクリーニング・フィールドが末木文美士の中に用意されていたと気がついたのである。
 たとえば、丸山真男(564夜)が日本では「古層」のホモジェニティ(等質性)が何度も蘇るようにくりかえされてきたと主張したことに疑問をぶつけて、日本の「古層」は歴史の中でじょじょに形成されてきたとみるべきで、そこに神祇信仰と仏教思想との頻繁な交流と相互の解釈と変換がおこって、その後はそれらを古代に発生していた「古層」とみなすようになったのだと説明した。
 このような見方は、記紀神話や万葉歌謡に日本思想の原型を見いだそうとする潮流に抗しているように見えるけれど、こういうふうに組み立てなおしたほうがずっと説得力に富んでいた。
 後日談。ソンタグは3度目に日本に来たとき、ぼくの仕事場を訪れてこう言った。「二つのことを言います。ひとつ、セイゴオの今度の『フラジャイル』という本の構想はすばらしい。大いに期待しています。ひとつ、あのオウム真理教の事件は何なの? 日本人の仏教観なの? それともアサハラ独自のものだというなら、どうしてあんなふうになったのか答えなさい」。
 またもや難問である。佐藤清靖の勧めで、『空海の夢』(春秋社)の増補版に序文をつけてとりあえず暫定的な考え方を示しておいたけれど、ちゃんと書けたかどうか。事は新興宗教や新々宗教をどう説明するかではない。こういう問題は日本仏教が始まったときから、ずうっと続いてきたスクリーニングやフィルタリングの問題なのである。
 われわれは、縄文1万年を文字を知らないままオラル・コミュニケーションで過してきた。そこへ稲・鉄・馬とともに漢字が入ってきた。その漢字は儒教の四書五経や仏教の経典や『千字文』(357夜)に載っていた。だから仏教を知るとは、漢籍を読むことになった。
 読むとはいっても、当然、先達が必要で、かつその文字群が発する意味を縄文以来の倭語に照らし合わせる必要があった。さまざまなフィルターを使わざるをえなかった。ヲコト点や万葉仮名も用意した。ところがそれで読解が進捗してみると、そこがわれわれの欠陥なのだが、自分たちがどんなスクリーニングやフィルタリングを使ったのか、それによってどんな編集をしてしまったのか、その方法を総括するのを忘れてしまうのだ。
 ソンタグは、あの独特の勘でそこを突いてきたわけだ。かつてなら富永仲基が突いたことだった。

スーザン・ソンタグと丸山真男。

『空海の夢』(春秋社)。初版は1984年。1995年にオウム教サリン事件を受けて序章「オウムから空海へ」を加えた新装増補版がつくられ、さらに2005年には空海密教の現代的な価値を再提言する結「母なる空海・父なる宗教」を加えて新版が刊行された。

豪徳寺・本楼のトイレのなかに、ずっとたてかけられている額にはいった鑑真像の写真。来客でトイレを借りる人たちは必ず目にしてありがたがる。

   かつては古典の中に近代に通ずる同質性を
   読み込もうとしていたが、
   近年の研究は、古典を僕たちとは違う異質の他者と見て、
   その異質性を捉え直そうという方向に進んでいる。——『仏典を読む』

 それでは、本書の骨格に沿って少しばかり問題点を浮き彫りしてみるが、話の都合上、まずは日本仏教史を代表する初期の論争から見ていくことにする。論争には安易なスクリーニングに踏みとどまる結節点が隠れている。
 南都六宗がほぼ確立するのは大仏開眼のあとの天平宝字4年である。平安初期になって、そこに天台宗と真言宗という密教が加わった。従来の六宗の枠を打破するものであったが、朝廷からも南都からも抵抗なく承認され、年分度者が割り当てられた。それならそこはすんなり含意されていったのか、たいした議論がなかったのかといえば、そんなことはない。諸宗は論争していた。末木さんは4期に分けた。
 第1期(8世紀後半)では法相宗と三論宗が論争し、第2期(9世紀はじめ)になると、最澄と南都が論争した。最澄がすべての教えは「唯一の仏になるための教え」に帰着するという一乗主義を唱えたのに対して、法相宗の徳一(とくいつ)が「声聞・縁覚・菩薩の悟りはそれぞれ別々のものだ」という三乗主義をぶつけてきた。三一権実論争という。
 徳一は空海にも絡んだ。若い空海のことはおもしろがっていたようなのだが、その即身成仏による密教論の展開に「あなたには慈悲が欠けている」と指摘し、『真言宗未決文』をもって疑義をはさんだ。空海は得意のレトリックで徳一を捌いたが、長引く対立もあった。
 こちらは最澄が延暦寺に大乗戒壇を設けようとして南都を難じたことに始まった。最澄は東大寺の戒壇院は小乗戒だと批判し、そんな言いがかりをつけられた南都が反撃した。これで比叡山と東大寺が全面対立状態になった(最澄には対立する気はなかったが)。

徳一大師像。徳一は都の仏教に反発し、奈良から東国(茨城や福島)へ赴き、各地で寺院を建立。会津に開いた慧日寺(えにちじ)は広大な敷地を有し、信仰を求める人々がぞくぞくと集まった。「仏都会津」といわれる由縁。

最澄が著した『顕戒論(けんかいろん)』。最澄を批判する奈良の仏教者たちへの反論。人々を導き、国を護ることのできる菩薩としての僧侶を育成することを主張した。
図:延暦寺(叡山文庫蔵)

南都七大寺マップ。奈良時代、仏教国家の中心を担っていた7つの大寺、東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺を指す。

