ほんほん

ぼくは「本数寄」なのである

ほんほん54(最終回)

◆慶応義塾大学出版会から「世界を読み解く一冊の本」というシリーズが刊行されている。『旧約聖書』『クルアーン』『三教指帰』『西遊記』『カンタベリー物語』『百科全書』『言海』『伝奇集』『一九八四年』『薔薇の名前』の10冊だ。えっ、たった10冊かよと思うだろうが、その10冊に空海、チョーサー、大槻文彦、エーコが入っているのが絶妙な特色だと思ったほうがいい。ただし原著やその翻訳ではない。それぞれ著者が別にいて、これらを解読している。藤井淳の『三教指帰』を読んだが、なかなかユニークな視点になっていた。
◆千夜千冊では「世界を読み解く一冊」をできるだけ選んできた。これまで書いてきた1800冊の中の300冊から500冊くらいが、そういう本だったと思う。吉本隆明は、本はたいてい自分のかかわりとの関係で読むものだけれど、自分が関心のない本にめぐりあうにはどうすればいいかという問いに対して、それは「書物に含まれている世界」が決めてくれるのだと答えていた。すぐれた本は「書き手が世界をあらわしたくて書いているものだ」というのだ。その通りだろう。
◆ボルヘスは、本は記号の集合体であるけれど、そこに読み手がかかわるとその記号は千変万化に息づいていくと言った。エーコは、本はスプーンやハンマーやハサミ同様に500年前とまったく変わっていない形態のものだけれど、それは「スプーンがあれ以上の形をとれないこと」と同様に、実にすばらしい究極の姿なのであるとみなしていたのだ。
◆たしかに「本」はあの形がいい。四角くて、表紙と裏表紙にページがぎゅっと挟まれて、ちょっと重たげで、本棚に並べると背中が何かを訴えている。これは「物実」(ものざね)もしくは「憑坐」(よりまし)なのだ。
◆ぼくが「本」という形をとったブツにぞっこんになったのは、20代半ばに自分の6畳・3畳のアパートで本棚を手作りしたときあたりからで、そのとき、わずかな蔵書を少しずつカバー自装したせいだった。カバー自装というのは、中身は気にいったのに外見が気にいらない本に適当なカバー材を選んできて、そこにレタリングセットや油性ペンでタイトルなどを付けていったことをいう。物実らしくしておきたかったのだ。これで護法童子が走りまわるようになった。これで「本」と一緒に暮らすようになった。
◆そういうふうになったのは、やっぱり10代に本に夢中になったからで、それがもしギターや算数に夢中になっていたら、別の生き方をしていたのだろうと思う。昆虫学者になっていた可能性もあるし、聴診器や注射器が手放せない診療所に暮らすようになったかもしれない。
◆ぼくは家庭用品や生活用品にからっきし関心がない。自分の部屋にそういうものを揃えたくなかった。もっとはっきり言うと、「生活する」に関心がない。生活は好きな仲間と一緒にいたいという、ただそれだけだ。リラダンとタルホの影響が滲みこんだせいだろう。これがわが生き方だ。だからぼくの日々はいまだにロクな用品に囲まれていない。自動車や電子機器はスタッフに頼っているし、たいていの日々は誰かが介添をしてくれている。つまりは生活オンチなのである。このオンチのせいで生活用品が自分の周辺に不可欠だと思えない。
◆では何が不可欠かというと、それが「本」だった。本が炊飯器で、本が大工道具で、本が食い道楽で、本が旅行で、本が恋愛で、本がうたた寝なのである。そんなことだから、当時から部屋には本だけがふえるだけだったのだ。本以外で大事なのはジャケットとタバコくらい。
◆こんなふうなので、そうとうな読書家ですねえ、さぞかし希覯本や珍本が集まったでしょうねと言われるが、そうなのではない。たしかに読書はするが、たくさんの本を読みたいとは当初から思っていなかった。いまも冊数はカンケーない。「読書するという状態」に、科学や文学や音楽の秘密が隠れていると思っているので、その読書状態をなんとか持続させ拡張させていくための日々をおくることが好きなのだ。だから希覯本はいっさい集めない。文庫本でも十分なのである。
◆もう少し正確に言うと「読むこと」が好きなのだ。もっと正確に言うと「読み」が好きなのだ。さまざまな民族言語による言葉が組み合わさって、それが人麻呂やシェイクスピアやジャン・ジュネやガルシア・マルケスや阿木耀子になってきたということ、その多様性のプロセスと成果を読むことが好きなのだ。
◆これはどちらかといえば、植物や動物の進化を読んでいるのに近い。だから批評したり書評したりするのは、実はほとんど気が向かない。千夜千冊も一度も書評をしようと思って書いてはこなかった。空き番だらけの「本の進化の木」をひとつひとつ埋めているような気分なのだ。
◆ただし、またまた別のことを言うようだが、この文明の流れのなかで、言葉や「読み」が進化してきたなどとは思っていない。人類の思索や表現が進歩してきたとも見ていない。そういう進歩史観はもっていない。むしろ言葉が意味からずれ、何かを隠さざるをえなくなっていく様子や、書くことが「逸脱」をおこしていくのを読むことに、大いなる興味があったのである。
◆つまりは、ぼくの「本好き」は「本数寄」なのである。何かを数寄の状態にしていくための本なのだ。遁世の数寄なのだ。それが70年以上もずうっと続いてきた。千夜千冊はやめられないだろう。また、どこかに本棚を作って進ぜるという仕事も、きっと続くだろう。最近は「本の寺」に関心がある。まったくもって大変なビョーキに罹ったものだ。
◆さて一方、この「ほんほん」コラムはそろそろ「お開き」にしたいと思った。ブックウォッチャーを続けるのもどうかなという気にもなったのだ。別のコラムを始めるかもしれないけれど、どういうものかはわからない。そのときはそのときで、どうぞ御贔屓に。

