才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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江戸の思想史

人物・方法・連環

田尻祐一郎

中公新書 2011

田尻は近世儒学、とりわけ山崎闇斎や垂加神道の研究者である。数年前、『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社)をじっくり読ませてもらった(予想していたより淡泊だった)。千夜千冊ではヴィクター・コシュマン(997夜)の『水戸イデオロギー』(ぺりかん社)の翻訳者として名前を記したことがあった。その田尻がコンパクトな江戸思想史入門を書いた。中公新書では源了圓(233夜)の『徳川思想小史』以来だ。新書だからさまざまに削いではあるが、こちらは淡泊ではない。それなりの特質を強調していた。

 田尻は近世儒学、とりわけ山崎闇斎や垂加神道の研究者である。数年前、『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社)をじっくり読ませてもらった(予想していたより淡泊だった)。千夜千冊ではヴィクター・コシュマン(997夜)の『水戸イデオロギー』(ぺりかん社)の翻訳者として名前を記したことがあった。
 その田尻がコンパクトな江戸思想史入門を書いた。中公新書では源了圓(233夜)の『徳川思想小史』以来だ。新書だからさまざまに削いではあるが、こちらは淡泊ではない。それなりの特質を強調していた。
 本書で田尻が前提にしたのは、かつて内藤湖南(1245夜)が「日本のことは応仁の乱以降をどう見るかにかかっている」と言ったこと、網野善彦(87夜)が「日本は14世紀に民族史的な転換をおこした」と言ったこと、この二つを指標に、5つの組み立てをいかして江戸思想史を見ようということだった。
 徳川期の社会思想は切り離されて議論されるべきではない。14世紀にほぼ原型を形成した日本社会からの連続と断絶と飛躍を考慮しなければならない。次のように5つを俯瞰した。なるほど、なるほど。

 (1)中世までの日本人は「物の怪」(もののけ)や「恐ろしい霊力」や「死穢」(しえ)におののいてきた。それは名付けようのないものだったのだが、近世になって職業や家族や仏壇が世俗化すると、近親者が死を看取り、仕事が世代をまたぎ、芝居や浮世絵や風俗画に世間の動向が反映するようになった。これによって社会思想に変化が生じた。
 (2)近世とは、一方で地縁血縁をイエ・寺請制・寺子屋・私塾・郷学・暖簾などでかためつつ、他方では瓦版・浮世草子・書物・粉本・読本・黄表紙などのメディアが飛び交った時代だった。これは「読み」が広がったわけである。当然、言葉と視覚をめぐる表現思想が革新されていった。
 (3)全国の蔵米(くらまい)が大坂堂島に集められ、数々の回船が各地の港をまわると、商品市場のネットワークが多重につくられ、さまざまな文物の価値が問われるようになった。甘薯から朝顔まで数々のシーズ輸入品もそこに重なり、新たな経済思想が提案された。
 (4)幕府の社会統制と名分の強制は神国・皇国などの日本意識、唐・天竺・南蛮との比較の感覚、公儀の浸透による天下の見方、藩政の実情、非人や穢多を差別する身分意識、男尊女卑の傾向を強調していった。そこへ儒学や仏教が交差して徳川思想というものが議論された。
 (5)商品経済や風俗流行の普及にともなって、遊楽・悪所・犯罪・アウトロー・男色・脱落者・疾病・地方文化がいちじるしく目立っていった。そこに旅や日記や俳諧や芸能が交わっていった。江戸時代の思想文化にはメジャー思考とマイナー思考が併存交錯していたのだ。

 簡潔だが、うまく前提を摘まんでいる。近世300年のあいだで何がおこったのか、前史からの脱却のポイントが集約されていよう。
 本書はこの前提にもとづいて本文を13章(実質12章)に分け、徳川思想の流れを追った。新書だからむろん簡潔な記述ではあるが、配慮のうえで主題も振り分けている。
 そこで今夜は、以下、この構成に沿って田尻の解く徳川思想史を要約しながら、ぼくなりの手短かな案内をしておきたい。勝手な「はみ出し」も少し入れた。見出しに続いて掲示したのは、21世紀日本人が読むべき「要の書」のつもり。

 【1:宗教と国家】→不干斎ハビアン『妙貞問答』、日奥『宗義制法論』

 15世紀に始まった北陸の一向一揆は「百姓の持ちたる国」「本願寺の分国」として百年近くにわたって門徒による自律的宗教王国を築いていた。
 信長・秀吉時代はキリシタンが登場して、たちまち戦国大名や民衆に波及しそうになったのだが、ただちに禁制を敷いて食い止めた。それでも寛永14年(1636)には島原・天草に一揆がおきて、領民の不満がキリシタンに混じることがはっきりした。諸藩の軍勢12万余をもって、やっと鎮圧した。
 徳川の平和(パックス・トクガワーナ)がこうした宗教一揆の徹底弾圧によって成立したのはあきらかだ。
 とはいえ権勢の側もおさおさ「宗教の仮面」をかぶることに抜け目がなかった。信長は安土城の中に總見寺を築き、秀吉は死後に「新八幡」の称号を得ることを望み(叶わなかったが、代わりに死後に豊国大明神として祀られた)、家康は「東照大権現」として神格化され(この称号は朝廷が選んだいくつかから幕閣が選んだ)、日光の霊廟に鎮座した。
 近世の権力者も神仏が示す超越性をほしがったのだ。会津藩主保科正之のように、土津霊神(はにつれいじん)として地域の守護神と化した者もいる。

 このような日本独特の擬装を暴いたのは、ハビアンの快著『妙貞問答』(1605)だった。キリシタンの幽貞と浄土僧の妙秀と問答をするという架空対論スタイルで、仏教・神道・儒教がアニマ・ラショナル(霊性)を欠いていることを解くというふうになっている。
 神道は「夫婦交懐(きょうかい)の陰陽の道」を拡大しただけのもので、宗教として取るに足らないではないか。神道は男女の性交を原イメージとして生命誕生と五穀豊饒を讃えているだけではないか。儒教もいたずらに「虚無自然の無極を根本」とするばかりで、「有智有徳の主」(天地万物の造物主)のことを知ろうとしない。とりわけ仏法にあっては「空無を以て立てたる法」のようなもの、ひたすら「善悪不二、邪正一如」に依拠するために「天地万像の作者」を知らないままになっている。これでは日本は「現世安穏、後生善所」がわからぬまま天罰として他国の兵乱によっておかしくなっていくだろう、こんなふうに説いた。
 ハビアンの解釈は通りいっぺんではあるが、日本が長らく陥ってきたであろう信仰的偏向を巧みに炙り出している。徳川儒学を代表する林羅山とも論争をした。もっともこのキリシタン怪物は慶長13年には棄教して『破提宇子』(破デウス)を著して、最後はキリシタン批判にまわった。

不干斎ハビアン『妙貞問答』と『破提宇子』

 日奥は京都の呉服商の子で、妙覚寺の日典のもとで出家して寺を継ぐと、家康がしくんだ日重(受不施派の領袖)との法華対論に出て、「不受不施」(ふじゅふせ)の立場を貫いた。そのあまりに激越な思想のため、翌年に対馬に流罪されるのだが、13年に及んだ流刑地の日々から戻った日奥が発表したのが『宗義制法論』(1616)である。
 日奥は一貫して「国主諌暁」(こくしゅかんぎょう)を主唱した。日蓮が仏法によって国主を正しい信仰に導くこと、悪王が正法を破ろうとするならこれには獅子王のごとく立ち向かえと説いたことなどを、引き継いだ。当然、このような主張は幕府の断罪の対象となる。
 日奥は死後も流罪となり、そのため不受不施派の活動はその後の停滞を余儀なくされるのだが、そんな日奥を早くから外護(げご)していたのが彫金の後藤家、刀研ぎの本阿弥家、絵師の狩野家、陶芸の尾形家などのアート派の町衆だった。これら「法華の行者」が桃山・慶長・寛永の日本の工芸文化を圧倒的にリードしたことは、もっと語られてよい。