 第3期(9世紀前半)、平安仏教界に「八宗」体制が確立し、諸宗派が優劣を争った。とりわけ空海の『十住心論』(その縮約版の『秘蔵宝鑰』)が第六住心以降を法相・三論・天台・華厳・真言の順に教判(教相判釈)し、密教を上位にランク付けたため、のちのちここに顕密仏教論が炎上することになった。
 八宗という言い方は便宜的だ。いくつかのグルーピングがある。中国八宗は法相宗・禅宗・密宗・法華宗・天台宗・三論宗・律宗・華厳宗をさす。平安時代までに日本に伝わった南都六宗に天台・真言を加えた八宗は、凝然(ぎょうねん)の『八宗綱要』がとりあげた。一方、「八宗兼学」の対象とされたのは天台・真言・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗だった。
 第4期はその後の議論が展開する結節点になった。三論の道詮が『群家諍論』でインド以来の諸宗の師資相承を整理し、天台の蓮剛が『定宗論』でこれらの中での天台優位の八宗を位置づけて天台主導の八宗併存を訴えた。これを円珍が『諸家教相同異略集』で追い撃ちし、これらを仕上げるように安然の『教時諍』『教時諍論』『教時問答』が連打されたのである。四一教判といわれる。一切諸仏の説法を「一仏・一時・一処・一教」に集中しようというもので、密教による顕密の統合を強調した。
 こうした論争をへて、何がどうなったのか。比叡山は天台の本山だけではなくて、天台・真言・禅を含む顕密の一大センターであることを勁く打ち出すことになった。末木さんはそこを、「宗」は大学やセクトやデノミネーションではなく、比叡山においてスクール(学部)になったと説明する。

飛鳥時代から室町時代までの仏教諸宗派の年表。
作成:大泉健太郎

円珍(智証大師)。空海の甥にあたる。15歳のとき比叡山に登り、延暦寺座主の義真に就いて天台を学び、20歳のとき、菩薩戒を受ける。その後、12年間籠山して修行を続け、延暦寺の学頭となった。園城寺(三井寺)では宗祖として寺門派の象徴的存在となっている。

   日本の仏教の大部分では、他の仏教圏の仏教と違って、
   基本的に部派の律を採用しません。
   何を採用するかというと、
   日本の仏教の大部分が採用しているのは、
   大乗戒だったのです。
   そして、この大乗戒を採用したのは誰かというと、
   実は最澄でした。
   その意味で、最澄こそ、日本仏教の戒律観を
   根本からひっくり返した人だと言えます。——『浄土思想論』

 建久9年(1198)、栄西の『興禅護国論』と法然(1239夜)の『選択本願念仏集』が発表された。両著とも立宗を計ってのマニフェストである。
 二度の入宋をはたした栄西は、臨済宗黄龍派の禅を会得して、帰国後はこれを九州で広めようと試み、先行していた大日能忍の達磨宗が弾圧されつつあるのを見て、禅による国づくり(興禅護国)に乗り出すことを決意する。安然の教判を参考にしながら禅の系譜を述べ、その理論化を試み、新たな禅宗の勅許を願った。そこには『日本仏法中興願文』にみられるような「日本仏法」という大きな視野が設定されていた。栄西の禅はソフィスティケートされてはいない。けっこう、ごつい。
 一方、法然は浄土宗を専修念仏(称名念仏)によって立宗するべく、聖道門と浄土門の二門をもって諸宗を俯瞰し、阿弥陀仏の本願による他力信仰のすばらしさを説いた。それまでの「観仏」(観想念仏)から「念仏」(口称念仏)への転換は、すでに空也などにも芽生えていたし、そこには中国における慧遠(えおん)や善導の先行例もあったのだが、法然の場合は阿弥陀仏の名号を専らにしたことに独特の軋道転回があった。法然はまた、あまり論証はできていないようだが、みずからを菩提流支・曇鸞・道綽(どうしゃく)・善導・懐感・少康につらなる系譜の者と位置づけた。
 法然の試みはすぐに理解されたわけではない。さっそく法相唯識の知識に長けた貞慶(解脱上人)が二宗の成立の条件が満足できるものかを検討し、栂尾高山寺の明恵(みょうえ)は『摧邪輪(さいじゃりん)』をもって、法然の立宗は「小宗」にもとづくものばかりが多く、「大宗」をめざすほどの論拠が提示されていないと批判した。批判は法然には届かなかった。すでに亡くなっていたからだ。

鎌倉新仏教の宗派一覧。
図:『詳説日本史』115頁より

 ここに親鸞(397夜)が登場する。『摧邪輪』を読んだかどうかはわかっていないが、論争を引き受けたのではなく、おそらくは法然の『選択集』と明恵の論法の両方を吟味して『教行信証』を著した。「教・行・信・証・真仏土・化身土」の6巻からなる。
 当時の法然の門下は安心(あんじん)派と起行派に分けられていた。その安心派にいたとおぼしい親鸞は、法然の専修念仏を「行」とみなし、『無量寿経』の阿弥陀仏の本願に説かれる「至心・信楽(しんぎょう)・欲生」の三心を「信」の中核においた。また、浄土に向かって往生する「往相」と、浄土からこの土に還って世の人に救いを与える「還相」を、相互に行ったり来たりする「回向」(えこう)の思想を構想した。
 こうして浄土教に向かった日本仏教は、そう言っていいなら「菩提心」を問題の中心におきはじめたのである。他力のしくみに言及したのだ。親鸞は菩提心には「竪」(じゅ)と「横」(おう)があり、そこにそれぞれ「出」(しゅつ)と「超」とがくっつくと見て(そういう二つのスタイルがあると見て)、明恵の大乗聖道門の菩提心は「竪超」(じゅちょう)だが、阿弥陀仏の絶対他力を願う信心は「横超」(おうちょう)の菩提心だと切り返していった。
 そうなるには、ただちに弥陀の浄土に生まれようと思うのではなくて、仮の浄土(化土=けど)にひとまず生まれていていいのだと、親鸞は考えた。これはかなり新しい環世界の提示だった(仏教では「器世間」という)。独特のソフィスティケートも動きはじめていた。

比叡山を下りた法然は、東山吉水(今の知恩院山内)に庵を結び浄土の教えを説いた。あらゆる身分の老若男女が法然のまわりを囲んで教えを聴いている。
図:法然上人行状絵図(四十八巻伝)巻第六

