才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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うつと気分障害

岡田尊司

幻冬舎新書 2010

編集:志儀保博
装幀:鈴木成一デザイン室

ぼくは「心の病気」の病名や症候名をつらつら並べたり、患者に病名を示したりするのは、ずっとどうかと思ってきた。そんなことをするからかえって気分が重くなるのだろうと思ってきた。しかし加藤和彦の自殺があまりに衝撃的で、それからはこの手の「精神病一覧」も眺めるようになったのである。

 ヘミングウェイはアイダホの自宅で猟銃で頭を撃ち抜いて自殺した。一九六一年のこと、六一歳だった。感傷を排するハードボイルドな叙述力、活動的で陽気な性格、大物の釣りや猛獣狩りをたのしめる豪放な趣味など、悠々自適の日々に事欠かない生活をしていたはずの作家が突然に自殺したというニュースは世界をかけめぐったが、やがてその原因がうつ病であったことがわかった。
 死の間際まで交流のあったホッチナーの『パパ・ヘミングウェイ』(ハヤカワ文庫NF)によると、四十代後半から気分が不安定になっていたヘミングウェイは、遺作に近い『危険な夏』や『移動祝祭日』などの原稿の執筆に極端に苦しむようになり、「FBIに付け狙われている」とか「自分はどこかで監視されている」という妄想を譫言のように口にしはじめたらしい。六十歳のときにメイヨー・クリニックに入院したのだが、退院後も妄想と憂鬱は収まらず、夫人のメアリーが再入院を強行しようとした途中に、飛行機のプロペラに飛び込もうとした。かなり自殺したがっていたのである。
 のちに精神病性うつ病あるいは妄想性うつ病だと診断された。今日ではうつ病患者の約四分の一には妄想の症状が見られると報告されている。罪業妄想、貧困妄想、心気妄想、被害妄想などの妄想が拭えない症状だ。薬物や薬剤との関係も指摘されている。ヘミングウェイの場合は高血圧の薬レセルピンを服用していたことも、妄想や自殺衝動の発症トリガーになったのではないかとされた。

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晩年のヘミングウェイ(1960年)

 作家や学者とうつ病の関係はいろいろ調べられてきた。病名が確定できていないことも多いだろうが、スウィフト、ゲーテ、サド、トルストイ、ポオ、ラブクラフト、ヴァージニア・ウルフ、マックス・ウェーバー、ジャック・ケルアック、シルヴィア・プラス、フィリップ・K・ディックなどは、なんらかの精神障害や気分障害に苛まれた。
 日本では『歯車』に壮烈なイメージを綴ってみせた芥川をはじめ、有島武郎や新渡戸稲造のうつ病、北杜夫や開高健の躁うつ病などが知られている。
 参考としてあげるだけだが、『うつ病』(ちくま新書)や『自我崩壊』(講談社)などの著書がある岩波明の『文豪はみんな、うつ』(幻冬舎新書)では、夏目漱石(精神病性うつ病)、有島武郎(うつ病)、芥川龍之介(うつ病)、宮沢賢治(躁うつ病)、中原中也(統合失調症=分裂病)、太宰治(うつ病)、谷崎潤一郎(不安神経症・パニック障害)、川端康成(睡眠薬依存症)などという“診断”がされている。

憂鬱な作家たち

 うつ病が進行すると「死にたくなる」と思うことが頻発するようだ。そういうデータは多い。WHOの統計によれば、自殺既遂者の九〇パーセントが精神疾患をもち、六〇パーセントが抑うつ状態だという。日本の場合も自殺者の八〇パーセントが心因性の疾患をもっているという。
 江藤淳や中島らもは重度のうつ病で自殺したと報道された。ぼくがその才能に惚れぼれしていたミュージシャン(音楽プロデューサー)の加藤和彦は、二〇〇九年十月一六日、軽井沢で首吊り自殺した。驚いて何人かの知り合いと話してみたところ、親しい知人に「最近は鬱なんだ」と言っていたようだ。安井かずみと「パパ・ヘミングウェイ」というソロアルバムにとりくんでいたことが、いまとなっては懐かしい。しかし、どうして「パパ・ヘミングウェイ」だったのか、周囲の誰もわからなかった。
 うつ病には名状しがたい「悲しみ」がともなうことが多い。フロイトはそれを『悲哀とメランコリー』で「何を喪失したのかがわからない悲しみ」と説明し、クルト・シュナイダーは「生気的悲哀」(vitale Traurigkeit)と名付けた。シュナイダーはその理由として「思考流出」「思考が打ち消される」「妄想的知覚」を考えた。
 ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」はいまは精神科医として数々の執筆や発言をしている北山修の詞に加藤和彦が曲をつけたものだった。内海健に『うつ病の心理』(誠信書房)という本があるのだが、そのサブタイトルは「失われた悲しみの場に」となっている。

