才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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山県有朋

半藤一利

PHP研究所 1990

編集:豊島陽一郎
装幀:神田昇和

「あの顔はどうみても冷酷なエゴイストの顔だ」というのだ。ところがそういう山県に、近代日本は「天皇の軍隊」を任すことにした。なぜなのか。山県が強引だったからか。他に人材がいなかったのか。それが日本の宿命だったのか、山県が天皇主義だったからなのか。もしそうなら、どんな経緯でそうなったのか。

 昨今の日本の体たらくを見ていると、こんなふうにツルツルになった政体日本の来し方を、いろいろふりかえりたくなる。宮沢内閣の経済大国主義や小泉純一郎の劇場政治、銀行や証券や教育政策の無策ぶりを咎めたくなったり、日中戦争や太平洋戦争を貪った機運の複合性が気になったりするが、結局ははたして明治維新はあれでよかったのかという疑問に何度も立ち戻る。
 明治国家は列強に伍するために文明開化・富国強兵・殖産興業を謳ったけれど、つまりは早急なグローバル化をめざしたわけだったけれど、ところが明治の日本は黒船以来の「不平等条約の足枷」をはめられていた。そこでこれを撥ねのけようとするにはしたのだが、そのとたん列強のアジア進出やロシアの南下の勢いに巻き込まれ、幕府解体後の近代国家は列強と東アジアとの一触即発の上に設立させることにした。
 そこでいったん征韓論でためらったのち、日清戦争と日露戦争と日韓併合を続けさまに仕掛けてみたところ、これが案外うまくいった。戦費は嵩(かさ)んだけれど、存外に国力があるじゃないか。産業革命も官営と払い下げでそこそこ成功したじゃないか。清やロシアとの戦争にも勝てたじゃないか。

日清戦争(1894-1895) 日本軍歩兵の一斉射
戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上した。賠償金は国内産業の発展に活用されて日本は本格的な工業化の第一歩を踏み出した。

 よしよし、それならもっと領土も拡大できると思ったのだが、むろん列強は甘くない。三国干渉はしてくるし、植民地拡大策として満州国を準備したときは文句もつけてきた。
 ついついノモンハンで走狗となってみると、引き戻せない。慌てて五族協和や大東亜共栄を旗印にしてみたものの、中国は本気で抵抗し、反撃もしてきた。これで日中戦争に突入、引っ込みがつかなくなった。
 方針を転換するか、断念するかしてもよかったろうに、そうしなかった。アジアで戦線を拡大しているところへもって、さらに真珠湾に奇襲をかけて太平洋を獲ろうとしてアメリカとも戦った。結果はご覧の通り、休戦停戦の時期も獲得できず、壊滅させられた。いまや日本はまるまるアメリカの基地列島だ。
 なぜ、こんなふうになったのか、あれこれふりかえってみると、やっぱり明治維新に戻る。あるいは維新政治をつくりあげた担い手たちの思慮と決断とその中身に戻る。また、明治をロマンチックに語りたく思ってきたその後の日本人の心情の検討に戻らざるをえなくなる。

日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン(1945)
正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)という。英国代表のチャーチル首相、蒋介石を含む中華民国のメンバーは参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った。

 明治国家は薩長閥がつくった。薩長は幕府にも藩政にも嫌気がさしていた連中だ。富国強兵・殖産興業はこの連中の野望だった。それを果たすのに王政復古を必要とした。本格的な古代王政の復権ではない。「うわべだけ王政」だ。
 そんなことを誰が仕組んだのかといえば、幕末の志士たちの一握りが企てた。薩長土肥である。龍馬や岩倉や桂小五郎らの顔がすぐに浮かんでくる。
 かれらが選んだカバナンスは君主(天皇)を戴いた「有司専制」である。有司(ゆうし)とは官僚や役人のことだから、今日の用語なら官僚主義体制というものだが、伊藤博文を首相に立てた内閣制度もその中身は有司専制だった。もちろん有能無能のいろいろの有司がいた。それはそれで多士済々だった。岩倉、桂(木戸孝允)がいて、大久保や西郷や江藤がいて、伊藤、山県がいた。
 みんな30代で青雲の志は高く、身を呈して国政を担い、それぞれが大望を抱いていた。ただ、こういう連中のことをわれわれは評価しすぎたかもしれない。ぼくも存分に理解しないままに明治体制を見てきた。忸怩たるものがある。

 維新の有司たちは近代国家を用意し、「天皇の軍隊」をつくり、統帥権という決定(けつじょう)を確立した。そのなかで軍政を掌握し、昭和軍国主義の装置を仕込んだリーダーとして頭角をあらわしてきたのが誰だったかといえば、それが山県有朋なのである。
 山県は日本にはめずらしい絶対主義型の首謀者で、一貫してビスマルクに憧れていた。日本に軍政をもたらしたのは、大村益次郎とそれを継いだ山県だ。その点については司馬遼太郎(914夜)の『花神』(上中下・新潮文庫)などの説明だけではまにあないことが、いろいろある。明治の前歴を刻み込んだ「軍人勅語」「教育勅語」も、山県のもくろみから生まれた。
 明治の政治には多くの犠牲と殺戮と隠蔽がともなっていた。それらがどのようになされたのか、いまだ見えにくいことがかなりある。なかでもとくに山県が見えにくい。そこでこの十年ほどは、ぼくも戊辰戦争、維新における政体論議、徴兵制と軍政の施行、日清日露の紆余曲折、内閣議院制度の内幕、政党政治の出現などなどの経緯を意図的に啄んで、ときおり海舟の『氷川清話』(338夜)などを借りて明治の元勲たちの実像を覗いてきた。

