才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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其角と芭蕉と

今泉準一

春秋社 1996

編集:松本市壽
装幀:本田進

芭蕉は寂びたバルザックだが、
其角は元禄の酒呑みシュルレアリストだった。
梅を詠んでも、こんな風だ。
腕押しのわれならなくに梅の花
梅の名をうたてや鵙(もず)のやどりとは
進上に闇をかねてや梅の花
箒木(ははきぎ)のゐぐいは是にやみの梅
夜光る梅のつぼみや貝の玉
芭蕉はそういう其角の句風を「伊達」と呼ぶ。

 うすら氷(ひ)やわづかに咲ける芹(せり)の花
 其角はやはり特別である。蕉門十哲のなかで一番の破格だ。早くから絵師の英一蝶(はなぶさ・いっちょう)らと吉原に遊び、好きに暮らし、好きに詠んだ。蕉門仲間の俳諧集などはちゃんと編集するが、自分の句集は生前に一冊ものこさなかった。
 気っ風がいいのだろうし、面倒なことが嫌いだったのだろう。そういうところがときに芭蕉(991夜)の門人からは疎まれた。芭蕉はそういう其角をほっておく。実はけっこう有為(うい)の奴だとおもしろがったにちがいない。
 一蝶が時の柳沢吉保の権威主義に抵抗して洒落っ気をだし、それがもとで三宅島に流されたときはやたらに心配してしょっちゅう魚河岸に行き、一蝶から包みが届いていないか兄さんがたに聞きまくった。包みをあけてクサヤがあると安心した。江戸にクサヤを送っているあいだは俺は元気だと思ってほしいと一蝶が其角に言っていたからだった。そういうところ、有為奴(ういやつ)なのだ。
 ぼくの父も、ぼくがちょっと辛抱を通すと「ほう、うい奴っちゃなあ」と言っていた。

 帚木(ははきぎ)のゐぐいは是にやみの梅
 洒落・洒脱というならダントツに其角が抜けている。ただ、その洒落ぐあいが昔から難しいと言われてきた。のちの評者にはその衒学ぶりに閉口した者も少なくなかった。
 たとえばこの「帚木のゐぐいは是にやみの梅」の句は、源氏の「帚木」と狂言の「居杭」(いぐい)を知らないと何もわからない。そもそも「園原やふせやにおふる帚木のありとはみえてあはぬ君かな」が源氏の「帚木」の引歌になっていて、近づいてもよく見えない「もの」が帚木なのである。狂言の『居杭』は居杭という名の少年が主人のところを訪ねるたびに「よう来たな」と頭を叩かれるのが嫌で、清水観音から授かった頭巾を、主人が頭を叩きそうになるとさっとかぶって姿を見えなくさせるというもの、いま目の前の「闇の梅」もそのくらい妙な気配で美しくもおもしろい「もの」だという、そういう句なのである。
 それでもこの程度は楽なほうの洒落である。ただ、こういう類いが軒並み並ぶのだから、困る者が出てくるのは当然なのだ。しかし洒落は「通」に通じればいいのだから、それでよかった。
 さすがに酒井抱一や山東京伝、幸田露伴(983夜)や穎原退蔵、柴田宵曲や安東次男、最近では加藤郁乎(35夜)や飯島耕一は、そういう其角にこそ存分に遊んだ。飯島・加藤の『江戸俳諧にしひがし』(みすず書房)、飯島の『「虚栗」の時代』(みすず書房)は得難い。ごく最近では半藤一利の『其角俳句と江戸の春』(平凡社)が瑞々しかった。

