才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ぼく自身のための広告
(上・下)

ノーマン・メイラー

新潮社 1962

Norman Mailer
Advertisement for Myself 1959
[訳]山西英一
編集:新潮社編集部 協力:ハロウェイ・ブラウン
装幀:上口睦人

メイラーの生涯はもっと知られていいと思う。知られたほうがいい。早熟で才気煥発、矛盾を告発しつづけるも自身はスキャンダラスな日々そのものを送り、一貫してアメリカのジレンマを体現しつづけた。

 早稲田の素描座の演出家だった上野圭一のアパートに遊びにいったとき、本棚に数々の演劇書や文芸書にまじって目の高さの真ん中あたりにノーマン・メイラーの数冊が並んでいた。タイトルが変わっている。手にとってパラパラした。この日、初めて先輩大学生の部屋に行ったのだと思う。家族とともに住んでいる自宅の一室で、「先輩の部屋」というものがいかに胸ときめくものか、どぎまぎしながら満喫した。
 上野さんはその後はフジテレビで有名ディレクターになるのだが、テレビ業界のメジャー志向と視聴率志向が嫌になって早期退社して、一転、針灸師の資格をとった。その後はババ・ラム・ダスやアンドルー・ワイルの翻訳を手掛ける一方、『ナチュラルハイ』(ちくま文庫)、『代替医療』(角川oneテーマ21)などの著書を書くようになった。そういう上野先輩だが、あの学生時代の本棚の中央にあった数冊のメイラーは、上野さんの何かの「サイキック・ハイ」をいきいきと象徴していたのではないかと思う。

上野圭一(1941-)
日本の鍼灸師・民間医療家・翻訳家。早稲田大学英文科卒。東京医療専門学校卒。日本ホリスティック医学協会副会長。CAMUNet(代替医療利用者ネットワーク)副代表。

上野圭一氏の著作
『ナチュラルハイ―わたしを超えるわたし 』(ちくま文庫)
『代替医療―オルタナティブ・メディスンの可能性 』(角川oneテーマ21)

 それから八年ほどたって、田中泯に「ノーマン・メイラーのところで踊りたいのでポスターをつくってくれ」と言われた。グリーンのカラーペーパーに墨色の英文をあしらったものを渡した。シルク印刷は木村久美子に頼んだ。そのころ田中泯は特別なダンスを踊るときは、たいていぼくにポスターを編集デザインさせていた。
 その八年ほどのあいだ、『裸者と死者』『鹿の園』(ともに新潮文庫)、『アメリカの夢』(集英社)、『ぼく自身のための広告』、『夜の軍隊』(早川書房)、『一分間に一万語』(河出書房)などを読んだ。感想はあとで言う。ついで二年後、木幡和枝がメイラーの家で突撃インタヴューを果たしたので(メイラーは名うてのインタヴュー嫌い)、「遊」一〇〇三号の「店の問題+幻想人工都市」特集に載せた。あいかわらず「勇気」をめぐっていた。
 木幡らしい気っ風のいい対話だったので、彼女にそう言ったら「あのメイラーも、やや逃げ腰ね。でも、さすがにヒップ・ダンディだったわよ」と笑った。木幡ならではの言いっぷりだ。木幡が突撃インタヴューをしたのは一九七八年だから、まだメイラーが五五歳のころだったのだが、何度も離婚と再婚をくりかえして、ちょっと気弱になっていたのかもしれない。
 以上がぼくのメイラーとのかかわりのすべてだ。あとはメイラーの書いたものに及ぶしかないのだが、今夜は小説ではなくて『ぼく自身のための広告』と『一分間に一万語』をとりあげる。理由はそのうちわかる。どちらも山西英一の訳で、メイラーの速射砲のような凝った英語をみごとに日本語にしていた。

『ぼく自身のための広告』(新潮社)
『一分間に一万語』(河出ペーパーバックス)
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1979年のノーマン・メイラー