法然のもとに弟子入りした親鸞が厳しい聞法と研学の末、『選択本願念仏集』の写経を許される場面。

仏教の宇宙観。須弥山がそびえ立つ「有情世間」と呼ばれる人間界と、それを下から支える「器世間」(金輪・水輪・風輪)から成り立つ。

   しばしばいわれるところでは、
   栄西は密教や律を並修させるところが少なく、
   法然は専修念仏の立場を徹底しているとされるが、
   どうであろうか。——『日本仏教史』

 いったい何が始まろうとしていたのか。鎌倉新仏教の動向を彩る創師たち、渡来の開山僧、同時代の傑僧たちを生年でみると、ざっと次のようになる。
 覚鑁(1095)、大日能忍(不祥)、重源(1121)、法然(1133)、栄西(1141)、貞慶(1155)、俊荐(1166)、明恵(1173)、親鸞(1173)、道元(1200)、叡尊(1201)、円爾弁円(1202)、蘭渓道隆(1213)、忍性(1217)、円照(1221)、日蓮(1222)、無学祖元(1226)、南浦紹明(1235)、一遍(1239)、凝然(1240)、一山一寧(1247)、夢窓疎石(1275)、関山慧玄(1277)、虎関師錬(1278)、恵鎮(1281)、宗峰妙超(1282)‥‥。
 生まれ年とその当人の主たる活動期はずれていることは少なくないけれど、この錚々たる顔ぶれを眺めていると、根来寺(ねごろじ)を開いた真言の覚鑁(かくばん)の改新活動へのとりくみがかなり早かったのと、13世紀半ば以降の蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧(いっさんいちねい)の来日僧の役割、禅の日本化に踏み切った高峰顕日の重要性、ならびに応燈関(大応国師=南浦紹明、大燈国師=宗峰妙超、関山慧玄の3人)の果敢な禅林づくりが目立つ。
 覚鑁から大燈まで、わずか200年。ものすごいムーブメントがおこったものだ。これらに挟まって法然、栄西、明恵、親鸞、道元、そして日蓮と、および真言律宗の叡尊と忍性(にんしょう)、時宗の一遍らが「攻め」に転じて動いたわけである。いずれも際立つ信仰と言動の持ち主で、前半は浄土系が、後半は禅宗の連続的起動がめざましい。
 原勝郎はこれは日本の宗教改革だと捉え、親鸞をルターのプロテスタンティズムに比肩した。鈴木大拙(887夜)はそこに「日本的霊性が発揚された」とした。
 大拙の見方は、それまでの日本人の宗教観がアニミスティックでシャーマニックな原始的習俗の延長にいたままだったのが、鎌倉期の文化高揚(武家の抬頭)のなかで外来仏教の刺激を強烈に受けることによって、日本人の中にひそんでいた霊性がめざめたという捉え方をした。この捉え方はのちの日本仏教史の解釈に影響力をもたらした。とくに浄土系と禅系の仏教者たちが個人の救済に向かって「超越性」や「超越者」という視野(大拙は「超個己性」と名付けた)を獲得したと捉えたことは、その後の鎌倉新仏教についての定説になった。
 しかし、『日本的霊性』(岩波文庫)は昭和19年の刊行で、当時の日本人がに日中戦争や太平洋戦争に血道をあげて「日本精神」を謳歌しているのに対して警告を発する意図(そういうものが日本精神じゃないという意図)を含んでいて、必ずしも鎌倉新仏教の特色が明確に指摘されたというふうには読めない。ソフィスティケーションというわけでもない。どちらかというと、大拙好みの思想というべき「即非の論理」による新仏教説明になっている。これは親鸞の「造悪無礙」や道元(988夜)の「修証一如」にはあてはまりそうではあるものの、説明の全体がどこかパラドキシカルだった。
 いずれにしても鎌倉新仏教はひとまとめには語れない。すこぶる複合的であり、かなり多様なのだ。とくに明恵、叡尊、忍性、日蓮、一遍、および応燈関らの禅僧たちをどう捉えるか、大拙や原勝郎の説明では把握できないものがあった。

『日本的霊性』(岩波文庫)と鈴木大拙。

   日蓮の唱題は、専修念仏のように、さまざまな行の中から
   選び取られたというのではなく、
   真理そのものがそこに顕現しているのであって、
   選び取るというような作業は不要であった。——『日蓮入門』

