才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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孟子

孟子

岩波文庫 1968・1972

[訳]小林勝人

最近、やっと孔子が読まれるようになったようだが、
どうも孟子を深読みしている気配はない。
孟母三遷、仁義の提唱、浩然の気。
歴史上、孟子は時代の変化期に読まれてきた。
そこには王道論と背中合わせの革命論があった。
羅山、家康、仁斎、秋成、一斎、
吉田松陰、西郷隆盛、北一輝らが熱読した。
ではいま、あらためて孟子をどう読むか。
実は、急逝した松本健一さんが最後にのこしたのが
『「孟子」の革命思想と日本』の一冊だった。
この本を導きにして、21世紀の孟子を読みたい。

 先だって松本健一さん(1092夜)が亡くなった。9月の宮崎日南でのネットワン「縁座」で一緒に話す予定だったのだが、急遽連絡が入って胃癌の危惧があるので入院するかもしれないから、申し訳ないがどうしても顔を出せないと言われた。
 それから多少のゲラなどの取り交わしがあったのだが、手術の甲斐なく逝ってしまわれた。声は元気のようだったけれど、癌細胞が蝕んでいたのだ。ぼくより2つ年下なのに、あまりの仕打ちだ。民主党の仙谷由人は東大の同級生の仲良しだが、がっくりしている。
 ぼくは松本さんの早くからの贔屓で、その縦横呑吐の北一輝論はむろん、近代日本論もアジア論も隠岐コミューン論も、あのドラキュラのような顔も好きだった。未詳倶楽部にも連塾にも縁座にも呼んだ。 

松本健一氏

 その松本さんの最後の新著になったのが『「孟子」の革命思想と日本』(昌平黌出版会)だった。松本さんらしい鋭くて斬新な見解を盛り込んでいた。
 実は孟子の「湯武放伐」(とうぶほうばつ)思想について、2年ほど前から二人で会うたびに雑談をしていた。「松本さん、やっぱり孟子の王道論が日本でどうなったかやらないと、維新論は仕上がらないでしょう」「そうね、なんといっても松陰だもんね」「北一輝は松陰の孟子を読みこんだのかなあ」「うん、そこがねえ」「西郷は孟子なのにね」。
 だからこの本が贈られてお礼の電話をしたとき、「松岡さん、約束を果たしたよ」と言われたときは嬉しかったのだが、その感想をゆっくり交わすことは叶わなかった。 

孟子 『中国五百名人図典』

松本健一『「孟子」の革命思想と日本』 20p〜21p

 松本さんが生涯の最後に「孟子と日本の革命思想の関係の謎」にとりくんでいたことには、さまざまな符牒を感じている。孟子の「王道論」をめぐる大事な符牒だ。
 いま、多くの“現在日本の荷物”がアベノミクスの船に積み込まれ、行方をものともせずに猛進しようとしているのだが、その船はアメリカの海にも沖縄の海にも、また東シナ海にも日本海にも馴染めていない。そういう現在、せめて今夜は松本さんを偲んで「孟子の王道論」と「日本における孟子の伝わり方」についての解釈をめぐって、いったい孟子は日本人に何をもたらしたのか、そのあたりをふりかえろうと思う。
 奇しくも、平成27年のNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』は吉田松陰(553夜)の妹の話らしい。彼女は久坂玄端に嫁いだ。その兄の松陰こそは日本で最も深く孟子の王道論を読み分けた男だった。 

 日本には昔から「孟子が伝わってこなかった」という奇妙な伝説がある。『孟子』は『論語』と並ぶ四書五経の聖典である。日本で読まれていないなんてはずがない。どうしてそんなふうになったのか。
 言うまでもないだろうけれど、四書五経の五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五つの経書のことをさす。四書はその後に編まれた『論語』『孟子』『大学』『中庸』をいう。これらは中国思想では九冊でひとつながりだ。そもそも『礼記』のコンテンツを二つに分けて『大学』『中庸』になった。
 当然、これら四書五経は儒学の基本なのだから、明治中期くらいまでの日本の知識人はそのうちの半分以上を読んでいるか、その講義を受けているか、通俗版をちょろちょろ齧ってきた。徳川社会では子供たちも『論語』『大学』を読まされた。少年二宮金次郎が薪を背負いながら読んでいたのは『大学』だ。もちろん『孟子』の話も読んでいたはずだ。 

 『論語』は「仁」を説き、それを徳目として中庸を生きることを奨める。右に走らず左に寄らず、上に阿(おもね)ず下を蔑まないようにする。
 これを補うのが『孟子』である。上の者(君)が「仁」をもつなら、下の者(臣)は「義」で報いるべきだとした。孟子はこれを「仁義」というふうに重合した。この孔孟(こうもう)の両方で民が治まり、君が仁政を実施できる。古代儒学はこういうふうになっている。それが君主のとるべき王道なのである。みんな、そんなことは知っていた。
 ところが奇妙なことに、その『孟子』は徳川中期まで入ってこなかった、あるいは読もうとされていなかったという流説がはびこっていたのだ。これだけ聞くとなんとも解せないことである。
 なぜそんなふうになったのかはこのあと説明するが、このことをはっきり書いているのが上田秋成(447夜)だった。 

 秋成は日本を代表する幻想作家であるが、同時に名うての国学者でもあった。宣長(992夜)とは論争しつづけた。当然、四書五経にも詳しい。
 その秋成の『雨月物語』の第1話「白峯」は、西行法師が四国の白峯山に行くという話になっている。白峯山には崇徳院が祀られている。崇徳院は第75代の天皇となりながら、後白河と争って院政を執れず、保元の乱を企て(1156)、失敗した。ただちに謀反をおこした罪で讃岐に流されたうえ、白峯の地で8年ほど悶々としながら恨みをもって死んだ。
 そのため崇徳院の霊は天皇の霊だということもあり、途方もなく壮絶強力なものだと、ずっとそう言い伝えられてきた。日本史上、最大級の怨霊なのである。西行はその慰撫鎮魂のために白峯に行った。 