遊1003号「店の問題+幻想人工都市」

ノーマン・メイラーのインタビュー記事
「宇宙の中心は勇気である」

『遊 1003号』に掲載。

木幡和枝(1946-2019)
上智大学卒業後、フランク・ギブニーのもとのブリタニカで出版部長を、TBSブリタニカで百科事典「世界子ども百科」編集長を経て、同時通訳者を集めたフォーラム・インターナショナルを設立。ダンサー田中泯とは長年行動をともに海外でのイベントに同行した。スーザン・ソンタグと交友が深く、数々の代表作を訳した。東京藝術大学名誉教授。2019年4月に逝去。planBでお別れの会が開かれ、多くのアーティストや作家、教え子たちが集った。

 第二次世界大戦でナチスと大日本帝国を屠った直後のアメリカ社会において、ノーマン・メイラーが突如として極め付けの代表めいて躍り出たことは、アメリカ自身にとってもとんでもない才能の出現だったのだと思う。
 その才能を惜しみなく早く費いすぎたかもしれないが、溜めておくなんてガマンできない男だったろう。才能というより、才気か。才気が溢れて渦巻き、他人を巻きこまずにはいられなくなったのだ。奔放というより奔出とか出奔というに近い。なにしろ一分間に一万語がほしい男なのである。
 そこで最初に『一分間に一万語』のことを書いておくが、この本は一九六二年九月二五日のヘビー級パターソン対リストンのタイトルマッチ・ボクシングを観戦したメイラーが、現場で喚起されたサイキックな震動を高速にルポルタージュしたものと、その三日前に四〇〇〇人の聴衆の前で保守主義の俊英論客ウィリアム・バックレーを相手に「アメリカの右翼の意味」を苛烈にディベートしたときの記録の、二部構成のセルフドキュメンタリーなのである。
 すでに文学上の名声をほしいままにしていた作家がこんなボクシング観戦記を書くなんて、誰も予想できなかった。それも一分間に一万語、ざっと二万七〇〇〇語になっている。当時、メイラーの小説に感化されていた大江健三郎が感嘆しきったのは当然だった。のちに沢木耕太郎が影響されてボクサーを採り上げた。

伝説の一戦となったパターソン対リストン
1962年9月25日、シカゴのコミスキー・パークでおこなわれた。

 シカゴのコミスキーパークでのフロイド・パターソンとソニー・リストンのタイトルマッチは大観衆の熱狂のなか、たった二分六秒でカタがついた。パターソンが屈辱的敗北を食らったのである。全観衆もプロスポーツの関係者もメディアも唖然とした。のちのちまで語られることになった伝説的一戦だ。メイラーはしかし、この一戦に全米の「意識の集約」を見て、当時のアメリカン・コンシャスな課題のあれこれをルポルタージュに織りこんだのである。
 イゴール・カッシーニ(当時のトップ新聞コラムニスト)はミッキー・ルーニー(一世風靡した小柄なエンタテイナー)と同列か。ロジャー・ブラウ(製鋼会社社長)はエリザベス・テイラーの前方に出られるか。フランク・シナトラはウッドワード夫人(億万長者の夫を殺したヒロイン)よりも礼遇されるのか。ザザ・ガボール(ミス・ハンガリーで女優。ホテル王ヒルトンなどとの九度の結婚を誇った)はいったいニューヨーク市長ワグナーよりも上席か。
 メイラーはこうしたボクシング会場におけるスノッブな「席順」をアメリカ人に突き付けて、タイトルマッチをドキュメンタルに綴ったのである。まったくもって、不埒なほどみごとで、鼻もちならないほどきわどいルポだった。日本社会もそうだけれど、「席順」こそはその社会の文化インフラなのだ。メイラーはボクシングの会場でそこをカウンターパンチで揺さぶったのだ。