 日蓮の活動は佐渡流罪を挟む「佐前・佐中・佐後」に分かれる。佐前は法華経の喧伝に邁進し、鎌倉にとどまって『立正安国論』をアピールした。途中に伊豆流罪があった。
 佐中は律宗の忍性(にんしょう)の祈雨の祈祷を批判したのが引き金となって龍口(たつのくち)で危うく斬首されそうになったのを逃れたのも束の間、佐渡に流された。佐中はここからの時期で、「なぜ自分はこうも迫害を受けるのか」を省みて法華経を読み込み、実は迫害されるというそのことに自分が真の行者であることが示されているにちがいないと思いいたると、『開目抄』『観心本尊抄』を綴ってその確信の所以を説いた。
 法華経は大きく前半部の「迹門(しゃくもん)」と後半部の「本門」に分かれている。迹門では三乗(声聞・縁覚・菩薩)それぞれの悟りは唯一の一乗に帰着するということを歴史上の釈尊が説いたと説明し、本門では歴史上の釈尊は実は方便であって、真実の釈尊は歴史を超えた永遠の存在のブッダであることを説くというふうに解釈されてきた(1300夜、千夜千冊エディション『仏教の源流』参照)。
 日蓮は本門のほうを圧倒的に重視して、かつ永遠の釈尊の功徳は「妙法蓮華経」という経題(題目)に集約されているとみなした。経題を受持すれば絶対の世界が体得されるはずだという方針をもったのだ。とくに本門で法華経を受持する菩薩がさまざまな苦難をこえて経典の功徳を広めていくことには、信仰者にかぶさってくる苦難をのりこえる覚悟を迫るものがあると確信した。
 佐後は鎌倉に戻って身延に籠もる晩年である。それまでの活動からするとやや消極的な日々であるように感じるが、弟子たちに宛てた膨大な消息を綴っている。その中身は決して消極的ではなかった。
 ちなみに、よく知られているように、日蓮には、しばしば「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(四箇格言)と言い放つような、他宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)を痛烈に非難する傾向がある。そのため日蓮の排他性が強調されることが少なくなかったのだが、末木さんはかならずしもそう見ない。『日本仏教史』や本書や『日蓮入門』(ちくま学芸文庫)でそうした見方をほぐし、変更を加え、むしろ天台が重視した「一念三千」による一貫した仏教的実践思想が漲っていたことを解いた。
 中国天台宗の基本テキストは、南北朝期に智顗(ちぎ)が著述した『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』という天台三大部である。なかでも『摩訶止観』は天台止観を示したものとして慄然とした威容を誇っている。「一念三千」もそこで展容される。一念はわれわれ一人ひとりの思考のはたらきのことをいう。三千はそのはたらきが、十界・十如是・三世間におよぶことをいう。百界×十如是×三世間」で三千。日蓮はこの「一念が三千に貫かれていく」という気概をもっていた。
 こうした日蓮にくらべると、一遍の活動は踊り念仏と賦算に徹していてわかりやすいもののように見える。これこそソフィスティケートされたものを感じるかもしれないが、いやいや、実は決して軟らかくはない。そこには熊野信仰と深く結びついた死生観が貫かれていた。
 入宋した俊荐(しゅんじょう)の影響をうけて戒律の復興をめざした叡尊とその弟子の忍性の活動は、どうか。ソーシャル・ケア化した。しだいに難病・貧困に喘ぐ民衆を救済することに向かっていった。そのため鎌倉に極楽寺を開いて大規模な救済活動を展開した忍性のように、日蓮と正面から衝突することもおこすのだが、そのゆるぎない実践性は世俗社会に訴えて、新たな中世文化を切り開くものを秘めていた。
 これらの事情を左見右見、掘り起こしながら鑑みていくと、鎌倉新仏教が宗教革命や霊性革命だったとは括れない。ソフトな「トーン」でも括れない。むしろ多様な「抜き型」が地と図をもって複雑に絡み合ったのである。なぜ、そこまでできたのか。図はさきほど列挙した覚鑁から宗峰妙超におよぶ祖師たちが描いたとして、そこにどんな地がつかわれたのか。
 大きな「抜き型」があったはずだった。天台本覚が地になっていたのである。

末木文美士『日蓮入門』(ちくま学芸文庫)

日蓮の「立正安国論」。天変地変飢餓疫病の原因は、国をあげて禅・念仏等の邪教に帰依しているからだとして、救いの道は法華経を信奉する以外にはないと断じ、執権・北条時頼に呈上した。

佐渡に流された日蓮。雪が降りしきるなか、ぼろぼろの廃屋で苦境と対峙する。
図:「日蓮聖人御一代記」より

地蔵堂で踊り念仏をする一遍上人。法衣の僧侶や時衆たちが狭い舞台で口々に念仏をとなえ、鐘をならしながらトランス状態になっている。

   日本天台における本覚思想の発展は、
   それ自体思想的に甚だ特異で注目されると共に、
   鎌倉仏教との関係、中世文化の諸領域への影響など、
   その重要性が知られている。——『日本仏教思想史論考』

 これでだいたいの準備ができた。末木さんは、鎌倉新仏教の多様性は天台本覚思想との「抜き合わせ」から出てきたという見方をとったのだ。ぼくはそこに惹かれてきた。ただし、その見方はかなり強靭な研究と洞察にもとづいているので、容易には説明しにくい。そもそも天台本覚とは何なのか。
 少しわかりやすそうな順を追って言うと、本覚思想とは、かんたんにいえばこの世の現象界をそのまま悟りの下敷きとして肯定していこうという見方のことをさす。悟りが現象界に散らばっているというのだから、はなはだ現実肯定的な見方だ。生きとし生けるものに仏性(ぶっしょう)があり、草木虫魚とともに悟りを実感できる可能性があるというのだから、はなはだ楽観的でもある。誰もが使いやすい日本流の仏教OSめいてもいる。
 仏性とは「成仏する可能性」のことをいう。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつうぶっしょう)と説明されている。一切の衆生に仏性が芽生えて、みんな成仏できるというのは、このままそこだけを採ると「成仏の平等主義」のようにも見えるし、もっとありていにいえばずいぶんラクチンな見方だというふうにもなる。
 仏教の世界観では衆生は六道をさまよっている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天が六道で、衆生はこれらをぐるぐると変転しつづけている(六道輪廻)。衆生は誰のことかというと、われわれのことだ。サットヴァというサンスクリット語を鳩摩羅什(1429夜)が「衆生」と訳した。玄奘は「有情」と訳した。
 玄奘は「心のはたらき」をもつものを有情と捉えて、岩石や草木の非情と区別した。ところが日本では、このあと説明するけれど、草木のような非情にもそれぞれ発心や成仏の可能性があるとみなすようになった。これを「非情成仏」の問題という。
 そのためこの見方からは「草木国土悉皆成仏」という言葉が使われるようになり、さらにそれが変化して昭和平成の世では「山川草木悉皆成仏」という新たな言い方が罷り通ったものだった。梅原猛(1418夜)が言い出し、中曽根康弘が拡声したのではないかとおぼしい。
 しかし、話はラクチンなままであるわけではなかった。そんなはずもない。現象界と悟りがつながると感じられるには、本覚が動かなければならない。本覚という言葉は『金剛三昧経』や『仁王般若経』に初出が見えるもので、その後の『大乗起信論』において「始覚」(しがく)と「本覚」(ほんがく)が対応してから、さまざまな議論がされるようになった。
 始覚は初めて悟ることをいうのだが、悟りを体験したというのは、もともとその身に悟りの芽のようなものが備わっているからだろうから、その備わっているものを本覚と名付けた。「本来の覚性」が本覚なのである。そういう本覚に気づかないままになるのは「不覚」だった。
 このように人間に本来の覚性(かくしょう)があると見るのは、とどのつまりは衆生(われわれ)にはもともと仏性が備わっているということでもあろう。そこで唯識思想などでは本覚は「本有」(ほんぬ)とか「始有」とも呼ばれた。これはまた衆生にはいわば如来が胎蔵されているとも解釈できるので、「如来蔵」(にょらいぞう)とも言われた。
 如来蔵はサンスクリット語のタターガタ・ガルバの漢訳である。タターガタは如来を、ガルバは母胎あるいは母胎の中の胎児を原義とする。ということで、仏性や如来蔵は、われわれは「如来を母胎にもっている」、あるいはわれわれには「如来となるべき胎児がいる」ということを提示した概念となった。
 それでここからが日本の話になるのだが、このような本覚思想が比叡山の延暦寺や園城寺で育くまれていったのである。
 なぜ比叡山に本覚思想が育まれたかとみなされたかというと、最澄が入唐したとき、道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)の二師から天台法門を学び、道邃からは本覚門を、行満からは始覚門を得たと伝えらたと口伝があったからだ。本覚門はその後、恵心院源信が、始覚門は檀那院覚運が継承したので、天台には恵心院流と檀那流という恵檀二流が口伝されてきたともみなされた。口伝だから文書にのこっているわけではない。
 けれども末木さんはこれは後代の捏造にすぎず、実際には天台本覚は法華経の本門思想に注目していくことからしだいに深まっていったもので、それが眼前の現象世界のすべての事実性の重視につながり、本門が「事常住・事実相」をあらわす永遠の真理を説いているというふうに解義されるにつれて、そこに天台独自の教判(教相判釈)が加わって天台本覚がかたちをあらわしてきたというふうにみなした。