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侠客と角力

三田村鳶魚

青蛙房刊・ちくま学芸文庫 1957・2010

編集:柴田宵曲・青蛙房編集部
装幀:安野光雅

 江戸学は三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)に始まった。
 鳶魚は明治3年の生まれで、闊達な八王子の同心気質や実家の織物屋に育って、洒落たものが好きだったとおぼしい。世の中の変化に関心があったようで、やがて自由民権運動にかかわったり、日清戦争の従軍記者をしながら、「風俗画報」に関東各地の地方史伝など書くようになった。
 ついで三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛の「日本及日本人」創刊とともに、率先してコラムや連載を担当すると、しだいに江戸趣味に傾いていく。
 性分に合っていたのだろうと思う。その中身は、江戸社会にまつわる生活・文化全般・趣向・サムライ稼業、職人仕事・言いまわし・事件の数々、芝居、粋なお遊び、ヤクザの習慣・多彩な人物伝、犯罪ドキュメント(捕り物)そのほか、トリヴィアルなことをふくめて、なんでもござれだった。
 だから、鳶魚による江戸に関する膨大な拾遺と考察がのちのちの江戸学の礎石になったわけだが、実際は江戸学などというしかめっ面のものではなく、鳶魚はひたすら該博愉快に江戸社会の出来事を書きまくり、喋りまくり、編集しまくったのだ。
 出典を示さなかったので学界からは無視されたけれど、なにしろその量が尋常じゃない。中央公論社の『三田村鳶魚全集』で28巻、文庫になった新編『鳶魚江戸文庫』で36巻。『未刊随筆百種』(やはり中公)で12巻がある。しだいに学界も認めざるをえなくなった。
 本書『侠客(きょうかく)と角力(すもう)』はそういう鳶魚江戸学のごくごく小さな一くさりである。鳶魚が口述したものを編集名人の柴田宵曲(しょうきょく)がまとめた。著作集に入っている鳶魚の座談風「ですます」調の文章は、もとはたいてい口述したもので、その多くをまとめたのが宵曲だった。
 宵曲は子規(499夜)門下の寒川鼠骨(そこつ)に師事して子規の遺稿を整理するうちに俳諧の腕を撫し、其角(1573夜)の『五元集』の共読研究会にかかわって、虚子(1597夜)ほかの「ホトトギス」の文人と広く交わり、俳句同人誌や句集の編集をあれこれ引き受けた。鳶魚の原稿を手伝ったり、まとめるようになったのはやや晩年である。
 『侠客と角力』は、その宵曲も出入りしていた青蛙房(せいあぼう)が昭和32年に刊行したものが底本。どんな感じか、とばしとばしだが、あえて鳶魚ふうに綴って一端を紹介してみる。