 『一分間に一万語』の後半には、ウィリアム・バックレーとの大上段なディベートがまるまる収録されている。自由と勇気を鼓舞する“赤いメイラー”が右寄りの“黒いバックレー”を相手に闘いを挑むのだが、これまたヘビー級の言葉のボクシングのようになっている。ノックアウトシーンはないが、ぼくはバックレーの判定勝ちではなかったかと感じた。ところがバックレーに圧され気味のメイラーはその血しぶきを露も隠さず、この交戦を記録することに平ちゃらで、何もかもをぶっちゃけている。このあたりがメイラーの「あからさま主義」だ。
 メイラーには鼻っ柱の強い政治的発言が多く、実は大統領になりたがっていたんだという噂も絶えなかったのだが、実際にはカウンター・ポリティックスが好きなだけで、そういうところはその後のメディアでの知識人のコメントのラディカル・パターンを先駆していた。それが『一分間に一万語』の二つのタイトルマッチで見せたメッセージだったのだ。

 なぜこういう突飛なスタイルを思いついたのかといえば、最初からこのスタイルが好きだったのだ。突飛ではなく、それがメイラーのスタンダードだったのだ。だからそれを実行した。
 実際、エレガントなシャンパン・パーティに呼ばれても、一人だけ野球帽にTシャツで通した。あの好き勝手がまかり通るアメリカ社会でさえ、メイラー以前、誰もそんなことをしていなかった。けれどもメイラーは、感じていたことをそのまま恰好にも言葉にもあらわす男っぷりを通した。それがメイラーの先駆的な才能(才気)だったのだと思う。いまでは、訳知りの連中はフォーマルな場面でも、野球帽とTシャツにジャケットを引っかけて着るようになった。
 そういうスタイルに徹してどうするのかといえば、目的と戦略ははっきりしていた。断乎として狂宴をつくりだすのである。それがメイラーが広めたと言われる「アメリカン・ヒップスター」の感覚だ。

 一九五七年に発表された『白い黒人』という衝撃的なエッセイがある。そこには「ヒップとは、巨大なジャングルに暮らす聡明な原始人の知恵である」と書かれている。
 この「聡明な原始人」とはノーマン・メイラー自身のことで、「巨大なジャングル」はスクウェアに病んだアメリカのことをさす。こんなふうに書いている。「それは順応と抑圧の時代であった(つまり「席順」の社会)。アメリカ生活のあらゆる気孔から恐怖の悪臭が出てきて、われわれは集団的な勇気の喪失に苦しんでいる」。

『ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学』 (P‐Vine BOOKs)
アメリカ文化を貫く「ヒップ」という概念をクロニクルで追ったノンフィクション。ジョン・リーランド著。ヒップがいかに人種や性別を超えてアメリカ人のアイデンティティを規定してきたかを解く。

 メイラーの生きざまはもっと知られていいと思う。知られたほうがいい。早熟で才気煥発で、矛盾を告発しつづけるクセがあって、自身はスキャンダラスな日々を送り、一貫してアメリカのジレンマを体現しつづけた男だった。
 一九二三年にニュージャージーの田舎町にユダヤ系の子として生まれて、乱暴なブルックリンで育って喧嘩を辞さず、ハーバード大学では一転して知的遊戯をおぼえ、フロイトとサルトルを引きちぎって「新実存主義」を感知するようになった。
 十八歳で最初の作品を書くのだが、このとき戦争や戦場の男たちに「異常と快感」がくすぶることに関心をもった。ナチスと大日本帝国を屠ったアメリカは、その内部がおかしくなっていることに気づいたのだ。その「おかしさ」は文明の本質だろうと見当をつけた。メイラーは、このときから「極限」(極め付け)を自身で抱くことにした。
 日本にも縁がある。一九四四年にアメリカ陸軍第一一二騎兵連隊としてレイテ島とルソン島との戦闘に参加した(ぼくが生まれた年だ)。連隊情報員、航空写真班、偵察隊の小銃兵などとして従軍した。ポツダム宣言のあとは進駐軍の一員として千葉の館山に上陸すると、銚子に駐屯し、途中、福島県の小名浜(現在のいわき市)でぶらぶらして、また銚子に戻った。日本は美しい国だが、日本人は「いくじなし」だと感じた。
 このあと一九四八年にパリのソルボンヌ大学に行くのだが、その前に書いた『裸者と死者』が早くもベストセラーになった。レイテやルソンでの戦争体験にもとづいたものだ。戦場にひそむ名状しがたい衝動を通して、恐怖の持続や肉体の消耗を綴った。その文体が絶賛された。「窯の口をあけた熱気」「触手をのばす水たまり」「澱んだ流れとなった虚脱の行進」「焦げ腐った軍服」「耳から顎まで射貫かれて豆袋のように膨れ上がった顔」「詰物が破けてはみ出た人形さながらの死体」「いそぎんちゃくのようにはみ出た内臓」「ぎっしり塊った鋼のような陰毛と根元まで焼け爛れた陰茎」といった描写が連打されていた。