 鎌倉や昔の角(かど)の蝸牛(かたつむり)
 名句だ。なるほど鎌倉の昔の角こそ時空をのっそり飛べる奴が持っていそうだ。こういう句なら門人たちも兜を脱いだろう。
 蕉門十哲は歳の順でいえば、杉山杉風、向井去来、服部嵐雪、森川許六、越智越人、宝井其角、内藤丈草、志太野坡、各務支考、年齢不詳の立花北枝というふうになる。杉風・越人・野坡・北枝の代わりに河合曾良、広瀬惟然、服部土芳、天野桃隣らを入れることもある。
 芭蕉が伊賀上野に生まれたのは寛永21年(1644)で、其角の生まれは寛文元年(1661)だから、其角は芭蕉の17歳年下になる。明暦の大火の4年あとに生まれて神田お玉が池あたり、堀江に育った。大火のあとゆえ江戸の町並がすっかり新しくなっていた。そういうさらっぴんの江戸に育って、其角は芭蕉が29歳のときに江戸に下った翌々年、早くも芭蕉に弟子入りした。ということは14~5歳だった。ほぼ同時期に嵐雪も入っている。
 最初は螺舎と名のっていて、まわりからは「田舎の句」と揶揄されていた。ところが其角は怯まない。「ねりまの農夫」「かさいの野人」などと句風を振り分けて門人をも巻きこんだ。このふてぶてしさがのちに西鶴(618夜)らとも肝胆相照らして亙りあえる気質になった。

 十五から酒をのみ出てけふの月
 其角は10代にさかんに古典を筆写している。『本草綱目』の修治・主治・発明などの項目、『伊勢物語』『黄帝内経』『易経』などを写した。漢方のバイブル『黄帝内経』を筆写したのは父が藩の漢方医だったからで、多少は医術を心得ようとしたのかもしれない。文字を記すことは好きだったのだろう。俳人はだいだい字がいいが、其角も能筆だ。
 其角を教えたのは小さい頃が寺子屋めいた大円寺の和尚たちで、その後は円覚寺の大顛和尚に学んだというのだが、まだそのへんの事情が詳らかになっていない。かなり利発な子だったろうことは想像できる。
 ただ其角はそれよりなにより酒が好きで、早くからぐびぐびやっていた。それが「十五から酒をのみ出てけふの月」だ。10代で芭蕉の門に入っていたのに、すでに本気の酒呑みをめざしていたのだ。こんな句がある。
  初雪や十に成子(なるこ)の酒のかん
  かたつぶり酒の肴に這はせけり
  大酒に起きてものうき袷(あわせ)かな
  さみだれや酒匂でくさる初茄子
  名月や居酒のまんと頬かむり
  酒を妻 妻を妾(めかけ)の花見かな
  足あぶる亭主にとへば新酒かな
 この「酒を妻」に「妻を妾」にして花見の酒を呑むだなんて句は、けっこう危い。

 梅寒く愛宕の星の匂ひかな
 前書に久松粛山亭にてとあるから、伊予松山藩の粛山が江戸藩邸のある愛宕に来ていたときの句である。一読、うっかりすると星の匂いなんてありっこないという気にさせられるが、そんなふうでは其角はたのしめない。のちに虚子がこの句は「星寒く愛宕の梅の匂ひかな」とでもなるところをひっくりかえして鬼面人を驚かしたと評したように、これは星の夜にわずかに匂う梅の寒い香りを詠んだのだ。
 中村真一郎(1129夜)が言ったように、其角は元禄のシュルレアリストなのである。