三田村鳶魚は、明治38年、「風俗画報」に山梨の方言を分析した「甲斐方言考」を発表し、その後『日本及日本人』で本格的な執筆活動をはじめた。昭和7年に島崎藤村や吉川英治などを痛烈批判した「大衆文芸評判記」を連載し、当時の大衆作家たちに恐れられた。そのトリヴィアルな該博さから「江戸学の祖」「江戸通の三大人」「最後の町学者」「大衆文壇の検非違使」など、数々の異名を持つ。

1907年の元旦に、三宅雪嶺の主宰で創刊した「日本及日本人」は、同社で刊行されていた「日本人」、政治評論家の陸羯南が主宰していた「日本新聞」を継承している。松岡は雪嶺の『真・善・美』を高校時代に読んで感銘したという。

明治22年から27年間にわたり全518冊刊行された「風俗画報」は、日本初のグラフィック誌。江戸から大正に及ぶ歴史、地方風俗、戦争・災害、事件などを、彩色石版画や日本画をつかって報じた。鳶魚のデビュー誌となった。

十代の頃から正岡子規に私淑していた柴田宵曲は、俳句雑誌「ホトトギス」に編集員として所属したことをきっかけに、寒川鼠骨に師事。談話筆記にすぐれていたため、輪講会で重宝された。編集名人である。

 まずは股旅ということに引きずられた話をいたしますと、旅を股にかけた者がみんな渡世人で博打打ちかといえばそんなことはない。道中をころがって歩くのは雲助がいたし、股旅(またたび)芸者も杜氏(とうじ)もいました。
 遊山や湯治の旅人は楽旅(らくたび)です。そうではなくて急ぎ旅をする者たちがいた。そそくさと宿場から宿場へ、村から村を渡っていきます。杜氏や雲水坊主がそういう急ぎ旅の連中で、そういうなかに無職渡世(ぶしょくとせい)が出てきた。職がない連中で、仕方なく博打(ばくち)で少しずつ稼いで渡世くらしをしたんでしょう。
 博打は商売ではありません。だから往来を自慢たらたらには歩きません。博打打ちは素人衆とは必ず一線を引いたのです。たとえばどなたかの家に誘われても、座敷へは上がらずに丁寧に挨拶をして腰掛けで用を足した。そんなところじゃ話ができない、中に入りなさいと勧められても、いえ御用はここで承りますからといって固辞するのです。つまり世間の渡世人は義理というものを心得ていた。
 博打打ちのことをヤクザ者ともいいますが、これはサイコロ二個の賽の目の合計や札(ふだ)の合計が八や九や三になるところをあらわして八九三としたもので、指定暴力団のことではない。賽事(さいころごと)や札事(ふだごと)の仲間うちの用語です。新井白蛾の『牛馬問』が説明しています。
 そんなことをするのは、むろんまっとうな仕事や商売ではありません。世間の目を忍んだ賭け事で身をやつしている者がやることです。いつ裸一貫になっても仕方がない。ですから、こんなことはそれなりの人品(じんぴん)をつくっておかなければできません。この人品を代表するのがやはりは親分衆で、義理を欠いたり傲慢になっては処置がないのです。親分は博奕にあまり勝ってもいけません。
 ただ、そういう親分衆のところにはいろいろ草鞋(わらじ)を脱ぐ者がいた。なかには腕っぷしがいい者やごろつきや長脇差を自慢する者もいました。脇差(わきざし)は寛文8年以降は一尺八寸以下のものと定められていたのですが、それより長い。
 そんなものを拵(こしら)えて親分のところで草鞋を脱ぐのだから危なっかしいのですが、危なっかしいぶん、これは助っ人にもなる。賭場では喧嘩騒ぎもおきやすい。そこでしばらく逗留させるということになります。鍔(つば)がなく、白鞘に収めているものもいて、これはいわゆる長ドスです。