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Tシャツ姿の若きメイラー

『裸者と死者』(新潮文庫)

 一九五〇年のアメリカはトルーマン&マッカーサーの朝鮮戦争と上院議員ジョセフ・マッカーシーによる赤狩りであけた。赤狩りはたちまち民主党議員の告発に及び、メイラーにはこの風潮がとてもアタマにきていた。
 五二年、共和党のアイゼンハワーが民主党のアドレー・スティーヴンソンを破って大統領になると、知識人たちに失望が広まった。世界を眺めまわすと、突如として冷戦時代に突入していた。アメリカは「見えない敵」のソ連との闘いに苦渋しはじめたのだ。しかし、誰もこの閉塞と屈服を突破しようとしない。誰もがイナクショナル(非活動的)なのだ。
 五五年、噴然としたメイラーはハリウッドの赤狩りの内実を舞台にした『鹿の園』を果敢に発表した。ところが『裸者と死者』を絶賛した文壇は、これを冷たくあしらった。メイラーは「文学」を呪った。そこで五七年、エッセイ『白い黒人』を書き、一方でアメリカ社会の根源的な暗闇に言及し、他方で独得のヒップスター論を提示してみた。社会そのものをフィクションとドキュメンタリズムの隙間に引きずりこむようなスタイルを編み出したのだ。
 これで逆襲の準備ができた。かくて一挙にさらけ出されたのが『ぼく自身のための広告』なのである。
 開口一番、「怒りはぼくを残忍と紙一重にした」「傲岸不遜なものが多分にある。これはどうすることもできない」「ぼくは、現代の意識に革命をまきおこさないではけっして満足しない知覚に閉じこめられているのだ」とある。
 この瞬間、アメリカの若者たちが一斉に変わった。ジェームズ・ディーンの《理由なき反抗》の不良性に痺れ、エルヴィス・プレスリーの《ハートブレイク》なぶるぶるした陶酔に走り、メイラーのヒップ・スタイルを模倣し、ケルアックやギンズバーグのビートニクな詩に攫われていった。

アメリカの若者を熱狂させた4人
ジェームズ・ディーン[左上]
エルヴィス・プレスリー[右上]
ジャック・ケルアック[左下]
アレン・ギンズバーグ[右下]

ビートニクたちの行進
ビート運動は、抑圧的で非人間的な機能をもつ社会体制とそこに安住しようとするスクエアsquare(保守的で中産階級的な価値観)とに反逆した。積極的に貧困に甘んじ,原始的なコミューン生活を行おうとする一種の生活運動が広まった。

ビートニクたちに詩を朗読するギンズバーグ(1966年)
ワシントン・スクエアにおいて。ビートニク詩人たちは教会やカフェなどで自作の詩を朗読する「ポエトリーリーディング」を開始した。もともとは黒人たちによる人種差別に対しての抗議という形で始まったといわれている。

ビートニク中心人物
左から「オン・ザ・ロード(路上)」を書いたジャック・ケルアック、詩集「吠える」を発表したアレン・ギンズバーグ、小説「裸のランチ」のジャンキー作家ウィリアム・バロウズの3人。

