父の先見
クール・ルールズ
クールの文化誌
研究社 2003
Dick Pountain & David Robins
Cool Rules ――Anatomy of Attitude 2000
[訳]鈴木晶
装幀:清水良洋
うん。あれって、どこがクールなんですか。
そうだよね、ちっともクールじゃなかったね。
じゃ、何がクールということですか。
アメリカン・クールがクールの正体だろうね。
あとはその亜流ですらないかもしれない。
日本にはクールってないんですか。
ううん、昔からずっとあったよ。
各民族にはそれぞれのクールがあるんじゃないの。
無常も枯山水も数寄屋も粋も、春信も秋成も雪岱も夢二も、
大友克洋も町田康も、ゼビウスも桑田も初音ミクも、
織部茶碗も藍染めもあずきアイスも、みんなクールだよ。
そのこと、クール・ジャパンにはわかってないかも。
ノーマン・メイラーは、こう言った。「クールというのは、スクウェア(堅物・石頭)たちがスウィングできないところでスウィングしてみせ、そのままその場を支配することだ」というふうに。読書界にセンセーションを巻き起こした『白い黒人』(一九五七)のなかでの有名な説明だ。
クールというのは、適当にイキがることではない(……それは逃げの手だ)。ここぞというときにも、ふだんの大好きなスタイルを通すことだ。だから、クールはヒップなのである。メイラーは「ヒップスター」という言葉をつくり、ヒップとクールが同じ感覚的起源をもっていることを説いた(……江戸の「粋」を京都が「粋」にしたように)。クールはクールジャズからロックやヒッピーやR&Bをへて最近のヒップホップまで地続きで、約半世紀にわたってアメリカ人の尖んがったアトリビュートとスタイルをリードしてきた。
メイラーの指摘から四十年後、アンガー・マネジメント理論で鳴らした社会史学者ピーター・スターンズは『アメリカン・クール』(一九九四)に、「クールという発想はアメリカ人の想像力の核心をなしている」と書いた。
なるほど、最初はダシール・ハメットのサム・スペードやレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウで、パルプ・フィクションの中にいた。そのうちスクリーンの中のジェームズ・ディーンこそがアメリカン・クールの原型になった。続いて《波止場》《乱暴者》のマーロン・ブランドや《傷だらけの栄光》《ハスラー》のポール・ニューマンが革ジャンを着て、クールには「排他的連帯感がオートバイに乗っているようなところ」があることを証明してみせた。これはのちの《イージーライダー》のデニス・ホッパー扮するビリーにまで受け継がれた。
1955年、自動車事故による早すぎる死。事故現場に建てられたモニュメントには「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれている。
アメリカン・クールは、もともとは黒人が見せた矜持から生まれたものだった。美術史家ロバート・ファリス・トンプソンが『今に生きるアフリカの芸術』『精神のきらめき』(ともに未訳)などであきらかにしたことなのだが、ヨルバ族とイボ族のアニミスティックな文化の中心で大事にされていた「イトゥトゥ」という価値感覚は、英語ならばまさしく「クール」というもので、のちにアメリカ人が好んだブルースやブルーデニムは、この「イトゥトゥ」のもつ青色性から派生したものだというのだ(……ジャワの更紗が日本の「縞」の文化をつくったように)。
だとすると、アメリカン・クールはクレオール(混淆文化)から生まれたのだ。ポール・オリヴァーが「今朝、ブルースが降ってきた」と言ったのは当たっていたわけだ。ニューオリンズがクールを全米に送り出したのだ。そのときニューヨークではブレヒトとクルト・ヴァイルの《マック・ザ・ナイフ》がこれを迎え撃ち、それが転じてバーンスタインの《ウェストサイド物語》になって、また何度か隔世遺伝して、マイケル・ジャクソンの《ビート・イット》の喧嘩シーンになっていったわけだ。
アメリカ五〇年代にクールが何たるかを告げたのは、マイルス・デイヴィスのどえらいアルバム《クールの誕生》(一九四九)だった。マイルス九重奏団がバップを変えてしまった革命的演奏だ。その後も黒人文化がアメリカン・クールをリードした。