歌川国芳が描いた、讃岐に流された崇徳上皇

 もう少し歴史の経緯を説明しておくと、崇徳院は鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として生まれたのだが、父に疎まれた。保安4年(1123)に即位して崇徳天皇となり、関白藤原忠通の長女の聖子を娶ったものの、正嫡の子は生まれなかった。崇徳は女房とのあいだに子をもうけ、それを第一皇子としたのだが、その後、白河法皇が亡くなったため鳥羽上皇が院政を始めた。
 一方、鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治1年(1141)に崇徳に譲位を迫り、得子が生んだ近衛天皇を即位させた。やむなく譲位した崇徳院はしばらく和歌に没頭し、気を紛らわせていた。百人一首には「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ」というイミシンな一首が収録されている。

 久寿2年(1155)、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御すると、後継者争いが過熱した。崇徳院や藤原頼長による呪詛で近衛が殺されたのだという噂もとんだ。
 すったもんだのすえ後白河が29歳で即位した。これでは崇徳院側はとうていおさまらない。
 保元1年(1156)、鳥羽上皇が病に倒れると、崇徳院は臨終の見舞いに訪れたのだが、対面ができなかった。憤慨した崇徳院に対して後白河が先手を打って「崇徳院たちが謀反をはたらいている」という綸旨を発した。これに対抗して藤原頼長・藤原教長・源為義・平忠正らが集結したのだが、後白河側は白河北殿に夜襲をかけ、炎上させた。
 これが保元の乱である。天皇方と上皇方が割れ、摂関政治の崩壊と源平武士の台頭をもたらした平安末期最大の内乱だ。保元の乱が見えないと日本史はほとんどわからなくなる。崇徳院は行方をくらましたのち捕縛され、讃岐に流されることになった。

保元の乱 関係図

 西行はこの悲劇の崇徳院の怨霊を鎮魂するべきだと思ったのである。『雨月』白峯は、西行が逢坂山を越え、須磨明石をへて四国の讃岐にわたり、いま白峯を訪れ御陵の前で供養しているというところから始まる。
 そこへ崇徳院の霊が出現した。西行が「院はなぜこの世に迷い出てこられるのか」と聞くと、崇徳院は父の鳥羽上皇に疎まれたこと、美福門院に妬まれたこと、弟の後白河に政権を奪われたことなど、恨みがましいことを言う。
 西行が「そういう恨みはもうお捨ていただいて、どうか仏のところにお就きになってください」と言うと、崇徳院は言い聞かせるように、「いま世間が乱れているのは私のせいなんだ」と恐ろしいことを仰せられ、かつて周の王朝さえ前の君主を討って誕生してその後数百年も栄えたというのに、そもそも国を治める地位にいた私が世の中を取って代わって治めることができなかったというのは、おかしいではないかと怒りをあらわにした。
 そこで西行が持ち出したのが、「日本は革命のない国なのです」「それは孟子がこの国に渡ってこなかったからなのです」「やむをえないじゃないですか」という孟子にまつわる日本的事情だった。

 西行は、『孟子』が日本に伝わらなかったのは、あんな小賢しい教えがこの国に入っては、神の座を奪う者すら出てくるだろうから、八百万の神々が『孟子』を積んだ船が来るたびに神風をおこしてこれを転覆させたからなのです、と説明したのである。
 『孟子』には、周の建国のみぎり、武王が憤りをもって暴君の紂王を討ち、天下の民を安らかにしたのは、紂王が仁に背き義に逆らったからであると書いてあるそうですが、けれどもこれはわが国にあてはまってはならないことなんですと、西行は懸命に説いたのだ。
 だが、崇徳院の霊は納得しない。だから自分は魔王となって世の邪道に立ち向かったのだ、などと反論する。そのやりとりに、源平の世の乱れなどのエピソードなども挟まって二人の応酬が続くのだが、西行は一貫して崇徳院の心の乱れと荒ぶりを諌めようとする。そうこうするうちに、この奇怪な話はおわる。
 秋成がなぜこの話を『雨月』の冒頭においたのか、実は研究者たちはそのことに割って入っていない。わずかに野口武彦の『王道と革命の間』(筑摩書房)や加藤裕一の『上田秋成の思想と文学』(笠間書院)が言及している程度だ。野口のものは孟子がどのように日本に受容されたのかについては、唯一、深い考察を見せた。
 が、多くの研究者は秋成を孟子とは結びつけなかった。そんななか、松本さんはこの「白峯」に暗示されていることこそ、その後の日本の革命思想を導いた赤い糸だとみなしたのだった。

溝口健二『雨月物語』(1953)

 『孟子』には「湯武放伐」(とうぶほうばつ)の故事を引いて、王道とは何かを説く箇所がある。『孟子』は7篇でできているのだが、このことに言及しているのは「梁恵王」篇の下のところだ。
 夏王朝の末期に湯王(とうおう)が暴君の桀王(けつおう)を討って殷王朝を開いたこと、その殷の最後に武王が酒池肉林に溺れた暴君の紂王(ちゅうおう)を討って周王朝を開いたという二つの例をもって、新たな王朝をおこすにあたってはこのように「革命」をもって「王道」を守ることがありうると説いた一節だ。これが有名な孟子の湯武放伐論である。
 この革命とは「易姓革命」のことで、わかりやすくいえば政権交代のことなのだが、正確には王朝の交代をいう。中国では王や王朝の「姓」が易(かわ)るので「易姓(えきせい)革命」と言った。このとき、平和的なバトンタッチによって王位が継承される場合の「禅譲」の方式と、武力による「放伐」とが認められていて、孟子の王道論はこの放伐思想のことにも言及していた。