 【2:泰平の世の武士】→山本常朝『葉隠』、山鹿素行『聖教要録』『武教全書』

 徳川社会におけるサムライの特色を一口に説明するのは難しい。そもそも「武士」の「士」は東アジア社会ではおおむねは「徳行のある者」の意味で、中国における士大夫(したいふ)、その朝鮮社会化であるソンビなどと並び称されるはずのものなのだが、日本における武士はそうした東アジア近隣社会とは異なる心身観や社会観をもつようになっていった。
 このことは朝鮮通信使の製述官として随行していた申維翰が書いた日本紀行録の『海游録』に、「日本には四民がある。それは兵農工商となっていて、そこには士はあずかっていない」と記したことにも顕著だ。日本の武士は「科挙を受けていない勝手な連中にすぎない」というのである。
 しかし、はたしてそうか。日本の武士(武門)は鎌倉幕府の成立このかた「弓取る者」「武者の習」「御恩奉公」などをモットーに、その気風としては「道理」を守ってきたはずだ。天子に仕えるのではなく主君に仕えたのだ。徳川社会においては、この道理を「幕府がもたらした御政道」とみなして従うことが眼目になる(ここにおいて朝廷は軽視された)。
 こうしたサムライ道理の重視は、三河武士の誇りをもつ大久保忠教(彦左衛門)の『三河物語』(1626)が、泰平の世で武士はどのように生きていけばよいかを記したところに、早々にあらわれた。講談では頓知の名人ともキャラクタライズされた大久保彦左衛門は、譜代武士というもの、戦乱で業績をあげる機会がなくなったからといって諂(へつら)ったり口達者に世をわたるべきではない。無骨でいいから「御家の犬」に徹する覚悟をもつべきだ、それが道理だ、と言った。

 佐賀藩の鍋島家に仕えていたサムライの山本常朝(823夜)も『葉隠』(1716頃)に、鍋島侍の生き方は「主君の御用に立つべし」、また「恥」を知るべしと説いた。
 ぼくは「忍ぶ恋」に言及した『葉隠』の思想はそれだけにとどまっていないと思うけれど、当時の武家諸法度にもとづく幕藩体制の決まり事のなかでサムライになるとは、やはり「家」や「主君」とともにどのように生きるべきなのかという問いを自身に課すことだったのである。

 こうした武士の生き方になんとか社会観を付与しようとしたのは、山鹿素行だった。
 会津の浪人の子として生まれた素行は、儒学を林羅山に、兵学を小幡景憲や北条氏長について修め、万葉源氏や忌部神道や両部神道なども学んで、これらを藩政にいかすにはどうしたらいいかを工夫する。『聖教要録』(1665)には朱子学一辺倒にならない武士づくりのための実践的心得がまとめられている。
 赤穂藩にも仕えた素行は、もっぱらサムライの心身をきわめて用意周到にしておくべきことを強調した。武士の門に出生した者は世を収め民を安んじる責任を果たすために「修身」に徹していなければならず、それも自分のためではなく武家社会での交際や統治感覚も身につけなければならないとした。『武教全書』に詳しい(吉田松陰が愛読した)。
 ちなみにこのあたりのことは野口武彦の『江戸の兵学思想』(中公文庫)が抜群におもしろい。野口の江戸思想論は、『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫)といい、『王道と革命の間』(筑摩書房)といい、たいてい秀逸だ。そのうちどれかを千夜千冊するつもり。
 素行の説教は会津の保科正之の怒りを買い、流謫(浅野家預かり)の処分を受けた。しかし素行はそこから『中朝事実』を著して、日本が新たな中華をめざすべきだという大胆な日本社会論の論述に及んだ。「中」は中国、「朝」は本朝(つまり日本)のことだ。日本が世界の真ん中としての中華になるのがいいという論法の提案だった。かつて山本七平(796夜)が大いに共感した一冊だ。

山本常朝『葉隠』

山鹿素行『聖教要録』

 【3:禅と儒教】→沢庵『不動智神妙録』、宮本武蔵『五輪書』、鈴木正三『破切支丹』『万民徳用』『二人比丘尼』、中江藤樹『翁問答』、熊沢蕃山『集義和書』

 利休が秀吉によって切腹を命じられたということは、ひとつの時代社会のイデオロギーがどういうものかを象徴していた。利休は禅を下敷きに侘茶を確立大成したのだが、その利休に自害させられたのは近世日本が「宗教を嫌う政権」になったということと表裏一体だった。
 武士たちの土地との結合を断つこと、自立した農民が武装することを禁ずること(刀狩りなど)、キリシタン禁制と宗門改めを含む信仰を取り締まること、これらが徳川社会の前提なのである。そのため、徳川期の思想者たちはあからさまに仏教を標榜しにくくなっていた。
 とはいえ日本思想は長きにわたって、そもそも仏教によって培われてきたわけである。学問の多くは寺門で学ぶ。しかし、幕府は「仏」を締め付ける。そこで徳川の儒者たちは「仏をカムフラージュして儒へ」という回路を試みたのである。

 藤原惺窩は相国寺で、林羅山は建仁寺で、山崎闇斎は妙心寺で、それぞれ禅を修行したうえで儒者に転じていった。このことは、日本の儒者が仏や禅とつながるコンセプトを儒に転じさせたということを物語る。そのコンセプトは一言でいえば「心」(しん)というものだ。かれらはそこから「敬」を導いた。
 沢庵宗彭は臨済宗大徳寺の首座となり、紫衣事件(1629)で出羽に流され、その後は後水尾の近くにいた。沢庵は「心」を得るには安易な儒であってはならないとして、仏に近づく儒を戒めた。『安心法門』では、儒が「心は一身の主」と言うけれど、これはまだ初心にすぎず、無心に至らなければ上手とは言えないと述べ、『不動智神妙録』では、その無心は「自由」というものだと説いた。
 沢庵の覚悟の影響を受けたサムライは少なくなかった。とりわけ宮本武蔵(443夜)は『五輪書』に武道の心を無心無作の「自由」に求めることを綴った。
 もともとは関ヶ原にも出陣した三河のサムライでありながら、出家して仁王禅を唱え、仮名草子の作家でもあった鈴木正三(すずき・しょうさん)は、けっこう風変わりな思想者だった。それでも基本は「心」である。『万民徳用』や『二人比丘尼』(1632)に「心こそ心まどわす心なれ、心に心ゆるすな」「心を以て心を責るを本意とする也」と綴り、心と勝負することを強調した。
 儒者になりきらなかったサムライたちは、武蔵や柳生の剣に、不動心と自由をもたらした沢庵や正三に、共感した。正三は俗名の鈴木重三で『驢鞍橋』(1660)なども書いた。

 近江聖人として長らく仰がれた中江藤樹は、内村鑑三(250夜)が”日本のヨハネたち”を選抜して採り上げた英文『代表的日本人』の筆頭に上げた儒者である。農家に育って脱藩したのち、郷里の小川村(現在の高島町)に戻って塾を開き、多くの門下生を育てた。
 藤樹は「心」の本源を求める基盤を「孝」においた。これが崇められた理由だが、それを支えるものとして太虚皇上帝という生命的な根源神を想定したのは、朱子や李退渓にぞっこんだった藤樹がそこに陽明学に準ずる「心学」としての解釈を加えていたことを物語る。主著の『翁問答』(1640)には「心迹の差別」や「時処位の至善」の理想が説かれた。心迹(しんせき)とは本質と形式を分けることを、時処位とはTPOのことをいう。
 藤樹の門下に学び、岡山藩の池田光政に仕えた熊沢蕃山は、「心法」による大胆な経世済民を『集義和書』(1672)などで説き、とくに「水土」(その地の風土の力)の活用を主張した。『大学或問』で幕政を批判したときは、69歳の高齢にもかかわらず下総の古河藩(藩主松平忠之)に蟄居させられるのだが、そこでも経世済民の実践を指導した。