股旅や無宿渡世は、戦後日本映画のブームとなるアウトローのテーマだった。笹沢左保原作の連続テレビドラマ、中島貞夫監督・菅原文太主演の《木枯らし紋次郎》(上)や、市川崑監督・萩原健一主演の《股旅》(下)が大当たりした。

賭け事は古くからあったものだが、江戸期は博打は御法度であったため、賭場は町奉行の影響が及ばない公界(くがい)の寺院や、貴族の屋敷で開帳された。
図版上:江戸の咄本に描かれた「かるた賭博」に興じる人々。(『鹿の巻筆』より)
図版下:幕末に訪日したスイス人が見た花札をする人々(『日本風俗図絵』より)

丁半博打は、盆座を中心にして、「壺振り(つぼふり)」と「中盆(なかぼん)」が向かい合って座る。胴元は存在しない。原則として丁半が対等になると、中盆が「勝負」と言って、壺笊(つぼざる)をあけ勝敗を決める。

江戸時代にはさまざまな賭博が流行していた。上図はひもクジの一種「宝引」をしている場面。正月の風物詩として子どもたちに人気だったが、大人たちが金品を掛け合って幕府に何度も禁じられた。下図は「どっこいどっこい」。竹ベラのついた円盤を回転させ、止まったところが「アタリ」という江戸のルーレット。イカサマも多かった。
図版上:鳥居清長画
図版下:『江戸府内絵本風俗往来』より

 こんなふうに無職渡世の者が親分衆のところにそれぞれ集まってくると、甚だ穏やかではありません。幕府も各藩も八州回りということをする。これは文化2年にできた八州取締出役というもので、代官は四人の部下から一人ずつ手代(てだい)を出し、出役(でやく)としました。
 八州は関東の八カ国のこと、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野をいいます。関八州(かんはっしゅう)ともいった。それでこの八州回りがいろいろ調べると、帳外者(ちょうがいもの)がいる。勘当されたり所払いをされて、人別帳に載っていない。だから帳外の者です。これが、つまりは「無宿」です。
 こうして親分と無宿と博打打ちがまざって各地で無職渡世をするようになりますと、ここにいろいろ「男振り」を争うということが出てまいります。そして遊侠や任侠の語り種が生まれてくる。これが侠客の誕生です。
 司馬遷の『史記』遊侠伝が書いているように、中国の「侠」は春秋戦国の戦国末期から輩出しています。「遊は従なり、侠は持なり」とある。主君に仕えて命がけで仕事をしてみせた(1149夜『中国遊侠史』参照)。それが後漢のころになりますと、自分で名乗って腕を磨くようになり、まあ自らその名を売り出すようになるわけです。
 江戸時代ではこれは「飛び上がり者」とか「向こう見ず」とか「お先者」といいました。なかに派手な男振りがあって「かぶき者」とか「達者」(だてもの)と言われた。大鳥逸平のように伊達を競ったのです。達者やかぶき者は大名や旗本のような分限を得た者にも飛び火します。山中源左衛門、水野十郎左衛門、三浦小次郎などは旗本奴とよばれた。
 それが正保・慶安のころから町奴にも及びまして、武士の真似をする達者が出てきます。有名なのは幡随院長兵衛で、大いに羽振りをきかせて侠を上げるのですが、水野十郎左衛門に斬られました。こんなふうになってきたのは町のそこかしこに「きおひ」(気負)というものが対峙しあってくるようになったからで、互いについつい啖呵(たんか)を切ってしまうのです。「きほひは芝」とか「神田きおひ」とか呼ばれました。
 で、啖呵を切ってどうするかというと、叶わぬもの、理不尽なことを強引に通してしまう。だからこういう者たちは「通り者」とも言われました。「筋の通りたる事に、たのまれて一歩も引かぬ男」と書いてあります。この「通す」「通る」ということが文化や趣向に及びますと、いわゆる「通」(つう)というふうになる。江戸後期は「通」と「野暮」とが分かれます。
 江戸の侠客は以上のような流れが、いろいろ撚り合わさって出来上がったものでしょう。