悲しくてやりきれない ザ・フォーク・クルセダーズ (1968)

 本書は数ある岡田尊司の本の一冊である。岩波明や内海健らとは少し考え方が異なって、なにもかもをうつ病では括らないという立場をとっている。そのことは多くの著書のタイトルにもあらわれている。
 『人格障害の時代』(平凡社新書)を皮切りに、『パーソナリティ障害』『統合失調症』(PHP新書)、『うつと気分障害』『アスペルガー症候群』『境界性パーソナリティ障害』『ストレスと適応障害』『社交不安障害』『過敏で傷つきやすい人たち』『きょうだいコンプレックス』(幻冬舎新書)、『回避性愛着障害』『愛着障害』『死に至る病』(光文社新書)、『生きるのが面倒くさい人』(朝日新書)、『カサンドラ症候群』(角川新書)、『対人距離がわからない』(ちくま新書)などと連打された。
 売れっ子なのだ。こんなに新書で精神疾患に関する本を書いている精神医学者はいないのではないかと思うが、いくつか読んでみたかぎりでは、乱造している印象はない。おそらく執筆構想力があるのだろう。
 岡田は実は小笠原あむ・小笠原慧などの筆名で、推理小説、SF、ホラーなども書いている作家でもある。『DZ』(角川書店)は横溝正史ミステリ大賞をとった。岡田クリニックの院長さんでもある。

岡田尊司
京都大学医学部卒。2013(平成25)年から岡田クリニック院長(大阪府枚方市)。『愛着障害』『母という病』『マインド・コントロール』など多くの著作を通じて、人々の悩みや不安に向き合っている。

 日本ではしばしば「うつ」は「心の風邪」などとも呼ばれてきた。みんながかかる心のビョーキだという見方だが、これではうつ病は「心の万病の元」ということになる。これはあたらない。うつ病は風邪とはまったく似ていないし、うつ病が万病の元になるわけでもない。
 最近の精神医学では、といってもアメリカ精神医学会の診断基準マニュアルのDSM
-Ⅳ以降の規定にもとづくものだが、うつ病は「気分障害」(mood disorder)という名で診療されている(ときに感情障害ともいう)。本書のタイトルもこの規定にもとづいた。
 気分障害は鬱状態が継続する「単極性障害」と、躁と鬱がくりかえされる「双極性障害」とに大別され、それぞれに大うつと小うつがある。双極性障害がいわゆる躁うつ病である。ぼくは「心の病気」の病名や症候名をつらつら並べたり、患者に病名を示したりするのは、ずっとどうかと思ってきた。そんなことをするからかえって気分が重くなるのだろうと思ってきた。しかし加藤和彦の自殺があまりに衝撃的で、それからはこの手の「精神病一覧」も少しは眺めるようになったのである。とりあえず、おおまかな案内をしておく。