若き日の山県有朋

 ルネ・ジラール(492夜)は「世の始めから隠されてきたこと」として、一に「誰が暴力の発動者だったか」ということ、二に「誰が人知れず犠牲になったのか」ということを喝破した。
 幕末維新にもそれがあてはまる。「隠されたこと」があった。とくに維新前後と大日本帝国の確立にあたっては、軍事軍政の問題が大きく、そこに「隠されたこと」が右往左往した。右往左往の中心のちょっと裏には、たいてい山県がいた。けれどもジラールが言っているように、その動向と実相ははなはだ見えにくい。見えにくい山県のところで、いくつもの紐が絡み、日本権力構造の突出を希う結んで開いてがおこってきた。
 歴史家たちがそういう山県の実像を描かなかったのではない。数々の維新論のなかでの描写や論評はもとより、さまざまなことがいろいろ言及されてきた。山県の人物像や業績に焦点をあてたものもある。杉山茂丸(1298夜)の『山県元帥』(1925)以来、御手洗辰雄、藤村道生、岡義武、松本清張(289夜)などの評伝や著作や小説もあった。ぼくもそれらのペンに従って、少しは山県を追ってみた。
 ところが、どうも肝心のところが見えてこなかった。そこで今夜はひとまず半藤一利さんのものを下敷きにすることにした。

御手洗辰雄『山縣有朋』(時事通信社)(左上) 
藤村道生『山県有朋』(吉川弘文館)(右上)
岡義武『山県有朋』(岩波書店)(左下) 
松本清張『象徴の設計』(文藝春秋)(右下) 

 よく知られているように、半藤さんの書くものは昭和ものが多い。文春編集長時代に「太平洋戦争を勉強する会」を仕立てて、1963年の文芸春秋8月号では28人による「日本のいちばん長い日」を組んだ人だ。おそらくこれがきっかけで、昭和史の深部にのめりこんでいった。
 のめりこんで、いろいろ書いた。発売直後からたちまち話題になって山本七平賞をとった『ノモンハンの夏』(文春文庫)を筆頭に、8月15日に焦点をあてた『日本のいちばん長い日』(角川文庫)、終戦を前にした天皇と鈴木貫太郎の逡巡と決断を如実に描いた『聖断』(PHP文庫)、この十年間ずっとロングセラーを続けている毎日出版文化賞の『昭和史』(平凡社ライブラリー)など、どれも読ませる。
 だから半藤さんのものなら何を千夜千冊してもいいのだが、今夜は上記の理由もあって『山県有朋』にした。

映画『日本のいちばん長い日』(1967年版)予告
監督は岡本喜八。昭和天皇や鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議において日本の降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。第二次世界大戦後70年に当たる2015年に原田眞人監督により再び制作公開された。

 半藤さんは昭和ものは得意だが、明治ものとしては親類筋にあたる漱石(5831309夜)や海舟についての飄々とした随筆を除くと、ほとんど書いてはこなかった。それなのに山県有朋だけは書いた。山県を書かなければ昭和はわからないからだろうと思う。1990年のPHPでの著作だった。
 半藤さんのもので初めて軍政家山県のメリハリが見えた。そういう意味でもこの本が今夜にはふさわしい。
 ちなみにごく最近になって、なぜだかちょっとした山県有朋ブームがおこっている。伊藤隆が編んだ『山県有朋と近代日本』(吉川弘文館)、伊藤之雄の『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)、また井上寿一の『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)、松元崇『山県有朋の挫折』(日本経済新聞出版社)などが連打されている。
 これはきっと、今日の日本が第九条や靖国や尖閣諸島などのモンダイを抱えて難産をくりかえしているとき、これらのモンダイを山県にまで溯って考える必要が出てきたからだろう。

伊藤隆『山県有朋と近代日本』(吉川弘文館)(左上) 
伊藤之雄『山県有朋』(文藝春秋)(右上) 
井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHK出版)(左下)
松元崇『山縣有朋の挫折』(日本経済新聞出版社)(右下) 

 著者の半藤さんについて、もう一言。ぼくが末席を濁している斯界では、半藤一利といえばチョー有名な編集者だった。文春を代表する出版人で、専務取締役までしていた。
 だから1995年に退社するまでは「執筆」はお預けで、もっぱらメディア界を唸らせる仕事に従事していた。月刊文芸春秋と週刊文春を田中健五と張り合いながら編集長を務めたのがよく知られた仕事だろう。ただ、ぼくの好みでいうと漫画読本のほうを買う。
 菊池寛(1287夜)のところでも書いたけれど、ぼくの父は文芸春秋を数十年にわたって欠かさず購読していたほどの文春派だったのだが、中高時代のぼくにはさすがにあまり読めず(対談だけはしばしば読んだ)、ときどき父の書斎の片隅に積んであった漫画読本のほうを盗み読んでいた。この雑誌はオトナの漫画を扱いながらも、いろいろ山葵(ワサビ)や山椒(サンショ)が効いていて、急に洒落たオトナの気分になれた。
 ついでながら半藤さんが漱石の親類筋だというのは、一部ではよく知られているように、夫人が松岡譲と筆子(漱石の長女)の四女だったからである。そんなこともあって、漱石ものも多い。『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫)、『漱石先生大いに笑う』(ちくま文庫)、『漱石先生がやってきた』(学陽書房人物文庫)、『漱石先お久しぶりです』(文春文庫)などなど。

 そういう半藤さんがよりによって山県有朋を書いたというのは、山県が食えない軍人政治家だったから食ってやろうということもあったろうけれど、山県の天皇主義や軍事主義の意図がわからなければ昭和の正体はわからないと感じてきたからだった。
 それに、半藤さんは大の「薩長嫌い」なのである。『それからの海舟』(ちくま文庫)には、「わたくしはどうも生まれつきの勝海舟好きであるようである。東京は向島の生まれ、空襲で焼かれ都落ちして越後長岡の中学校卒、と自己紹介すれば、わがうちなる薩長嫌いは申さずともわかっていただけよう」とある。戊辰戦争で長岡藩を苦しめた「長州の山県」など、とんでもないのだ。それでも山県に対峙してみなくては、明治も大正も見えないし、昭和の軍国主義の奥行きが覗けない。こうして本書が綴られた。

