才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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事大主義

室井康成

中公新書 2019

編集:上林達也 協力:岡本亮輔(北大)・奈良雅史(北大)・本多秀臣(洋泉社)

事大主義の起源は、日本が描き出した朝鮮という「他者像」なのである。だが、それは見つめれば見つめるほど、自分の姿とよく似ていた。だから事大主義こそ日本の国民性だとする言説は、朝鮮を“鏡”として描き出された日本の「自画像」だったのである。

 慰安婦問題、徴用工問題、竹島領有問題などが重なって、日韓関係はややこしいデッドロックにひっかかったままにある。拉致問題このかた北朝鮮との他人行儀すぎる付き合いも、およそ打開策をもてないでいる。日本人の好悪感情も、「韓流ブーム」かと思えば「嫌韓」なのである。互いのヘイトスピーチにも過激なものが少なくない。「在特」という言葉は「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が喧伝して広まったけれど、ずっと以前からくすぶっている言葉だった。
 いとこ同士なのか近親憎悪なのか、わからない。何かが忌わしいと感じられた向きもあった。そこへトランプ大統領と金正恩の綱引、韓国政権のいちじるしい不安定が浮上してきて、直近ではGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の中断が割り込んで、日中韓朝米の五ヵ国の軍事関係や安全保障問題も前途の雲行きがあやしくなってきた。ぎりぎりのところでGSOMIAは温存されたが、なぜこんなふうになったのか。
 当然ながらいろいろ原因も理由もあるのだが、アメリカのニュージャパノロジストたちは、朝鮮民族と日本民族が互いに抱える「事大主義」がこうした問題をめんどうにしていると見ている。たしかに日本人と朝鮮人とのあいだには事大主義に対するおのおの別の見方が交錯していて、事態の進捗だけではなく互いの民族感情において、治癒しがたい齟齬をきたさせてきた。そのなかで安倍政権は何の手も打てないままだから、誰もがじれったい。文在寅の韓国も国際外交が進展せず、国内の火種も燻りから焼き焦がれ状態になってきた。
 そこで、本書の著者は日本・韓国・沖縄に相互にひそむ「自虐」と「侮蔑」がひょっとして事大主義の言説のストリームとして掬せるのではないかと思ったのである。すでに中江兆民は「われわれにひそむ恐外病と侮外病」というふうに言っていた。なぜ東アジアでは、そんなに「外」の侮蔑と「内」の自虐が同居してしまったのか。

 英語では「事大主義」のことを“toadyism”とか“flunkyism”と言うのだが、この英語からは東アジアにおける事大主義の複雑骨折したような動向は見えにくい。
 事大主義をめぐる歴史の変遷についても、突っ込んでいけばいくほど、ややこしい。これまでもこの問題のどこに核心があるのか、日本側でもうまく指摘されてこなかった。研究者も多くはない。淵源は中国である。このあとすぐに説明するが、中華主義と華夷秩序が今日にいたる事大主義のさまざまな襞を彫りこみ、刻んできた。ただし、その歴史をさかのぼりつつ今日までの変化を読み取るのは容易ではない。
 本書は今年出たばかりの本だが(二〇一九年三月)、こうした中華秩序を淵源とした東アジアにおける「事大主義」の意味と意図の相互変遷を手際よく解いて、すぐさまこの分野の必読書になった。著者は東大東洋文化研究所の四三歳の俊英である。

『事大主義』と著者の室井康成氏

 今日の日本では「事大主義」といえば、時流や大勢に準じて事態を判断する態度のことで、おおむね「無定見」や「日和見主義」の代名詞になっているかのように聞こえるが、東アジアの歴史ではもっと地政学的なさまざまな意味をもってきた。
 古代中国がユーラシア大陸に占めた空間量と政争量がただならないボリュームで、そこに強靭な中華秩序が発現したことが、すべてのはじまりだった。まわりは「小中華」にならざるをえなかった。古代ローマ帝国の時代、周辺ヨーロッパがことごとくローマ化したようなものだ。
 ところが、アジア全般ではそうならなかったのである。そうなったのは朝鮮半島やベトナムや琉球だけだった。だから、ここで話は朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と倭の関係に移る。アライアンスと抗争とが二重三重におこり、半島では新羅から高麗をへて李氏朝鮮が確立したのだが、倭は大和政権から武家国家への道を選んだ。ここで「事大」の意味が分かれたのだ。とくに近代日本では福澤諭吉が「事大」に「主義」をくっつけて「事大主義」という新しい言葉をつくってから、歴史的意味が変化した。