中江藤樹『翁問答』

 これらにくらべて、山崎闇斎は神儒の一体を求めたきわめて特異な思想家だった。田尻は『山崎闇斎の世界』では「太宰春台が、闇斎は禁制でなければキリシタンになっていいだろうと評したのは、ある面では当たっているのではないかと思う」と書いている。
 そのくらい仏教にも儒学にも神道各派にも通じようとした闇斎は、最初は土佐の湖南和尚に禅を、土佐の野中兼山や谷時中に儒を学んでいたのだが、吉川惟足の神道に接して大きく転回し、かなり独自な「垂加神道」(すいかしんとう)を構想した。「心」を工夫するのは「身」を修めるためであり、身を修めるには「事」に適切に対処できなければならず、そのうえで個我を離れるための「敬」をもって処するべしと説いた。闇斎の「心」とは「共認」ということだったのである。
 垂加神道は儒学と神道を合わせつつ、皇道をアマテラスの系譜に位置づけ、その後の天皇信仰、神儒一体、尊王重視のプロトタイプになっていった。
 そうした闇斎の流れを汲む者たちを崎門派(崎門学)という。三宅尚斎・玉木正英・加賀美光章・山県大弐・蒲生君平・浅見絅斎らが輩出して、日本の国体思想の誕生の基盤となっていった。日本独特のナショナリズムがあるとすれば、この流れが基盤になっている。山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、浅見絅斎(けんさい)の『靖献遺言』は必読だ。
 ついでながら勝手に紹介するが、坪内隆彦に『GHQが恐れた崎門学』(展転社)というアジテーションに富んだ一冊があって、こうした崎門学の波及を目いっぱいに囃し立てている。参考に読まれるといい。

山崎闇斎の肖像と『山崎闇斎の世界』(田尻祐一郎著)

 【4・5:仁斎と徂徠】→伊藤仁斎『語孟字義』『童子問』、荻生徂徠『政談』『学則』『弁道』

 この4・5章については、1008夜の『仁斎・徂徠・宣長』や千夜千冊1198夜の『童子問』とともに読んでもらいたいが、ここではざっと田尻の説明に沿って案内しておく。
 伊藤仁斎(1198夜)の母は連歌師里村紹巴の孫娘で、叔父は角倉家につらなる者だった。そうした商家文化めく一族は利発な仁斎がいたずらに学問のほうに進むことを咎めたのだが、そうはいかなかった。早くに『大学章句』にぞっこんになった仁斎は「未発の中」に異様な関心をもって、しばらく精神を極度に追い詰める日々をおくる。挙句、一人の友人以外の誰ともかかわりを断つほど厭世的な青春期となった。
 ぼくは、この仁斎の「引きこもり」こそが日本の儒学を転回させるバネになったと思っている。
 そうした苦悩を脱し、36歳になるころ京都堀川に同志会を主宰するときは表向きは天道・天命・道・理・徳などを説き、朱子学の「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」の八条を説明するのだが、やがてこれらが孔子や孟子の古義にもとづいていないことに気づいて、みずからものした『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』をもって、塾生に「儒の本来」を徹底解読するようになった。まとめて『童子問』(1691~1705)に詳しい。
 仁斎が重視した「古義」とは、当時のグローバルスタンダードであった中国製の社会倫理が、その中国においても形骸化していることを、その後の日本の儒者に気づかせたバネである。そのバネを使って荻生徂徠が出現した。

伊藤仁斎の肖像と『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』(渡部昇一著)

 徂徠の先祖も三河のサムライで、父は徳川綱吉の侍医だったのだが、綱吉の怒りを買って上総に遁れた。江戸に戻ったのは25歳だ。徂徠はまず「漢文を読む」とはどういうことかを問うた。
 日本人が中国語(漢字・漢文・漢音)を読んで日本語で理解するとは何か、これはいったいどういう思索行為なのかと問うたのである。訓読(和訓廻環)するのでは二つの言語の差異を無視するだけだとみたのだ。それなら、どうするか。
 この驚くべき問いは『訳文筌蹄』(やくもんせんてい)に説かれるが、徂徠の鋭い思想のスタートにふさわしい。徂徠は中国語をマスターして言葉の意義を理解し、そのうえで平明な日本語(人情をもつ日本語)に訳すべきだと結論した。こうして古文辞学が組み上がっていった。
 元禄9年(1696)、徂徠は側用人(そばようにん)の柳沢吉保に抜擢され、柳沢邸での講学や政治上の諮問に応える。赤穂義士の処分をめぐっては、林鳳岡・室鳩巣・浅見絅斎が赤穂浪士たちの賛美助命を進言したのに対し、徂徠は一貫して義士切腹論を主張した。
 綱吉が死に吉保が下野すると、日本橋茅場町に出て蘐園塾を営み、その名声はまたまた聞こえ、今度は8代将軍吉宗に登用された。このときの政策論は主に『政談』(1716~1736)にまとまっている。徳川社会の体制のありようを根本から論じた唯一無比のものだ。

荻生徂徠『政談』

 仁斎の古義学と徂徠の古文辞学は、日本人が安易に朱子学を学んでも限界があること、それよりなによりすでに朱子が古来の意図を損なってしまっていることを衝いて、日本独自の儒の形成に向かうことになった。ここに日本儒学が誕生していった。
 こうして仁斎は「愛」を「忠恕」(ちゅうじょ)と捉え、孟子の「四端」(惻隠・羞悪・辞譲・是非)から他者への「心」の波及を深めようとした。朱子学が理屈っぽく「性」(性理)によって人心を見ようとしたのに対して、仁斎は惻隠(そくいん)の情などの四端があれば、人心がつくる社会は寛容にも卑近にもなれるとみたのだ。
 寛容と卑近を一緒に並べているところが仁斎らしい。『語孟字義』には「己の心を竭尽(けつじん)するを忠となし、人の心を忖度(そんたく)するを恕となす」とある。

 徂徠の学問は途方もなく広い可能性に満ちていた。この広さは「道」を基本において展開していったことにあらわれる。しかもこの「道」は文明の歴史においてたった一度だけ先賢が説いたものなのだから、そこに立ち戻ってすべてを考える方法がなければならないとした。
 「古」とはそういう古代に戻るフィードバックのことだった。『弁道』(1717)には「先王の道は先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり」と書いた。
 徂徠は学ぶとはまさに歴史(歴史の基点)を学ぶことにほかならず、学問は飛耳長目でなければならず、そこからのみ「志」を実感することができるとみなしたのである。

 このような見方は徂徠学として太宰春台や服部南郭につながっていった。春台は信州の飯田藩士の子で、江戸に出て徂徠に学ぶと訓古に通じ、一方では徂徠が立ち入らなかった宗教論に入って『弁道書』などで神道を批判するとともに、他方では『経済録』などに「時」「理」「勢」「人情」による社会経済(経世済民)を通すべきこと、各藩は専売主義や富国強兵を工夫するべきことを説いた。
 春台は「悪」にも言及したが、ぼくにはどうも偽善っぽいところがイマイチだった。
 南郭は京都の富裕な町衆の子だったが、江戸に出て柳沢吉保に歌人として仕え、『伊勢』や『唐詩選』を好んでその普及を活動し、徂徠学が「風雅」にも及びうることを示した。儒者がこのように詩文を重視したのはめずらしく、江戸社会に遊民の気風をつくる端緒となった。
 徂徠門下の南郭の「夜墨水を下る」、高野蘭亭の「月夜三叉口に舟を泛(うか)ぶ」、平野金華の「早(つと)に深川を発す」は近世日本の漢詩を飾る墨水三絶として好まれた。徂徠は「擬古」の風潮をもたらしたのでもある。