六道絵の内、「地獄道」を描いたもの。飲酒に絡む罪を犯したものが落ちる叫喚地獄で、炎を纏う隕石が降り注ぎ、溶けた銅と動物の血が混ざった川が流れており、全身から炎を発する巨人が罪人たちを監視している。

   安然はあくまでも非情である草木が
   それ独自で発心・修行する草木自成成仏説を主張する。
   どうしてそのような主張がなされ、
   その主張にどのような意味があるのか、
   その探求が本書の課題である。——『草木成仏の思想』

 日本仏教の議論のなかで天台本覚思想という括りは古くから控えていたわけではない。明治大正期に島地大等や村上専精が話題にしたことはあったけれど、1973年に岩波の「日本思想大系」が第9巻に「天台本覚論」をまとめ、田村芳朗がその解説に当たってから活発に議論されるようになった。
 田村は、天台本覚には「生死即涅槃、煩悩即菩提、凡聖不二、生仏一如」などの見方を徹底させるところがあって、その特色はいちじるしく相即不二的で、かつ絶対的一元的だというふうに解説した。そして「本覚が現実界の内在原理とされている」とみなした。現実界の内在原理とは難しい言い方だが、わかりやすくいえば本覚の土台を「ありのまま」に措いたということだ。
 「ありのまま」などというとなんとも芸がないようだが、それだけならたしかに芸がない。しかし天台思想が真如は「ありのまま」にあると考え、仏性は現実界に遍在していると考えているのだとすると、まさに天台本覚は本気で「ありのまま主義」を標榜したのである。それが鎌倉新仏教でOSのように使われたのだ。
 田村の解説を受けて、多くの議論と研究が広まっていった。そこには「ありのまま主義」など仏教ではない、これでは修行など不用になるではないかとする袴谷憲昭の天台本覚思想批判から、もし天台本覚が如来蔵思想を一歩も出ていないのならそこには天台の深まりがないのではないかという松本史朗の見方まで、それなりに憤然とした議論が噴出した。
 これらに対して、天台本覚の是非を問うにはこれまで研究されていなかった安然の思想をもっと検討しないかぎりは見えないものがあるとしたのが、末木文美士だった。

『天台本覚論』(日本思想体系・岩波書店)と編者の一人である田村芳朗。本覚思想研究の第一人者で、学徒出陣のときには戦場に『法華経』を携えて激戦をわたったという逸話がある。末木さんは田村の弟子筋にあたる。

 すでに紹介してきたように、末木さんの仕事は天台僧・安然の研究から始まっている。安然(841〜915?)の生涯は審らかにならないところも多いのだが、最澄・円仁・円珍を承けて台密(天台密教)を完成させるにあたって、山科の元慶寺の遍昭に学んだ。百人一首「天つ風雲の通い路ふきとじよ乙女のすがたしばしとどめん」の、あの僧正遍昭だ。密教僧であった。
 その後の安然は入唐するべく太宰府に向かったという記事が「三代実録」の記述にあるので、彼の地で学びたかったらしいのだが、実行はしなかったようだ。中止ないしは断念の理由はわからないが、末木さんは「唐なにものなるぞ」という気負いがあったのではないかと推理している。
 やかて安然は『斟定(しんじょう)草木成仏記』を著して、そこに「草木国土悉皆成仏」という言いまわしを使った。われわれの眼前にある草木と国土は、仏国土としてことごとく成仏の国土になっている、あるいは「なりうる」という言いまわしだ。この言いまわしはその後、院政期の証真が『魔訶止観記』で使い、やがて鎌倉新仏教の祖師たちの中に入りこみ、中世文化や中世文学の多くで無常観や「数寄の遁世」として定着する。
 なぜ安然は「草木国土悉皆成仏」という言い方をしたのだろうか。おそらくは時代が関係していると思われる。安然の著作活動期は9世紀になるのだが、この時期は日本が遣唐使を廃止し、藤原摂関政治を準備していた。天台の活動もやや低迷していて10世紀の良源(元三大師・厄除け大師)の登場まで復興力をもっていなかった。また即身成仏をめぐる思想を天台がうけとめる時期にもあたっていた。
 安然はこうした時期、『教時問答』『即身成仏義私記』『斟定草木成仏記』などの著作に没頭し、草木即心についての思索を追求した。どんなふうに安然が思索をしていったかは、いろいろな紆余曲折があるので今夜は省略するが、まとめて知りたい諸君には末木さんが2015年にまとめた『草木成仏の思想』(サンガ)を読んでみることを薦めたい。かなり詳しく述べられている。それを一言で集約することはできないけれど、ごくごく縮めていえば、天台宗・華厳宗・三論宗の草木成仏説を検討し、『大乗起信論』を引きつつ「随縁真如」という立場にもとづいて、有情と非情の区別をなくし、草木すら成仏しうると説いたのだった。

