才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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パパは楽しい躁うつ病

北杜夫・斎藤由香

朝日新聞出版 2009

編集:藤田浩芳
装幀:長坂勇司・石間淳

本書は、最晩年の北杜夫と娘さんの斎藤由香の対談である。なんともいえない屈託対談になっていて、娘のツッコミ、父のボケも絶妙でたいへんおもしろい。あっというまに読める。変てこりんでときに不埒な父ではあったけれど、そんなパパが大好きだった娘さんが、さかんに「攻め」を連発する。けれどもパパは曖昧でナマクラの返答ばかり。とくに……

 北杜夫の父君は歌人の斎藤茂吉である。明治十五年生まれ、伊藤左千夫の門下で、アララギ派の中心になった。
 茂吉は青山脳病院の院長でもあった。明治四十年落成の病院はたいそう堂々たるもので、茂吉の養父の斎藤紀一が広大な敷地に赤煉瓦のローマ式の病棟を巨大な翼を広げるように建てた。ところが大正十三年に失火で全焼し、玉川線開通後の山下駅近くの松原に敷地を得て移転した。このときから四五歳の茂吉が院長になった。
 すでに茂吉は伊藤左千夫や島木赤彦らの「アララギ」に属して、新人歌人として大いに評価を得ていたが、病院運営などにはさっぱり自信がない。戦時中は山形に疎開をした。そこで病院を東京都に委譲することにしたため、青山脳病院は昭和二七年には東京都立梅ヶ丘病院になった。茂吉は精神科医としては失格だろう。短歌は震えるほど冴えていたが、食いしん坊で癇癪持ちだった。

斎藤茂吉(1882-1953)
歌人・医師。山形の生まれ。東大医学部を卒業して精神科医の道に進む一方、伊藤左千夫に師事し歌誌「アララギ」創刊に参加。歌集「赤光(しゃっこう)」により、アララギ派の代表的歌人となる。

開院した当時の青山脳病院(1907年)
かつて東京の青山に所在した精神病院である。1907年(明治40年)に開院すると「ローマ式建築」の威容が地元の名物となり、昭和時代に医師で歌人の斎藤茂吉が院長を務めたことでも知られる。

 北杜夫の兄がモタさんこと、斎藤茂太である。本名はシゲタだが、その風貌からモタさんで通った。明大、昭和医学専門学校、慶応の医学研究科をへて精神医学のセンセーになった。青山脳病院は小さな斎藤病院になっていた。巧まざるエッセイストで、かなりの飛行機フェチだった。息子の斎藤章二も飛行機フェチで、航空自衛隊ブルーインパルスの機体塗装は公募によって章二の案が採用されている。
 北杜夫の本名は斎藤宗吉である。キタ・モリオはペンネームだ。昭和二年に青山脳病院に茂吉の二男として生まれた。いっぱしの昆虫フェチの少年だった(一番好きなのがコガネムシらしい)。
 二・二六事件などがおこった昭和維新の時期は、長野の松本高校で青春にめざめた。トーマス・マンの『魔の山』(新潮文庫)や『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)に感銘してブンガクに開眼し、これはなんとしてでも作家になりたいと思った。しかし怖い父の茂吉から医者になることを厳命されると、東北大学で外科医をめざすことになった。精神科は儲からないから外科だったらしい。
 けれども手術の現場を見て気を失いかけてしまった。血がムリだったのだ。これで首尾よく外科医を断念できたので、慶応でインターンをへたのち精神科医になった。茂吉は宗吉が医者以外の者になるのを許さなかったのだ。
 以上のごとく、斎藤家はいずれも精神科のセンセーなのである。治療力や才能があったかどうかはわからないが、少なくとも資格はあった。茂太に『精神科医三代』(中公新書)がある。
 