「うつ」と気分障害の種類
『うつと気分障害』p48

 単極性障害の大うつには、大うつ病としてメランコリー型うつ病、精神病性うつ病、非定型うつ病、季節性うつ病などがある。小うつではディスチミア(気分変調症)と適応障害がよく知られている。あとで説明する。
 「メランコリー型うつ病」は昔から憂鬱体質として指摘されてきた疾患で、律義で几帳面、責任感が強い性格の持ち主がかかりやすいとされてきた。がまん強いのだ。そのためストレスがかなりたまっている。そしてある時期から早朝覚醒(北杜夫がそうだった)、食欲不振、体重減少、一日の中での気分変調などがおこる。重くなってくるとアンヘドニア(無快感症)になる。ここに幻覚症状、妄想、昏迷感が加わると「精神病性うつ病」と認定される。かつて自分がした行動が気になり、罪業感覚が出入りし、誰かに悪さをされていると思うような被害妄想が出てくる。
 大うつ病では、抗うつ薬が効きにくいということもあって最近注目されているのが「非定型うつ病」(Atypical depression)である。患者もかなりふえているようだ。過眠や過食の傾向があり、体重増加がすすんでいく。そのうち対人感覚が面倒で重くなり、自分は誰かに拒絶されているとか責められているのではないかと思う。学校や会社に行くのが辛くなり、生活上の課題処理も億劫になっていく。斎藤茂太さんが「億劫」をこそ警戒しなさいといった、その億劫だ。そうした兆候が秋や冬に濃くなるのが「季節性うつ病」である。

 小うつ病では、「AERA」がアラサーやアラフォーの女性に多いという特集を組んで話題になった「ディスチミア」(Dysthymia)がある。
 軽症ながら一年、二年にわたって長期化する。なんともいえない抑うつ気分が続く気分変調症である。ぼくの周辺にも数年おきにたいてい何人かのディスチミアがいた。けれどもそこに不安障害などが加わると「二重うつ病」(Double depression)となり、かなり複雑な症状を呈する。十代の子供にもおこる。
 職場や家庭に混乱をもたらすことが多い「適応障害」(Adjustment disorder)は、主にストレスが原因である。家族や上司に反発したり、怠惰になったり、ルールを無視したり、喧嘩腰になる。ストレス因子が取り除かれれば治癒するとされているものの、容易には因子は見つからない。
 こんな具合で、単極性障害であってもまことに微妙な兆候や症状をもつので、以上のように症状名を並べてもなんら理解が深まるわけではないが、これがDSMによるカルテなのである。もう少し、案内を続ける。

 双極性障害(Bipolar disorder)は感情障害である。以前は躁うつ病と呼ばれていた。精神科医たちは「バイポーラー」と言う。躁と鬱が双極的にあらわれるので双極性と名付けられた。
 Ⅰ型とⅡ型があって、Ⅰ型は躁状態がひどい。北杜夫のキタ・モリオ病がⅠ型だった。Ⅱ型も躁と鬱がくりかえされるのではあるが、躁状態がⅠ型ほどではなく、軽躁期には病気とは見えないことが多い。また鬱期は単極性のうつ病とされてしまうことも少なくないが、そのための抗うつ剤を投じると悪化する。開高健がⅡ型だった。
 Ⅰ型のバイポーラーは極端に躁になる。軽はずみになり、怒りっぽく、脱線が目立つ。浪費や借金が平気になって、高価な買い物に手を出す。もともとは慎み深い性格だったのに、奔放な異性関係に溺れたり、不倫に勢いがついたりする。ついには自分は救世主であるとか、誰かの声がするとか、テレビが特別な暗号を送っているとかと思う。ところが鬱期に入るととたんにおとなしくなり、そのかわり自分が嫌になっていく。
 双極性障害は妄想や幻聴による錯乱があるので統合失調症と誤診されることがあるのだが、統合失調症とちがうのは躁や鬱が薄まっていくと、症状はあらわれなくなってくるのである。
 Ⅱ型のバイポーラーは軽躁と鬱がくりかえされる。鬱期はメランコリー型になることが多い。本書によると、早口でせっかちでアタマの回転がよく、飽くことのない野心があって、たえず目標を高く掲げるタイプに多く、だから周囲は異常を感じることが少なく、むしろリーダーシップを求めてしまう。起業家にはふさわしいのだろう。
 けれどもⅡ型の患者は、自分の衝動をコントロールするのがめっぽう甘い。そのため無謀な賭けに出やすくなる。周囲が心配し反対しても弁舌がたつので周囲を説得してしまう。そういう力がありすぎる。ところが何かのきっかけで矛盾する事態に直面すると、急に不安になって鬱期に入ってしまうのである。挫折には弱いわけである。