ところがアメリカという国は貪欲だ。たちまちこれを白人が食べた(……公家の「あはれ」を武家が「あっぱれ」にしたように)。そのため五〇年代のクールの特徴は「よそよそしい傲慢」というものになった。それがエルヴィス・プレスリーとジェームズ・ディーンにあらわれた“粋がり”だ(……いや「やつし」というものだ)。プレスリーは太りすぎてもドーナツを食べすぎてもクールが残響できるんだということを露呈し、マイルスはクールの最初の殉教者になった(……天草四郎時貞のように)。
こうして同じ五〇年代、ジャック・ケルアックやウィリアム・バロウズが享楽と死を
弄ぶクールがありうることを示し、アレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーはそれが禅とビートニクのあいだでスピリチュアルな石ころのように転がっていると示唆した。白人化されたアメリカン・クールはWASPと差別と極貧を縫うように、ひどく貪欲だったのだ。ゲイ感覚から禅感覚まで、尖んがったものなら何であれ、どんどん取り入れていったのだ(……なんでも人形浄瑠璃や仮名草子になったように)。
白人がスパイスを効かせたアメリカン・クールは、当然ながらはなはだ超個人的で、すこぶる非合理で、めっぽう快楽主義的で、つまりは目立ちたがり屋そのもののようだった。だから六〇年代になると、カウンターカルチャー(対抗文化)的なるものをちょっと奇抜に磨き上げさえすれば、なんだってクールになった。
一番わかりやすい例は、アンディ・ウォーホルがそういうクール感覚こそがポップアイコンになりうることを証かしたことと、マルコムXやブラックパンサーのエルドリッジ・クリーヴァーが、クールであるためにはラディカルなアウトローであることが条件になると宣言したことだ。当時(いまなおそうであるが)、暗殺されたチェ・ゲバラのTシャツがアメリカン・クールにやたらにもてはやされたのは、そのせいだ。
ちなみにロック・アーティストたちは、六〇年代クールのスタイルにちゃっかり「クールは派手でドラッグな不摂生」というスノッブな捻りを加えた。たとえばローリング・ストーンズ、ザ・フー、レッド・ツェッペリン、ロッド・スチュアート、それにルー・リードやイギー・ポップたちがそのことを見せつけた。
アメリカン・クールの歴史にはもとより公式見解なんて、ない。五〇年代ならジャズクラブが、六〇年代ならヒッピーフェスティバルが、七〇年代ならパンクパーティが、それぞれクールが創発する騒々しい現場だった。
そこに共通しているだろうことは、世間に対する一人よがりの反抗であり、堕落や頹廃を怖れぬことであり、それでいてグループとしての気分的な信条を守ろうとするものがあるということだ(……さしずめ大杉栄から中原淳一をへて谷川雁まで、宮崎滔天から川田晴久をへて唐十郎あたりまでというところだろう)。
本書の著者は、時代ごとにクールの変遷はあったとしても、そこには、①勝手なナルシシズム、②ロマンチック・アイロニーな無関心、③人に伝えにくい快楽主義、などが共通すると言っている。
そういうことが見え始めたのは、ぼくの実感からすると、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ニューヨーク・ドールズといったミュージック・シーンの先行的動向が、七〇年代にセックス・ピストルズやマルコム・マクラーレンによる半シチュアシオニスト(半状況主義者)ぶりに変じてみせてくれたときだった。また映像でいうのなら、マーティン・スコセッシが《タクシー・ドライバー》(一九七六)でロバート・デ・ニーロ演ずるトラヴィスに、あの世間に対する苛立ちと反感のあらわし方を見せたときだった。
それでクールの正体があらかたピークに達したのかといえば、そうではなかった。アメリカン・クールの乱打的多様性は底知れない。
八〇年代のクールにはクール・ハーク、グランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータが登場し、ヒップホップやラップを前面化させたかと思うまもなく、あっというまにダンスレコードをサンプリングしたりスクラッチしたりするDJたちを、ストリートギャング・クールの代名詞にさせたのだ。
が、それもまだまだ隠れた氷山の一角だった。九〇年代になると、もっと意外な展開が待っていた。ひとつには、マイケル・ジョーダンやフローレンス・ジョイナーに代表される黒人アスリートたちこそ最も美しいクールであることがわかってきたことだ(その後は、この主張はビヨンセに及んだ)。
もうひとつには、シリコンバレーのITベンチャーのTシャツ普段着のビジネス・キーパーソンたちが、のちのスティーブ・ジョブズがそうであったように、クールビジネスの頂点に躍り出たことだ。ジョブズはこう言った、「ぼくたちは世界に凹みを入れてやろうと思って、クールな仕事をしているんだ」。