関八州とは、江戸時代の関東八か国(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)の総称。江戸時代後期には無宿人や浪人が増加して治安が悪化していたものの、天領や私領地が散在していたため、広域的な警察活動が難しい状況になっていた。そこで、1805年に関東取締出役、俗称「八州回り」が設置された。

江戸時代に戸籍帳簿に名前の記載されなかった者を、無宿人と呼んだ。松本清張の短編『無宿人別帳』は、佐渡送りの無宿人が起こしたお上への反乱を描いている。井上和男監督、佐田啓二主演で映画化された。

河竹黙阿弥の歌舞伎の演目『極付幡随長兵衛』は史実にもとづいていた。旗本奴の水野十郎左衛門(右)の酒宴に招かれた、町奴の親分である幡随院長兵衛(左)は、罠だと知りながら、「人は一代、名は末代」の「きおひ」を胸に、ただ一人水野の屋敷に向かう。

大鳥逸平は、江戸の傾奇者(かぶきもの)の棟梁で、300人以上のごろつきを束ねていた。図版は1612年、高幡不動尊で行われた相撲興行に来ていた大鳥逸平が幕府の役人に捕縛された様子を描いたもの。大鳥は取り調べで拷問をうけるが仲間について一切口を割らず、そのまま磔刑に処された。
図版:『武蔵名勝図会』より

 角力の話を少し加えてみたいと思います。
 もともと角力には奉納角力と勧進角力とがありました。ほかに大名による御前角力や辻角力などもあったけれど、歴史が長いのはこの二つで、奉納角力は寺社の恒式や法楽として年中行事になっていて、料物料金をとるわけではありません。
 おそらく奈良平安にさかのぼる相撲節会などから発展してきたので、養老期や天平期にはのちの相撲司にあたる役柄があったようですから、天覧相撲めいたものが節会(せちえ)になっていたのかと思われます。相撲は神事だったのです。
 当時は20組40番が取り組まれます。力士(ちからびと・すまひびと)は各地の健児(こんでい)の中から力のある者を選んだらしく、そのためにこそ相撲司がいた。
 どんな角力をしたかというと、はっきりはわかりませんが、立合いはなく、立ったまま声をあげて互いに姿勢をとって(練歩)、そのまま一気に組み合った(手合)。今の柔道に似ています。ただし裸です。土俵はなく、投げきって勝った者は大声を出して鼓舞を見せていました。土俵はなくとも、砂場のようなところが造作されたようです。土俵が出来たのは天正以降です。
 勧進角力はお上に許可を得て勧進元が興行するもので、もっぱら江戸におこります。回向院や深川八幡で富樫太夫や鳥居権平などが催した。晴天十日にわたって取り組んで、最初は飛び入りでした。年に二回の興行です。
 そんな角力取りはどこから出てくるかというと、自分で名のったわけではありません。もともとは大名抱えといって、各地の大名が武芸や芸事の一部として槍遣いや角力取りを抱えていた。神事相撲時代の健児から集めたのに近いんでしょう。そこから選ばれた。
 そういう角力の体裁が整ってきたのは、享保年間に紀州で鏡山沖右衛門という抱力士(かかえりきし)が登場して、この鏡山一党の流儀がよくできていたからでした。たとえばそれまで三段に仕切っていたのを一声で仕切り、塵手水(ちりちょうず)を取り、四股(しこ)、行司の捌きなども洗練された。今日の大相撲も鏡山の紀州流が手本になったのです。
 番付は角力が興行される場所の興行札が享保あたりに木版刷りの刷り物に転じたもので、早くから用意されたのですが、初期は横綱はありません。大関がトップで、あとは張出(はりだし)になった。寛永寛文あたりに横綱をつくり、明石志賀之助を初代の日下開山(ひのしたかいざん)にしてからは、寛政期に谷風梶之助が出て小野川喜三郎、雷電為右衛門らと争って人気絶頂になりますと、あとはやんややんやで、その土俵入りの姿さえ話題になります。