末木さんは『草木成仏の思想』(右)で、「山川草木悉皆成仏」という言葉は、天台僧・安然(左)が、中国天台の著作を大胆に解釈して生まれたものであることを丹念に検証している。

 安然ののち、草木自成仏説は良源の『草木発心修行成仏私記』や源信の『三十四箇事書』(枕双紙)などに受け継がれ、覚鑁によってその身体論化が、道元によってその山水論化が試みられた。これらは安然の意図とはべつに展かれていったに近い。けれども、そここそが日本仏教の大きな特色の「トーン」となったのだとみなしたい。
 しかしながら、こうした起爆や着床の意味は、日本仏教史としては、また仏教を背景とした日本思想史や日本言語思想の展開としては、残念ながらほとんど語られてこなかった。なぜ、語られなかったのか。日本仏教を話題にするのが人気がなかったのだと言うしかない。また、近現代の日本人は仏教思想を持ち出すというリベラルアーツに慣れてこなかったか、その力を発揮してこなかったと言うしかない。
 これはまずい。今夜はそのことを述べるのは控えるけれど、ぼくは21世紀の日本をおもしろくするには、仏教と新たなリベラルアーツが結びつくことこそが最も有効だろうと見ているので、この現状はできるかぎり打破したいと思っている。打破するには多少の準備が必要だ。
 そこで「近江ARS」と銘打ったグループの諸君とともに、三井寺(園城寺)を学びの場として、末木さんに2年ほどにわたって日本仏教の特色を解(ほど)く会で語ってもらうことにした。三井寺長吏の福家さんは、長らく末木本を読み込んできた人でもあった。世話役には「百間(ひゃっけん)」の和泉佳奈子が立った。
 三井寺に来ていただく人数には会場の都合で制限があるが、そのうちネットなどで参加可能な機会を拡げたいと思っている。

三井寺で開催された近江 ARS「還生の会(げんしょうのかい)」第1回で、末木さんが講義をしている様子(右)。後半では松岡と三井寺長吏・福家俊彦さんとともに鼎談や田中優子さんその他との質疑もおこなわれた。(左)。

   仏教はその原点以来、ずっと死者と関わり続けてきました。
   主要な大乗経典は死者との関わりを
   最も主要なテーマとしていました。
   生があって死があるのではありません。
   死があってはじめて生があるのです。——『現代仏教論』

 ずっと前から「7万5000の寺院、約8000万人の仏教徒、30万体の仏像」というふうにおぼえていた。堂々たる数だ。ビヨンセが数百人の黒人ダンサーを引き連れているようで、とても誇らしかった。しかし、この数字はたいそう漠としたものでもあって、7万ケ寺の寺院、8000万人の仏教派、30万体の仏像が群をなしてわれわれに胸騒ぎを迫っていくようにはまったく見えてこない。なんらの唸りをあげてはいない。いまの仏教界にはビヨンセもイチローも大谷もいない。
 仏教の現状がそうなっているだけではない。2020年の文化庁「宗教年鑑」では、神道系が8895万人、仏教系が8483万人、キリスト教が191万人、諸教が740万人というふうになっている。なかで仏教の宗教団体としては13宗28派が認められているが、すべて大乗仏教系である。それなら13宗28派の日本大乗仏教系が何かの活動性や象徴性やなんらかの社会活動を世に発しているかというと、そういうこともない。
 平成30年間で、キリスト教系は5万人増えたが、仏教徒の数は4000万人ほど減ったという数字もある。令和元年の調査では、仏教系は4724万人だ。4割が減った。
 数字はともかく、日本人が仏教徒であるという自覚をあまりもっていないのは、とっくの昔からの常識だ。もっとも日本人には自分たちが神道信仰者であるという自覚もない。結婚を神式にして葬儀を仏式にしているにすぎない。このことは日本人の宗教意識の欠如として指摘されてきた。しかしそうだとしたら、どうしてそうなのか。この常識をどういう説明で切り抜けるのか。
 かつてNHKの教養番組のチーフディレクターだった阿満利麿は『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)を書いて、日本人は創唱宗教よりも自然宗教的なるもののほうに関心があり、宗教的な強い思想が人生の前提を疑ったり否定してくることを避けているのではないかという見通しを述べていた。
 これはソンタグが「ソフィスティケーションとしての日本仏教」をぶつけてきたことに似て、当たっているように思えるが、思想史としては説明できていない。また、それなら僧侶はそのへんをどう見ているのかというと、そこがよく見えない。なんとかしたいのだろうか、それとも忸怩たる思いにいるのだろうか。
 「宗教年鑑」では日本の僧尼は37万人である。この数は多くもないが、少なくもない。タイは人口が7000万人弱で3万の寺院、30万人の僧侶がいる。だから、日本の僧尼の数は十分だ。けれども活動が見えているかというと、そうではない。たとえば日本のサッカー人口は436万人、野球人口は700万人で、そのうちのプロのサッカー選手は1800人程度、プロ野球選手は1000人にも満たない。それでもどんな人材やプレーがあるかは刻々見える。僧侶もプロ級が何かをすればかなりの選抜力が見せるプレーにお目にかかれるはずなのである。
 安土の宗論はいまこそパブリックビューで行われるべきなのだ。文治元年、大原にいた顕信が勝林院に20人のトップ・ディベーターを集めて法然の話を聞く会を開いた。300人近いオーディエンスがいた。こういうことがもっと時期を画しておこなわれる。WCRP(世界宗教者平和会議)の日本版も試みられるべきだろう。女性宗教者たちもLGBTQも集まるべきだ。石山寺の鷲尾龍華さんや立正佼成会の庭野光祥さんに期待している。