1950年代のジャズ
ミュージシャンたちは一瞬の閃きを重要視したアドリブを取り入れることでモダンジャズという新たなジャンルを作りあげ、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、マイルス・デイヴィスが活躍した。ロックが主流になる以前で、反発精神旺盛なプレイは時代を象徴し、ビートニクの思想や嗜好とぴたりとかみ合った。

蔓延するマリファナ文化
左は伝説のロックバンド「ドアーズ」のメンバー、右はティモシー・リアリーがハイになっている様子。

 メイラーは超有名なスターになりすぎた。そのせいだろうけれど、一九六〇年、よせばいいのにニューヨーク市長選に立候補した。きっと、自分はスノッブな有名人ではないと見せたかったのだろう。こういうところがメイラーの勢いあまるというか、勢いを誤るというか、とんでも発奮なところで、案の定、その出馬表明の席に泥酔したままあらわれて、とっさに何を思ったのか妻の胸をナイフで一突きしてしまったのである。あやうく殺人罪に問われるところだった。もちろん市長選はすっとんだ。
 こうしてアメリカはメイラーの代わりに若きJFK(ケネディ)を採ったのだ。アメリカ史上、最も若い四三歳の大統領である。メイラーは自身への刃をそらすかのように、よせばいいのにすぐさまJFKに惚れ、『勇気ある人々』(英治出版)を仕上げた。メイラーは自分が鼓舞した「勇気」を体現する大統領ができあがったと歓んだのだ。
 ケネディはニューフロンティア政策に着手し、フルシチョフと会い、さかんにテレビを活用し、ベルリン危機とキューバ危機を演出し、そして数々の不倫をすり抜けていった。メイラーに肖ったのかもしれない。最後はマリリン・モンローとの不倫に溺れたようだが、ダラスで暗殺されて、メイラーの夢を壊した。いまふりかえって、JFKに政治的才能があったかどうか、疑わしい。
 当時の日本はといえば、そういうJFKにすらまったく届かない。対ソ冷戦もない。石原慎太郎や中曽根康弘の首相公選制にたぶらかされただけだった。ぼくは高校二年になって、せっせと安保のデモに通うようになっていた。

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1960年、牢屋に入られるメイラー

 メイラーはたいていのことに懲りない男だった。意気揚々と『一分間に一万語』を「エスクワイア」に書き、ベトナム戦争に反旗を翻し、ノンフィクション・ノベル『夜の軍隊』でピューリッツアー賞をかっさらった。
 メイラーが『夜の軍隊』の主人公に選んだのはエド・サンダースだ。反戦運動家であって、過激派バンド「ファッグス」のリーダー、シャロン・テート惨殺事件を書いた『ファミリー』(草思社)の作家でもある。ボヘミアン出版社の発行人で、書店の店主でもあった。のちに佐野元春が乾坤一擲のインタヴューをした。ぼくは早稲田の素描座に入り、上野圭一の部屋でノーマン・メイラーに出会った。

1968年のエド・サンダース
アメリカの詩人、歌手、社会活動家、環境保護主義者、作家、バンド「ファッグス」のメンバー。ビートとヒッピー世代をつないだとされており、カウンターカルチャーを生みだした一人。

 懲りないメイラーは、今度は用意周到な準備のうえ、ふたたびニューヨーク市長選に名のりを上げる。この男にとってニューヨークこそが革命拠点だったらしい。マルクーゼの「エロス的文明」の爆心だったのだ。
 けれどもまたぞろ泥酔して、ボランティアの選挙運動員たちをブタ呼ばわりして、孤立した。ぼくはのちに野坂昭如や立川談志が国会議員に出馬するたびに、照れて酔っ払い、悪態をついて失敗するのを何度も目撃するのだが、それらはまさしくメイラー病の飛び火だったろう。
 それにしても、どうしてメイラーはこんな失態を演じてみせるのか。これは勝手な憶測だが、『裸者と死者』に始まって『一分間に一万語』や『ぼく自身のための広告』の連射に及んだラディカル・チックは、メイラーの予想をはるかに上回る加速度で、新たな分子運動に変換されていたのである。メイラーの「自分自身」は、どんどん別の「他人自身」になっていったのだ。それがボブ・ディランやマイルス・デイヴィスであり、マルティン・ルーサー・キングやマルコムXであり、ウッディ・アレンやウォーホルだったから、たまらない。この連中はメイラーをやすやすと超えていた。