 もともと「事大」という言葉は孟子の「以小事大」に由来して、小国が選んで大国に事えることをあらわした。
 戦国時代の斉の国の宣王の下問に孟子が答えて、かつて隣国と抗争して劣勢にあった越が、呉へ「事大」することで危難を免れたという例を引いて、小国がとるべき道は大国に穏やかに事えることだと言ったというのが最初だ。孟子は「大国たるものは小国に対しても礼節をもって接するべきだ」と加え、仁と礼による外交も訴えていた。
 当時の春秋戦国期で小国が事大を選択することはめずらしく、武力に訴えてでも自国の存立をまっとうすべきだとするほうが断然多かった。諸子百家のなかでも「事大」を勧告した賢者は孟子だけだったと憶う。蘇秦なども、韓の宣恵王に秦には断乎として抵抗すべきだと説き、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺言をのこした。
 ちなみに宣王は孟子の助言を受け入れず、燕を侵攻してこれを併合したため、孟子はがっかりして斉を去った。春秋戦国諸国のリーダーたちも「事大」を選ぶ国はなく、結局は秦が割拠する群雄を次々に破り、最後に斉の滅亡をもって始皇帝による古代中国の統一がおこったわけである。
 それが漢の武帝のときに中国版図が最大になり、中華帝国を宗主とした華夷秩序が確立してくると、周辺国が中国に対して貢物をおくる「朝貢」の見返りに皇帝が周辺国の王を任命し「冊封」するという関係が成立し、ここに中国に対する「事大」が慣行されるようになった。
 冊封体制は、新羅が朝鮮半島を統一して「楽浪郡王」の称号をもらったときから始まった。これが東アジアにおける宗属関係の出現である。以来、朝鮮の歴代王朝は中国とのあいだの冊封関係を維持した。

《職貢図》
6世紀の梁朝のもの。古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味。

 十四世紀になって高麗の武官であった李成桂が当時の明王朝との冊封体制維持を名分として自国の王朝を滅ぼし、これを受けて明の初代皇帝の朱元璋(洪武帝)が李成桂を「権知朝鮮国事」に封じた。これは「朝鮮」という国名のもともとの由来で、いわゆる李氏朝鮮のスタートになった。李成桂は「小をもって大に事えるは保国の道」とまで事大主義を明言した。
 それからまもなくして、今日の沖縄諸島に分立していた中山王の武寧が明の第三代皇帝の永楽帝から冊封を受け、やがて尚巴志を国王とする琉球王朝が誕生した。琉球はそのまま中国に事大することにした。のちに沖縄研究者の外間守善は「中国は名(権威)をとり、沖縄は実(利益)をとった」と書いた。
 このように、事大は中国国内では選択されず、中国が周辺国を治める制度と口実として歴史化していったのである。