 話戻って、山県という男はたいへん掴みにくい。これまで、研究者や評伝作家たちがみんな苦労してきた。だいたい昔から「暗くて陰湿」「悪人の相」「本音を言わない」などと揶揄されてきた。人気もない。
 大正11年に1月に大隈重信の国民葬が日比谷公園でおこなわれたときは70万人が参列したのに、その20日後に同じ日比谷で85歳で亡くなった山県の国葬のときは閑散としていて、新聞すら「この淋しさ、冷たさは一体どうした事だ。席も空々寂々で、国葬らしい気分は少しもせず、全く官葬か軍葬の観がある」と報じた。
 こんなふうに「官葬か軍葬の観」と書かれたのが、まさに山県の生涯を暗示する。山県は「軍閥の祖」で「軍政元老」であって、親しみをこめて言っても「国軍の父」なのである。
 人柄もわかりにくかった。「味噌とっくり」という徒名がついている。徳利に入った味噌はなかなか出てこない。万事に用心深く、自分から火中の栗を拾う気がない奴だ、そういう脳味噌の持ち主だという意味だ。
 千首近くも和歌(短歌)を詠んでいるわりにはその大半が詠嘆調でへたくそだし(本書も何首か引いている)、書も細長い右上がりで捩れていて、にわかに性格が掴みにくい。司馬遼太郎は『坂の上の雲』や『花神』などの作品のなかで「模倣者、金銭欲の権化」「はらわたの巻き方の複雑な男」「国家的規模の迷信家」などと酷評した。晩年の山県に会った新聞記者の阿部真之助は「多くの人の顔を見てきたが、あんな薄気味悪い顔を見たことがない」と書いた。「あの顔はどうみても冷酷なエゴイストの顔だ」というのだ。
 ところがそういう山県に、近代日本は「天皇の軍隊」を任すことにした。なぜなのか。山県が強引だったからか。他に人材がいなかったのか。それが日本の宿命だったのか、山県が天皇主義だったからなのか。もしそうなら、どんな経緯でそうなったのか。

漫画読本 (文藝春秋)

半藤一利の親族
このほかにも、夏目房之介(義従弟)など遠縁の著名人が多数いる。

半藤一利(1930〜)と著書『それからの海舟』(筑摩書房)

山県有朋公像(山口県萩市 中央公園)
山県は明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いた。

 少し、生涯のトピックを追ってみる。とくに幕末維新の初動期が見えないと、そのあとの動向の顛末がわからない。
 山県有朋が萩の城下に生まれたのは天保9年(1838)である。足軽身分の貧しい家だった。5歳で母を亡くし、13歳のときに打廻手子となった。後添えとしてやってきた継母は意地悪だったらしく、もっぱら祖母の手で育てられた。幼名は辰之助、その後は小助(小輔)というのだが、そのうち周囲から「狂介」と呼ばれるようになった。狂介という通称は山県にふさわしい。
 16歳のときにペリーの黒船が来て、日本中がひっくりかえった。長州藩では村田清風が藩政改革にのりだしていた。そんななか狂介は明倫館の手子役、代官所手子役、目付横目役などに就きながら、岡部半蔵のもとで槍の技を磨いた。槍術(そうじゅつ)を通して武人への憧れが芽生えたようだ。
 安政5年(1858)、長州藩が風雲急を告げる京都に諜報員として杉山松助・伊藤俊輔(博文)ら6人を派遣したとき、狂介はその一員に加えられた。たちまち一触即発の天下の情勢がとびこんできた。志士たちがいることも知った。京都では久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜と出会って勤王の意気にふれて、その国学思想や尊王攘夷論にいたく感動した。
 帰藩後は久坂の奨めもあって松下村塾に入った。それが21歳のときである。スタートは遅い。自分は「文」のほうはからきし苦手なので入門をためらっていたせいだ。それが松陰(553夜)に見つめられて、目が醒めた。すぐに松陰先生は獄死したので、1年程度しか教えを受けていないのだが、それでも山県はその後もずっと自分が松陰門下生であったことを誇っている。

松下村塾

 23歳で父を亡くしたが、世情はそれどころではない。水戸藩士による桜田門外の変がおこって井伊直弼が斬られ、長州藩は「公武合体」を唱えた。狂介も再び京都へ、さらに江戸へと派遣された。
 文久3年(1863)はいわゆる「攘夷の年」である。朝廷が5月10日を攘夷決行日と定めた。長州藩は馬関(下関)海峡での戦闘をととのえ、攘夷決行の当日は通航中のアメリカ商船ペンブローク号に砲撃を加え、5月23日にはフランス艦船キンシャン号に、翌日はオランダ軍艦メジュサ号も砲撃する。しかし藩兵の士気が盛り上がったのはそこまでで、2週間後からはアメリカ軍艦、フランス軍艦が次々に海峡に進攻して、砲台をやすやすと壊滅させていった。
 あまりの「力の差」を思い知らされた。なかで高杉晋作は久坂玄瑞や入江九一らの光明寺党が根強い抵抗を見せたことに注目して、奇兵隊を結成した。待っていたかのように狂介は入隊し、ちょっと功績をあげた。総督が赤根武人で、山県狂介は軍監となり、壇ノ浦支営の司令を任された。
 長州藩では奇兵隊に続いて遊撃隊・八幡隊・集義隊・力士隊などが誕生し、次の一戦にはなんとしてでも「攘夷の一矢」を報いる覚悟が漲っていた。けれども、これは裏目になった。攘夷から開国へと、日本の国策が大転換してしまったのである。朝廷も右往左往だ。
 薩摩と会津が手を組んで、三条実美(さねとみ)らの攘夷強硬派の七卿が朝廷から一掃された。会津藩は1500名、薩摩藩は150名を動員していた。いわゆる「八月十八日の政変」だ。これで攘夷派の本山じみていた長州が揺れた。
 久坂のようにただちに京都出兵を唱える者もいたが、保守派は自重を促し、高杉や桂小五郎もいまは幕府と対決する実力を養うのが先決だと考えた。
 そこへ池田屋事件だ。勤王の志士たちが新撰組に襲われた。藩論は一転硬化し、元治元年(1864)6月に京都出兵を決めた。長州軍は大挙して入洛をはかるのだが、結果は禁門の変(蛤御門の変)である。会津藩士が守る御所に大砲を打ち込み、逆に追い散らされた。長州は朝敵になる。
 このことで幕府に口実ができた。家茂は長州征討を朝廷に奏上し、36藩の大名たちに出兵を命じた。