 秋成が西行をして語らしめたのはこの放伐思想のほうで、そんなことを説いた『孟子』は日本に入ってこなかったと西行に言わせているのだが、これはむろん日本人が『孟子』を知らなかったというのではない。そのような『孟子』の放伐思想を日本では認めてこなかったというのだ。
 実際にも日本には易姓革命はないとされてきた。クーデターは蘇我や鎌足をはじめ数々あったけれど、それによって天皇という姓が変わることはなかった。このことを松本さんはわかりやすく、「天皇には姓がない」という“事実“をあげて説明した。けれども姓がないからといって、天皇が安泰かといえばそうではない。天皇が放逐されることもある。
 しかし流刑された崇徳院にはこのリクツや処置が納得できなかった。そこで憤懣やるかたない怨霊となって、冥界の魔王のごとくその後の世間を乱すほうにまわったのだが、秋成はその言説の限界を『雨月』に暗示的に諭したわけだった。

 実際には『孟子』はむろんのこと、湯武放伐思想についても、読まれるべきところでは読まれていた。
 中世までの孟子の読まれ方については井上順理の『本邦中世までのにおける孟子受容史の研究』(風間書房)が詳しいし、江戸時代のことは先に紹介した野口武彦の『王道と革命の間』が詳しい。野口は徳川儒学がどのように孟子を読んできたかを、初めてあきらかにした。
 さらに相良亨の『近世日本儒教運動の系譜』(アテネ新書)や『近世の儒教思想』(塙選書)には、徳川家康は『論語』よりもずっと『孟子』を好んで読んでいたという林羅山による証拠があげられている。
 家康はこんなふうに述べていた。「およそ天下の主たらんものは四書の理に通ぜねばかなわぬことなり。もし全部知ることかなわずば、よくよく孟子の一書を味わい知るべきなり」。羅山が、ではどこが一番感心されたのですかと問うと、湯武放伐のところだと答えたともいう。
 マキャベリスト家康らしい感想だが、これは当然のことだろう。家康は桀紂を滅ぼした湯武同様に、天皇家にこそ手を出さなかったものの、豊臣王朝に対して徳川王朝を樹立したのである。家康のための儒学を用意した林羅山は、「湯武の天命に応じ、人心に従いて桀紂(けっちゅう)を倒せしも、初めよりおのが身のためにせむ」と答申し、「ただ天下の為に暴虐を除いて万民を救わんの本意なれば、いささかの悪とも申すべからず」と家康を安心させた。

 しかしいったん徳川政権が継続されることになると、今度は一転して、放伐などはゆめゆめおこってはならないことになる。そんなことをされては徳川家がヤバい。天草四郎や由比正雪や佐倉惣五郎はこうして粉砕され、キリシタンや殉死は片っ端から禁止された。
 これまた当然で、身分社会を大前提にした徳川社会は「大義名分」を基本の基本にし、天下の転覆を謀るものはその気配や言動すら許さず、その兆候を徹底して罰したのだ。徳川政権社会こそ日本における放伐思想を「隠そう」としたわけである。
 それでも代表的な儒者の伊藤仁斎(1198夜)は『孟子古義』で、萩生徂徠(1008夜)は『孟子識』でそれなりに孟子を読解しようとしていた。徂徠の高弟だった太宰春台にも『孟子論』がある。
 しかし徳川儒学の趨勢は『孟子』ではなく、すぐさま『論語』の儒学でなければ成り立たないものになっていく。仁斎・徂徠・春台以降、儒者たちは孔子の解読に傾注し、しだいに孟子を論ずることが少なくなった。徂徠にしてその傾向が見えていた。赤穂の浪士が吉良邸に討入りした忠臣蔵事件に対して、「理」や「義」のためなら国法を犯してもいいというのは筋に悖(もと)ると徂徠は批評した。
 こうした流れのなか、孟子の湯武放伐思想はかなり薄められていったわけである。秋成が『雨月』を書いたのはこのような思想トレンドの中でのことだった。

 ここで秋成の執筆事情にふれておくと、秋成は「白峯」を書くにあたって「白峯神社縁起」と明の『五雑俎』を参考にしていた。とくに『五雑俎』(ござっそ)を読みこんだ。
 これは全部で16巻になる中国の民間情報アーカイブのようなもので、国事や歴史や人物評判などが備忘録のようにびっしり詰まっている。
 そのなかに、日本には中国の古典の大半が伝わっているが、『孟子』だけは伝わらなかったということが書いてあった。中国の文献を調べまくって、白話小説などにも通じ、その翻案に興じていた秋成は、これを読んで『雨月』に使ったとおぼしい。
 いま、中国は日本の首相が靖国に行ったかどうか、やたらに目くじらたてているが、こういう観察を中国はずっと昔から徹底していたのである。だいたい倭国の事情を当初から記していたのは中国の歴史書だった。孔子や孟子や四書五経がどんなふうに日本で読まれているか、どんなふうに扱われているか、実に鋭く見抜いていたのだ。
 逆に、仏教伝来と遣唐使以降は日本も中国の文献に詳しくなり、空海(750夜)が華厳に通じ、紫式部や清少納言が白楽天に通じていたように、日中の知の交換はかなり濃厚だったとともに、勝手な解釈をすることもだんだん通り相場になっていった。法然(1239夜)や道元(988夜)や日蓮など、中国の経典をそうとう自由に読み替えている。
 江戸時代も半ばになるとこの日中思想の交換と変容はさらに激しくなって、たとえば『水滸伝』の読み方なども、日本なりにかなり独自のものになっていた。

 だから『五雑俎』は秋成だけではなく他の者も読んでいた。源忠道が序を書いた『桂林漫録』には、「孟子はいみじき書なれども、日本の神の御意に会わず、唐土(もろこし)より乗せ来たる船あれば、必ず覆る」というふうにあるし、藤原貞幹の『好古日録』もその伝承に言及している。
 これらを含め、日本の朝廷は湯武放伐思想を避けるため『孟子』を入れなかったという風説が仕上がったのだった。これについては昭和になって大川周明が書いた『日本二千六百年史』でも、「大化改新は手本に隋唐に求めたが、中国には王室の転覆があり、そのことを示した『孟子』を認めなかった云々」という記述になっている。