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1969年、ニューヨーク市長選挙で演説するメイラー

 その後のメイラーもあいかわらず破天荒だった。CIAと近づき、全米ペンクラブの会長として君臨し、ロイ・コーンに頼んであやしい出版契約金を取得するという体で、褒められるようなことはほとんどしていない。
 ロイ・コーンとは、赤狩り時代の検察官から弁護士に転身して、ニクソンやレーガンを支え、不動産王ドナルド・トランプの特別弁護をしつづけた男だ。ゲイであることを隠した。その日々は、のちにアル・パチーノ主演の《エンジェルス・イン・アメリカ》になって、数々の賞をとった。今日のトランプの「アメリカ・ファースト」はメイラーとコーンの矛盾の密約の上に成り立ったものなのである。
 こうして、メイラーは「アメリカのありとあらゆる夢」を掻き立て、好きほうだいに蹂躙し、その大半のパフォーマンスを独得のスタイルに仕立てて、二〇〇〇七年十一月十日に死んだ。八四歳だった。

 さて、『ぼく自身のための広告』には唸らされた。巧妙に構成されている。こんな編集構成術があったのかと、そのことに驚かされた。大江健三郎は『厳粛な綱渡り』(講談社文芸文庫)でこのスタイルをほぼパクった。菊地成孔の『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』(小学館文庫)にもこの手法が踏襲されていた。
 全編にメイラーのそれまで書いてきた短編やエッセイが配されていて、それがいかにすばらしいか、何を狙ったのか、その自画自賛と反省を交えた自主「広告」を次々に挟んでいるのだ。
 第一部には『天国を目当ての計算』についての広告とその文章などが、第二部には『ヨガを研究した男』や『西ヨーロッパ防衛の意義』についての広告とその文章などが掲載され、第三部は「誕生」と銘打たれていて、『ホモセクシュアルな悪党』や『鹿の園』最終稿などについての自画自賛広告と文章を並べたあと、六九項目のインタヴューに対する回答が続くという具合だ。
 メイラーは他人の才能を見抜くのもピカイチだった。彼がぞっこんだったのはトルーマン・カポーティで、その次の次あたりがヘミングウェイだったのだが、そういう他人の才能を見抜く目で「ぼく自身」を見るという手法を編み出した。それがやたらにうまい。むろん「いいとこどり」をするわけだ。では「いいとこどり」ばかりで悦に入っているのかというと、かつてのメイラー批判の文章や質問票もちゃんと配列させていく。つまりは敵と味方の両方のボクシングのリングを必ず作ってみせるのだ。

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トルーマン・カポーティ(1924-84)
23歳で初めての長編『遠い声 遠い部屋』を出版し、若き天才作家として注目を浴びた。その後は中編『ティファニーで朝食を』が映画化されヒット。晩年はアルコールと薬物依存に陥り、出演したテレビで不可解な発言を行うなど奇行が目立ち始め、執筆活動も『冷血』以降は長編を一度も書き上げることがなく、公私ともに没落していった。2005年、ベネット・ミラー監督の映画『カポーティ』は見逃せない。

『冷血』(原題: In Cold Blood)
トルーマン・カポーティが1965年に発表した小説。 1959年に実際に発生した殺人事件を作者が徹底的に取材し、加害者を含む事件の関係者にインタビューすることによって、事件の発生から加害者逮捕、加害者の死刑執行に至る過程を再現した。客観性にとらわれず対象を深く描く「ニュージャーナリズム」の嚆矢となり、のちの世代に大きな影響を与えた。