阿満利麿と著書『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)。

左は大規模な托鉢式で列をなすタイの僧侶たち。右は立正佼成会次代会長・庭野光祥さん。「立正佼成会を再編集しないといけない」と自ら編集学校の門を叩き、師範代(インドラ一乗教室)もつとめた。

近江ARSプロジェクトの一環で石山寺を視察したときのドキュメンタリー動画。近江ARSのメンバーで、石山寺座主の鷲尾龍華さんが案内した。

   人間の現象として現れているこの世界「顕」の裏側には、
   「冥」(みょう)と呼ばれる世界があり、
   「冥」の世界に死者や神仏がいる。この感覚は、
   中世には広く共有され、神道が形成されていく中でも
   重要な意味をもつようになります。
   この世の秩序の外にある暗闇の世界が、
   この世の秩序と密接に関わっているのです。——『日本仏教入門』

 以上、日本仏教を「抜き型」で見るという視点から末木さんの本が語る主旨の一端を急ぎ足で辿ってみたのだが、本書の序文をはじめ、このところ末木さんが自身でクローズアップしているのは「顕」と「冥」というテーマなのである。最後にその話をしておきたい。
 末木さんの本ではやや異色な著作にあたる『哲学の現場』(トランスビュー)がある。「日本で考えるということ」というサブタイトルが付いている。前半、日本人が西洋の哲学を相手にした近代の思想家たちの流れを瞥見し、半ばの第5章「他者の壁」でブーバー(588夜)、レヴィナス、清沢満之(1025夜)を比較しながら、他者を存在一般の延長で捉える限界を指摘しつつ、関係こそが存在に先立つのだから、他者の問題については「私もまた私にとって他者であり、私の外」であるような見方がこれからは重要になるだろうことを持ち出している。
 そこから、他者は範型が異なることが多いので安易な類型化はふさわしくないこと、そのような多様な他者がいるところにも思いを致すべきであること、そのことを日本では「顕」に対する「冥」の存在の認知として理解する方法をもったという考察へと入っていく。
 天台座主でもあった慈円(624夜)が書いた『愚管抄』このかた、歴史や現在や将来を語るには「顕わるるもの」とともに「隠くるるもの」を同時に見なければならないという見方が断続的に重んじられてきた。それが「顕」と「冥」である。たんに光と影を語るというのではない。
 これは光と影、顕と冥、生者と死者は別々のことを別の言葉で語っているという認識をもつということだ。そうしないと日本の歴史はわからないと、慈円は言ったのだ。それなら「顕」に対するに「冥」の言葉をある程度はふんだんに扱えるようにしなければならない。とくに顕冥にかかわる言葉、顕冥から逸れる言葉についての比較と比肩が重要だ。
 のちに本居宣長(992夜)は歴史や現実の「顕」の現象を見るには「ただの詞(ことば)」でも役立つが、「冥」を見るにはそれなりの「あやの詞」が必要になると訴えた。「顕」に回収できない「冥」の言葉や意味の世界が厳然とありうるということである。
 さかのぼって、天台本覚が仏性・真如・如来蔵を動かすには、経典などを検証したうえでの仏教的な「あやの詞」が必要で、安然の作業はまさにそのためのものだったとも言えたのである。それをすることで、仏教思考が既存の魔術から脱して、新たな再魔術化がおこせるのだった。
 末木さんは別の本、『現代仏教論』(新潮新書)にこう書いている。「私が最近提案している「顕」と「冥」の世界観は、ある意味では、まさしく脱魔術化の後の再魔術化の一つの提案ということもできます」と。
 この再魔術化という言い方は、デカルトが物心を切り離した哲学を構築したのに対して(デカルトは物質と精神を別々に扱った)、のちのちベイトソン(446夜)らがこれを統合して、デカルトが中世的な魔術思考を否定して近代哲学礎を築いたことを、あらためて再魔術化して今後の哲学や科学や思想を議論するべきだとしたのにもとづいている。モリス・バーマン(1241夜)の『デカルトからベイトソンヘ』(国文社)に詳しい。
 再魔術化ではないが、量子力学のデヴィッド・ボーム(1074夜)が『全体性と内蔵秩序』(青土社)で明在系(エクスプリケート・オーダー)だけでは物理の真理は語れない、暗在系(インプリケート・オーダー)の語りこそがカギを握っているという議論をしたのも、顕と冥との関係を思い合わさせた。
 しかし、このことをもっと如実に秘めていると思われるのは、仏教の変遷であり、とりわけ日本仏教の転移のありかただったのである。

デヴィット・ボーム『全体性と内蔵秩序』(青土社)とモリス・バーマン『デカルトからベイトソン』(文藝春秋)

天台座主・慈円が著した『愚管抄』は、末法思想によって当時の政治を論じ、日本で初めて歴史哲学を説いたもの。佐藤優さんと対談したさい、松岡が「いま日本人が読むべき本は『愚管抄』だ」と断じたことに衝撃をうけ、その後は2人が会うたびにその話が引き合いに出される。

   中世においては「顕」なる領域は、
   常に「冥」の世界に囲まれていた。
   「冥」は神仏や死者の世界であり、それは
   我々にはうかがい知れず、
   それだけにどんな厄災をもたらすか知れず、
   どのように対応するかが重要な問題になった。——『哲学の現場』