 このあと長州はまたまた混乱し、二転三転する。長州の幕末維新はけっして一様ではない。バラバラだ。幕府に恭順しようとする赤根武八を総監とする「俗論党」と、高杉をトップとする抵抗派の「正義党」が対立し、そこへもってきて英仏蘭米の四カ国連合艦隊が長州の攘夷決行に対する打撃のために下関沖に放列を並べた。
 あわてて留学中のロンドンから帰ってきた伊藤と井上聞多(馨)は国内戦闘の無謀を説き、藩論はなんとか和議に向かったのだが、時すでに遅く、戦端がひらかれて長州は惨憺たる敗北を喫する。
 家老たちは切腹させられ、その首が征長軍の本陣に送られた。責任者は次々に斬首された。高杉が「このままでは長州が滅びる」と思ったのは当然だ。それなら、どうするか。外へは打って出られない。高杉の決断は「内部の敵を叩く」であった。この方針に力士隊を率いていた伊藤が賛同し、そこに遊撃隊も加わって、俗論党を討伐することになった。味噌徳利の狂介もさすがに覚悟した。こんな都々逸をつくっている、「粋なこの世に生まれたからは意気な人だといはせたい」。つまらない都々逸だが、この通りの心境だったのだろう。
 奇兵隊の進撃はめざましい。ついに俗論党は力が尽き、長州はふたたび尊王攘夷の旗印を掲げた。慶応元年(1865)になっていた。狂介は28歳。可愛がってくれた祖母が自害した。

奇兵隊軍監時代の山県

 幕末はひたすらめまぐるしい。明治維新に向かって大きなシナリオがあったためしなど、なかった。右顧左眄・右往左往・左見右見、ともかく行き当たりばったりだ。短慮果敢、陰謀即断も多かった。ようするに幕末日本はでたらめだったのである。
 それでも日本が維新にこぎつけられたのは、ロシアの南下、普仏戦争の動き、アメリカ太平洋戦略の策動、朝鮮と清の極度の不安定といった外的状況が、踵を接するように風雲急を告げていたことによる。
 この火急の時期に、幕府は喘々(ぜいぜい)して呼吸困難になっていた。この体たらくを見た各藩がいきりたつのは当然である。長州もそうした。幕府は対外政策より、そちらのほうに目くじらをたてた。
 幕府はうるさい長州に鉄槌を食らわしたくて、第2次長州征伐を決意した。長州のほうは西洋兵学を講じていた大村益次郎(村田蔵六)に軍の総指揮を委ねた。このとき裏側では坂本龍馬が動いて薩長密約を準備していた。
 こうしてついに幕末史の決定的な瞬間がきわどくおとずれた。慶応2年正月、長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷吉之助隆盛(1167夜)のあいだで、両藩連合の正式交渉が成立した。なんとかまにあったというか、なんとも名状しがたい野合で乗り切ったというかは、大いに意見が分かれる。半藤さんは「坂本龍馬と中岡慎太郎の大陰謀だった」と書いている。
 そんなことはつゆ知らぬ幕府は6月に長州再攻撃の命令を発するのだが、今度は軍事の才が高い大村をトップにすえた長州軍のほうが優勢だった。すでに桂が伊藤と井上を走らせて、長崎の戦争商人グラバーからミニエー銃4300丁、ケベール銃3000丁を購入もしていた。

小倉付近の陣中で記した政府への意見書
慶應2年、29歳時の筆

 慶応3年10月、朝廷はついに薩長両藩に倒幕の密勅を下した。会津・桑名の両藩を誅戮せよという勅書も渡された。孝明天皇が没し、15歳の明治天皇が即位した。一方、幕府は勝海舟らが時勢を読んで、徳川慶喜が大政奉還を申し出た。一抜けた、である。
 長州は俄然、燃えていた。単独出撃をしかねない。大村が出撃を戒めたが、狂介はめずらしく即時出兵を強調した。けれども大勢は西郷が指揮する討幕軍が迅速に行動をおこし、追われた会津・桑名の軍勢が退くと、慶応4年正月があけて鳥羽伏見の戦いに、さらには西軍が東軍を蹴散らしていく戊辰戦争に、一気に転じていったのである。
 狂介は西軍が江戸に迫った3月に、奇兵隊の主力を率いて京に入り、4月中旬に無血開場がおわった江戸に凱旋した。 
 しかし佐幕派(東軍)のほうはまだ戦闘をあきらめない。奥羽列藩同盟の準備も進む。徳川がダメなら各藩が抵抗する以外ない。戊辰戦争が進んでいった。

 勤王派(官軍)はそんな抵抗なら一気に潰せると見ていた。岩倉の画策が功を奏して「錦の御旗」を捏造すると、あたりかまわず蹴散らしていく。
 ぼくは子供のころに時代祭の先頭を行進する「ピーヒャラ、ドンドコドン」の彰義隊の勇姿をカッコいいと見ていたものだが、実際にはこのときの官軍の異常は目にあまるものがある。その一端については、長谷川伸の『相楽総三とその仲間』(854夜)などに述べておいた。
 征東大督府は参謀に前原一誠・吉井友和・黒田了介(清隆)に狂介を加えて、北陸道の鎮圧に向かわせた。西郷は狂介に言った、「越後口まで追い詰めても、長岡藩とは決して戦うな」。西郷は長岡藩の小林虎之介・河井継之助・鵜殿春風らが築きあげた「常在戦場」の力を知っていたのだ。
 が、狂介は気負っていた。越後高田に到着すると、すぐにでも越後攻略を敢行したがった。この気配を察した河井継之助は小千谷(おじや)の西軍本営に出向いて中立歎願の工作と収拾をはかるのだが、土佐の板垣退助などは「徳川は馬上で天下をとったのだから、悔しくば馬上で闘ってみよ」と居丈高である。岩村精一郎は河井を一蹴し、かくて長岡での戦端が開かれた。
 この場面については、長岡育ちの半藤さんは手を抜けない。山県と河井の戦い方を詳しく描写する。結局、31歳の山県が援軍を得て42歳の河井の戦力を打ち砕く。