 精神科のセンセーが三代にわたれば、どうなるか。当時はドイツ流のカイゼル髭をたくわえた立派な医療一族を形成するか、それとも変てこりんなドグラ・マグラの一家になるかであろう。斎藤家ははいささかドグラ・マグラ化した。家族の日々はうまくいくはずもなく、北はその顛末を『楡家の人びと』(新潮文庫)に書いた。大いに話題になった。主人公は祖父の斎藤紀一だ。
 マンの『ブッデンブローク家の人々』(岩波文庫)を下敷きにした物語になっていて、明治大正・戦前昭和の家族社会が淡々と、かつ静かな異様をもって描かれている。三島由紀夫は「戦後に書かれたもつとも重要な小説のひとつである。この小説の出現によつて、日本文学は真に市民的な作品をはじめて持つた」と述べ、「これほど巨大で、しかも不健全な観念性を見事に脱却した小説を、今までわれわれは夢想することも出来なかつた」と褒めた。
 その北杜夫が壮年期に突如として「躁うつ病」になり、斎藤家は前代未聞の様相を呈することになったのである。精神科医がそんなことになってどうするかと思うけれど、そうなった。いま躁うつ病(躁鬱病)は「双極性障害」という病名に変更されているが、ここではとくに断らないかぎり、躁うつ病のままにする。キタ・モリオを双極性障害の作家などと呼びたくはない。躁うつに悩まされたのだ。

北杜夫と斎藤茂太
揃って作家であり精神科医という異色の兄弟。詩人の父・斎藤茂吉と破天荒な人生を送った母・輝子という特異な親について二人それぞれ本を書いている。

北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)
斎藤茂太『精神科医三代』(中公新書)

斎藤家の人々
左端が北。中央に輝子と娘の由香。右端に斎藤茂太、茂太の左後方が北の妻・喜美子。その手前が茂田の妻美智子。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p43

 本書は、最晩年の北杜夫(二〇一一年に八四歳で死去)と娘さんの斎藤由香の対談である。なんともいえない屈託のない対談になっていて、娘のツッコミ、父のボケも絶妙でたいへんおもしろい。あっというまに読める。
 変てこりんで、ときに不埒な父ではあったけれど、そんなパパが大好きだった娘さんが、さかんに「攻め」を連発する。けれどもパパは曖昧でナマクラの返答ばかり。とくに自分のビョーキについては、娘さんがせっかくの舵取りをしてあれこれ聞いているのに、話はいつも脱線気味になる。だから、なんとも歯がゆいのだが、こんなにいろいろ考えさせられる実の父娘の「精神」の突拍子をめぐる対談はめずらしい。なんだか身近なものに感じられる。
 それに、いま編集工学研究所と松岡正剛事務所は松原六丁目の信号からすぐの赤堤通り沿いにあるのだけれど、この対談にはのべつ「松原の家」が出てくるので、その点においてもぼくにはとても親近感があったのである。ちなみに松原六丁目には肢体不自由者のための光明学園があっって、ぼくはほぼ毎日その角を曲がって仕事場に行く。

昭和36年10月、転居した世田谷区松原の自宅で、妻喜美子と
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p19

自宅近くの世田谷の羽根木公園で由香と山登り
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p23

 それにしても北杜夫の躁うつ病は、躁病期があまりにも破天荒で、その妄想たるや、娘さんが話のつど訂正したり暴いたりしていなければ、とうてい信じがたいものがあるほどだ。発覚したのは次のような朝だった。
 由香ちゃんが小学校一年生だった夏、いつも行っている軽井沢から帰ってきた九月一日、食卓の上の新聞に「喜美子のバカ、喜美子が先に寝やがるから、俺様は蚊に食われたじゃないか!」と書いてあったのである。
 娘がギョッとして、「パパはバカなんて言葉をあまり使ったことがないのにどうしちゃったんだろう」と言うと、ママ(喜美子さん)も「うーん、おかしいわね」と言う。その直後から、急に朝五時に起きるようになったり、「映画をつくりたい」と言い出したりした。チャップリンのような大喜劇映画らしい。
 パパが映画を作ってみたくなってもかまわないけれど、それが大事になると迷惑だ。案の定、資金がかなりいるので「今日から株をやる」と言い出した。パパは証券会社に電話をしまくって、次々に株の売り買いをしはじめた。それまでまったく経験も知識もなかったのに。
 そのうち別人のようになったパパが、「俺様は好きなように暮らすから家を出ていってくれ」と言い出した。これで夫婦別居。娘は家の近くの小学校に通っていたのに、おばあちゃまの家に住ませられ、電車通学になる。