 痛快なのは第四部「ヒップスター」である。ここに『白い黒人』も、その脚注も収録されている。とくにヒップ(H)とスクウェア(S)を次々に比較しているところが、当時のメイラーのスタイル思想を如実にあらわしていた。
 曰く、正午でなくて夜半を、警官でなく悪漢のほうへ、連続的でなくできるだけ連想的に、サルトルでなくハイデガーで、レーニンでなくてトロツキーで、スクウェアなオナニーではなくヒップなオージーで……云々、というふうだ。
 なんとなくピンとくる。スクーターではなくオートバイ、フロイトでなくウィリアム・ライヒなのである。しかし、プロテスタントがSでカトリックがH、ボヘミアンがSでバーバル(野蛮)がHだというあたりとなると、戸惑う者もいるだろう。けれども、このチョイスにこそメイラーの真骨頂がある。それは裁判官(S)を子供(H)に変えるというような、ファクト(S)よりもニュアンス(H)のほうが雄弁であるというような、そこに気がつけばよく了解できることなのだ。
 こうして第五部では「オージーの心理学」が掲げられ、大小の狂宴だけが社会を変革するパワーをもつことが宣言される。結びに「退場」のための自分広告が述べられて、さしもの一冊編集革命もエンディングに向かうのである。

ノーマン・メイラーの主な著作

 ぼくはかつて一度もメイラーが羨ましいと思ったことはなく、メイラーを他人に薦めることもしなかった。メイラーは安全なロングセラー商品でなく、危険なジャンクフードであり、アカデミズムがゆっくり蒸留したくなる組成物ではなく、瞬間的なアマルガメーションをおこす強烈な消費財なのである。センター舞台にいながら、ずうっとサブカル的なヒップスターを演じてみせたのだ。それは、それでよかったのだろう。メイラーはそのつど現れたい男なのだ。
 それなのに、世の中はいまなおメイラー・ヴァージョンのおこぼればかりでいっぱいである。今日の二一世紀社会でも、メイラーが最初にやってみせた狂騒しかおこっていない。週刊誌の見出し、テレビ特番、ロックフェス、異種格闘技大会、みんなメイラーだ。たいていのソロ・パフォーマーたちもメイラー風のパフォーマンスばかりを見せたがる。みんな野球帽をかぶりたがる。
 そこをどう見るか、あらためてサイキック・ハイの動向とその熱源の正体をピンナップ編集するにはどうするのかということを言うには、やはり一度はメイラーを千夜千冊しなければまずいよなと思ってきたわけである。田中泯がそういう男の前で踊りたがったこと、よくわかる。

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晩年のノーマン・メイラー(2006年)

⊕ ぼく自身のための広告 ⊕

∈ 著者:ノーマン・メイラー
∈ 訳者:上西英一
∈ 装幀:上口睦人
∈ 発行者:佐藤亮一
∈ 発行所:新潮社
∈ 印刷所:塚田印刷
∈ 製本所:神田 加藤製本所
∈∈ 発行:1962年11月10日(上)1962年12月25日(下)