高野蘭亭の漢詩

 【6:啓蒙と実学】→貝原益軒『養生訓』『大和本草』、新井白石『西洋紀聞』『読史余論』『折たく柴の記』

 仁斎や徂徠によって朱子学の限界が指摘されたとはいえ、朱子学にはそもそも啓蒙的な合理性があり、日本には欠けてきた「理」と「気」にもとづく記述の明晰さがあった。
 この合理性は日本の社会や文化が苦手なものである。そこで、こちらを吸収して開花していったのが、日本流の合理をつくりあげた本草学、漢方医学、養生学、農学などになる。

 貝原益軒は福岡の黒田藩の右筆の子だ。幼少期から病弱だった益軒はおのずから読書に通じ、博学の知に向かって「儒者は天下の事、皆知るべし」として民生日用に有用な「物理の学」「博物の学」「生物の学」を披露した。
 実用知(開物成務)の提供に挑み、折からの出版メディアを活用し、平易な和文をもって『大和本草』『養生訓』『大疑録』などを世におくったことが特筆される。『大和本草』(1709)は『本草綱目』に倣ったものではあるが、すべて日本列島の風土に根付いたもので(つまり国産)構成されている。正徳年間に執筆された『養生訓』(1712)は今日の健康本のルーツにあたるバイブルである。漢方と陰陽学と儒教精神が盛り込まれた。
 益軒が明の李時珍の『本草綱目』に倣ってその日本版である『大和本草』をつくりあげたように、宮崎安貞は明の徐光啓の『農政全書』に倣って、元禄年間に『農業全書』(1697)をまとめた。約150種の作物の特性・耕耘・雑肥・生育法が漢字にルビがついて解説されている。会津の佐瀬与次衛門の『会津農書』、大蔵永常の『綿圃要務』とともに、日本にも「農知」が生まれたのである。
 新井白石(162夜)もそうとう博識だった。その博識は啓蒙的理性にもとづいた歴史や社会に向けられていく。

貝原益軒『養生訓』

 白石は貧困に育った。
 17歳のときに藤樹の『翁問答』を読んでめざめ、貞享3年(1686)に木下順庵について朱子学を学んだ。順庵門下に入ったことは、門下に雨森芳州、室鳩巣、祇園南海らの俊英がいたため、相互の触発をもたらした。
 元禄6年(1693)、甲府藩主の徳川綱豊に仕えた白石は、綱豊が6代将軍家宣になると、たちまち幕政改革の中心人物になった。家宣が側用人の松平輝貞・松平忠周を解任して、白石にその職責の大半を代行させたのである。激務であったにもかかわらず、白石は「正徳の治」をやりとげ(周囲からは「鬼」と呼ばれた)、そのかたわらあたかもワイマールのゲーテ(970夜)のごとく歴史や社会や地理や神話の考察も怠らなかった。
 著作は多い。屋久島上陸でその目的を問われたイタリア宣教師シドッチを白石が小石川の切支丹屋敷で尋問した情報ドキュメント『西洋紀聞』(1715成稿)、ヨーロッパ・アフリカ・アジア・アメリカの地誌を万巻の書物を参照して案内した『采覧異言』5巻、琉球使節らの会談にもとづく『南島志』、白石が自身の障害を振り返った『折たく柴の記』(1657)、邪馬台国の位置を大和とした議論を含む古代史論の『古史通』『古史通或問』、和名の語義を探索した『東雅』など、その書名の付け方のセンスを含めて多彩多能だ。
 とくに歴史観がすぐれていた。『読史余論』に「本朝天下の大勢、九変して武家の代となり、武家の代また五変して当代に及ぶ」と書いたように、大局を掴まえるのに大きかった。162夜でも紹介したが、天明期に出回った「学者角力勝負付評判」という番付では、東の大関が熊沢蕃山、西の大関が新井白石になっている。

新井白石『読史余論』

 【7:町人の思想・農民の思想】→石田梅岩『都鄙問答』、西川如見『百姓嚢』、安藤昌益『自然真営道』、二宮尊徳『二宮翁夜話』

 徳川社会がすすむにしたがって「お互いさま」「お陰さま」という通念ができあがっていったのは、藤樹このかたの儒の倫理が町人や農民に広まり、町内や村落にまで及んでいったことを示す。本書では梅岩、如見、昌益、尊徳が採りあげられている。
 丹波の農家に生まれ京都の商家で奉公に出た石田梅岩(807夜)は、独学で儒・仏・神を学ぶと、45歳(1725)で誰が参加してもかまわない無料の講席を開いた。その中身は『都鄙問答』(1685~1744)に「売利を得るは商人の道なり。商人の買利は士の禄に同じ」とあるように、商人の行為は武士が国を治めて禄を食むこととまったく同じであることを説いたものである。だから商人にだって「全体一箇の小天地」があって、商いを徹すれば座禅で見性(けんしょう)を得ることと同じ境地に至るはずだという激励を施した。
 徂徠が「役」と掴んだものを梅岩は「職」の自負にもちこみ、商人を励まし、のちに「梅岩の心学」と言われた。京セラの稲盛和夫が開く稲盛塾では、この梅岩心学が称揚されている。ぼくは稲盛さんに頼まれて1985年の筑波科学博のパビリオンを演出したのだが、そのとき何度か梅岩をめぐる談義をしてみて、現代の経営哲学に心学をもちこむ有効性をかなり聞かされた(有効性があるというより稲盛さんにはぴったりなのだろうというのが実感だ)。

石田梅岩の肖像と『都鄙問答』

 農民の自覚も促されていった。たとえば常盤潭北の『百姓分量記』(1721)では、百姓に仏教の仏性や儒教の明徳や神道の霊(みたま)が宿りうるための可能性に言及し、同じ年に書かれた西川如見の『百姓嚢』も「農」がなければ国も人も充実しないと説いて、「人は食わねば命なし、衣なくては人倫あらず、衣食ありてのち家宅造る」のだから、衣食住は「人間の三養」だと力説した。
 これで見当がつくように「衣食足って礼節を知る」という、日本人なら誰もが知っている見方はこのころにできあがったものだった。そこには、儒の三綱五常(三綱は君臣・父子・夫婦の道徳、五常は仁・義・礼・智・信のこと)がおもいきって百姓(ひゃくせい)の日々にまつわることが訴えられていた。
 如見には世界地誌『華夷通商考』(1695)もある。長崎に生まれ、天文学者の西川忠益を父にもった如見は天文・地理が好きで、晩年は将軍吉宗から天文に関する下問も受けた。また如見は『町人嚢』では、将軍は天皇の「名代」(みょうだい)であろうと見立てた。ちなみに徂徠・白石・春台は徳川の世を新たな王朝の確立というふうに見て、闇斎は徳川のガバナンスを「アマテラスに対するにスサノオの功績」にも見立てている。

西川如見『百姓嚢』

西川如見『華夷通商考』

 安藤昌益の『自然真営道』(1753)ほど独創的でひたむきな農学思想はめずらしい。101巻93冊の稿本があり、ほかに『統道真伝』5巻がある。そのいたるところで穀物や米の重要性が彩られ、直耕(ちょっこう)にすべての天地の真相が隠されているという思想が躍如する。その営みは男女の感合や互性(ごせい)に譬えられもした。
 昌益は世の中は「法世」というものになっているが、それ以前に「自然の世」というものがあり、そこに「活真」が根源するとみた。活真とは五行(木火土金水)の「土」とともに自然エネルギーを活性化させ、それによって転定(てんち)が動くことを意味した。
 これほど独創的であるのに、のちに京都帝大の初代学長になった狩野亨吉(1229夜)が稿本を発見し、ハーバート・ノーマン(14夜)が『忘れられた思想家』(岩波新書)を書くまで、日本の思想界は昌益の著作のことをまったく知らなかった。秋田藩領の二井田村に引っ込んでいたせいもあるし、昌益が自分の思想が誤解されるのを警戒していたせいもある。自身のアナーキーな発想に気がついていたのであろう。