躁病のときに妻宛に新聞紙に書いたメモ
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p149

 お金がなくなってきた。ママが「あなた、いいかげんにしてください」と言うと、「俺様が稼いだ金を好き勝手に使って何が悪い、実家に帰れ」と怒鳴る。ママは泣きはしなかったけれど、悲しんだ。
 ママがおばあちゃまに相談すると、「私も茂吉とうまくいかなかったときに、お父様から看護婦になったつもりでいなさいって言われたのよ。喜美子も宗吉(キタ・モリオ)には看護婦だと思ってつきあいなさい」と諭したようだ。あの茂吉ですらやっぱりどこかがドグラ・マグラだったのだ。
 それでもパパは、ことあるごとに「喜美子のバカ! 遠藤周作さんの家を見ろ、阿川弘之さんの家を見ろ、うちよりもっとひどいんだぞ!」と言うばかりなのである。のちのち由香さんが阿川佐和子に会ってこの話をすると、佐和子さんは「うちの父も、うちなんてましなほうだ、北の家を見ろ、遠藤の家を見ろ、うちよりもっとひどいと言っていたのよ」とバラしてくれた。遠藤周作の息子さんの遠藤龍之介さんにも同じことを聞いてみると、「うちも、そう言っていた」という。ママはなんとか阿川家や遠藤家のことを心の支えにするしかなくなっていた。

遠藤周作氏(左端)宅でのパーティの一コマ
遠藤氏の右から、北の妻喜美子、矢代静一氏、由香、毬谷友子氏、矢代朝子氏、遠藤順子夫人、北、山崎陽子氏。
P107

 異様きわまりない発端だったらしいのだが、母と娘の証言をあらかた総合すると、北杜夫が極度の躁病になる数ヵ月前には、うつの症状が出ていた。
 ただし躁病は夏から秋にかけて頂点に達するのに、冬になるとなぜかシーンと収まってくる。本人も「虫の冬眠」だといばっている。躁病期はとんでもなく高揚するのに、冬場になると地虫のようにおとなしい。だから、いったいぜんたいパパのビョーキが重病かどうかもよくわからない。
 けれども、お金のほうは確実にタイヘンである。出版社から借りたり、銀行に融通してもらったりはしょっちゅうで、もちろん株で儲かるとはかぎらず、ついには預金も底をつく。佐藤愛子にも一〇〇〇万円借りた。ところが、そのお金が入ったときに韓国旅行をしたというので、愛子さんが怒った。香港でハンドバッグを買ってご機嫌をとりなそうとしたら、そのバッグの金具が壊れて、また愛子さんを怒らせた。
 いろいろ話を総合すると、自宅は抵当に入り、自己破産と準禁治産宣告に追いこまれたときは、負債は一億円をこえていた。

躁病のある日
ベッドの上には本や雑誌が散乱している。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p69

夏の軽井沢、大躁病のときの一枚
上半身裸で、頭にはぬれタオルと手には木刀。「スティーブ・マックイーン出演の映画を観ていたら、マックイーンが上半身裸で馬に乗っていて美女と出会ってベッドインした。パパも上半身裸で馬に乗ったら、美女と出会えるから馬に乗る」と言い残し外出したという。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p88

「徹子の部屋」に躁病のときに出演
番組が終わっても話が終わらなかった。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p131

 それなのに家の中は笑いが渦巻いていたようなのだ。周囲も、これは偉大な作家キタ・モリオの壮大なフィクションかトリックのように思ったほどだ。本人も、のちに『悪魔のくる家』などという戯曲仕立てにしたがっていた。
 しかし、本人はある意味では「そのまま」なのである。何が「そのまま」かというと、双極性障害そのままなのだ。『マンボウ恐妻記』(新潮文庫)では、こんな自己観察をしている。ちなみにこの本は最初は『マンボウ愛妻記』(講談社)というタイトルだったが、文庫になったときは恐妻記に変わっていた。