渡欧時、長崎で撮影された山県一行
明治2年6月、右より2人目が山県、3人目が西郷従道。

 事態はどんどん驀進する。明治2年3月に東京遷都。5月には箱館五稜郭の陥落だ。土方歳三が戦死した。
 そんなとき狂介は以前から望んでいたことだったようだが、洋行のチャンスを得た。それで慌ただしくもパリ、ロンドン、ベルギー、オランダをへてベルリンに入った。狂介はビスマルクの鉄血が濃いことにかなり感銘している。
 彼の地では同行の西郷従道と語りあった。「日本も徴兵制を導入して、軍備力をたかめなければならない」「日本には王政と軍隊が結びつかなければならない」。狂介はビスマルクの魂胆に比肩しうる「日本の軍事づくり」にめざめていった。ここに山県狂介は極度に愛国的で、国粋軍事的な山県有朋になっていったのである。

 明治3年、山県は帰国して兵部少輔を拝命した。兵部省(今日の防衛省)を牽引するのは大村益次郎の役割だったのだが、ところがその大村が京都木屋町の旅館で刺客に殺され、46歳の生涯を了えた。『花神』に詳しい。
 ここでお鉢が山県にまわってきた。山県は大村がいささか武士道に加担しすぎる軍政論を主張していたのを訂正して、むしろ西郷を立てて士族たちの懐柔を負担してもらい、国軍づくりを準備するという魂胆をもった。これは、まずは「御親兵」づくりをしようというものだ。岩倉具視、大久保利通に勅使になってもらい、自分もそこに加わって鹿児島の西郷の説得に赴いた。
 「よかごわす」。西郷の一言で御親兵(近衛兵)づくりは決まった。西郷は参議となった。これを機に新政府は廃藩置県を断行する。サムライ解散だ。各藩はもちろん憮然とする。そんなふうに全国に40万人はいるとみられた不平士族を抑えるにも、このとき西郷が必要だったのである。
 こうして御親兵づくりが進捗した。のちに子爵となった鳥尾小弥太は「大御変革、御手順」が首尾よくすすんでいることに満足した。イギリス公使パークスは「ヨーロッパでこんな大変革をしようとすれば、どうしても数年間の戦争が必要だろう。日本ではただ一つの勅諭だけで270余藩の個別実権が統合できるのか」と驚いた。
 山県は兵部大輔に昇格し、国軍の準備の第一歩が踏み出され、陸軍中将になった、34歳である。

 日本の軍隊は、当初は大村の方針にもとづいてフランスの軍制に傾き、のちにドイツ式に変更するというふうに進む。
 最初は東京・大阪・小倉・仙台に鎮台(ちんだい)をおき、そこそこの常備兵を配備して、西周が起草した「国軍の読法」を配布することにした。これで徳川時代のいっさいの藩兵が消滅していった。ここから徴兵制に向かい「富国強兵、国民皆兵」を狙う。これが大村のマスタープランだった。『兵部省前途の大綱』に書いてある。
 ただあまりに急ぎすぎて、46歳で命を落とした。西郷というスペキュレーションの札をつかわなかったのも手落ちだった。山県はそこを見て「大村の大綱」の改良的実現に向かった。
 そんな山県も一度つまづいた。山城屋事件だ。御用商人の山城屋(野口三千三)に山県が工面した60万円ほどのカネが渡っていて、その説明ができなくなった。山県は自分は関与していないとシラをきり、しばらく沈黙を守って近衛都監の座を西郷に譲った。
 こういうときの山県は恐ろしいほどにリアリストとして機能する。部下や仲間の「尻尾切り」だって平気なのである。権力の掌握をあきらめていないからである。そして、ほとぼりがさめると、逆襲に出る。だいたいがそういう人生だ。

1872年時の国民軍
士族反乱である佐賀の乱や西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とし、徴兵制度の施行に伴い体裁を整えていった。

 山城屋事件で追及を免れたとしても、道義的な責任をとるしかないと踏んだ山県は、近衛都督を辞任してしばらく沈黙を守った。後任は西郷になった。近衛兵団はもっぱら薩摩系でつくられていたからだ。
 逼塞しながら、山県は逆転のシナリオを考えた。自分が政界や軍政に躍り出るには、近衛兵団を弱体化させておかなければならない。それには四民平等を旗印にした徴兵制を持ち出すのが一番だ。さいわい川村純義と西郷従道が薩摩でありながら徴兵制の建議派である。これをとりこんで推進していけば、自分が陸軍省をつくっていったときのボスになれる。姑息なシナリオだったが、だいたいはそういうふうに進んだ。
 明治5年、国民皆兵の徴兵制が公布された。多くは農兵だったけれど、これで平時38000名の、戦時46000名の兵数を動員することができるようになった。山県にチャンスが近づきつつあった。ただ、事態はじりじりとしか展開しない。翌年に政府の内部が征韓論をめぐって大いに揉めた。とたんに自分の意向が理解されなかった西郷や板垣らが下野してしまった。後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らも降りた。「明治6年の政変」である。
 日本の来たるべき軍事組織はここで大西郷を欠くことになり、下野した板垣・後藤・副島は自由民権運動に転じ、江藤は佐賀に戻って反政府の狼煙をあげるようになっていったのである。

西郷隆盛の生涯を描いた錦絵『西郷隆盛前功記』の「征韓議論図」

 大久保が鹿児島に下野した西郷の動向に不穏な疑問をもつと、ここに「西郷討つべし」の機運が高まり、明治最大の内戦「西南戦争」に突入する。あたかも薩摩を長州が討つという構図だ。このとき打倒西郷のために軍隊を総指揮したのが山県である。
 西郷が自決して西南戦争はおわった。陸軍省は参謀本部を設置して、山県が初代本部長に就いた。三宅坂の上に新築された参謀本部はイタリアのカペレッチの設計の白亜の殿堂となった。
 山県は自由民権運動の気運が軍部に入ってくることを極端に警戒した。参謀本部の次長となった大山巌と腹心の桂太郎とで、軍人の規律をつくろうと考える。西周(にし・あまね)に起草させ福地桜痴が加筆して、井上毅が法的字句を修正した「軍人訓戒」を配布して、軍記の引き締めにとりくんだ。福地は「世論は惑はず政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節を守り、義は山岳より重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」と潤色した。
 これは日本最初の軍人主義の標榜である。このあと陸軍大臣になる大山巌にシンボライズされるように、「日本の軍人像」はここに起点を発した。陸軍士官学校、陸軍幼年学校を独立組織とし、海陸軍刑法を陸軍刑法と海軍刑法に分離し、東京招魂社を靖国神社と改称させもした。伊藤博文はこうした「山県の軍隊」を容認した。