 編集工学では「開ける」と「伏せる」を方法的に重視する。もともと歴史の中には早くから「開けられたもの」と、グノーシスや新プラトン主義やカバラのように「伏せられたもの」があった。
 それらを「開ける」のは学問的には大事な作業だが、そうしたからといって、それらがなぜ「伏せられた」かはわからない。むしろ、今日のわれわれはそのような「開け伏せ」のあった歴史の文脈に学びつつも、新たな「開け伏せ」に向かわなければならない。ぼくはこのような考え方をずっとしてきた。
 そうしてきたのは、「顕」の方法と「冥」の方法とは、その根底の表象力や伝達力において異なるものを操業させてきたということに学びたいからだった。たとえば、出雲神話は高天が原神話の表象力では解けない。それを平田篤胤らが指摘した。
 なぜこんなことがおこるのか。わかりやすい譬え話にすると、盗られてはならないものを隠すには、どうするかというと、容易に見当がつかない場所を選ぶか(ポーの推理小説のように)、隠し場所に鍵がかかっていてその鍵が見つからないか(コンピュータならコードナンバーがわからないか)、そもそも何が鍵で何が鍵穴なのかの関係が見いだしにくいか、このいずれかの処方をするはずである。永久に見つからないようにしたいのなら、そんなものは棄却してしまえばいいのだが、そうはしたくない。そこには秘密や真実の根拠がひそむので、なんらかの方法で解錠にたどりつかせたいわけなのだ。
 出雲神話の成立を想定すると、そのような鍵と鍵穴が「冥」の言葉で綴られていた。オオナムチ、スクナヒコナ、クエビコは「顕」のイコノロジーでは説明しがたい。
 そのため篤胤のような壮大な仮説が、きっと鍵と鍵穴はこれだろうと指し示しながらいつしか登場することになるのだが、そこにはどうしても「冥」の世界の全き想定が必要なのである。そういう世界を想定しなければ出雲も解けなかったのだし、出雲神話をつくったほうからすると、本来の秘密や真実を全面的に(あるいは暗示的に)共有してもらわなければならないからだ。
 この共有の謎は、ギリシア的な『ユリシーズ』には薄く、インド的な『バカヴァッド・ギーター』(1512夜)に、はるかに深かった。
 話を日本仏教に戻すと、なぜ日本の寺院は葬式仏教を重んじたのか。そこには「冥」の世界の土台やネットワークが必要だったから、お寺と死者が相互陥入していてほしかったからだというふうに解釈できる。ただし、近代以降の仏教はそのようには日本仏教の「冥」を重視したり、説明したりできるようにはしてこなかった。これは怠慢による。
 いま、日本における「冥」はかなり後退させられ、粗末に扱われ、また多くの者が誤解するように位置に貶められている。そのかわり前面化しているのがコンプライアンスというものだ。
 では、こんな状況の中でどんな方針がもてるのかというと、はなはだ心もとないけれど、21世紀の日本に「顕」と「冥」がもっと語られていくようにするには、以上のような「開け伏せ」を今後にも企んでいくのがいいだろうと思われる。伏せながら提出し、少しずつ開いていくようにする。そうするには末木さんがそうしてきたように、仏教をふんだんに活用することなのである。
 これはパース(1182夜)が「アブダクション」(仮説形成)と名付けた方法に近いとも思われるけれど、もっと仏教史的に言うのなら、仏性や如来蔵が「ありのまま」のところに措かれているにもかかわらず、そこを開けようとすると、よほど本気でかからないと鍵も鍵穴も見つからなくなっていくというような、そんな「開け伏せ」になっていくような気もする。
 まさに末木さんは、そういう「開け伏せ」を著作を通してやりつづけてきた。これからもそうされていくだろう。
 なんだか勝手な案内になってしまったが、では、ごめんなさい、この続きは8月21日の三井寺で末木さん本人からの話で深めていただくことになる。

近江 ARS「還生の会」では、末木さんを迎えて、全8回にわたって日本仏教を広い視座から見直すプログラムを開催する。2回目「国家と仏教:戒律と社会(仮)」(日時 2022年8月21日/場所 三井寺)は、ただいま申し込み受付中。近江ARS公式サイトはコチラ

TOPページデザイン:美柑和俊
図版構成:太田香保・寺平賢司

⊕『日本仏教入門』⊕
∈ 著者:末木文美士
∈ 装幀:片岡忠彦
∈ 発行者:郡司聡
∈ 発行所:株式会社KADOKAWA
∈ 印刷所:横山印刷株式会社
∈ 製本所:本間製本株式会社
∈ 発行:2014年

⊕ 目次情報 ⊕
⊕ 目次情報 ⊕
∈ 序章 「日本仏教」への視座 日本人の死生観から
∈ 第一部 日本仏教をどう見るか 「方法論」の定礎
∈ 第一章 思想史の中の日本仏教 仏教学から学際研究へ
∈ 第二章 「宗」とは何か 「顕密体制論」以後の仏教研究
∈ 第二部 日本仏教の始まり 仏教はいかに受容されたか
∈ 第三章 最澄と江南仏教 「三国史観」と中国仏教受容
∈ 第四章 大蔵経の伝来 日本仏教と高麗版大蔵経
∈ 第五章 経典の解釈と選択 教判論の展開
∈ 第三部 日本仏教の浸透 信仰と理論の諸相
∈ 第六章 神仏習合、神仏補完 アジアにおける仏教と土着諸宗教との交渉
∈ 第七章 仏教はいかにして日本化=土着化したか 『法華経』受容を中心に
∈ 第八章 阿弥陀信仰と釈迦信仰 浄土教の展開と『涅槃経』
∈ 第九章 日本仏教論争小史 日本仏教の理論はいかに鍛えられたか
∈ 第四部 日本仏教の展開=転回 実践への問い
∈ 第一〇章 戒律思想史上の鑑真 その渡来の原点へ
∈ 第一一章 密教のパワー 空海と日本の密教
∈ 第一二章 仏への一途な思い 求道者明恵と浄土教批判
∈ 第一三章 迫害と確信 日蓮の仏教観と災害観
∈ 第一四章 日本仏教の実践 修行・儀礼・社会参加
∈ 終章 日本仏教の近代 〈顕冥〉の精神構造と日本仏教の新たなパラダイム
∈∈ あとがき
∈∈ 参考文献
∈∈ 初出一覧

⊕ 著者略歴 ⊕
末木 文美士(すえき・ふみひこ)
1949年、山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。比較思想学会会長。専門は、仏教学・日本思想史。仏教を含めた日本思想史・宗教史の研究とともに、広く哲学・倫理学の文脈のなかで、現代に生きる思想としてそのあり方を模索。『日本宗教史』(岩波新書)、『日本仏教史』『仏典をよむ』(新潮文庫)、『草木成仏の思想』(サンガ)、『親鸞』(ミネルヴァ書房)、『日本の思想をよむ』(KADOKAWA)など、著書多数。