宮中の相撲節会などから発展した角力は、鎌倉時代に武士が組み打ちを鍛錬する「武家角力」に変わる。源頼朝から織田信長まで、武家の棟梁の多くが角力を好んだ。江戸になると、角力は庶民が楽しむ「勧進角力」の見世物興行となった。
図版上:両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」(Yukikaze1234 CC BY-SA 4.0)。
図版下:1843年頃に書かれた歌川国貞「勧進大相撲興行の図」。

神社の奉納角力はしばらく全国に残っていたようだが、近年は減っている。写真は昭和26年の佐保神社秋祭奉納角力。
図版:藤本百男『ふるさと加東の歴史再発見』より

角力といえば番付だ。図版は寛政3年(1791年)11月場所の番付で、両大関が谷風梶之助と小野川喜三郎(才助)、西関脇が雷電為右衛門と、江戸勧進角力黄金期の力士の名が並ぶ。

名力士たちは強き男として、浮世絵や講談でさまざまに描かれた。月岡芳年「明石志賀之助」(左)は、江戸勧進角力を始めたといわれる伝説の力士・志賀之助が、講談『美勇水滸伝』のなかで鬼を倒す場面。歌麿の「大関谷風と金太郎の首引き」(右)では、谷風梶之助が寛政三美人とともに描かれている。月岡芳年「和漢百物語 小野川喜三郎」(下)は、ろくろ首に化けた古狸に余裕綽々で煙草の煙を吹きかける小野川喜三郎の豪胆ぶりを絵に仕立てた。

 角力は江戸の喧嘩や争い事を収めるにも重用されたようでございます。
 芝神明の境内から始まった、あの派手な「め組の喧嘩」が三奉行を煩わせて火が付いたときも、角力取りたちが絡んで収拾したようなもの、角力取りは力も強かったのだろうけれど、男振りにも大いにかかわったということです。
 関八州の親分衆が目立ってきた天保のころには、実は博徒と角力はかなり重なりました。捕物(とりもの)芝居に有名な勢力佐助(せいりきさすけ)の一件など、その典型です。それなら角力もヤクザな稼業だったのかというと、そういうところは多少あったとしても、そうではありますまい。むしろ、角力、無宿者、芝居はそれがなければ江戸の鉄火は話にならなかったというほどの、そういう「きおひ」の装置であったのです。
 以上、ごくごく駆け足ではありますが、侠客と角力を並べて、日本の男達(おとこだて)というものが、どんなふうな筋をもとうとしてきたのか、そこを覗いてまいりました。いずれも「通り者」のお話で、その一端に無宿渡世がかかわって、また別の一端に日本人の争い方が、さまざまな「きおひ」の趣向をもってかかわっていたのです。ご退屈さま。

め組の喧嘩は、文化二年二月(1805年3月)の町火消し「め組」の鳶職たちと江戸角力の力士たちの乱闘事件で、講談や芝居の題材になった。角力の無銭見物から始まった些細ないざこざが大騒動に発展した。め組は火の見櫓の早鐘まで鳴らして動員をかけ、最終的に火消しと力士合計36人が捕縛された。
図版:月岡芳年「新撰東錦絵 神明相撲闘争之図」
(国立国会図書館デジタルコレクション)。

元力士の勢力佐助(富五郎)は、同じく元力士の親分・笹川繁蔵とともに、賭場を開いて笹川一家の勢力を拡大する。闇討ちで殺された繁蔵の仇をうつため、勢力佐助は飯岡一家に立ち向かうが、返り討ちに遭い自決する。このときの大捕物が話題となり、宝井琴凌と5代伊東陵潮が講談『天保水滸伝』にまとめた。
図版:歌川芳虎「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」