参謀本部長時代
明治13年、43歳

 軍人主義とは軍拡主義である。これに対して「軍部はむしろ政治や政治家と一体になって国政を指導すべきだ」という反対派が登場してきた。中心に鳥尾小弥太・谷干城・曾我祐準・三浦梧楼の四将軍派がいた。
 山県は「軍人訓戒」に続いて「軍人勅諭」を配布して、もっと過激に軍部独立主義を強調するのだが、四将軍派は小規模な軍隊だけを国内におき、防衛に徹することを提案した。これには明治天皇が賛意を示した。山県・大山の軍拡主義は劣勢にまわったのだが、そこへ桂が招いたドイツ帝国軍人のクレメンス・メッケルが、強烈な軍事戦略論を披露した。それをきっかけに四将軍派が崩れていった。山県・桂・大山もそのようになるように工作した。
 抵抗派がいなくなると、山県を中心として桂、児玉源太郎、岡沢精、中村雄次郎、木越安綱らが寄って、陸軍の派閥が形成されはじめた。参謀本部は軍事組織の色を濃くし、のちにこれに倣った海軍軍令部もできた。
 一方、伊藤が憲法調査のため海外出張した折りに、山県は参事院議長のポストを踏襲し、続いて内務卿に転任していた。明治18年(1885)に伊藤が初代の内閣総理大臣になると、内務大臣として地方自治を担当するようになった。芳川顕正を次官に、清浦奎吾を抜擢して警保局長に、福島事件で鬼県令の悪名をあげた三島通庸を警視総監に配した。陸軍大臣には大山が就いた。

ベルリンで憲法発布をむかえた山県
明治22年、52歳

 一言でいって、山県の国づくりの大要は陸軍を核とした軍事日本の確立と、そして列島の市町村づくりにあった。複雑なものではない。たいへんシンプルだ。最近の小泉親子を想わせる。陸軍はドイツを真似たが、自治体制もお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵、野村靖らを委員として、ドイツをモデルにその修正日本版に徹した。
 これはフランス式の市民サービスを重視する地方自治ではなく、全国に警官を駐在させる「強い保安サービス型の日本づくり」だった。そのため帝国の統制がとれるような、目が隅々まで行き届く人のピラミッドが必要だった。そこで市町村に急速な合併が進み、それまでの7万市町村が一挙に1万5000にまで統合された。「明治の大合併」だ。
 こうして明治の国家社会は丸刈りになったのだ。かつての村落に継承されてきた社会習俗や伝承文化が置き去りにされた。この置き去りを心配をして登場してきたのが、新渡戸稲造(605夜)の地方学(じかたがく)や柳田国男(1144夜)の郷土学である。のちの「一国民俗学」になる。

教育勅語

 山県は明治24年に内閣総理大臣になった。同時に陸軍大将にもなった。ついに頂上にたどりついたのだ。51歳だ。明治の合言葉は「立身、立国、立憲」である。山県はこれを掌中にして明治国家の最高地位に就いた者として、第1回衆議院選挙を迎え、最初の帝国議会に臨んだ。
 鼻高々だったろうが、その政策は呆れるほどにはっきりしていた。現実政治に対しては「超然主義」をモットーにして、主たる計画は軍備拡張に向けたのである。なかでも主権線(国境)だけでなく、利益線(朝鮮半島)の確保もするべきだと主張したのが決定的だった。ついでは教育勅語を発令した。
 教育勅語は元田永孚(もとだ・ながざね)の「教学大旨」を下敷きにしたもので、これに子分の井上毅をして手を入れさせ、「利益線を保護する外政にたいし、必要欠くべからざるものは、第一兵備、第二教育、これなり。国民愛国の念は教育の力をもって、これを養成保持することを得ほべし」というものにしていった。発布するにあたっては、文部大臣を優柔不断な榎本武揚から自分の子分の芳川顕正にすげかえた。
 半藤さんは「山県内閣の成し遂げた最大の仕事は、明治23年10月30日に煥発されたこの勅語にある」と書く。

 総理大臣の在任期間は1年5カ月だったが、帝国議会をスタートさせたことで山県の政治家としての名は上がり、伊藤博文とともに藩閥政治の領袖となった。天皇の信任も得て、元勲(元老)にもなった。
 明治27年(1894)は56歳になっていたが、山県は日清戦争の第一軍司令官として先頭に立った。「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示した。ともかく戦乱には元気なのである。
 ただ途中で体調を崩して、天皇から病気療養で帰国しなさいと呼び戻され、はらはらと涙したという。もっともこの涙については三浦悟楼が「伊藤の流す涙はほんとうの流だが、山県の涙はあてにはならぬ」と揶揄された。どうも、いつまでたっても人気がない。
 日清戦争の勝利は山県の夢の一端を実現するものだったが、三国干渉は日本の実力がまだまだたいしたものではないことを露呈した。明治日本は臥薪嘗胆を余儀なくさせられる。山県と川上操六は「臥薪嘗胆も十年まで」と言い、捲土重来を胸に秘める。
 その十年は当時の言葉で「戦後経営」というものになったのだが(日清戦争の戦費は3億円を突破した)、日本が資本主義的な蓄積を始めること、産業革命の推進力をつけること、さらに強力な「天皇の軍隊」をつくりあげることの、十年になる。
 それとともにロシアが日本を仮想敵国とみなしつつあったことに対して、緊急の対策を講じる必要があった。山県はペテルスブルグのロシア新皇帝ニコライ2世の戴冠式に参列し、特命全権大使として対ロシアの戦争を予感する。
 すでにロシアはハバロフスクから満蒙に及ぶ満州鉄道の建設を計画していた。どこかで日本とぶつかるのは必至だ。山県は朝鮮半島をめぐる出入りについて協調を欠かさないという山県・ロバノフ協定を結び、大日本帝国利益線のための伏線を用意した。だとすれば、このあとの日露戦争は、山県にとっては想定内の仕上げだったのである。