 湯武放伐論は真淵や宣長らの国学者にとっても納得のいかないものだった。宣長(992夜)は『玉勝間』巻14のなかで武王の易姓革命を批判する。「この一章をもて孟軻が大悪をさとるべし。これは君たる人に教え足る語といいながら、あまり口にまかせた悪言なり」と手厳しい。
 こうした国学者たちの孟子批判の気運が、おそらく秋成をして孟子に関する看過伝承を書かせたのであったろう。
 しかしところが幕末が近づくにつれ、孟子の王道論や湯武放伐論が新たな文脈をもって浮上してきたのである。その急先鋒に立ったのが、ほかならぬ吉田松陰だった。

 松陰がどんな人生と思想と行動の持ち主だったのか、そのおおざっぱなところは553夜の千夜千冊を読んでもらうとして、ここで重視したいのは松陰の『講孟箚記』(こうもうさつき)と、それを編集した『講孟餘話』(こうもうよわ)に書いてあることだ。
 前著は野山獄から出たのちの講話を筆録したもの、後著はそれに対する山県大華の反論などをふまえて補説したものである。そのなかで松陰は孟子を解読講義しながら、巧妙に尊王思想を割り出していったのだ。
 とはいえ松陰は湯武放伐論を称揚したのではない。その革命思想の意義は認めつつも、それは中国の筋のことであって日本にはあてはまらないと見た。なぜなら日本には「国体」というものがあって、「凡そ漢土の流は皇天下民を降して、是が君師なければ治まらず」なのだからと説明する。
 つまり、中国では仁や義のある君子でなければ天下は治まらないので、天は人民の中からそれにふさわしい天子を選び出し、その人格が仁義に悖(もと)れば放伐もありうるのだが、日本の天子はそもそもが日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)なので、神の後裔なのである。だから、そこには中国とは異なる国体がある。松陰は孟子を、そう読み替えたのだった。

 儒教や儒学では、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の関係は「君臣は忠、父子は孝、夫婦別あり、長幼の序を重んじ、朋友は相信ず」というふうに、五倫五常でしっかり結ばれている。松陰はそのようなことは中国のみならず、おそらく多くの国で「同」なのであろうと言う。
 しかしながら、わが国では君臣のうちの天皇と臣民の関係は特別なものであるから、そこは「独」であると考えた。その「独」を成立させているものが国体で、その国体において、日本は中国はむろん世界各国とも異なっていると見た。『講孟餘話』には有名な次のくだりがある。
 「漢土(もろこし)には人民ありて、然るのちに天子あり。皇国には神聖ありて、然るのちの蒼生あり。国体もとより異なり、君臣なんぞ同じからん」。

 こうして松陰は、孟子をいわば鏡像的なテキストに見立てて、日本には易姓革命ではない「独」なる革命があるべきだと考えるようになって、これを「維新」(維れ新たなり)とみなすようになったのである。
 国体という用語はすでに会沢正志斎が『新論』で強調していた。「維新」という用語は佐久間象山や横井小楠(1196夜)が言い出していた。松陰はそれらを孟子の文脈を追いながら逆のリクツから浮上させ、そのように国体を守りながらおこす維新には孟子の「浩然(こうぜん)の気」こそが必要だと説いたのだった。またその「浩然の気」は「至大至剛」の精神に結びつくと強調した。
 このような松陰による孟子の読み方はかなり風変わりである。また危険な香りを放っている。まさに独特だ。しかし風変わりで危険ではあったが、この考え方は周知のように松下村塾の若き門人を通して、維新の嵐の狼煙である尊王的王道論の中心思想となった。

 では、いったい孟子をこのように読む(解釈する)ことは妥当なのかどうかということだ。それを見るにはしばらく孟子その人の思想に戻ってみなければならない。
 ここで話をしばらく戦国時代までさかのぼらせることにする。古代中国の春秋戦国時代における王道をめぐる議論を覗く。

 周の王朝が動きだしたのがだいたい紀元前10世紀である。文王の子の武王が殷の31代の紂王(ちゅうおう)を牧野(ぼくや)に討って、前1020年頃に国をおこした。西周である。
 西周では、天子が諸侯に土地を封建して統治する理想の社会をめざしていたのだが、暗愚の幽王の頃に衰退し、幽王の子の平王が東方の洛邑で即位した。これが東周だ。この東周が春秋と戦国に分かれる。
 春秋時代は平王即位から韓・魏・趙の三家が晋から三分独立するまでをいう。斉の桓王、晋の文王、楚の荘王、呉の闔閭、越の句践という春秋五覇が出て、240年ほど続いたが、「諸侯―卿・大夫―士―庶人」という古代王権を支えていた階層力がしだいにゆらぎ、紀元前5世紀半ば(-453)をさかいに戦国時代に移っていった。下克上になったのである。

文王・武王 『三才図会』

春秋の五覇 『絵画本 中国古代史』

春秋諸国のマップ

 戦国時代は前221年に秦の始皇帝が天下を統一するまで続く。そのあいだ諸国のリーダーたちはそれぞれに「王」を名のり、いわゆる「戦国の七雄」(燕・趙・斉・魏・韓・秦・楚)が争った。
 なかで斉の国の宣王は、王都の稷門(しょくもん)に学識豊かな者を集めて住まわせ、大いに「稷下の学」を煽った。これがいわゆる「諸子百家」の爛熟で、諸学の百花斉放がおこって百家争鳴の言動が周囲に届いた。
 百家のなかでは、まずは孔子をリーダーとする儒家が先行したが、たちまち墨子(817夜)の墨家、老子(1278夜)や荘子(726夜)の道家、恵施や公孫竜の名家、商殃や韓非子の法家、孫子らの兵家などが次々に輩出した。
 孟子はこうした諸子百家の儒家の流れに入るけれど、孔子没して約100年たっての思想家だった。