李成桂

中国への進貢船
琉球は明に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。

 日本はどうだったかといえば、だいぶん事情が異なる。卑弥呼の時代から倭国のリーダーたちは中国に朝貢し、とくに五世紀の「倭の五王」時代は中国の南北朝期の複数の皇帝から、それぞれ「讚」(仁徳天皇あるいは応神天皇)や「珍」(反正天皇)や「武」(雄略天皇)の称号を贈られたり、また安東将軍や鎮東将軍といった称号をもらったりしていた。そういう記録はあるのだが、中国と日本とが「冊封」関係や「宗属」関係になったという歴史的資料は照合できない。
 聖徳太子の時代に遣隋使が始まったことも、冊封関係や宗属関係ではなかった。日本側の思惑と戦略もあって、対等などとはとうてい言いがたいけれど、それなりの外交と交流に徹した。明の洪武帝や永楽帝は「強大な中華思想」をふりまいた皇帝で、周辺国に朝貢を迫り、かなり優位な外交と交易を支配したけれど、この時期も日本はなんとか勘合貿易レベルでその支配抑圧関係を免れ、わずかに足利義満が若干の媚を売って永楽帝に「日本国王」の称号をもらった程度におわった。
 ところが明治維新以降、こうした関係が大きく変じていったのである。それが福澤諭吉の言う「事大主義」にかまけた東アジアの近代になる。近現代における中韓日の関係になる。とくに近代朝鮮との関係が複雑骨折していった。

 秀吉が傍若無人な朝鮮制圧を試みた文禄・慶長の蹂躙があったにもかかわらず、その後の徳川幕府と朝鮮との関係は「交隣」とよばれ、朝鮮通信使節団が定期的に日本を訪れ、そこそこ友好的になっていた。
 それが日本の維新近代化の断行直後から、大きく急変した。明治政府は朝鮮に対してなかば強引な開国を迫り、朝鮮側もこれに対して無礼な返事をしたというので、急変したのである。朝鮮は清との冊封関係を理由に日本の要請を拒絶したのだが、明治政府は「征韓」に走ろうとした。出兵も辞さないとする紛糾しそうな事態は西郷隆盛の下野によっていったん収まるのだが、明治八(一八七五)年の江華島事件(無許可測量中の日本艦船が朝鮮半島の陸上から砲撃された事件)で再燃してしまった。
 これを口実に明治政府は日朝修好条規(江華条約)を押し付け、不平等条約を締結させ、その開国と近代化を拙速に促した。これで朝鮮は開国されたのだが、この仕打ちはどうみても一方的な朝鮮支配の嚆矢にあたっていた。
 朝鮮のほうの内部も割れた。国王高宗の王妃であった閔妃は近代化に傾いて日本式軍隊の別枝軍を用意したものの、保守派は肯んじない。旧式軍隊の一部が閔妃の館や日本公使館を襲撃し、高宗の父である大院君をかつぎ出した政権を打ち立てようとした。一族が割れ、政権が割れた。壬午軍乱(一八八二)という。この事態によって、さすがの朝鮮国内でもこれを機会に「自国の独立」をはたすべきであるという風潮が生まれた。

江華島事件
1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。

日朝修好条規
1876年(明治9年、時憲暦光緒2年=高宗13年)2月26日に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。

閔妃
清朝と結んで摂政の大院君を退け、守旧派(事大党)を重用して親清政策をとる。日清戦争後はロシアに接近して反日政策を展開した。

 こうして件の一八八四年の甲申事変となった。朝鮮政府の吏僚であった金玉均と朴泳孝らが、清との宗属関係を断ち切り、日本の助力を得て独立と近代化を一挙に勝ちとろうという武力クーデターをおこしたのだ。
 クーデターは若い高宗の支持をとりつけたので容易に成功するかに見えたのだが、三日後、首都の漢城(のちのソウル)に駐屯してきた清の国軍が、王宮を警護していた日本軍もろともこれを撃破し、クーデターは失敗した。このときの司令官はのちに日本を苦しめる袁世凱だった。
 金はやむなく日本に亡命し、頭山満や福澤諭吉らの庇護をうけつつ「独立党」をおこし、その後の捲土重来をはかることになった。これに対して旧来体制を維持しようとする「事大党」が保守勢力をかため、中国との連携を強めた。金の日本での日々は潜伏である。東京・福岡・札幌などを転々とし、小笠原諸島すらその潜伏先にするのだが、李鴻章と会うべくひそかに上海に渡ったところであえなく暗殺された。
 この顛末が日朝間の「事大主義」をきわどく対比させたのである。ただし、どういう対比かを説明しようとすると、その事情はけっこうややこしい。