其角直筆の書簡1

其角直筆の書簡2

 凩(こがらし)よ世に拾はれぬみなし栗
 『虚栗』(みなしぐり)の跋文に芭蕉が「人の拾はぬ蝕栗(むしくいぐり)」と書き、其角が「凩よ世に拾はれぬみなし栗」とみごとに受けた。それでこの題になった。
 『虚栗』は其角が編集した蕉門最初の俳諧集である。天和3年(1683)に刊行された。其角が全面的に芭蕉をうけとめて編集した。編集力こそたいそうな腕っぷしで、解釈派の去来とはその趣向が異なっていた。他人の付合(つけあい)を捌く感覚が冴えていたのだろう。
 芭蕉の付合は、付合の案配として「移(うつり」「響(ひびき)」「匂(にほひ)」が重んじられ、付合の様として「俤(おもかげ)」「位(くらい)」「景気(けいき)」を好んだ。其角はそれを味よく組み廻した。継いだわけではない。蕉風を本気で継ぐには其角の才能は弾けすぎていた。
 それから7年後の元禄3年、芭蕉は『笈の小文』の冒頭に次のように書いた。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざるときは鳥獣に類す。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて造化にしたがひ、造化にかへれとなり」。
 芭蕉による花鳥風月のマニフェストであり、日本の心を代表させる名文である。しかしこれは其角を戒めたものでもあった。それでも其角は師を敬いながらも自分の遊びに徹していった。
 本書はその芭蕉と其角の微妙な呼応をとりあげた。著者の今泉準一は生涯を其角研究に注ぎ、1981年に大著『五元集の研究』(桜楓社)をまとめ、さらに前後30余年をかけて石川八朗・鈴木勝忠・波平八郎・古相正美らと待望の『宝井其角全集』全4巻(勉誠社)を仕上げた“其角の鬼”である。一千ページにおよぶ索引は其角そのものだった。
 その今泉準一が自在に芭蕉と其角を比較呼応させた。いささか潁原退蔵の目に引っ張られているものの、其角を芭蕉で語るには欠かせない。

『虚栗』
芭蕉および蕉門のほか、貞門・談林に属する俳人の発句・歌仙などを収録している。

 草の戸に我は蓼食ふほたる哉
 あさがほに我は飯食ふおとこ哉
 似たような句だが、あえて二句あげた。『虚栗』に収録された芭蕉と其角の句だ。これ、どちらが芭蕉でどちらが其角かわかるだろうか。前句が其角、後句が芭蕉だ。
 其角の句は、謡曲『鉄輪』(かなわ)に「我は貴船の河瀬の蛍火」とあるのを踏んでいる。夫に捨てられた女が嫉妬に狂って貴船明神に鬼とならんと呪詛するのだが、陰陽師の安倍晴明に調伏されるという話だ。ぼくは観世寿夫(1306夜)のシテと間狂言(あいきょうげん)で痺れたものだった。
 その『鉄輪』は『後拾遺集』に載っている和泉式部(285夜)の「男に忘れられて侍りける頃、貴船に参りて御手洗川(みたらしがわ)に蛍の飛び侍りけるを見て詠める」とあって、「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る」と歌った光景を引いている。
 其角はこれらを背景に、そこに「蓼くふ虫も好きずき」を掛けて、草の戸のような適当な家で俳諧を好んでいるけれど、ひょっとすると鉄輪につながる蛍かもしれねえよと詠んだわけだ。
 こうした其角に対して、芭蕉はあえてストレートに「飯食ふおとこ」だと詠んで、俳諧で飯を食うことを悪びれないことを示した。
 こういう危なっかしい師弟のやりとりは門人はみんな知っていたのだろう。元禄3年9月に曾良が芭蕉に宛てて「『ひさご集』の事、かねて承り及び候。其角などは心に入り申さざる様に承り候」と書いている。曾良は其角の反応を心配していたのだ。ところが芭蕉はちっとも心配しない。自分は「閑寂」を好むけれど、其角は「伊達」(だて)でいいではないか、そんな見方なのだ。

 胸中の兵(つわもの)出(いで)よ千々の月
 『五元集』に載る一句。張良図という前書があるので、其角が張良のように自分の俳諧を見ていたことがわかる。張良は漢の劉邦の家臣で、臨機応変・千変万化の兵法に長じていた。能にも『張良』がある。
 其角は能にもかなり通じていた。なかでも『張良』には感服したようだ。このことについては、其角の編著である『末若葉』の序にも「句は張良が胸中の兵のごとし」とあるので、よほどなのである。ようするに芭蕉の懐の中で張良のごとく自在に詠んでいきたい。さしずめ芭蕉が劉邦なんですよと。そういうことなのだ。それが「胸中の兵」「千々の月」という言い方になった。月だっていろいろ出ればいいというのだ。