孔子 『聖廟祀典図考』

 孟子の生涯についてはわかっていないことのほうが多い。それでも鄒(すう)の出身で、おそらく紀元前380年から前300年くらいの思索者だったろうことは定説になっている。姓は不詳、氏は孟、諱は軻。だから孟軻(もうか)と言われた。
 鄒はいまの山東省の鄒県にあった小さな城邑国家で、孟子はそこで早く死んだ父に代わって母に育てられた。「孟母三遷」「孟母断機」の逸話がのこる。このエピソード、ぼくは母から教えられた。
 郊外の家にいた幼い孟子が埋葬のまねごとをして遊んでいるのを見た母が、ここは子供のためによくないと引っ越した。ところがそこが市場に近かったので孟子は商人のまねをして遊ぶ。そこで学校の近くに引っ越したところ、やっと礼儀作法をおぼえ、学業に向かうようになったというのが、孟母三遷である。
 やがて成長した孟子が遊学先から帰省した。学業の進みぐあいをたずねると、孟子は「前と同様変わったことはありません」と言う。とたんに母は織りかけの機織りの縦糸をぷつりと断ち切った。驚いた孟子がわけを聞くと、「勉学を途中でゆるませるのは織りかけの糸を切るのと同じことです」と毅然として諭した。これが孟母断機だ。

 そういう若き孟子が励んだ学業とは何かといえば、むろん孔子の教えとその門下の学だった。鄒の国から30キロほど先に山東省曲阜があって、そこは魯の国である。孔子が生まれ育った。
 孔子は諸国を遊歴したが、結局は魯に戻って後進を育てた。いわゆる孔子学苑だ。弟子は3000人、六経(易・書・詩・礼・楽・春秋)に通じた門人がずらり72人いたと言われる。
 その学苑で、孔子の生前から一切を仕切っていたのが子貢(しこう)である。投機の手腕にも長けていて大臣のように騎馬を連ね、礼物を携えて諸国を歴訪した。孔子の名が知れわたったのは、実は子貢によるデモンストレーションの効果が大きい。
 73歳で亡くなった孔子の死後、子貢の提案で門人たちは3年にわたって喪に服した。その後、弟子たちは四方に散った。魏の文侯に招かれたのが子夏(しか)だった。魯では曾子(そうし・曾参)がのこって中心になり、孔子の孫の子思を練磨した。
 孟子はこの曾子と子思の門下で学んだとおぼしい。詳しいことはわかっていないものの、そのころすでに墨子派と楊朱派が孔子学派に対抗していたので、孟子はその対抗力を持ち出せる理論家として期待された。ここから孟子の思想が開示する。

曾子 『孔子七十二弟子図譜』

 孔子は「仁」を主唱した。これは仁による仁愛のことである。そこから墨子派は「兼愛」を、楊朱派は「自愛」を強調していた。東洋における「愛」の思想の深まりだ。こういう自他の愛が相い並ぶという考え方はヨーロッパには薄い。しかし、この思想はしだいに孔子学苑の軸から離れようとしていた。
 この動向を見た孟子は「楊朱・墨擢の言、天下に盈(み)つ」と嘆き、各地の王との問答を通しつつ、かれらに代わる思想の表明にとりくんだ。ここに登場してきたのが新たな「仁義」の提唱だった。
 楊朱の愛は我が為にする「為我」(いが)に片寄っている。利己的な自己愛である。また墨擢(墨子)の説く「兼愛」は他者に向かってはいるが、愛する者としての「分」が曖昧になっている。これらの自愛と他愛だけでは国や人にあまねく愛は進むまい。そこには「仁」と「義」をあわせもつ仁義が必要である。そう、孟子は説いて、仁義をもって孔子の道の復活を語り抜いた。

 孟子の仁義は「性善説」に裏付けられている。「利」に対するに「心」を重視し、その根拠としての「善」を下敷きにした。西田幾多郎(1086夜)がヨーロッパ哲学に交差できる東洋思想の根幹に善を持ち出して『善の研究』をスタートにおいたことを思うとわかりやすいだろう。
 当時は、このような心性を議論することを「心術の学」と言ったのだが、これは「心のはたらき」を弁論するという後期の「稷下の学」の影響をうけていた。孟子はこのはたらきを大体と小体とに分けて、「耳目の官」による小体の心のはたらきにこだわるよりも、ひたすら「心の官」による大体の動向につくことを強く推した。
 大体につくとは、孟子の孟子らしいところだ。大きなもののはたらきこそが孟子の求める価値観だったからだ。ここから孟子は「浩然(こうぜん)の気」こそが心を大きくさせ、そのはたらきは必ずや社会に及ぼせるものとなると見て、その気の「至大至剛」を謳った。
 浩然の気といい、至大至剛といい、ぼくには高校時代に叩きこまれたものとして懐かしい。九段高校では夏休みになると、房総半島の奥津近くの「至大荘」で水泳合宿することが決まっていて、男子は全員が褌(ふんどし)で飛び込みや遠泳に挑戦させられるのである。これを指導していたのが湯野正憲センセイで、剣道の師範でもあった。
 九段高校の運動会は「尽誠園」で開催された。これまた孟子の「誠」にもとづいていた。当時はよくわかっていなかったのだが、わが高校時代はもっぱら孟子三昧だったようなのである。

 孟子の言説は『孟子』に入っている。司馬遷は『史記』のなかで引退後の孟子自身が『孟子』七篇を作ったと書いているが、実際にはのちに編集された。
 順に、梁恵王篇、公孫丑(こうそんちゅう)篇、騰文公(とうぶんこう)篇、離婁(りろう)篇、万章篇、告子篇、尽心篇で構成される。タイトルは文頭の言葉にもとづいている任意のものだ。これが『孟子』という本だ。
 孟子の王道論が展開されているのは梁恵王篇、公孫丑篇、尽心篇である。梁の恵王、斉の宣王に王道を説いた。
 説いたといっても滔々と説いたわけではない。梁の恵王が「亦た将に以て吾が国を利すること有らんとするか」と言ったのに対して、「王、何ぞ必ずしも利を曰はん。亦た仁義あるのみ」と応酬したとか、斉の宣王に「王の道とはどういうものか」と聞かれ、「恒産なくして恒心ある者はただ士のみ能くすと為す」と答えたとか、その手の問答が記されているだけである。
 それでも産業的な「恒産」に対して「恒心」を重視したのは孟子の独特の回答だった。