金玉均
クーデターによって親清派勢力(事大党)を一掃し、日本と協力して近代化を図ろうとした。しかし清国軍の介入によって3日で失敗、朝鮮国王の放った刺客洪鐘宇によって暗殺された。

 実は福澤諭吉が甲申事変の二年前に金玉均と三田の自宅で会っていた。福澤は金の祖国近代化の計画に心を動かされ、開校したばかりの慶応義塾に朝鮮からの留学生を入れることを約束した。金と朴泳孝はそれ以前から日本の援助が必要だと考えていて、一八七九年には李東仁という仏教僧を日本に派遣し、東本願寺で日本語を習得させると福澤らとの交流を始めさせていた。また翌年には金弘集を派遣して、外務省の重鎮たちと交わらせ、さらにその翌年には魚允中もやってきて福澤を訪ねていたのである。
 こうした準備のうえ金は福澤の懐に飛び込み、三田の福澤邸を拠点にしてアジアの将来に関心を寄せる日本の要人と次々に出会っていく。しかしさきほども書いたように、甲申事変は失敗した。福澤は失望して「時事新報」に有名な「脱亜入欧」を説き、アジアの悪友(中国のこと)との親交を断って「事大の主義に依々する惑溺を除去すること」が焦眉の課題になっていることを告げた。
 ここに、いまこそ金玉均らを助けてアジアに改革をもたらすべきだという活動が日本の中に立ち上がっていった。それはアジア主義ないしは大アジア主義、あるいは日本における事大主義批判という動向になっていく。一筋縄ではない。

 最初に目立って動き出したのは樽井藤吉だ。注目すべき人物だ。出自がある。一八八〇年に海軍軍人の曾根俊虎が興亜会という組織を設立した。これは欧米のアジア進出を警戒した土佐出身の植木枝盛の「アジア連帯論」に共鳴したもので、八三年には亜細亜協会に改組して、八四年には上海に東洋学館という語学学校を進出させていた。樽井はその設立メンバーの一人だった。
 その後の樽井は東洋社会党をつくり、きわめて大胆な『大東合邦論』を著して気を吐いた。「大東」とは日韓のこと、「合邦」とは朝鮮と日本との対等合併を意図していた。樽井はさらに金玉均と頭山満や玄洋社の面々を会わせ、奈良の土倉庄三郎の協力で軍資金を集め、日本のアジア主義に火を付けた。この火を広げていったのが玄洋社である。そこから大井憲太郎の派兵計画、来島恒喜の南洋経営計画、内田良平の黒龍会、武田範之の天佑侠などの画策の火が付いては消え、消えては付くように連続していった(大井は大阪事件で事前逮捕され、来島は大隈重信暗殺で失敗した)。
 上からの朝鮮合併を画策する者もいた。朝鮮での日本国特命全権公使となった三浦梧楼は、もとは玄洋社で頭山の書生をしていた月成光に随行したのち朝鮮に渡ってさまざまな事情を観察していた人物で、封建朝鮮を律していた保守派の閔妃の政権を打倒しないかぎりは何も進まないと見ていた。三浦は寺崎泰吉らの壮士を集め、ついに閔妃を殺害した。三浦は朝鮮人には忠君や勤王の歴史がなく、その事大主義が国を滅亡させつつあるという見解の持ち主だった。

頭山満
明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。

玄洋社
日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。杉山茂丸、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎、平岡浩太郎らが創立に参画した。