 うつ病も双極性障害も単一の病名にするには問題がある。実際にもさまざまな合併症がともなうことが多い。アルコール依存・薬物依存・カフェイン依存・ニコチン依存をはじめ、Ⅱ型の場合はパーソナリティ障害、パニック障害、月経前緊張症、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などがまじりやすいという。
 なかでもパーソナリティ障害をかかえもっている症例はⅡ型の三〇パーセントをこえると言われる。
 ぼくはこの病名には抵抗があって、パーソナリティそのものがもともとペルソナ(仮面性)を内包しているのだから、誰だってコミュニケーションに不安をかかえるパーソナリティ障害者だろう、それでいいじゃないか、何か文句があるかと思っていたのだが、境界性パーソナリティ障害(BPD)の自傷行為のことをあれこれ見聞するうちに、なるほどそうとう心を苦しめる障害もあるのかと知るようになった。少女たちのリストカットがその例である。
 境界性パーソナリティ障害(Borderline Personality Disorder)は、自分のボーダーラインをまたいでしまうという症状をもつ。対人関係に破綻がおこりはじめ、何であれ「だめ」と「いい」がスプリット(分裂)してしまう。二極思考が進むのだ。持続する空虚感に苛まれ、衝動性にもとづく行為などが目立ってくる。
 もともとは飲酒や浪費やギャンブルに走ったり、性的放縦や薬物嗜好になったりする傾向と区別がつかないものだったのだが、これが自傷行為や自殺衝動に結びつくと、ボーダーラインの向こうに行きすぎる。
 こうした自己破壊的な行為は自分を壊したくてそうなるのではない。打ち続く不安の波を軽減したくてコーピング(coping=対処する)する。少女たちがリストカットをするのも、それで楽になれると思うからである。痛ましいといえばまさに痛ましいが、本人にとってはそれがソリューションなのである。まことにアンビバレンツで、「ちぐ」と「はぐ」とが交差するような微妙なことだ。

 では、なぜこのように精神疾患が複雑多様におこるのか。「心の傷」とは何をあらわすものなのか。
 われわれの気分や行動をコントロールしているのは、われわれ自身がもっている中枢神経系の活動によっている。一言でいえば「脳」である。そこはコントロールセンターで、一四〇億個のニューロン(神経細胞)が互いに軸索や突起を根っこのように伸ばしあって複雑なネットワークをつくっている。 ニューロンには興奮性と可塑性がある。基本状態ではマイナス七〇ミリボルトの電位に保たれているが、興奮するとプラス五〇ミリボルトほどに電位を急上昇させ、また戻る。このアクション・ポテンシャル(活動電位)がニューロン・ネットワークの中を電気信号(インパルス)として伝わっていく。
 軸索や突起を走ってきた電気信号が次のニューロンに伝わると、いったんシナプス間隙でとまり、ニューロンを興奮させて新たな化学信号の選択をする。電気記号から化学信号へ。これが脳におこって、「心の変化」をもたらしていく。興奮はニューロンの表面にある受容体に神経伝達物質(ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンなど)が結合するとき、細胞表面の小さな孔(イオンチャネル)が開いて、そこからナトリウム・イオンなどのプラスの電荷をもつイオンが細胞内に流れこむことで引きおこされる。
 抑制もおこる。GABA(ギャバ)などの神経伝達物質が受容体に結合すると、別のイオンチャネルが開いて、マイナスの電荷の塩素イオンが流れこんで、ニューロンの放電を抑える。

髄鞘をもつニューロン(神経細胞)の構造図
生物の脳を構成する神経細胞。 核が存在する細胞体、ニューロンの入力である樹状突起、出力部分であるシナプス、 伝送路に当たる軸索がある。 人間の脳の場合にはこの細胞が100億から1000億程度あるといわれている。