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ この本を読まれる方に
∈ ぼく自身のための第一の広告
∈ 第一部 初期の作品
∈ 『天国を目当の計算』のための広告
∈ 『天国を目当の計算』
∈ 『この世でいちばん素晴らしいもの』のための広告
∈ 『この世でいちばん素晴らしいもの』
∈ 『たぶん来年は』のための広告
∈ 『たぶん来年は』
∈ 第二部 中期の作品
∈ ぼく自身のための第二の広告『バーバリの岸辺』
∈ ぼく自身のための第三の広告
∈ 三つの戦争短篇小説のための広告
∈ 『ゲイシャ・ハウス』
∈ 『兵士たちの言葉』
∈ 『死んだ土人』
∈ 『ノートブック』のための広告
∈ 『ノートブック』
∈ 『ヨガを研究した男』のための広告
∈ 『ヨガを研究した男』
∈ 政治論文のための広告
∈ 『アメリカとアメリカの文化シンポジウム』
∈ 『デイヴィド・リースマン再考』
∈ 『西ヨーロッパ防衛の意義』
∈ 『西ヨーロッパ防衛の意義』へのあとがき
∈ 第三部 誕生
∈ 第三部のための広告
∈ 『ホモセクシュアルな悪党』のための広告
∈ 『ホモセクシュアルな悪党』
∈ ぼく自身のための第四の広告『鹿の園』の最終稿
∈ ぼく自身のための第四の広告のあとがき
∈ 訳者あとがき

〈以下、下巻〉

∈ 第三部 誕生(続)
∈ インタビュー・六十九の問答のための広告
∈ 六十九の問答
∈ ぼく自身のための第五の広告『マリワナ将軍』
∈ 急いで ゆっくり読む読者のためのコラム
∈ コラムの終りと「公告」のための広告
∈ 『Godot を待ちつつ』についての広告
∈ 「公告」へのあとがき
∈ 第四部 ヒップスター
∈ ぼく自身のための第六の広告
∈ 『白い黒人』
∈ 「ヒップについての考察」へのノート
∈ ヒップについての考察
∈ ヒップスターとビートニク
∈ 『ヒップ、地獄、航海者』のための広告
∈ 『ヒップ、地獄、航海者』
∈ 第五部
∈ GAMES と ENDS のための広告
∈ “It”のための広告
∈ “It”
∈ 『ベッドの強者』のための広告
∈ 『ベッドの強者』
∈ 『マクドウガル小路の守護神』のための広告
∈ 『マクドウガル小路の守護神』
∈ ニューヨークポスト紙への投書
∈ マス・メディアはいかに殺人をおこなうか − A
∈ マス・メディアはいかに殺人をおこなうか − B
∈ 『仲間』のための広告
∈ 『仲間』、または『頂上の穴』
∈ 『仲間』へのあとがき
∈ 『オージィの心理学へのノート』のための広告
∈ Hip と Square
∈ 比較好色文学に関するノート
∈ 余剰価値からマス・メディアへ
∈ Sources − 精神経済学の謎
∈ LAMENT OF A LADY
∈ I GOT TWO KIDS AND ANOTHER IN THE OVEN
∈ 戯曲『鹿の園』のための広告
∈ 鹿の園
∈ ピカソ寸描
∈ 評価 − 才人にたいする リビング・ルームでの高価な寸評
∈ 退場に先だって、ぼく自身のための最後の広告
∈ 『彼女の時の時』のためのノート
∈ 『彼女の時の時』
∈ DEAD ENDS(「行き止まり」)のための広告
∈ DEAD ENDS
∈ 退場にあたってのぼく自身のための広告 − 長い小説へのプロローグ
∈∈ 詩訳注

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

ノーマン・メイラー(Norman Mailer)

1923年 アメリカ、ニュージャージー州生まれ。ノンフィクション小説の革新者。1939年 ハーバード大学入学。18歳の時最初の作品を公表した。1944年に陸軍第112騎兵連隊に入隊し、レイテ島の戦いとルソン島の戦いに従軍。1945年の終戦と同時に進駐軍の一員として千葉県の館山に上陸、その後銚子に移った。1946年には福島県の小名浜(現在のいわき市)に移り、その後5月に帰国するまで銚子に滞在した。1948年、パリのソルボンヌ大学に入る前に、ベストセラーとなる『裸者と死者』を書いた。それは彼自身の戦中の経験に基づいたものであり、第二次大戦を描いた最良のアメリカ小説のうちの1つとされる。 同作品には銚子の様子の描写があり、彼は後に日本語版の翻訳者に「日本は私が見た国のうちでもっとも美しい国でした」との印象を述べている。