三浦梧楼
広島鎮台司令長官として萩の乱を鎮圧。のち、朝鮮特命全権公使として閔妃殺害事件を起こした。晩年は同郷の山県有朋とともに政界の黒幕として活動した。

 言論面でもアジア主義や日本主義を標榜する言説があいついだ。札幌農学校出身の地理学者の志賀重昂は、甲申事変の二年後に井上円了・島地黙雷・三宅雪嶺・杉浦重剛らと組んだ政教社から「日本人」(のちに「日本及日本人」)を創刊して、日本が欧米に追随して国力拡大を図るのは「朝鮮が中国に依存して拡大をもくろむ事大主義」と同じだと断じた。竹越与三郎は「世界之日本」を創刊して、朝鮮の事大主義は国民の性情にもとづくものだと言い出し、山路愛山なども「事大根性」がアジアをおかしくさせているという論陣を張った。いずれも「朝鮮事大主義」の批判ではあるが、そこには「日本事大主義」が芽生えていた。
 こうなると、いったい何が事大の「大」なのか、立場によってさまざまに変化せざるをえなくなる。大日本帝国もアジア主義も日本主義も、それが大アジア主義を標榜するに及べば、何をもって「大」とするのかが問われた。
 そんな問いを孕みつつ、実際の事態は次々に予測不能な展開を見せた。東学党の乱、日清戦争と日本の勝利、下関条約に対する三国干渉、ロシアの南下、日露戦争、戦費の拡大、社会主義の波及といった連打によって、東アジアと日本をめぐる覇権と独立と共謀と連携の方針がしだいに複雑になっていったのである。とりわけ明治末年に向けて日韓併合の準備と決断がすすむなか、日本は事大主義を頑なに主張してきた朝鮮(韓国)を「併合的内側」に抱きこむことになって、そこにおいては何をもってアジア主義の可能性を見るのか、どのように事大主義を脱するべきなのか、その方針は重大な矛盾をきたすことになった。

東学党の乱
1894年朝鮮で起きた農民の内乱。甲午農民戦争とも呼ばれる。日清戦争のきっかけとなった。

日清戦争後の風刺画
小国の日本が、大国の清を破る様子を描いている。

日露戦争
日露戦争は近代日本が初めて西洋列強と戦い勝利した、近代ではじめてアジア人が西洋列強を退けた戦争であった。

 本書の中盤は明治末年から昭和に向かって、アジア主義と事大主義の意味がさまざまに変質していく様相を追っている。
 朝日新聞の社会部長であった渋川玄耳は、『閑耳目』の中で「事大主義の本質を喝破することが日本の課題だ」と述べ、京都帝国大学哲学科の桑木厳翼は「日本人が自他の思想を通覧して一般原理や文芸思潮を論ずることができないようでは、日本が依存的な事大主義に陥るだろう」と述べた。いずれも日本人の島国根性を批判するものだった。
 大韓帝国末期に日本からの財政部顧問として派遣され、韓国併合後は財務官になった山口豊正は、『朝鮮之研究』で「事大主義は依頼心の別名である」と述べたうえ、この依頼心が日清戦争以降の日本人にもだんだん広まってきていると警告した。朝日の記者上がりの桐生悠々は「事大主義は万有引力のようなもの、大が小を引き付けるのは当然だ」と嘯き、青柳綱太郎ほか何人もの歴史学者が朝鮮史をさんざんな歴史だったとして、「明国の恩義を忘れたのが朝鮮史の悲劇をつくった」というような、かなりひどい書き方をした。そんな論法もまかり通ったのだ。
 逆の見方も提示された。朝鮮民族の社会文化はすでに事大主義を脱しつつあって、したがってその近代化を日韓合併によって推し進めるのは根拠が薄いと言った民本主義の吉野作造や、朝鮮の民族文化を評価すべきであるとして李朝陶磁器や朝鮮民画に目を向け、朝鮮文化の独自性を大いに評価した民芸運動の柳宗悦などは、朝鮮には朝鮮なりの独立や近代化の道があると説いた。
 このように議論が紆余曲折するなか、むしろ日本を事大主義とみなしたほうが、日本人の民俗文化の解明ができるはずだという見解が登場してきた。柳田国男である。柳田は「日本の民俗学は島国根性と事大主義の解明に挑むことなのだ」という見方を披露した。本書はそこに注目する。