 こうして、いつ、どんな神経伝達物質(ニューロトランスミッター)がどのくらい放出されるかということが、われわれの気分や行動のトリガーになっていく。伝達物質はケミカル・メッセージなのである。「心のケミストリー」の因子なのである。そのメッセージに気分のケミストリーが増幅したり縮退したりする。伝達物質の量がふえればメッセージの影響力が強くなる。
 受容体の数がふえるのもメッセージの力を強くする。受容体が多ければ伝達物質がくっつきやすくなり(発効しやすくなり)、信号が伝わりやすくなる。これがニューロンの可塑性というものだ。
 たとえば何かの理由で伝達物質の放出がへったとき、活動性を維持するために受容体の数がふえるということがおこったり(アップ・レギュレーション)、逆に強すぎる刺激が長時間与えられてニューロンが興奮しっぱなしになって感受性を失っていくようなときは(脱感作)、受容体の数をへらす処置をしたりする(ダウン・レギュレーション)。その按配がまことに微妙なのである。

 伝達物質(ケミカル・メッセージ)の量の大小は、中枢神経系の日常状態をいろいろ変化させる。できれば適量が放出されたり抑制されたりするのが好ましいのだが、ときには脱感作やダウン・レギュレーションで反応が低下する。
 そこでニューロンと樹状突起とシナプスの連合帯は、まことに巧妙なしくみを発動させた。放出した伝達物質をすみやかに分解してしまうか、取りこんでしまうようにしたのである。トランスポーターやオートレセプターの工夫だった。実は精神疾患の多くはこのしくみの具合や不具合と密接な関係がある。
 たとえば、アセチルコリンという伝達物質にはコリンエステラーゼという分解酵素があって、余分なアセチルコリンを分解してしまう。ドーパミンやノルアドレナリンやセロトニンに対しては、ニューロンの細胞膜の表面にトランスポーターというタンパク質を用意させておいて、放出伝達物質の過剰や過少に応じてこれを取りこみ、リサイクルできるようにした。

 オートレセプター(自己受容体)のはたらきも巧妙にできている。オートレセプターはニューロンの樹状突起についているもので、自分が放出した伝達物質を自分で感知する受容体である。たとえばセロトニンを放出するシナプスのニューロンの表面には、この放出セロトニンのオートレセプターである1A受容体があり、ここにセロトニンがつくと放出にブレーキがかかるようになっている。
 さらにシナプスの向こう側(後シナプス)には2Aというオートレセプターが配置されていて、こちらでも調整ができる。ニューロンとシナプスと樹状突起のどこかでトランスポーターやオートレセプターが柔かい鍵や鍵穴のようになって、伝達物質の量をコントロールしているのである。
 うつ病では、このトランスポーターやオートレセプターのはたらきに問題が生じているらしい。そこで抗うつ剤はこのはたらきを擁護したり鎮圧させたりすることを工夫した。最も有名な抗うつ剤のひとつであるSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)は、こうして開発された。

 脳内の神経伝達物質の増量や減少ではなく、受容体の具合によってうつ病が引きおこされているという見方は、以前から「モノアミン受容体仮説」とよばれてきた。
 モノアミンというのは、アミノ基を一個だけ含む神経伝達物質の総称で(だからモノ・アミンとグルーピングされた)、アドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、ドーパミン、アセチルコリンなどのことをいう。このうちのアドレナリン、ノルアドレナリン、ドーパミンはカテコール基をもつのでカテコールアミンとよばれる。
 伝達物質にはモノアミン類のほかに、アミノ酸類(グルタミン酸、γアミノ酪酸、グリシン、アスパラギン酸など)、ペプチド類(エンドルフィン、サブスタンスP、バソプレシン、ソマトスタチン、オキシトシン、ニューロテンシンなど)がある。
 一九五六~五七年、結核に効くイプロニアジドや分裂病に効くといわれるイミプラミンが、抗うつ作用をもつと提案された。発見当初は作用機序はあきらかではなかったのだが、その後イプロニアジドにはモノアミン酸化酵素を阻害する作用が、イミプラミンにはノルアドレナリンやセロトニンの再取り込みを阻害する作用があることが発見された。これらによって大うつ系のうつ病がモノアミン類、ノルアドレナリン、セロトニンなどの低下によっておこるという仮説が、そこそこ立証されたのだった。
 これで薬品各社が抗うつ剤の開発をめざし、なかでも選択的にセロトニンの放出にかかわるSSRIが脚光を浴びることになった。セロトニン・トランスポーターにはたらくからだ。