明治33年(1900)の日本軍

 日本の最初の政党内閣となったのは第1次大隈重信内閣だ。自由党の板垣と進歩党(立憲改進党の後身)の大隈が合同してつくった憲政党内閣である。山県はこれを「ああ、これで明治政府は落城した」と評した。「政党内閣なんて、わが国の国体に反するものだ」とも言った。
 山県は何人もの自陣の閣僚を送りこみ、大隈をゆさぶった。それかあらぬか大隈内閣は4カ月で自壊し、山県が第2次山県内閣を結成した。還暦をすぎた61歳になっていた。治安警察法を制定し、行政機関や官吏組織に政党勢力が侵入してくるのを防ぐ文官任用制の改正を断行した。まるで現人神(あらひとがみ)のための体制づくりだ。
 これにはさすがに板垣や伊藤が怒った。伊藤が立憲政友会を結成したので、山県は「だったら伊藤がやれよ」と内閣を降りようとしたが、義和団事件(北清事変)が勃発したため、なおしばらく首相にとどまり、その後に辞表を提出すると、後継首班が決まる前にさっさと引き払った。
 やむなく首班となった伊藤の第4次伊藤内閣はいやいや引き受けたせいもあるけれど、山県閥が強い貴族院によっていいように翻弄され、たった7カ月で解体した。もっとも、これで憲政党と政友会による二大政党時代の下地ができた。しかし山県はそんなことにはまったく関心がない。どうしたらロシアが叩けるか、そのことを考えていた。
 山県は日英独が同盟を結んでロシアに対抗するという案で、伊藤や井上馨は日露協商によって事態の打開をはかるべきだ考えていた。頑固だった山県に対して、伊藤は融通無碍なのである。内閣は山県の子分の桂が担当した。小村寿太郎がイギリスとの交渉に当たることになった。

 明治35年、日英同盟が調印された。山県の読みが当たったのである。これを背景に栗野慎一郎駐露大使がロシアに対する満州と朝鮮半島に関する権益の交渉を開始した。
 しかし、ロシアは交渉は朝鮮半島だけのことであって、満州に日本の権益外であると撥ねつける。のみならず朝鮮半島も北緯39度以北を中立地帯にすると言い出した。ようするに満州からも朝鮮半島からも手を引けというのだ。
 これでは戦端を開くしかない。ただ日本の陸軍は12個師団しかなく、ロシアは70個師団である。海軍も6対12、総トン数もロシアが2倍以上だった。さすがの山県も自信がない。それでも御前会議は日露開戦に踏み切った。大山巌を元帥に、山県は天皇がそばにいてほしいということで、参謀総長として残ることになった。
 苦戦のすえ、ぎりぎりにバルチック艦隊を破った大日本帝国は、日露戦争に勝利した。明治天皇が53歳、伊藤が64歳、井上・松方が70歳、山県・大隈は67歳になっていた。
 ポーツマス講和会議が始まると、山県は「戦後経営意見書」を天皇に提出し、ロシアの受けた打撃が小さかったこと、復讐戦争が近いだろうこと、日露再戦に備える軍備拡張が必要なことを説いた。この意見書は明治40年4月の「帝国国防方針」に採り入れられた。参謀本部の田中義一が起草したものだ。
 このとき陸軍がロシアを仮想敵国としたのに対し、海軍はアメリカを仮想敵国にした。このちがいが、その後の日本の運命を左右した。

日露戦争時、旅順を攻める乃木希典に贈った漢詩

参謀総長時代
明治37年、67歳

 明治は幕を下ろそうとしていた。伊藤がハルビンの駅頭で安重根(アン・ジュンコン)の弾丸を貫かれて暗殺された。新聞も国論も「韓国併合すべし」に走った。桂内閣は武装する韓国人義兵の抵抗を鎮圧し、明治43年8月、全朝鮮の植民地化が仕上がった。山県・桂の設計通りだった。
 翌44年、幸徳秋水らの大逆事件がおこり、被告たちの死刑が遂行された。山県は新たに胎動しつつあった労働運動や社会主義運動を腹の底から嫌っていた。天皇暗殺などもってのほかなのである。半藤さんは、こう書いている。
 「山県にあっては、天皇はますます神聖視されなければならなかった。かつ現人神として、天皇という枠や人間性を超えてひきつける力、すなわちカリスマ性を備えてもらわねばならなかった。カリスマ的な天皇は、存在がそのまま国の秩序を形成する。山県はそのことに全精魂を傾注し、全知全能をしぼって、大日本帝国を完成させてきた。日露戦争後、在郷軍人会を組織させ、青年団を再構成させたのも、そのためだった」。
 一方、漱石は明治45年6月の日記にこう書いた。「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴えて敬愛の念を得らるべし。それが一番堅固なる方法なり。それが一番長持のする方法なり」。
 7月30日、明治天皇は崩御した。乃木希典夫妻がこれを追って自害した。鴎外(758夜)は中央公論に『興津弥五右衛門の遺書』を書くと、その後は歴史小説にのみ集中するようになった。
 時代は明治から大正に移る。山県はなお11年を中央から一歩も退かなかった。ただ、最後の最後になってその威力が殺がれる事件がおこった。宮中某重大事件である。

宮中某重大事件を報じる東京朝日新聞(1921年2月11日)