孟子、梁の恵王に会見 『孔門儒教列伝』

 それなら、湯武放伐論はどのように示されているかというと、梁恵王篇に次のようにある。宣王が孟子に「湯、桀を放ち、武王、紂を伐(う)てること、これ有りや」「臣にしてその君を弑(しい)す、可ならんか」と問うたのに対して、孟子が次のように答えたという箇所だ。
 「仁を賊(そこな)ふ者これを賊と謂ひ、義を賊ふ者これを残と謂ふ。残賊の人は、これを一夫(いっぷ)と謂ふ。一夫紂を誅(ちゅう)するを聞けるも、いまだ君を弑せるを聞かざるなり」。
 宣王が、殷の湯王は夏王朝の桀王を放逐して天下を取り、周の武王は殷王朝の紂王を討伐して天下を取ったというが、これは本当ですかと問うと、孟子がその通りだと言うので、宣王は「それなら臣下が君主を放伐することは是認されているのか」と重ねて尋ねた。そこで孟子が「仁を破壊する者を賊と言います。義を侵す人を残と言います。私は武王が一夫の紂を討ったとは聞いていますが、君主である紂王を殺したとは聞いていません」と答えたというのである。
 つまり孟子は、湯武放伐の故事は君主を放伐するのではなく人でなしを放伐するのだと答え、王道とはこのように仁義を大事にするものです、もしも仁義に悖るなら放伐もありうるでしょうと言ったのである。

 宣王と孟子の問答には、さらに重要な箇所がある。君主の王室に関係のある家臣とそうではない家臣とに対する決断力を、孟子がきっぱり分けた箇所だ。
 まず王の血と関係のある家臣が王の言動に疑問を抱いたときである。孟子は「君に大過あれば則ち諫め、之を反覆して聴かざれば、則ち位を易(か)う」と言った。君主が道理から外れていると思うなら、諌言をして、それで聞き入れられなければその君主を追放して、別の君主に変えていいでしょうというのだ。この答えを聞いて宣王は顔色を変えたらしい。
 次に王の血と関係のない家臣の場合だが、孟子はこう言った、「君に大過あれば則ち諫め、之を反覆して聴かざれば、則ち去る」。君主が過ちを冒していて、諌めても聞き入れられないのなら、そこから去りなさいというのである。
 この二つの決断はまさにこれが易姓革命の国の王道論であることを匂い立たせている。王や君主と姓が同じかどうかによって、態度を易(かえ)るのである。血と姓は同じなのである。しかし、ここが日本とは違ってくる。おそらく、ひそかに孟子を読んだ日本の武家たちは、この諫言と放伐、諫言と退去の、この二つをどのように判断してよいか迷ったことだろう。

 孟子は君子が守るべき王道とその心得として、また「不動心」と「惻隠の情」も説いた。不動心はわかりやすいだろうが、惻隠(そくいん)は四端におこるもので、憐憫の気持ちを抱くことをいう。
 四端とは「惻隠・羞悪(しゅうお)・辞譲(じじょう)・是非」のことで、孟子は次のように解義した。端とは端緒である。「惻隠の心は仁の端なり」「羞悪の心は義の端なり」「辞譲の心は礼の端なり」「是非の心は智の端なり」と。
 ぼくは性善説に関してはいささか疑問をもってきたのだが、この四端説はなるほどだと思ってきた。とくに「惻隠」は東洋的シンパシーと儒教的エンパシーの精髄のひとつとでもいうもので、これは孟子の言説のなかでもとくに澄んでいると思う。

 以上、孟子を紹介するにはもっと多くの解説が必要だろうけれど、とりあえず孔子百年後の孟子の思想とは、だいたいはこういうものだったということにしたい。
 ちなみに今夜とりあげた『孟子』は岩波文庫版で、小林勝人(東洋大学大学院中国哲学研究室)の訳注である。原文の割りもよく、現代語訳も注解もわかりやすい。実は残念なことだが、孟子についての解説書にはあまりいいものがない。たとえば貝塚茂樹の孟子論は読まないほうがいい。せめて金谷治か加賀栄治か。安岡正篤も孟子論というより勝手な帝王学というものだから、そのつもりで値引きして読んだほうがいい。
 ともかくも以上の孟子の言説のなかで、湯武放伐の王道論が日本の近世思想と近代思想に大きな影響を及ぼしたのである。そこまでのことはコンファームしておいてほしい。孟子は湯王と武王が先帝を放伐して天下を革(か)えたことを引いて、そういうこともありうると説いたにすぎないのだが、それが孟子の危険思想とも革命思想の肯定ともみなされたのだった。

 さて、ふたたび松本さんの『「孟子」の革命思想と日本』に話を戻すけれど、先にも書いたように、この本は「天皇はなぜ姓をもたないか」という興味深い視点を導きの糸として叙述されている。
 天皇に姓がないのは日本の天皇家に易姓革命をもたらさないようになっているからで、姓がなければ皇位の簒奪もおこらないとみなされたからだ。『大鏡』には、嵯峨天皇の子の源融(みなもとの・とおる)が皇位につきたいと言ったところ、関白の藤原基経が「いったん姓をもらって氏姓をもった者は皇位にはつけない」と諭したという話がのっている。姓のない親王(皇太子)しか天皇にはなれないのである。
 それはそうなのだが、しかし、実際には簒奪は何度もおこっている。崇徳院もその一例だが、そもそも日本の天皇制度を開始したともくされる天武天皇が大友皇子の即位を阻んで天皇になっていた。このことについては『大日本史』の編纂責任者であった安積澹泊(あさかたんぱく)が『帝大友紀議』で、大友皇子の即位を認めるべきだと主張していることが特筆される。