 鯛は花は江戸に生まれてけふの月
 其角はよほどの江戸っ子だった。「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」が人口に膾炙されているが、何かにつけて江戸を詠んでいる。
 其角は近所の魚河岸が好きだった。だからイキのいい鯛とはのべつ出会っている。その色もよくよくだ。その花のような鯛は「江戸に生まれてけふの月」まで自慢になっている。
 鯛だけではない。海苔も江戸に尽きる。「ゆく水や何にとどまる海苔の味」という山本山の宣伝のような句もある。
 とりわけ庄司甚右衛門の吉原はべらぼうだ。格子三味線の清掻(すががき)を聞くだけで浮世になれる。「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」がいい。高木蒼梧(譲)の『其角俳句新釈』には明暦3年から吉原の夜の営業が許されたとあって、さぞかし仲の町の夜は殷賑をきわめたろう。さらに延宝天和は散茶(さんちゃ)の女郎たちが夜見世を張ったので、其角はじっとしていられなかった。
 たんに女と遊びたいのではない。その場の粋や通や伊達と交わりたかった。散茶のひとつ中卍字屋の玉菊がうまかったという河東節(かとうぶし)など、其角にはたまらなかったのだ。

 夕立や田を見めぐりの神ならば
 これも『五元集』に載っていた句で、当時から大変な評判になった。前書に「牛島三囲(みめぐり)の神前にて雨乞するものにかはりて」とあって、三囲神社の雨乞神事にまつわる句であることがわかる。三囲の神なら夕立くらい降らせなさい、じゃなきゃ粋じゃありませんぜというのだ。
 三囲稲荷は江戸の名所のひとつで、その後の浮世絵にのべつ描かれた。けれども元禄初期はまだまわりは田圃ばかりが広がっていて、それで農民たちが雨を乞うたのである。江戸がからからに乾いていたから(だから火事が多かったのだが)、しばしば雨乞いもされた。三囲もそのひとつ。それが其角のこの句も手伝って名所になっていった。
 それというのも、其角がこの句を詠んだ翌日、なんと雨が降ったのである。評判が立ったのは秀句だというのではなく、一句に応じて雨が降ったからだった。
 が、この句はやはりうまい。おまけに折句(おりく)にもなっている。上五の「ゆ」、中七の「た」、下五で「か」が折り込まれて「ゆたか」が夕立のあとにゆっくりと浮かび上がる。

 立馬(たつうま)の曰(いわく)は猿の華心(はなごごろ)
 情欲がなかなか収まらないことを「意馬心猿」(いばしんえん)という。馬が走りまわり猿が騒ぎたてるのは制しがたいので、こう言う。
 この句は其角ならではの超絶技法を見せつけている。「意馬心猿」という熟語をそのまま五七五にしてしまった判じもののようなところがある。「立」「曰」「心」はこれをそのまま上から順に綴ると「意」という一文字になる。そこでその一文字の「意」を逆に分解して五七五に当てた。そのうえで浮気心を「華心」というふうに見立てて、下五に洒落て結んだ。
 これは和歌でも昔から「隠題」(かくしだい)と言われるもので、連歌師にはそうとう得意な連中がいた。頓阿の『井蛙抄』(せいあしょう)はぼくの愛読書のひとつだが、そこからも隠題の歌学が飛び散ってくる。ただ俳諧では隠題とは言わずに、もう少しかっこよく「立ち入れ」(裁ち入れ)とも「詠み込み」とも言った。