『マンボウ愛妻記』(新潮社)は『マンボウ恐妻記』(講談社)に変更された

 「躁状態」とは。①株にのめりこみ、親戚・友人・出版社から合計一〇〇〇万円以上の借金をする。②衝動的に高額な買い物を繰り返してしまう。③奇抜なアイディアでついつい起業したくなる。④ふだん穏やかなのに、家族に「バカ野郎」「ノロマ」などの暴言を吐く。⑤原稿を普段の五倍程の速度で書ける。
 「鬱状態」とは。①外の世界に興味がなく、絶望感にとらわれる。②一日中着替えられず、布団ですごす。③原稿を書くのが遅く、完成度が低い。④死ぬほど辛い気持ちになる。⑤過去を振り返って後悔ばかりする。
 本人が言っているのだからそうなんだろうが、これで躁うつ病のプロトタイプが示されているのかどうかは、あまり信用できない。なぜなら、この人は患者なのである。精神科医のベンキョーはしたが、自分で自分を治せない。だから説明に説得力があるとは思えない。実際に娘さんと会話をすると、いろいろしどろもどろなのだ。

由香 私が小さいときからパパはずっと躁うつ病が続いたんだけど、歳をとったらうつ病ばかりで、「もう躁病は来ないのかな」と思ってたら、一九九九年に突然、大躁病になったのよね。
北 ……。
由香 二人で競馬見ていたら、サイレンススズカが安楽死させられて、パパが「パパももう原稿も書けないし、生きていてもしょうがないから安楽死させてくれ」と言ったので、私が「サイレンススズカは名馬だけれど、パパは駄馬だからダメ!」って言ったら、元気になった。
北 ……。
由香 それまでずっとうつ病でつまらないなと思ってたから嬉しかったけれど。パパは自分でナマ原稿を売って株や競馬をやってました。
北 いや、くだらないやつだけ。
由香 いくらになったの?
北 うん?
由香 うん? じゃなくて。
北 うん。
由香 担当の編集者の人から四〇万って聞きました。
北 いや、あの、あのときの書庫の改造で、書庫の本をほとんど売らなきゃいけなかった。
由香 棚が減るからってね。
北 そうしたら「少しナマ原稿を売りませんか」って古本屋が言って、かなり売ったのね。
由香 そうとういいのを売ったんじゃない?
北 いや、くだらないやつだけ。
由香 くだらないので四〇万はならないから、大作のナマ原稿を売ってるでしょ?
北 えっ?
由香 だから雑文のナマ原稿では四〇万はつかないわ。
北 いや、なんか、万年筆で書いたものは二倍とか言ってたな。
由香 ママが「競馬のためにナマ原稿を売るなんて、なさけない」と言ってました。

 こうしてついに、あるとき「マンボウマブゼ共和国」の建国宣言をしてしまったのである。そのころ話題になったムツゴロウ王国に憧れてのことだった。
 日本国から独立し、国歌を夕食中に歌いだし、お札を発行し、タバコも専売公社に頼んで急造した。文華勲章を制定して、加賀まりこ、星新一、倉橋由美子、遠藤周作、尾崎秀樹、奥野健男らが受賞の栄誉に与かった。

マンボウマブゼ共和国での様子
昭和55年、日本国から独立。「文華の日」を設定し、自由勝手な理由で人を選定し表彰した。またオリジナル貨幣や国旗もつくった。娘の由香曰く「パパが躁病だと、にぎやかで楽しかったな」。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p111,113

マンボウマブゼ共和国の武器を手にする躁病期の北
自宅の客間において。
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p135

 めちゃくちゃである。めちゃくちゃなのだが、だからといってこれが躁うつ病の典型的な症例などとは、やはり判定しがたい。キタ・モリオ病かもしれない。そもそも本人がなぜこうなったのかが、自分で説明できない。ママも娘も伯父さん(モタさん)も、わからない。
 むろん、自分で説明がつくならビョーキではないのかもしれない。このビョーキは「心の病い」なのだ。心はいつも何かにうんと近寄りたいか、何かからうんと離れたいという傾向をもつ。この超接近と超離脱が、双極性障害では突起する。その突起のときの心のフォローができないから、ビョーキなのだ。
 だったら、どんなときにその症状が突起するのか、由香さんはそこをあれこれつっこむのだが、けれども納得のいく説明が引き出せない。こんな調子だ。