ウォルマートやナイキやマイクロソフトがクールをむしゃむしゃ食べ始めたことは、いつのまにか商品消費文化がクールをぶんどったことをあらわしている。ヒップホップのバギーパンツとナイキのシューズはクール・コモディティの凱歌となり、マルチウィンドウとマウスのあいだのPCインターフェースは、その後の電子商品がクールを独占することの予告だったのである。
さあ、こうなってくると、クールこそが二一世紀アメリカ資本主義の最も気軽な自由主義で、最も商業的な仲間だということになる。クールは市場と商品の係数になっていったのだ。
一九九九年の五月、サンフランシスコのリーバイ・ストラウス社は国内工場の半分の閉鎖と六〇〇〇人の解雇に踏み切った。「リーバイスのジーンズがもはやクールでなくなったから」というのが、その最大の理由だった。これは何を示していたかといえば、二一世紀のクールは消費資本市場にすっかり受容されてしまったということだ。リーバイスのジーンズがみっともなくなったのではない。クールがついに棚に並ぶ商品サイズになってしまったのだ。
もっとみっともなかったのは、一九九七年以降のイギリスがいまさらながら新自由主義の延長のもと、「クール・ブリタニア」を謳おうとしたことだ。みごとに失敗した。もしもイギリスがどうしてもそんなことを言い出したいというのなら、むしろブリティッシュ・クールをまずはデヴィッド・ボウイやビートルズやマリー・クワントに戻し、ついでにその前のテッズやモッズ、さらにはその前のエスクワイアやリザーブ感覚(イギリス流の謹み深さ)やギャラントの感覚を取り戻し、加えて自分たちのクール文化の歴史に自信をもつために、さらにはオスカー・ワイルドやオーブリー・ビアズレーやケンジントン公園のピーター・パンの奥なるウィリアム・ブレイクを響かせて、その原点の「かっこよさ」を持ち出せばよかったのである。
ついでに言っておくけれど、その「クール・ブリタニア」に遅れることさらに十年後の「クール・ジャパン」は、もっとひどかった。
ぼくも巻きこまれたので文句ばかりつけるわけにはいかないが、民主党時代の政府と経産省が推進しようとしたクール・ジャパン計画は、およそ何の準備もない茶番のようなものだった。福原(義春)さんが有識者会議の座長となって「松岡さん、手伝ってよ」と電話をかけてきたので、ぼくも副座長を引き受けたのだけれど、そのとき最初に言ったのは「クール・ジャパンという看板を降ろしなさい。さもなくばクール・ジャパンを江戸・室町・平安までさかのぼって可視化しなさい」ということだった。
これは一言でいえば、日本のクールは「数寄と傾奇の感覚」にこそあらわれてきたということで、それなら日本は「際」をめぐったジャパン・クールを持ち出せる。ところが、永田町と霞ヶ関はそういうことはいっこうにお留守にしたかったのだ。案の定、プロジェクトの展開にはこれっぽっちも本気な価値観が入っていなかった。コンサル屋のA・T・カーニーが「クール・ジャパン」の海外進出シナリオをA4数枚で配った程度なのだから、何をか言わんやである。アニメ、コスプレ、おたく、かわいい、電子ゲーム、初音ミクをクールとしたいのなら、「数寄と傾奇の感覚」こそをこれに負わせるべきだった。
クールとは「安易な変化を嫌う変化のスタイル」なのである。それをジャパン・クールで拾うなら、をかし・吹抜屋台・あはれ・バサラ・数寄・無常・枯山水・オリベ・粋・真行草などを持ち出して、これを春信・若冲・ハイカラ・夢二・魯山人・寺山修司・あしたのジョー・日野皓正・井上陽水・桑田佳祐・AKIRA・土屋アンナ、そして草薙素子や初音ミクに装ってもらえばいいわけなのだ。そんなこと、どうしてわからないんだろうね。
もうひとつ、パンチアウトしなければならないことがある。アメリカン・クールもジャパン・クールも、そこに凭れてはダメだということである。ちょっと突き放していないといけません。これはたとえば、クエンティン・タランティーノが《パルプ・フィクション》で、サミュエル・L・ジャクソンに「エゼキエル書」の一節をわめきちらさせたという、あの感覚も必要だということだ。
ま、そういうことはともかくとして、こうしてアメリカン・クールはついに商品市場主義のロジックにまみれてしまったのである。もうタムラ/モータウンなんてない。すべてはウェブの中のコンビニ音楽だ。ロバート・クラムやS・クレー・ウィルソンのコミックもない。あるのは落書きペイントとアメリカンコミックに代わる日本のコミックだ。ヒッピーもモッズもいない。ニートやホームレスという名になった。