 先だって武尊(たける)と那須川天心の決戦を見た。東京ドームに6万人近くが集まって、異様な興奮に包まれてはいたが、たいそう悲しみに滲んだ一戦でもあって、いろいろ感じさせた。天心が武尊を倒したのだけれど、笑みを浮かべながら沈んでいった武尊にはむろん、天心にも凱歌はなかった。
 実はこの数ヶ月ほど、週に1、2度、眠る前の20〜30分を、前田日明の用意した「THE OUTSIDER」の過去映像や、そこから輩出した朝倉未来たちのユーチューブ、そこにも出入りした半グレや不良少年たちの検証映像などを、次々に見ていく時間にあてていた。思うところあってそうしていたのだが、いつも『史記』遊侠伝の「少年の遊侠、経過を好み、渾身の装束、みな綺麗」が去来した。
 ハマの狂犬の異名をとる黒石高丈、顔にまで刺青をした爪田純士、関東ステゴロ最強と言われた谷山秀行、渋谷夜櫻会(暴走族)の加藤友弥など、「THE OUTSIDER」だけでも、多くの若い「通り者」たちが格闘技に参入していったのを知って、前田日明の仕事に巨きな意図があったことが伝わってきて、しきりに『史記』遊侠伝が思い出されていたのである。
 ふりかえってみれば戦後日本の歴戦ボクサーたちも、大山倍達の極真空手に憧れた腕自慢連も、前田を含めたプロレスラーたちも、少年時代は貧しくも街で暴れていた者たちだった。日本の格闘技には、そういう少年たちによる、どこか「侠」とのやむにやまれぬ共振というべきものが隠れていたのであろうと思われる。
 6月19日の武尊と天心の決戦は、これらの「我が思うところ」にまつわって、まことに心に沁みたのである。この「沁みぐあい」を、さてどうしたら伝えられるのか。今宵せめて三田村鳶魚の「きおひ」の話に託しておきたくなった由縁である。

2022年6月19日東京ドームでの「THE MATCH2022」は、RISE世界フェザー級王者の那須川天心とK-1スーパーフェザー級王者の武尊の両者が対戦を熱望し、7年越しで実現。ABEMAによる独占放送も注目を集め、チケットや有料配信などあわせて約50億円という異例の興行となった。

2015年3月の総合格闘技大会「THE OUTSIDER」第34戦。プロデューサーである前田日明を中心に、街のアウトサイダーを自負する選手たちが囲んでいる。右側にはまだ不良少年の面影がのこる朝倉未来の姿がみえる。

暴走族ブラックエンペラー2代目総長を父にもつ瓜田純士は、少年期から数々の事件をおこし、暴力団グループにも所属していた。2008年に「THE OUTSIDER」で格闘家デビューするが、通算戦績1勝5敗で期待外れという批判を浴びる。その後自分の弱さと向きあう様子が自伝やYouTubeで世間に知られ、多くのフォロワーに支持されている。

2008年3月の第一回「THE OUTSIDER」のメインとなった加藤友弥vs谷山秀行。夜櫻會三代目総長の加藤と関東最強の不良の谷山の対決は、互いの身体能力の高さとプロ選手にも勝る迫力で、今大会のベストバウトとなり、勝者の加藤はMVPを獲った。
(動画はYoutubeの「THE OUTSIDER FIGHTチャンネル」より)。

TOPページデザイン:富山庄太郎
図版構成:寺平賢司・大泉健太郎・米川青馬・上杉公志・富田七海

⊕『侠客と角力』⊕
∈ 著者:三田村鳶魚
∈ 編者:柴田宵曲
∈ 編集:青蛙房編集部
∈ 装幀:安野光雅
∈ 発行者:菊池明郎
∈ 発行所:株式会社筑摩書房
∈ 印刷所:株式会社精興社
∈ 製本所:株式会社積信堂
∈ 発行:2010年

⊕ 目次情報 ⊕
∈ 博奕打の話
∈ 侠客の話
∈ 雁金五人男
∈ 角力の話
∈ 角力風俗
∈ 晴天十日
∈ 捌き物の話
∈∈ 解説(柴田宵曲)
∈∈ 文庫版解説 あぶない男たちの歴史(氏家幹人)

⊕ 著者略歴 ⊕
三田村 鳶魚(みたむら・えんぎょ)
1870(明治3)-1952(昭和27)年。江戸文化・風俗の研究家。本名は玄龍。東京八王子の千人同心の家系の織物買継商に生まれる。青年時代、三多摩壮士として自由民権運動に参加。のち日清戦争の従軍記者などを経て、明治末年より江戸風俗や文化を研究・発表し、その旺盛多彩な研究から「江戸学」の祖とも呼ばれる。長年の業績は『三田村鳶魚全集』全28巻(中央公論社)に集大成された。