安藤昌益『自然真営道』

 昌益の万人直耕は観念の産物でもあったが、二宮尊徳は農にまみれ、農と格闘し、農を改革して、農の村をつくった。相模の農家に生まれ若くして両親を失ったので、没落した生家を再建し、小田原藩家老の服部家の家政のたちなおしにも与かったのが出発だった。
 その名声はすぐに関東各地に届いたようで、次々に荒廃した農村復興に手を貸した。『二宮翁夜話』にはそうした金次郎=尊徳のエピソードがいろいろ紹介されているが、なかで「推譲の道」として富裕な農民が財を費い尽くすのではなく、親戚朋友や郷里のために自身の余裕を譲ることの重要性も述べられていて、マルセル・モース(1507夜)の贈与互酬的経済論の先駆としても注目されている。
 小学校の校門や校庭の片隅で、薪(たきぎ)を背負っている二宮金次郎が一心不乱に読んでいるのは、『大学』である。

二宮尊徳

 【8:宣長】→契沖『万葉代匠記』、荷田春満『創学校啓』、賀茂真淵『源氏物語新釈』『歌意考』『万葉考』、本居宣長『排蘆小船』『石上私淑言』『古事記伝』『玉の小櫛』『玉くしげ』

 国学は契沖に始まる。
 高野山に学び、下河辺長流の示唆を受けつつ国語研究にめざめた。日本語という言語の本来に最初に気が付いたのは契沖だった。『万葉代匠記』(1688~1691)には「此の集(万葉集)を見るには、古の人の心に成りて、今の心を忘れて見るべし」とあって、「古」と「今」の距離を踏まえた方法的自覚の必要性が訴えられている。ぼくは契沖論こそが、今日の日本思想に欠けていると思っている。
 荷田春満(かだの・あずままろ)は当時不鮮明になっていた「神皇の徴」の探求に乗り出し、『創学校啓』(1728)を著して幕府が和学の学校を京都につくることを訴えた。一言でいえば古典研究によって「古」「今」のあいだの断絶を超えようとしたものだが、和学枝の実行はならなかった。そこでこれを受けてこの方向を大きく拓いたのが、春満に学んだ賀茂真淵だった。
 浜松に生まれた真淵は、春満が新古今の非政治性を重んじたのに対して万葉に大きな重心を移し、田安宗武(吉宗の子で松平定信の父)に仕えて、より深く日本の言語思考の源流に近づこうとした。
 君臣の関係を重視する朱子学を批判し、一意に国学に向かい、『国意考』『冠辞考』、『源氏物語新釈』(1758)、『歌意考』(1764)、『万葉考』(1768)など、多くの著作をのこした。門下に荒木田久老・加藤千蔭・村田春海・塙保己一・内山龍・栗田土満らがいて、県居(あがたい)学派をつくるが、本居宣長(992夜)こそは真淵と松坂の一夜をおくって、その大いなる継承者になった。

契沖の肖像と『万葉代匠記』

荷田春満

 宣長は伊勢松坂の木綿屋に生まれたが、自分で商人にはむいていないと判断して、23歳のときに医師をめざして上洛し、あわせて堀景山に学んだ。
 景山は朱子学を継承しながらも徂徠学に加担していたので、宣長はそこから契沖にさかのぼり、まずは26歳までに『排蘆小船』を綴り、松坂に戻っては昼は町医者をしながら、夜は「鈴屋」(すずのや)に源氏や伊勢にとりくんで、『紫文要領』『石上私淑言』にその成果を著した。
 このあと、真淵との劇的な一夜の出会いがあって、『古事記』にとりくむことになる。『玉勝間』(1801~1812)にその事情が述べられている。真淵が宣長に託したのは「読み」をどうするか、いったいどのように「古意」に向かえばいいのかということである。
 宣長は「言」と「事」と「心」がまるごと古文に向えなければ読めまいと決断し、予見なしに「古」に入るには漢字漢文がもたらしていた「からごころ」(漢意)を排することが最も重要な方法になると考え、「漢意儒意を清く濯ぎ去って、やまと魂をかたくする事を要とすべし」を方針にした。
 こうして『古事記伝』全44巻(1790~1822)の挑戦が始まった。驚くべき読解力による35年に及ぶ傾注だ。巻末には何度読んでも心に突き刺さってくる『直毘霊』(なおびのたま)が収録された。

本居宣長の肖像と『古事記伝』

 宣長の研究は「もののあはれ」の開明にあった。ひとつには源氏の本質を見抜くことだ。もうひとつには、感情や人情をまっとうに解くべきだという考えに深入りした。恋や好きになる心が歌などにあらわされることにこそ、本来の哲学の基礎があり、そこには神のはたらきすら実感できるはずだとみなしたのだ。『玉の小櫛』や『玉勝間』などに結実する。
 さらに宣長が究めようとしたのは、やはり皇国(すめらみくに)とは何かということだった。宣長は白石や闇斎とはちがって、徳川の力はアマテラスのはからいとして朝廷から委任されたものだと見ていた。『玉くしげ』には「今の御世と申すは、まず天照大御神の御はからい、朝廷の御任(みよさし)によりて、東照神御祖命(あずまてるかむみおやのみこと=家康のこと)より御つぎつぎ、大将軍家の天下の御政(みまつりごと)をば、敷行わす給う」と書いている。
 宣長の皇国は日本だけを覆っているのではなかった。天下(世界)を覆っているというものだった。ここに皇国と、外国・異国との差異が強調されることになる。

 【9:蘭学の衝撃】→杉田玄白『蘭学事始』『蘭学事始』、富永仲基『出定後話』『翁の文』、山片蟠桃『夢の代』、三浦梅園『玄語』『贅語』『敢語』『価原』、司馬江漢『春波楼筆記』

 すでに信長・秀吉時代に紅毛南蛮の学がいろいろ入っていた。キリシタン禁制と鎖国によって、これらの移入が止まったのではない。中国で宣教師をしていたマテオ・リッチたちが漢文で著した「西洋の知」は、制約を受けながらも確実に渡来していた。
 とくに田沼意次(10代将軍家治の側用人・老中)が、国益のために開明政策をとったため、ロシア交易を含む広い知見を得ることが流行した。なかでもオランダ語による蘭学的な知見の紹介が江戸の知識人を駆り立てた。
 ここに登場してきたのが杉田玄白(370夜)や前野良沢・中川淳庵らと『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』(1774)であり、その知見の悦びを玄白が綴った『蘭学事始』(1815)である。「つねづね平賀源内などに出会いし時に語り合いしは、遂々(おいおい)見聞するところ、和欄実測窮理のことどもは驚き入りしことばかりなり」というふうにある。
 かれらは蘭学や洋学の実測窮理に胸を躍らせた。何かの内部がもっている詳細や機構に憧れた。
 玄白はもともと徂徠の兵学の影響を受けていた。蘭学者たちの多くも徂徠の古文辞学に勇気をもらっていた。その漢字漢文を日本語におきかえる勘が、かれらをオランダ語に挑ませたのである。大槻玄沢は『蘭訳梯航』に、漢文を彼の国のように音読しても何もわからないけれど、そこに日本語か童子に響くようになれば見えるものが見えてくる、蘭学にも同様のことがおこりうると述べている。

杉田玄白『解体新書』

杉田玄白『蘭学事始』

 こうして漢学を学ぶことについても、たんなる儒の学びではない広がりをもつようになっていった。大坂の豪商たちが協力して三宅石庵を学主に迎えた「懐徳堂」(かいとくどう)は、中井竹山や履軒の代に盛況を迎え、富永仲基、山片蟠桃、草間直方、佐藤一斎(1489夜)、大塩平八郎らを輩出した。竹山には参勤交代の緩和と一世一元制を進言した『草芽危言』(1791)がある。全5巻のこの本は松平定信に献上された。