セロトニン神経細胞と自己受容体
『うつと気分障害』p128

 さて、このように脳の中でおこっている現象をあれこれ説明されたところで、セロトニンの量やニューロンのトランスポーターのはたらき具合が「心の傷」の原因だと言われたところで、それで「ああ、なるほど」と納得する者はほとんどいないだろう。
 仮にモノアミン類の化学分子の増減になんらかの原因がひそんでいたとしても(それは確かなのだが)、そのような現象を引き起こしたもっと別の心理的要因がかかわっているように想定したくなる。
 あらためて総合的に見てみれば、心が傷つくのは、傷つきやすくなる現象が先行していたからである。この先行するものとして最も候補に上がりそうなのは、おそらくストレス(stress)である。一九一四年にウォルター・キャノンが何かの不足が精神的な状態を追いつめる作用として提案し、一九三〇年代にハンス・セリエの研究が生理学的なプレッシャーという意味を与えた。
 ストレスという用語は、苦痛や苦悩を意味する“distress”から命名されたのだが、ストレスをおこす要因としてストレッサーを想定したことによって、さまざまなストレッサーの候補群が出てきた。物理的ストレッサー(寒冷、騒音、放射線)、化学的ストレッサー(酸素、薬物)、生物的ストレッサー(炎症、感染)、そして心理的ストレッサー(怒り、不安)などである。

 ストレスは、ふだんはホメオスタシス(生理的な恒常性)を保っている生体に微妙な生理的なアンバランスをもたらしている。それゆえ、それが警戒信号になって、人体はバランスをとりもどそうとする。
 そのつどおこるストレスによるアンバランスは、心拍数、呼吸数、血管拡張、筋収縮、血糖量増加などにあらわれるのが一般的である。脳下垂体から副腎皮質ホルモンにいたる反応経路にも影響を及ぼし、ステロイドホルモンを放出させるのである。ステロイドホルモンには副腎皮質ホルモン(アルドステロン、糖質コルチコイド、アンドロゲン=男性ホルモン)、性ホルモン(エストロゲン、黄体ホルモン)などがある。
 しかしもっと強いストレスが加わると、急性ストレス障害(ASD=Acute Stress Disorder)がおこる。これは「トラウマ」となって急性の高血圧、消化器官の炎症をおこし、のちのちまで感情鈍磨やフラッシュバックや解離症状をもたらす。
 ステロイドホルモンが長期間にわたって分泌されていくと、負の作用がおこり、前頭前野や海馬のはたらきが低下したり、萎縮したりする。ストレッサーの刺激が視床下部から脳下垂体に伝わり、副腎皮質刺激ホルモン(HPA系)が放出されるのである。そうなると、ニューロンの新生にかかわる神経栄養因子(BDNF)の遺伝子のはたらきが抑えられ、それがまた前頭前野や海馬のニューロンにダメージを与えることがわかってきた。
 こうした一連の動きのなかで、セロトニンなどのモノアミン類の神経伝達物質が影響を受けるのである。ストレスこそはうつ病の遠因なのである。うつ病はストレスに対する過剰反応から生じることが多いのだ。