1924年(大正13年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と同妃良子女王

 山県にとって天皇家は最大の敬愛の的であり、皇室を確固たる日本の牙城にすることは使命でもあった。けれども大正に入ると、いろいろ暗雲が垂れ込めてきた。大正8年(1919)には大正天皇が日光で神経痛の発作をおこし、背負われて帰ったがやがて精神疾患を発症し、翌年7月には「御発言に障害起り御明晰を欠く事これあり」という公表がされた。
 そこへ、時の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王の家系に色覚異常の遺伝があるという噂がたった。山県はさっそく首相の原敬と宮内大臣の中村雄次郎に相談し、メンデル派の医者を集めて検討させた。噂は事実のようだった。宮中某重大事件の発端である。
 山県はこの報告にもとづき、良子女王の父の久邇宮邦彦王に婚約を辞退することを勧告したのだが、久邇宮は譲らず、「御婚約の破棄ということになれば良子を刺し、私も切腹致しましょう」という決意を示した。杉浦重剛の擁護発言に続いて、東郷平八郎、頭山満(896夜)らも婚約成立を迫り、山県は窮地に立たされた。大正10年、宮内大臣も婚約内定に変更がないことを発表、ここについに山県は決定的に孤立したのである。
 半藤さんは、これは「最後の薩長対決」だったと書いている。良子女王の母親が旧薩摩藩主の島津忠義の娘だったからである。 
 宮中某重大事件のあと、山県は「おれは勤王に出て勤王に死んだ」と言って、その後は臥せるようになった。大正10年11月4日に原敬が東京駅頭で暗殺されたときは、小田原の古稀庵の病室にいた。古稀庵は、東京の椿山荘、京都の無麟庵につぐ山県自慢の別荘だが、冬は厳しく、翌年2月1日に息を引き取った。享年85歳だった。
 ふりかえって、大日本帝国の創作者はあきらかに伊藤博文と山県有朋だった。半藤さんは書く、「その伊藤も後世に与えた感化力からいえば、山県にはるかに及ばない」。「山県のつくったものは永く存在し、国家を動かし、猛威をふるった。民・群にわたる官僚制度であり、統帥権の独立であり、帷幄(いあく)上奏権であり、治安維持法である。なかんずく現人神思想である」。
 まさに、そうである。日本は山県の描いたシナリオに乗ってずっと動くことになったのである。長州のシナリオでもある。その長州から8人の首相が出た。伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三だ。岸の弟が佐藤、岸の孫が安倍である。維新の跳梁はいまだ止まず、だ。

晩年の山県
大正10年、84歳

神田川から臨む椿山荘
東京都文京区の小高い丘に建つ宴会施設・ホテルを擁する庭園。敷地内には大規模な宴会・コンベンション施設を持つホテル椿山荘東京を併設している。

無鄰菴
京都市左京にある山県有朋の別邸。七代目小川治兵衛による庭園がある。

晩年を過ごした古稀庵(神奈川県小田原市)
明治40年(1907年)、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造2階建ての洋館(伊東忠太設計、1909年竣工)、レンガ造平屋建の洋館(ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた。
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)

⊕ 山県有朋 ⊕

∈ 著者:半藤一利
∈ カバーデザイン:神田昇和
∈ 装幀者:安野光雅
∈ 発行者:菊池明郎
∈ 発行所:筑摩書房
∈ 印刷所:三松堂印刷
∈ 製本所:三松堂印刷
∈∈ 発行:2009年12月10日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 序章 萩の町にて
∈ 第一章 奇兵隊の軍監
∈ 武芸をもって一身を立てん
∈ この棒はお前だよ
∈ 常に奇道を以て勝を制す
∈ 尊攘の大義を貫徹するのみ
∈ 生きるも死ぬもこの一戦
∈ 天下を泰山の安きに措くべし
∈ 第二章 越の山風
∈ 脱走してでも京へ赴くのみ
∈ 弓矢の道の命ずる通り相手仕ろう
∈ 戦さは物見遊山とは違うぞ
∈ 平家の軍勢のみ笑うべきに非ず
∈ 第三章 陸軍の建設者
∈ 昔は天子様の兵隊だったのだ
∈ 御親兵はいずれの藩臣にあらず
∈ わが輩のほうはよかでごわす
∈ ああいう男の命令がきけるか
∈ 兵農を合一にするの基なり
∈ 目の黒いうちは所信は曲げん
∈ 予と西郷とでは井目の違いがある
∈ 翁を知る、余に若くはない
∈ 第四章 天皇の軍隊
∈ 陸軍はまさに長ずる少年のごとし
∈ 政府を転覆せんとするのほかなし
∈ 天子は兵馬の元帥にして
∈ 鯰のひげもピーヒャララ
∈ 軍隊という仏に魂を吹きこんでくれ
∈ 朕は汝等軍人の大元帥なるぞ
∈ 第五章 軍事国家への道
∈ 政党処分は一刀両断の措置これなり
∈ 板垣は果敢断行の気象に乏しいと見える
∈ これも条約改正のためである
∈ 命令に抗するものは殺傷するもやむをえぬ
∈ 北門の強敵日に迫らんとするとき
∈ 他に良策あるなきをいかんせん
∈ 百年の長計、遅疑するなかれ
∈ 天皇は陸海軍を統帥す
∈ 主権線を防禦し利益線を防衛する
∈ 一旦緩急あれば義勇公に奉じ
∈ 第六章 二つの戦争
∈ 山県の涙はあてにはならぬ
∈ 朕の戦争でなく大臣の戦争である
∈ 生涯のもっとも会心の日
∈ 別れに臨んで陣頭涙衣に満つ
∈ 臥薪嘗胆十年じゃぞ
∈ 天皇を神の座にすえる
∈ ついに明治政府は落城せり
∈ みずから蛮勇内閣たらん
∈ 政府の鼻は天狗のごとく高くなり
∈ ジイさんは鋭気がありすぎる
∈ 百万の精兵大河を渡る
∈ 第七章 「勤王に死す」
∈ 文官に軍隊指揮権は与えられない
∈ 伊藤は死ぬことまで幸運な人である
∈ 剣太刀ぬくまねごとの舞ひ扇
∈ 山県には皇室もなく国家もない
∈ 皇統は至神至聖たるべし
∈ 終章 護国寺にて
∈∈ あとがき

⊕ 著者・訳者略歴 ⊕

半藤一利(Kazutoshi Hando)

1930年生まれ。作家。53年、東京大学文学部卒業後、文藝春秋社入社。「文藝春秋」「週刊文春」の編集長を経て専務取締役。同社を退社後、昭和史を中心とした歴史関係、夏目漱石関連の著書を多数出版。主な著書に『昭和史』(平凡社 毎日出版文化賞特別賞受賞)、『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫新田次郎文学賞受賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞受賞)、『聖断』(PHP文庫)、『決定版 日本のいちばん長い日』(文春文庫)、『幕末史』(新潮文庫)、『それからの海舟』(ちくま文庫)等がある。2015年、菊池寛賞受賞。