 天保年間の大坂に緒方洪庵が開いた蘭学塾は「適塾」(てきじゅく)として、さまざまな合理の探求力を養成した。「ヅーフ」(蘭和辞書)と首っぴきで適塾の蔵書を解読していったのである。今日の大阪大学のルーツだ。入門3000人のなかには大鳥圭介、大村益次郎、渡辺卯三郎、橋本左内、福沢諭吉(412夜)、高峰譲吉、箕作秋坪たちがいた。
 なかで、富永仲基の仏教史学は『出定後話』や『翁の文』にインド・中国・日本を渡ってきた仏教変遷の特色を解いて、それらが編纂編集によるもので、どんな学説も承前のものをバージョンを変えて加上(かじょう)するものだという論法(加上説)をあきらかにした。インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」だという指摘は、いまなお光っている。
 山片蟠桃(やまがた・ばんとう)は中井竹山・履軒の兄弟に漢学を、麻田剛立に天文学を学んで、西洋の実学に対して日本がいまだ虚妄にいることを『夢の代』などで指摘すると、宣長の言説があまりに牽強付会であると批判して、こんな歌を詠んでみせた。「地獄なし極楽もなし、我もなし ただ有るものは人と万物」。

 長崎に遊学し、アダム・シャールの『天地図』などの西洋自然科学書に学びながら、豊後の杵築に籠もってからは独自に自然哲学に突き進んでいったのが、三浦梅園(993夜)だ。
 『玄語』『贅語』『敢語』では「反観合一の条理学」を展開し、のちに湯川秀樹(828夜)をして、「日本の独創的な思想家は二人いる。それは空海と梅園である」と言わしめた。ぼくは読んでいないのだが、経済学書としての『価原』も著した。
 このほか、平賀源内、司馬江漢、小野田直武、佐竹曙山のように、蘭学や洋学に触れて画法をマスターし、徳川の世に遠近法やリアリズムをもたらした者たちや、『天地二球用法』(1774)によって地動説を紹介した本木良永もいた。江漢の『春波楼筆記』には「吾国の人は万物を窮理する事を好まず、天文地理の事も好まず、浅慮短智なり」と揶揄してある。

 こうして徳川社会のそこかしこに「物の力」や「物の好み」が横溢していくことになる。
 和算、囲碁、将棋、料理、カラクリ人形、ビードロ、金魚、朝顔などは、次々に庶民の愉しみになっていった。そうなってくると、本書はまったく言及していないけれど、そこに俳諧、狂歌、落語、三味線による音曲が加わって、徳川思想は遊芸からも拾えるようになったのである。

 【10:国益の追求】→海保青陵『稽古談』、本田利明『西域物語』、佐藤信淵『混同秘策』『天柱記』

 商業の発達と都市の交流と蘭学の衝撃は、旧来の価値観をゆさぶった。経世済民の謳い文句も、国産主義や市場主義や国益主義に傾いて、何も生産していないサムライの立場はしだいに「武士は食わねど高楊枝」といった揶揄の対象になっていく。

 江漢が「甚だおもしろき人」と評した海保青陵は、丹後宮津の家老の子であるが、青年期に桂川甫周(蘭医で『解体新書』翻訳メンバー)と交流したり、徂徠学を学んだりした、あとは、自由なノマド(旅人)として関東・北越・加賀その他を旅して、晩年に京都で塾を開いた。
 青陵には『万屋談』『稽古談』『善中談』『陰陽談』があって、いずれも屈託がなくおもしろい。礼楽は現実に対して無力になってきたこと、オランダでは国王すら商いをするということ、上下の忠孝の関係より相互契約と割り切る君臣関係を結ぶべきこと、どんな産物も松前の昆布のように全国に回していったほうがいいこと(産物回し)などを説いて、大いに気勢を吐いた。
 本田利明も東北への旅によって飢饉の実態を見た見聞から、リアルこのうえない経世済民の方策を提案している。『経世秘策』(1789~1801)に「国君の国務は国家の益を取るを主とせり」「交易は海洋渉渡するにあり。海洋渉渡は天文地理にあり。天文地理は算数にあり。これすなわちと国家を興すの大端(おおはじめ)なり」という、文字通りの国益主義を掲げた。
 利明の構想は、山村才助(玄沢門下の地理学者)や司馬江漢とも交わって見聞も広めたせいか、たいへんに大きい。『西域物語』(1798)にはカムチャッカ半島に日本国号の一大根拠地をつくり、そこで理想国家の実験をしたほうがいいというのである。蝦夷地の開拓については工藤平助の『赤蝦夷風説考』(1783)や林子平の『海国兵談』(1785)も早くに提唱していたのだが、利明のカムチャッカ経営構想は集権的な近代国家の青写真の先取りにもなっていた。

林子平『海国兵談』

 一方、出羽出身の佐藤信淵も、国益にもとづく経世済民の方策を大胆に提案した。宇田川玄随(玄白門下の『ハルマ和解』翻訳者の一人)に蘭学と本草学を学び、文化12年(1815)には平田篤胤に入門した。
 ぼくは20代半ばに信淵の『天柱記』と『天地溶造化育記』を読んで、ぶっとんだ。『古事記』で最初に登場するアメノミナカヌシ(天御中主)は天地宇宙の造化神なのだから、世界中の「産霊」(むすび)のエネルギーはここから出てくる。そうであるのなら、日本は「大地の最初にある国」として「世界万国の根本」にならなければならない、そのためには全世界をことごとく郡県にして、万国の頂点に立つべきだというのだ。
 『混同秘策』には、もっと具体的で異様な作戦が述べられている。まず満州を奪い、それを足がかりにして中国の衰弱を誘って韃靼(だったん)を乗っ取り、最終的には中国・朝鮮を入手してアジア全土に君臨するというものだ。その統合ガバナンスのしくみについても書いてある。神祇台・教化台・太政台の三台を置き、その下に本事府(農業)・開物府(鉱業・林業)・製造府(工業)・融通府(商業)・陸軍府・水軍府の六府をつくる。あとは民衆を「草・樹・鉱・匠・賈・傭・舟・漁」という八職に分けて、その管掌を握りなさいというものだ。まるで八紘一宇なのである。

 青陵といい利明といい信淵といい、まさに大日本帝国のアジア戦略の下敷きのようになっている。それだけでなく、すでに玄白の『狂医之言』がそうだったのだが、ここには儒教を排した「西学東漸」の思想による中国蔑視がおこっている。蘭学者たちは好んで中国を「支那」呼ばわりもした。青陵も、支那は「天竺の片隅の貧あるいは淫の国」とみなした。
 こういう発想がどうして出てきたのかといえば、第1には儒の後退が国学の高揚に至っていたこと、第2にはアジア地域の後進性からの離脱を図りたくなっていたこと、第3には日本の中華意識化の加速がおこっていたこと、などによる。
 黒船はまだ到来していなかったけれど、尊王攘夷の機運はすでに用意されつつあったのである。

佐藤信淵の肖像と『混同秘策』

 【11:篤胤の神学】→平田篤胤『霊の真柱』『鬼神新論』『古易大象 経伝』『大道大意』『古史成文』

 宣長が没したのは19世紀の最初の年だった。そこから幕府瓦解まではおよそ2世代だ。宣長の学問と思想は、伴信友らによって古代学・国語学・歌学にすすむ一方で、平田篤胤によっていささか意外な神学や霊学になっていった。これを国学史では平田神道という。
 篤胤は「天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)」という宇宙全体の成立と構造を知ることこそが、神々の本質や機能を知ることだろうという方針をたてた。そこからは、生死の問題の最も難解な「霊魂の行方」の展望も、おのずとひらけるだろうと予想した。この考え方が最初の主著『霊の真柱』(たまのみはしら)になる。
 実は宣長の『古事記伝』には、宣長門下の服部中庸(はっとり・なかつね)が著したダイヤグラム『三大考』が付録として付いていた。10枚の図で「天・地・泉」の成立のしくみを明示したものだ。
 篤胤はこれを発展させ、そこに「産霊(むすび)の霊力」のはたらきを加えた。そのうえで、アマテラスがニニギに命じて治めさせた「顕」の国と、オオクニヌシの治める「幽」の国を対比させ、すべては「顕明事」(あらわにごと)と「幽冥事」(かみごと)の二つでバランスが保たれるのであって、これはオオクニヌシがみずから退隠した勇気によって保証されたと説き、このことによって死後の霊魂は心安らかに「幽」に向かえると説明した。
 この見方は、そもそも慈円(624夜)かつ『愚管抄』で提示していたもので、さらに宣長もこれを踏襲していたのだが、篤胤はそれらを検討するのではなく、勝手独断の構想に走った。なぜ、そうなったのか。