由香 でも、原稿はうつ病のときの方がいいもの書いてたでしょう?
北 いや、そんなことない。
由香 やっぱり躁病の方がいいの?
北 躁病の方が原稿の出来はいい。
由香 ほんとかなあ。担当の編集者の方は「躁病のときは書きなぐっているから、あんまりいいものは書けていない」っておっしゃってました。
北 いやいや、うつ病のときはほとんど書けない。どんよりして。
由香 うつ病から躁病に行く途中の軽躁病のときがいいのかもね。躁病のピークになると……。
北 やっぱりでたらめになる。

 はぐらかしているのか、それとも実情を話しているのか、どうも判断がつきにくい。本人は双極的に躁鬱をくりかえしているので、その両方を制御しながら喋る視点がないのだろう。ニンゲン、もともと起きているときには夢の顛末が語れず、寝ているときは起きているときの意識はトレースしない。
 あるいは、そもそも北杜夫という作家は「どくとるマンボウ」を名のりつづけたように、もう一人のアバターが大好きで、そのため娘に対してさえ、こんな話し方しかできないのかもしれないとも言えた。

『どくとるマンボウ航海記』刊行の頃(昭和35年)
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p59

北杜夫の“マンボウ”シリーズ
1958年、半年ほどにわたって水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、その体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行したところ、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。以来「マンボウ」は北のシンボルとなり、その名を冠したエッセイシリーズが生涯にわたって刊行された。

 しかし、ふだんの北杜夫は明確に「現実」と「夢」についての哲学をもっていた。「生」と「死」についての方針ももっていた。『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫・新潮文庫)には次のようにある。
 「いま、この齢になって私が若い人に言えることは、自殺をするならとにかく三十歳まで生きてみる、ということだ。そこまで生きてからの思想上の死ならまだしも許せる。青年の観念的な死への傾斜は人生の始まりではあるが、一面から見ればその大部分がマヤカシであり、さもなければ病気である。病気は治さなければならない。死というものを常々考えもしない人はまずヌキにして、“死への親近感”から始まった人々が、ついに“生への意志”に到達するのが、あくまでも人間的な生き方というものである」。
 たいへん、まっとうだ。けれども、こういうふだんの北杜夫がビョーキが発症しているときは、何かがとても変なキタ・モリオなのである。

由香 そんなに死にたくなるものなの?
北 うん。罪悪感といって、自分の存在が家族や会社の迷惑になると思い込んでしまうことがあるのね。
由香 うつ病の患者さんはそういう気持ちになるのに、パパはそういう罪悪感とかは?
北 全然ないの。
由香 それはなぜ?
北 わからない。
由香 うつ病のときはどういう気持ちになるの?
北 もうなんにも、言葉を発する気持ちがないぐらいつらい。
由香 自分はだめだって思うの?
北 まあ、その頃は「虫の冬眠」と称して時間が来れば治ると信じていた。ひたすらじいーっとしていると自然に治っちゃう。

 もっといろいろ紹介したいけれど、これが北杜夫とキタ・モリオをめぐる「心の病い」のスケッチだ。
 やはり作家であって精神科医でもあった友人のなだいなだは、「北杜夫は作家としてはたいしたものではないが、躁うつ病を世に広めた功績がすばらしい」と言ったものだった。たしか日本に躁うつ病という用語が出まわったのは、北杜夫によるものだった。この作家は自分のビョーキを隠さなかったばかりか、愉しんだのだ。
 本書は、そういう父親の「心の病い」を娘があからさまに聞き出しているということでも、貴重だ。父からの名答はほとんど得られなかったのだが、親子がそのように躁うつ病を語りあうということに、やっぱり共感させられる。
 蛇足。今日の精神医学界では、北杜夫によるキタ・モリオの躁うつ病は「大うつ」の中の「双極性Ⅰ型障害」であろうと見られている。うつだけの症状になるのが単極性で、躁とうつが繰り返すのが双極性なのだが、Ⅰ型というのは激しい躁と重い「うつ」になる。キタ・モリオの場合は、そこに「季節性うつ病」が重なって発症したらしい。これはめずらしいことではなく、古代ローマでも「冬はメランコリー(憂鬱)、夏はマニー(狂躁)」と言われていた。
 Ⅱ型の双極性障害は軽躁とうつが繰り返す症状である。躁が爆発しないのだ。だから「大うつ」が目立つ。最近はⅡ型がふえているという。開高健がⅡ型だったと聞く。