 乾ヤ 兌 坎 震 離ス 艮 坤 巽
 其角の言葉遊びや文字遊びは思いついたように起爆する。入念なのではない。だから出来上がった句はぶっとんでいる。この上の句、どう読むか、わかるだろうか。「乾ヤ兌坎震離ス艮坤巽」で、なんと「空や秋 水ゆり離す 山おろし」というふうに読む。これで俳句なのだが、とても読めない。
 「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」は「けん・だ・り・しん・そん・かん・ごん・こん」で、これは易の八卦そのものである。それを其角はそのまま五七五にしてしまったのだ。けれども、そうだとわかっても読めはしない。なぜ、こうなるのか。
 易では「乾」は天である、そこで「空」と読ませる。まあ、いいだろう。「兌」は『易経』説卦伝に「兌ハ正秋ナリ」とある。易を知っていれば、これもなんとか思いつく。そこで「秋」と読む。これで「乾ヤ兌」が「空や秋」になる。「坎」は水をあらわす。「震離」はむりやりだが、「ゆり離す」だ。ここまでで「空や秋 水ゆり離す」というふうになる。
 問題は「艮坤巽」を「山おろし」と読ませようというのだが、「艮」はなんとか山だと見当がつくとして、「坤巽」が読めない。其角は、坤が地で巽は風なんだから「山おろし」に決まっているだろうというのだ。
 ま、誰も読めない句なのである。では、これは? 「けさたんとのめや菖(あやめ)の富田酒(とんださけ)」。富田酒は当時知られていた大坂の銘酒のこと。菖とあるのは菖蒲の節句のことに因んでいて、江戸時代では端午の節句に菖蒲の根や葉を刻んだ酒をふるまうという習慣があった。それで今朝はその日なので誰に憚ることもなく富田の酒が呑めるという、其角らしい酒好きの句になっているわけだ。
 が、実はこれは回文(回句)なのだ。下から読んでも「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」というふうに読める。

 年の瀬や水の流れと人の身は
 明日待たるるその宝船
 忠臣蔵に「両国橋の別れ」という名場面がある。明日は討入りという日の夕方、赤穂浪士の大高源吾は煤払いのための竹売りに身をやつして、両国橋にさしかかったところ、向こうから歩いてくる其角に出会う。源吾は子葉(しよう)という俳号を貰ったほどの俳諧好きで、其角は師匠格にあたる。
 其角は源吾のみすぼらしい恰好を見て、その落ちぶれようを気の毒に思い、自分の羽織を着ていけという。源吾は西国に就職が決まったからご心配なくと言う。二人はしばし隅田川の流れを見ながら、いっときの付句をする。其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠むと、源吾は「明日待たるるその宝船」と結ぶのである。
 其角はこの意味がわからぬまま、その足で訪れた土屋主税の屋敷に行ってこの話をすると、土屋はふとひらめいてこの付句の謎を解く。土屋屋敷は吉良邸の隣りだったのである。
 御存知、赤穂浪士の計画に喝采をおくる一場面だが、もとは森田座初演の『松浦の太鼓』にもとづいている。風流大名の松浦鎮信を題材にした演目で、太鼓というのは山鹿流の陣太鼓のことをいう。松浦侯は兵法にも通じ、大石内蔵助とも昵懇だったのである。一方、松浦侯は藩邸に其角を招いて句会をするほどだった。この藩邸には源吾の妹が奉公に上がってもいた。
 だから其角は察すれば源吾の「明日待たるるその宝船」の意味はわかったはずなのだが、芝居では其角を世事に疎い俳諧宗匠にした。ドジなのだ。けれども世間は、この松浦の両国橋の段で其角ファンになったのである。

 花水にうつしかへたる茂り哉
 こういう句も詠める。いや、ずいぶん詠んでいる。「秋の空尾上の杉をはなれたり」とか、「夕がほや白きにわとり垣根より」とか、「藻の花や金魚にかかる伊予簾(いよすだれ)」とか。いずれも「移り」を巧みに詠んでいる。「秋の空尾上の杉をはなれたり」はのちの現代俳句にも影響をもたらした。
 上に掲げた「花水」の発句は『猿蓑』にある。『猿蓑』は芭蕉が「初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげ也」と発句して、これに其角が「あれ聞けと時雨くる夜の鐘の声」と応じて始まった。巻之二は其角の「有明の面(おもて)おこすやほととぎす」に始まって、全員が時鳥(ほととぎす)を詠んだ。