平田篤胤『霊の真柱』

 篤胤は「天・地・泉」を知ることは、世界の生成とそのプロセスの構造のいっさいを知ることであって、そのことはそのまま「生と死」の秘密を認識することになると考えていた。
 篤胤はそのことによって普遍の生成原理を自慢しようというのではない。自慢したかったのは、このことがわかるのは日本だけに「古伝」が残っているためだということだった。篤胤は、世界が日本から生まれた、日本は「万の国の本つ御柱たる御国」だと確信したのである。これに比して、外国は日本が生まれるときの泡土から生まれ、その位置も穢れの世界(黄泉)に近いものと蔑視した。
 篤胤にとって、天皇は「万の国の大君」であり、その役割は世界の「顕明」を束ねることだったのである。こうして篤胤の思想は極端な日本中心主義として激しさを増していく。『霊の真柱』には、こんなふうにある。「さてその禍事(まがごと)の世にひろごれる時は、国の大祓(おおはらい)して、その禍を本つ根の国に還遺(かえしやり)たまう。(中略)これ即ち天皇命の天下(あめのした)を政(まつりごち)たまう大道(おおみち)にして、(中略)神随(かんながら)なる古の道なり」。

 【12:公論の形成】→栗山潜鋒『保健大記』、会沢正志斎『新論』、大塩平八郎『洗心洞箚記』、佐藤一斎『言志録』、横井小楠『国是十二条』、吉田松陰『留魂録』『幽囚録』『講孟箚記』『講孟余話』

 幕末の思想はさまざまな内憂外患に揉まれながら鍛えられ、歪み、修正され、煮詰まる前に明治維新のなかで近代化に塗(まぶ)された。
 外患による動揺の兆しはいくつもあった。ロシアからラクスマン、レザノフが相次いで来航していたし、イギリスのフェートン号は長崎に(1808)、ロシア軍艦長ゴロウニンは国後に上陸して捕縛され(1811)、アメリカのモリソン号は浦賀と山川で砲撃されている(1837)。そこにアヘン戦争(1840)のニュースが届いてきた。オランダ国王の風説書(ふうせつがき)に西洋の力がグレートチャイナを打ち砕いたとあり、日本も気をつけなさいと忠告していたのだ。
 幕府は異国船打払い令を出すものの、なんの効果もなかった。幕府は政策に業を煮やした開明思想家の声が聞こえてくると、慌てて渡辺崋山や高野長英を蛮社の獄(1839)で処刑し、大塩平八郎(中斎)が「四海困窮、天禄永終」の8文字を冒頭に掲げた檄文で決起した町ぐるみの乱に対しても、未然にこれを壊滅させた。中斎は『洗心洞箚記』に「心」の本質は空や虚にあると考えていた陽明学徒だった。
 かくてビットル司令長官が率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に入り(1846)、ペリーの艦隊がふたたび浦賀沖に黒船を停泊させたのを見て、仰天した(1853)。あとはひたすら大騒ぎ。

大塩平八郎『洗心洞箚記』

 こうしたなか、徳川光圀が彰考館を設けて『大日本史』の編集執筆というロング・プロジェクトにとりくんでいた水戸藩では、その編集委員の栗山潜鋒が北畠親房(815夜)の『神皇正統記』に戻って、日本のレディティマシー(正統性)の正体を考えるべきではないかという『保健大記』(1689)を著した。鎌倉時代に皇室が衰微して武家が興隆した歴史を述べ、そうなったのは皇室の不徳のせいだと詰(なじ)ったのである。
 これでいよいよ火がついた。潜鋒に傾倒した藤田幽谷は『正名論』(1790)を、幽谷の門弟だった会沢正志斎は異国船打払い令の直後に『新論』(1825)を書き、西洋の「慮」が日本の「民心」の空隙を狙って、手段を尽くして民心を自分たちの側面に呼び込もうとしていると訴え、もし民心が取り込まれてしまったら軍事的な対決云々以前に、日本は西洋によって植民地化されるだろうと警告した。
 ここに、後期水戸学による国体イデオロギーの連打が始まっていく。幽谷の子の藤田東湖が詠んだ『回天詩』はのちのちまで昭和の青年将校にも熱読された。このあたりのこと、冒頭にも紹介したヴィクター・コシュマンの『水戸イデオロギー』(997夜)を参照してほしい。

藤田東湖の肖像と『回天詩』(部分)

 美濃の岩村藩に生まれた佐藤一斎(1489夜)は林家の塾頭、昌平坂学問所の儒官となって、渡辺崋山・川路聖謨、佐久間象山・山田方谷・大橋訥庵・中村正直らの逸材を育て、その『言志録』(まとめて言志四録)は西郷隆盛(1167夜)らによって何百回となく熟読された。この顔触れのいずれにも陽明学思想が横溢する。
 一斎は「心」のうちに「神光霊昭の本体」があることを認めて、これを「一点の霊光」と呼び、外慕や外馳(外界に芽を奪われて振り回されること)を戒めた。隆盛が「敬天愛人」として「人を相手にせず天を相手にする」と言ったのは、一斎の影響だった。
 松代藩の佐久間象山は、江川坦庵について高島流砲術を習得し、オランダ語を学んで西洋砲術を体得しようとしたような当代随一の進取の先鋒にいた(勝海舟の妹を娶った)。象山は早くから開国と公武合体を主張して、吉田松陰や坂本龍馬に西洋技術の摂取を勧めていたが、攘夷派によって暗殺された。「東洋道徳・西洋芸術」とは象山の最も有名なスローガンである。
 その象山とは逆に、大橋訥庵は、キリスト教に冒された西洋のものはその技術にさえ問題があると見た。

 横井小楠(1196夜)の先見の明と不運ほど幕末維新のシナリオを狂わせたものはないと、ぼくは思っている。勝海舟は「俺はいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ」と言った。巷間では「東の象山、西の小楠」とも噂された。
 小楠は熊本生まれの儒者だったのだが、福井藩に請われて英明で鳴る松平春獄のもとで藩政改革にあたるうちに、日本の本来と将来をつなぐリアルポリティクスがどうあるべきかに気が付いたのである。ひとつには技術革新を重視した。ひとつには「有道の国」たらんとすべしと説いた。ひとつには国益(ナショナル・インタレスト)の本質を考えろと進言した。
 これらを『国是三論』『国是七条』『国是十二条』などにしたためて、日本の国是とは何かを明示した。直後の坂本龍馬の「船中八策」や由利公正の「五箇条の御誓文」に先駆するものとして有名だ。
 こうして小楠は勝海舟・会沢正志斎・吉田松陰・坂本龍馬らと交わり、日本の明日を担うべき人材のために熊本に実学党をつくり、精鋭を切磋琢磨させた。おそらくは維新革命の青写真の一部始終を見通して大政奉還に臨んだと思うのだが、明治2年正月に刺客の銃撃によって暗殺された。
 小楠がのこしたものはそうとうに大きい。
 長男の横井時雄や甥の横井大平は熊本洋学校を設立し、そこから海老名弾正や徳富蘇峰(885夜)や横井時敬(のちの東京農大学長)が育った。明治の女性運動にも大きな影響をもたらした。小楠の長女のみや子は海老名弾正と結婚して本郷教会の設立に尽力し、甥の左平太の嫁になった玉子は小笠原流の礼法わ学んだあと、浅井忠らに師事して油彩・水彩を習得し、女子美術学校を興した。今日の女子美だ。末娘の楫子(かじこ)は東京婦人矯風会を創設した矢島楫子である。
 小楠が理想的な政治家としてジョージ・ワシントンをあげていることも、あまり知られていない。