柳田國男
国内を旅して民俗・伝承を調査、日本の民俗学の確立に尽力した。

 柳田の民俗学的な視点は、日本を欧米に比肩させることをせず、また中国や朝鮮と連動させることもなく、なんとか固有の文化や社会のありかたを凝視してみようというものだった。そう見ていけば、日本人の民俗文化に事大主義があることは、むしろ誇るべきことだというのだった。
 本書はそのような見方が与謝野晶子、平塚雷鳥、北一輝、中野正剛、石川半山らにもあったことを案内する。晶子や雷鳥は女性が男性への依頼心を克服するべきことを謳って、日本的事大主義からの脱却を女性の側から主張し、北は孫文の三民主義による革命観に関心を寄せて、あれほどに亡国階級の通有性になっていた事大主義を孫文の中華民国が脱することを意図したことに新たな可能性を感じ、日本もそのように改造されるべきであることを『支那革命外史』において説いた。
 中野正剛はアジア主義や頭山満に共感していたが、朝鮮を旅行して、現地における朝鮮人たちの新鮮な自覚の発揚に共鳴し、これではかれらが対日独立運動をしたくなるのは当然だとみなした。また上海のイギリス人が中国人を侮蔑してきたことに腹をたて、あんな英国人の夜郎自大には従うなとも述べた。「万朝報」の記者だった石川半山(安次郎)は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議における日本団のていたらくが「英米に追随した事大主義」になっていることを痛烈に批判した。
 かくして事大主義は東アジア各国各派においては、いかようにも変容することになったのである。

中野正剛
新聞記者をへて衆議院議員となり、憲政会・立憲民政党に所属。東方会を組織し、民間での全体主義運動を推進。東条英機首相を批判、さらに内閣打倒を策して逮捕され、釈放直後に自決した。

石川半山(安次郎)
戦前のジャーナリスト。「万朝報」で活躍し、大正13年憲政党から衆院議員に当選した。著書に随筆集「烏飛兎走録」がある。

 沖縄の琉球政府が中国との冊封関係にあったことはすでに述べたが、本書の第三章では、本土側の日本人はそういう琉球を「日本が朝鮮に対してもつ見方に近い目」で見ていたこと、それがその後の沖縄の事大主義の卑屈や増長に関連していたのではないかということを検討する。
 琉球研究の草分けだった伊波普猷にして、沖縄県民の最大の欠点は事大主義に流れるところだと言っていた。伊波は沖縄人に事大主義があることは、冊封時代の名残りや薩摩による侵攻や琉球処分の歴史からして仕方がないことなのかもしれないが、その感覚が日本の主権領域に入ってからもなお継続されているどころか、もっと端的な二股膏薬主義になっていることを指摘した。

伊波普猷
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

 以上のことは時代が辺野古問題で揺れる現在になってなお、平成二六年に県知事に就任した翁長雄志が「沖縄は日本とアメリカの両方からの構造的差別に晒されている」という認識をもっていたことにも継承されている。
 そうしたなか、折口信夫が何度も沖縄の民俗調査に入って、ニライカナイからの来訪神をマレビトとみなしたり、その常世観には沖縄と本土を隔てないものがあるとしたり、『おもろさうし』などを研究して琉球語と大和言葉のあいだには共通性があると指摘していたのは、はなはだ興味深い。
 ただし、それがもし「日琉同祖論」のようなものから出てきたものだとすると、そこには明治日本の歴史学者や民族学者の一部が日本人と朝鮮人に「日鮮同祖」や「日朝同祖」をあてはめて日韓併合の根拠にしていたことと通ずるものがあり、折口にも事大主義の陥穽が忍びこんでいたと言わざるをえなくなる。
 ところでぼくは坂本龍馬から薩長同盟の密使として短刀をさずけられた前田正名についてとくに関心をもってこなかったのだが、本書で初めて前田が「明治維新は薩摩藩が沖縄から略奪した財力をもとに幕府を倒したことで成功したのだ」と言っていたことに、ハッとさせられた。
 前田は英語に堪能な農政家で、明治十一年にはパリ万国博覧会の事務官長を、明治二二年には農商務省農務局長・工務局長と東京農林学校長を兼務した人物であり、晩年は阿蘇や御殿場や阿寒湖の広大な土地の所有者となっていて、その土地を王子製紙や阿寒国立公園のために供した人物でもあるのだが、その前田が薩長同盟と維新政府の“強奪”を証かしていたとは知らなかった。この話は、明治維新のコストは沖縄が支払っていたということを告げている。