  有明の面おこすやほととぎす(其角)
  夏がすみ曇行(ゆく)ゑや時鳥(木節)
  野を横に馬引きむけよほととぎす(芭蕉)
  時鳥けふにかぎりて誰もなし(尚白)
  ほととぎす何もなき野の門がまえ(凡兆)
  ひる迄はそのみいそがす時鳥(智月)
  ほととぎすなくや木の間の角櫓(史邦)
  入相(いりあい)のひびきの中やほととぎす(羽紅)
  ほととぎす滝よりかみのわたりかな(丈草)
  心なき代官殿やほととぎす(去来)
  こひ死なばわが塚で鳴けほととぎす(遊女奥州)

 『猿蓑』の最初は其角が31歳のときで、芭蕉が落柿舎(らくししゃ)に入った元禄4年前後のことである。去来と凡兆がめずらしく其角に序文を頼んだ。
 こうした芭蕉と其角のあいだのやりとりは、いろいろのこっている。「古池や」の句を其角が「山吹や」と提案したのを芭蕉が「古池や」にしたのはことに有名だが、それよりも46歳の芭蕉が「奥の細道」に旅立ったあと、旅先に29歳の其角が「さみだれや君がこころのかくれ笠」と送ったのが、ぼくには香ばしい。其角は芭蕉が元禄7年10月12日に亡くなる前夜にも駆けつけた。「胸さはぎ」がしたと書いている。
 その其角は宝永4年(1707)に47歳で死んだ。芭蕉は51歳で「夢は枯野をかけめぐる」だったが、其角も壮年で死んだのである。約300年前の2月30日だった。枕頭に『五元集』があったという。

⊕ 『其角と芭蕉と』 ⊕

 ∃ 著者:今泉 準一
 ∃ 発行者:神田 明
 ∃ 発行所:株式会社春秋社
 ∃ 印刷所:株式会社萩原印刷所
 ∃ 製本所:寿製本株式会社
 ⊂ 1996年12月20日発行

⊗目次情報⊗

∈∈∈まえがき 
∈∈∈凡例 
∈ 第一章 其角の発句 
∈∈ 潁原退蔵推賞の十六句
∈∈ 河東碧梧桐ほか推賞の佳句
∈∈ 佳句とされている其角の句
∈ 第二章 其角は衒学的か 
∈∈ 「聞えがたき句」あり
∈∈ 時代との関連の句
∈ 第三章 「読むたびにあかず覚ゆ」 
∈∈ 奇想の句
∈∈ 即座・即興の機微
∈∈ 「あそび」の趣意
∈∈ 二重義の句
∈ 第四章 其角と芭蕉と 
∈∈ 芭蕉と禅とのかかわり
∈∈ 芭蕉との作風の相違
∈∈ 芭蕉だけが其角を評価した
∈ 第五章 「洒落風」について 
∈∈ 「洒落」の語について
∈∈ 其角創始の洒落風とは
∈ 結び 其角の内面的性格 
∈∈∈書き終えて 
∈∈∈著者による主要編集著書 
∈∈∈参考文献 
∈∈∈其角・芭蕉略年譜 
∈∈∈発句索引 
∈∈∈事項索引 

⊗ 著者略歴 ⊗

今泉準一(いまいずみ じゅんいち)
大正8年東京生まれ。東京商科大学専門部卒。応召、兵役を経て復員。国学院大学文学部卒。元明治大学教授。著書に『元禄俳人宝井其角』『五元集の研究』『枯尾華』(以上、桜楓社)、『宝井其角全集』(共編、勉誠社)などがある。