 周知のように天武天皇以前、日本のトップリーダーはたいてい「大王」(おおきみ)と呼ばれていた。これを「天皇」(すめらみこと)の呼称にしたのはまさに天武その人であった。
 しかし、その最初の天皇としての天武は、みずからが皇位につくにあたって大友皇子即位の事実を『日本書紀』からはずさせた。そのため自分の皇子であった舎人親王にその編纂を担わせた。
 それは誤謬ではないのか。でっちあげではないのか、事実歪曲ではないのか、澹泊はそう主張したのだった。
 もしそうだとしたら、天武は皇位を簒奪したわけである。この議論はかの朱舜水(460夜)の判定でもあって、長らく議論の対象になってきた(大友皇子は明治3年に「弘文天皇」として追諡された)。

日本書紀(平安時代の写本)

 しかし、こうしたことがそのつど孟子の湯武放伐論に照らし合わされてきたわけではなかった。崇徳院のときも南北朝が二天を戴いたときも。これらは安積澹泊がそうであったように、あとから“訂正”されたことだった。
 だからこそ上田秋成は西行をして、日本に孟子は伝わらなかったと言わしめたのである。ところがそれが松陰以降、急激に日本の「国体」に密接にかかわる問題になったのだった。
 また、孟子が「王道」と「覇道」を分けて覇者の限界を述べたことを、日本の武家がどう受けとったかを説明している。松本さんもそこに格別の関心をもった。のみならず、この孟子の読み方は、その後は明治に入って西郷隆盛(1167夜)にも北一輝(942夜)にも伝染したと見た。松本さんはそこを抉(えぐ)りたかったのである。
 ちなみに松陰は刑死する前に、白布に「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」と書きつけて死んでいった。これは一文まるごと、孟子の離婁篇の一節だった。これでも暗示されているように、どうも、近代日本の王道と革命は、孟子の意図とは表裏の関係にあったようなのだ。

 松本さんは松陰による「孟子の国体思想化」を受けたのは西郷と一輝だったと述べている。
 西郷が孟子を愛読していたのはあきらかである。『南州翁遺訓』には「至誠」という言葉が何度も出てくる。ただ西郷は孟子の王道論や正志斎や松陰の国体論をあからさまには言挙げしなかった。けれども松本さんは次のような推理もしている。
 明治天皇は侍講の元田永孚から『論語』や『史記』などを講義されていた。元田はのちの『教育勅語』の起草者だ。しかし元田の『進講録』を見るかぎりは、『孟子』については講義されてはいなかったようだ。一方、美子(はるこ)皇后は岸田俊子から『孟子』の講釈をしっかり聞いていた。
 松本さんは、岸田が孟子を話しているのだから、明治天皇もきっと孟子のことを学習したはずだと考えた。では誰から孟子のことを聞いていたかというと、「これが西郷からだったのではないかというのが私の推理なのです」と書いている。

 西郷がどのくらい孟子に打ち込んでいたかは「至誠」や「惻隠」を大切にしていたという以上には議論ができない。それというのも西郷は志を遂げぬまま西南に没したからである。
 おそらく西郷は岩倉や大久保や伊藤の維新革命をあまり気にいっていなかった。せめて本来の王道を持ち出すべく西南に私学校を創建して立志したのだが、これは山県や大久保に討伐された。
 この未完の維新革命を継承しようとしたのが北一輝だった。弱冠23歳のときに北は『国体論及び純正社会主義』を書いた。そこには孟子の名はひとつも出ていないのだが、松本さんはその革命思想はまさしく孟子によってこそ形成されていると読んだ。

 北が提案した国体論は、幕末型・水戸学型の万世一系の国体論に対する批判に貫かれている。北は明治維新が天皇による革命ではなく「民主」による革命であったと見て、国体も進化しなければならないと説いた。
 このあたりのこと、北一輝に詳しくないとわかりにくいかもしれないが、北はそもそも日本の国体が3段階にわたって変化してきたと見ているのである。
 第1期は「藤原氏ヨリ平氏ノ過渡期ニ至ル専制君主国時代」である。藤原鎌足と不比等がつくった天皇制律令国家から摂関時代までを天皇制による専制君主国だとみなしたのだ。第2期は「源氏ヨリ徳川氏ニ至ルマデノ貴族国家時代」である。専制天皇に代わって武家政権が国家を統治した。
 そして第3期が「武士ト人民トノ人格的覚醒ニヨリテ各々ソノ君主タル将軍マタハ諸侯ノ私有ヨリ解放サレントシタル維新革命ニ始マレル民主国時代」だというのだ。これでわかるように、北は明治維新は王政復古などではなくて日本の国体が民主に移ったとみなしていたのだった。

 ということは北にとっては、日本は天皇から権力を奪って、天皇の名のもとに政治をおこなってきた「乱臣賊子」のものだったということになる。
 武家政治の本質もそこにあったというのだ。その例として、北条義時が父子三帝を捕らえて松籟濤声の地に放逐したことを挙げる。承久の乱(1221)によって後鳥羽上皇が隠岐に、土御門院が土佐に、順徳天皇が佐渡に配流された例である。
 このように「乱臣賊子」が政権を取ってきたことが、ついに明治維新によって民主に進んだ。北はこのように捉えて、松本さんによれば孟子の王道論と革命論をつなげていったのである。