昭和60年、娘の由香と
『パパは楽しい躁うつ病』(新潮社)p199

⊕ パパは楽しい躁うつ病 ⊕

∈ 著者:北杜夫・斎藤由香
∈ カバー写真:著者提供
∈ デザイン:新潮社装幀室
∈ 発行者:佐藤隆信
∈ 発行所:新潮社
∈ 印刷所:二光印刷
∈ カバー印刷:錦明印刷
∈ 製本所:植木製本所
∈∈ 発行:2014年10月01日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ まえがき 北杜夫
∈ 1章 ああ、懐かしき穏やかな日々
∈ パパとママの出会い
∈ 子どもの頃の原風景
∈ どくとるマンボウ子育て記
∈ 三島由紀夫氏も出席した結婚式
∈ 阿川弘之氏のスピーチ
∈ 楽しかった幼少時代
∈ 青山脳病院の回想
∈ 精神科医になった理由
∈ 東北大学医学部時代
∈ 憧れの上高地の思い出
∈ 新婚時代の穏やかな日々
∈ 2章 ある日、突然、躁病に!
∈ 躁病でてんやわんやに!
∈ 夫婦別居
∈ ああ、「魔の九月」
∈ 3章 ついに我が家は大破産!
∈ 破産宣告
∈ チョジュツギョウって何?
∈ 由香も小学校から寝酒を!?
∈ 救急隊員に飲み物をすすめる
∈ 一緒に躁病を楽しむ娘
∈ どくとるマンボウの株式必勝法
∈ 株の短波放送とクラシック音楽の大音響
∈ ひたすら誇大妄想の日々
∈ 「好きでちゅ、好きでちゅ」
∈ 遠藤周作氏のいたずらの真相
∈ マンボウマブゼ共和国
∈ コロとチャコの物語
∈ 愛犬に英語を教える
∈ 夜中に蛾を夢中で追いかけ回す
∈ 躁病か、うつ病か、それが問題だ
∈ 「徹子の部屋」をジャックする
∈ 熱狂、阪神タイガース
∈ 4章 天然娘と父の爆笑生活
∈ 勉強よりも大切なこと
∈ マンボウ迷言集
∈ 二人で大晦日の買出し
∈ ディズニーランドで遊ぶ
∈ 5章 どくとるマンボウ最後の躁病
∈ 生原稿を売って銀座へ
∈ 馬券売り場での借金話
∈ 救急車騒動
∈ 自殺はしてはいけない
∈ 多くの人がうつ病になってしまう時代に……
∈ うつ病にならないための処方箋
∈ あとがき 斎藤由香
∈∈ 父との最後の散歩 斎藤由香

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

北杜夫(Morio Kita)

(1927-2011)東京青山生れ。旧制松本高校を経て、東北大学医学部を卒業。1960(昭和35)年、半年間の船医としての体験をもとに『どくとるマンボウ航海記』を刊行。同年、『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞。その後、『楡家の人びと』(毎日出版文化賞)、『輝ける碧き空の下で』(日本文学大賞)などの小説を発表する一方、ユーモアあふれるエッセイでも活躍した。父親斎藤茂吉の生涯をつづった「茂吉四部作」により大佛次郎賞受賞。

斎藤由香(Yuka Saito)

成城大学文芸学部国文科卒。サントリー株式会社に入社。広報部に配属されるも、健康だけが取り得ということから、健康食品事業部に異動となる。特技なし、語学力ゼロ、資格免許は自動車普通免許のみ。酒量は楽々ウイスキーボトル1本、激辛、ゲテモノ、温泉が好き。著書に『猛女とよばれた淑女―祖母・齋藤輝子の生き方―』『窓際OL トホホな朝ウフフの夜』『窓際OL 会社はいつもてんやわんや』『窓際OL 親と上司は選べない』『窓際OL 人事考課でガケっぷち』『モタ先生と窓際OLの心がらくになる本』(斎藤茂太との共著)などがある。