seigow-marking
『うつと気分障害』p126-127

 本書には、もっといろいろの話が丁寧に紹介されている。当然、うつ病の治療法や抗うつ剤の紹介もされているのだが、ぼくの今夜の案内はこのくらいにしておきたい。
 書いていて、あらためて感じたことがある。いろいろあるが、ひとつは、ぼくも気分障害を複合的にもっているだろうということだ。どの症状にあてはまるかということではない。さまざまな「ちぐ」(鎮具)と「はぐ」(破具)が混じっているはずなのだ。「あべ」(彼辺)と「こべ」(此辺)とも混じっている。いまのところは、それでいいと思っている。このことについては『擬(もどき)』(春秋社)に書いたとおりだ。
 ひとつは、ストレスは取り除けないということ、うまく付き合うしかないということだ。だいたいぼくは五十年以上にわたって自分にストレスをかけてきた。それは将棋打ちが長期にわたって盤面展開のストレスに向き合ってきたことと同じで、職人気質の者なら誰だってしてきたことである。
 ぼくの場合は編集ストレスに向き合ってきた。ぼくにとっての編集は矛盾や葛藤をいかす仕事だ。たんなる本づくりではない。編集作業の中にトランスポーターやオートレセプターが出入りしている。いわば農作業のようなのだ。農作業も畑の中のトランスポーターやオートレセプターとずっと向き合う仕事であろう。これに付き合ってきたことで、なんとかここまでやってこられたのだと思う。

 ひとつは、今夜はまったくふれなかったが「統合失調症」のことだ。かつては精神分裂病とよばれてきた精神疾患だ。芥川やムンクや中原中也を襲った。
 この疾患が示しているものは、先にもふれたように「悲しみ」である。中也は愛児の文也を小児結核で喪った悲しみから、「屋根の上に白蛇がいる。文也を食い殺したやつだ」と叫ぶようになった。
 その後、千葉寺療養所に入院するけれど、中也がいなければわれわれは小林秀雄も大岡昇平ももてなかったのである。こういうことをどう考えたらいいか、たいへん迷う。せめて「悲しみ」の研究がうんと深まるのがいいのではないか。戸川純や尾崎豊の歌も、もっと聴いたほうがいいのではないか。
 ひとつは、心理学や精神医学はどこに向かっていくのかということだ。DSMに則ってばかりいて、それでどうするのかという心配だ。これについては別案があるわけではないので、ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』(法政大学出版局)からクリストファー・レーンの『乱造される心の病』(河出書房新社)あたりまでの、ちょっと考えさせる本を、代わりにお薦めしておきたい。バシュラールに学んだカンギレムは「等質」と「異質」のちがい、レーンはDSMを批判して「内気」(shyness)の分析をした。
 ひとつは、空想と解離の関係のことである。空想(fantasy)は幼児から大人まで、ずうっと付きまとう想像力の自由のようなもので、また創造力の源泉のようなものである。空想がなければ、趣味も仕事もままならない。解離(dissociation)は読書や映画に夢中になっているときの心境をいう。空想に耽っていられることである。ところが、その空想からのリリースがうまくできないとき、解離性障害がおこる。心の障害になる。二つはあるところで角を突き合わせてしまうのだ。空想と解離を分けない思想が必要になっていると感じる。

ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』(法政大学出版会)
クリストファー・レーン『乱造される心の病』(河出書房新社)
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)

                                        

⊕ うつと気分障害 ⊕

∈ 著者:岡田尊司
∈ 装丁:鈴木成一デザイン室
∈ 編集:志儀保博
∈ 発行人:見城徹
∈ 発行所:株式会社幻冬舎
∈ 印刷・製本所:中央製版印刷株式会社
∈∈ 発行:2010年9月30日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はじめに―気分に支配される現代社会
∈  第1章 気づかない「波」が人生を翻弄する
∈  第2章 気分障害はどう理解されてきたか
∈  第3章 気分障害の症状と診断
∈  第4章 気分障害のタイプ
∈  第5章 脳の中で何が起きているのか
∈  第6章 何が原因で気分障害になるのか
∈  第7章 なぜ、うつや気分障害が増えるのか?
∈  第8章 気分障害からの回復
∈∈ おわりに―傷ついた人も、立ち直れる社会を

⊕ 著者略歴 ⊕

岡田尊司(Takashi Okada)

1960年、香川県に生まれる。東京大学文学部哲学科に学ぶも、象牙の塔にこもることに疑問を抱き、医学を志す。ひきこもった時期や多くの迷いを経験する。京都大学医学部で学んだ後、京都大学医学部大学院精神医学教室などで研究に従事するとともに、京都医療少年院、京都府立洛南病院などに勤務。山形大学客員教授として、研究者の社会的スキルの改善やメンタルヘルスの問題にも取り組む。著作家や作家・小笠原慧としても活動している。