 野口武彦の『王道と革命の間』には「孟子→日本儒学→松陰の読み→明治の啓蒙思想→北一輝」という流れが浮き彫りにされている。また、孟子が「王道」と「覇道」を分けて、覇者の限界を述べたことを、日本の武家がどう受けとったかを説明している。松本さんもこれを参照したかと思われるのだが、野口の学績についてはふれていない。
 野口は松陰の「孟子の国体思想化」が、西郷ではなくて、むしろ明治の西村茂樹や加藤弘之らに寄り道していたことを証した。西村は『日本道徳論』などのなかで明治日本が新たな王道を歩むためには、儒学と西欧哲理を合致させて、「世外教」(宗教)ではなくて「世教」(道徳)をもって国民精神を形成するしかないだろうと予告したのだ。
 このとき西村は過去の日本で道徳の軸をもちうるのは、次の4つだと仮定していた。①孔孟ノ教ヲ奉ズル者、②神道ヲ以テ道徳ノ教トスル者、③大義名分ヲ主トスル者、④西国ノ理学ニ基ヅク者、である。
 この「孔孟ノ教ヲ奉ズル者」が孟子の性善説や王道論である。西村はそれらが神道や西哲と融合できると見ていた。加藤はこの議論をさらに発展させて、『国体新論』と『人権新論』によって人権と国権をつなぐ孟子的な立場を国民がもちうることを仮説した。とくに「民を貴しと為し、社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しと為す」という孟子の言説を正当化した。
 おそらくこれらが北一輝の『国体論及び純正社会主義』に流れこんでいったのだろうと、野口は見た。孟子の理想国家論がアーキタイプとなって、維新モデルの読み替えが少しずつ試みられたわけである。

 はたして、北の孟子解釈がその後はどのように受け継がれていったのか、残念ながら松本さんはそこまで書き及ばなかった。もし、それを試みるなら、ここに近代陽明学の変遷を加えなければならないのだが、その研究はごく最近に始まったばかりだ。
 それに、仮りにそのような合わせ鏡が使えそうになったとしても、それはそれで孔子・孟子が朱子学によって変奏されたことを王道論から整理して、そのうえで王陽明(996夜)から李卓吾にいたる中国陽明学が、日本では中江藤樹このかた読み替えられてきたことを検討する必要がある。
 こうなると、いったいどこからどこまでが「孟子の残響」であるのか、まことにややこしい。それこそ元気な松本さんと共同研究してみたかった問題なのだ。

 ぼくが孟子と北とのカサネ・アワセ・キソイについて説明できるのは、ざっと以上に尽きている。
 ということで、そろそろ今夜の孟子をめぐる紆余曲折を了らせようと思うのだが、松本さんは『「孟子」の革命思想と日本』で、どんな結論を出したのだろうか。あらためて3点に集約しておきたい。
 第1に、孟子の湯武放伐論は日本社会の担い手によってつねに読み替えられてきたということである。そのため「孟子は日本に伝わってこなかった」という言動を許容させてきた。
 第2に、吉田松陰・西郷隆盛・北一輝は『孟子』を革命思想というふうに捉えていたということだ。三人は国体の内実については異なった見方をしながらも、そのOSとしては孟子王道論を共通にしていたのである。
 第3に、日本の天皇家がいまなお姓をもたないのは、あいかわらず中国の易姓革命論を原則として拒否しているということである。このことは、天武天皇のときに太政官のもとに治部省(じぶしょう)をおき、ここで天皇家(朝廷)が姓を与えるという制度を開始して以来のことだった。

松本健一『「孟子」の革命思想と日本』 20p〜21p

 松本さんはこの本の最後で、それにしても今日、孟子は忘れられてしまったのかという問いを提出している。そして、日本における孟子の語り方があまりに紆余曲折したため、いったい誰のどんな思想に孟子が反映しているのか、それがわかりにくくなっただけだとみなした。
 ぼくも、そう思う。孟子と王陽明を読むとは、そういうことなのだ。たとえば福沢諭吉(412夜)も『孟子』に民主主義の根本を見たはずで、新渡戸稲造(605夜)の『武士道』も武士の行動を通して義士の仁義を説いたのだから、孟子の道徳論にもとづいたはずなのだ。
 同様に三島由紀夫(1022夜)は陽明学に近づきつつも、また天皇に諌言をしようとしつつも、実は天下を君主から奪えないとしたのだから、これはまた孟子の王道論を踏襲しているともみなせる。こういうことは、これまでまったく議論されてこなかった。そろそろこうした研究が必要だ。
 思想家たちばかりではない。戦後のヤクザ映画や少年マンガ、あるいは『AKIRA』(800夜)以降の昨今のアニメ、さらにはヤンキーブームなども、実は孟子の王道と革命の割れ目を突いて噴出してきたものともいえるのである。
 それにしても、こうした思想議論と表現を用意した諸子百家というもの、まこと、まっこと、恐るべしである。松本健一さん、ときには天界で魔王になってくださいね。

⊕ 孟子 ⊕

 ∃ 著者:孟子
 ∃ 注訳者:小林勝人
 ∃ 発行者:岡本厚
 ∃ 発行所:株式会社 岩波書店
 ∃ 印刷・製本:法令印刷
 ∃ カバー:精興社
 ⊂ 1968年2月16日発行

⊗ 目次情報 ⊗

 ∈∈ 巻第一  梁恵王章句 上
 ∈∈ 巻第二  梁恵王章句 下
 ∈∈ 巻第三  公孫丑章句 上
 ∈∈ 巻第四  公孫丑章句 下
 ∈∈ 巻第五  滕文公章句 上
 ∈∈ 巻第六  滕文公章句 下
 ∈∈ 巻第七  離婁章句 上
 ∈∈ 巻第八  離婁章句 下
 ∈∈ 巻第九  万章章句 上
 ∈∈ 巻第十  万章章句 下
 ∈∈ 巻第十一 告子章句 上
 ∈∈ 巻第十二 告子章句 下
 ∈∈ 巻第十三 尽心章句 上
 ∈∈ 巻第十四 尽心章句 下

⊗ 著者略歴 ⊗

孟子(もうし)
戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻、字は子輿。亜聖とも称される。孟子の「子」とは先生というほどの意。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。