 吉田松陰(553夜)についてはあえて説明するまでもないだろうが、僅かな期間で命の炎を焦がすように燃やして、海市に突っ込む彗星のごとく獄中に死んでいった。自身、好んだように、その姿は草莽(そうもう)の士というものだ。
 短い生涯だったが(たった29年の生涯だ)、鮮烈な光跡を走らせた。下田に再来した黒船に乗りこもうとしたこと、松下村塾に高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋、品川弥次郎らの青年志士を育てたこと、孟子に託した思想書『講孟箚記』『講孟余話』が圧倒的な説得力をもったことなど、松陰には格段のものがあった。
 その思想は水戸学とも国学とも重なるし、崎門学や陽明学とも、蘭学とも重なるものがある。それゆえ捉えがたいともみなされてきた。尊王攘夷の一人に組み込まれたり、国体を重視しすぎたと批評されたり、世界制覇の夢想にあけくれた男だと言われたりして、いまなお正確な評価を得ていない。
 もっと見方を変えたほうがよいのかもしれない。ぼくは最近、桐原健真の『松陰の本棚』(吉川弘文館)を読んで、その共読ネットワークの広さと深さに感嘆した。松陰は「読み」の天才だったのではないかと感じた。

 【13:民衆宗教の世界】→一尊如来きの『お経様』、『天理教経典』、黒住宗忠『生命の教え』

 近世の民衆信仰は無節操なほどに種々雑多なかたちをとった。仏教は寺檀制で縛られていたが、そのぶん「家の仏教」が仏壇や葬礼や墓参とともに各地でその特色をあらわした。ぼくの父の故郷は近江の長浜で、家は浄土真宗だが、長浜の仏壇は仏間いっぱいの巨大なものだった。
 神社の祭礼のほうもどんどん派手になり、多くの氏神が善男善女の氏子を集めてっていった。今日の「お祭り」の多くは江戸時代後期にできている。
 そのほか、流行神(はやりがみ)、生き神、富士講、おかげまいり(伊勢参内)、観音札所巡礼(四国八十八札所・秩父三十三札所)、庚申信仰、滝行、口寄せ、加持祈祷、修験道その他もろもろが好まれ、広がり、町には易者や行者が次から次へと紛れこんできた。そうしたなか、新たな“教祖”も出現していった。

 享和2年(1802)、熱田の農夫の三女のきのに突如として金毘羅大権現が天くだり、きのが神懸かりした。47歳をすぎていた。一尊如来を名のったきのはそのまま一心に祈祷をするようになり、信者たちは一尊如来教あるいは如来教としてまとまっていった。そのお告げは『お経様』(東洋文庫)として一冊になっている。
 天保9年(1838)、大和の中山みきは知人の祈祷をする際に、依坐(よりまし)としての加持代になり、様子が一変して憑依状態になった。41歳のときだ。山伏が「何神様でありますか」と尋ねると「我は元の神、実の神である」と言い、天理王命(てんりおうのみこと)という親神(おやがみ)に神懸かりしていることがわかった。みきの活動はやがて天理教として、またその言動は「おふでさき」として広く受け継がれていった。
 天理教ではこの中山みきが天啓を受けたことを「月日(神)のやしろに召された」と言いあらわし、天理の地を「ぢば」(地場)と称する。のちにまとめられた教典『天理教教典』は「元の理」を説き、5つの教理が「この世は神のからだ」「いちれつ兄弟姉妹」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」「いんねん」にあるとした。
 備中の農民であった赤沢文治(川手文治郎)は、安政6年(1859)のある日、天地金乃神(てんちかねのかみ)となってお告げをもたらしはじめ、さかんに病気直しを施した。金光教がこうして確立する。金光教は金神(こんじん)信仰である。あなたのおかげで今の私がいるという「あいよかけよ」が根本の合言葉になっている。

 黒住教(くろずみきょう)は、備前の今村宮の禰宜だった黒住宗忠が文化11年(1814)にもたらした。いまは神道十三派のひとつにに数えられ、『生命(いのち)の教え』が教典になっている。現在は7代目が就任する。
 富士講は18世紀半ばに、山岳信仰(修験道)と弥勒下生(みろくげしょう)信仰が結びついて、江戸で生まれ、爆発的に広まった。その後は小谷三志が第8世大行者として活動し、各地に「みろくの世」の拠点をつくった。富士講からは大祖参神(もとのおやがみ)を拝する丸山教が成立した。

 近世の新宗教と近世の新宗教はくっついている。明治の廃仏毀釈のあとになると、まことに多くの神道系の民衆宗教が公認されていく。
 明治9年には黒住教、神道修成派が、明治15年には神宮教、大社教、御岳教、神道大教、神理教、禊教が、そして明治末年までに金光教、天理教、扶桑教などが公認された。
 このような民衆宗教は社会不安、病気平癒、貧困、超常能力、世直し運動、既存宗派からの離脱や自立など、さまざまな要因で生まれていったのだが、本書はそのなかでナショナリズムに結びついた動向に注目している。たとえば、天理教の「おふでさき」に、「いままでは からがにほんをままにした 神のざんねんなんとしよやら」「このさきハなんぼからやとゆうたとて にほんがまけるためしないぞや」と言われたり、黒住教の歌集に「有難や 我日の本に生れ来て その日の中に住と思えば」と歌われたりする例に、民衆信仰がどこかで国体思想や平田神道に加担していった傾向をさぐった。
 しかし、そんなことは当然だったのである。民衆の信仰はイエやムラやクニに発し、地場こそが繁栄の原動力になってほしいはずなのだ。今日の地方創成がうまくいかないとしたら、あまりに産物や商戦に頼っていて、パトリオットな信仰的愛郷力に活力がないためではないかと思われる。

 以上、本書は小著としてはよく徳川思想史の特色をバランスよくかいつまんでいた。大局に行くにも、細部に向かうにも格好のガイダンスになっている。
 残念なのは、著者得意の山崎闇斎について遠慮したのか、あまり触れず、そのためか、『靖献遺言』の浅見絅斎、『柳子新論』の山県大弐、『保建大記』の栗山潜鋒、『日本外史』の頼山陽などを摘んでいなかったことである。

⊕ 江戸の思想史―人物・方法・連環 ⊕

∈ 著者:田尻祐一郎
∈ 発行者:浅海保
∈ 発行所:中央公論新社

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はじめに
∈ 序章 江戸思想の底流
∈ 第1章 宗教と国家
∈ 第2章 泰平の世の武士
∈ 第3章 禅と儒教
∈ 第4章 仁斎と徂徠①
∈ 第5章 仁斎と徂徠②
∈ 第6章 啓蒙と実学
∈ 第7章 町人の思想・農民の思想
∈ 第8章 宣長―理知を超えるもの
∈ 第9章 蘭学の衝撃
∈ 第10章 国益の追求
∈ 第11章 篤胤の神学
∈ 第12章 公論の形成―内憂と外患
∈ 第13章 民衆宗教の世界
∈∈ おわりに

⊕ 著者略歴 ⊕
田尻祐一郎
1954(昭和29)年水戸市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。現在、東海大学文学部教授。専攻は日本思想史(近世儒学・国学・神道)。
著書『山崎闇斎の世界』(成均館大學校出版部・ぺりかん社、2006年)。『荻生徂徠』(明徳出版社、2008年)など。