前田正名
鹿児島藩漢方医の子として生まれ,蘭学を学び長崎に留学。1869年フランス留学,1879年大蔵省御用掛として帰国,農商務省高官を務めたのち、各地で産業振興を推進し,〈町村是〉普及に努め,〈布衣の農相〉と評された。

 さて、昭和に入ってからの東アジアにのたうつ事大主義については、八紘一宇や大東亜共栄圏の発想があれほどわかりやすく跋扈したのだから、もはや説明するまでもないような気がするが、本書はそのなかで適確に事大主義を議論していたのは戸坂潤と山川菊栄だったろうことを案内している。
 敗戦後の日本でどんなふうに事大主義が語られたかということも、およそ見当がつくことだ。政治学の丸山眞男は敗戦によって日本人の多くが「悔恨共同体」に向かっていったことにそれがあらわれていると言い、法律学の田中耕太郎は教育基本法に事大主義が反映していると言い、日本社会党の中崎敏は日本人は民主主義を「長いものに巻かれろ主義」だと受けとめたと言った。
 戦後日本の事大主義はマスコミにもあらわれたと真っ先に指摘したのは、毎日新聞出身の前芝確三である。前芝は「大部分の読者の事大主義と無批判性」と「独占商品としての大新聞の力」が重なって、日本のマスコミは長期にわたる事大主義的報道と解説に傾いていったとみた。高度成長した日本は、そのあげくにどうなったのかといえば、山本七平の言う「空気を読む日本人」になっていったのである。あとは、何をか言わんやだ。
 本書は次のように結ばれる。……事大主義の起源は、日本が描き出した朝鮮という「他者像」なのである。だが、それは見つめれば見つめるほど、自分の姿とよく似ていた。だから事大主義こそ日本の国民性だとする言説は、朝鮮を“鏡”として描き出された日本の「自画像」だったのである。
 きっとそういうことだったのだろう。そう思うのではあるが、このようなことは日本や朝鮮半島や東アジアにのみあてはまるのかどうかといえば、そうでもあるまい。ジュリア・クリスティヴァの言う「アブジェクシオン」(おぞましさ)がもっと深いところで、もっと多民族間の「恐外病と侮外病」になってきたのだと思われる。

(図版構成:寺平賢司・西村俊克)