クールは内部崩壊したのだろうか。そうではない。逆である。クールは表舞台に出すぎて、なにもかもにタグと正札を付けすぎたのだ。コンサル屋と広告代理店がこれをごちゃまぜにしすぎたのだ。トマス・フランクが『クールの征服』(一九九八)でとっくに指摘していたことなのだが、ヒップやクールは「資本主義が自分自身を理解して、これを大衆に向けて説明するためのポップ・コンセプトに使われてしまった」ということなのである。
なぜ、こんなにも骨抜きになったのか。そのことについてもノーマン・メイラーは予言していた。「ヒップとクールの性格には闇の面があり、内的生活と暴力的生活、無礼講と夢のように美しい愛、殺人の欲望と創造の欲望とが、それぞれ同居する。いずれこうした矛盾が露呈するだろう」と。
そうなっては困るので、商品市場がクールから「暴力とセックスと無礼講」をせっせと水洗いして、骨抜きにしたわけなのだ。同じこと、日本にもほぼあてはまる。ヤクザと不良とスラムがないところ、ジャパン・クールはなかなか「際」を見せられない(……別所とバサラと苦界と悪場所とカブキ者とは、同床異夢だったのである)。
本書『クール・ルールズ』は、この手の本としては嫌みのない記述に徹していて、そこそこ気持ちのよいものだった。著者がジャーナリスト二人組だったのがよかったのだろう。とくに著者の一人のディック・パウンテンはかの「OZマガジン」の編集をしていた男だった。ぼくが「遊」の第Ⅲ期を迎えるにあたって、世界中のマガジンを見て、うん、これと「フェイス」だと参考にした名うてのマガジンだ。
もっとも、本書の後半部の結論は、慎重なものになっている。クールはアメリカ帝国主義文化の代名詞にすぎないとか、クールは世界に輸出されたアメリカのポップカルチャー商品にすぎないといった見解についてはさすがに排してはいるものの、しかしながら辛うじて、さしものアメリカン・クール文化もいまやすっかり商品市場主義のコモディティの代名詞になってしまったことを、縷々証明したあげく、あえていうなら「いまやカウンターカルチャーこそが新たな起業家の立脚点になるだろう」というふうに結んでいる。ただし、その起業家だってコンプライアンスにひどく悩まされるよとは書いていなかった。
今夜の劈頭と掉尾を飾ったメイラーの“予言”は『ぼく自身のための広告』のなかでその大半にお目にかかれる。いつか千夜千冊したい(注:一七二五夜にとりあげた)。ついでにギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(平凡社)なども参考にするといいのだけれど、こちらは千夜千冊するかどうかは、わからない。
⊕クール・ルールズ ―クールの文化誌―⊕
∃ 装丁:清水良洋
∃ 発行者:荒木邦起
∃ 発行所:研究社
∃ 印刷・製本:研究社印刷株式会社
⊂ 2003年5月30日 第1刷発行
⊗ 目次情報 ⊗
∈ はじめに
∈ 第1章 〈クール〉とは何か
∈ 第2章 アフリカから
∈ 第3章 〈クール〉の白い影
∈ 第4章 それも〈クール〉だね……
∈ 第5章 〈クール〉のひび割れ
∈ 第6章 〈クール〉の外観
∈ 第7章 〈クール〉な関係
∈ 第8章 〈クール〉の心理
∈ 第9章 〈クール〉の支配
∈ チャートで見る〈クール〉の変遷
∈ 訳者あとがき
∈ 参考文献
∈ 〈クール〉小辞典
⊗ 著者略歴 ⊗
ディック・パウンテン
1945年ダービーシャーのチェスターフィールド生まれ。『OZマガジン』誌の書評・音楽評・編集に携わる。『パーソナル・コンピュータ・ワールド』誌創刊。アンダーグラウンド・ジャーナリズムの専門家。コンピュータのみならず、文学、映画、園芸、料理などにも造詣が深い。
デイヴィッド・ロビンズ
1944年ロンドン生まれ。BBCのシナリオライターなどを経て、現在はミドルセックス大学客員教授(社会学)をつとめながら、若者を援助する 慈善団体を主宰している。『ナックル・サンドイッチ』『おれたちは人間がきらいだ』『曇った視界』などをはじめ、若者文化を論じた著作が多い。
⊗ 訳者略歴 ⊗
鈴木晶 (すずき・しょう)
法政大学国際文化学部教授。翻訳家。『愛するということ』(紀伊國屋書店)、『死ぬ瞬間』(中公文庫)、『ことばの歴史』(研究社)など、訳書多数。舞踏評論家としての著作『バレエの魔力』(講談社現代新書)、『バレエへの招待』(筑摩書房)なども数多くある。