⊕ 事大主義 ― 日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」 ⊕

∈ 著者:室井康成
∈ 発行者:松田陽三
∈ 発行所:中央公論新社
∈ 本文印刷:暁印刷
∈ カバー印刷:大熊整美堂
∈ 製本:神田 小泉製本
∈∈ 発行:2019年3月25日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はしがき
∈ 序章 「事大主義」という見方
∈ 柳田国男の「日本人」像
∈ 引き継がれる事大主義感
∈ 韓国・北朝鮮批判としての事大主義言説
∈ 第1章 「国民」の誕生と他者表象
∈ 1 「事大」とは何か
∈ 語源は『孟子』の一節
∈ 儒教的安全保障論
∈ 悪い意味ではなかった
∈ 高麗・挑戦での「事大」の解釈
∈ 琉球での捉え方
∈ 2 福沢諭吉“造語説”の真偽
∈ 漢語と訳語の組み合わせ
∈ 『福翁自伝』で語られたこと
∈ 明治維新直後の日朝関係
∈ 甲申政変への福沢の関与
∈ 福沢のいう事大主義
∈ 一人歩きする事大主義
∈ 3 朝鮮に対する全体表象へ
∈ 日清戦争
∈ 「国民」の成立
∈ 「他者」としての朝鮮の発見
∈ 睦奥宗光の「事大」観
∈ 「頼る」という意味の定着
∈ 「事大根性ぜんぜん呈露す」
∈ 第2章 反転する「事大主義」―他者喪失によるベクトルの内向
∈ 1 韓国併合と意味の変質
∈ 日露戦争勝利の内的リアクション
∈ 他者喪失としての韓国併合
∈ 事大主義普遍説
∈ 反転しなかった人々
∈ 朝鮮独立運動と事大主義観の変化
∈ 2 「島国」の国民性
∈ 柳田国男の捉えた事大主義
∈ 非主体性としての意味の確定
∈ 「島国」という特性
∈ 「日本=島国=事大主義」観の形成
∈ 3 大正デモクラシーと事大主義批判
∈ 日本人の克服対象
∈ 辛亥革命と北一輝の事大主義観
∈ 普通選挙導入への危惧
∈ 事大主義の打破が叫ばれた衆議院総選挙
∈ 政治教育と青年団運動
∈ 政治改良論としての柳田民俗学構想
∈ 女たちの事大主義批判
∈ 第3章 沖縄「事大主義」言説を追う―「島国」をめぐる認識の相克
∈ 1 沖縄はかく「発見」された
∈ 沖縄の自画像
∈ 共通課題の発見
∈ 折口信夫の日琉同祖論
∈ 2 伊波普猷と沖縄県民性論
∈ 「事大主義」は自称か
∈ 県民性という理解
∈ アイデンティティの模索
∈ 3 軍からの眼差し
∈ 陸軍首脳への現地報告
∈ 事大主義観の暴力性
∈ 第4章 戦後日本の超克対象として―「事大主義」イメージの再生
∈ 1 敗戦前後の事大主義観
∈ 国民性論からの乖離
∈ ファシズムへの警鐘
∈ 山川菊栄の一貫性
∈ 「一億総懺悔」と「悔恨共同体」
∈ 2 新憲法論議の中の「事大主義」
∈ 日本国憲法と教育基本法
∈ 敗戦要因としての事大主義
∈ 白熱する事大主義論争
∈ 国民性論への回帰
∈ 3 「良き選挙民」を育てるために
∈ 戦後民俗学の新目標
∈ 想定された民族
∈ 「なんぼ年寄でも、是は確かに臆病な態度であった」
∈ マス・コミュニケーションに抗せよ
∈ 4 戦後沖縄の自己表象と事大主義言説
∈ アメリカ施政下での自己認識として
∈ 「自分で事大を主義などといったわけではない」
∈ 読み替えの陥穽
∈ 県政界の他者化
∈ 現状から考えさせられたこと
∈ 第5章 朝鮮半島への「輸出」―南北対立の中の事大主義言説
∈ 1 ふたたび「他者」となった韓国・北朝鮮
∈ 朝鮮の解放・分断
∈ 日本統治下の事大主義言説
∈ 限定的な情報
∈ 想起される「事大主義」
∈ 2 南北いずれが事大主義か
∈ 朴正煕の登場
∈ 北朝鮮の反応
∈ 対概念としての「主体思想」
∈ 民俗の否定
∈ 「漢江の奇跡」と事大主義言説の変化
∈ 3 失鋭化する「事大主義」
∈ 朴正煕が仕掛けた政敵排撃
∈ イデオロギー化の恐怖
∈ 金泳三の粛清理由
∈ 「亡国」の論理として
∈ 終章 “鏡”としての近現代東アジア
∈ 戦後日本の事大主義イメージ
∈ 「事大主義」から「事小主義」へ
∈ 「空気」を読む
∈ 本当に国民性なのか
∈ 「事大主義」を超えて
∈ あとがき
∈∈ 参考文献

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

室井康成 (Kousei Muroi)

1976年,東京都世田谷区生まれ.99年,国学院大学文学部文学科卒業.2009年,総合研究大学院大学文化科学研究科博士課程修了.博士(文学).蔚山大学校人文学部日本語日本学科講師,千葉大学地域観光創造センター特任教員を経て,2014年まで東京大学東洋文化研究所特任研究員.専攻は民俗学,近現代東アジアの思想と文化. 著書『柳田国男の民俗学構想』(森話社,2010年), 『首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか』(洋泉社,2015年) 編著『〈人〉に向きあう民俗学』(森話社,2014年/門田岳久との共編)